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2016年10月の11件の記事

2016年10月30日 (日)

カルマの法則~種をまき、花を咲かせる~。

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この世で起こる出来事は、すべてが、自分がおこなったこと(思い、発言、行動など)が種となっています。自分の行いは、自分が放ったエネルギーです。そうしてまいた種が実ることで、ものごとが展開していくのが、カルマの法則という真理のしくみです。

この世で何らか実りを得よう、結果をだそうとするなら、「新たに、そのための種をまく」か、または「過去にまいた種を探して、実りをえる」か、どちらかの行動をとっていくのが基本となります。

過去にまいた種を探して、実りを得るという方法は、つまりは、「無意識にまいているので意識していない」か、「まいた当時は意識していたが、時間が経過して今は忘れている」かのどちらかです。

「無意識にまいているので意識していない」ものは、自分が自然にできているから、改めて意識にのぼりません。備わっていて馴染んでいることは、自分にとってあまりに自然に「できてしまう」ことなので、あえて種をまいているという感覚にはなりにくいものです。そういうことは、「得意なこと」の場合が多いですね。得意で秀でていることは、実はあまり自覚できないことでも多いです。

得意で秀でていると自覚しやすいのは、「他者との競争の要素があること」です。山田さんより上手いとか、田中さんより早いとか、他人と比較する要素のことは、この世においては自覚がしやすい事柄です。(この世は比較ができる場所で、そのために「時間」というしくみがあります)。

しかし、競争の要素を含まない得意なことも、実際にはたくさんあるものなのです。それらを何らかの方法できづくことができたら、その先の人生は、創造的で豊かなものになるのではないでしょうか(^_^)。

「まいた当時は意識していたが、時間が経過して今は忘れているもの」は、自分に合わないことをやってしまい形にならなかった場合と、自分に合っているものだったが時期が早すぎたり方法が適していなかったりで、実りとなりきらなかったか、どちらのケースが多いでしょう。

合わないことは、合うように変えることはできませんが、しかし、「合っているものだったが、実りになりきらなかった」ものは、今とこれから先にいかいていける可能性がありますよね。一番のメリットは「ゼロからのスタートにならない」ところです。前回の続きのようなやり方は、十段階のうちの二や三から再スタートできますから、初動が楽になります。

そのように、自分が意識していない部分に、これからの人生で大輪の花を咲かせて実りを得られる種が含まれていることがあるものです。

気づくためには、自分が「そのこと」に意識的になること、意識を向けて「それ」を把握しようとすることです。ただなんとなく考えるのではなく、「それを見つけるための考え方」をとることです(^_^)。

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2016年10月29日 (土)

自分を、もっとよく知るには|スピリットメッセージ。

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自分の内面と、自分の外にある要素とは、自分を通して繋がっているという、スピリチュアルなしくみがあります。

つまり、自分が備えている要素は、自分を通して、周囲の様子として反映されていきます(正確に言えば、周囲の様子をとおして、自覚されるというしくみです)。

自分の周囲でおこること、集まってくる人々、そこでつくられる人間関係などのすべてに、自分の中にある「何か」が、幾分、反映されていることになりますので、周囲をみると、自分がわかるのです。

外のすべては、自分を映し出す鏡です。あなたが自分の中にある要素について、客観視したとしたら・・・という仮定が、「あなたの、外の事柄に対して抱く印象や解釈」にあらわれます。

しかし、周囲の鏡に映るのは「自分の一部」です。実際の鏡が、全面を映し出してくれないように、周囲の鏡で、見える自分は、一部分のみです。

そして、鏡は鏡である、ということ。自分が映っていても、鏡と自分は、イコールではありません。

そのことは間違えないようにしましょう。周囲に自分が映し出されていても、それは「鏡でみた一部」にすぎず、「そのままのあなた全部」ではありません。

自分の全部を知るためにはどうしたらいいか?

それは、たくさんの人と関わることです。または、たくさんの人がいる場所に身を置くことです。そうすれば、いろいろな人から少しずつ、あなたをあらわすピースを見いだすことができます。

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2016年10月27日 (木)

エネルギーの「受け取る動き」が強い人のほうが、憑依されやすい?

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昨日の記事に関連して。エネルギーの動き方として、「放つ動きが強い人=発信タイプ」「受け取る動きが強い人=受信タイプ」という観点から、2つのグループにわけて比較する場合

エネルギーの「向き」として、外のものを自分のほうへ向かわせる作用が大きい受信タイプの人のほうが、どちらかといえば「影響されやすい」と言えますし、同時に「憑依されやすい」とも言えます。

私たち人間は、「身体という器に入っている、霊的存在」であり、誰もが霊としての性質をそなえていて、霊的なものと同調しやすいですので、ときに未浄化な霊に憑依されるという現象が引き起こされることがあります。

憑依という言葉だけみると、恐ろしいものに思えるかもしれませんが、、「実はよくある霊現象のひとつ」となります。漫画や物語にでてくるようなレベルの憑依というのはめったになく、そして、小さい影響のものなら、誰にでも起こる可能性があり、実際にわりとよくある現象なのです(そうしたプチな現象は、いつの間にか自然に解消されていくものなので、あまり気にする必要はありません)。

けれど、いくら私たちが霊的な存在でり、霊としての性質をそなえているからとはいえ、無作為に、のべつまくなしに憑依が起こるわけではありません。そうなる状況下や条件とい原因があって、憑依という結果が起こります。

大きな条件としては「そのときのコンディションが、著しく低下しているとき」ですね。普通の人にとってはそうなります。

しかし、世の中には、いろんな性質をもつ人がいて、スピリチュアル業界でよく使われる言葉で「憑依体質の人」がいます。

平均的な人(それでも、もちろんコンディションが下がれば憑依される可能性はある)よりもずっと、憑依がなされやすい性質を備えている人、という意味ですね。

憑依体質という性質に繋がる要素もひとつではなく多々あるのですが、そのうちのひとつに、「エネルギーの、受け取る動きが強い人」である、「受信タイプ」の人が当てはまります。エネルギーの向きをイメージしてみれば、放つ人のほうがはね除けやすく、吸い取る人はもらってしまいやすい・・・っぽいイメージが、だいたいわかるのではないかと思います。

そうかといって、受信タイプであるから、イコール憑依されてしまう、ということではありません。いくつもの要因があって決まります。

憑依されることや、または、憑依体質であることの条件を(幾つもありますので)、順番に影響度でランキングするとしたら、「受信タイプ」であることは、4~5位くらい、でしょうか。つまり、他にもいろんな理由があり、憑依体質を決めるもっとも大きい理由も別にあるということですが、やはり受信タイプであることも、関係はしています。

受信タイプの人は、エネルギーが外から内にむきやすくて、こもりやすく滞りやすいです。なので、本来であれば、自分以外のエネルギーを一時的にとりこんでも、自然と(自力のエネルギーの動きで)解消されていくものなのですが、受信タイプの人はその押し出しポンプの容量が小さかったり、または性能が十分でもフィルターの目詰まりがしやすい、というようなイメージですかね。

余談ですが、受信タイプの人は、エネルギーがこもりやすいので、「体温が低いのに、暑がり」な人なども多いと思います。私が子どもの頃は、まさしくそうでしたね(^_^;)。

しつこく書くけれど、受信タイプ=憑依体質、ということではないので。憑依体質に繋がる、スピリチュアルな観点からの個別要素はいくつもあって、そのうちのひとつ(ランキングとして4~5位くらい)ということですので。・・・そうした個別要素を、もれなく備えると、私のような強度の憑依体質ができあがります(^_^;)。

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2016年10月26日 (水)

「自分と似ているね」と言われやすい、「受信タイプ」。

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いろんな年代や立場の人から、それもまったく個性の違うたくさんの人たちから、「あなたは、私と同じところがある」とか、「あなたは、私とよく似ている」と、思われやすい人がいます。

この世での人間関係というのは、同じ要素をもつ人同士が引きあって作られていくので、関わりができるという時点で何かしらの共通点はありますので、広い意味でいえば同じところがあるのは確かです。

ですが、一般的かつ客観的な評価として、似ているところがあるとは思えないような共通点が少なそうな人にも、「似ているから気があいそう」とか「同じだからわかり合える」と言われたり、思われたりする人がいるものなのです。

これは、以前にお伝えした「発信タイプ/受信タイプ」という、エネルギーの動きの特徴が関連してきて、自分がエネルギーを引き受けるほうの動きが強い、受信タイプにみられる特徴です。http://lapis-lazuli.way-nifty.com/true/2016/01/post-44ed-17.html

引き受けるタイプの人は、「他人のエネルギーに感化されやすく、他人の特徴を一時的に移しこんでしまう」ため、その状態を見た他人が、「その人の中に、自分自身と同じものを(鏡のように)とらえてしまう」のです。

受信力の強い人ほど、いろんな人からそう思われます。「え?あなたとわたしのどこに共通点が?どこも似てないよね?」と本人的には思える相手からも、実際によく似ている相手からも、とにかくあらゆる性質の人から、似ている、同じねと思わたり言われたりしやすいです。

で、受信タイプの人に、自分自身を投影して「私と似ているね」と思う側の人は、発信タイプに多いのです。エネルギーを放つほうの動きが得意な人なので、相手の中に放つ動きも強いためです。ね。

この世で関わりがある相手は、何かしらの共通点があるので、まったく違うということはなく、少しくらいは必ず共通点があります。

その共通点が小さい相手でも、エネルギーを映し出す度合いが大きい、拡大鏡のようになって「見せてしまうことになる」のが、受信タイプの特徴なので、受信力が強い人ほど、あらゆる性質の人から、似ている、同じと思われやすいのです。

ただ、この件だけが、「似ていると言われる理由」のすべてではないので(^_^)、他にもいくつも理由は考えられるので、こういうことも関連しているんだなーというくらいで、参考程度にとらえてみてください。

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2016年10月23日 (日)

他人との関わりがわずらわしい人が、心をオープンにするには。

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なかなか、心をオープンにできない人というのは、「怖れからそうなっている」と言えなくもないですが、一番の理由としては「ひとりでいるほうが好きで、他人との関わりがわずらわしい」からではないでしょうか。

他人と関わると、踏み込まれたくない部分にまで踏み込んでこられるし(実際、そういう距離感のない人は多い(^_^;))、どーでもいいような会話のやりとりで、時間をつかいたくないという気持ちが大きいのかな、と。

そういうときは、「ひとりの時間を十分に味わう」ことに切り換えていくほうがいいですね。そうして存分に、好きなことで満たされていけば、・・・いくら好きといっても、同じようなことや、自分の内的な思考という世界にばかりひたっていたら、他のことをしたくなってくるものです。飽きてくるので笑。

そういうタイミングを、待ってみるのもいいのではないでしょうか。

そうしたくなるときは、やってみようという意欲が後押しするので、「自然とそうなって」いきます。「そうしなければ、そうすべき」という思いからの取り組みは、根底に「そうしてない」現状があり、「実はそれを、あまり好んでいない」という抵抗感もあるので、・・・無理があるんですよね(^_^;)。

そのときだけの上辺の行動では、自分がやった気になるというだけで、自分に根付いて習慣化されるわけではないですから。

自分から「そうしたくなったとき」や、「そうする必要性を認識したとき」が、そのタイミングなのかなと思います(^_^)。

やり慣れていないことを行うには、意図や努力が必要であり、その気になったからといって行動がスムーズにできるとは限らないけれど・・・、抵抗感は少なくなっているはずですね。

ひとりの時間が好きな人は、ひとり時間を十分に楽しんで味わってから、次の段階として、心が求める動きをとっていったらいいのではないかな、と思います。

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2016年10月22日 (土)

たましいが成熟している人は、苦労が多い?

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スピリチュアルな観点からみて、「たましいの成熟度が高い人」という解釈があります。

人として、霊としての「器」が大きく、格があるとでもいえばいいのでしょうか、なんども生まれ変わって培った、経験に基づいた叡智が備わっているような人ですね。

私たちが生きているこの世とは、「学ぼうとするたましいが、肉体をもった人としての経験をする」ための、たましいの学校のような場所です。

学びの課題は、生まれる前から備えている要素と、生まれてからの実際の経験で起こる(事前には決まっていない)ものとの兼ね合いで、その人のもつ「器」の大きさや深さに見合ったものが与えられます。

与えるといっても、自分以外の誰かが、それを決めたり整えてくれたりするという意味ではありません。

霊的なしくみとして、そうなるように組み込まれていくというか、自分の霊的な部分が、そうするように向かっていくのだけれども、人としての表面的な意識では、私たちはそれを自覚したり感知したりできません。自分からそのように向かっているという意識にはなれませんから、「与えられている」という表現を使ってあらわしています。

(が、実際には、自分以外の誰かが、それを決めたり調整したりしているということではないです。霊的な「しくみ」として、そうなっているし、そうなっていくのです)。

たましいが成熟していると、苦労が多い?

器が大きくなると、学びの難易度があがることが考えられますよね。中学生の教科書が、小学生のそれより難しいのと同じように。

たましいが成熟していくほど、学びの課題がハイレベルになるということもありますし、経験から培った叡智を、「あらわすことで学ぶ」ようになります(自分に培うことではなく)。

そのため、自分のことだけに留まらず、他人のために尽力しなければならない場面に押し出されていき、人を率いる立場になったり、成長を助けるような役割につくことが多くなります。

ものごとは関わる人数が多くなるほど、思い通りにいかなくなりますから、自分以外の誰かのために動くことは、思い通りになりにくい道へと進んでいることでもありますので、苦労は多くなりますよね(^_^;)

そういう意味で、苦労は多くなる・・・とも言えますが、しかし同じものごとに対する、受けとめの度合いは、人によって違います。同じことを大変だと思う人も、そんなに思わない人もいますから、「苦労が多い」という定義をどこでつけるかという点も簡単にはいきません。

人生において、誰もが苦労はするもの

この世で生きるという経験は、誰にとっても大変なことです。

それぞれの器に見合った学びがきますから、器が小さいほど、学びが簡単だから得するということにはなりません。同様に、器が大きいから学びを楽々クリアできるということもありません。器から計算した比率でいえば、大変さはそんなに変わらないものです

違いがあるとしたら、器が大きいひとは「そのこと」をわかっていますね。

だから、自分だけがこんなに苦労して大変だとは思わず、「自分もこんなに大変なのだから、他の人もまた、その人の状況においては大変なことがあるのだろう」という考え方をします。他人や世の中に対しても、否定的なとらえ方をしないので、批判的にもなりません。

しかし、器が小さい人は、「自分だけが、こんなに苦労している」という考え方になりやすいです。そこはやはり、経験値の少なさで、比較対象もまた少ないために、他者からみたらこうだろうという考え方になれないためです。

備えている器の中での理解であり、その中での学びですから、主観的な大変さは、誰もがそんなに変わらなく(皆が大変だということ)、

器の大きさを考慮せずに、抱えている事柄を同列に並べて比較すれば、器の大きいひとほど大変であるとは言えるけれど、・・・そういう比べ方にはあまり意味がないような気もします(^_^;)。

誰もが、与えられた学びに向かうということ。

この世は学びの場所で、皆がそれぞれの「たましいの学び」に挑むようになっています。与えられた、と書いているけれども、ここまでの中で説明したように、それはたましいが求めるしくみになっていて、自分以外の誰かが、それを指示しているようなこととは違います。

自分が、成長のために求めた学びに、それぞれが挑んでいるんですね。

学校の教科書という「同じ題材」ですら、解釈の仕方は人によりバラツキがでるのだから、個別の学びとなれば、それはもう、人の数だけ受け止め方があるので、苦労の度合いも、多いとか少ないとかは、本来は決められないものなのです。

そうやって、受けとめていき、課題をひとつひとつ越えていく、または、越えられないもの(そういう種類のものもある)はそのままにして、「この人生という旅路を進んでいく」ということが一番の学びです。難しくて苦労もあるけれども、楽しみもありますよ、少しは笑。

苦労があるからこそ、(比較することで)楽しみというものが認識されます。この世はそうして比較することで、両方の要素を学ぶ場所だということです。苦労があるということは、楽しみを得られる世界でもあるのだという証拠なんですね。

・・・というふうに受けとめていけば、実はこの世は楽しみがたくさんある世界です。苦労が多いといっても、苦労にばかりフォーカスしなければ、いろんなものが得られるんですよね(*^_^*)。

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2016年10月15日 (土)

オーラの大きさ(いちばん外側)とは、身体からどのくらい離れた場所なのか。

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|オーラとは、層になっています。

オーラというのは層になっていて、一般的な分け方としては「内側に近い層から一層として、外側にむかって七つの層になっている」とされています。

一般的には、というのは、オーラ透視者によって、見え方が違ったり、(見えているところが共通していても)分け方が違ったりしていることもあるからです。

たとえば、内側からの1~3層をまとめて「肉体と関連が深いひとつ」としてわけているヒーラーさんの本を読んだことがあります。その方は、「オーラは7層といわれているが、自分にはもっと少ない層にみえる」と書かれていましたね。

人によって、「把握できるオーラの領域が違う」ので、外側の層まで見える人もいれば、内側の肉体に近い層だけが見える人もいると思います。どちらも「オーラが見える人」という意味では共通になりますが、オーラの大きさ(つまり見えている一番外側)がどこか、となると、・・・見る人(の、とらえられる範囲)によって、かなりの差がでてきてしまう可能性がありますね。

しかし、とらえているオーラが違うだけで、間違っているわけではないので・・・、そこがこうした見えない領域を語る際の難しいところではあります(^_^;)。


|オーラの、一番外側は、手をひろげたより少し内輪。

オーラは、肉体に近いほどに、エネルギーの実在感?があり、外側にいくほど曖昧でわかりにくいエネルギーになります。

そのため、「どこが外側か」という定義も難しいのですが、一般的な(オーラ透視者にとっての)把握できる層の、もっとも外側となるのは、両手を左右いっぱいに広げたよりも、若干、内輪になるくらい?、でしょうか。

オーラというのは放たれているエネルギーであり、動いているものなので、はっきりとした際があるのとは違いますけれど。

エネルギーの放たれている(届いている)範囲の外側して、「人のオーラ」という位置付けにできるのは、だいたいそのくらいだと思います。

こう、文章で書くと、とっても言い回しがくどくなってしまうのですが(^_^;)、なるべく実際に近く、しくみを含めてかくとそうなってしまいます・・・。

|エネルギーは、広がっているし、繋がっている。

そして、人のオーラと、その外側にある、いろんなエネルギーとも、ここからが別というようなはっきりとした境界にはなっていなくて、いろんな要素と、うっすらと繋がっている?ような側面もあります。

そのため、明確にここまでとは表現できにくいのですが、だいたいのイメージとしてとらえるならば、両手で円を描いた軌道のちょい内輪までの大きさ、ということになるかなと思います。

|個人差はあり、状態によっても変わる。

ただ、個人差はあります。もっと大きい人もいますし、状態も反映されますので、その時々で(備えている範囲の中で)大きくなったり小さくなったりすることもあります。

本質的な大きさを言っているか、状態の大きさを言っているかでも、まったく違ってくるので、オーラの大きさといっても、ひと言ではなかなか表せない複雑さがあります。

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2016年10月12日 (水)

波長というのは、その人のもつ「質」としての振動数。

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スピリチュアルな意味での「波長」「波動」という言葉で表されるものは、言い換えると、「スピリチュアルなエネルギーの振動(数)」のことです。

人の波長というのは、その人がそなえている「固有の振動する幅」とでも言えばいいでしょうか、放っているエネルギーに、その振動できる幅の情報がふくまれていて、「あの人の波長が○○である」という言葉で表現されたりしますね。

その人の個性をあらわす、放つことができる振動数、周波帯みたいなものがあって、そこを読み取ることができるので、私は、「その人がどんな性格と性質の人なのかが、すぐわかる」のです。オーラの色で読み分けているのではないです。オーラの色もそうした要素のひとつではありますが、オーラという放たれるエネルギーにのっている波長が最大の情報源となります。


|波長という振動は、霊的な質により作られる。

波長(という振動)の、元となっているのは、その人の「霊質」「霊性」が大部分で、それをベースに、「現在の調子」という、日々で上下するコンディションという変化が加わります。

「波長が高い」という表現をするとしたら、その人が備えている質の振動数の領域が高い、というのが本来の意味だと思うのですが、なぜか今どきのスピリチュアルで「波長が高い、低い」と表現されるのは、簡単に上下するコンディションのほうをさしていることが多いようです(^_^;)。

実際、そういう変化の部分も加わって波長ですので、間違ってはいませんが・・・、しかし本来の波長と呼ぶべきエネルギーの説明としては不十分であるように私は思います(^_^;)。


|単に、性質としての差があるというだけ。

そのエネルギーの質がどこに根ざしているかという区分は、たとえば「ソプラノ」と「アルト」の違いのようなもので。ソプラノのほうが音域は高いけれど、しかし、ソプラノが優れているということではないし、アルトはソプラノを目指すべきということでもありませんよね。

本来は、波長という質の差も、そういうことを指している(部分のほうが大きい)のですけれども。どうも、別の意味のほうが大きくとらえられているようですが、それは「わかりやすい一部分」だけで、本来は、性質としての振動数=波長です。


|本来の波長という振動数に、優劣とかはない。

たとえば、理性よりも感情のほうに同調しやすい人がいるとしても、それは質の差に過ぎず、どちらが望ましいとか優れているという優劣ではないのです。現実よりも霊的なことの感化しやすい人がいるとして、それが優れているということでもないですし・・・。現実的であることが悪いとか低いとかでもないのです(^_^)。

それぞれ性質の差があることが普通であり、その状態で正解です。

この世は、「どこの領域で振動するかが一致していない、いろんな人がいる状態こそが、凸凹がかみあって調和はとられている」ということです。

ソプラノだけの演奏会は、厚みがないですよね。揃ってキレイかもしれませんが、響きの広がりがイマイチなのではないでしょうか。

波長の振動数というのは、まさしく「響き」なのです。その人が放つ響きのことです。

備えている質の中で、望ましい部分を表すようにしていくとか、備えている要素をいかしてより洗練された表し方ができるように、ということが、この世においての「向上」なのだと思います。

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2016年10月 6日 (木)

過剰な「ハウツーコレクター」になっていないか。

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自分の好きなことや、気に入ったものに囲まれていると、良い気分になるものです。

ひとつひとつに思い入れがあったり、所持していることの満足感もあったり。好きなものは、気分を上げてくれる効果があります。

たとえば食器や時計や靴など、特定の用途の「物」を集めるのが好きな人もいますし、品物は問わず特定の「ブランド」が好きという人もいますよね。

形をもたない「情報」や「ハウツー」的なことを集めるのが好きな人もいます。

食器集めや、腕時計集めが好きな人がいるように、資格(取得)集めや、ハウツー(ノウハウ)を集めることが趣味のようになっている人は珍しくありません。形のある物のようには、そういうことは目立たないだけですね。

スピリチュアルが好きな人は、形のないしくみやエネルギーの作用という理解がスムーズなので、実はそういう人は多いのかもしれません(^_^)。

好きだからそうする、というのはもちろん自由なのです。形をともなう「物」であっても、形を持たない情報であっても。 好きなものを集めることで、安心するとか、やる気がでて行動のモチベーションになるということなら、その人にとって「必要なこと」なのでしょう。

しかし過剰になっては、バランスが崩れますね。どちらも、趣味の範疇でれば、自分の気分を上げてくれて楽しみを与えてくれますけれど・・・。

多すぎる物は使い切れないし、高価過ぎる物は普段使いできないように、資格もハウツーも集めすぎても、日々の生活を豊かにすることにならず、むしろ不必要に自分を忙しくしてしまったり、無駄を引き起こしたりすることも多々あると思います。

「集めるのが好き」なら、楽しみとしてやるのはいいと思います。ですが、「使うため」に集めるなら、集めすぎても・・・混乱するだけではないでしょうか。時間とお金も山ほどかかりそうですね(^_^;)。

人生を、もっと豊かに変えたいと思うなら、自分自身がどういう姿勢で、この人生にどう取り組むのかを考えていくことが基本にあって、その上で、手段が掛け算になっていかされていくと思います。

自分はどういう性質をもっていて、どんなことに向かって、この先の人生を運んでいくのか。まずはその点を、現時点なりに考えてみることですね。(このことに明確な不変の答えはでないものです。成長とともに把握できる部分もかわり、解釈も上書きされていきますので「その時点での暫定」になります)

自分を知らないと、合うものも選べませんし(^_^)。たくさん集めても、まだたりないような気がしてキリがないです。そうすると、・・・集めることが目的になってしまうんですよね(^_^;)。自分を知らない人ほど、ハウツーコレクターになりがち、ということです。

自分を知るほど、自分にはこれだ、とういうものが定まってくるので過剰や所有欲は解消されていきますし、ハウツーコレクションもしなくてよくなります。自分の人生をうまく運んでいくのは自分しだいであり、物やハウツーに左右されるようなことではないんだと、わかってくるからです(^_^)。

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2016年10月 4日 (火)

自分をしるためには、過去の中にある「規則性」をみつけること。

この世という場所は、自分を含めた大勢が同時に学びをしている場所なので、すべてが自分のペースで進むことはなく、相手に譲らなければならないこともありますし、複数の都合を調整しなければならないこともありますし、思い通りにいかない場面の連続です。

すべてが思い通りにいくことはないですが、しかし、何もかもが思い通りにいかないわけでもありません。

与えられているもの」や、「努力で培ったもの」をいかして、人生を充実させていくための工夫はできますので、そういうチャレンジの姿勢はとても大切なことだと思います。

自分をいかすためには、自分をしることが大切です。与えられているものというのは、生まれ持って備えてきたものや、生まれるときに自分のたましいが選んだ環境などです。努力で培ったものというのは、この人生の経験から学んだことのすべてです。

それらを「知る」には、過去を振り返ることですね。過去のできごとの中に、ある一定の規則性として、自分らしさがあらわれているはずです。

自分をしるほどに、それを意図していかすことができますから、創造的な生き方ができるようになります。

ただなんとなく、わかったつもりになっている自分像よりも一歩進んで、「より深く自分を理解していく」取り組みは、どなたにもお勧めしたいですね。特に、スピリチュアルに関心が深い方であれば、「与えられている=備えている性質」という部分の理解がスムーズですので(^-^)、その後の行動への結びつけもまたスムーズに進むことが多いようです。

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2016年10月 3日 (月)

なんとなく、「重たい」ものを感じるときには。

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オーラというものが「ある」と知ると、そういう前提でイメージできますから、いろんなことをエネルギーという繋がりをからめて理解することができますよね。こういう感覚をもっていると、わかることもふえますし、できることも広がります。わかると試したくもなると思いますし(^_^)。


|エネルギーが「重い」「スッキリしない」と感じるときには。

なんとなく自分をとりまくエネルギーがすっきりしないような、重たいものを感じるときには、オーラという自分を反映したエネルギーもまた、おそらくはそういう状態になっていると思います。

身体そのものと、オーラは繋がっていますから、そういうときには身体に働きかける方法もよいし、オーラに働きかける方法もよいものです。

食事、運動、睡眠、呼吸などのような、身体の状態を整えることを意識するのもとてもよい方法です。(^_^)。

または、オーラというエネルギーに働きかけるのもよいものです。それは、「自然の作用」がとても効果がありますので、自然とふれることが効果的ですね。土や植物にふれるとか、外にでて風に当たるとか、部屋の換気をよくして風をとおすとか、水にふれる(手を洗う、入浴する)など、いろんな方法を楽しみながら工夫していくといいと思います。

夏の暑い時期は、自然にふれるといっても一苦労ですが(^_^;)、秋になって爽やかですから、外で自然にふれる機会ももちやすくなりましたよね。

さらには、他人と関わることも効果的です。人との関わりはオーラ同士の関わりであり、自分と違うエネルギーのやりとりは、とても大きな活気を与えてくれるものとなります(^_^)。

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