カテゴリー「05.カルマの法則」の46件の記事

2017年3月11日 (土)

いろんな形で人のためになっていて、いろんな形で戻ってきている。

この世には、「カルマの法則」とよばれる真理のしくみがあり、自分の行いのすべてが原因となり、結果をつくるという繰り返しで、ものごとが展開していくようになっています。

それは、相手と自分との間に起こることも同様で、自分が、誰かに何かをしてあげたことは、結局は、「自分のところに、何かの形で返ってくる」ことになります。

情けは人の為ならず(相手のために親切にしたことは、相手のためになるだけでなく、やがては自分のためにも役立ちますというような意味)という言葉が示すのは、実際、そのとおりなのです。

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「誰かに、何かをしてあげたこと」とは、いろんなことに広く該当します。自分のほうから意図的に、働きかけをしたことに限らず、「相手が、自分から何かを受けとったこと」も含まれます。

たとえば、「自分が、スーパーで、棚から落下している商品を見つけて戻してあげた」とします。この行いは、スーパーの人の作業を減らしたのですから、相手のすることを助けた行為になります。さらに、その姿をみていた別のお客さんが、「あの人は、いい心掛けで、自分も見習いたいものだ」と思ったとしたら、そのお客さんに、気づきを与えたという「してあげたこと」が発生します。

これは、自分がそうしようと意図したことではなく、相手が自分から引き出したことです。しかし、間接的にはやはり、相手に役立っていることとなります。

もうひとつ別の例として、「自分が工夫して、書類の形式を見やすく整えた」ものが、とても使いやすいと評判になって、「部内の書類のひな形として、採用されることになった」とします。

そうすると、以後、その書類をつかって効率化がはかられて恩恵を得た人たちがたくさんでてくることになりますよね。その人たちは、書類を作ったのが誰かとまでは意識しなくても、役立っていくのですから、間接的に、相手へメリットを与えていることになります。

このように、直接、特定の相手に対しての親切や助けをすることだけでなく、いろんな形で、日常のさまざまなことが、人のために役立っているものです。

日常の中で、自分があらわしているいろんなことが、思っていない形で誰かのために役立っていることも含め、それらはすべて、いつか何かの形で、自分のところへ戻ってくるようになっています。

自分のあらわしたすべて、放ったすべてが、何かの形で、自分の人生に反映していくというしくみが、カルマの法則です。

このしくみをしると、自分の人生を豊かにするために、あれもこれも人のために頑張らなくては!と力が入りすぎてしまう人がいますが、どのようなこともすべて、間接的なものも含めてしくみは作用しますから、全体をとらえていくことが大切です(^_^)。

間接的なところや、受動的に起こること(相手が引き出して気づくなど)は、自分ではコントロールができないので、自分がやるべきことを重ねて、あとは委ねていくという意識がちょうどいいバランスではないでしょうか。

そして、自分もまた、気づかないところで、誰かのしたことに支えられたり助けられたりしているという視点も取り入れていきましょう。

上記の例でいえば、「落下している商品を戻してあげることができた」のは、「そうなっていたら拾って戻そう」と、子どもの頃に指導してくれた先生のおかげだったり、

「書類の形式が採用された」のは、「その形式使いやすいね」と認めてくれたたくさんの同僚や、「じゃあ、それに変えよう」と決めてくれた上司のおかげだったりと、

「自分が、してあげたこと」にも、「してもらったこと」が、関わりをもっています。

こういうふうに、「戻っている」という受け止め方も含めると、

視野が広がってきて、いろいろと思っている以上に、自分も得られているし、戻ってきていることがあって、

自分がしてあげたことは、確かに、自分のためになっていることがよくわかります。

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2016年10月30日 (日)

カルマの法則~種をまき、花を咲かせる~。

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この世で起こる出来事は、すべてが、自分がおこなったこと(思い、発言、行動など)が種となっています。自分の行いは、自分が放ったエネルギーです。そうしてまいた種が実ることで、ものごとが展開していくのが、カルマの法則という真理のしくみです。

この世で何らか実りを得よう、結果をだそうとするなら、「新たに、そのための種をまく」か、または「過去にまいた種を探して、実りをえる」か、どちらかの行動をとっていくのが基本となります。

過去にまいた種を探して、実りを得るという方法は、つまりは、「無意識にまいているので意識していない」か、「まいた当時は意識していたが、時間が経過して今は忘れている」かのどちらかです。

「無意識にまいているので意識していない」ものは、自分が自然にできているから、改めて意識にのぼりません。備わっていて馴染んでいることは、自分にとってあまりに自然に「できてしまう」ことなので、あえて種をまいているという感覚にはなりにくいものです。そういうことは、「得意なこと」の場合が多いですね。得意で秀でていることは、実はあまり自覚できないことでも多いです。

得意で秀でていると自覚しやすいのは、「他者との競争の要素があること」です。山田さんより上手いとか、田中さんより早いとか、他人と比較する要素のことは、この世においては自覚がしやすい事柄です。(この世は比較ができる場所で、そのために「時間」というしくみがあります)。

しかし、競争の要素を含まない得意なことも、実際にはたくさんあるものなのです。それらを何らかの方法できづくことができたら、その先の人生は、創造的で豊かなものになるのではないでしょうか(^_^)。

「まいた当時は意識していたが、時間が経過して今は忘れているもの」は、自分に合わないことをやってしまい形にならなかった場合と、自分に合っているものだったが時期が早すぎたり方法が適していなかったりで、実りとなりきらなかったか、どちらのケースが多いでしょう。

合わないことは、合うように変えることはできませんが、しかし、「合っているものだったが、実りになりきらなかった」ものは、今とこれから先にいかいていける可能性がありますよね。一番のメリットは「ゼロからのスタートにならない」ところです。前回の続きのようなやり方は、十段階のうちの二や三から再スタートできますから、初動が楽になります。

そのように、自分が意識していない部分に、これからの人生で大輪の花を咲かせて実りを得られる種が含まれていることがあるものです。

気づくためには、自分が「そのこと」に意識的になること、意識を向けて「それ」を把握しようとすることです。ただなんとなく考えるのではなく、「それを見つけるための考え方」をとることです(^_^)。

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2016年7月 7日 (木)

十分に、得られている。

「自分はこんなにも、相手のためにしてあげる一方で、感謝もされない。相手は、自分の苦労もわかっていないようだし、してあげる負担ばかりで実りが得られていない」と思っている方がいたら、考えてみていただきたいのです。

それは、して上げている相手から返ってきていないだけで、「別のルートから返ってきているのでは?」という点です(^_^)。

して上げたその人から返してもらうことをつい考えてしまい、返ってこないと不満でいっぱいになるものですが、

トータルで考えてみると、そんなに一方的な負担ばかりにはなっていなくて、どこかから何かの形で返ってきていて、それに気づいていないだけというケースは多いです。

この世には、カルマの法則とよばれるしくみがあって、「自分がしたことは、自分に返ってくる」ことはスピリチュアルに関心のある多くの方がご存じですよね。

「自分がしたことが、自分に返ってくる」というシンプルな法則ですから、「どこから、どのように」という定義はありません。自分がしてあげた相手自身から返ってくるとはかぎりませんので(ここがポイントです(^_^)!)、

田中さんにしてあげたことが、山田さんから別の形で返ってくることもあり得ます。

自分はいつも、相手のために、してあげている一方、と考えるくらいの人ならば、おそらくはとても意欲的で行動的で、相手のために(という形をとって、自分の畑に)実りに繋がる「種」をまきまくっているはずだからです。

その相手からのリターンだけにこだわらずに、トータルで眺めてみてください。

きっと、得られています。いろんな形で、いろんな方から(^_^)。

もしも、得られていないなら・・・、「受け取る姿勢になっていない」ことが原因だと思いますので、自分自身を見つめ直すことですね(相手ではなく、自分がそうしているので)。



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2014年7月 3日 (木)

日々の積み重ねが、未来を決めている。

「カルマの法則」とは、自分がしたこと、行動、発言、想いのすべてが、いつか必ず自分に返ってくる、という、スピリチュアリズムの基本原則です。

この法則の仕組みは、「今の自分の行為を通して、未来の自分に対する、贈り物がなされていく仕組み」でもあります。未来に受け取る要素の原因となることを、今の自分が、行動、発言、想いを通して、作っていることになります。

この法則が、現実の贈り物の仕組みと違うところは、「そのタイミングと、商品名は、送り主である自分も、指定することはできない」という点です。

その人に必要な形で、ベストタイミングで送られるので、準備をした要素が無駄になることもないし、忘れられることもなく、確実に受け取ることができるのですが、どのような形で何が得られるかは、その時になってみないと分かりませんし、自分が望んだ形になっているとも限りません。

自分がしたことと、同じことが返ってくる仕組みではありますが、これらは物質的な限界がないところで作用する仕組みなので、たとえば、誰かにミカンをふるまったという経験が、未来で、自分もミカンをもらう、という意味での「同じ」になるとは限りません。ミカンが、自転車になって返ってくることもあるでしょうし、品物ではなく、チャンスや情報で返ってくることもあるでしょう。

しかし、どんな形でも、必ず返ってくる仕組みなので、何がどんな形で、という点はわからないけれども、発送忘れもなければ、ミスマッチもなく、完璧なタイミングでそれは送られてくるようになっています。

私たち人間は、この世という物質社会で生きていますから、どうしても、考え方が、「物質的価値観」になり、分かりやすい形や物で、それをすぐにでも、望んだときに手に入れたい、という欲があり、それが達成されないと、大きな不満になります。

けれど、スピリチュアリズムを学び、この、カルマの法則を信頼しながら過ごすことで、努力が無駄になるのではないか、とか、親切をしたら損をするのではないか、というような、損得勘定から、抜け出すことができます。

この世で生きている限り、物質的な考え方から完全に抜けることはできませんし、また、その必要もないと思うのです。物質を通して、分かりやすく学ぶために、私たちは、今回の人生を経験しているからです。

けれど、あまりに、現世的で物質的な価値観にとらわれることは、私たちの本質である、霊としての成長を妨げてしまうことも事実です。

カルマの法則は、私たちに、霊的な価値観で生きていくことを、教えてくれる仕組みでもあります。

すぐに分かりやすい結果や成果を求めてしまう私たち人間にとって、日々の地道な積み重ねや努力は、無意味で価値が低い行動だと感じ、派手で成果に直結する行動のみを、もてはやしてしまう傾向があります。

しかし、カルマの法則により、すべての行為が、良くも悪くも自分に返ってきて、喜びに繋がることもあれば、改善点に気づかせてくれることにもなり、だからこそ私たちは成長していくことができるのです。

すべての行為が、未来につながっていきます。笑顔で受け取れるものが多くなるよう、今を大切に充実して過ごしていくことが大切だと思います。

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2014年7月 2日 (水)

与える役割をさせてもらうから、自分も受け取ることができる(カルマの法則)。

「自分ばかりが、相手のために手を貸してあげる一方で、相手からは何のお礼も見返りもない」という不満でいっぱいになってしまうことがありますよね。

お互い様だと思うからこそ、そして相手への思いやりがあるからこそ、自分の時間とお金を費やして、いろいろと気配りをしているわけで、簡単にできることではなのに、そうした点を全く考慮せず、軽く扱われると腹が立つものです。

そういうときは、このように考えましょう。

「相手のためだけでなく、自分のためにもなっている」と。

「与える、という経験を積ませてもらう機会を、自分はもらっている」と。

この世は、自分のしたことはすべて自分に返るという「カルマの法則」によって展開していきます。 相手のためにしたことも、いつか何かの形で、自分に返ってくるようになっています。

与える行為をすれば、いつか自分も与えられます。

その「与える行為」は、「受け取ってくれる相手」がいないと成立しません。いくら自分が、与えたい思いでいっぱいでも、実際にそれを受け取る役割の誰かがいないと、与える経験を積むことはできません。

そう考えれば、受け取ってくれる相手の存在も、ありがたいのです。

受け取りたい、与えられたいという思いの人も存在してくれるからこそ、自分が与える役割を経験して、「いつか自分も与えられる」ための、「種まき」の行為もできるのです。

「相手のためだけでなく、自分のためにもなっている」

「与える、という経験を積ませてもらう機会を、自分はもらっている」

そのように受けとめていくと、少し、気分は落ちつくのではないでしょうか。

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2014年6月23日 (月)

「カルマの法則」とは、自分のしたことは自分に返るという真理の法則です。

「カルマの法則」とは、自分が原因をつくったことが、良くも悪くもすべて、いつか自分に返ってくるという、真理の法則です。

自分にとって望まない困難がおこると、「罰が当たった」かのように、「これはカルマが返ってきたからだ!」ととらえてしまうのは、少々偏った解釈です。

カルマとは、「悪いことをした罰がくることではない」です。自分がしたことが望ましくない行為なら、それが返ってくることによって、気付き、改め、さらに成長していくことができる、学びの法則です。

たとえば、「過去に他人に意地悪をしたら、別の場面で自分も同じように意地悪をされた」という経験があるとしたら、自分がしたことの愚かさを、同じ立場になることで学ばされたといえるでしょう。

または、「毎日の仕事で努力を続けていたら、高い評価を受けた」場合も、自分が努力をしたという原因があり、その結果として評価をうけたわけで、それも、「自分がしたことが自分に返る」というカルマの法則です。

上記はわかりやすい一例ですが、この世のすべては、カルマの法則で成り立っていて、自分の中にある、さまざまな優れたところや未熟なところに、そうして気付かされるようになっています。

この真理の法則があるからこそ、私たちは成長できます。たくさんの出来事をとおして、その法則(を、カルマと意識しない場合でも)に触れることで、気づきが起こります。

自分を省みる謙虚さが生まれ、日々、瞬間ごとに自分が重ねる行為(カルマ)を意識するようになり、自分という存在と、自分の行為や生き方に責任を持つという自覚が出てきます。

そのすべてが学びです。カルマの法則によって気付かされることは大きいです。この真理の法則があるからこそ、私たちは学び続け、成長し続けていくことができるのです。

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2014年4月22日 (火)

「自分のせいではない事で、自分にばかり負荷が掛かる」と思ってしまうときには。

したいことや、しなければならないことが山ほどあるのに、他人が自分のペースを乱すような要求をたくさんしてきて、時間がとられることがありますね。

どうして自分にばかり負荷が掛かるのかとイライラは募る、それなのに、周囲の人達はそんなことをまったく考慮せずに自分をアテにしてくるし、家族も協力してくれず、用件が山積みとなっていくし・・・と、ストレスになるときは、このような考え方をしてみましょう。

思い、発言、行動という、すべての行為は、「カルマ」という名称で、たましいの中に蓄積されていきます。自分のしたことがいつか必ず、何かの形で返ってくるというのが「カルマの法則」です。この世はその法則に基づいて動いています。

自分がしたことはすべて、自分のたましいに刻まれます。他人のためにしていること、させられていること、その全ては、自分の未来のための「種まき」となります。

一見、理不尽で不公平で、自分ばかり負担が大きく、他人は楽をしてずるいと思えることも、「自分はその分多めに、これからの未来に繋がるフィールドに種をまいている」と考えれば、不公平感は薄れていくのではないでしょうか。

かといって、何でも一方的に引き受けるべきとはならず、自分が不当に扱われている場合や、相手が明らかにずるいことを仕掛けてくる場合などは、言うべきことは言うという主張も必要となるでしょう。

我慢するのがいいとか、我慢すべきという意味ではないのです。どうしても自分がしなければならない、または、したほうがいいと思われる、役割や立場の許容範囲内において、それでもイライラしてしまうときや、感情的な納得がいかないときに、この「真理の仕組み」を再確認してみると、気持ちを切り換えていけますよね!

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2013年8月26日 (月)

あらゆる原因が、結果を伴うという、カルマの法則。

自分が蒔いた種が、自分のゆく道に実る、そのような霊的法則(カルマの法則)の中で、誰もが学んでいます。

悪いことをすればその罰がある、という単純な意味には解釈しないでください。本来の意味は、悪いことであろうと、良いことであろうと、自分が原因をつくったことはすべて、自分が結果を引き受けるという、シンプルな法則です。

そもそも、深い意味と学びが含まれている出来事を、これは悪いこと、それは良いこと、というような表面的な分類をするのは、霊的な学びの解釈として、適切とは言えません。

カルマの法則とは、懲罰の法則ではありません。カルマという言葉への謝った認識から、この真理の法則は、恐ろしいもののようにゆがめられて誤解をされています。

カルマの法則とは、全ての出来事には、そうなるに至った原因が存在し、原因のない結果が単独で展開することはなく、あらゆる原因がいつか必ず何かの結果を伴うという、仕組みです。

自分が作った原因が、引き寄せた結果の連続の中で、人は学びのための経験を積んでいます。

自分にとって不都合なことが起こったときだけ、これはカルマだろうか、だとすれば恐ろしい、というような受け止め方からは卒業してください。

この法則は、恐ろしいものではありません。それどころか、自分の未熟さに気付かせて、未来を光で照らしてくれる、愛に満ちた法則です。

この世で起こる出来事のすべてが、カルマの法則によって展開していきます。喜ばしいことも、そうでないことも、すべては、何らかの原因が作った結果として、この次元に現れている霊的な意味をもつ学びの要素です。

もしも、自分が進みたい道に、過去の自分が蒔いた種が成長した草木が茂って、行く手を阻んだとしたら、・・・それは、誰の責任でしょうか?

この法則で物事を考えていくと、どんなこともすべて自分が蒔いた種であり、自分の行く道を喜びでいっぱいにするも、困難でいっぱいにするも、自分次第であることがわかります。

この法則を正しく理解することで、この世の学びは加速しますが、しかし、この理解は本当に難しいものです。今は理解ができなくても構いません。

また、理解ができないままでも、この世はこの法則で動いていきますから、必ず「学ばされる」ようになっていて、少しずつ、経験を通して理解は深まっていくようになっています。

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2013年6月23日 (日)

思いも行動も、放ったものが返ってくる(カルマの法則)。

自分がこんなにもしてあげたのに、相手からはそのお返しがない、というときに、「自分が、損をしてしまった」と思い、「(それを返してくれない)相手から、損をさせられた」という思いに結びついてしまい、大きな不満が生まれることがあります。

この世という物質の社会では、損得勘定で物事を定義することは、ある程度はしょうがないことです。なぜなら、そのようなとらえ方が、(物質次元の理解においては)最も分かりやすい認識の仕方だからです。

けれども、あまりにその点だけに意識が向いてしまっても、物事をとらえていく感性に偏りがつくられます。 この世には、原因と結果の結びつきにより物事が展開する、「カルマの法則」といわれる仕組みがあります。

自分がしたことは、良くも悪くも自分に返ってくる、自分の蒔いた種(原因をつくったこと)が、自分の行く道に実る(結果がつくられる)ようになっていて、この仕組みがあるからこそ、私たちは、あらゆる出来事を通して自分を省みることができ、気付かされて成長することができるのです。

相手にいろいろして上げたのに、相手からのお返しがないときの、受け止め方、考え方を以下のように変えてみてはどうでしょう。

自分がしたことは、自分に返ってくるのですから、してあげた本人から返ってこなくても、いつか別の人から、別の形で返ってくると思えば、不満もそれほど大きくならないのではないでしょうか。

それに、「してあげる」という経験を、その人が「させてくれた」と考えることもできます。いつか自分が実りを得るための、種を蒔く機会を与えてもらった、と考えれば、割り切ることもできるはずです。

周囲に、「相手に、自分がしてあげたい」人ばかりがいて、自分のことは自分で出来るから助けは不要、ということになれば、相手のために何かをしてあげるという経験を積むこともできません。「してもらってばっかり」の人が、調子よくてずるいと思うかもしれないけれど、そういう人がまったくいなければ、自分が手を貸す役割を経験できない、ということも考えてみることが大事だと思います。

また、自分のしたことは、自分に返ってくるというのは、行動だけでなく、「思い」も同様です。動機として心に思ったことも、エネルギーとなって放たれ、いつか自分に返ってくるカルマの法則が作用します。

この世において、ある程度損得勘定で物事を計ることになる、とはいえ、目的がそれ「だけ」になってしまうのは、情緒に欠けているという点において、ちょっと極端に過ぎると思います。

自分が相手のためにしてあげたい、そうすることが必要だからする、という気持ちがゼロで、「自分がして上げれば、相手からお返しがあるからする」とか、「手助けすることで、相手に恩を売って、自分の思い通りにコントロールをしたい」という、自分の都合だけの動機では、その思いのエネルギーもまた自分に返ってくることになります。

その、してあげた「行動」そのものは、素晴らしいものだったとしても、「動機」となる思いも、同じようにエネルギーとして作用して、自分の都合で相手をコントロールしようとするような考え方を、正されるような学びが与えられてしまうことを、考えておくほうがいいでしょう。

そもそも、上記のような仕組みを抜きにして、それ以前に、自分が得をするからとか、相手に恩をうって思い通りにしたいという動機「だけ」で行動することは、人として品性がある行動の仕方といえるか、という点を考えることも大事だと思います。

人としての「在り方」を体現していくことも、品性の乗ったエネルギーを放っていくことであり、それもまた、自分に返ってくるようになっていて、そうして私たちは学びながら、この世を生きています。

そう考えていけば、私がしてあげたのに、相手がしてくれないという事実って、なんだかとても小さいことのように思えてきませんか。

もっと大事なことがあって、もっと深いことがあって、それらは、自分が求めればすぐ手の届くところにある学びだと理解していけば、ひとつひとつの出来事に対する、相手への不満やこだわりから抜け出していけるのではないでしょうか。

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2013年4月24日 (水)

「この出来事は、カルマですか?」という問いへの答え。

よくいただく、「カルマ」に関するご質問に、以下のようなものがあります。

「こんな苦しい出来事が起こりました。これはカルマなのでしょうか?」

「思い通りにいかないのは、カルマのせいでしょうか?」

「私には、どのくらいカルマがありますか?」

このようなご相談というのは、「カルマ」という表現を、とても狭く捉えていることからくる、曲解に基づくものです。

カルマというのは、サンスクリットで、「行為」とか「行い」などの総称としての言葉で、特定のひとつか、ふたつ、それも、何か悪いことが起こる原因かのように捉える解釈は、正しくありません。

そして、「カルマの法則」というのは、何らかの行為(行動、発言、思考、その他)をすれば、その行為に基づいた出来事が展開していく、という仕組みのことです。

分かりやすく言うと、「原因があって、結果が出る」ことで、逆に言えば「結果が出たことは、何らかの原因が存在する」ということです。

この真理の仕組みは、幅広くすべてに当てはまります。

「これは、カルマですか?」「カルマの影響ですか?」「どのくらいカルマがありますか?」という質問は、カルマというものを、「悪いことが起こる原因」「意味なく降りかかる不運」のように、狭くとらえた曲解から出てくる考え方によると思うのです。

カルマというのは、行為の総称ですから、私たちが生きている中で、織りなす要素のすべてが(広い意味でいえば)該当します。

今生だけでなく、以前の人生(前世)での積み重ねも、たましいの中に刻まれていきますので、カルマというのは、その全てをさすわけで、ごく一部の、悪いことが起こる原因とか、過去に罪を犯した罰、のようなとらえ方は、偏っているといえます。

そういうものも、カルマに含まれることは確かだけれど、それのみカルマ、カルマの法則という、壮大な神秘の仕組みの全てではありません。

たとえば、「人参は、野菜に含まれる」ことは正しいですが、しかし、「野菜とは、人参のことだ」と、一部を全部であるかのように言い換えると、ちょっとズレが生じますよね。

それと同じように、「悪い結果になるのは、カルマのため」ということは、仕組みとしてあり得ることであっても、ひっくり返して「カルマがあるから、悪い結果になる」という解釈は、やはりちょっと、認識がズレてしまうわけです。

間違っているとは言いませんが・・・、カルマというのは、そんな狭い範囲のことを指す、限られた言葉ではないのです。

>「こんな苦しい出来事が起こりました。これはカルマなのでしょうか?」

 原因がないところに結果だけが唐突に出ることはないので・・・、それをカルマというのなら、カルマかもしれませんが、その出来事だけでなく、その他の出来事もすべて、(カルマという表現を使うのならば)カルマは作用していますよ。

> 「思い通りにいかないのは、カルマのせいでしょうか?」

 思い通りに行くことも、行かないことも、相応の理由と意味がある、という意味では、カルマといえるでしょうね。原因があって、結果が出るわけですから。

> 「私には、どのくらいカルマがありますか?」

  どのくらい、と言われても・・・、カルマは「物」ではないので、10個とか100個とかのようには、数えられないです。あなたが一日に積み重ねる、いろんな行為は、いくつありますか。それを数えられないのと同じだし、それがたくさんあるのと同じで、カルマとは、そういうふうな表現で言い表せるものではないです。

・・と、冷たい言い方のようになってしまうけれどもsweat01、仕組みをお答えするならば、上記のとおりとなるわけです。

カルマ、という表現をつかうならば、行為のすべてが、広い意味でいえばカルマであって、つまり、たったひとつか二つの出来事について、それはカルマか否か、などという定義はほとんど無意味で・・・、大切なのは、すべてが、「原因があって、結果が作られる」という、カルマの法則の仕組みを、理解していくこと、ではないでしょうか。

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