カテゴリー「05.カルマの法則」の37件の記事

2016年10月30日 (日)

カルマの法則~種をまき、花を咲かせる~。

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この世で起こる出来事は、すべてが、自分がおこなったこと(思い、発言、行動など)が種となっています。自分の行いは、自分が放ったエネルギーです。そうしてまいた種が実ることで、ものごとが展開していくのが、カルマの法則という真理のしくみです。

この世で何らか実りを得よう、結果をだそうとするなら、「新たに、そのための種をまく」か、または「過去にまいた種を探して、実りをえる」か、どちらかの行動をとっていくのが基本となります。

過去にまいた種を探して、実りを得るという方法は、つまりは、「無意識にまいているので意識していない」か、「まいた当時は意識していたが、時間が経過して今は忘れている」かのどちらかです。

「無意識にまいているので意識していない」ものは、自分が自然にできているから、改めて意識にのぼりません。備わっていて馴染んでいることは、自分にとってあまりに自然に「できてしまう」ことなので、あえて種をまいているという感覚にはなりにくいものです。そういうことは、「得意なこと」の場合が多いですね。得意で秀でていることは、実はあまり自覚できないことでも多いです。

得意で秀でていると自覚しやすいのは、「他者との競争の要素があること」です。山田さんより上手いとか、田中さんより早いとか、他人と比較する要素のことは、この世においては自覚がしやすい事柄です。(この世は比較ができる場所で、そのために「時間」というしくみがあります)。

しかし、競争の要素を含まない得意なことも、実際にはたくさんあるものなのです。それらを何らかの方法できづくことができたら、その先の人生は、創造的で豊かなものになるのではないでしょうか(^_^)。

「まいた当時は意識していたが、時間が経過して今は忘れているもの」は、自分に合わないことをやってしまい形にならなかった場合と、自分に合っているものだったが時期が早すぎたり方法が適していなかったりで、実りとなりきらなかったか、どちらのケースが多いでしょう。

合わないことは、合うように変えることはできませんが、しかし、「合っているものだったが、実りになりきらなかった」ものは、今とこれから先にいかいていける可能性がありますよね。一番のメリットは「ゼロからのスタートにならない」ところです。前回の続きのようなやり方は、十段階のうちの二や三から再スタートできますから、初動が楽になります。

そのように、自分が意識していない部分に、これからの人生で大輪の花を咲かせて実りを得られる種が含まれていることがあるものです。

気づくためには、自分が「そのこと」に意識的になること、意識を向けて「それ」を把握しようとすることです。ただなんとなく考えるのではなく、「それを見つけるための考え方」をとることです(^_^)。

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2014年7月 3日 (木)

日々の積み重ねが、未来を決めている。

「カルマの法則」とは、自分がしたこと、行動、発言、想いのすべてが、いつか必ず自分に返ってくる、という、スピリチュアリズムの基本原則です。

この法則の仕組みは、「今の自分の行為を通して、未来の自分に対する、贈り物がなされていく仕組み」でもあります。未来に受け取る要素の原因となることを、今の自分が、行動、発言、想いを通して、作っていることになります。

この法則が、現実の贈り物の仕組みと違うところは、「そのタイミングと、商品名は、送り主である自分も、指定することはできない」という点です。

その人に必要な形で、ベストタイミングで送られるので、準備をした要素が無駄になることもないし、忘れられることもなく、確実に受け取ることができるのですが、どのような形で何が得られるかは、その時になってみないと分かりませんし、自分が望んだ形になっているとも限りません。

自分がしたことと、同じことが返ってくる仕組みではありますが、これらは物質的な限界がないところで作用する仕組みなので、たとえば、誰かにミカンをふるまったという経験が、未来で、自分もミカンをもらう、という意味での「同じ」になるとは限りません。ミカンが、自転車になって返ってくることもあるでしょうし、品物ではなく、チャンスや情報で返ってくることもあるでしょう。

しかし、どんな形でも、必ず返ってくる仕組みなので、何がどんな形で、という点はわからないけれども、発送忘れもなければ、ミスマッチもなく、完璧なタイミングでそれは送られてくるようになっています。

私たち人間は、この世という物質社会で生きていますから、どうしても、考え方が、「物質的価値観」になり、分かりやすい形や物で、それをすぐにでも、望んだときに手に入れたい、という欲があり、それが達成されないと、大きな不満になります。

けれど、スピリチュアリズムを学び、この、カルマの法則を信頼しながら過ごすことで、努力が無駄になるのではないか、とか、親切をしたら損をするのではないか、というような、損得勘定から、抜け出すことができます。

この世で生きている限り、物質的な考え方から完全に抜けることはできませんし、また、その必要もないと思うのです。物質を通して、分かりやすく学ぶために、私たちは、今回の人生を経験しているからです。

けれど、あまりに、現世的で物質的な価値観にとらわれることは、私たちの本質である、霊としての成長を妨げてしまうことも事実です。

カルマの法則は、私たちに、霊的な価値観で生きていくことを、教えてくれる仕組みでもあります。

すぐに分かりやすい結果や成果を求めてしまう私たち人間にとって、日々の地道な積み重ねや努力は、無意味で価値が低い行動だと感じ、派手で成果に直結する行動のみを、もてはやしてしまう傾向があります。

しかし、カルマの法則により、すべての行為が、良くも悪くも自分に返ってきて、喜びに繋がることもあれば、改善点に気づかせてくれることにもなり、だからこそ私たちは成長していくことができるのです。

すべての行為が、未来につながっていきます。笑顔で受け取れるものが多くなるよう、今を大切に充実して過ごしていくことが大切だと思います。

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2014年6月23日 (月)

「カルマの法則」とは、自分のしたことは自分に返るという真理の法則です。

「カルマの法則」とは、自分が原因をつくったことが、良くも悪くもすべて、いつか自分に返ってくるという、真理の法則です。

自分にとって望まない困難がおこると、「罰が当たった」かのように、「これはカルマが返ってきたからだ!」ととらえてしまうのは、少々偏った解釈です。

カルマとは、「悪いことをした罰がくることではない」です。自分がしたことが望ましくない行為なら、それが返ってくることによって、気付き、改め、さらに成長していくことができる、学びの法則です。

たとえば、「過去に他人に意地悪をしたら、別の場面で自分も同じように意地悪をされた」という経験があるとしたら、自分がしたことの愚かさを、同じ立場になることで学ばされたといえるでしょう。

または、「毎日の仕事で努力を続けていたら、高い評価を受けた」場合も、自分が努力をしたという原因があり、その結果として評価をうけたわけで、それも、「自分がしたことが自分に返る」というカルマの法則です。

上記はわかりやすい一例ですが、この世のすべては、カルマの法則で成り立っていて、自分の中にある、さまざまな優れたところや未熟なところに、そうして気付かされるようになっています。

この真理の法則があるからこそ、私たちは成長できます。たくさんの出来事をとおして、その法則(を、カルマと意識しない場合でも)に触れることで、気づきが起こります。

自分を省みる謙虚さが生まれ、日々、瞬間ごとに自分が重ねる行為(カルマ)を意識するようになり、自分という存在と、自分の行為や生き方に責任を持つという自覚が出てきます。

そのすべてが学びです。カルマの法則によって気付かされることは大きいです。この真理の法則があるからこそ、私たちは学び続け、成長し続けていくことができるのです。

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2013年6月23日 (日)

思いも行動も、放ったものが返ってくる(カルマの法則)。

自分がこんなにもしてあげたのに、相手からはそのお返しがない、というときに、「自分が、損をしてしまった」と思い、「(それを返してくれない)相手から、損をさせられた」という思いに結びついてしまい、大きな不満が生まれることがあります。

この世という物質の社会では、損得勘定で物事を定義することは、ある程度はしょうがないことです。なぜなら、そのようなとらえ方が、(物質次元の理解においては)最も分かりやすい認識の仕方だからです。

けれども、あまりにその点だけに意識が向いてしまっても、物事をとらえていく感性に偏りがつくられます。 この世には、原因と結果の結びつきにより物事が展開する、「カルマの法則」といわれる仕組みがあります。

自分がしたことは、良くも悪くも自分に返ってくる、自分の蒔いた種(原因をつくったこと)が、自分の行く道に実る(結果がつくられる)ようになっていて、この仕組みがあるからこそ、私たちは、あらゆる出来事を通して自分を省みることができ、気付かされて成長することができるのです。

相手にいろいろして上げたのに、相手からのお返しがないときの、受け止め方、考え方を以下のように変えてみてはどうでしょう。

自分がしたことは、自分に返ってくるのですから、してあげた本人から返ってこなくても、いつか別の人から、別の形で返ってくると思えば、不満もそれほど大きくならないのではないでしょうか。

それに、「してあげる」という経験を、その人が「させてくれた」と考えることもできます。いつか自分が実りを得るための、種を蒔く機会を与えてもらった、と考えれば、割り切ることもできるはずです。

周囲に、「相手に、自分がしてあげたい」人ばかりがいて、自分のことは自分で出来るから助けは不要、ということになれば、相手のために何かをしてあげるという経験を積むこともできません。「してもらってばっかり」の人が、調子よくてずるいと思うかもしれないけれど、そういう人がまったくいなければ、自分が手を貸す役割を経験できない、ということも考えてみることが大事だと思います。

また、自分のしたことは、自分に返ってくるというのは、行動だけでなく、「思い」も同様です。動機として心に思ったことも、エネルギーとなって放たれ、いつか自分に返ってくるカルマの法則が作用します。

この世において、ある程度損得勘定で物事を計ることになる、とはいえ、目的がそれ「だけ」になってしまうのは、情緒に欠けているという点において、ちょっと極端に過ぎると思います。

自分が相手のためにしてあげたい、そうすることが必要だからする、という気持ちがゼロで、「自分がして上げれば、相手からお返しがあるからする」とか、「手助けすることで、相手に恩を売って、自分の思い通りにコントロールをしたい」という、自分の都合だけの動機では、その思いのエネルギーもまた自分に返ってくることになります。

その、してあげた「行動」そのものは、素晴らしいものだったとしても、「動機」となる思いも、同じようにエネルギーとして作用して、自分の都合で相手をコントロールしようとするような考え方を、正されるような学びが与えられてしまうことを、考えておくほうがいいでしょう。

そもそも、上記のような仕組みを抜きにして、それ以前に、自分が得をするからとか、相手に恩をうって思い通りにしたいという動機「だけ」で行動することは、人として品性がある行動の仕方といえるか、という点を考えることも大事だと思います。

人としての「在り方」を体現していくことも、品性の乗ったエネルギーを放っていくことであり、それもまた、自分に返ってくるようになっていて、そうして私たちは学びながら、この世を生きています。

そう考えていけば、私がしてあげたのに、相手がしてくれないという事実って、なんだかとても小さいことのように思えてきませんか。

もっと大事なことがあって、もっと深いことがあって、それらは、自分が求めればすぐ手の届くところにある学びだと理解していけば、ひとつひとつの出来事に対する、相手への不満やこだわりから抜け出していけるのではないでしょうか。

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2013年4月24日 (水)

「この出来事は、カルマですか?」という問いへの答え。

よくいただく、「カルマ」に関するご質問に、以下のようなものがあります。

「こんな苦しい出来事が起こりました。これはカルマなのでしょうか?」

「思い通りにいかないのは、カルマのせいでしょうか?」

「私には、どのくらいカルマがありますか?」

このようなご相談というのは、「カルマ」という表現を、とても狭く捉えていることからくる、曲解に基づくものです。

カルマというのは、サンスクリットで、「行為」とか「行い」などの総称としての言葉で、特定のひとつか、ふたつ、それも、何か悪いことが起こる原因かのように捉える解釈は、正しくありません。

そして、「カルマの法則」というのは、何らかの行為(行動、発言、思考、その他)をすれば、その行為に基づいた出来事が展開していく、という仕組みのことです。

分かりやすく言うと、「原因があって、結果が出る」ことで、逆に言えば「結果が出たことは、何らかの原因が存在する」ということです。

この真理の仕組みは、幅広くすべてに当てはまります。

「これは、カルマですか?」「カルマの影響ですか?」「どのくらいカルマがありますか?」という質問は、カルマというものを、「悪いことが起こる原因」「意味なく降りかかる不運」のように、狭くとらえた曲解から出てくる考え方によると思うのです。

カルマというのは、行為の総称ですから、私たちが生きている中で、織りなす要素のすべてが(広い意味でいえば)該当します。

今生だけでなく、以前の人生(前世)での積み重ねも、たましいの中に刻まれていきますので、カルマというのは、その全てをさすわけで、ごく一部の、悪いことが起こる原因とか、過去に罪を犯した罰、のようなとらえ方は、偏っているといえます。

そういうものも、カルマに含まれることは確かだけれど、それのみカルマ、カルマの法則という、壮大な神秘の仕組みの全てではありません。

たとえば、「人参は、野菜に含まれる」ことは正しいですが、しかし、「野菜とは、人参のことだ」と、一部を全部であるかのように言い換えると、ちょっとズレが生じますよね。

それと同じように、「悪い結果になるのは、カルマのため」ということは、仕組みとしてあり得ることであっても、ひっくり返して「カルマがあるから、悪い結果になる」という解釈は、やはりちょっと、認識がズレてしまうわけです。

間違っているとは言いませんが・・・、カルマというのは、そんな狭い範囲のことを指す、限られた言葉ではないのです。

>「こんな苦しい出来事が起こりました。これはカルマなのでしょうか?」

 原因がないところに結果だけが唐突に出ることはないので・・・、それをカルマというのなら、カルマかもしれませんが、その出来事だけでなく、その他の出来事もすべて、(カルマという表現を使うのならば)カルマは作用していますよ。

> 「思い通りにいかないのは、カルマのせいでしょうか?」

 思い通りに行くことも、行かないことも、相応の理由と意味がある、という意味では、カルマといえるでしょうね。原因があって、結果が出るわけですから。

> 「私には、どのくらいカルマがありますか?」

  どのくらい、と言われても・・・、カルマは「物」ではないので、10個とか100個とかのようには、数えられないです。あなたが一日に積み重ねる、いろんな行為は、いくつありますか。それを数えられないのと同じだし、それがたくさんあるのと同じで、カルマとは、そういうふうな表現で言い表せるものではないです。

・・と、冷たい言い方のようになってしまうけれどもsweat01、仕組みをお答えするならば、上記のとおりとなるわけです。

カルマ、という表現をつかうならば、行為のすべてが、広い意味でいえばカルマであって、つまり、たったひとつか二つの出来事について、それはカルマか否か、などという定義はほとんど無意味で・・・、大切なのは、すべてが、「原因があって、結果が作られる」という、カルマの法則の仕組みを、理解していくこと、ではないでしょうか。

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2013年2月28日 (木)

仕返しや、復讐をしたい気持ちになったとき、「カルマの法則」を思い出してください。

と大きな怒りを伴う仕打ちを、誰かにされたとして、自分がやられたから、相手にもやりかえしてしまっては、そこでまた、悪しきカルマを「自分が」つくってしまうことになります。

自分がしたことは、良くも悪くも、必ず自分に返る、という「カルマの法則」がありますから、自分が仕返しをしてしまっては、「仕返しをした」ことが、やはり、自分に返ってきてしまうのです。

酷い仕打ちをした相手には、自分がわざわざ仕返しをしなくても、カルマの法則により、いつか、ふさわしいタイミングで、気づかされて、学ばされる出来事が起こっていきます。

その仕組みを信じて、そして、相手がしたことと、自分の感情とを、なるべく切り離して、自分のために、前を向いていくことも大切だと思います。

しかし、それは、「絶対に、仕返しをしてはいけない」というルールが存在するわけではないので、何をするのも、自己責任においての選択の自由はあるといえます。ですので、どうしても仕返しをしたい、というのならば、それも、自分が決めることが出来ます。

ただし、自分がしたことは自分に返る以上、仕返しをする、という行為が引き起こした結果は、自分が引き受けることになりますが・・・。

どちらが正しいとか、このように行動すべき、という「正解」が存在するわけではありません。やり返したら、やり返したという行為に基づく種が蒔かれ、やり返さずに収めたならば、やり返さずに収めた、という種が蒔かれ、その種が、いつか何かの形で、自分の行く道に実る、という、真理の仕組みが働くだけです。

怒りでいっぱいになったときでも、その真理の仕組みを思い出せば、感情を切り離して、いくらかは冷静になることもできるでしょう。その上でなお、仕返しをするのがふさわしいのか、そして必要なのか、よく考えることが大切です。

そうでもしないと、悔しさと怒りが収まらないくらいの、状況に置かれたとしても、しかし、現実に、仕返しだとか、復讐だとかを実行してしまうというのは、冷静に考えてみれば、恐ろしい行為だと思うのです。

そうして、相手を苦しめて、思い知らせてやろう、としても、自分のしたことは自分に返るというカルマの法則がある以上、自分に苦しめられるのは、自分自身、という結果にも繋がります。

今の自分を、怒りの渦中に置き続け、未来の自分に、今の自分がつくった原因の結果となる出来事を、わざわざ、与えることになるからです。

やり返したら、もっと、苦しくならないか、本当に、やり返す事で、気持ちが晴れていくのか、冷静になって、考えることが大切です。

誤解のないように、書き添えますが、「相手の言いなりになっていないで、必要な主張を、ふさわしい形で行っていく」という反応をすることは、ときに必要であり、そのほうが望ましい場合も、もちろんあるでしょう。そういうことと、仕返しや復讐をすること、やられたからやり返すというような、感情に基づく、攻撃性にあることとは、同じではありません。

前者と後者の、境目となるのは、行う言動の攻撃性の度合いと、そして、自分の感情や動機が冷静さを持っているか、という点になるでしょう。

頭にきたから、相手に嫌みのひとつも、ちくりと言ってやった、というのと、感情に飲まれて相手を陥れるような復讐をした、というのとでは、攻撃性の度合いがまったく違いますよね。前者には、まだ冷静さがあり、後者にはそれがありません。

出来るならば、感情をなるべく切り離して、嫌み程度で留めておく冷静さをもっていけたら、そのほうがいいですね。・・・といっても、嫌みならばOKで、それを超えたらアウト、ということではありませんよ、もちろん、嫌みをいったという行為をしたならば、それもまた、自分に返ってはくるでしょう(^^;)。しかし、延々と、やった、やり返したと、繰り返して、カルマの渦から抜け出せないよりは、幾らかましのように思います。

どんな出来事も、それぞれ、各自にしたことが返っていき、相手もまた、学ばされていきます。その仕組みを分かっていれば、冷静になって、自分が自分の人生を、わざわざ混乱させるような、仕返しや復讐の思いにとらわれてしまうことから、抜けだしていけるのではないかと思います。

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2013年2月18日 (月)

実りを運んでくれる人を、受け入れられる状態になっているか。

この世は、すべての出来事が、「カルマの法則」と呼ばれる、自分が蒔いた種が、自分に実る、自分がしたことは、良くも悪くも自分に返ってくる、という仕組みの中で、展開していきます。

予想しない、嬉しいことや、得をするような出来事が起こったとしても、それは、自分が過去にした行為が、形を変えて、自分に巡っているわけで、長い目でみれば、労せずに、 棚からぼた餅、というのは、ないわけです。

例えて言えば、自分のたましいが頼んでおいた、出前の予約が、時を経て実行された際に、出前を頼んだ自覚がないか、または忘れていて、びっくりしているようなもの、です(^^;)。

その、予約と、受け取りは、前世から、人生をまたいで届くこともあります。

「カルマの法則」とは、自分がしたことが、良くも悪くも自分に返ってきて、出来事が展開していく仕組みであり、「カルマ」とは、「自分の行い」のことで、自分が放った思い、発言、行動のすべてが、当てはまります。

日々の生活の中で、苦しいことや、努力が必要なことに直面したときには、上記の仕組みを思い出し、「これは、未来で自分が受け取れる、出前の予約をしている行為」と、思ってみてはどうでしょう。

自分が悪くないのに誰かに迷惑を掛けられている、とか、自分だけが割を食って、他の人よりも損をしている、と思うから、不愉快になるのであり、「自分の未来に受け取れる、準備をしている」、と思えば、他人に対する不満の思いから、抜け出していくこともできるかもしれません。

出前を受け取るためには、そのための、予約となる、種まきの行為を積み重ねることが前提ですが、同時に「自分の、ドアが開いている」ことも、必要です。心を開くこととか、人と関わることの大切さというのは、そういう要素とも、関連してきます。

せっかく、うけとれる出前の権利があっても、ドアが開いていなければ、手にする機会が少なくなります。

この物質社会において、何かを受け取る、ということは、自分に届けてくれる役割の誰かがいるわけで、その人が、自分の領域に出入りできる状態をつくっておくことも必要なのですね。

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2013年2月17日 (日)

原因が存在してこそ、結果がついてくる。

この世の出来事はすべて、スピリチュアリズムの大原則ともいえる「カルマの法則」の元で展開しています。

自分のしたことが、いつか、何かの形で自分に返ってきて、学びを与えられる仕組みが、カルマの法則ですので、私たち人間が、この世で体験する、楽しいことも、苦しいこともすべて、何らかの原因があって、それにつれて結果が引き起こされています。

自分がしたことが、自分に返ってくる、・・・ということは、「自分がしないことは、自分に返ってこない」、ということです。

つまりは、必要なことを何もしない、原因となることをつくらない状態では、「必要なことも、起こらない、という結果を招いてしまう」、ことになります。

もしも、現状の自分が、刺激がないとか、つまらないとか、希望がもてないとか、停滞している、と感じることがあるなら、過去の自分の行いについて、振り返って分析をしてみることです。

「自分のしたことは、いつか、何かの形で、自分に返って」きて、その出来事を通して学びを与えられる仕組みであり、「自分がしないことは、当然ながら、自分に何も返ってこない」という結果から、行動、発言、思いなどの行為の大切さを、私たちに教えてくれるのが、この、カルマの法則という、真理の仕組みです。

過去を振り返って、計画性や、目的意識を曖昧にしたまま、なんとなく過ごしてきてしまい、やりがいや手応えが感じられない現状に至っているとするならば、過去を嘆いているよりも、気持ちを切り換えて、「今から出来ることを、まずは、行動する」ことが、大事だと思います。

過去を嘆いて、何もしない、のでは、そこでまた、行動を起こすチャンスを、自らが放棄していることになります。

過去を振り返り、過去を学びとして、今までを取り返して補うべく、行動を起こしていく姿勢になることが、自分の人生を豊かにしていくことに繋がると思います。

ひとつの考え方として、参考までに、以下を書いておきます。

物事は、足し算の積み重ねもあれば、掛け算の「掛け合わせ」もあります。当然、多くの場合、掛け算のほうが、数字が大きくなりますね。

過去で,、未来につながる「原因となること」を、十分にしてこなかったと思える場合でも、全く何もしない、したことがゼロだ、という人はいないはずです。そこまでの人生が存在している以上、気づいていないこともふくめて、積み重ねてきたこと、経験してきたこと、知識を得てきたことは、あるはずです。

それらを基に、「掛け算」になるようなことを、工夫してみるのも、ひとつの方法だと思います。どんな条件のときに、掛け算の効果が引き起こされるかは、以前の記事内で、何度も取り上げているので、そちらを参考にしていただければ、と思います(^^)。

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2013年2月14日 (木)

自分が蒔いた種の実りは、自分が得られる。

自分だけが大変な思いをしていて、苦労をしていない他人がずるい、不公平だ、と思ってしまうことは、よくあります。

しかし、自分がしたことはすべて、何らかの形となって、自分に戻ってくるという、「カルマの法則」があります。 その出来事のみを単体で抜き出せば、自分が大変で、他の人が楽をしている、と思うかもしれませんが、結果までも含めて、総合的に考えれば、受け止め方も変わっていくものです。

たとえば、A子さんは、家庭菜園を作ろうと、一生懸命に手入れや作業をしているとします。B子さんは、何もしていません。「作業の多さ」「労力の負担」は、一方的にA子さんだけに掛かっていますので、単純にそれのみを比較すれば、「A子さんは、B子さんより、大変」ということになります。

しかし、収穫の時期になって、実りを得られるのは、菜園を持っているA子さんです。B子さんは、植えていないのですから、無関係です。

A子さんは、「作物の手入れに苦労をして、その結果、収穫の時期を迎えて、たくさんの実りを手にした」状態で、B子さんは、「作物をつくっていないので、実りを手にしていない」状態で、この二つを比較したときに、A子さんが、損をしている、という評価にはなりませんよね。

どんなことも、長い目で、その先までをもとらえていけば、相応の見返りはあるものです。

「自分だけが損をしている」という気持ちがわき上がってきたときには、「この場だけを考えずに、その結果までを含めてとらえていこう」と、自分に言い聞かせて、「結果を想像してみる」ことを、心掛けてみましょう。

上記の例でいえば、作業が大変な自分のことや、何もしないB子さんへの不満がわいてきたときに、「秋になって、たくさんの収穫をしている自分自身の姿」を思い浮かべていけば、不満はいくらか、薄れていくのではないでしょうか。

すべては、自分に返ってくる仕組みがあるのだから、どんな出来事も、長い目でみれば、「自分のために、していること」といえます。そこに、B子さんがずるい、というような、他人を同列にとらえる感情を掛けあわせることで、焦点がずれてしまうと思います。

「すべては、自分のため」「いつか、自分に返ってくる」と思えば、他人への不満や、一時的な不公平感は、それなりに割り切りをもって、自分の未来を見据えて、必要な努力を積み重ねていくことが、できるのではないでしょうか。

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2012年5月 8日 (火)

まいた種が、自分の思うように咲かないのはなぜ?(カルマの法則)

スピリチュアリズムの大原則ともいえる、「カルマの法則」とは、自分のしたこと、行動、発言、思いのすべてが、良くも悪くも、すべて自分に返ってくる、という真理の法則です。

比喩を用いて、その仕組みを表現するならば、「自分の投げた石が、頭上に落ちる法則」とも言えますし、「自分のまいた種が、実る法則(結果として起こったことは、すべて、どこかで自分が原因となる種をまいている)」とも言えます。

自分に降りかかる出来事というのは、自分に必ず何かしら学ぶ要素があるため、であり、無作為に降りかかる災難はない、という仕組みがあるからこそ、私たちは、カルマの法則を元に、自分を省みることができます。そうして私たちは、何度も生まれ変わって、学びを続けています。

それがなければ、やりたい放題、やった者勝ち、になってしまい、自分を向上させることも、律することも難しくなってしまうでしょう。

この法則の仕組みを分かった上で、自分に起こった出来事や日常の様子を眺めていくと、無意識のうちに、種をまいていて・・・、それが実って出来事が起こったのだな、と、納得できることがいくつもあり、スピリチュアリズムへの理解を深めていくことができると思います。

けれど、その一方で、自分が意識的に、特定の種をまいたはずなのに、思うように実らない、という経験をすることもあると思います。

「自分は○○になりたいから、○○ができるように、○○に繋がる種をまこう」と、行動したことの成果や結果が、見えて来ない場合、です。

まいた種が、思うように咲かないのは、「土壌との兼ね合い」です。土壌とは、自分自身です。

自分自身という、個性や、そのときのコンディションなどが、大いに関係していますから、思う通りに咲かないことは、あり得るのです。

「あじさい」の花を考えてみればわかります。あじさいは、青くなったり、赤くなったり、いろんな色で咲きますが、あれらは、土壌がアルカリ性か、酸性か、どちらが強いかにより、出てくる色が変わってくる、といわれています。

それと同じで、まいた種が、決まったものであっても、その咲き方は、自分という土壌との掛け合わせですから・・・、思うとおりには咲かない場合もあるわけです。

ですから、カルマの法則とは「まいた種が、思うとおりに、実る」のではなく、「まいた種が、自分という土壌にもっともふさわしい形で、実る」法則、です。そこに、必ず、掛け合わせとなる「自分」、があります。

また、種がまかれて、実るまでの、時間、という問題もあります。すでに土壌が用意されていてこそ、種は成長し、実ることができますが、土壌が十分でなければ、種だけまいても、成長することができません。

そういう場合は、先にまかれた種が、土壌(=自分)の成熟を待っていて、それらのすべてのタイミングが整ったときに、実っていく、というプロセスを経ていくこともあるでしょう。あちらの世界には、こちらの世界のような、時間、というものがありませんから、どちらが先でも後でも、それほど関係はありません。

過去にまいた種が、いくつも先の生まれ変わった人生で、実りを迎えることも、可能性としては、あるのです。

これらを、「今回の人生」という限定された時期のうちの、さらに、「自分が、これくらいあれば実るだろう、と思う、短い時間」だけを抜き出して考えれば、まいた種が、作用しないように、思えてしまうかもしれませんが、

まいた種は、自分という土壌に、もっともふさわしい形で、その準備が整ったタイミングで、実る、という仕組みなのです。

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