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2013年6月の12件の記事

2013年6月28日 (金)

成長に伴うもの。

大人になる、ということは、知識が増えていって、経験も増えていって・・・、それらの増えたものから分かることや理解できることを踏まえて、いろんなことを受けとめ解釈していくことが「できる」ことでもあり、「そうするしか、なくなる」ことでもあると、私は思います。

いろんな知識が付いて、深いこと分かるようになると、中には、「これは、知らないほうが楽だったかも・・・」と、思わされるようなことも出てきたりしますよね;。

でも、今更それを知らないことにはできませんし、知る以前にも戻れないわけで、知った上での解釈や行動が求められるという責任も増えていきます。

他人に対して、「私は、それを知らないの」と、偽ることはできるし、あるいはそうして知らないふりをするほうが丸く収まるケースも中にはあると思います。 しかし、自分に対して自分を偽ることは出来ません。

私の経験で言うと、私は骨折をして救急車で運ばれるという経験をして以降、「救急車の音」を聞くと、苦しくなります。それは、自分のことを思い出すとかではなくて、今その救急車に乗っている人の気持ちを、過剰なまでに考えてしまいます。

「どうか、その人に最善のことが起こりますように」、「どうか(緊急の事態であれは)間に合いますように・・・」と、祈らずにはいられません。

私が住んでいるところは、徒歩でいける距離に医大があり、大きな病院が集まっているので(私もそのうちのひとつに運ばれ、入院していました)、救急車の音は、もう生活音のひとつといっていいくらいに日常茶飯事です。

しかし、骨折以前は、それほど耳に入っていなかったのか、意識することも少なかったのに、今ではとても敏感にその音に気づいて意識が向いてしまいます。とくに夏の窓を開けている時期は落ち着きませんね・・・、どうしても聞こえてくるので。

私が祈ったからといって、直接その人に役立つ作用があるわけではないと頭では分かっていても、それでも祈らずにはいられません。心が、そのように自然に反応するからです。

この状態が、いいのか悪いのかは分からないし、そういうことに明確な答えというものはないと思います。私個人としてはかなり精神的に消耗することは確かですが、だからといって、もう、骨折前の「気にしていない自分」には戻れません。

もっと時間が経って、今の状態を「超えて」その先にいけるようになれば、あるいは、また気にならない時期もやってくるのかもしれません(それが、良いことなのかはわかりませんし、何とも言えませんが)。

けれど、どちらにしても、逆戻りはできなくて、いろんな経験を越えてきた積み重ねによって今の自分が存在していて、経験してきたなりの自分の解釈や理解や責任が、この時点での自分の「在り方」を決めている、そこは変えようのない事実で切り離すことはできません。

大人になるって、「そういうこと」だし、生きることも、きっと、そういうこと

いろんなことが身につくほど、分かるほど、楽になるだけではない、さまざまなことがついてまわるようになっていて、そのすべてが学び、なんですよね。

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2013年6月27日 (木)

「自分という実感が薄い人」の、自分探し。

自分を「実感」すること、つまり自分を「在る」と感じることが、とても苦手で難しく、その感覚がわからない方は、実は少なくないのです。

常に自分の内側が空白のような・・・、ぽっかりと何か満たされない空間があって、自分というものが実感としてつかみにくい、そんな、自我の感覚が弱いタイプの方がいいます。

このような人は、小さい頃は親や先生のいうことや、周囲の大人の言うことをそのままきいて、優等生になることも少なくないですが、大人になって主体性をもってやっていかなければならない場面になると、どうしていいのかわからなくなり、過剰なまでに「自分探し」をしてしまうことがあります。

今まで、周囲の大人が自然に満たしてくれていたから気にならなかった空白が、自分が大人になって庇護から外れたときに、強烈な空虚感として実感されてしまうのですね。

空白をなんとかしてうめなければ、自分の現状がとっても不安定な気がして、手当たりしだいに、あれこれ試したり集めたりという、極端な行動に結びついてしまうのです。

周囲の無関係な人からみると、「あの人は、自分探しにはまってから、急に人が変わったようだ」と思われてしまうのですが、ずっと以前から空白の部分はあったのだけれども、若い頃はそれを意識しないで過ごしてくることができたというだけで、それが表面化しただけ、というケースもあるのです。

自分探しにはまり込む人、というと、一般には、嫌なことから逃げているだとか、現実からズレているだとかの批判的な解釈をされてしまうことが少なくありませんが、そういう人ばかりではありません。

中には、「自分という存在の実感」が平均よりも薄くて、それをなんとかしなければという焦燥感に駆り立てられている人もいる、ということです。

しっかりとした自我の強さと安定をもっていて、「自分」という感覚にまったく疑いをもたずにいられる人からすれば、このようなケースは想像もつかないことでしょう。

けれど、上記のようなケースもあるので、過剰なまでの自分探しをしている人の行動も、一概には否定できないのです。

どちらにしても、外側に自分探しをしても答えはみつからないことは明白で、どちらにしてもそれは遠回りであり、内側は自分の成長によってのみ満たされるのですが、だからといって、外へと求める自分探しが、無意味ということにはなりません。

例えていえば、小さい子供が、絵描きになりたいから絵を頑張りたいと言ったとして、あきらかにプロになるのが無理だとしても、それを止めさせて別のことをさせるほうがいいとは限りませんよね。

そうした経験が別の方面で間接的に役立つこともあるでしょうし、全般的な感性や情緒の向上に繋がることもあるでしょうし、また、人から言われるのではなく自分で無理だと気付くことで学びになることもあるでしょう。

それと同じで、探して見つからないという経験をすることで気付くことがあり、そうして模索した経験が何らかの形で「自分」の実感に繋がることもあるかもしれず・・・、プロセスが役立つことってたくさんあると思います。

自分という感覚がしっかり根付いている人にとっては、自分という感覚が薄い人の空白がある感覚というのは、なかなか想像すらもできにくいものだと思いますが、自分と同じ考え方の人ばかりではないという理解も大切ではないかと思うのです。

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2013年6月24日 (月)

ひらめきを重視し過ぎて、ワンパターンに偏ることがある。

私達は、誰もが霊的な感性を持っていて、霊的な叡智を受け止めることができます。 その、受け止め方のひとつに、瞬間的にひらめく、という形でのインスピレーションがあります。

唐突なひらめきというのは、自分の外側の、より大きな意識から、そうなるべくしてもたらされた叡智、というふうに受けとめがちになるためか、(それが、違うとはいいませんが)、スピリチュアリズムに関心がある人の中には、この、唐突なひらめき系のインスピレーションを、必要以上に重要視して、それ以外を軽視する傾向が見受けられます。

しかし、ひらめく、というのは、インスピレーションの、一形態でしかありません。それだけが、叡智の受けとめ方ではありません。私たちに備わっている霊的な感性とは、一つの形態でしか受信ができないような、限定された狭いものではないからです。

平均よりも、感性が鋭いタイプの方は、「ひらめきを重視することで、実は、ワンパターンになっている」ことがあるので、注意が必要です。

矛盾しているようですが・・・、ひらめきが冴えている故に、逆に、感性が限定された使われ方になってしまうことがあるのです。

インスピレーションが冴えている人でも、どんな分野にもオールマイティーに冴えが発揮できるわけではなく、ひらめきが冴える対象とそうでない対象があります。つまり、得意分野と、そうでない分野があるのです。

得意分野には、「こうすれば、うまくできる」という、自分なりの成功法則のようなものがあると思います。コツや応用を、無意識に、自然に、スムーズにできる分野って、ありますよね。自分がうまくスムーズに出来ている、という意識すらしないくらいの、自然さで行えてしまいます。

ひらめきも、冴えが発揮できる得意分野ほどよく働きますので、「無意識、自然、スムーズ」に、どんどんひらめきがやってきまて、つまり、「自分にとって、無意識、自然、スムーズなひらめきという、パターン」が重ねられ、強固なものとなっていきます。

私達は、肉体という限定された物質をまとっていますので、感性の働き方も、その人の個性というフィルターを通して受けとめたものとなり、受け止め方には、その人の個性や解釈というバイアスがどうしてもかかってしまうことは否めません。

その状態で、自分にとって、無意識、自然、スムーズである、ひらめきとは、「決まったパターン」になりがちです。いろんな、豊富なアイデアを、ひらめきでキャッチしているように思えても、それは、「自分の得意パターンという、同じ形式」になっていることも多いのです。

それが、悪いということでは、ありません。ある意味、だからこその、その人の独自性がある、とも言えます。

私達が受けとめられる、霊的な叡智というのは、本来は幅広いものなのですが、まんべんなく受けとめられるものではなく、人により、受けとめやすい範囲、分野、形式があるわけで、ひらめき「だけ」に頼ると、自分の外側から広大なものを受けとめているつもりが、実は、とっても限定された範囲に自分を固定させてしまうこともある、という点を理解しておくことは大事だと思います。

では、そうならないように、せっかくのインスピレーションをより広く働かせるためにどうすればいいか、というと、ひらめきだけに頼らずに、広くさまざまな現実の経験や知識を、自分の引き出しの中に、貯めておくことなのです。

そうすると、経験や知識と、インスピレーションが、掛け算となり、広がりが出てくるからです。同じ要素は、足し算になり、少しずつしか数字は増えませんが、違う要素同士は、掛け合わされて、大きな数字になることができます。

本当の意味で、深い霊的な感性を持っている人は、誰にも教えられなくても、このことを理解しているので、知識や経験の積み重ねをおろそかにすることがありません。一見、手間が掛かって遠回りにみえても、これこそが一番の近道で、自分を成長させ、そして叡智を受けとめやすくする方法であることを、分かっているからです。

唐突なひらめき、というのは、ほんの小さな一部でしかないのです。「掛け合わせ」があってこそ、広がって活用されていく、叡智と成り得ます。

ひらめきを活用していくためには、それをうまく活用できる土台、素地が必要です。ひらめきという、インスピレーションは、とても素晴らしいものです。けれど、それ「だけ」では、自分では、さまざまな方面で受け止めが出来ているように思えても、実は決まったパターンになっているかもしれません。

私自身も、自分がとっても直感的であるという認識があるので、唐突にひらめいたアイデアは、少し寝かせておきます。そうせずに、ひらめきですぐに行動をすると、結果としてかなりの遠回りになってしまう;ことを、何度も何度も経験して、そして学んだからです。

基礎となるもの、掛け合わせの材料となるものが、自分の中に備わっていてこそ、ひらめきが効果的に活用されていくものです。知識や経験、思考や分析を軽視せずに、広く受けとめていくことが大切だと思います。

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2013年6月23日 (日)

思いも行動も、放ったものが返ってくる(カルマの法則)。

自分がこんなにもしてあげたのに、相手からはそのお返しがない、というときに、「自分が、損をしてしまった」と思い、「(それを返してくれない)相手から、損をさせられた」という思いに結びついてしまい、大きな不満が生まれることがあります。

この世という物質の社会では、損得勘定で物事を定義することは、ある程度はしょうがないことです。なぜなら、そのようなとらえ方が、(物質次元の理解においては)最も分かりやすい認識の仕方だからです。

けれども、あまりにその点だけに意識が向いてしまっても、物事をとらえていく感性に偏りがつくられます。 この世には、原因と結果の結びつきにより物事が展開する、「カルマの法則」といわれる仕組みがあります。

自分がしたことは、良くも悪くも自分に返ってくる、自分の蒔いた種(原因をつくったこと)が、自分の行く道に実る(結果がつくられる)ようになっていて、この仕組みがあるからこそ、私たちは、あらゆる出来事を通して自分を省みることができ、気付かされて成長することができるのです。

相手にいろいろして上げたのに、相手からのお返しがないときの、受け止め方、考え方を以下のように変えてみてはどうでしょう。

自分がしたことは、自分に返ってくるのですから、してあげた本人から返ってこなくても、いつか別の人から、別の形で返ってくると思えば、不満もそれほど大きくならないのではないでしょうか。

それに、「してあげる」という経験を、その人が「させてくれた」と考えることもできます。いつか自分が実りを得るための、種を蒔く機会を与えてもらった、と考えれば、割り切ることもできるはずです。

周囲に、「相手に、自分がしてあげたい」人ばかりがいて、自分のことは自分で出来るから助けは不要、ということになれば、相手のために何かをしてあげるという経験を積むこともできません。「してもらってばっかり」の人が、調子よくてずるいと思うかもしれないけれど、そういう人がまったくいなければ、自分が手を貸す役割を経験できない、ということも考えてみることが大事だと思います。

また、自分のしたことは、自分に返ってくるというのは、行動だけでなく、「思い」も同様です。動機として心に思ったことも、エネルギーとなって放たれ、いつか自分に返ってくるカルマの法則が作用します。

この世において、ある程度損得勘定で物事を計ることになる、とはいえ、目的がそれ「だけ」になってしまうのは、情緒に欠けているという点において、ちょっと極端に過ぎると思います。

自分が相手のためにしてあげたい、そうすることが必要だからする、という気持ちがゼロで、「自分がして上げれば、相手からお返しがあるからする」とか、「手助けすることで、相手に恩を売って、自分の思い通りにコントロールをしたい」という、自分の都合だけの動機では、その思いのエネルギーもまた自分に返ってくることになります。

その、してあげた「行動」そのものは、素晴らしいものだったとしても、「動機」となる思いも、同じようにエネルギーとして作用して、自分の都合で相手をコントロールしようとするような考え方を、正されるような学びが与えられてしまうことを、考えておくほうがいいでしょう。

そもそも、上記のような仕組みを抜きにして、それ以前に、自分が得をするからとか、相手に恩をうって思い通りにしたいという動機「だけ」で行動することは、人として品性がある行動の仕方といえるか、という点を考えることも大事だと思います。

人としての「在り方」を体現していくことも、品性の乗ったエネルギーを放っていくことであり、それもまた、自分に返ってくるようになっていて、そうして私たちは学びながら、この世を生きています。

そう考えていけば、私がしてあげたのに、相手がしてくれないという事実って、なんだかとても小さいことのように思えてきませんか。

もっと大事なことがあって、もっと深いことがあって、それらは、自分が求めればすぐ手の届くところにある学びだと理解していけば、ひとつひとつの出来事に対する、相手への不満やこだわりから抜け出していけるのではないでしょうか。

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2013年6月21日 (金)

この時期の暑さを、事前に「分かっていた」話。

霊的な感覚により、何かの情報をキャッチすることができる、というと、多くの人は、その様子が透視的に見えるとか、霊がそのことを告げてくる声が聞こえるとか、そういうケースをイメージするのではないでしょうか。

けれど、それらは、霊的な作用の、ごくごく狭い範囲の一部にすぎず、他の伝わり方もたくさんあります。

様子が透視されたのでもなく、霊のお告げが聞こえたのでもない、まったく違う方法でキャッチすることがある、という、一例を、私の最近の経験から書いていみたいと思います。

先日は、関東が20度前半の気温だというのに、北海道の一部では、30度を超えたりして、こちらもかなりの暑さになっています。といっても、こちらは梅雨がなくて湿度が低いため、体感温度は、本州とはまったく違うとは思いますが。

私は、今年の札幌が猛暑になることを、事前に、把握していました。

しかし、それは、猛暑になることが視覚的に「見えて」いたわけでもないし、霊界から、今年は暑くなるとよと、「告げられた」のでも、ありません。

では、どうやって、私はそのことを把握したのかそのことを書いてみます。

今年の札幌は、4月~5月はものすごく寒かったです。例年、5/1くらいに桜が咲きますが、今年のその時期はまだ気配すらなく、連休をすぎても同じ、結局、桜はいつ咲いたのか、よくわからないままシーズンが終わっていきました。

「今年は、桜はもう咲いたのでしょうかねぇ?」、「さあ、どうなんでしょうね」という会話が、あちらこちらでかわされました。例年の開花時期になっても咲かない、というニュースはたくさん流れたのですが、咲いたことはそれほどニュースにならなかったのかもしれません。

本当に寒くて、夏のイメージが出来ないくらい、まったく気温があがらない春でした。

道内各地で、イベント会場の花が咲かなくて困っている、今年は大雪で雪解けも遅かったので、土が乾かずに農作業のスタートが遅れて困っている、そんな話題が多かったです。

外に出れば風が冷たく、「とても5月の気温には思えないね」と、誰もが思っていた時期に、私は、今年の札幌の暑い夏になることを、ある方法でキャッチしていました。

5月の下旬に、「さっぽろライラック祭り」という行事があります。・・・が、書く前からおわかりのとおり(笑)、今年は、祭りの時期にライラックが咲いていないという状況になりました。

そんなある日、私は、いつものようにジムにいき、更衣室で着替えをしていたときに、周囲の人の会話からこんなひと言が聞こえてきました。

「今年の夏は、暑くなるかもしれない」、と。

えっ、この寒い時期になぜその話題?と、不思議に思うくらい、その時点での気温からは、想像がつかないことでした。

その方の話によると、なんでも過去の統計で、ライラック祭りの時期にライラックが咲いていなかったことが、過去に4回あって、今年で5回目だそうです。

そして、過去の4回がすべて猛暑だったそうで、統計からいくと今年も猛暑になるのでは?とか、そんなことをテレビだか新聞だかで見たとのことでした。

統計というのは、過去がそうだったということであって、未来もそうなるとは限らない、あくまで「一定の傾向が見て取れる」というものですよね。なので、過去の4回がそうだといっても、5回目の今年もなるとは、実際には結果が出てみるまでわからないわけです。

そして、そんな話が現実になるとはとても思えないような、寒い5月の時点の話です。

しかし、私は、その話を聞きながら、「それは、事実となって、今年は暑くなるだろう」というのが、「分かった」のです。ある意味、直感的にというか、「なる」ということが分かりました。

以降も寒さは続いたのですが、6月の半ばになると、まるで7月のような気候になって、「やっぱりね」と思いました。あのとき、更衣室での女性達が話していたことは、そのとおりになった、と。

他人の会話は会話でしかなく、統計は統計でしかなく、それらは日常のどこにでもそしていくらでも普通に存在する出来事です。が、そのときは、「それが、当たる」ことが、「分かった」のです。

つまり、私は、霊的に見えたのでもなく、霊的に聞こえたのでもなく、直感的に把握をしたのですが、その直感的な把握も、私の心にダイレクトに届いたのではなくて、周囲の人達の会話を通して、それが事実になるだろうと思った、という形で受けとめたものでした。

それのどこに霊的な作用が関連しているかというと、タイミングよくその話を耳にすることになったという点と、それを聞いたときに、この話のとおりになるだろうと分かった、という点です。

私が直接、透視をしたり霊のお告げを聞いたりしたわけではありませんが、私にそれを受けとめる霊感がなければ、そのままやり過ごして特には気に留めなかったと思いますので、ダイレクトなキャッチではないけれども、広い意味でいえば、これらも霊的な感性を働かせて分かったことになると思います。

きっと、皆さんも、これらと似たような形で、いろんなヒントなりメッセージなりを受け取ることはあると思うし、出来ると思います。

このようなケースもあり得る、という知識がつくと、それ以降、気付きやすくなっていきますので、興味がある方はちょっと意識してみるといいかしれません。

私にとって、このような出来事はまったく珍しくなく、たくさん起こるので、そのほとんどが特別な印象には残らずに過ぎ去っていきます。なのに、この件はなぜか印象深く覚えていて、ひと月近く経った今でも覚えていました。

それは、きっと、このことをブログに書くために、経験させられた出来事だったという側面もあるのではないかと思っています。ということは、書くことで誰かの役にたつこともあるのだろうと、2時間近く掛けて、長文で書いてみました(^^;)。 ・・・長かったです;。

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2013年6月20日 (木)

人間関係とは、完全ではない、個性の違う人同士の関係。

自分と他人は、違う個性をもった違うたましいをもつ存在なので、人と人が関われば、そこには、少なからず相違や対立等が発生するものであり、つまりは、人と関わることには、ストレスが生じることになります。

そのため、人間関係を、煩わしいこと、遠ざけたいこと、できるなら避けたいこと、というように、否定的にとらえてしまうことがあると思います。

一口に人間関係といっても、実際には幅広いわけで、中には、居心地のよい関係、楽しい関係もあり、人間関係のすべてが嫌だと思っているわけでもないのでしょうが、しかし、嫌なことのほうが、嬉しいことよりも、印象に残りやすいために、人間関係を全否定したくなるような、そんな心境になってしまうのかもしれません。

私たちがこの世に生まれてくるのは、広い意味でいえば「学びのため」です。

その学びには、他人との関わりは避けて通れません。人は、ひとりでいきていくことはできないからです。

たとえば、喜怒哀楽の経験も、ひとりだけでは浅いものにしかなりません。それらの感情を発生させるのは自分自身だから、他人と関わらなくてもできるじゃないか、と思うかもしれませんが、感情をわき起こすためには、何らかの刺激が必要です。

誰かが、自分を喜ばせるようなことをしてくれた、とか、何かの出来事が自分を怒らせた、とか、外の刺激があってこそ、感情が動いていくわけです。

他人という、自分とは違う個性との関わりがあるからこそ、私たちは、この世という場所で、たくさんの広くて深い、経験を積むことができるのです。

この世という場所は、本質が霊(的存在)である私たちが、人として経験を重ねる場所です。人は、ひとりでは、生きられないようになっていて、それぞれが助け合ったり、補い合ったりしながら学ぶために、それぞれが「完全ではない形で」個性を備えて、この世に生まれてきて、与え、受け取るという学びをしています。

嫌だと思う相手を、好きになる必要はありません。そこまでしなくても、感情的には嫌いなままでも、相手の存在意義や個性を認めることはできますよね。認めるとまではいかなくても、少なくとも否定はしない、くらいには、時間を掛けていけば思うこともできるでしょう。

それで十分なのです。そうして、自分以外の人間関係を、少なくとも否定はせず、ときに、必要な場面では助け合い、お互いに与え、受け取るという関わりをもち、人の多様性を経験から学んでいくことが、この世に生きる意味のひとつです。

少なくとも否定はしない、表面だけでも、そのようにとらえていくように、少しずつでも心掛けると、だんだんと、時間とともに、他人という存在を、肯定的にとらえられるようになっていきます。

この世には、時間という、偉大な仕組みがあります。時間が、その学びを後押ししてくれます。

そもそも、完全ではない人同士の関係なのだから、そして個性が違うのだから、多少は、「いろいろあるのが、当然」なのです。

そのくらいの気持ちでゆとりをもって、そして、成長のために、自分とは違う個性をもった人から学びを得ていく、という意欲をもって、臨んでいきましょう。

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2013年6月17日 (月)

「思い込みが強すぎる人」との、付き合い方。

思い込みの強い人は、「考え分けること」が、苦手です。

たとえば、ただ見ることと、(違いや差などを)見分けることが同じではないように、「考える」ことと、「考え分ける」ことも、同じではありません。

その、考え分けが、苦手な人が、思い込みが強くなってしまいます

一般には、たとえば会話の中で「なるほど、そういうこともあるかもね」とか、「もし、○○だったらどうする?」、「そうなる可能性は、あるよね」、「そのような受けとめ方も、できるよね」などのような、「仮定の話」をしているとします。

そのときに、「・・・かもしれない、という仮定の話」と、「仮定ではない、事実としての認識」を、分けて受けとめるのが一般的ですが、思い込みが強すぎるタイプの人は、その、認識の区分の作業が苦手なのです。

だから、話しているうちに、または、考えているうちに、それが、(事実を確認したわけではない)自分の予想や推測であることや、仮定の話であることを、割り引いて考えられなくなって、区分がされなくなっていきます。

なので、他の人からすると、なぜ、「私は、そう思ったから」、という自分の考えだけを根拠に、そこまで強く思い込めるの?と、驚いてしまうような、認識の偏りが作られてしまうのです。

このようなタイプの人と、共同作業をしていく際には、「その人の言うことの、どこまでが客観的事実で、どこからが独自の解釈(思い込み)なのかが、その人の話からでは分からないので困る(その人は、同一としてとらえている)」という点と、「こちらが言いたいことや、伝えたいことも、その人独自の思い込みでとらえてしまうことがあるので、意図が伝わらなくて困る」という、おおよそ二つの点で、難しさが出てくると思います。

そのようなタイプの人は、自分の思考の中で、いろんなことが一緒になってしまって、多様性という感覚をもって違いをとらえるのが苦手なので、対処法としては、「多様性を、理解してもらうという観点からのアプローチ」を試みるとよいでしょう。

その人の思い込みが入っている言動で、意思の疎通ができなかったとか、思い込みでトラブルになった、という場面になったときに、

「あなたは、そういう考えなのね。でも、他の人は、同じようには受けとめないこともあるものだよ」とか、「あなたがその考えなのは分かるけれども、誰もがあなたと同じ考え方ではないから、あなたの考えだけを当てはめると、他の人は混乱することもあるよ」というようなことを、その都度、説明しながら伝えていくことです。

そうして、少しずつでも、自分と他人の考え方は、違うものである、とか、同じとは限らない、ということに、まずは気付いてもらうこと、そのための機会を増やすことが効果的です。

自分の思ったことと、客観的事実を、分けて考えられるのは、そのうちのどちらに出来事をカテゴライズするかが、スムーズになされる、ということです。それが出来にくい人というのは、二つが分かれていなくて、カテゴリーが一つしかないので、自動的に、その(思ったことと、事実の)区分けがない、一つにカテゴライズ「されてしまう」ということです。

それを、二つ(か、それ以上)に、認識を広げていくことが必要なのですね、多様性を理解するというのは、そういうことです。

カテゴリーが一つしかない人は、自分と他人の区分けもとても曖昧になりがちで・・・、自分と他人は別の受け止め方をする、別の個性をもった存在である、という認識も曖昧になるので、相手も自分と同じように思っているはず、という前提での言動によって、なんらかのトラブルや停滞を引き起こすことが少なくないはずです。

そのときに、まずは、比較的分かりやすい、「自分と他人は、別の存在であるので、同じ考えにはならない」ことから認識を重ね、「考え分け」についての、理解の糸口を見つけていくのが、有効な方法のひとつだと思います。

ただし、これらは、「そうする必要がある場合」に限っての取り組み方法のひとつであり、誰にでもそうすべき、ということではありません。

特別に親しいとか、家族だとか、仕事仲間だとかの関係があって、共同作業的な関わりをもつ機会があるため、それを改善していく必要が、相手だけでなく、自分にもある場合の、考え方や、とり組み方の一例です。  

そんなに関係も深くもなく、その人に干渉する大きな理由があるわけでもないのに、「自分が、相手を正さねば」などと正義感?を出して、いらないことに首をつっこんでしまうと、わざわざ状況や関係をこじらせてしまうこともあると思います;。

どんなことにも言えますが、「自分は、その問題の当事者なのか」という点は、考える必要があると思います。

たとえ、善意であっても、その人のその時点での価値観を、ある意味において否定するようなことにも、形式上は、なってしまうわけで、何でも言えばいいというものではないので、そこはきちんと、自分の立場というものも、理解しながら、というのが大事ですね。

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2013年6月16日 (日)

自分を満たしてくれるのは、「自分」であり、「他人」である。

自分を満たすのは、「自分の力」でもあり、「他人の力」でもあります。

その比率がどのくらいになっているのがよいのか、(例えば、6:4がいいのか、5:5がいいのか、など)は、人により違いがありますが、どちらにしても、両方の力があってこそ、満たされる感覚を味わえます。

自分だけの力で、すべてを満たすことも、他人だけの力で、すべてを満たすこともできません。

自分だけの力で、自分を満たそうとすると、いわゆる「完全主義・完璧主義」になってしまいます。過去の記事でも何度も書いてきたことですが、多くの場合、完全主義的性質の裏側には、「自分以外の他人を信用できない」という思いが隠れています。

つまり、自分だけで自分を満たそうとすればするほど、他人との交流が十分でなくなり、何でも自分でなんとかしようとして頑張りすぎになり、そして、自分で何でもやらなければいけないので、常に張り詰めて「向上」をしなければいけなくなり、気持ちが休まらなくなってしまいます。

他人の力だけで、すべてを満たそうとすると、他人に期待しすぎの「依存」になってしまいます。他人に自分を満たしてもらいたい、と、自分が「してもらう」ことを求めすぎて、一方的になります。

または、他人が自分を満たしてくれるために、自分の思い通りになるように、と、相手に対して「支配的」になることもあります。

「自分の力」も、「他人の力」も、どちらもそれぞれ大切だけれども、どちらか一つだけに偏ると、バランスがとれません。適切な比率はそれぞれ違うでしょうが、両方で満たすことを心掛けることが大事です。

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2013年6月13日 (木)

自分の才能や長所を分析するのが苦手な人へ、とり組み方の一例。

誰の中にも、まだ十分に成長してない、種のままになっている、たくさんの可能性があります。使われていない、才能や長所がたくさんあります。自分の中にあるそれを、見つけるための、工夫の仕方について書いてみます。

そのためにどうすればいいか、おそらくほとんどの人が、自分を見つめて分析をしてみることが有効だ、と、思い浮かべるのではないでしょうか。そのとおり、自分を見つめ、どんな才能や可能性があるかを把握していくことが大事です。

けれど、それが簡単に出来るなら、悩みも迷いもしないわけで、実際に取り組んでみても、うまくいかない、分からない、という人が多いのではないかと思います。

自分で自分の才能や長所が見えにくいのは、距離がないから、です。見る人と、見られる人が同一ですから、客観視をするための距離がなく、自分の顔は自分の目で見えないのと同じです。

それを解消するための練習として、距離があって見えやすい、他人を見ていきます。

他人を観察して、その人の言動、振る舞い、活躍ぶり、好きなこと、得意なことなどについて、「他人を分析」して、「他人の才能や長所、可能性の種について、自分なりに探す」ことに取り組みます。

分析した答えが、正しいかどうかは別です。そこは、とりあえずは重要視しません。とにかく、他人を分析をして答えを出すことが、自分で自分を見るより簡単である、というのがポイントです。

そうして、「才能や長所について、観察して、探しだし、答えを見つける」という行動を積み重ねることで、自分の中に、そのような見方のパターンを作っていくのです。

その取り組みをいくつかやってみてから、「同じような視点の向け方で」自分に対する分析をしてみましょう。

他人を分析して、他人のことに答えを出す、という練習をしていき、その経験を、自分に当てはめていくという工程を加えていくだけで、とっても分析がしやすくなっていきます。

それで上手くいく場合は、「自分の才能や長所がわからない」という状況になったのは、その考え方に慣れていなかっただけ、コツがつかめていなかっただけ、であることがわかります。

他人のことを題材にしてもなお、他人の才能や長所を見つけることができない、自分も他人も同じように難しい、という場合は、また別の原因があり、おそらく、才能、とか、長所、という、定義をつけていく力が発達していないのかもしれないですね。

その場合は、また別の取り組みが必要になると思いますが、どちらにしても、まずは、練習をしてみると、そこから一歩進んでいくことは出来ると思いますので、自分の才能を見つける力をつけるために、他人の才能を見つけるための観察を、行ってみてください。

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2013年6月 6日 (木)

平均よりも、少し遅れて「自己表現」や「成長」の時期を迎えた人の注意点。

何らかの理由で、大人として、ある年齢で、身につけているべきとされるレベルの、知識や社会経験、世の中の仕組みや人に対する理解力などが、十分に身についていない人がいるものです。

たとえば、親が支配的で子供の成長をスポイルしてしまったとか、大事に育てて箱入りにしてしまって、世の中のことを知らないまま大人になってしまったとか、または、たましいの経験値が浅く(生まれ変わりが少ない、等)、ごく一般的な人生経験を積んでも、そこから学びを得るまでに人より時間が掛かってしまうケースもあると思います。

そして、大人になってやっと、さまざまな経験からの楽しみや学びを得て、いろんなことが分かっていき、成長していく段階を迎える場合があります。

それは、とっても大事なことだし、その人の成長のタイミングがそのときだった、ということだし、何にしても、成長するのは素晴らしいことです。

本人にとっては、今までとは違った景色が広がったような、自分を表現することや、成長や向上が楽しくなるとか、世界を広げることが喜びになったりと、意欲的で積極性が見られたりします。

成長することも楽しむこともとても大事なのだけれども、ひとつ、考えてほしいことがあります。

いろんな事情があって、大人になってやっと、世界が広がっていくという、開花の時期を迎えたというのは、その人にとってみれば、タイミングが満ちたという必然であって、それは悪いことではないのですが、しかし、自分はよくても、周囲の人達が、それをそのまま受けとめてくれるとは限らず、不満に思う家族やパートナーもいるかもしれない、という点です。

たましいの成長度は、年齢とは比例しない、とはいえ、やはり、この世という場所では、大人になれば大人の扱いをされ、大人の振るまいや分別を期待され、それが当然だと受けとめられてしまいます。

大人になって、大人としての責任や社会性を備えていることが「普通」とおもっている家族にしてみたら、あちこち、自分のためだけに出歩いて、楽しいこと満たされることをして、それを当然と思い、家族やパートナーが、満たしてほしいことには時間をとらず、そんな状態を正当化されたら、それは相手からみたら、「やってられない」、「勝手だ」と、思われてしまうこともあります。

そんなつもりはなくても、相手には相手の、相手の立場からみた解釈や感情があります。

一緒になって喜んでくれて、よかったね、といってくれて、好きなようにしていいよ、成長することは大事だよ、と、理解を示してくれる人だったら最高だけれども、自分にとって、大事で、必要で、理由がある行動であっても、相手がどう受けとめるかは、相手が決めること、ですよね。

もしも、その必要性を分かってくれて、理解を示してくれたら、「感謝」であって、分かってくれるのが「当然」ではないので、相手には相手の言い分があることを、受けとめていかなければいけないと思います。

分かってもらいたいならば、分かってもらうために、言葉を尽くして説明をする必要があるでしょう。そういう労力は掛けなければいけないし、もしも、説明をしても分かってもらえないならば、お互いの信頼関係が構築されていなかった、という証拠でもあり、その状態に至った半分は、自分の責任でもあります。

やっと、いろんなことに気付いて、外に意識が広がったり、自分を高めたいと思ったり、経験が楽しいと思ったり、そのプロセスの大切さも価値も、そうなったら、いろいろやりたくなる気持ちも、私は、個人的には、理解はできます。

けれども、「年齢という、この世のルール」で物事を計っている相手に、それが通じない、理解されない、ということも、あり得るので、そこは、年齢に見合った「大人の振るまい」を求められて、行動スタイルを改めるように要求されてしまうことも、あるいはあるのかもしれないです。

この世というのは、忍耐も学びで、何でも自分の思いどおりにいくわけではない、誰もが少なからず何らかの形で我慢したり、合わせたりして過ごしているものです。

知識や社会経験が十分に積まれていないと、そういうことを考えて自分に当てはめていくことも難しくなるので、なかなか、そのような切り換えができにくく、自分に反対するパートナーや家族に、「自分の思いを分かってもらいたい」、「どのようにすれば説得できるか」、「なぜ、家族は私を理解しないのか」、というような、ちょっと自己よりの考え方になりがちです。

自分の成長に向かっていきたい、という熱意や、その時期を迎えてやる気にあふれている、それは素晴らしいことだけれども、しかし、周囲の人達からすれば、「それは、あなたの都合であって、私がその割りを食うのはおかしいでしょう」と、思われてしまうことも、中にはあるかもしれない、ということを理解した上で、折り合いをつけていくことも大事だと思います。

厳しい内容かもしれませんが、そういうことを理解して行くことも学びです。

誰もが、少なからず、そのような思い通りにならない経験を重ねて、大人になっています。

相手の身になって考えてみる、ということも、自分の成長につながりますので、心掛けてみてください。今よりさらに大人になったときに、そうすることに大切さが、きっとわかると思います。

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2013年6月 5日 (水)

「目」がハッキリと映ったお写真の提出をお願いします。

リーディングの際の、ご依頼者さまのお写真は、「目が、はっきりと映ったもの」を送っていただきますようお願い申し上げます。

ご本人の周囲に映っている、オーラを拝見して把握する部分ももちろんあるのですが、ご本人のことについて、把握するための、霊視的なピント合わせの鍵となるのは「目」なのです。

目の部分を拝見していると、(あくまで、私の場合はそうだ、ということであり、全員がそうして霊視しているとは限りません)、だんだんと、霊的な焦点が合っていく感じで、伝わってきます。

最初は、表面的な感情だとかの、移り変わりのある一定していない部分が伝わってきて、そして、さらにその奥というか内側というのか、もっと深いところに焦点があっていくと、その人の本質に近い要素が、伝わってきます。

「目は、心の窓」とか、「目は、心の鏡」などのことわざがありますよね。目を見れば、その人の心が分かる、とか、目を通して、その人の内面が現れるとかの意味ですが、それは確かにそうだと思います。

必ずしも、目が映っていないとリーディングが出来ない、というわけでもないのだけれども、目を通して焦点を合わせていくほうが、私としては分かりやすいので、お申込みの際には、「目が、わかりやすく映った写真」で、お願いいたします。

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2013年6月 4日 (火)

望ましい人間関係が、どんどん広がっていく時期。

新たに出会う人が、とても良い人だったり、楽しくて刺激を与えてくれる人だったり、または、「このようなタイプの人と出会いたい」「このような分野に関わっている人と知り合いたい」と以前から思っていたような出会いが実際に作られていくなど、自分にとって望ましい人間関係が、勢いよく広がっていく時期があります。

そのような状況になるときは、「自分が成長したとき」であり、そして「霊界からの強いバックアップがあるとき」です。両方の要素が重なったときに、人間関係が(今までと比較して)大きく広がりを見せていきます。

なぜなら、この世におけるほとんど学び、「必要な経験」、「挑む課題」というものは、人を通して与えられ、学んでいくものなので、自分の器が大きくなったとき、そして、そしてそれに見合った学びを与えていこう、という状況が作られたときには、まずは、「人」に関することにその反映があることが多いのです。

霊界が、私たちを見守っているのは、特定の理由がある時だけでなく、常にそうであって、繋がりが切れることはないのですが、そのような中でも、とりわけ、バックアップが大きくなることがあります。

広い意味で、何らかの、たましいの成長が見られたときに、上記のような現象はつくられていきますが、特に、「今までよりも、深く、そして前向きに、自分の人生について考え出したとき」や、「自分という存在について、探求をし出したとき」や、「(自分以外の)外に向かいすぎていた意識を、自分の中心も向けていくようになり、あるべき状態を取り戻したとき」などに、そのような現象が起こることは多いです。

成長に伴って、必要な学びの要素は、与えられていきます。学びといっても、苦難にみちた忍耐を伴うことばかりではないので、楽しみも、喜びも含めた、たくさんの感動に繋がるものも含まれます。

それらのほとんどは、「人」を介して与えられるものなので、それを受けとめるための必要な器として、人間関係の広がりが作られる、とも言えますし、受けとめる器となる人間関係が容易されているから、それに比例して、たくさんのものが与えられる、とも言えますし、それは、両方が当てはまるのでしょう。

自分の成長というのは、なかなか自覚しにくいものです。自分が自分を見る、というのは、距離がないので、他人を見るようには意識がしにくいもの、ですよね。

しかし、それらは、自分の周囲の様子に反映していくので、周囲をみれば自分がわかります。広がりを見せ、豊かになっていく人間関係から、自分の成長がわかるのです。

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