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2012年12月11日 (火)

頑張っている自分を、過剰に正当化していないか。

「自分は、こんなに頑張っているのに、上手くいかない」とか、「こんなに頑張っているのに、他人がそれを認めてくれない」という不満を持ってしまうことがあります。

それについて、基本的な考え方として、「頑張ればいい、とは限らない」「ふさわしい頑張り方をしていない」「そもそも、頑張ることは、自分の都合によることが多く、他人がそれを考慮しないからといって、不満に思うのはおかしい」というポイントを、押さえておくことは、偏った考えにならないために、有効だと思います。

「こんなに頑張っているのに!」と訴える人とは、「自分の頑張りを拠り所としている」わけですが、その頑張りは、そもそも、「私はこんなに○○している!」と、主張できる内容なのか、その点をまずは考えてみてはどうでしょう。

頑張り自体は、悪いことではありません。むしろ、望ましいこと、褒められるべきこととしてとらえられるほうが多いでしょう。

けれど、頑張っているからといって、その行動のすべてが正当化されるとは限りません。不当なことに頑張ってしまうこともあると思います。不当だと気づかずに頑張ってしまうこともあれば、分かっているけれど自分がそうしたいから、という、感情論で止めることができない場合もあるでしょう。

頑張りが長期に及ぶほどに、自分の注いだ労力と時間が惜しくなって、途中で止めることができず、もっと良い方法はないのかと視点を変えることもせずに、同じことにとらわれて、頑張り続けてしまうことも起こり得ます。

たとえば、痩せたい目的の人がいるとして、「1日に、10個のドーナツを食べることで、痩せよう」と思い込むとします。当然のことながら、そんな方法で痩せられるわけはないので、そのような頑張り方では無理が、方法がふさわしくない、と気づくことが大切です。

この例えを読んで「そんなの、当たり前じゃないの」と思う人は多いでしょう。そう思うのは、「この例えの方法は、明らかにふさわしくないと、誰がみてもわかることだから」です。

世の中の出来事が、すべてこのように、わかりやすいものならば、誤解も曲解も生じません。

しかし、世の中の出来事のほとんどは、とても間違いやすく、明確でなく、あいまいで、簡単に誤解・曲解が生じる、不確かな要素を含んでいるので、ふさわしくない頑張り方をしていることに、なかなか、気づけないものなのです。

では、上記の話が、「1日に10個のドーナツを食べたいが、同時に痩せたい気持ちもあるので、市販品よりもカロリーが低いであろう、手作りドーナツに切り換えて、毎日、調理を頑張ることにした」という内容だったらどうでしょう。(上記の例はちょっと現実的ではないでしょうが、こちらのよう程度なら、現実にありそうですよね。)

たしかに、手作りのほうがカロリーは低いでしょうし、油の酸化も心掛けられるので、いくらかヘルシーにはなるでしょう。けれど、毎日10個も食べていたら、いくら手作りといっても、カロリーオーバーになることは必至です;。

つまり「このような頑張り方では、痩せられない」のですが、同時に「このような頑張り方は、(いくらかの良い面もあるので)、止めにくい、方向転換しにくい」のです。「だって、市販品よりも、ヘルシーなのだから」という、口実があり、そして、ドーナツを止めることはしたくない、さらには、毎日自作するという労力を重ねているので、それを無駄だと定義づけるようなことは、気持ちの上で拒否反応が出てきます。

そして、「だって、頑張っているのだから」と、頑張りから離れることができなくなります。頑張っている自分に酔ってくる、というか、頑張りがふさわしいか否かの検証をすることなく、頑張っているそのこと自体を、正当化してとらえていくようになります。

自分を正当化するほどに、自分の頑張り方に原因があると認められなくなるので、自分以外の他人や、世の中の仕組みに、その原因があると思い込むことになります。

「自分が一生懸命に、苦労して、時間を掛けて、頑張ること」と、「その行為が、手段としてふさわしいのか、成果に繋がるのか、他人に認められるほどの中身があるのか」、というのは、全く別のこと、ではないでしょうか。

しかし、頑張りを拠り所としてしまうと、そのような理性的な判断ができずに、「だって、私、頑張っているもん!」という、感情論になってしまうことがあります。

そうして頑張るほどに、自分が正当化され、そして、正当化されるほどに、他人を否定する根拠と権利が手に入ったような錯覚に陥り、ますます、狭い範囲にとらわれて、客観視ができなくなる人もいます。

重ねて言いますが、頑張りが悪いということではないのです。必要なときに、頑張ることは望ましく、素晴らしいことです。

しかしそれはふさわしい取り組み方や、度合いがあってこそ、であり、何でも頑張ればいい、とは限らず、自分はこんなにも頑張っているのだから、他人はそれを認めるべき、そうならない世の中はおかしい、という考え方は、とても自己中心的であることに、気づく必要があるのではないでしょうか。

ふさわしい方向、望ましい方法に、労力をつかっているか、という分析を、感情を抜きにして考えていく習慣が、その偏りを正したり、気づかせたりしてくれると思います。

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