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2013年5月の17件の記事

2013年5月31日 (金)

豊富な知識が、思考を助ける。

ある事柄について、思考をして答えを出す、ということは、「自分の知っている知識や経験に、その出来事を結びつけて、自分なりの答えを出していく」という、流れになっていくと思います。

思考というのは、ほとんどが、そのような「結びつけ」「関連づけ」によって行われます。

たとえば、「アメリカの主食は、日本と違って、米ではない」という「知識」を持っていれば、「アメリカ人の友人が、米を主食にしている」という話を聞いた場合に、「へえ、それはめずらしいことだね」という、思考による判断ができます。

アメリカの主食がパンだと知らなければ、同じ話題を聞いても、「ああ、そうなのね」としか反応できません。「めずらしいね」と思うことができるのは、知識があるから、です。

たくさんの知識や経験があれば、それに基づく判断ができます。結びつける項目がたくさんあるので、その中から、最もふさわしいものを選ぶという、幅広い解釈ができることになります。

思考が得意な人、会話が上手な人は、知識が豊富であるのと、知識と出来事を「結びつけて解釈する力」が発達しているので、その状況に適した判断をしたり、話題や受け答えを選んだりできます。

少ない知識しかないと、思考の際に、結びつけられる項目が少ないので、「考えても、分からない」「考えても、答えが出せない」という状況になりがちです。それでも無理に少ない知識を結びつければ、極論や飛躍のような、「無理なこじつけ」になることもあるでしょう。

思考をしてふさわしい答えを出すためには、「結びつける力が発達していること」が必要ですが、その力を発揮するための、必要項目となる「知識」も大事です。どちらが十分でなくても、適切な答えを出しにくくなります。

思考が苦手、どのように考えたらいいのか分からない、考えても答えが出せない、という人は、「自分には、結びつける力がない=思考力がない」というふうに解釈して、悩んでいることが多いけれど、必ずしもそうとは限らず、単純に、知識が少ないために、思考の力を発揮できないだけ、というパターンもあります。

知識や経験は、思考の力を底上げしてくれます。

思考が苦手という感覚は、もしかしたら、知識や経験を増やしていくことで、解消できる要素かもしれませんので、是非、分析をしてみてください。

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2013年5月30日 (木)

私の、シンボリックな透視が構築されるまで(いまだ模索中ですが:)。

この写真は、画像を加工して作成したものです。あるときの、ご相談者さんに対する、私の霊的な視野にうつった様子を、再現してみました。

Image0527

(ちなみに、これはオーラ透視とは無関係です。写真の様子は、オーラの色ではありません。)

霊視・透視というのは、いろんな見え方がありますが、客観的な「事実そのもの」を、写真や映像のように見る場合もあれば、事実そのものではなく、それ示すような「記号」「象徴」に置き換わって、見えることなどもあります。

私は比較的、後者のほう、シンボリックな何かに置き換わった形での透視が多いです。

その仕組みについては、「以前の記事」で、少し書かせていただきました。

透視者とその人の指導霊との間で、以前の記事でかいたような、解釈のための決まり事を構築していくのは、相当に時間が掛かると思います。

私の場合は、 「何が見えているのか、分からない」、という段階から、何か見えているのかが分かっても「その意味が分からない」「何故、見えているのかもわからない」という段階を経て、そのうち、だんだんと事例が自分の中で積み重ねられて、フィードバックが得られていき結果を原因に反映させるように、その意味が分かっていきました。

そうすると、たくさんの事例の中から、その規則性・法則性のようなことがつかめていくようになり、全体の仕組みも何となくですがつかめていくようになり、そこまでいくと、その後は、知っている英単語の数が増えていくかのように、バリエーションが出てくる、というか作られるというか、そんな感じでした。

それに費やす期間は、年単位で、特別な練習とか勉強とかではなく、仕事と同時進行で実際の経験からつかみとっていくような感じでしたね。

指導霊は、それを教えてくれないのか?と、思う方もいるかもしれませんが、教えてくれませんでした(笑)。なぜなら、それが、私自身の学びでもあるからです。自分でそれを理解しなければなりません。

当初の私は、自分はいったい何をやっているのか、何を見ているのか、何をやらされているのか?・・・本当に分からなかったです。・・・今も、あまり分かっていないかもしれませんが(笑)。現時点での解釈も、もちろん途上であり、完全ではありません。

「見える」ことと、「見えたものの、意味を解釈する」のとは、イコールではないので、そこは簡単にはいかない、「いろいろ」があるわけです。見えない領域の説明って、本当に難しくて、文章にすると回りくどくなってしまいますが;、なんとなくでも、何かの参考になればと書いてみました。

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2013年5月29日 (水)

謝らない人は、頑固で自己中・・・とは、限らない。

どんな失敗をしても、責任の所在は明らかにその人にある場合でも、決して謝らないタイプの人が、いるものです。

そういう人は、とても頑固で自分の非を認めたくないのだ、とか、自分に自信がありすぎて非を認められないのだとか、そういう解釈をされることが多いです。確かに、そういう場合もありますが、中には、「謝り方が、分からない」というケースもあります。

頑固なのでもなく、自信持ちすぎなのでもなく、単に、そういう場合に、謝るものだ、ということが分からない、謝る必要性は理解していても、謝り方が分からないので、行動に移せない人が、結構いるのです。

強く自分を主張して意見を曲げないとかではなくて、どこが誤りポイントなのかが分からない、うまくいっていないことは理解していても、具体的にどこが悪いのかが分からないので、謝れない状態を、周囲の人達が誤解して、勝手に「あの人は自信過剰だから」とか「自分の間違いを認めない狡さがある」などと定義をつけていき、そうすると、他人にそれを尋ねるきっかけもなくして、謝れなくなってしまう、ということも、あるんですよね。

このようなケースは、その人の持って生まれた性質が関係していることもありますが、比率としては、後天的な、育ち方に起因していることが少なくないように思います。

親がなんでも認めて甘やかしてしまったとか、逆に、親が過干渉になって手を掛けすぎてしまったケースは、自発的に謝るとか、求められて謝る、という機会を経験していないため、そういう場合に一般的にどのような対応を求められるか、というのが、分からないことがあるのです。

「理解しようとしない」人に、理解を望むは、実際のところとても難しいですが・・・、「経験が少ないから、分からない」だけならば、手本を見せて、言葉を尽くして説明していくことで、時間を掛けて少しずつでも分かっていくこともあるかもしれません。

どんなことにも言えますが、そうなるに至る理由はひとつではないので、人の数だけ、独自の理由がありますから、簡単にひとつの定義で人を決めつけたり裁いたりせずに、「いろんなケースがありうる」という理解が大事だと思います。

その人が謝らない人だとして、頑固で自己中だからそうなるのか、それとも謝り方が分からないからそうなってしまうのか、自分が被害を受けたとか迷惑を掛けられているとかの感情は抜きで、冷静になってその人を理解しようと気持ちを寄せていけば、おおよその判断をつけることは、できると思います。

いろんな人がいますから、多様性を理解していくことは大事だと思います。その一例として、結構よくいる「謝らない人」について書いてみました。

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2013年5月28日 (火)

たましいのご縁がある関係、「ソウルメイト」について。

ソウルメイトとは、たましいの観点からみて、お互いに深い学びを与え、成長していくことができる、縁の深い相手のことをさす言葉で、どんな人にも、そのような縁となる相手は、複数存在するはずです。

一般に、ソウルメイトといえば、「運命を共にする、大恋愛の相手」のような解釈になることが少なくないですが、恋愛の相手としての関わりをもつとは限らず、また、関係も長期間に及ぶとも限らず、さまざまなパターンがあります。

たましいの観点からみた、深い繋がりの相手ですから、そこに、現世的な恋愛感情が絡むとは限りません。繋がりの深さ=恋愛、という解釈は、あまりに限定された、狭い範囲の解釈です。人として成長したり、感銘を受けたり、学びを得たりしていくための関係とは、恋愛に限ったことではありませんよね。

例えば、お互いに、恨みや憎しみをもつ関係であったとしても、その関係からお互いが深く学び合って成長していくこともあるでしょうし、必ずしも、相手に、好意的な感情を抱くとも限らない、好き嫌いなどの思いを超越した、もっと広く深い観点からの繋がりをもつのが、たましいのご縁=ソウルメイト、なのです。

自分のソウルメイトは誰なのか、既に出会っているのか、気になる人も多いかもしれません。しかし、ソウルメイトというのは、「こうなったら、当てはまる」「こうなっていなければ、該当しない」というような、○×をつけられるような明確なものでもありません。

とても広い意味でいえば、今回の人生で出会う全員が、自分にとって、学びを与えてくれるソウルメイト、とも、解釈できます。なぜなら、どんな人間関係も、自分とまったく何の引き合う要素もない、縁のない人とは、出会わないようになっているからです。出会う機会が作られた、というそのことをもって、相応の、意味なり学びなりは存在していることになります。

そして、今回の人生で出会う人、関わりをもつ人というのは、実はそれほど多くはありません。全世界の人口からすれば、ごく僅かな人達としか、関わることができません。その限定された人達とは、お互いに、何らかの意味で引き合って関わりをもつご縁があった、ソウルメイトである、という解釈も、広い意味でとれば出来るのです。

それよりももう少し狭い範囲で、この言葉をとらえていくならば、この世に生まれる前の段階で、お互いの学びのために、それぞれ役割を決め、この世においてのふさわしいタイミングで、ふさわしい立場と状況において関わりを持ち、成長に繋がる影響を与える関係のこと、です。

お互いの霊的成長、癒し、気づきなどに、深く関わりをもち、強い印象を与えてくれることが多いですが、しかし、「深さ」「強さ」と、時間の「長さ」は必ずしも比例はしないので、一生を共にするとは限らず、短い期間、一度の出会い、ということも中にはあるかもしれません。

皆さんもきっと、今までの人生を思い返してみれば、「そういえば、あのときの、あの人との関わりが、自分の人生に大きな影響を与えているな」とか、「あの人と知り合ったことで、たくさんの学びを得て、感謝の思いをもっている」というふうに、思い当たる、印象的な相手が思い浮かぶのではないでしょうか。

その人は、もしかしたら、たましいの縁が深く、あなたに学びを与える役割を担ってくれていた、ソウルメイト、なのかもしれません。

人との出会いというのは、本当に不思議で神秘なものです。

ソウルメイト、というこの言葉を、あまりに狭い範囲で、興味や娯楽の延長でとらえてしまうと、偏った解釈になってしまうので、その点は気を付けなければなりませんが、出会いの不思議さや、その意味について考える機会とするならばそれは価値のあるものだと言えるでしょう。

出会い、関わり、学び合うだけでも十分な意味がありますが、その仕組みの理解を加えて行けば、さらに「深み」が生まれていきますね。

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2013年5月27日 (月)

たくさんの「物」を集めたくなるのは。

現代人の多くが、「たくさんのもの」を、抱えすぎになっています。

しかし、それでも、さらに必要なもの、欲しいものは出てきて・・・と、物が思考や生活の中心に、なってしまっていないか、見つめ直してみましょう。

自分が、物を所有して、それをうまく使っていくならよいですが、逆に、増えすぎたものに、自分が所有され、自分が使われてしまうことがあります。

たとえば、物があるから、それを活かさなければ、と、わざわざ行動をしなければならない、というのは、自分が物に「使われて」います。物が多いから引っ越しをする必要がある、というなら、自分と物に、「動かされて」いますよね。主従が逆になっています。

物が増えて、影響されてしまうと、そのようなことを不思議に思わず、「自分」というものが曖昧になり、物こそが自分の価値のように、境目がわからなくなってしまうこともあります。そこは気を付けていく必要があります。

人は皆、「失うことへの、恐れ」を根本的に持っているので、その不安を払拭しようと、物を集めたくなってしまうものです。

人は、この世という物質の場所では、自分を「不安定」だと、認識してしまうところがあります。人は、肉体という物質だけの存在ではなく、たましいの存在でもあるので、この世においては、なんだかはっきりしなくて、とても不安定で・・・、物質的な「物」が、安定している、と感じてしまうため、それらを集めて自分をガードしようとするのです。

しかし、その解釈は、物質界特有の幻想で・・・、この世の物質こそが、永遠のものではない、壊れたり、消耗したり、失ったりする、不安定なものであり、たましいこそが、消えてなくなることがない、永遠のものです。

物質こそが安定していると思って、あれもこれもと集めるほどに、どんどん、(本当は、たましいのほうが永遠で、物質のほうが永遠ではない、という)実際のところと、かけ離れていくので、そして、物に囲まれている、ということは、そういう不安定なエネルギーに囲まれている、ことでもあるので、ますます不安になって、さらに物を集めたくなるループになります。

物の価値とは、この物質の世界を生きる経験をする、限られた期間のみ必要となる、一時のものです。

一時期を有意義に生きるために、必要で、そして便利なものであるとしても、たくさんあればよい、たくさんあるほど、自分が感じている不安感が除かれるはず、という思い正しいとは言えません。

事実、どこまで集めても、欲しい思いに区切りがつかないことが、それを示しているのではないでしょうか。

この仕組みをしっかり理解していけば、つまり、スピリチュアルな考え方で、永遠のたましいを考えていえば、物をたくさん得たい、そうして安心したい、という思いは、薄れていきます。

物がなくても、自分というたましいの存在を、安定させることは、自分次第で可能だと思っていければ、意識の向くところが変わっていくので、物への欲求は「適度」なところで、落ち着くでしょう。

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2013年5月26日 (日)

プラス思考になるために。

物事を肯定的にとらえていくようにすると、いろんな意味で、人生が創造的に展開していくようになります。

どんなことにも、相応の意味と価値があり、そこから学んでいけるということを意識して、物事を眺めていけば、プラスの要素を見つけるのが上手になります。

物事それ自体に、良い、悪い、肯定的だ否定的だ、という定義はありません。

そのことについて、「自分が、どう受けとめるか」「肯定的にとらえるか、否定的にとらえるか」という、差があるに過ぎません。

つまり、プラス思考というのは、プラスの出来事が起こることの作用ではなく、プラスの要素を見出していこうとする、自分自身の「在り方」によると言えます。

そういう意味で、すべては「自分次第」なのですが、それは、気の持ちよう、というような根性論のようなことだけでない、もっと広い意味での表現です。

物事というのはすべて必然で、プラス思考に「なることができる」というのも、意味があって、できるわけです。逆に、「なることができない」ならば、それも、意味があって、できないのでしょう。

なれない意味、つまり、なれない理由がある人に、気の持ちようだ、ということを強要しても、それでは解決にはなりません。その理由について、取り組むなり解決するなりのプロセスを考えていくほうが現実的です。

その理由は、人によりさまざまだと思うので、一律の解決方法を提示することはできませんが・・・、たとえば、何かを手に入れるとか、習い事をするとか、少しのお金や時間を費やすことが、自信につながり、肯定的な考え方をしやすくなることもあると思うので、そのような工夫が、自分に効果的だと思うなら、行ってみるのもよいと思います。

「なれない」状態から「なれる」ように変わるには、相応の時間が必要だと思うので、段階を踏んで、「なっていく」と、とらえて、少し長い目で見ていくのがいいと思います。プロセスを味わっていくことも、学びです。

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2013年5月21日 (火)

ある青年の、前世。

先日、とあるお店に行きました。そこは、かなりのお客さんの出入りがあるところです。まずは、建物のドアがあって、風除室があって、さらに自動ドアがあって、店舗に入っていくようになっています。

外のドアは、開けっ放しになっていました。そのため、風除室の場所に、小さい鳥が入ってきてしまったようです。自動ドアの前にいるのを見つけました。スズメよりも二回りくらい小さいサイズで、赤ちゃんの鳥かもしれません。

私は、最初、それを発見して、誰かが、鳥の置物とかおもちゃを、落としていったのかと思いました。その場から、まったく動かないからです。

でも、じぃーっ( ̄_ ̄)と見ると、ずーっと見ていると、ごくたまに動いたりするので、生きている鳥だと分かりました。

外のドアは開け放してあるので、しばらくすれば、偶然に出口をみつけて外に出ていくかな?と思っていましたが、その鳥は、ぜんぜん動きません。置物のようにおとなしいのです。

私以外に、その鳥に気付いている人はいないようです。なにしろ、ぜんぜん動きませんし・・・、それに、鳥がとまっているところは、入り口自動ドア前に強いてある、玄関用マットの上で、なんと、マットの色と鳥の色がそっくりで、完全に保護色になってしまっていますsweat02

そして、店を出入りするお客さん達も、自動ドアですから、視点を下方に向けることなく、ときにスマホなんかを眺めながら出ていくので、私は、鳥が踏まれるのではないかと、ひやひやしながら、見ていました。

でも、きっと、そのうち出ていくだろう、何しろ入ってくることが出来たのだから、出ていくことだって出来るはず。ちょっと時間がたてば、きっと飛んで自力で出ていくだろうし、または誰かが気付いて鳥を逃がしてくれるかも、と、私はそう思って、・・・というか、自分に言い聞かせて、店内を一周して時間をつぶしました。

そして、また玄関のほうに戻ると、・・・まだ、そのまま鳥は同じ場所にいます。そして、相変わらず、誰も気付かずに、今にも踏まれそうなのです・・・。ああもう、なんか、私の気持ちが限界で(笑)。あの鳥を、外に出すしかない、と思いました。

しかし、そのときの私の服装や持ち物の状態で、床にいる鳥を手で捕まえるのは、ちょっと厳しいな・・・、出来なくはないけれど・・・、と、いろいろ考え、「別に、私がやることはないか。お店の人に頼めばいい。お店のことなんだし」と閃いたので、近くにいた、若い男性のスタッフさんに、説明してお願いしました。

彼は、こころよく了解してくれて、「何か、手袋とか探してきます」と、その場を一時離れました。私は、心からほっとしました。

彼がその場を去った直後、あれほどに、まったく動かなかった鳥が、飛んで、風除室内の少しだけ離れた場所に位置を移動しました。腰の高さくらいの、手すりのようなところに、こちら側に背を向けた形で止まったのです。

「あ、なんだよ、その位置にいてくれるなら、私でも構えて外に出せたのに。わざわざ、彼に頼むこともなかったのに」と思いました。私は、彼の仕事を中断させて、鳥を捕まえて、とお願いしたのが、ちょっと悪いような申し訳ないような、そんな気持ちになっていたからです。

すぐに彼が戻ってきて・・・、とても捕まえやすい位置にいる(笑)鳥を、いとも簡単に両手でつかまえて、そのまま外に出ました。そして、「若い青年が両手でふわーっと空にむかって鳥を放つ」、という、まるで映画にでもありそうな、素敵なシーンを私は店内から見ていました。

そのとき、ふと、二重写しのようになって、私の霊的な視野に、よく似た別の情景が流れました。彼と同じように、鳥を逃がしてあげる青年の姿です。ほんの一瞬だったので、そして、あまりそちらに意識を向けていなかったので、はっきりとは分かりませんが、おそらく日本を含んだ、アジアのどこかの国の、若い青年の姿でした。

彼は、こちらに戻ってきて、「思ったより簡単に、捕まえられて、びっくりしました」と、笑って、そして、私に、「ありがとうございます」と言いました。そのとき、一緒に、彼の後の方が、私に、ありがとうございます、と、言ったような気がしました。

彼に二重写しになって見えた様子は、彼の前世だったろうと思いました。前世の彼も、同じように、鳥を逃がしてあげた場面があったのだろうな、と。

店内で思ったのは、そのことだけです。そして買い物を済ませて、家に向かって歩いている途中に、そのことを改めて考えていました。

ご存じの方も多い思いますが、鳥を放って助けてあげる、という行為は、タイなどの東南アジアの仏教国で行われている、わりと有名なものですよね。私も、それは分かっていたので、映画のようなシーンだな、と思って見ていました。

慈悲の心をもって、捕らえられている鳥を、放ってあげるという善行を積む、というものだそうです。その行為が、自分の徳となって返ってくる、とか、そういう意味があるのでしょう。

彼の前世と、彼の今世で、同じような行為をしている、という巡り合わせは不思議ですが、しかし、意味のないことは起こらないので、おそらく、「今の彼にとって、そういう形で、鳥を放って、善行を積むことが、必要があること」だったのではないか、と、私はそう思いました。その行為が、何かに繋がって、彼が得るものがあるのだろうな、と。

ある意味、前世での彼の積んだ徳が、今世に返ってきて、今世での彼が必要なときに、同じような状況が「与えられた」のではないかと、そう思いました。

「そうなるように、なっていた」から、鳥が、わざわざ?あの場所にやってきて・・・、私が発見したときは、(私に捕まえられないように)捕まえづらい位置にいて、彼がつかまえようとしたら、背を向けて止まり掴みやすい位置へ移動して、そして、いとも簡単につかまって、空に飛び立っていく・・・、そんな「ドラマの脚本」があったかのような出来事だったと思います。

私は、その「ドラマ」において、完全なる脇役だったわけですが(笑)、その役を、滞りなく務めていただいて、ありがとうございます的なことを、彼の後の人から、言っていただけたのかもしれないです。

家に戻ってきて、調べてみますと、このような風習は、日本でも古くから行われているそうです。放生会(ほうじょうえ)といって、殺生を戒める意味合いの行事として、放し鰻、放し鳥、放し亀が、風習として定着していたようです。

タイの風習は知っていましたが、日本でもそういうことがあったのは、私は全く知りませんでした。

鳥を捕まえてくれた彼のその姿は、私個人の知識からは、「まるでタイの風習のようだ」とは思ったけれども、二重写しで一瞬見えた様子は、タイのような雰囲気ではなかったような・・・、日本のような・・・?と思っていたのですが、このような風習が日本でもあった、ということならば、私に見えた前世は、日本人の様子だったのかもしれません。

このように、脚本が「なっていた」ならば、仮に私が鳥を捕まえようとしても、私には、掴ませてくれなかったかったのでしょうか。そして、結局は、彼に頼むようになっていたのでしょうか。

おそらく、このような仮定のたら、れば、は、考えても答えはでないし、考える必要もないこと、なのかもしれません。事実、私は鳥を自力でつかまえようとしなかったのだし、自力で捕まえないことを「私自身が、選んで」いたのだし、そして、実際に鳥を捕まえて、空に放ったのは彼なのですから、複雑に考えることなく、シンプルに受けとめていけばいいのでしょうね。

このように、日常で、今世と前世は、ある意味重なり合っていたり、現実と霊的な要素も重なり合っていて、出来事が起こり、そこから学び合う、という仕組みが存在していることが、分かりやすく表れている一例だと思いましたので、今回、取り上げてみました(^^)。

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2013年5月19日 (日)

霊の憑依は、小さいものなら、日常よくある現象です。

「霊の憑依」という言葉は、怖いものに思えてしまうかもしれませんが、実は、プチなものも含めれば、「日常、誰にでも、普通に起こっている現象」であり、それほど気にすることでもありません。

すべての現象は、「波長の法則」という、自分と同じ要素のあるもの同士がで引きあう仕組みで、霊的現象も例外ではありません。

自分の波長が高まれば、高いエネルギーに共鳴し、波長が下がってしまえば、低いエネルギーに影響されますので、自分の状態が低いときに、霊の憑依のような現象が起こることがある、という、とても単純な仕組みです。

誰でも、日々、状態は変化します。とても明るくて元気な人も、つかれて体力が落ちてしまうこともあれば、悩みごとだって発生することもあるでしょう。ずっと同じ状態ではいられない以上、誰もが「憑依現象に合う可能性は持っている」と言えます。

けれど、波長は変化しますから、低い状態から脱して、元の状態に戻っていければ、ひきあう部分がなくなるので、憑依現象も自然に解消されていきます。

霊に憑依されたとしても、特別な「除霊のための技法」をしなければ、除かれない、というわけではありません。そこまでしなければならないとなったら、本当に深刻な憑依現象であり、そんなケースばかりではないのです。

日常のプチなものなんて、誰でも普通にされていて、ついたり離れたりしているのだから、気にしすぎると、逆におかしなことになります。心配や不安の気持ちが、ますます自分の波長下げて、余計に深刻な状態を作り上げてしまうこともあります。

自分の波長を高く保っていれば、そう簡単には憑依などされませんし、仮にされたとしても、長期に至ることはありません。

霊感が強い人は、平均的な人に比べて、あらゆる意味で霊的なものと引き合いやすいとは言えますが、しかしそれでも、気にし過ぎないことも大切です。霊感が強い、というだけでは、深刻な状態にはなりません。そのときの波長、コンディションの影響が掛け合わせだからです。

自分が高い波長を保っていれば、それらの現象とは無縁でいられます。

仮に、一時的に状態が下がって、憑依現象があったとしても、自分が低いコンディションから抜け出していけば、それで自然に、低い現象からも切り離されて、元に戻っていけます。

結局すべて、自分の問題、なのです。

自分に何も原因がないところで、自分の状態と連動していない憑依が発生することはないので、「霊に憑依されて、悪影響を受けているのではないか」と、心配なときは、「自分の今の状態は、波長が高いといえるか」と、考えてみてください。

そして、必要があるなら、自分を高める努力や工夫をしていけば、仮に憑依がそのときあったとしても、状態が整ったり向上したりすることに比例して、そのうち自然に切り離されて解消されていくでしょう。

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2013年5月18日 (土)

自分を信じる気持ちを、見出すための思考。

自分を信じることが、容易に出来る人と、なかなか出来ない人がいます。

出来る人にとっては、とても自然で普通の、ある種、気の持ちようの延長のように出来てしまいますが、出来ない人にとっては、「どのようにすれば、それができるのか」、という思考を進めるきっかけも思い浮かばないような難題になると思います。

自分を信じられるようになるには、実にさまざまなアプローチの方法がありますが、まず、そのうちの一つをご提案させていただこうと思います。

「自分自身を含めて、自分の一番の理解者は、誰か」という、分析です。

自信が持てない人の多くは、この問いに即答できない場合が多いでしょう。自分、とは言い切れず、かといって誰といわれても難しい、そもそも、そんなことを考えてもみたことがない、という感じではないかと思います。

自分を信じることが出来る人は、上記の問いに、わりとあっさりと、「それは自分自身だと思う」という結論を出せると思います。この差に、ひとつのポイントがあると考えます。

「自分自身を含めて、自分の一番の理解者は、誰か」、一般的に考えれば、それは、自分自身、なのです。が、そのような考え方が出来にくい人が、自分を信じることが出来にくくなりがちです(いろんなパターンがありますから、もちろん全員にこれが該当するわけではないです)。

特に、自分のことが嫌いな人が、そういう考え方が出来にくいです。

自分のことが嫌いな人は、どんな内容についても、「嫌い」という感情が先にたち、それ以上に自分について考えたり分析をしたりするのが苦しいので、「感情の、その先」にある理性による思考をする機会があまりないと思います。

好きか嫌いか、という感情だけではない、その先にある思考で、冷静にとらえたときに、自分の一番の理解者は誰なのか、そこを考えてみることが大事です。

まず、考えてみます。自分の理解者は、誰なのか、自分自身なのか、他人なのか・・・。心ではそうは思えなくても、理屈で考えて出す答えでもいいのです。「まあ、実際、そうは思えないけれど・・・、一般的には自分、ということになるよね」という答えでもいいのです。

その思考がどのくらいの時間を要するかは、人それぞれでしょうが、ちゃんと思考に取り組むならば、少なくとも、数分はかかりますよね。

そこで、改めて考えてみてほしいのです。仮に、その思考の答えが、やはり自分の理解者は自分だとはいえない、という結論になったとしても、「今、こうして、時間を確保して、一生懸命自分について考えた」という、事実について、です。

たとえば、友達や知人などが、自分について、「あの人の、一番の理解者とは、誰なのだろう?」という思考に、時間を費やしてくれる機会が、どのくらいあるでしょうか。それは、逆に、「自分が、他人のために、そこまで考える機会がどのくらいあるか」を踏まえて、当てはめてみればわかりますよね。

そのような深いところの分析とは、自分にしかできない、自分しか、しようとしないもの、だと思うのです。ごく一部の、それを職業にしている人などを除けば、自分以外の他人のことに、そのような思考をする機会も、そのための時間も、持つことはほとんどないと思います。

自分のことが仮に、あまり好きではなくても、思考の結果、自分のことを現時点では自分の理解者だとは言えない、という結論になった場合でも、それでも、一連の分析という作業は、「自分を理解しようと、寄り添っている」作業で、その「事実」には、少なくとも納得はできるはずです。

そうして、考える機会を持ち、そして、その「事実」に対する納得をしていけるならば、仮に自分を好きではない気持ちは変わらなくても、それでも、自分の一番の理解者は自分自身だ、という思いが作られ、それが、自然に、自分を信じる気持ちとして、根付いていくと思います。

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2013年5月17日 (金)

「使命」を意識する時期。

赤ちゃんの頃、・・・その頃のはっきりした記憶というのは、私自身はまったくないですが、しかし、「今のような感覚」では、生きていなかっただろうな、というのは、なんとなくですが分かります。

言葉で表現するのは難しいですが、全能感というか、万能感というか、そういう感覚をもっているのではないかな、と思います。

まだ何もしらず経験もないので、恐れとか遠慮とか恥とかの気持ちもないし、本能以外の「欲」というのも、この世というものを知らないから、まだ明確にはつくられていない、そんな状態は、一種の全能感であり、万能感、と言えるように思うのです。

少し大きくなって、物事が分かるようになってくると、目で見たもの、耳で聞いたもの、手で触れたもの、という経験が、価値基準をつくっていくようになります。

それでも、少年・少女のうちは、まだ、赤ちゃんの延長のようなもので、うっすらと、全能感・万能感の名残があって、まだ見ぬ未来に、大きな期待や夢を抱くことができるものです。

中学生になる自分、高校生になる自分、社会に出て働く自分、という未来の姿を、いくらかは想像することができるようになりますが、しかし、それは、あくまで、「子供の感覚でとらえた、解釈」で、未来にあるのは、成長や発展や拡張といった、「今よりも、大きくなること」だと、疑いなく、そう思っています。

未来とは、大人になるとは、「今は出来ないことが、成長とともに、出来るようになる」という受け止め方を、どこかでしているものではないでしょうか。

自分が年を取ることや、昔は出来ていたことが、出来なくなっていく未来があることは、想像もつかない時期です。

おじいちゃんや、おばあちゃんも、昔は、自分と同じように少年であり少女だった、ということは、理屈では分かっていても、感覚はまったくわからないでしょう。私は、子供の頃を思い返してみれば、そうでした。

それでも、誰にも等しく、時間という仕組みは作用していき、少年・少女も、年齢を重ねて大人になっていきます。

たましいは永遠ですが、しかし、今回の人生という機会には、長く生きてもせいぜい100年という、限りがあります。

そういうことを意識しだすのは、通常、大人になってからです。たとえば、身近な人がこの世を去るという経験をしたり、自分自身の体力気力が低下したり、子供だから若いから、と大目に見られていたことが、大人になると通用しないと分かったり・・・、そういう経験をいろいろ重ねてこそ、ではないでしょうか。

「今よりも、大きくなること」だと思っていた、「未来に関する感覚」は、ずっと永遠に続く感覚ではないと気づき、「人生とは、有限である」ことが、現実として、自分に迫ってくるのは、ある程度年齢を重ねてからです。

ということは、その限られた時間、与えられた人生という機会を、どのように生きていくか、しっかりと考えられるようになるのは、その実感としての気づき以降、その多くは、人生の中盤以降、となるでしょう。

与えられた人生という機会の、限られた時間、それは、この世における「命」です。 

その命を、いかにして「使う」か、それが、「使命」だと、私はそう思います

または、その限られた時間という命を、使うに値することを、今生における使命、と表現するのかもしれません。

人生は、実はそんなに長くはない限られた時間ですが、命をどう使うかについて、しっかり考えられる時間というのは、人生全体よりも、さらに限られた、もっと短い時間です

実感として意識して、気付いたならば、その気づきを大事にしていくべきだと思います。

「私の使命は何ですか?」と、いとも簡単に尋ねられることがあるけれど(^^;)、使命とは、命を使うことであって、それは、ひと言ふた言で、簡単に表現できるものではないと思います。ですので、そういうご相談は、私はお引き受けせずに、お断りさせていただいています。

人生も半ばになって・・・、子供の頃に「今よりも、大きくなること」だと、漠然と思っていた未来は、実は有限である、ということが、「実感として」分かっていくようになってはじめて、使命について、つまり、「今生において、自分の命の時間をどう使うか」について、自分なりの答えが、心の中につくられていくものではないでしょうか。

若いうち特有の、万能感が強いうちは、使命は見えてこないように思うのです。ある意味、こちらの世界の現実に染まって(^^;)、万能感から良くも悪くも遠ざかって、限りがある人生を意識し出したときに、この人生で何を為すか、という時計の針が、動き出していくのでしょう。

使命を意識する「時期」、それは、上記の時計の針が、動き出したとき、だと思います。

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2013年5月15日 (水)

複雑にとらえすぎないことも、大切。

大人になると、とかく物事を複雑に受けとめがちになるものです。

社会性が身について、思考力が発達して、知識が増えていくほどに、シンプルに受けとめて、シンプルに考えていくことが、出来にくくなります。

複雑に受けとめることが、自分にとっての「普通」の状態になっていき・・・、いつのまにか、複雑に受けとめるほどに「高度」であるような気分になっていき、さらには、複雑さにこそ「価値」がある、ように思えてきて、複雑に受けとめ考えている自分に「安心」するようになります。

複雑であれはあるほど、高度であり、価値があり、正しく、安心ができる、というような価値観が、自分の中に、作られてしまうのです。

それは、逆に言えば、複雑でない状態など、低度であり、価値がなく、間違っていて、不安である、という価値観です。

複雑であるほど望ましい、という思い込みにとらわれているときには、シンプルなものは不安になります。思考や分析の負担が掛からないという、手間や手応えの少なさが不安なのです。

このようなタイプの人は、複雑にしすぎて不調和が出ているのに、その解決のために、ますます複雑にしたり、別の観点からの複雑さを付加しようとして、混乱を引き起こす傾向があるので注意が必要です。

そして、自分とは逆に、すべてをシンプルにとらえて複雑に受けとめないタイプの人を見下したり、否定したりすることもあります。複雑であるほどよい、正しいと思っている人にとっては、シンプルにとらえる人の思考や行動が、いい加減なちゃらんぽらんに思えてしまうためです。

確かに世の中のさまざまな仕組みに対応していくには、ある程度の複雑さをもっている必要があるのは事実であり、シンプルすぎるタイプの人の、シンプル過ぎる言動によって、割りを食ってしまうことが多いのが、複雑タイプの人なので、そのように思ってしまうこともあるでしょう。

けれど、いろんな人がいるからこそ、世の中が成り立っています。複雑な人ばかりの世の中になったら、それはそれで、堅苦しいし、窮屈ではないでしょうか(^^;)。

複雑にとらえることで、うまくいく物事も、たくさんあるけれど、シンプルにとらえるほうが、うまくいく物事もたくさんあります。人も同じで、複雑なタイプも、シンプルなタイプも、両方がいるから、お互いに学び合っていけます。

すべてに言えますが、適度であったら望ましいことも、過度になったらバランスがとられません。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、という言葉のとおりです。何でも複雑であればあるほどよい、というのは偏った思い込みであることに気付く必要があります。

複雑に考えることが「出来る」感性があるのは、素晴らしいことであるのは確かです。複雑さを、必要な場面で、活用していくという、使い分けや、度合いの調整のような感覚を、加えていくことができたら望ましいですね。

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2013年5月14日 (火)

周囲の人が、「手に持った物を、落とす」場面に遭遇する時。

自分の近くにいる人が、手からハンカチを落とす、とか、持っていた帽子を落とす、などの状況に合う、そういう場面が、やけに視界にはいるときは、コンディションが下がっていないか、マイナス思考に陥っていないか、ちょっと時間をとって、自分を振り返ってみてください。

誰かの悪口のようなことを頭の中で思い浮かべていたり、いつか仕返しして思い知らせてやる、なんて思ったり・・・、どちらかといえばよからぬ思考をしているときに、ちょうどそのタイミングで、近くにいる人が、手から物を落とすという現象が、頻発することがあり得ます。

誰にでも起こるとは限らず、上記のようなことが、起こりやすい人と、そうでない人がいます。また、物を落とす側の役割を担いやすいタイプの人も、います(^^;)。

なぜ、このような現象が起こりうるのか・・・、それは、自分と周囲の人との間で、「エア筋反射」みたいな繋がりが、作られているからです。

筋反射というのは、オーリングとか、キネシオロジーとかが知られていると思います。自分にとって望ましくないものや不要なものであれば、自然に力が抜けて、指でつくったオーリングが離れてしまう、という仕組みで、自分に合うものを探すとか選ぶとか、またはその逆で、合わないものを探すとか、そういう形式の使われ方をしています。

基本、それと同じような仕組みなのです。

それが、自分だけでなく、自分とその周囲にいる人との「間」で起こってしまうのが、上記のような現象です。(もちろん、物を落としたすべてが該当するわけではないです)。

コンディションが下がっているとき、または、ネガティブなことを思い浮かべたときに、そのエネルギーが、周囲の人に伝わって、その人が(力が抜けて)物を落とす、という行為に繋がることがあるのです。

そういうことが起こりやすい人と、そうでない人がいる、と書きましたが、この現象が起こるのは、ネガティブなことを思い浮かべた人は、「思いの力が強いタイプ」や「オーラに勢いがある、能動的なタイプ」などに多く、そのエネルギーに反応して、物を落としてしまうのは、「受信力が高いタイプ」や「影響されやすい敏感なタイプ」であることが多いです。

「人の思い」というエネルギーは、そのくらい近くにいる人にも影響をあたえる可能性があるものだ、と考えると、ちょっと驚きますよね。

けれど、自分と相手は別個の分離した存在だ、という感覚というのは、この世における幻想のようなもので、実は、お互いにエネルギー的な面では繋がりがあり、影響を与えあっているので、ときに、このような、自分の「思いの力」が、相手に影響を与えてしまう現象がつくられます。

このようなことは、おそらくあまり気付かれないまあ、日常発生している些細なことかと思いますが、しかし、こうして、ネガティブな思考が外に(意識して、そうしようとしなくても)放たれていて、他者にも影響を与えていくものである、というエネルギーの仕組みを分かっておくことは大事だと思います。

逆に言うと、状態がよくて、ポジティブな思考をしているときには、周囲の人に、上記の逆の影響として、力を与えることも、あると言えるのではないでしょうか。

いつも、明るい気持ちで過ごしていくようにしたいものですね。

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2013年5月13日 (月)

シンボリックな透視、という形式があります。

この写真は、画像を加工して作成したものです。あるときの、ご相談者さんに対する、私の霊的な視野にうつった様子を、再現してみました。

Image512

(ちなみに、これはオーラ透視とは無関係です。写真の様子は、オーラの色ではありません。)

霊視・透視というのは、いろんな見え方がありますが、客観的な「事実そのもの」を、写真や映像のように見る場合もあれば、事実そのものではなく、それ示すような「記号」「象徴」に置き換わって、見えることなどもあります。

私は比較的、後者のほう、シンボリックな何かに置き換わった形での透視が多いです。

その「シンボリックな画像」が見えると、その「意味、解釈」が同時に、または少し遅れて伝わってきます。

それがはっきり見えても、その意味するところは、はっきりとは伝わってこないところもあり、その解釈には、自分なりの感性とか経験とか、知識などによって、補いながら、組み立てていくような部分もあります。

このような、シンボリックな見え方というのは、「その透視者独自の、意味のつながり」を持っていることが多いですね。私でいえば、「私という透視者と私のガイドとの中で、構築されていく意味」をもつもので、他の人達が、同じものをみて同じ解釈をするとは限らない、というか、説明が難しいのですが・・・、

たとえていえば、「リンゴ見えたらが、明るい人を示す」という意味があるとして、それは、どんな透視者も、リンゴが見えたら、相手の人が明るい人であることが分かる、などのようなものではなくて、そのような意味の結びつきは、私独自の、私が透視して把握する場合の記号のようなものにすぎない、ということです。

なので、他の(同様な、シンボリックな透視が得意な人がいるとして)透視者が、相手にリンゴをイメージした場合、私と同じ解釈になるとは限らず、「リンゴが見えてきたら、健康的な人だ」という意味を見出す場合もあるかもしれない、ということですね。

これは、あくまで、分かりやすく表現した場合です。実際には、「○○が見えたら、××である」というような単純な組み合わせとは、ちょっと違いますけれど。

この画像の、タイルのようなブロックのような四角形の並びが、頭の位置にみえたときには、その人が、デジタルっぽい考え方をしている、とでもいえばいいのでしょうか、理屈とか規則とかを重視して、どちらかといえば、マニュアル的な思考をしていて、情緒に基づいた解釈をしないタイプであることを、(私の透視上においては)示しています。

で、このような様子が見えてくる、ということは、その点(情緒のやりとりが苦手である、という点)が、ご相談への回答のポイントになってくる、というような、繋がりが存在するわけです。

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2013年5月11日 (土)

たましいの望む方向へ、軌道修正がなされることがある。

私たちは、それぞれに、「たましい」という領域をもっていて、いろんな個性や特性を発揮したり、課題を経験して学んだりしながら、この人生を過ごしています。

この世に生まれてくる、ということは、「そうする必要がある」ということです。意味なく生まれてくることはありません。誰もが、たましいレベルでは、「望んで」生まれてきているのであり、学びにあった環境や状況を「自ら、選んで」生まれてきています。

望んで来ている、ということは、この世で学ぶべき要素が何かしら存在することを示しています。

一度の人生で学ぶ範囲は、とても大きく・・・、ひと言ふた言では表現できない、人間の知覚力では把握もしきれない、広くて深いものです。は数量では表現できないですが・・・、無数にある、といえるくらいの範囲です。

把握しきれないくらいの、無数ともいえる膨大な領域ではあるけれども、それでも、その領域の中で、一定の方向性というか、たましいがこの人生で学ぼうとしている、一貫した方向性を備えている人、そういうパターンで生まれて来ている人が、少なからずいます。

そういう人がいる、ということは、そうじゃない人もいるのか、という話になりますが、答えは「イエス」です。そこは、それぞれのたましいの求めていることの違いで、バリエーションがあります。特定の分野だけにとらわれず、広く浅くたくさんのことを経験するパターンを決めて来ている人もいますし、そのほかにも、いろんなパターンがあります。

一貫した方向性の学びを決めてきている人で、たましいの望む学びの方向性と、違う方向に進もうとした場合に、自分の意向や感情とは無関係に、その人に最もふさわしい道へと、導かれていくことがあります。ある意味、軌道修正が掛かってしまう、とも言えるでしょう。

この世での経験を、何もかもあらかじめ決めて来ているわけではないので、そのときの展開しだい、自由意思に任される部分もあり、細かい部分は、その都度、リアルタイムで(無数にある学びの中から)必要な学びを選択して、同時に実行していることになります。

ですので、たましいが望む「方向」というのも、それほどタイトなものではなくて、だいたいの方向にあっていればよいわけですが、そこから、あまりに大きく外れる方向へ興味関心が出てくるなどした場合に、本人の意向を超えたところで、何らかの見えない力が働いて、方向転換をさせられるというか、軌道修正が掛かっていくことが、起こる場合があるのです。

(そのような場合の)たましいが望む方向、というのは、それが好きとかの「感情」「気分」などの、揺らぎやすく安定しないものではなく、明確で揺るぎない「課題」や「学び」に基づいたものです。

そのようなケースの多くは、備えてきた才能や個性を、広く世の中に向けて発揮していくことを促されるでしょう。才能や個性は、自分が持っているものではありますが、それは「使うため」に授かったものでもあるので、人のために活用していくことを求められるのですね。

自分の感情や気分のとおり、好きなように振る舞っていけるのが幸せなのか、それとも、自分の才能や個性を(自分のためだけでなく)人のために発揮して役立っていくことが幸せなのか・・・、その答えを出すのは難しいものです。

後者のほうが、理屈の上では理想的だろうなと思うとしても、私たち人間にはそれぞれ感情というものがあります。そして自分の人生をクリエイトしていける自由意思があるのが人間なので、なんだか割に合わないような気持ちになってしまうこともあるかもしれません。

しかし、生まれてくる目的にはさまざまなパターンがあって、中には、「人のために生きよう」と、そういう目的をはっきりと決めてきている場合もある、ということです。

そういう学びを持って来ている人は、違う方向へ行こうとしても、本来の行くべき道に戻されるというか、そうして決めてきたことを、思い出させられるような状況に向き合わされ、気付かされることがあるのです。

そのケースに該当するならば、最初は感情的な抵抗や納得のいかない思いがあっても、時間とともに、これが自分にとってベストだった、この道に向かわされてよかったのだ、と、後になれば、思うようになっていけることがほとんどです。

というより、「後になってしか、気づけない」ものかもしれません。時間がたって、その当時より広い視野をもって全体を見渡し、自分を省みることができるようになったときに、「そういえば、あの時が分岐点だったな」と、納得とともに分かっていくもの、だと思います。

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2013年5月10日 (金)

古くからの「習わし、しきたり」に効力はあるのか。

昔から受け継がれている、半分迷信のようなものもふくめて、いろんな習わし、しきたりがありますよね。

たとえば、冬至に柚を浮かべたお風呂にはいると、風邪を引かない、とか、端午の節句に菖蒲湯に入ることで邪気を払う、などです。

これらは、実際に効果があるのか、あるとしたらどういう仕組みによってそれがなされるのかを書いてみたいと思います。

このような行為に、科学的な作用というものも、実際にあると思うのです。植物を使うことで、香りによる、アロマテラピー的な効果とか、血行を促進するとか。

さらには、気持ちの上で、いつもと違う、非日常な行事をすることで、テンションが上がって、調子がよくなる、ということも、あるかもしれません。

そして、そのような科学的な部分や、気分の問題という部分を超えた作用、スピリチュアルな領域での作用も、あると思います。

それには、大きく分けて、二通りの作用があると考えられます。

ひとつは、その道具なり、方式なりが、特定の作用を引き起こす、ということ。例えていえば、菖蒲という植物そのものに、邪気を払う作用があって、菖蒲湯に入ると邪気が払われる、という形です。

大昔に、感覚の鋭い人がいて、そうした作用を見抜いて、風習がつくられた、のかもしれません

もうひとつは、その行為を行う、「人の思い」が、特定の作用を引き起こすための、エネルギーとなる、という形です。

人の「思い」も、目には見えないけれども、行動や発言と同じように、エネルギーとして作用する実体を持つのは、過去に何度もお伝えしたとおりです。

その仕組みを前提とすれば、大昔から、「菖蒲湯に入ると、邪気が払われる」という、たくさんの人々の「思い」と、そして「行為」が、山ほども積み重ねられ、 それを何十年、何百年と繰り返していくことで、蓄積は大きなものとなり、そのエネルギーが一つの型となる、という、信じて期待する人の思いの積み重ねが、実際に作用を「創り出す」というパターンです。

そうしてエネルギーを積み重ねていくうちに、菖蒲を入れた風呂に入る、という「行為」が、作用を呼び起こす「型」となっていく、型が作用を帯びていくようになるのは、あり得ることです。

この二つのどちらかなのか、それとも両方なのか・・・、そこは分かりませんが、長く続けられている風習には、相応の意味なり作用なりは、存在することが多い、とは言えると思います。

想念は、見えたり聞こえたりしないので実感しにくいですが、実は、とても大きな作用をもつエネルギーで、長く続いている「習わし、しきたり」などは、相応の作用を持っている、とも言えるでしょう。迷信のように思えても、そこには、何かの効果が、年月とともに「作られて」いき「育って」いくことは、仕組みとしてあり得ることです。

その効果を、いくらかでも、私たちが、受け取らせていただけるのは、過去の多くの人達が、行為を積み重ね、思いを積み重ね、「創ってくださったもの」があるから、とも言えますので、感謝をもっていくことも大事ですね。

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2013年5月 7日 (火)

全ての人と、よい関係を作ろうとしなくてもいい。

人間関係で悩んでいる方の中には、そうなる原因について、またはそうなってしまった事実について、「考えすぎ」「気にしすぎ」の人が少なくありません。

うまくいかない、という現象には、そうなる原因が、何かしらあるのでしょうけれど、しかし、「この出来事が、原因です」というような、明確な説明や定義がつけられることばかりではありません。

ケンカしたとか、意見が合わなかったとか、そのような「特定の出来事」があるならわかりやすいですが、単に性格や考え方の違いから、距離感が生まれてしまうこともあるでしょう。

人の数だけ個性があります。どんな場面でも、人が数人集まれば、「仲の良い人もいれば、そうでない人もいる」、という状態になるのが一般的で、すべての人と分かり合うのがベストであるかのような考え方は、ちょっと現実的ではありません。

そういう関係が実在するとしたら、相当のレアケースで・・・、人がたくさんいれば、多少は(自分がその当事者にはならないとしても)揉め事なり、スムーズにいかないことがあるのが普通だ、というくらいの受け止め方が、ちょうどよいと思います。

会社、親戚、友達付き合い等の、その場の空気を壊さない程度に、なんとかやっていく、表面だけでも整えていく、という振る舞いが、求められてくることもあるのが、大人の人づきあいの形、だと思います。

そのように、「個性の違う人が集まれば、少しくらい、いろいろあるもの」というとらえ方をせずに、「上手くいかないのは、きっかけとなる特定の出来事があったはず。それを探して、改善しなければ」と、狭くとらえてしまうと、実際には存在しない「出来事」を探し続ける迷路にはまり込みます。そうして悩み続ける人が少なくないように思います。

それは、ある意味、「自分が(深く考えすぎることによって)悩み事を作り出している」とも、いえるでしょう。

特定の原因がなくても、価値観の違いや、立場の違い等により、あまりうまくいかない人間関係もありうる、というくらいに受けとめておくと、割り切りができ、考え過ぎにならずにすみます。

「心を許しあえる関係」と「あまり親しいとは言えない関係」を、わけて考えましょう。両方を、同じように付き合う必要はなく、使い分けることは、大人の知恵であり、怠惰でも手抜きでもありません。

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2013年5月 6日 (月)

自分のことだけを考え、優先する時期が、あってもいい。

他人を考慮せずに、自分のこと「だけ」を、考えて振る舞うことを、「常に」行っている人は、ちょっと自己中だとか、子供っぽいワガママとか、そういう評価をされることが多いと思いますし、実際に、そう思われてしまうことも致し方ない部分もあるでしょう。

けれど、「常に」その考え方「だけ」を押し通しているのでなければ、つまり、「適度」であるならば、自分を中心にした言動も、自分を優先させようとする思いも、誰にでもある普通のことで、少なくとも批判されるようなことではないはずです。

人生80年、といわれる時代だけれど、その期間を、ずっと同じ条件で過ごせるわけではありません。

子供のうちは、世の中を知らないし、自由も権利もないし、自分の思うとおりの行動は、それほど取れませんよね。大人のような責任がないかわりに、実は、出来ることには、限りがあります。

年齢を重ねていくと、今度は、いろんな責任がついてまわり、子供の頃や、若い頃のような勢いに任せた行動は、取りにくくなっていきます。また、実際に、肉体的な体力も衰えるので、そういう意味での制限も出てきます。

そう考えると、人生のうちで、自分のことだけを考えて、自分を優先して過ごしていくことが可能なのは、ほんの一時期であり、それほど長い期間ではありません。

あまりに度が過ぎた、自分のことだけしか考えない言動を、いつまでも続けていくのは困りものですが・・・、しかし、そこまでではない、許容範囲でのことならば、自分のことにじっくり取り組むとか、後先考えずに夢に向かっていくとか、大恋愛にのめり込むとかの経験も、貴重なものだと思います。

誰もが、一律、年齢を重ねていきますから、そのうち、どうやっても、自分のことだけを考えていられない、いろんな責任が肩にのしかかってくるようになります。

子供のこと、ご主人のこと、親のこと、会社の部下のこと、社会情勢のことなど、いろんなことを考えたり、心配したりしなければならない、そういう時期がいずれやってきます。

そういう時期にさしかかったとき、過去の経験、「自分のことだけに夢中になって、周りが見えていなかった若い時期」のいろんな思い出が、心の支えになることも、少なくないようです。

「自分のことだけに夢中になって、周りが見えていなかった若い時期」の行動というのは、そのほとんどが、後になって振り返れば無駄な遠回りだったり(笑)、結果だけ見れば失敗だったり、挫折や苦しみがいろいろあったりするものです。

けれど、時間が流れて、大人になったときに、そのすべてが「苦しさも込みで」、価値のあるすばらしい経験だった、と、思えるようになったりして・・・、その思いが、そこから先の人生を支える役割をはたしてくれたりも、するんですね。

なので、ほんの一時期、何よりも自分を優先して、いろんなことに夢中になる時期があってもいいと思うのです。「そのように振る舞うことが、出来る」という状況って、当たり前ではない、ありがたいことで、そして、永遠には続かない、限られた時間です。それが可能なときに、十分に経験して味わっておくことは大事だと思います。

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