カテゴリー「11.家族、恋愛、人間関係」の98件の記事

2017年7月 2日 (日)

自分と相手の、「時間」に対する認識の差を考える。

40代以降の方からの、ときどきあるご相談に、急に友だちとの関係が疎遠になってしまった、というものがあります。

今までは、問題なく付き合いが続いていて、得に最近になって変わったこともないのに、ここにきて距離を置かれてしまった気がする。

雰囲気からして、どうやら相手側の事情というわけではなく、自分に対して何か思うところがあって、距離をとろうとしているようなのだけれど、その理由がわからない。

何も以前と変わっていないのに何故・・・という相談は、ほとんどが以下の理由となっています。

そうしたケースは、相談者さんが、「話が長いので、会うと時間が掛かる」「話に建設的な内容が少なくて、愚痴が多い」ことが、相手を疲れされていることが多いです。

嫌われているのではないけれども、付き合う距離を変えようとされていて、以前のような親しさや頻度でのやりとりが行われないのです。

「でも、以前も同じ付き合い形で、問題なく楽しんで会話をしてきたのに」と、思われるかもしれませんね。

けれど、40代くらいになると、人生における時間の貴重さが、それ以前の年齢よりもよくわかるようになり、建設的なこと、役立つことに時間を使いたいという気持ちが増えるのです。

楽しみを得ることなども含めて、実りのあることをするなら意義があるけれども、愚痴を言うという行為が、ただ時間を消費するだけに思えて、そういう目的で時間を使いたくないという気持ちがでてくる人もいます。

こうした気持ちの抱き方には個人差がありますから、「愚痴を聞くことに時間をつかう気持ちがなくなってきた人」と、「愚痴をふくめて、女性同士の会話を楽しみたい人」との間で、差がついてしまうときに、以前から変わらない付き合い方をしているのに急に距離を置かれるということが起こるのです。

そしてもうひとつ、人は誰もが年齢とともに、若い頃と同じようにいかない部分がでてきます。40代くらいになると、自分では気がつかなくても耐性がなくなったり、周囲のことを配慮する度合いが減ってきたりするものなのです。

そのため、相手の話を聞くことが本来あまり好きではない人は、よりせっかちになって、聞くという姿勢を保つことが面倒になり(^_^;)、

自分が話すことが好きな人は、相手に聞かせている時間は相手を拘束しているという感覚が薄れてしまい、話が長くなりがちで(^_^;)、

お互いに、「昔のように長く聞いていられなくなる」⇔「昔より、話が長くてくどくなる」ということから、なおのこと、聞き役となる側の人が、態度を変えてしまうことが起こり得るということです。

ですので、こうしたケースに遭遇した場合は、時間を何に使うかということを、より深く考える時期にお互いが入ってきていることに、気づくための機会だととらえて、改めて、自分の人付き合いの姿勢や、時間の使い方などを考えてみるといいと思います。

そうして、改めるところは改めていけば、元から気があってはいたのですから、何かのきっかけでまた、楽しく付き合える関係に戻っていくこともできるでしょう(^_^)。

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2017年1月25日 (水)

感性が違う人同士の意見のすりあわせは、事実をベースにする。

人は皆、それぞれ別の性質をもっていて、別の目的をもって動いていますから、意見や行動の方向性が揃わずに、摩擦が起こったり対立になったりします。

しかし、中には、「違いはあっても、近い感性の人」もいて、そういう人たちはお互いにちょっとずつ譲り合うことで、方向性を揃えていくことができます。

「今回は、相手の意見をいれて自分はあわせていこう」と一方が思えば、相手も近い感性をもっていますから、特にその件を説明しなくても、「では何か別のときに、この件の借りを返すようにしないと」と考えて、自然と協力しあう形がつくられやすいです。

または、感性が近い人同士は、「この件を相手にゆずって、自分は二番手になったとしても、それはそれで役立つからいい」という考え方もできやすいのです。似ているところがあると、相手のとった言動や反応となる現実の結果は、「自分の場合も、そうなるかもしれない」という参考になるので、自分が譲ったとしても、自分にもメリットがあるからです。

(そういう場合のメリットは、似ている人同士でなくても存在しますが、似ている人同士のほうが、目線が近いために認識しやすいという意味です)

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しかし、根本的にまったく違う感性の人同士は、「仮に、お互いが譲り合ったとしても」・・・多少のことではすり合わないものです(^_^;)。

何しろ、スタート地点が違う上に、目線の高さもあっていないとなれば、お互いに譲ってもなかなか距離が縮まらないからですね。元からの開きが大きすぎるので、たとえば10mも離れている両側で、「これ貸しますよ」と手渡ししようとしても、うまくいかないのと同じです。

こういう間柄で、「譲り合って、すりあわせ」という方法は、難しいものです(^_^;)。

無理をしてなんとかする労力を発生させて、・・・そして大きなストレスとなるなら、「お互いに、それぞれ」の形をとったほうが、労力が分散するとしても、そのほうがいい形となるケースは少なくないようです。

それでも、どうしてもすりあわせる必要があって、それぞれという形にはできない場合には、「事実」をベースにした判断をするのがいいと思います。

誰が、誰の意見を優先して譲る・・・とかのように、人を主語にしてしまうとすり合わないので、「この件の場合は」とか、「この事柄を、年内に達成するためには」というように、事実を主語にするような考え方をして、そこからすりあわせの糸口をみつけると、いくらかはスムーズになると思います。

・・・でも、感性が似ている人同士のスムーズさのようには、いかないですけれどね。そこは、わりきることも大事です(^_^)。

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2015年10月28日 (水)

見ることで理解する人と、聞くことで理解する人。

ひとつ前の記事、「言葉がたりないと、誤解を受けやすい」の、さらに詳しい解説として。

(以下の内容は、本日配信したメルマガの内容を、一部分転記したものです)

ものごとを理解するために、「見ることで理解する人」、「聞くことで理解する人」、「感じて理解する人」、「想像して(推察を働かせて)理解する人」などがいて、皆それぞれに得意な方法を自然に使っています。

「言葉がたりない」形になりやすい人とは、「見ることから情報をえて思考するタイプ」の人に多いです。

自分が「見ること」によって、「ああ、この件ってこうなっているんだね」「この品はこういうつくりなんだね」、と解釈していくので、他の人も同じようにしていると思って「見れば、だいたいのこと がわかるはず」と、言葉の説明を端折ります。

こういう人にとって、言葉の説明とは、「見ればわかることの付け足し」「わかりきったことの念のための確認」くらいに思っているので、説明を重要視していないんですね。結果、相手からすると「必要なことすらも言っていない」状況になってしまいます。

ちなみに、「聞くことで理解するタイプ」の人は、逆に「言葉による説明が過剰で 同じことをなんども言ったりして、話がくどい」です(^^;)。

耳にその言葉をいれることが 相手の理解を促進させると思ってしまうのと、 自分もまた、自分が話している言葉を耳できいて、さらに思考を深めていたりするので、同じような話の繰り返しになります。

目でみてわかるタイプと、耳で聞いてわかるタイプがコミュニケーションをとると・・・ 落差が大きいのでかみあわなくなりやすいです。

お互いに寄り添って、自分の会話スタイルを 相手にあわせるようにしないと、 「説明が少なくて、わかりにくい!」「同じ言葉の繰り返しで、くどい!」と、実際以上に 相手のことを悪く決めつけてしまいます(^^;)

このあたり、コミュニケーションのコツとして おぼえておきましょう。 




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2015年10月 8日 (木)

出会うのは、必要があり、学びがあるから。

とても印象深い相手と出会った場合などに、「この人と自分との出会いは、スピリチュアル的にどんな意味ありますか?」とご質問をいただくことがあります。

ご相談をなさる方は、たとえばの話「前世の関係があり、たましいの約束があって、今世でこういう展開になることを決めていたので出会ったのですよ」というようなわかりやすい理由がもしもあったなら判断に迷わなくて済む、というお気持ちが少しはあるものと思います。

ですが、お互いに「必要があるから出会う」ことは、どんな場合にも言えるのですが、現実的にどういう関係になるか(またはならないか)、進展がどのくらいあるかは、前もって決まっていません。

そのときの状況により変わりますから、ほとんどのケースで不確定要素であり流動的です。

出会うことには何か意味があります。心が動くとか、強い印象を受けることにも意味があります。それについては、何らかの回答ができることが多いと思います。

ですが、その後の展開として、具体的にどんな関係性になるかというのは、可能性ということも含めて決まっていないケースが多いです。

私たちは決まった脚本のとおりそのままに、人生を過ごしていくことはありません。人生は自分が行動することで「作っていく」ものです。

その人とよい関係を作っていきたいと思うなら、そうなるように行動をしていくのみ、ですね!

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2013年9月27日 (金)

人との関わりの価値を思う。

過去の人間関係を振り返ってみると、人と人とが出会い、関わることにより生まれるすべてが、神秘だと、私はそう感じます。

その人と関わらなければ、決して生まれることがなかった結果や成果、得られることがなかったと思われる知識を考えると、本当に不思議でそしてありがたい、なくてはならないものが、人との関わりだなと、心から実感します。

個性や価値観が違う人同士が、お互いにとって必要なふさわしいタイミングで出会い、掛け合わせの相乗効果がつくられていきます。

効果は、お互いが得ることができます。そのときは分からなくても、時間がたって振り返ってみると、すべての関係性が意味をもつ必然だとわかります。

今、そのように思えない状態にある人も、きっと時間が経つとわかるようになると思います。

私も、すべての出来事に対してそう思えるわけではないですからね(笑)。過ぎ去って、客観視できるくらいの関係においてのみ、そう思うことができるだけです(^^;)。

人との関わりは、楽しいものばかりではないので、苦しさや悔しさの感情が伴う関係の渦中にあるときは、そういうことが分かりません。気付くだけの気持ちの余裕がないからです。

しかし、後になって振り返った時に、あのときの出来事を経験したからこそ今の自分があると、すべて意味があって作られる関わりだったと、納得ができるし、感謝もできるようになります。

時間が、そう思わせてくれます。大事なことに気付くための冷静さと成長を、与えてくれますね。

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2013年6月20日 (木)

人間関係とは、完全ではない、個性の違う人同士の関係。

自分と他人は、違う個性をもった違うたましいをもつ存在なので、人と人が関われば、そこには、少なからず相違や対立等が発生するものであり、つまりは、人と関わることには、ストレスが生じることになります。

そのため、人間関係を、煩わしいこと、遠ざけたいこと、できるなら避けたいこと、というように、否定的にとらえてしまうことがあると思います。

一口に人間関係といっても、実際には幅広いわけで、中には、居心地のよい関係、楽しい関係もあり、人間関係のすべてが嫌だと思っているわけでもないのでしょうが、しかし、嫌なことのほうが、嬉しいことよりも、印象に残りやすいために、人間関係を全否定したくなるような、そんな心境になってしまうのかもしれません。

私たちがこの世に生まれてくるのは、広い意味でいえば「学びのため」です。

その学びには、他人との関わりは避けて通れません。人は、ひとりでいきていくことはできないからです。

たとえば、喜怒哀楽の経験も、ひとりだけでは浅いものにしかなりません。それらの感情を発生させるのは自分自身だから、他人と関わらなくてもできるじゃないか、と思うかもしれませんが、感情をわき起こすためには、何らかの刺激が必要です。

誰かが、自分を喜ばせるようなことをしてくれた、とか、何かの出来事が自分を怒らせた、とか、外の刺激があってこそ、感情が動いていくわけです。

他人という、自分とは違う個性との関わりがあるからこそ、私たちは、この世という場所で、たくさんの広くて深い、経験を積むことができるのです。

この世という場所は、本質が霊(的存在)である私たちが、人として経験を重ねる場所です。人は、ひとりでは、生きられないようになっていて、それぞれが助け合ったり、補い合ったりしながら学ぶために、それぞれが「完全ではない形で」個性を備えて、この世に生まれてきて、与え、受け取るという学びをしています。

嫌だと思う相手を、好きになる必要はありません。そこまでしなくても、感情的には嫌いなままでも、相手の存在意義や個性を認めることはできますよね。認めるとまではいかなくても、少なくとも否定はしない、くらいには、時間を掛けていけば思うこともできるでしょう。

それで十分なのです。そうして、自分以外の人間関係を、少なくとも否定はせず、ときに、必要な場面では助け合い、お互いに与え、受け取るという関わりをもち、人の多様性を経験から学んでいくことが、この世に生きる意味のひとつです。

少なくとも否定はしない、表面だけでも、そのようにとらえていくように、少しずつでも心掛けると、だんだんと、時間とともに、他人という存在を、肯定的にとらえられるようになっていきます。

この世には、時間という、偉大な仕組みがあります。時間が、その学びを後押ししてくれます。

そもそも、完全ではない人同士の関係なのだから、そして個性が違うのだから、多少は、「いろいろあるのが、当然」なのです。

そのくらいの気持ちでゆとりをもって、そして、成長のために、自分とは違う個性をもった人から学びを得ていく、という意欲をもって、臨んでいきましょう。

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2013年6月 4日 (火)

望ましい人間関係が、どんどん広がっていく時期。

新たに出会う人が、とても良い人だったり、楽しくて刺激を与えてくれる人だったり、または、「このようなタイプの人と出会いたい」「このような分野に関わっている人と知り合いたい」と以前から思っていたような出会いが実際に作られていくなど、自分にとって望ましい人間関係が、勢いよく広がっていく時期があります。

そのような状況になるときは、「自分が成長したとき」であり、そして「霊界からの強いバックアップがあるとき」です。両方の要素が重なったときに、人間関係が(今までと比較して)大きく広がりを見せていきます。

なぜなら、この世におけるほとんど学び、「必要な経験」、「挑む課題」というものは、人を通して与えられ、学んでいくものなので、自分の器が大きくなったとき、そして、そしてそれに見合った学びを与えていこう、という状況が作られたときには、まずは、「人」に関することにその反映があることが多いのです。

霊界が、私たちを見守っているのは、特定の理由がある時だけでなく、常にそうであって、繋がりが切れることはないのですが、そのような中でも、とりわけ、バックアップが大きくなることがあります。

広い意味で、何らかの、たましいの成長が見られたときに、上記のような現象はつくられていきますが、特に、「今までよりも、深く、そして前向きに、自分の人生について考え出したとき」や、「自分という存在について、探求をし出したとき」や、「(自分以外の)外に向かいすぎていた意識を、自分の中心も向けていくようになり、あるべき状態を取り戻したとき」などに、そのような現象が起こることは多いです。

成長に伴って、必要な学びの要素は、与えられていきます。学びといっても、苦難にみちた忍耐を伴うことばかりではないので、楽しみも、喜びも含めた、たくさんの感動に繋がるものも含まれます。

それらのほとんどは、「人」を介して与えられるものなので、それを受けとめるための必要な器として、人間関係の広がりが作られる、とも言えますし、受けとめる器となる人間関係が容易されているから、それに比例して、たくさんのものが与えられる、とも言えますし、それは、両方が当てはまるのでしょう。

自分の成長というのは、なかなか自覚しにくいものです。自分が自分を見る、というのは、距離がないので、他人を見るようには意識がしにくいもの、ですよね。

しかし、それらは、自分の周囲の様子に反映していくので、周囲をみれば自分がわかります。広がりを見せ、豊かになっていく人間関係から、自分の成長がわかるのです。

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2012年12月19日 (水)

「依存や要求を、何度も平気で繰り返す人」の、心のそこにある思いとは。

誰かに何かをしてもらったら、または、自分の期待に応えてもらったら、「ありがたいな」と思うと同時に、少しは「申し訳ないな」という思いにも、なるものではないでしょうか。

お互いに、そのように相手に気配りをすることになるので、節度をもった大人同士の関係では、(自分がされたらどう思うかを考えるため)過剰な依存にはなりませんし、ときに、かなりお世話を掛けてしまうことがあっても、同じことを何度も繰り返したりはしないものです。

しかし、世の中には、相手に過度な要求を繰り返しても平気、そういう自分の態度に抵抗感も持たず、それが当たり前のような態度をする人もいます。

たまに、自分の気持ちに余裕がないときに、誰かに話しを聞いてもらうとか、相談に乗ってもらうとか、そういうことはお互い様の範疇ですが、何度も同じことを繰り返されて、しかも感謝もなければお詫びもない、という態度になれば、相手になるほうも、疲れてしまいますよね。

一般的に、相手の立場になって考えるためには、「もしも、自分が同じ立場になったとしたら、こう受けとめるだろうな」という想像を基本とすることが多いと思います。そのため、相手に配慮する人同士の間では、過剰な依存や要求というのはあまり見られずに、ほどほどの距離感をたもってやっていけます。

その基準を当てはめていくと、もしも、その人が、逆の立場になって、誰かにいろいろ協力してあげる側になっても、特にそれを意識しない、感謝もお礼も期待していないような、こだわらないタイプの人ならば、「あの人は、自分がしてもらう場合も、自分がしてあげる場合も、それに対して相手がどう反応するかを、一切気にしない、さっぱりした人なのだな」と、解釈できます。

ならば、要求ばかりが大きくなっても、(相手がどう思うかを気にしていないから)、しょうがない、そういう性格の人なのだろう、と割り切って付き合えば、それほど、難しいことにはならないでしょう。

そういう人は、出来ないときは、出来ないと断っても、あまり気にしない、根に持たないところもありますし、逆に、自分が何かをお願いする側になるときも、気兼ねなく接していけるというメリットもあり、そういう意味で「お互い様」の関係をつくっていくこともできます。

付き合い方に困ってしまうのは、「自分が、依存や要求を繰り返しても、平気」でありながら、逆に「自分がして上げる立場になったときには、その見返りを相手に要求する気持ちが大きい人」ではないでしょうか。

そういう言動になってしまう人の根底にあるのは、「被害者意識」です。自分は、損をしている立場の、被害者だから、周囲の人達は、そんな自分に何かをしてくれても普通であって、そんな自分は、相手に要求できる権利がある、してもらってやっと釣り合うくらいだ、というような思い込みを持っています。

被害者意識といっても、実際に攻撃をされたとか、いじめられたとかの行動に伴う意識とは限りません。その人の価値観において、「自分は、本来はこんなものではない、もっと世の中に認められるべき素晴らしい人間なのに、それを理解しない世の中が、自分を低く扱うために、こんな思いをさせられる」、という解釈からの不満をもっている場合もあります。

そして、そういうタイプの人が、何かをしてあげる側になったときには、殊更に大きくとらえて、恩に着せるような言動になるのも、「本来、してもらう側の権利がある自分が、して上げたことは、大きく感謝されて当然」と、思ってしまうのでしょう。

「もしも、自分が同じ立場になったとしたら、こう受けとめるだろうな」という想像を働かせるにも、自分と相手は対等ではなく、自分は損をしている前提でとらえてしまうので、温度差がつくられるのですね。自分が要求をすることも、見返りを求めることも、そうしてもらうことで、やっと釣り合いがとれるか、または、それでもまだ、自分が割りをくっている、という思いになってしまうので、「損をしている」という思いが解消されるまで、何度でも、いろんなことを要求してきたりします。

そういうタイプの人と、どう付き合うかは、自分とその人との関係性によって判断することですね。

家族などの近い関係であれば、その人は、「何が、満たされていないのか」、寄り添っていくこともときには必要かもしれません。

それほど近くはない関係の人であれば、踏み込んで寄り添おうとすることで、むしろ、こじれてしまう場合もありますので、距離感によって、自分の接し方を判断するのがよいと思います。

どちらにしても、上記のようなことを、少し、頭に入れておくと、うまく接していくためのヒントにはなるかな、と思います。

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2012年10月19日 (金)

他人のことなど、そう簡単に分かるものではない。

他人のことが分かる、ような気持ちになっても、それはほとんどの場合、自分の思い込みが入っていて、他人のことがそのまま把握できているわけではありません。

そして、他人のことが分かる自分は特別だ、と思いたい気持ちにもなるかもしれませんが、誰もが少しくらいは他人のことが分かるのであり、自分だけが特別ではありません。まったく何もわからない、他人のことを把握する力がゼロ、という人はいないものです。

平均以上に、他人のことが分かるセンスを持っている人も、存在します。けれど、そういう人たちは、「自分は、他人のことが分かる」などとあまり意識しませんし、ましては、それを得意気に触れ回るようなこともありません。

なぜなら、そういう鋭さを持った人達は、「他人のことが分かるといっても、それは全体のごく一部に過ぎず、すべてなど把握できるはずもない」ことを、誰から教えられなくても、自然に「知っている」からです。平均以上に鋭い人は、そういうことを把握する感性も備えているものです。

ですから、本当に鋭い人は、殊更に、自分は他人のことが分かる、などと意識もしていないし、発言したりもしないものなのです。

自分は他人のことが分かる、と、得意気に言う人は、そういう仕組みを理解していなくて、自分だけが分かっていて、周囲の人達は何もわかっていない、という、自分中心の思い込みをもっていることが多いです。

なぜ、そう思うか、というと、実際に、自分自身が、周囲から理解されないから、です。それを、周囲の人は、他人(自分)を理解する感覚がないからだろう、と、受け取るわけです。実際には、そういう思い込みが、周囲から浮いているとも言えるのですが・・・、なかなか、自分のことって気づくことが難しいものです。

「他人ことが、平均よりもよく分かる人」と、「平均的に分かる人」と、「平均以下しか、把握できない人」がいるとしたら、そういう人は、平均的な把握の人達からは、(その人の言動が原因となって)浮いてしまい、そして、平均よりも分かる人達からは、やれやれ・・・と距離を置かれてしまい、結果、平均以下しか把握できないタイプの人を見下したり、攻撃したりして、人間関係を作ることになりがちで、そこが、気をつけなければいけないポイントです。

平均以下しか分からない人は、だいたい、社会性が薄くて、自信もないので、そういうふうな「私は分かるのよ、あなたは○○すべき」とか、「あなたは分かっていない」などという人がいると、もう、パニックになって、圧倒されて、そのまま言うことを聞いてしまったりもします。この組み合わせは、いわゆる「モラハラ」を生あるかもしれません。

人は誰もが皆、他人のことを把握するセンスを少しは備えているもので、自分だけが特別ということはない、常に、「人間とは、この世でたましいの向上のために学び続けている霊的な存在である」、という謙虚な姿勢をもって、人との関わりをとらえていくことが大切だと思います。

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2012年8月22日 (水)

受けとめる側の、相手が決めること。

自分が、一生懸命に尽くした行動や言動、その思いが、相手に正しくつたわらずに、軽く扱われたり、誤解されたりすることがあります。

そういうときには、分かってくれない相手に腹が立ったり、または、自分の伝え方が十分でないのだろうか、手段が適切でなかったのだろうか、と、複雑に捉えて、悩んでしまうこともあるかもしれません。

しかし、相手が、自分の行動をどう受けとめるか、どう反応するか(または、反応しない、という反応、の場合もある)は、相手が決めることであり、自分がコントロールできることではありません。

一生懸命に大きな力を注げば、その労力と比例して、相手をコントロールできるかのように、思い込んでしまうものですが、「自分が、努力をする」というのは、自分の領域に動機があり、「相手が、どう受けとめるか」は、相手の領域に決定権があります。

人間関係というのは、「自分」と「相手」との、『間』に作られていくもので、その「間」という領域は、お互いが共有しています。

しかし、その共有領域である、「関係」という「間」の部分について、どんな解釈で捉えているか、どのくらいの度合いで重視しているか、などの価値基準までも、共有しているわけではなくて、そこは、それぞれ独自に、ハンドルを握っています。

人間関係という、「間」の空間を共有していると、なんとなく、それに対する価値基準までも共有しているような気持ちになって、そして、自分の思い通りにいかないことは、そう受けとめない相手が悪いと解釈してしまって、「自分が、こんなにも頑張っているのに!」という不満が、相手に対して生まれていくものだと思います。

分かってもらうと努力をすることや、お互いが共有している人間関係という空間を、よりよいものにしようとする姿勢は、とても素晴らしく望ましいものです。ですから、自分の中に、「そうすべきだ」「そのほうがいい」「それが最善だ」という思いがあるなら、その思いにしたがって、行動をとっていくのがよいと思います。

けれども、その行動の受け止め方を、自分以外の他人に強要することはできないし、相手が、同じように「そうすべき、そのほうがいい、それが最善」と、思っているかは分からないし、思っていないとしても、それは相手の自由意思であって、自分がそれを正すことも、変えることも(相手が望んでいないならば)難しいものであることは、分かっておくべき知識です。

そうしないと、自分がイライラして消耗してしまうからです。

もっと工夫すれば、伝わるはず、もっと量を増やせば、分かってくれるだろう、と、そう考えたくなるものではありますが、働きかけそのものを大きくしても、その反応をする側の相手にその気がなければ、変化が見られないことも、あるでしょう。

でも、それは、自分が未熟だとか、相手が悪いとか、そういうことではなくて、そもそも、自分がどう動くかというのは、自分が決めることであり、相手がどう受けとめるかは、相手が、その人独自の価値基準で決めるのであり、そこは、別の人間である以上、重なり合うものではない、と、あらかじめ分かった上で、それでも(そうすることがお互いのためだと思うのならば)行動する、という、割り切りが必要だと思います。

価値基準を、全部とはいわないまでも、いくらかを共有して分かり合える関係になるためには、どちらかが、またはお互いに、「相手に寄り添って、自分が譲っていく」という姿勢になることも必要だと思います。

そのような譲る気持ちや、相手を思いやる気持ちを持たずに、自分の行動を一生懸命にやって、その量を増やして、工夫をするのだから、相手にそれを分かりなさい、というのも、よくよく考えると、実は、ワガママだったり自己主張が強すぎだったり、といことにもなるのではないでしょうか。

そこを考えずに、分かってくれない相手が悪い、思うような反応をしない相手がおかしい、と考えて、それを直そう、正そうとしている「自分」は、「本当に、分かっているのか」という考え方を、自分に向けてみることも、大切だと思います。

それは、何でも相手のいうままに譲るべきとか、自己主張をするな、という意味ではなくて。

「どう受けとめるかは、(働きかけをしている、自分、ではなく)受けとめる側の相手が決めること」という前提を理解し、その上で、自分の信念にしたがって、ふさわしい度合いの行動をとっているか(過剰な期待や、押しつけがないか)、という考え方のバランスだと思います。

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