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2013年5月10日 (金)

古くからの「習わし、しきたり」に効力はあるのか。

昔から受け継がれている、半分迷信のようなものもふくめて、いろんな習わし、しきたりがありますよね。

たとえば、冬至に柚を浮かべたお風呂にはいると、風邪を引かない、とか、端午の節句に菖蒲湯に入ることで邪気を払う、などです。

これらは、実際に効果があるのか、あるとしたらどういう仕組みによってそれがなされるのかを書いてみたいと思います。

このような行為に、科学的な作用というものも、実際にあると思うのです。植物を使うことで、香りによる、アロマテラピー的な効果とか、血行を促進するとか。

さらには、気持ちの上で、いつもと違う、非日常な行事をすることで、テンションが上がって、調子がよくなる、ということも、あるかもしれません。

そして、そのような科学的な部分や、気分の問題という部分を超えた作用、スピリチュアルな領域での作用も、あると思います。

それには、大きく分けて、二通りの作用があると考えられます。

ひとつは、その道具なり、方式なりが、特定の作用を引き起こす、ということ。例えていえば、菖蒲という植物そのものに、邪気を払う作用があって、菖蒲湯に入ると邪気が払われる、という形です。

大昔に、感覚の鋭い人がいて、そうした作用を見抜いて、風習がつくられた、のかもしれません

もうひとつは、その行為を行う、「人の思い」が、特定の作用を引き起こすための、エネルギーとなる、という形です。

人の「思い」も、目には見えないけれども、行動や発言と同じように、エネルギーとして作用する実体を持つのは、過去に何度もお伝えしたとおりです。

その仕組みを前提とすれば、大昔から、「菖蒲湯に入ると、邪気が払われる」という、たくさんの人々の「思い」と、そして「行為」が、山ほども積み重ねられ、 それを何十年、何百年と繰り返していくことで、蓄積は大きなものとなり、そのエネルギーが一つの型となる、という、信じて期待する人の思いの積み重ねが、実際に作用を「創り出す」というパターンです。

そうしてエネルギーを積み重ねていくうちに、菖蒲を入れた風呂に入る、という「行為」が、作用を呼び起こす「型」となっていく、型が作用を帯びていくようになるのは、あり得ることです。

この二つのどちらかなのか、それとも両方なのか・・・、そこは分かりませんが、長く続けられている風習には、相応の意味なり作用なりは、存在することが多い、とは言えると思います。

想念は、見えたり聞こえたりしないので実感しにくいですが、実は、とても大きな作用をもつエネルギーで、長く続いている「習わし、しきたり」などは、相応の作用を持っている、とも言えるでしょう。迷信のように思えても、そこには、何かの効果が、年月とともに「作られて」いき「育って」いくことは、仕組みとしてあり得ることです。

その効果を、いくらかでも、私たちが、受け取らせていただけるのは、過去の多くの人達が、行為を積み重ね、思いを積み重ね、「創ってくださったもの」があるから、とも言えますので、感謝をもっていくことも大事ですね。

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09.スピリチュアル全般」カテゴリの記事

コメント


いつも楽しく見させていただいてます。
私は哲学(正確には「全ては意識経験から始まる」と想定する《現象学》というスタイル)を学んでおり、そうした観点からリカコさんのBlogを読んでいるのですが、納得させられる部分が多々あります。個人的なもので恐縮ですが、今回の内容に哲学の観点を絡めてすこしコメントしてみたいです。

『たとえば冬至に柚を浮かべたお風呂にはいると、風邪を引かない、とか、端午の節句に菖蒲湯に入ることで邪気を払う、など』

こうしたことが効力を持つのは、きっと私たちは同じ〈文化〉という、先人の蓄積してきた膨大な叡智に、自分が特に何も考えず自然に行っているふるまいや日本語という言語活動etc...などが有する「共有された論理」や「そこから析出される共通法則」を通して、アクセスすることが可能であるからなのだと考えます。なんらかの行為や体験はおそらく私たちのなかの潜在的な事物相互の関係性を活性化--あるいは意識化・言語化--させるのだろうと思ってます。個人的には「波長の法則」も人間や事物と〈私〉との〈間〉に存在する、潜在的な関係性、ネットワークみたいなものを活性化させていることで生じる現象なのだと解釈してます。ヽ(*≧ε≦*)φ

私たち一人一人は皆きっと、「文化の媒体」でもあって、同時に「個性というズレを備えたアンテナ」なのでしょう。霊的に鋭い人(特に受信タイプ?)が事物と事物の隠れた、今までは見えなかった関係性を、効力を、調和を五感を通じて嗅ぎとり、実際に行為によって表す(表現する、創造する)ことで、私たちの共有された〈文化〉の地平に--地平とは先に書いたふるまいや日本語による言語活動etc...によって整備され、私たち日本人に共有された、事物相互が反射し合う関係性のことです--受け入れられ、「型」になってゆくのかもしれませんね。

すみません、リカコさんの感性に感動したもので--そんな人って実際にいるんですね(*^-^)--長文になってしまいました。素晴らしいBlog、これからも是非お書きください。

投稿: ヒロ | 2017年6月30日 (金) 13時17分

ヒロ様

書いていただいたことをまとめると、

エネルギーというのは、一度作られると、消えることはなく、すべての行動、発言、思いなどはエネルギーを作りだしますので、

過去の人々が生み出して、作り上げられたエネルギーのかたまりに、何か特定の動きなり言語なりで、アクセスしているという関係性ということですね(^_^)

波長の法則は、AとBとの間にでてくるというような、物事の「あらわれ(現象化)」については、おっしゃるとおり、何らかの刺激による活性化などで、あらわれを引き出すとか、促進するということなのだろうと思います。

しかし、波長の法則という「しくみ」については、最初からしくみが「在る」という位置付けになります。こちらの場合は、文化や習わしとして、作られてきた事柄とは、少々、位置付けが違うものとなりますね。

投稿: リカコ | 2017年7月 3日 (月) 13時08分


お返事ありがとうございます。
私もリカコさんの言われる通りだと考えてます。創り出されたエネルギーは「1度通ったことのある道」のようなもので、その道に関連のある事柄が生じた際、その道の方向へ引っ張られる働きがあるはずです。(だから自分を変えることはなかなか難しい)そしてその道は、個別にズレはあるにしてもだいたい同じ文化に属するものの典型、一般性を表していると思われます。
波長の法則の「しくみ」については、元来私たちが同じ源を共有しており、そこから〈私〉、〈あなた〉といった差異化が生じるためであると考えてます。そのため、個々の〈私〉は波長の法則の「しくみ」をすでに内包した存在である、ということでまちがいないでしょうか?

投稿: ヒロ | 2017年7月 4日 (火) 02時20分

ヒロさま

波長の法則というのは、「この世で展開するしくみ」です。

スピリチュアルな、たましいのレベルの事柄に関連したしくみではありますが、あちらの世界には、違いとか、はじまりとおわりとか、時間や空間というような、こちらの世界にあるような尺度がありませんので。

個々の「今回の人生の私」という存在は、
たましいレベルでの「全体」のうちの「一部分」ですから、しくみは一部分に内包している、としてしまうと、・・・(言わんとしていることはわからないではないですが)適切な解釈とも言い切れないような気がします。

たとえば、「今回の私という、個人の領域のこと」については、たましいという前世等を含めた本質を「内包している」という表現で、だいたい当てはまると考えてよいと思うのですが、

しかし、しくみは、「今回の私という個人の領域」をこえた「全体的なしくみ」ですので、それが内包されている、というまとめはできにくいと思うのです。

「全体的な源の中に、しくみの動きも含まれて」いて、その源を誰もが有しているのだから、その末端?となる「今回の私」の中にも「ある」とするなら、そう言えなくはないでしょうけれども・・・

それだととても複雑すぎる解釈になりますね(^_^;)。

波長の法則は、この世での展開のしくみであり、同じものが引きあうようになっていて、

この世という場所にいる間は、「今回の私」という個別の存在は、そのしくみの下にあって、見合った学びをしていくというシンプルな理解で十分であるように思うのですけれども。

難しく考えてしまうと、ちょっと軸がずれてしまうように思います。私たちの解釈というのは、あくまで、こちらの世界的な、時間や空間、違い、比較、時系列等のいろいろな、この世的な条件下での解釈ですから、あちらの世界のしくみを「源を、そのまま」は受けとめられるようには、そもそもなっていません。

http://spiritual-teaching.com/archives/846

そのあたりをふまえた理解をなさっていくのが適しているように思います(^_^)

投稿: リカコ | 2017年7月 7日 (金) 11時23分

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