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2013年5月の5件の記事

2013年5月29日 (水)

謝らない人は、頑固で自己中・・・とは、限らない。

どんな失敗をしても、責任の所在は明らかにその人にある場合でも、決して謝らないタイプの人が、いるものです。

そういう人は、とても頑固で自分の非を認めたくないのだ、とか、自分に自信がありすぎて非を認められないのだとか、そういう解釈をされることが多いです。確かに、そういう場合もありますが、中には、「謝り方が、分からない」というケースもあります。

頑固なのでもなく、自信持ちすぎなのでもなく、単に、そういう場合に、謝るものだ、ということが分からない、謝る必要性は理解していても、謝り方が分からないので、行動に移せない人が、結構いるのです。

強く自分を主張して意見を曲げないとかではなくて、どこが誤りポイントなのかが分からない、うまくいっていないことは理解していても、具体的にどこが悪いのかが分からないので、謝れない状態を、周囲の人達が誤解して、勝手に「あの人は自信過剰だから」とか「自分の間違いを認めない狡さがある」などと定義をつけていき、そうすると、他人にそれを尋ねるきっかけもなくして、謝れなくなってしまう、ということも、あるんですよね。

このようなケースは、その人の持って生まれた性質が関係していることもありますが、比率としては、後天的な、育ち方に起因していることが少なくないように思います。

親がなんでも認めて甘やかしてしまったとか、逆に、親が過干渉になって手を掛けすぎてしまったケースは、自発的に謝るとか、求められて謝る、という機会を経験していないため、そういう場合に一般的にどのような対応を求められるか、というのが、分からないことがあるのです。

「理解しようとしない」人に、理解を望むは、実際のところとても難しいですが・・・、「経験が少ないから、分からない」だけならば、手本を見せて、言葉を尽くして説明していくことで、時間を掛けて少しずつでも分かっていくこともあるかもしれません。

どんなことにも言えますが、そうなるに至る理由はひとつではないので、人の数だけ、独自の理由がありますから、簡単にひとつの定義で人を決めつけたり裁いたりせずに、「いろんなケースがありうる」という理解が大事だと思います。

その人が謝らない人だとして、頑固で自己中だからそうなるのか、それとも謝り方が分からないからそうなってしまうのか、自分が被害を受けたとか迷惑を掛けられているとかの感情は抜きで、冷静になってその人を理解しようと気持ちを寄せていけば、おおよその判断をつけることは、できると思います。

いろんな人がいますから、多様性を理解していくことは大事だと思います。その一例として、結構よくいる「謝らない人」について書いてみました。

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2013年5月17日 (金)

「使命」を意識する時期。

赤ちゃんの頃、・・・その頃のはっきりした記憶というのは、私自身はまったくないですが、しかし、「今のような感覚」では、生きていなかっただろうな、というのは、なんとなくですが分かります。

言葉で表現するのは難しいですが、全能感というか、万能感というか、そういう感覚をもっているのではないかな、と思います。

まだ何もしらず経験もないので、恐れとか遠慮とか恥とかの気持ちもないし、本能以外の「欲」というのも、この世というものを知らないから、まだ明確にはつくられていない、そんな状態は、一種の全能感であり、万能感、と言えるように思うのです。

少し大きくなって、物事が分かるようになってくると、目で見たもの、耳で聞いたもの、手で触れたもの、という経験が、価値基準をつくっていくようになります。

それでも、少年・少女のうちは、まだ、赤ちゃんの延長のようなもので、うっすらと、全能感・万能感の名残があって、まだ見ぬ未来に、大きな期待や夢を抱くことができるものです。

中学生になる自分、高校生になる自分、社会に出て働く自分、という未来の姿を、いくらかは想像することができるようになりますが、しかし、それは、あくまで、「子供の感覚でとらえた、解釈」で、未来にあるのは、成長や発展や拡張といった、「今よりも、大きくなること」だと、疑いなく、そう思っています。

未来とは、大人になるとは、「今は出来ないことが、成長とともに、出来るようになる」という受け止め方を、どこかでしているものではないでしょうか。

自分が年を取ることや、昔は出来ていたことが、出来なくなっていく未来があることは、想像もつかない時期です。

おじいちゃんや、おばあちゃんも、昔は、自分と同じように少年であり少女だった、ということは、理屈では分かっていても、感覚はまったくわからないでしょう。私は、子供の頃を思い返してみれば、そうでした。

それでも、誰にも等しく、時間という仕組みは作用していき、少年・少女も、年齢を重ねて大人になっていきます。

たましいは永遠ですが、しかし、今回の人生という機会には、長く生きてもせいぜい100年という、限りがあります。

そういうことを意識しだすのは、通常、大人になってからです。たとえば、身近な人がこの世を去るという経験をしたり、自分自身の体力気力が低下したり、子供だから若いから、と大目に見られていたことが、大人になると通用しないと分かったり・・・、そういう経験をいろいろ重ねてこそ、ではないでしょうか。

「今よりも、大きくなること」だと思っていた、「未来に関する感覚」は、ずっと永遠に続く感覚ではないと気づき、「人生とは、有限である」ことが、現実として、自分に迫ってくるのは、ある程度年齢を重ねてからです。

ということは、その限られた時間、与えられた人生という機会を、どのように生きていくか、しっかりと考えられるようになるのは、その実感としての気づき以降、その多くは、人生の中盤以降、となるでしょう。

与えられた人生という機会の、限られた時間、それは、この世における「命」です。 

その命を、いかにして「使う」か、それが、「使命」だと、私はそう思います

または、その限られた時間という命を、使うに値することを、今生における使命、と表現するのかもしれません。

人生は、実はそんなに長くはない限られた時間ですが、命をどう使うかについて、しっかり考えられる時間というのは、人生全体よりも、さらに限られた、もっと短い時間です

実感として意識して、気付いたならば、その気づきを大事にしていくべきだと思います。

「私の使命は何ですか?」と、いとも簡単に尋ねられることがあるけれど(^^;)、使命とは、命を使うことであって、それは、ひと言ふた言で、簡単に表現できるものではないと思います。ですので、そういうご相談は、私はお引き受けせずに、お断りさせていただいています。

人生も半ばになって・・・、子供の頃に「今よりも、大きくなること」だと、漠然と思っていた未来は、実は有限である、ということが、「実感として」分かっていくようになってはじめて、使命について、つまり、「今生において、自分の命の時間をどう使うか」について、自分なりの答えが、心の中につくられていくものではないでしょうか。

若いうち特有の、万能感が強いうちは、使命は見えてこないように思うのです。ある意味、こちらの世界の現実に染まって(^^;)、万能感から良くも悪くも遠ざかって、限りがある人生を意識し出したときに、この人生で何を為すか、という時計の針が、動き出していくのでしょう。

使命を意識する「時期」、それは、上記の時計の針が、動き出したとき、だと思います。

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2013年5月14日 (火)

周囲の人が、「手に持った物を、落とす」場面に遭遇する時。

自分の近くにいる人が、手からハンカチを落とす、とか、持っていた帽子を落とす、などの状況に合う、そういう場面が、やけに視界にはいるときは、コンディションが下がっていないか、マイナス思考に陥っていないか、ちょっと時間をとって、自分を振り返ってみてください。

誰かの悪口のようなことを頭の中で思い浮かべていたり、いつか仕返しして思い知らせてやる、なんて思ったり・・・、どちらかといえばよからぬ思考をしているときに、ちょうどそのタイミングで、近くにいる人が、手から物を落とすという現象が、頻発することがあり得ます。

誰にでも起こるとは限らず、上記のようなことが、起こりやすい人と、そうでない人がいます。また、物を落とす側の役割を担いやすいタイプの人も、います(^^;)。

なぜ、このような現象が起こりうるのか・・・、それは、自分と周囲の人との間で、「エア筋反射」みたいな繋がりが、作られているからです。

筋反射というのは、オーリングとか、キネシオロジーとかが知られていると思います。自分にとって望ましくないものや不要なものであれば、自然に力が抜けて、指でつくったオーリングが離れてしまう、という仕組みで、自分に合うものを探すとか選ぶとか、またはその逆で、合わないものを探すとか、そういう形式の使われ方をしています。

基本、それと同じような仕組みなのです。

それが、自分だけでなく、自分とその周囲にいる人との「間」で起こってしまうのが、上記のような現象です。(もちろん、物を落としたすべてが該当するわけではないです)。

コンディションが下がっているとき、または、ネガティブなことを思い浮かべたときに、そのエネルギーが、周囲の人に伝わって、その人が(力が抜けて)物を落とす、という行為に繋がることがあるのです。

そういうことが起こりやすい人と、そうでない人がいる、と書きましたが、この現象が起こるのは、ネガティブなことを思い浮かべた人は、「思いの力が強いタイプ」や「オーラに勢いがある、能動的なタイプ」などに多く、そのエネルギーに反応して、物を落としてしまうのは、「受信力が高いタイプ」や「影響されやすい敏感なタイプ」であることが多いです。

「人の思い」というエネルギーは、そのくらい近くにいる人にも影響をあたえる可能性があるものだ、と考えると、ちょっと驚きますよね。

けれど、自分と相手は別個の分離した存在だ、という感覚というのは、この世における幻想のようなもので、実は、お互いにエネルギー的な面では繋がりがあり、影響を与えあっているので、ときに、このような、自分の「思いの力」が、相手に影響を与えてしまう現象がつくられます。

このようなことは、おそらくあまり気付かれないまあ、日常発生している些細なことかと思いますが、しかし、こうして、ネガティブな思考が外に(意識して、そうしようとしなくても)放たれていて、他者にも影響を与えていくものである、というエネルギーの仕組みを分かっておくことは大事だと思います。

逆に言うと、状態がよくて、ポジティブな思考をしているときには、周囲の人に、上記の逆の影響として、力を与えることも、あると言えるのではないでしょうか。

いつも、明るい気持ちで過ごしていくようにしたいものですね。

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2013年5月10日 (金)

古くからの「習わし、しきたり」に効力はあるのか。

昔から受け継がれている、半分迷信のようなものもふくめて、いろんな習わし、しきたりがありますよね。

たとえば、冬至に柚を浮かべたお風呂にはいると、風邪を引かない、とか、端午の節句に菖蒲湯に入ることで邪気を払う、などです。

これらは、実際に効果があるのか、あるとしたらどういう仕組みによってそれがなされるのかを書いてみたいと思います。

このような行為に、科学的な作用というものも、実際にあると思うのです。植物を使うことで、香りによる、アロマテラピー的な効果とか、血行を促進するとか。

さらには、気持ちの上で、いつもと違う、非日常な行事をすることで、テンションが上がって、調子がよくなる、ということも、あるかもしれません。

そして、そのような科学的な部分や、気分の問題という部分を超えた作用、スピリチュアルな領域での作用も、あると思います。

それには、大きく分けて、二通りの作用があると考えられます。

ひとつは、その道具なり、方式なりが、特定の作用を引き起こす、ということ。例えていえば、菖蒲という植物そのものに、邪気を払う作用があって、菖蒲湯に入ると邪気が払われる、という形です。

大昔に、感覚の鋭い人がいて、そうした作用を見抜いて、風習がつくられた、のかもしれません

もうひとつは、その行為を行う、「人の思い」が、特定の作用を引き起こすための、エネルギーとなる、という形です。

人の「思い」も、目には見えないけれども、行動や発言と同じように、エネルギーとして作用する実体を持つのは、過去に何度もお伝えしたとおりです。

その仕組みを前提とすれば、大昔から、「菖蒲湯に入ると、邪気が払われる」という、たくさんの人々の「思い」と、そして「行為」が、山ほども積み重ねられ、 それを何十年、何百年と繰り返していくことで、蓄積は大きなものとなり、そのエネルギーが一つの型となる、という、信じて期待する人の思いの積み重ねが、実際に作用を「創り出す」というパターンです。

そうしてエネルギーを積み重ねていくうちに、菖蒲を入れた風呂に入る、という「行為」が、作用を呼び起こす「型」となっていく、型が作用を帯びていくようになるのは、あり得ることです。

この二つのどちらかなのか、それとも両方なのか・・・、そこは分かりませんが、長く続けられている風習には、相応の意味なり作用なりは、存在することが多い、とは言えると思います。

想念は、見えたり聞こえたりしないので実感しにくいですが、実は、とても大きな作用をもつエネルギーで、長く続いている「習わし、しきたり」などは、相応の作用を持っている、とも言えるでしょう。迷信のように思えても、そこには、何かの効果が、年月とともに「作られて」いき「育って」いくことは、仕組みとしてあり得ることです。

その効果を、いくらかでも、私たちが、受け取らせていただけるのは、過去の多くの人達が、行為を積み重ね、思いを積み重ね、「創ってくださったもの」があるから、とも言えますので、感謝をもっていくことも大事ですね。

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2013年5月 7日 (火)

全ての人と、よい関係を作ろうとしなくてもいい。

人間関係で悩んでいる方の中には、そうなる原因について、またはそうなってしまった事実について、「考えすぎ」「気にしすぎ」の人が少なくありません。

うまくいかない、という現象には、そうなる原因が、何かしらあるのでしょうけれど、しかし、「この出来事が、原因です」というような、明確な説明や定義がつけられることばかりではありません。

ケンカしたとか、意見が合わなかったとか、そのような「特定の出来事」があるならわかりやすいですが、単に性格や考え方の違いから、距離感が生まれてしまうこともあるでしょう。

人の数だけ個性があります。どんな場面でも、人が数人集まれば、「仲の良い人もいれば、そうでない人もいる」、という状態になるのが一般的で、すべての人と分かり合うのがベストであるかのような考え方は、ちょっと現実的ではありません。

そういう関係が実在するとしたら、相当のレアケースで・・・、人がたくさんいれば、多少は(自分がその当事者にはならないとしても)揉め事なり、スムーズにいかないことがあるのが普通だ、というくらいの受け止め方が、ちょうどよいと思います。

会社、親戚、友達付き合い等の、その場の空気を壊さない程度に、なんとかやっていく、表面だけでも整えていく、という振る舞いが、求められてくることもあるのが、大人の人づきあいの形、だと思います。

そのように、「個性の違う人が集まれば、少しくらい、いろいろあるもの」というとらえ方をせずに、「上手くいかないのは、きっかけとなる特定の出来事があったはず。それを探して、改善しなければ」と、狭くとらえてしまうと、実際には存在しない「出来事」を探し続ける迷路にはまり込みます。そうして悩み続ける人が少なくないように思います。

それは、ある意味、「自分が(深く考えすぎることによって)悩み事を作り出している」とも、いえるでしょう。

特定の原因がなくても、価値観の違いや、立場の違い等により、あまりうまくいかない人間関係もありうる、というくらいに受けとめておくと、割り切りができ、考え過ぎにならずにすみます。

「心を許しあえる関係」と「あまり親しいとは言えない関係」を、わけて考えましょう。両方を、同じように付き合う必要はなく、使い分けることは、大人の知恵であり、怠惰でも手抜きでもありません。

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