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2013年6月の5件の記事

2013年6月24日 (月)

ひらめきを重視し過ぎて、ワンパターンに偏ることがある。

私達は、誰もが霊的な感性を持っていて、霊的な叡智を受け止めることができます。 その、受け止め方のひとつに、瞬間的にひらめく、という形でのインスピレーションがあります。

唐突なひらめきというのは、自分の外側の、より大きな意識から、そうなるべくしてもたらされた叡智、というふうに受けとめがちになるためか、(それが、違うとはいいませんが)、スピリチュアリズムに関心がある人の中には、この、唐突なひらめき系のインスピレーションを、必要以上に重要視して、それ以外を軽視する傾向が見受けられます。

しかし、ひらめく、というのは、インスピレーションの、一形態でしかありません。それだけが、叡智の受けとめ方ではありません。私たちに備わっている霊的な感性とは、一つの形態でしか受信ができないような、限定された狭いものではないからです。

平均よりも、感性が鋭いタイプの方は、「ひらめきを重視することで、実は、ワンパターンになっている」ことがあるので、注意が必要です。

矛盾しているようですが・・・、ひらめきが冴えている故に、逆に、感性が限定された使われ方になってしまうことがあるのです。

インスピレーションが冴えている人でも、どんな分野にもオールマイティーに冴えが発揮できるわけではなく、ひらめきが冴える対象とそうでない対象があります。つまり、得意分野と、そうでない分野があるのです。

得意分野には、「こうすれば、うまくできる」という、自分なりの成功法則のようなものがあると思います。コツや応用を、無意識に、自然に、スムーズにできる分野って、ありますよね。自分がうまくスムーズに出来ている、という意識すらしないくらいの、自然さで行えてしまいます。

ひらめきも、冴えが発揮できる得意分野ほどよく働きますので、「無意識、自然、スムーズ」に、どんどんひらめきがやってきまて、つまり、「自分にとって、無意識、自然、スムーズなひらめきという、パターン」が重ねられ、強固なものとなっていきます。

私達は、肉体という限定された物質をまとっていますので、感性の働き方も、その人の個性というフィルターを通して受けとめたものとなり、受け止め方には、その人の個性や解釈というバイアスがどうしてもかかってしまうことは否めません。

その状態で、自分にとって、無意識、自然、スムーズである、ひらめきとは、「決まったパターン」になりがちです。いろんな、豊富なアイデアを、ひらめきでキャッチしているように思えても、それは、「自分の得意パターンという、同じ形式」になっていることも多いのです。

それが、悪いということでは、ありません。ある意味、だからこその、その人の独自性がある、とも言えます。

私達が受けとめられる、霊的な叡智というのは、本来は幅広いものなのですが、まんべんなく受けとめられるものではなく、人により、受けとめやすい範囲、分野、形式があるわけで、ひらめき「だけ」に頼ると、自分の外側から広大なものを受けとめているつもりが、実は、とっても限定された範囲に自分を固定させてしまうこともある、という点を理解しておくことは大事だと思います。

では、そうならないように、せっかくのインスピレーションをより広く働かせるためにどうすればいいか、というと、ひらめきだけに頼らずに、広くさまざまな現実の経験や知識を、自分の引き出しの中に、貯めておくことなのです。

そうすると、経験や知識と、インスピレーションが、掛け算となり、広がりが出てくるからです。同じ要素は、足し算になり、少しずつしか数字は増えませんが、違う要素同士は、掛け合わされて、大きな数字になることができます。

本当の意味で、深い霊的な感性を持っている人は、誰にも教えられなくても、このことを理解しているので、知識や経験の積み重ねをおろそかにすることがありません。一見、手間が掛かって遠回りにみえても、これこそが一番の近道で、自分を成長させ、そして叡智を受けとめやすくする方法であることを、分かっているからです。

唐突なひらめき、というのは、ほんの小さな一部でしかないのです。「掛け合わせ」があってこそ、広がって活用されていく、叡智と成り得ます。

ひらめきを活用していくためには、それをうまく活用できる土台、素地が必要です。ひらめきという、インスピレーションは、とても素晴らしいものです。けれど、それ「だけ」では、自分では、さまざまな方面で受け止めが出来ているように思えても、実は決まったパターンになっているかもしれません。

私自身も、自分がとっても直感的であるという認識があるので、唐突にひらめいたアイデアは、少し寝かせておきます。そうせずに、ひらめきですぐに行動をすると、結果としてかなりの遠回りになってしまう;ことを、何度も何度も経験して、そして学んだからです。

基礎となるもの、掛け合わせの材料となるものが、自分の中に備わっていてこそ、ひらめきが効果的に活用されていくものです。知識や経験、思考や分析を軽視せずに、広く受けとめていくことが大切だと思います。

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2013年6月23日 (日)

思いも行動も、放ったものが返ってくる(カルマの法則)。

自分がこんなにもしてあげたのに、相手からはそのお返しがない、というときに、「自分が、損をしてしまった」と思い、「(それを返してくれない)相手から、損をさせられた」という思いに結びついてしまい、大きな不満が生まれることがあります。

この世という物質の社会では、損得勘定で物事を定義することは、ある程度はしょうがないことです。なぜなら、そのようなとらえ方が、(物質次元の理解においては)最も分かりやすい認識の仕方だからです。

けれども、あまりにその点だけに意識が向いてしまっても、物事をとらえていく感性に偏りがつくられます。 この世には、原因と結果の結びつきにより物事が展開する、「カルマの法則」といわれる仕組みがあります。

自分がしたことは、良くも悪くも自分に返ってくる、自分の蒔いた種(原因をつくったこと)が、自分の行く道に実る(結果がつくられる)ようになっていて、この仕組みがあるからこそ、私たちは、あらゆる出来事を通して自分を省みることができ、気付かされて成長することができるのです。

相手にいろいろして上げたのに、相手からのお返しがないときの、受け止め方、考え方を以下のように変えてみてはどうでしょう。

自分がしたことは、自分に返ってくるのですから、してあげた本人から返ってこなくても、いつか別の人から、別の形で返ってくると思えば、不満もそれほど大きくならないのではないでしょうか。

それに、「してあげる」という経験を、その人が「させてくれた」と考えることもできます。いつか自分が実りを得るための、種を蒔く機会を与えてもらった、と考えれば、割り切ることもできるはずです。

周囲に、「相手に、自分がしてあげたい」人ばかりがいて、自分のことは自分で出来るから助けは不要、ということになれば、相手のために何かをしてあげるという経験を積むこともできません。「してもらってばっかり」の人が、調子よくてずるいと思うかもしれないけれど、そういう人がまったくいなければ、自分が手を貸す役割を経験できない、ということも考えてみることが大事だと思います。

また、自分のしたことは、自分に返ってくるというのは、行動だけでなく、「思い」も同様です。動機として心に思ったことも、エネルギーとなって放たれ、いつか自分に返ってくるカルマの法則が作用します。

この世において、ある程度損得勘定で物事を計ることになる、とはいえ、目的がそれ「だけ」になってしまうのは、情緒に欠けているという点において、ちょっと極端に過ぎると思います。

自分が相手のためにしてあげたい、そうすることが必要だからする、という気持ちがゼロで、「自分がして上げれば、相手からお返しがあるからする」とか、「手助けすることで、相手に恩を売って、自分の思い通りにコントロールをしたい」という、自分の都合だけの動機では、その思いのエネルギーもまた自分に返ってくることになります。

その、してあげた「行動」そのものは、素晴らしいものだったとしても、「動機」となる思いも、同じようにエネルギーとして作用して、自分の都合で相手をコントロールしようとするような考え方を、正されるような学びが与えられてしまうことを、考えておくほうがいいでしょう。

そもそも、上記のような仕組みを抜きにして、それ以前に、自分が得をするからとか、相手に恩をうって思い通りにしたいという動機「だけ」で行動することは、人として品性がある行動の仕方といえるか、という点を考えることも大事だと思います。

人としての「在り方」を体現していくことも、品性の乗ったエネルギーを放っていくことであり、それもまた、自分に返ってくるようになっていて、そうして私たちは学びながら、この世を生きています。

そう考えていけば、私がしてあげたのに、相手がしてくれないという事実って、なんだかとても小さいことのように思えてきませんか。

もっと大事なことがあって、もっと深いことがあって、それらは、自分が求めればすぐ手の届くところにある学びだと理解していけば、ひとつひとつの出来事に対する、相手への不満やこだわりから抜け出していけるのではないでしょうか。

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2013年6月20日 (木)

人間関係とは、完全ではない、個性の違う人同士の関係。

自分と他人は、違う個性をもった違うたましいをもつ存在なので、人と人が関われば、そこには、少なからず相違や対立等が発生するものであり、つまりは、人と関わることには、ストレスが生じることになります。

そのため、人間関係を、煩わしいこと、遠ざけたいこと、できるなら避けたいこと、というように、否定的にとらえてしまうことがあると思います。

一口に人間関係といっても、実際には幅広いわけで、中には、居心地のよい関係、楽しい関係もあり、人間関係のすべてが嫌だと思っているわけでもないのでしょうが、しかし、嫌なことのほうが、嬉しいことよりも、印象に残りやすいために、人間関係を全否定したくなるような、そんな心境になってしまうのかもしれません。

私たちがこの世に生まれてくるのは、広い意味でいえば「学びのため」です。

その学びには、他人との関わりは避けて通れません。人は、ひとりでいきていくことはできないからです。

たとえば、喜怒哀楽の経験も、ひとりだけでは浅いものにしかなりません。それらの感情を発生させるのは自分自身だから、他人と関わらなくてもできるじゃないか、と思うかもしれませんが、感情をわき起こすためには、何らかの刺激が必要です。

誰かが、自分を喜ばせるようなことをしてくれた、とか、何かの出来事が自分を怒らせた、とか、外の刺激があってこそ、感情が動いていくわけです。

他人という、自分とは違う個性との関わりがあるからこそ、私たちは、この世という場所で、たくさんの広くて深い、経験を積むことができるのです。

この世という場所は、本質が霊(的存在)である私たちが、人として経験を重ねる場所です。人は、ひとりでは、生きられないようになっていて、それぞれが助け合ったり、補い合ったりしながら学ぶために、それぞれが「完全ではない形で」個性を備えて、この世に生まれてきて、与え、受け取るという学びをしています。

嫌だと思う相手を、好きになる必要はありません。そこまでしなくても、感情的には嫌いなままでも、相手の存在意義や個性を認めることはできますよね。認めるとまではいかなくても、少なくとも否定はしない、くらいには、時間を掛けていけば思うこともできるでしょう。

それで十分なのです。そうして、自分以外の人間関係を、少なくとも否定はせず、ときに、必要な場面では助け合い、お互いに与え、受け取るという関わりをもち、人の多様性を経験から学んでいくことが、この世に生きる意味のひとつです。

少なくとも否定はしない、表面だけでも、そのようにとらえていくように、少しずつでも心掛けると、だんだんと、時間とともに、他人という存在を、肯定的にとらえられるようになっていきます。

この世には、時間という、偉大な仕組みがあります。時間が、その学びを後押ししてくれます。

そもそも、完全ではない人同士の関係なのだから、そして個性が違うのだから、多少は、「いろいろあるのが、当然」なのです。

そのくらいの気持ちでゆとりをもって、そして、成長のために、自分とは違う個性をもった人から学びを得ていく、という意欲をもって、臨んでいきましょう。

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2013年6月17日 (月)

「思い込みが強すぎる人」との、付き合い方。

思い込みの強い人は、「考え分けること」が、苦手です。

たとえば、ただ見ることと、(違いや差などを)見分けることが同じではないように、「考える」ことと、「考え分ける」ことも、同じではありません。

その、考え分けが、苦手な人が、思い込みが強くなってしまいます

一般には、たとえば会話の中で「なるほど、そういうこともあるかもね」とか、「もし、○○だったらどうする?」、「そうなる可能性は、あるよね」、「そのような受けとめ方も、できるよね」などのような、「仮定の話」をしているとします。

そのときに、「・・・かもしれない、という仮定の話」と、「仮定ではない、事実としての認識」を、分けて受けとめるのが一般的ですが、思い込みが強すぎるタイプの人は、その、認識の区分の作業が苦手なのです。

だから、話しているうちに、または、考えているうちに、それが、(事実を確認したわけではない)自分の予想や推測であることや、仮定の話であることを、割り引いて考えられなくなって、区分がされなくなっていきます。

なので、他の人からすると、なぜ、「私は、そう思ったから」、という自分の考えだけを根拠に、そこまで強く思い込めるの?と、驚いてしまうような、認識の偏りが作られてしまうのです。

このようなタイプの人と、共同作業をしていく際には、「その人の言うことの、どこまでが客観的事実で、どこからが独自の解釈(思い込み)なのかが、その人の話からでは分からないので困る(その人は、同一としてとらえている)」という点と、「こちらが言いたいことや、伝えたいことも、その人独自の思い込みでとらえてしまうことがあるので、意図が伝わらなくて困る」という、おおよそ二つの点で、難しさが出てくると思います。

そのようなタイプの人は、自分の思考の中で、いろんなことが一緒になってしまって、多様性という感覚をもって違いをとらえるのが苦手なので、対処法としては、「多様性を、理解してもらうという観点からのアプローチ」を試みるとよいでしょう。

その人の思い込みが入っている言動で、意思の疎通ができなかったとか、思い込みでトラブルになった、という場面になったときに、

「あなたは、そういう考えなのね。でも、他の人は、同じようには受けとめないこともあるものだよ」とか、「あなたがその考えなのは分かるけれども、誰もがあなたと同じ考え方ではないから、あなたの考えだけを当てはめると、他の人は混乱することもあるよ」というようなことを、その都度、説明しながら伝えていくことです。

そうして、少しずつでも、自分と他人の考え方は、違うものである、とか、同じとは限らない、ということに、まずは気付いてもらうこと、そのための機会を増やすことが効果的です。

自分の思ったことと、客観的事実を、分けて考えられるのは、そのうちのどちらに出来事をカテゴライズするかが、スムーズになされる、ということです。それが出来にくい人というのは、二つが分かれていなくて、カテゴリーが一つしかないので、自動的に、その(思ったことと、事実の)区分けがない、一つにカテゴライズ「されてしまう」ということです。

それを、二つ(か、それ以上)に、認識を広げていくことが必要なのですね、多様性を理解するというのは、そういうことです。

カテゴリーが一つしかない人は、自分と他人の区分けもとても曖昧になりがちで・・・、自分と他人は別の受け止め方をする、別の個性をもった存在である、という認識も曖昧になるので、相手も自分と同じように思っているはず、という前提での言動によって、なんらかのトラブルや停滞を引き起こすことが少なくないはずです。

そのときに、まずは、比較的分かりやすい、「自分と他人は、別の存在であるので、同じ考えにはならない」ことから認識を重ね、「考え分け」についての、理解の糸口を見つけていくのが、有効な方法のひとつだと思います。

ただし、これらは、「そうする必要がある場合」に限っての取り組み方法のひとつであり、誰にでもそうすべき、ということではありません。

特別に親しいとか、家族だとか、仕事仲間だとかの関係があって、共同作業的な関わりをもつ機会があるため、それを改善していく必要が、相手だけでなく、自分にもある場合の、考え方や、とり組み方の一例です。  

そんなに関係も深くもなく、その人に干渉する大きな理由があるわけでもないのに、「自分が、相手を正さねば」などと正義感?を出して、いらないことに首をつっこんでしまうと、わざわざ状況や関係をこじらせてしまうこともあると思います;。

どんなことにも言えますが、「自分は、その問題の当事者なのか」という点は、考える必要があると思います。

たとえ、善意であっても、その人のその時点での価値観を、ある意味において否定するようなことにも、形式上は、なってしまうわけで、何でも言えばいいというものではないので、そこはきちんと、自分の立場というものも、理解しながら、というのが大事ですね。

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2013年6月 4日 (火)

望ましい人間関係が、どんどん広がっていく時期。

新たに出会う人が、とても良い人だったり、楽しくて刺激を与えてくれる人だったり、または、「このようなタイプの人と出会いたい」「このような分野に関わっている人と知り合いたい」と以前から思っていたような出会いが実際に作られていくなど、自分にとって望ましい人間関係が、勢いよく広がっていく時期があります。

そのような状況になるときは、「自分が成長したとき」であり、そして「霊界からの強いバックアップがあるとき」です。両方の要素が重なったときに、人間関係が(今までと比較して)大きく広がりを見せていきます。

なぜなら、この世におけるほとんど学び、「必要な経験」、「挑む課題」というものは、人を通して与えられ、学んでいくものなので、自分の器が大きくなったとき、そして、そしてそれに見合った学びを与えていこう、という状況が作られたときには、まずは、「人」に関することにその反映があることが多いのです。

霊界が、私たちを見守っているのは、特定の理由がある時だけでなく、常にそうであって、繋がりが切れることはないのですが、そのような中でも、とりわけ、バックアップが大きくなることがあります。

広い意味で、何らかの、たましいの成長が見られたときに、上記のような現象はつくられていきますが、特に、「今までよりも、深く、そして前向きに、自分の人生について考え出したとき」や、「自分という存在について、探求をし出したとき」や、「(自分以外の)外に向かいすぎていた意識を、自分の中心も向けていくようになり、あるべき状態を取り戻したとき」などに、そのような現象が起こることは多いです。

成長に伴って、必要な学びの要素は、与えられていきます。学びといっても、苦難にみちた忍耐を伴うことばかりではないので、楽しみも、喜びも含めた、たくさんの感動に繋がるものも含まれます。

それらのほとんどは、「人」を介して与えられるものなので、それを受けとめるための必要な器として、人間関係の広がりが作られる、とも言えますし、受けとめる器となる人間関係が容易されているから、それに比例して、たくさんのものが与えられる、とも言えますし、それは、両方が当てはまるのでしょう。

自分の成長というのは、なかなか自覚しにくいものです。自分が自分を見る、というのは、距離がないので、他人を見るようには意識がしにくいもの、ですよね。

しかし、それらは、自分の周囲の様子に反映していくので、周囲をみれば自分がわかります。広がりを見せ、豊かになっていく人間関係から、自分の成長がわかるのです。

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