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2016年12月の13件の記事

2016年12月28日 (水)

怒りでいっぱいのときほど、さらに怒りを刺激することがおこるのは。

自分に関わるものごとは、同じ要素がある事柄が引きあうしくみである、「波長の法則」によって展開していきます。

自分にはまったく要因のない理不尽な事柄が降りかかったように思えることでも、何かしらの共通点があって、それに気づかされる学びであることが多いです。

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|怒りでいっぱいのときは、さらに怒りが引き寄せられる(^_^;)。

多くの人が、経験したことがあると思うのですが、怒りでいっぱいになっているときに限って、・・・その怒りに油を注ぐような出来事に遭遇するものですよね(^_^;)。

不愉快な感情を持ったままでいると、その思いのエネルギーが外へ放たれますので、同じ要素をもつものが引きあって、ますます、不愉快になってしまう状態におかれることがあるものです。

それは、同じ要素を持った人同士が出会うことで、反応してしまうためです。反応があれば、何かしらの事柄が展開します。


|自分に余裕があるときには、怒りが刺激されない。

自分がとても充実して満たされた気分になっているときには、他人が多少のミスをしたり、迷惑となる行動をしたところで、怒りの感情はわきません。愉快ではないとしても、怒りにまではなりにくいものではないでしょうか。

または、相手に許しの気持ちを持てる人も、怒りはわきません。お互い様だと思えば、許すこともできます。

ある目的に向かって、集中して打ち込んでいるときなども、他人に意識がむかないので、多少のことはどうでもよくなります(許しているわけではないが、そのことを重視しなくなる)。

ところが、怒りでいっぱいのときには、他人の些細なミスが許せなくなり、ますます、怒りがわいてきます。

そういうときは、怒りが誘発されるできごとが引き寄せられてくる・・・というよりは、自分が(本来、気にするまでもないことに対しても)怒りの反応を示してしまう、というほうが適切な表現かもしれません。

自分が怒りの感情を持っていると、他人の怒りを刺激することにもなり、そうした相手の反応が、自分に降りかかってきたり、自分の中にある怒りを刺激するというループになります。


|自分の中にあるそれを、見つめてみること。

そのような構図を考えてみれば、相手の態度が悪いからでてくる怒りのようであっても、自分の中にも、それに反応する何かがあるかもしれず、一方的に相手のせいにはできないとわかります。

だからといって、相手に責任がないという意味ではないですよ。

「ものごとが展開する、スピリチュアルなしくみの話」と、「現実として、その事柄が起こった責任はどこにあるかという話」は、主旨が違ってきますから、事実としての責任は、相手にある場合も多いでしょう。

そういうこととは別口で、自分の内側を見つめていくことや、しくみをしることで、以降に役立つこともあるでしょうから、そういう活かし方をしたいものですね。

 

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2016年12月25日 (日)

否定的な感情も、そんなに悪いものではない。

否定的な感情も、決して悪いものではないのです。

そればかりになったら偏るけれども、人の心の中には矛盾するいくつもの感情が同居しているのが普通であり、肯定的できれいな感情ばかりを集めることはできません。

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すべてのものごとは「裏と表でひとつ」のセットになっていて、表だけ、明るいだけ、光だけのものはありません。そういう人もいません。

もしも、肯定的できれいなものばかりの人がいるとしたら(実際には、そういう人はいないので、説明のための例えになってしまいますが)、多分それは、とても「幅がない」人だったり、「浅い人」だったりして、深みが感じられず、魅力的には見えないように思います。

否定的な感情を持っていることが悪いのではなく、否定的な感情を持っていないことが良いのでもなく、「否定的な感情は、誰もが少なからず持っているものである」という受け止め方をすることで、バランスをとりながら、自分の人生を推し進めていくことができると思います。

人というのは、そういうものである、とわかれば、むやみに自分や他人に対して批判的にならなくなります。

裏というのは、表の裏側でしかないという、ただそれだけのことですから。

裏が悪いってことではないのです。裏がないほうがいいということでもない。

否定と肯定の関係性もそれと同じで、否定があるからうまくいかない、なんてことはなく、否定を減らせばその分だけ肯定が増えるということでもないのだから、そのままを認めればいいだけなのではないかなぁ、と思うのです。

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2016年12月24日 (土)

放つ人のオーラ、受けとる人のオーラ。

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エネルギーの動きとして、「放つ力のほうが高い人」と、「受けとる力のほうが高い人」がいます。

放つ力が高い人は、相手に「わかりやすい」印象を与えるので、その力がとても強いとか、特徴的だとかであれば、「あの人は、オーラあるよね!」などと言われたりします。・・・オーラは誰にでもあるのですけれど(^_^;)、皆と違うインパクトを与えるよね、という意味合いでの表現ですね。

受けとる力のほうが高い人は、印象の強さにはならないようです。受けとる力がとても高くて、特徴的なエネルギーを放っていても、オーラがある、という言い方はあまりされず、「雰囲気のある人だね」みたいな表現をされることが多いと思われます。

放つ力が高い人は、どちらかといえば「強さ」が印象深くなるのに対して、

受けとる力が強い人は、「ソフトフォーカスが掛かったような、ある種の曖昧さがあるような」印象が深くなるようです。

 

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2016年12月23日 (金)

エネルギーの振動を、体感でキャッチすることの負担。

人は皆、肉体をともなった霊的存在なので、すべての人に霊感が備わっています。

そのあらわれ方は、人により違いがあり、代表的なあらわれとして、「見える」「聞こえる」「感じる」「わかる」などがあります。

そのうちのひとつ「感じる」が優れている方は、何らかの身体感覚を伴って、把握したり受けとめたりすることが得意です。

その一例として、地震などの自然現象を少し前に予感するケースなどがあります。

(こちらの記事にも、くわしく書いています http://spiritual-teaching.com/archives/866

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そのできごとがもつ振動を、前もってキャッチするのですが、これは、エネルギーの振動に酔うようなもので、気分がわるくなる方が多いようです。身体も疲れるけれど、気分的な負担も大きいはずです。

物理的な刺激がないのに、振動だけが自分の内部で起こっているようなものなので、何だかよくわからないのに、ゆれ動いている負担だけが蓄積するからです。

こういうセンスが高い方が、私のクライアントさんにもいらっしゃって、すごく気持ち悪いので辛いとおっしゃいますね。

私自身は、身体感覚での把握は苦手なので(^_^;)、自然現象などについては、そういうわかり方になることはあまりないのですが、ですが、それがどのような感覚で負担になるかはだいたいわかります。

私の場合でいえば、憑依されたときの状態に近いだろうな、と(^_^;)。自分の内部で、自分とは違う波長の振動が起こっていて、それに揺り動かされる負担といったら・・・もう、言葉にできないですから。

実際の地震とか、車に乗っている場合は、物理的な振動で身体ごと揺れますが、そういう刺激がなく、内部のセンサーだけが揺り動かされる違和感というのは、辛いものです。

こうした性質は、生まれ持った要素が大きいので、ゼロにすることはできません。振動をキャッチしてしまうこと自体は変えられず、

どちらかといえば、年齢とともに、体力や気力が下がりますから、揺れに弱くなってしまうものなのです。

改善するとしたら、肉体ベースでの体力を落とさないようにするとか、コンディションを下げないようにして、ストレスを減らす工夫をするとか、安心できる環境を少しでも整えるとか(気持ちの余裕が、クッションになって、それらの揺れを吸収してくれます)、そうした現実的な対処が、効果を出していくようです。

 

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2016年12月22日 (木)

思うことの作用を、行動に「掛け算」する。

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頭の中や、心の中で「思うこと」も、エネルギーを外に向かって放つことになりますので、発言や行動と同じような作用があり、ものごとを成していくための効力をもちます。

思うことは、その対象に向かってエネルギーを放つことになったり、または、特定の対象への思いではない、抽象的なものでも、「自分から、外に向けて、それが放たれていく」ことは変わらず、思いのエネルギーに共鳴する何かの対象や要素へ、それが伝わっていきます。

思うことは、自分の内側で行われることで、自分でもすぐに忘れてしまって形をもちませんから、その場だけでおわってしまうに思えますが、エネルギーが外に向かって放たれたことはかわりませんので、自分が忘れてしまった後も、それは力をもって作用をなしていきます。

しかし、思うことの力を、あまりに大きくとらえてしまっても、実状からかけ離れてしまいます(^_^;)。

この世という、物質の世界においては、身体という物質をつかって、物理的な「行動」を起こしていくことが大きな効力となります。

行動をしないまま、思考の力だけで、何かを成すというのは難しく、行動の積み重ねとの掛け合わせで、大きな形にしていくという使われ方なら、思いの力を最大限に有効に使うことができるでしょう。それが、この世という物質の世界における、思いの力のあらわれ方となります。

思いの力の効力は、決して小さくはないというのは事実なのです。しかし、魔法のようなビックリするほどの効力が、思いという単体にあるのではなく、さまざまな他の要素との「掛け合わせ」で、効力を大きくしていくことができる、というとらえ方が、現実的なところですね。

何かを成そうとするなら、現状を変えたいなら、やはり「行動」による効果がもっとも大きく、もっとも早いです。

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2016年12月17日 (土)

決めること、決まること、決まっていることを、それぞれ認識する。

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物事は、自主的に「決めるべきこと」と、自分の意向や行動がどうあれ、自然に「決まってくること」とがあります。また、性質として、最初から「決まっていること」もあります。

これらをしっかり認識していくと、効果的な動きがとれるでしょう。曖昧な認識だと、決まっていることを、自分が決められる(変えられる)と思い込んだり、決めるべきことを待ってしまったりして、自分の人生の運びが混乱してしまうことがあります。

決めることと、決まってくることがある。

たとえば、パン屋さんをオープンするとして、店主さんが「うちの店の代名詞となる商品として、あんパンとクリームパンに力を入れよう」と考えるとします。

これが、店主さんが自主的に「決める(た)こと」です。何をどう決めて選ぶかは、店主さんに自由がありますね。

しかし、実際にお店をやっていくうちに、お客さんに人気がでたのは、あんぱんでもクリームパンでもなく、「カレーパン」だったとします。

これが、お客さんの意向によって、売れるものが受動的に「決まること」です。

いくら店主が、こちらの方が美味しいのに、こちらのほうを人気にしたいのに、と思っても、商品を買うのはお客さんであり、その人が欲しいものを買うのですからコントロールはできません。

このように、物事には「自分から意図的に、決めるほうがいいこと、決めることで動いていくこと」と、「自分の意図とは関係なく自然に、決まってくること、決まることを受け入れる(ほうが現実的である)こと」があります。

決めるべきことなのに、決まるのを待っていたり、決まってくることを待たずに、決めようとしたりすると、停滞や混乱が起こりがちです。

決まっていることを、どう発揮するか。

また、「既に、決まっている」こともあります。

自分がこうしたいという意向や、他人がこうしたいという意向で左右されない、もとから決まっていることがあり、それは「自分の生まれ持った性質」などが該当します。

ここを、自分の頑張りしだいで動かせると思ってしまうと・・・それも、停滞や混乱を作り出してしまうことがあります。

生まれもった性質や個性は、決まっていることなんだと、気づいているかどうか、というのがあります。(気づいていないと、自分が選んで決められる事柄のように、思えてしまうものですよね(^_^;))

これを「決めよう」としてしまうと(・・・もう、決まっているので(^_^;))、思うとおりに行かない焦りやら、なぜという疑問やらで、混乱します。ここは決めるのではなく、決まっている内容に「気づく」「知る」ことが必要です。

もちろん、そうした性質や個性を、「どのような形で、発揮して活用していくか」は、自分が意図して「こうしよう」と決められますよ。他人の意向で「こうしてください」と、引き出してくれることもあるでしょう。

たとえば、とても明瞭でよく通る、相手に聞きやすい声であることは、生まれ持って「決まっていること」ですね。

そのことを自覚していれば、この性質を、「どんな形で使うと役立つか」と考えて、「では、それをいかして、話す役割をしてみよう」と決めて動くことができます。

または、「あなたは聞きやすい声なので、電話対応のリーダーをしてみますか?」と、役割を与えられて、自分があまり気づいていないことに気づかせてもらい、力を引き出されることもあります。


これらの考え方として。

順番としてはまず、「自分が、そうすると決めていることの内容を、見直す」ことからスタートするといいのです。決めている内容を精査してみる、という意味で。そうすると、決めていることの中には、実際には決まるまで待つしかないこともあるなとわかって、力の配分を変えるこができるかもしれません。決められることについても、動き方をもっと練ったほうがいいなと気づいたりもするでしょう。そうして見直しをかけて、さらに効果的な動きを付けていくといいです。

自分を知ること、つまり、決まっていることを把握することが、最初にこないのは、ここを最初にしてしまうと、思考ばかりになって、その次の行動に結びつかないことがあるためです。

スピリチュアルが好きな人は、思考が得意な人が多いため、思考を真っ先にしてしまうと、そこで深く考えすぎてしまい(^_^;)、というか、思考が上手なので、どこまでも考えることが「できてしまう」ので、そこから次の行動にいくまでに時間を掛けすぎてしまうことがあります。

そのバランスの意味で、「まずは、今していることや、そうすると決めている動きについて」の精査から取り掛かるのがいいと思います。

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2016年12月14日 (水)

少しの時間と機会で、自分をしっかり伝えるための姿勢に。

14763928_s過去の人間関係についての、後悔とは違う、とらわれた気持ちを、長く持ち続けてしまうことがあります。

「あのとき、自分の意に反して、あのような結果となってしまったのはどうしてだろう」とか、「もうちょっと自分が○○だったら、違う今になっていたかもしれないのに」と、心がとらわれてしまうことがあるものです。

今の自分の生活に、そのことが直結するわけではないのに、なぜかそのことが心から離れずに、もし違う行動をとっていたら・・・と、いろんな想定を考えてしまうのは、

「その件において、自分は、まだ十分な実力を発揮していない」という思い残しがあるためかもしれません。

まだ、力を出しきっていない途中の段階で、相手が評価を下して結果がでてしまったこと、自分の力量が伝わらないうちに、過小評価をされた状態であるということが、納得のいかないもやもやとなって、残ってしまっているのです。

「あのとき、もうちょっと時間や機会が与えられて、自分の全部をみてもらっていたら、違う結果になったかも」、という思いがあると、なかなか割りきれないものなんですよね・・・。

相手の過小評価や誤解を、受け入れて認めてしまうかのようで、抵抗感がでるので、頭では割り切ろうとしても、「心が、割り切りきれない」のです(^_^;)。

しかし、現実的に考えてみれば、人が人をみるときに、対象者の全部は・・・把握できないものです。少しだけの判断材料で、その時点での評価を出してしまうことは、普通によくあることではないでしょうか。

採用試験でも、ほんの10分かそこらの会話や印象で判断されますし、日常の関わりで、「この人はこういう性格なんだな」と思う場合も、そのときの会話や姿勢から判断しますよね。

情報や把握が十分ではない中での、その時点での暫定の判断をしているのは「お互いさま」なのです。自分もそうして、相手を判断して生活していますから、気づいてみれば「そういうもの」だし、「それは、あり得ること」なんですよね。

とはいっても、そういう状況の中でも、誤解はされたくはないのは当然であり、自分のよいところが伝わったほうがいいし、きちんと認めて評価してもらうことが望ましいのは確かです。

そのためには、「自分のよいところが、短時間でも効果的につたわるようなふるまい」を、自分が意識して行うことではないでしょうか(^_^)。

自分がどんな良いところがあって、相手からはどうみられることが多くて、何をどう表現したら、それが一番よく伝わるを把握して、自分の行いの中にそれをあらわしていくという努力が役立つと思います。

どんなふうに伝えるのがよいかというのは、毎回、同じような記事内容になってしまうのだけれども笑、「自分らしいこと」「自分に合っていること」なんですよ。それが一番、与える印象が深くなり、認められやすいこと、なんですよね(^_^)。そのためにも、自分を知るという作業が必要で大切ですね。

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2016年12月13日 (火)

他人に意見したくなる内容は、自分にも当てはまる場合がある。

他人に「もっとこうすべき」「あなたのここはおかしい」というふうに、相手に「それは違う」と、意見したくなることは、「自分自身にもあてはまる」場合があります。

他人に言いたくなることは、実は、自分自身に言いたいことで・・・、言い換えると「(広い意味で自分である)守護霊が、あなたに言いたいこと」という場合があります。

もっとこうすべき、ああするのはおかしい、という、「それ」を自分がしていないか、見つめ直してみることが大切だと思います。

こういうことは、なかなか受け入れがたいものですが、冷静になって考えてみると、自分のイライラの原因は、ほとんど「自分自身の中にある」ものです。

しかし中には「自分はその事柄を乗り越えているから、自分に当てはまることはない。だからこそ、まだ乗り越えていなくて努力もしていない他人にイライラしてしまう」というケースもあります。

そうしたケースは、「乗り越えた自分を認めてほしい気持ち」が関連していることが多いですね。

認めてほしいのだけれども、プライドもあるので、そうした態度はしたくない、そんなことは微塵も思っていなくて、乗り越えていることが普通ですという態度でいたいという矛盾を抱えるときに、他人へのイライラがでてくることがあります。

そういうものが何もなければ、他人の「理想的でないとか、常識的でないとかの言動」があっても、「特に何というわけではない、誰かの言動のひとつ」として、さらりと心を通過していくだけだと思うのです。

それが、心に引っ掛かるなら、反応しているのは、自分の心だということですね。

周囲の人や目に映る事象(に対して、自分が思うこと)はすべて、自分の心の鏡となっていて、私たちにいろんなことを気づかせてくれます。

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2016年12月12日 (月)

受信タイプの特徴、靴がダメになりやすい、床がよごれやすい。

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エネルギーの動き方の特徴として、「発するのが得意な人」と「受けとるのが得意な人」がいます。

これまでの過去の記事内では「発信タイプ」「受信タイプ」という分け方にして、説明しています。

だれもが、エネルギーを発信も受信も両方をしていて、どちらか一方だけを行っているのではありません。その人の性質として、どちらのエネルギーの動きが(生まれもって)大きいかという特徴を示したものとなります。

受信タイプの人は、ひきうけたエネルギーの影響なのか、「靴が傷みやすい」傾向がみられます。「靴下も、すり減るのが早い」かもしれません。

普通に履いているのに、乱暴な扱いをしていないのに、高価な靴でも、作りがしっかりしている靴でも、長持ちしないので困るという声は、このタイプの方には多いのです(^_^;)。

引き受けたエネルギーの出口というのがいくつかあり、それは、発信タイプも受信タイプも同様ですが、受信タイプは、引き受けるエネルギーの量が多いので、排出する量も多くなり(それは、ここでいう「発する」とはちょっと意味合いの違うものです。発する(放つ)のと、排出するのは、別のものとなります)、

足の裏からでるエネルギーが多いため、こうした現象が起こるようです。

そのエネルギー的な影響のためか、「床が汚れやすい」傾向も見られます。足からでたものを、自分がまた踏みしめることにならないように、床掃除をしっかりしておくといいですね。

排出を促すために、身体を動かすこと(というのは、足を動かすことにもなるので)や、ボディーケアや、整体など、「動かす」「伸ばす」「流す」という動作があるものは、この性質の方が、エネルギーを滞らせないために効果的です。

あとは、「いいエネルギーを取り込んでいく」という取り組みも、受けとる力が高い人には向いています。そうして、不要なものを押し出していくための力にすることができます。活力のある、元気な「人」と関わることも、とてもよい作用があります(^_^)。

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2016年12月 9日 (金)

時間という変化を、受け入れていく生き方。

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この世は「時間」という流れがあるので、すべてのことは変化していき、同じ状態に留まることがありません。

すべてが変化しますから、自分と相手、自分と事柄についての関係性も、変化していきます。以前は合っていたものが、何かが違うと思えたり、あれ、どうしてずれてしまったのだろうと思うことがでてきます。

そういうときは、これでいいのだろうか、何かを変えなければいけないのではという、焦りや、早くしないといけないという怖れがでてきて、「何でもいいから、今と違うこと」をして、気持ちを落ち着かせたくなります。

新しいという刺激で、(新しい刺激というのは、印象が強いですから)他の感情を覆うことができるような気が、してしまうためですね。

一時的にはそうした刺激で楽になることもあるのかもしれません。けれど、同じことを何度も繰り返しても、(新しい何かをどんどんやって、一時的な刺激を得ても)変わらないなら、怖れに気づかないように、自分が自分を忙しくしているだけであることに、気づく必要があると思います。

人生の時間というのはとても貴重なものだから、怖れを覆うことを目的とした「対処」だけで時間や労力を使っていいのか、という、自分の人生について考えてみることは有意義だと思うのです。

人が生きている限り、この世の時間というものが存在する限り、必ずすべては変化していきます。変化することを、怖いと思わずに、ある程度は「そういうもの」として受けとめていけば、焦りや怖れを、受け流していくことができます。いろんな感情がでてきても、それを何とかしようとするより、その感情をもったまま、この人生をどう過ごしていくかという考え方に切り換えていくほうが、実はずっと「楽」なんですよね。

怖れと戦うのではなく、怖れとともに進んでいくという、抱えたままで進んでいくという受け止め方が、自分を楽にしてくれることもあります。

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2016年12月 8日 (木)

まずは、「あるもの」をいかして動き出す。

動き出す際には、現状、ないものを得てから、次の行動をとろう、というプロセスをつくって時間をかけるよりも、「今の時点で、あるもの」を使って、まずは動くことをおすすめします。

なぜなら、ないものをまずは得て、次に○○をして、その次に○○をして・・・と、いくつものプロセスが必要なことは、時間だけ掛かって意欲が持続しないことが多いからです。時間が掛かりすぎると、せっかくの意欲が下がってしまいますから。

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しかし、では現時点で自分に「あるもの」は何か?と考えると、この把握が意外と難しいものだったりします(^_^;)。

「あるもの」は、ある状態が当然で普通と思ってしまうので、意識にのぼりにくいのです。あることの優位性にも気づきにくいです。

一方、「ないもの」は、とても目立ってわかりやすいのです。欠けているから、無いことが認識しやすいです。

しかし、ないものを特定して、それをなんとかしようという「マイナスへの取り組み」は、なかなか形にならないのですよね(^_^;)。

「ない」ものを「ある」状態にしていくために時間と労力が掛かり、さらにそれを動きをつけて活かすために、さらに時間と労力が掛かり・・・となると、途中で気が散ったり、やる気が下がったりしてしまう可能性が増えてしまいます。

同じ行動をするなら、自分の納得がいくようにひとつひとつをキチンとしてからという気持ちはわかるのですが、「ないものを、揃えてから」という考え方は、自分を前に進ませず、その場に留めてしまう考え方です。

「ある」ものをいかそうとするのは、自分を前に運ばせる考え方です。

今の時点で、自分の手持ちの材料となるものは何か、という考え方をときどき行ってみるといいと思います。これは意識的に見いだそうとしないと、(ある状態が普通であると、誰もが思ってしまうものなので)気づきにくいです。意識の向け方にコツがいります。

「自分にとって普通だけれど、他人が評価してくれたこと」や、「他人からよく頼まれること、頼りにされること」など、他人の言動から判断できる部分もありますね。

今の自分に「ある」ものを棚卸しして、把握してみましょう。そして、その「使い方」を考えていくと、行動に結びつけていくことができます。

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2016年12月 7日 (水)

パワーを与える、パワーをひきだす。

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先日、ある商業施設の売り場をあるいていたら、お米のその場で精米してくれるサービスがあって、希望者には精米後にでる「ぬか」も、お持ち返りいただけますということで、袋詰めをなさっている様子を目にしました。

ぬかの袋からは、今まさに作業をしたてというような、エネルギーの(動きがあった、という)躍動感と、そして、ぬかそのものからでている、ほわっと暖かそうなオーラがでているのがわかりました(^_^)。

「動き」というのは、エネルギーをつくります。

お米は自発的には動けないけれども(^_^;)、人の手によって「動きをつける、動きを与える」ことで、(関わる人の)力を載せていったり、(お米が内包している)力を引き出したりするのだと思われます。

一時的に止まっていたものが、刺激を与えられて、再びエネルギー的な活動をはじめたかのようで、その「ぬか」のオーラに癒されましたね。・・・離れたところから、見ていただけでえすけれどね(^_^;)笑。

動きは、刺激になります。それらはすべて、エネルギーとしての「振動」があり、活気をあたえることになります。

これを人に置き換えると、動きという振動を自分に与えること、つまり行動をすることは、とても大切なことなのだとわかります。

行動や運動は、身体への振動

感動することは、心への振動

それらが作用して、振動そのものがパワーを与えてくれたり、自分に内包しているものを、揺り動かして活気を与えてくれたりするしくみです。

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2016年12月 3日 (土)

尽くしている自分でないと、安心できない人は、切り口を変えてみる。

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他人をいつも優先して、自分を忙しくさせて、「自分が犠牲になることが、安心」という考え方をしてしまう人は、少なくないのです。

してもらう立場になると落ち着かないので、してあげる立場になってしまう、それがとても辛いのだけれども、よくよく考えてみると、「自分からその役割に向かっていっている」ものだったりします(^_^;)。

こういうことは、どのような感情が、本人にとって「わかりやすいか」「慣れているか」によって左右されるようです。

感情の感じ方はいろいろで、肯定的な感覚を「楽しい!」と思う人もいれば、肯定的なものは「普通」で刺激のない、「わかりにくいもの」ととらえる人もいます。

前者に該当する人は、楽しいことで、自分を満たしていけますから、楽しさを求めます。

後者に該当する人は、わかりやすいものを求めて、「否定的な感情」で、自分の存在価値を確かめたくなったり、それを感じることで安心したりすることがあります。

否定的な感情は、印象深くてわかりやすく、苦しいから感じたくないと思いながらも、それが「自分がここに生きている実感」に繋がる部分もあって、自ら、苦しさを感じる状況に向かっていってしまいます。

そういうパターンになっている人は、犠牲になって苦しむことは、生きることの肯定感と結びついていますから、「この状態を変えたい」と思ってもなかなか難しいです。心の深いところでは、「変えてしまったら、安心がなくなる」とも思っているからです。

「苦しいから変えたい」けれど、しかし「変えたら、自分の存在価値が薄れることが不安」という、この両方の思いの間で、身動きがとれなくなります。

実際には、それをしないからといって、価値が薄れるなどということはないのですけれどね(^_^)。

こういうタイプの人は、苦しさや大変さで生きている実感を覚える自分であるということを、そのまま受け入れた上で、(変えるのではなく)、偏らないようにバランスをとりながら、自分のその性質を、もっと大きなスケールでいかされるように、意図的に使っていくのがいいと思います。

特定の相手の関心をひこうとか、その人から評価されようとする方向にいくから「犠牲」という感覚になったり、そういう関係性になったりしてしまうのであり、

世の中のためとか、こういうことを成して役立とうとかの、スケールの大きなことをしていけば、犠牲になっているような不満感というものは、小さくなっていくのではないでしょうか(^_^)。

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