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2013年6月の3件の記事

2013年6月23日 (日)

思いも行動も、放ったものが返ってくる(カルマの法則)。

自分がこんなにもしてあげたのに、相手からはそのお返しがない、というときに、「自分が、損をしてしまった」と思い、「(それを返してくれない)相手から、損をさせられた」という思いに結びついてしまい、大きな不満が生まれることがあります。

この世という物質の社会では、損得勘定で物事を定義することは、ある程度はしょうがないことです。なぜなら、そのようなとらえ方が、(物質次元の理解においては)最も分かりやすい認識の仕方だからです。

けれども、あまりにその点だけに意識が向いてしまっても、物事をとらえていく感性に偏りがつくられます。 この世には、原因と結果の結びつきにより物事が展開する、「カルマの法則」といわれる仕組みがあります。

自分がしたことは、良くも悪くも自分に返ってくる、自分の蒔いた種(原因をつくったこと)が、自分の行く道に実る(結果がつくられる)ようになっていて、この仕組みがあるからこそ、私たちは、あらゆる出来事を通して自分を省みることができ、気付かされて成長することができるのです。

相手にいろいろして上げたのに、相手からのお返しがないときの、受け止め方、考え方を以下のように変えてみてはどうでしょう。

自分がしたことは、自分に返ってくるのですから、してあげた本人から返ってこなくても、いつか別の人から、別の形で返ってくると思えば、不満もそれほど大きくならないのではないでしょうか。

それに、「してあげる」という経験を、その人が「させてくれた」と考えることもできます。いつか自分が実りを得るための、種を蒔く機会を与えてもらった、と考えれば、割り切ることもできるはずです。

周囲に、「相手に、自分がしてあげたい」人ばかりがいて、自分のことは自分で出来るから助けは不要、ということになれば、相手のために何かをしてあげるという経験を積むこともできません。「してもらってばっかり」の人が、調子よくてずるいと思うかもしれないけれど、そういう人がまったくいなければ、自分が手を貸す役割を経験できない、ということも考えてみることが大事だと思います。

また、自分のしたことは、自分に返ってくるというのは、行動だけでなく、「思い」も同様です。動機として心に思ったことも、エネルギーとなって放たれ、いつか自分に返ってくるカルマの法則が作用します。

この世において、ある程度損得勘定で物事を計ることになる、とはいえ、目的がそれ「だけ」になってしまうのは、情緒に欠けているという点において、ちょっと極端に過ぎると思います。

自分が相手のためにしてあげたい、そうすることが必要だからする、という気持ちがゼロで、「自分がして上げれば、相手からお返しがあるからする」とか、「手助けすることで、相手に恩を売って、自分の思い通りにコントロールをしたい」という、自分の都合だけの動機では、その思いのエネルギーもまた自分に返ってくることになります。

その、してあげた「行動」そのものは、素晴らしいものだったとしても、「動機」となる思いも、同じようにエネルギーとして作用して、自分の都合で相手をコントロールしようとするような考え方を、正されるような学びが与えられてしまうことを、考えておくほうがいいでしょう。

そもそも、上記のような仕組みを抜きにして、それ以前に、自分が得をするからとか、相手に恩をうって思い通りにしたいという動機「だけ」で行動することは、人として品性がある行動の仕方といえるか、という点を考えることも大事だと思います。

人としての「在り方」を体現していくことも、品性の乗ったエネルギーを放っていくことであり、それもまた、自分に返ってくるようになっていて、そうして私たちは学びながら、この世を生きています。

そう考えていけば、私がしてあげたのに、相手がしてくれないという事実って、なんだかとても小さいことのように思えてきませんか。

もっと大事なことがあって、もっと深いことがあって、それらは、自分が求めればすぐ手の届くところにある学びだと理解していけば、ひとつひとつの出来事に対する、相手への不満やこだわりから抜け出していけるのではないでしょうか。

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2013年6月20日 (木)

人間関係とは、完全ではない、個性の違う人同士の関係。

自分と他人は、違う個性をもった違うたましいをもつ存在なので、人と人が関われば、そこには、少なからず相違や対立等が発生するものであり、つまりは、人と関わることには、ストレスが生じることになります。

そのため、人間関係を、煩わしいこと、遠ざけたいこと、できるなら避けたいこと、というように、否定的にとらえてしまうことがあると思います。

一口に人間関係といっても、実際には幅広いわけで、中には、居心地のよい関係、楽しい関係もあり、人間関係のすべてが嫌だと思っているわけでもないのでしょうが、しかし、嫌なことのほうが、嬉しいことよりも、印象に残りやすいために、人間関係を全否定したくなるような、そんな心境になってしまうのかもしれません。

私たちがこの世に生まれてくるのは、広い意味でいえば「学びのため」です。

その学びには、他人との関わりは避けて通れません。人は、ひとりでいきていくことはできないからです。

たとえば、喜怒哀楽の経験も、ひとりだけでは浅いものにしかなりません。それらの感情を発生させるのは自分自身だから、他人と関わらなくてもできるじゃないか、と思うかもしれませんが、感情をわき起こすためには、何らかの刺激が必要です。

誰かが、自分を喜ばせるようなことをしてくれた、とか、何かの出来事が自分を怒らせた、とか、外の刺激があってこそ、感情が動いていくわけです。

他人という、自分とは違う個性との関わりがあるからこそ、私たちは、この世という場所で、たくさんの広くて深い、経験を積むことができるのです。

この世という場所は、本質が霊(的存在)である私たちが、人として経験を重ねる場所です。人は、ひとりでは、生きられないようになっていて、それぞれが助け合ったり、補い合ったりしながら学ぶために、それぞれが「完全ではない形で」個性を備えて、この世に生まれてきて、与え、受け取るという学びをしています。

嫌だと思う相手を、好きになる必要はありません。そこまでしなくても、感情的には嫌いなままでも、相手の存在意義や個性を認めることはできますよね。認めるとまではいかなくても、少なくとも否定はしない、くらいには、時間を掛けていけば思うこともできるでしょう。

それで十分なのです。そうして、自分以外の人間関係を、少なくとも否定はせず、ときに、必要な場面では助け合い、お互いに与え、受け取るという関わりをもち、人の多様性を経験から学んでいくことが、この世に生きる意味のひとつです。

少なくとも否定はしない、表面だけでも、そのようにとらえていくように、少しずつでも心掛けると、だんだんと、時間とともに、他人という存在を、肯定的にとらえられるようになっていきます。

この世には、時間という、偉大な仕組みがあります。時間が、その学びを後押ししてくれます。

そもそも、完全ではない人同士の関係なのだから、そして個性が違うのだから、多少は、「いろいろあるのが、当然」なのです。

そのくらいの気持ちでゆとりをもって、そして、成長のために、自分とは違う個性をもった人から学びを得ていく、という意欲をもって、臨んでいきましょう。

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2013年6月 4日 (火)

望ましい人間関係が、どんどん広がっていく時期。

新たに出会う人が、とても良い人だったり、楽しくて刺激を与えてくれる人だったり、または、「このようなタイプの人と出会いたい」「このような分野に関わっている人と知り合いたい」と以前から思っていたような出会いが実際に作られていくなど、自分にとって望ましい人間関係が、勢いよく広がっていく時期があります。

そのような状況になるときは、「自分が成長したとき」であり、そして「霊界からの強いバックアップがあるとき」です。両方の要素が重なったときに、人間関係が(今までと比較して)大きく広がりを見せていきます。

なぜなら、この世におけるほとんど学び、「必要な経験」、「挑む課題」というものは、人を通して与えられ、学んでいくものなので、自分の器が大きくなったとき、そして、そしてそれに見合った学びを与えていこう、という状況が作られたときには、まずは、「人」に関することにその反映があることが多いのです。

霊界が、私たちを見守っているのは、特定の理由がある時だけでなく、常にそうであって、繋がりが切れることはないのですが、そのような中でも、とりわけ、バックアップが大きくなることがあります。

広い意味で、何らかの、たましいの成長が見られたときに、上記のような現象はつくられていきますが、特に、「今までよりも、深く、そして前向きに、自分の人生について考え出したとき」や、「自分という存在について、探求をし出したとき」や、「(自分以外の)外に向かいすぎていた意識を、自分の中心も向けていくようになり、あるべき状態を取り戻したとき」などに、そのような現象が起こることは多いです。

成長に伴って、必要な学びの要素は、与えられていきます。学びといっても、苦難にみちた忍耐を伴うことばかりではないので、楽しみも、喜びも含めた、たくさんの感動に繋がるものも含まれます。

それらのほとんどは、「人」を介して与えられるものなので、それを受けとめるための必要な器として、人間関係の広がりが作られる、とも言えますし、受けとめる器となる人間関係が容易されているから、それに比例して、たくさんのものが与えられる、とも言えますし、それは、両方が当てはまるのでしょう。

自分の成長というのは、なかなか自覚しにくいものです。自分が自分を見る、というのは、距離がないので、他人を見るようには意識がしにくいもの、ですよね。

しかし、それらは、自分の周囲の様子に反映していくので、周囲をみれば自分がわかります。広がりを見せ、豊かになっていく人間関係から、自分の成長がわかるのです。

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