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2016年10月の3件の記事

2016年10月27日 (木)

エネルギーの「受け取る動き」が強い人のほうが、憑依されやすい?

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昨日の記事に関連して。エネルギーの動き方として、「放つ動きが強い人=発信タイプ」「受け取る動きが強い人=受信タイプ」という観点から、2つのグループにわけて比較する場合

エネルギーの「向き」として、外のものを自分のほうへ向かわせる作用が大きい受信タイプの人のほうが、どちらかといえば「影響されやすい」と言えますし、同時に「憑依されやすい」とも言えます。

私たち人間は、「身体という器に入っている、霊的存在」であり、誰もが霊としての性質をそなえていて、霊的なものと同調しやすいですので、ときに未浄化な霊に憑依されるという現象が引き起こされることがあります。

憑依という言葉だけみると、恐ろしいものに思えるかもしれませんが、、「実はよくある霊現象のひとつ」となります。漫画や物語にでてくるようなレベルの憑依というのはめったになく、そして、小さい影響のものなら、誰にでも起こる可能性があり、実際にわりとよくある現象なのです(そうしたプチな現象は、いつの間にか自然に解消されていくものなので、あまり気にする必要はありません)。

けれど、いくら私たちが霊的な存在でり、霊としての性質をそなえているからとはいえ、無作為に、のべつまくなしに憑依が起こるわけではありません。そうなる状況下や条件とい原因があって、憑依という結果が起こります。

大きな条件としては「そのときのコンディションが、著しく低下しているとき」ですね。普通の人にとってはそうなります。

しかし、世の中には、いろんな性質をもつ人がいて、スピリチュアル業界でよく使われる言葉で「憑依体質の人」がいます。

平均的な人(それでも、もちろんコンディションが下がれば憑依される可能性はある)よりもずっと、憑依がなされやすい性質を備えている人、という意味ですね。

憑依体質という性質に繋がる要素もひとつではなく多々あるのですが、そのうちのひとつに、「エネルギーの、受け取る動きが強い人」である、「受信タイプ」の人が当てはまります。エネルギーの向きをイメージしてみれば、放つ人のほうがはね除けやすく、吸い取る人はもらってしまいやすい・・・っぽいイメージが、だいたいわかるのではないかと思います。

そうかといって、受信タイプであるから、イコール憑依されてしまう、ということではありません。いくつもの要因があって決まります。

憑依されることや、または、憑依体質であることの条件を(幾つもありますので)、順番に影響度でランキングするとしたら、「受信タイプ」であることは、4~5位くらい、でしょうか。つまり、他にもいろんな理由があり、憑依体質を決めるもっとも大きい理由も別にあるということですが、やはり受信タイプであることも、関係はしています。

受信タイプの人は、エネルギーが外から内にむきやすくて、こもりやすく滞りやすいです。なので、本来であれば、自分以外のエネルギーを一時的にとりこんでも、自然と(自力のエネルギーの動きで)解消されていくものなのですが、受信タイプの人はその押し出しポンプの容量が小さかったり、または性能が十分でもフィルターの目詰まりがしやすい、というようなイメージですかね。

余談ですが、受信タイプの人は、エネルギーがこもりやすいので、「体温が低いのに、暑がり」な人なども多いと思います。私が子どもの頃は、まさしくそうでしたね(^_^;)。

しつこく書くけれど、受信タイプ=憑依体質、ということではないので。憑依体質に繋がる、スピリチュアルな観点からの個別要素はいくつもあって、そのうちのひとつ(ランキングとして4~5位くらい)ということですので。・・・そうした個別要素を、もれなく備えると、私のような強度の憑依体質ができあがります(^_^;)。

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2016年10月26日 (水)

「自分と似ているね」と言われやすい、「受信タイプ」。

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いろんな年代や立場の人から、それもまったく個性の違うたくさんの人たちから、「あなたは、私と同じところがある」とか、「あなたは、私とよく似ている」と、思われやすい人がいます。

この世での人間関係というのは、同じ要素をもつ人同士が引きあって作られていくので、関わりができるという時点で何かしらの共通点はありますので、広い意味でいえば同じところがあるのは確かです。

ですが、一般的かつ客観的な評価として、似ているところがあるとは思えないような共通点が少なそうな人にも、「似ているから気があいそう」とか「同じだからわかり合える」と言われたり、思われたりする人がいるものなのです。

これは、以前にお伝えした「発信タイプ/受信タイプ」という、エネルギーの動きの特徴が関連してきて、自分がエネルギーを引き受けるほうの動きが強い、受信タイプにみられる特徴です。http://lapis-lazuli.way-nifty.com/true/2016/01/post-44ed-17.html

引き受けるタイプの人は、「他人のエネルギーに感化されやすく、他人の特徴を一時的に移しこんでしまう」ため、その状態を見た他人が、「その人の中に、自分自身と同じものを(鏡のように)とらえてしまう」のです。

受信力の強い人ほど、いろんな人からそう思われます。「え?あなたとわたしのどこに共通点が?どこも似てないよね?」と本人的には思える相手からも、実際によく似ている相手からも、とにかくあらゆる性質の人から、似ている、同じねと思わたり言われたりしやすいです。

で、受信タイプの人に、自分自身を投影して「私と似ているね」と思う側の人は、発信タイプに多いのです。エネルギーを放つほうの動きが得意な人なので、相手の中に放つ動きも強いためです。ね。

この世で関わりがある相手は、何かしらの共通点があるので、まったく違うということはなく、少しくらいは必ず共通点があります。

その共通点が小さい相手でも、エネルギーを映し出す度合いが大きい、拡大鏡のようになって「見せてしまうことになる」のが、受信タイプの特徴なので、受信力が強い人ほど、あらゆる性質の人から、似ている、同じと思われやすいのです。

ただ、この件だけが、「似ていると言われる理由」のすべてではないので(^_^)、他にもいくつも理由は考えられるので、こういうことも関連しているんだなーというくらいで、参考程度にとらえてみてください。

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2016年10月22日 (土)

たましいが成熟している人は、苦労が多い?

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スピリチュアルな観点からみて、「たましいの成熟度が高い人」という解釈があります。

人として、霊としての「器」が大きく、格があるとでもいえばいいのでしょうか、なんども生まれ変わって培った、経験に基づいた叡智が備わっているような人ですね。

私たちが生きているこの世とは、「学ぼうとするたましいが、肉体をもった人としての経験をする」ための、たましいの学校のような場所です。

学びの課題は、生まれる前から備えている要素と、生まれてからの実際の経験で起こる(事前には決まっていない)ものとの兼ね合いで、その人のもつ「器」の大きさや深さに見合ったものが与えられます。

与えるといっても、自分以外の誰かが、それを決めたり整えてくれたりするという意味ではありません。

霊的なしくみとして、そうなるように組み込まれていくというか、自分の霊的な部分が、そうするように向かっていくのだけれども、人としての表面的な意識では、私たちはそれを自覚したり感知したりできません。自分からそのように向かっているという意識にはなれませんから、「与えられている」という表現を使ってあらわしています。

(が、実際には、自分以外の誰かが、それを決めたり調整したりしているということではないです。霊的な「しくみ」として、そうなっているし、そうなっていくのです)。

たましいが成熟していると、苦労が多い?

器が大きくなると、学びの難易度があがることが考えられますよね。中学生の教科書が、小学生のそれより難しいのと同じように。

たましいが成熟していくほど、学びの課題がハイレベルになるということもありますし、経験から培った叡智を、「あらわすことで学ぶ」ようになります(自分に培うことではなく)。

そのため、自分のことだけに留まらず、他人のために尽力しなければならない場面に押し出されていき、人を率いる立場になったり、成長を助けるような役割につくことが多くなります。

ものごとは関わる人数が多くなるほど、思い通りにいかなくなりますから、自分以外の誰かのために動くことは、思い通りになりにくい道へと進んでいることでもありますので、苦労は多くなりますよね(^_^;)

そういう意味で、苦労は多くなる・・・とも言えますが、しかし同じものごとに対する、受けとめの度合いは、人によって違います。同じことを大変だと思う人も、そんなに思わない人もいますから、「苦労が多い」という定義をどこでつけるかという点も簡単にはいきません。

人生において、誰もが苦労はするもの

この世で生きるという経験は、誰にとっても大変なことです。

それぞれの器に見合った学びがきますから、器が小さいほど、学びが簡単だから得するということにはなりません。同様に、器が大きいから学びを楽々クリアできるということもありません。器から計算した比率でいえば、大変さはそんなに変わらないものです

違いがあるとしたら、器が大きいひとは「そのこと」をわかっていますね。

だから、自分だけがこんなに苦労して大変だとは思わず、「自分もこんなに大変なのだから、他の人もまた、その人の状況においては大変なことがあるのだろう」という考え方をします。他人や世の中に対しても、否定的なとらえ方をしないので、批判的にもなりません。

しかし、器が小さい人は、「自分だけが、こんなに苦労している」という考え方になりやすいです。そこはやはり、経験値の少なさで、比較対象もまた少ないために、他者からみたらこうだろうという考え方になれないためです。

備えている器の中での理解であり、その中での学びですから、主観的な大変さは、誰もがそんなに変わらなく(皆が大変だということ)、

器の大きさを考慮せずに、抱えている事柄を同列に並べて比較すれば、器の大きいひとほど大変であるとは言えるけれど、・・・そういう比べ方にはあまり意味がないような気もします(^_^;)。

誰もが、与えられた学びに向かうということ。

この世は学びの場所で、皆がそれぞれの「たましいの学び」に挑むようになっています。与えられた、と書いているけれども、ここまでの中で説明したように、それはたましいが求めるしくみになっていて、自分以外の誰かが、それを指示しているようなこととは違います。

自分が、成長のために求めた学びに、それぞれが挑んでいるんですね。

学校の教科書という「同じ題材」ですら、解釈の仕方は人によりバラツキがでるのだから、個別の学びとなれば、それはもう、人の数だけ受け止め方があるので、苦労の度合いも、多いとか少ないとかは、本来は決められないものなのです。

そうやって、受けとめていき、課題をひとつひとつ越えていく、または、越えられないもの(そういう種類のものもある)はそのままにして、「この人生という旅路を進んでいく」ということが一番の学びです。難しくて苦労もあるけれども、楽しみもありますよ、少しは笑。

苦労があるからこそ、(比較することで)楽しみというものが認識されます。この世はそうして比較することで、両方の要素を学ぶ場所だということです。苦労があるということは、楽しみを得られる世界でもあるのだという証拠なんですね。

・・・というふうに受けとめていけば、実はこの世は楽しみがたくさんある世界です。苦労が多いといっても、苦労にばかりフォーカスしなければ、いろんなものが得られるんですよね(*^_^*)。

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