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2012年12月の14件の記事

2012年12月27日 (木)

大変さの「度合い」は、それほど差はない。

自分と相手を比較するときに、自分に関わる事柄は意識しやすく、他人のそれは意識しにくいもので、「自分だけが、苦労していて不公平」とか、「あの人は、自分より楽をしていて、ずるい」という、受け止め方になりがちです。

自分の大変さは、自分が一番よく分かります。そして、他人の大変さを、「あの人の大変さとは、このくらいだろう」と、想像することはできても、実際に体験しているわけではないので、評価はあくまで、自分に置き換えた感覚的なものです。

そうすると、「あの経験を、もしも自分が体験するとしたら、このくらいの大変さだろう」という想像で、とらえることになります。

たとえば、いつも1時間くらい熱心に勉強している人が、30分しかしない人をみて、「あの人は、私の苦労の半分しかしていない」というような、解釈になることが多く、「あの人にとって、30分とは、どのくらいの大変さがあるのか」ということは、あまり意識されないものではないでしょうか。

それぞれ、個人の耐性、許容範囲、受けとめられる度量や、能力などは、違いますから、単純に、それに掛ける時間の多さや、回数などの、数字だけでは、本当は、比較はできにくいのです。

しかし、比較というのは、数字的なもので客観的な基準を設けないと、行いにくいので、表面だけを比較しては、「自分のほうが、こんなに大変で、あの人は楽をしてずるい」と、考えたくなってしまうものです。

私の経験ですが、一年前に大腿骨の骨折をして、手術をして、一月以上入院をしました。骨折にも、さまざまな度合いがありますが、私が折った箇所は、相当に重傷の部類になります。足の一番太い骨ですので、「最も折れにくい」はずで、普通は、高齢者しか骨折しないらしく(^^;)、私は、よほど打ち所がわるかったようです;。

骨折で大変なのは、リハビリです。動かないでいると、あっという間に、びっくりするくらい筋力が落ちていきます。使わない筋肉が固まってしまうので、故障していないところまで、関節が曲がらなくなります。それをじわじわと、戻していくのが、本当に痛いし、もう大変です。

私は、自分のリハビリの先生に、「この手の骨折のリハビリは、私ですらこんなに大変なのだから、高齢者であれば、壮絶になるでしょうね・・・」と、聞いたことがあります。

しかし、先生の回答は「そんなことはない。同じだと思う」というものでした。

なぜなら、まず、年齢により、どのくらいのレベルに戻すことが、日常生活への復帰といえるか、という点が変わってくる。高齢者であれば、今、リカコさんがやっているまでのリハビリは要らない、とも言える。

なので、その人にとってどのくらい、と考えれば、(高齢者は体力がないかわりに、リハビリの内容もそれに見合っているので)そんなに違いはないと思うし、単純にリハビリ内容のキツさだけを比較するなら、年齢が若い人ほど大変な内容になっている、ともいえるので、その人なりに、同じじゃないか、と。

なるほど、と思いましたね。つまり、とにかく、みんな、大変だ、ということがわかりました(^^;)。

それと同じように、どんなことも、「その人の器に、見合ったもの」に、なっていて、狭い範囲の比較では、不公平に思えることも、広い「たましいの視点」からとらえていけば、「ふさわしい学びが、必ず当たられていく、という公平さ」が存在すると言えるのではないでしょうか。

表面の比較は、あくまで、物質的な観点からの目安、だととらえていき、そこだけにこだわらない意識をもっていくことも大事だと思います。

もちろん、物質社会での出来事において、その観点の評価が重視される場面もたくさんあります。しかし、度量が違えば、抱えられるものの大きさも変わってきますので、不公平だ、とか、ずるい、などという感情にとらわれてしまうことなく、それぞれが、自分自身の学びに意識を向けていくことも、大切ではないかと思います。

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2012年12月24日 (月)

オーラの状態を高めていくためには。

オーラとは、人の周囲にみられる霊的なエネルギーで、オーラの様子には、その人自身が反映されています。

オーラは、エネルギーレベルで自分が何かを伝えていったり、影響を与えたりという、発信器のような役割もありますし、同時に、エネルギーレベルで、自分が何かをキャッチしたり、影響を受けたり、という、受信器のような役割もしています。

正確に言うなら、オーラがその役目を果たしている・・・というよりは、そのような作用がなされていることがオーラに反映するから、オーラの様子からそれが見て取れる、のですが、それだと回りくどく、理解しにくくなってしまいますので(^^;)、「オーラは、自分にとっての発信器でもあり、受信器でもある」と、おおよそのところをとらえても、問題ないと思います。

そのような役割がありますので、オーラが大きいとか、輝いているとか、強くエネルギーを放っている人ほど、他者への影響力を持てたり、インスピレーションを受けやすくなったり、というメリットを享受することがしやすいと言えます。

オーラは、自分自身の反映ですから、自分の工夫や努力次第で、良い状態に高めていくことは可能です。

しかし、その際に、特定の行動を繰り返せば効果があるとか、これを食べれば効くとか、有名な神社やお寺にお参りにいけばいいとか、「○○さえ、すればそれで良い」のような、仕組みの理解という大切なプロセスをすっとばして、結果だけを早くお手軽に手に入れようとするのは、「工夫や努力」ではなく、「楽をして結果を得ようとする怠惰」になり、思うような結果は得られないでしょう。

有名な神社にいくのが無用だということでは、ありません。良い気の場所にいけば、自分がリフレッシュできますから、相応の効果があることは否定しません。食べ物も同様で、心身を整える要素があれば、広い意味では、オーラにも反映していくこともあるでしょう。健康的な食生活を心掛けるのは、良い影響があることは確かです。

しかし、神社にいくと何らかの効果があるから、といって、神社にいけば行くほど良い、ということでもないでしょうし、回数が多いほど効果がでる、というものでもありません。食べ物にしても、特定の食べ物がいくら体によいからといって、そればかり食べていたのでは、そのアンバランスさがオーラに反映していくことだってあるでしょう。

このような曲解をしている人というのは、全体のほんの一部であり、ほとんどの人は、特定の何かの行動さえすればいいとは、ならないことも、いろんな行動が幅広く影響しているであろうことも、だいたい、分かっていると思います。

ここでも何度も取り上げていますが、自分自身の反映がオーラ(の状態)に現れるのですから、どんなことでも、自分を整えるとか、向上させるとかの要素があることは、すべて広い意味でいえば、効果があるといえます。

それでもなお、多くの人が、何かの「方法」を探したくなるのは、「決まった方法があれば、とり組みやすいから」だと思います。

「自分が高まることのすべてが、効果がある」というのは、抽象的ですから、では具体的にどうすれば、というのが、わかりにくい人もいるでしょう。それよりも、「このような行動を繰り返しましょう」のほうが、具体的でとり組みやすいですからね。

その方法が唯一無二の正解ではない、それさえすればいいわけではない、しかし、決まった手順の行動を決めていくほうが分かりやすいから、という、目的で、行動の指針をつくっていくなら、いいと思います。とり組みやすさも、継続しやすさも、必要ですよね(^^)。

けれど、思ったことも、思考というエネルギーが、オーラに反映していきますので、「これさえすればいい」という、浅い考えをもってしまうことや、「これさえすれば、楽に得ができる」というような、怠惰や損得勘定など、偏った思い込みをすると、行動によるプラスの作用もいくらかあるけれども、動機の思考にマイナスの作用もあり、全体としての底上げには結びつきにくい場合もあります。

また、目的を達成するための「手段」だと思っていたことに、夢中になりすぎると、いつのまにか、手段を行うことこそが目的、になってしまうことが、よくあるものです。この点には、気を付けていくことが大切です。

オーラを良い状態にしていくには、健康的な生活を心掛けること、人格を高めていくこと、これに尽きます

こうすればいい、これさえすればいい、という、お手軽なハウツーはありません。たくさんの経験から学び、喜怒哀楽を味わって、この人生を充実させることです。

簡単ではないですが、しかし、複雑に考え過ぎないことも大切です。効果がある方法を意識しすぎて、「方法探し」にとらわれ、探すことに時間を費やす自分がとても努力をしているように思えて、そこで満足してしまい、時間だけが過ぎていく、というパターンもあります。

基本的な仕組みの理解は、とても大切なのです。そこを分かっていれば、シンプルな取り組みの積み重ねが、いつか実りになることも理解できるでしょうし、また、特定の方法をとっていく場合も、「取り組みがしやすいから」という軸がぶれることなく、目的に向かって、手段を活用することもできるでしょう。

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2012年12月22日 (土)

あるはずのものが忽然と消える、「物品移動現象」。

江原さんの書籍によると、そこにあるはずの「物」が消えてしまう、または逆に、そこになかったはずの「物」が突然、現れるという、スピリチュアルな現象のことを、「物品移動現象」と呼ぶそうです。

自分の物忘れのせいでもなく、他の誰かが隠したり、持ってきたりしたわけではない、自分を含めて、人の肉体をつかった行動としての「力」は加わっていないはずなのに、「物」が移動をしている、という現象です。

多くの場合、そこには、「自然霊」とよばれる、霊が関与しているそうです。

自然霊とは、この世に姿を持ったことがない霊のことです。人の霊ではない、霊、とでもいいますか、私たちが、お稲荷さんとか、龍神さんとか、フェアリーだとかの名称で呼んでいるものも、自然霊の一種です。

そのような現象が起きるのは、(そのような現象を、自然霊が起こすのは、といったほうがいいのでしょうか)、さまざまな理由があり、一概に悪い現象とはいえず、何かのメッセージ性が含まれているものもあるようです。

江原さんの経験では、自分が乗っている車が、別の車に衝突したことがあり、江原さんは無傷だったけれども、常に身につけていた水晶が、忽然と消えていて、あれは、持ち主である自分の身代わりになってくれたのではないかと思っている、と書かれています。

私が、この現象で、思い浮かぶのは、作家の佐藤愛子さんの経験です。北海道のある場所に別荘を購入したことで、さまざまな心霊現象に見舞われ、その過程で、若き日の江原さんとも知り合っていくのですが、かなり凄い、物品移動現象が起こっていることが、本を読むとわかります(^^;)。

たとえば、別荘から出掛けて、数時間で戻ってきたら、台所の換気扇が外されて、床の上に置いてあったsweat01とか、書類がたくさんはいった重たい段ボールが、家から外に移動していたとか、普通では考えられないような現象がいろいろ起こっていきます。

そのときの話は、書籍が出ていますので、興味のある方はご覧になってください。

または、こちらの、佐藤さんと江原さんの対談形式の本、「あの世の話」にも、出ています。4章の、「大変な霊体験に、なぜ出合ったのか」に少し書かれていますね。

佐藤さんの話は、物品移動がテーマではなくて、もっと深いいろんな展開があります。かなり興味深いです。

ここで取り上げたのは、派手な心霊現象がでてきて、わかりやすいと思ったからで、スピリチュアリズムに興味がある方には、学びのある話だと思いますので、私は、お勧めです。

で、ここから、話は、戻ります。

このような現象は、物品を移動させることで、何かを知らせたり、思い出させたり、意識させたり、という目的を持っている場合もあるけれども、どちらかといえば、低いレベルの自然霊が、人をからかうために引き起こしている、いたずらのような場合もあるそうです。

なので、あまり意識し過ぎて、こじつけで意味を見出そうとはしなくていいと思いますが、知識として、そういう現象がある、と、知っておくと何かに役立つことも、もしかしたら、あるかもしれません。

私の場合は、・・・どうなんでしょう、きっと、そういう現象が実際に起こっていたとしても、「あら?あったはずなのに?まあ、いいか」と、それで済ませて、気づいていないかもしれないですね(^^;)。なくなったら、なくしたんだろうな、と、それ以上を追究しない、あきらめが早いところがあるので。

物品移動現象に気づくのは、常にきちんと整理整頓がなされていて、管理が行き届いているタイプの人、かもしれませんね。私のような、大雑把なタイプは、起こっても、気づけないかもしれません。気づいたとしても、いいか別に、と、済ませてしまうと、現象を起こしたかいもないですからね(^^;)。

このブログには、私が実際に体験したことも、いろいろ書いていますが、記事を書いている最中に、「そういえば、私も、こんな経験があったな」と、ふと、思い浮かぶのです。それは、自分が思い出している、ところもあるでしょうけれど、わかりやすく書くために、霊界が仕向けてくれているから思い出す、というのも、あるような気がしています。

・・・ここまで書いていても、物品移動に関連する自分の経験が、さっぱりと思い浮かばないのは、やはり、経験していないか、経験していても、まったく気づいていないのか・・・、私は、この現象には、部外者のようです(笑)。

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2012年12月21日 (金)

現代人は、「生き方」に迷っている。

日々、いろんなご相談をお受けしていて、考えさせられるのですが、現代の人は、生き方に迷いをもっている人が多いです。

どのように自分の人生を考えたらよいのかわからない、この先の人生のビジョンがつくれない、なぜ、生きていかなければいけないのか、何を目的に生きるのが正しいのか、と、表現こそいろいろですが、多くの人が、「生き方に迷っている」時代です。

なぜ、このようなことが起こっているか、そのひとつは、現代が満たされていることが理由でしょう。よほど極端に他人に迷惑を掛けるようなことさえしなえれば、現代の日本においては、かなりの自由な言動が許され、好きなように生きることができます。

人は、制限されていると、「自由になりたい!」と思うものですが、いざ、自由になってみると、「どうしたらいいのか、わからない」気持ちになってしまうものではないでしょうか。ある意味、制限されているほうが、目的がはっきりしていて、行動しやすい部分もあるものです。

たとえば、「予算が10万で、日程が3日以内で、好きな旅行プランを立てなさい」といえば、その条件の中で、いろいろ考えることができますが、「何でも好きにして、旅行をしてください」といわれても、どこから思考をスタートさせていいのか、意外と難しいものですよね。

独身時代に仕事が辛くて、結婚して専業主婦になって、仕事から抜け出したと思ったら、今度は時間をもてあまして、会社が懐かしく思える、やっぱり仕事をしていきたい気持ちになる、という話なども、よく耳にします。

制限されていることは、苦しさはあるけれども、また別の視点では、制限されているからこその、安定とか、過ごしやすさ、目的意識の持ちやすさ、というものは存在するのですよね。

実際に、自由になってみると、意外と、行動の指針となるものがないことに気づき、どうしたらいいのかが、わからなくなってしまうことがあります。

昔の時代は、学問というのは限られた一部の人達だけのものでしたし、男子たるものこうあらねば、とか、長男は家を継げとか、親の決めた相手と結婚しろとか、いろんな枠組みがある中での生き方をせざるを得ませんでした。

しかし、現代の日本は、ある程度の豊かさがあり、教育も行き届き、そして世界で類をみないほどの治安もあり、その上、人の権利が確立されてきて、制限が少なくなり、生き方に多様性が生まれました。

職業も学問も、自分で選んでいくことができ、最低限の生活が保障され、個人の権利や自由が尊重される世の中となり、昔ながらの、こうあるべき、という生き方の枠組みから抜け出すことができました。

そのように、多様性が認められた反面、人とは、男性とは、女性とは、どのように人生を過ごしたよいのか、という、全員に共通した指針となる教科書はなく、手本となる基準もない、「自分で、自由に」考えざるを得ないのが、現代です。

この位の年代になったら、こうしなければならない、という制限はないかわりに、このくらいの年代になったときに、こうすればいい、という模範解答もありません。すべて自分で決めていける、とも言えるし、自分で決めていかなければならない、とも言えます。

恵まれていて、ありがたい時代であると同時に、指針を自分で作っていかなければならない、という、自主性が強く求められる現代を、どのように生きていくか、それ自体が、今の時代に生きている人に共通した学び、なのでしょう。

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2012年12月19日 (水)

「依存や要求を、何度も平気で繰り返す人」の、心のそこにある思いとは。

誰かに何かをしてもらったら、または、自分の期待に応えてもらったら、「ありがたいな」と思うと同時に、少しは「申し訳ないな」という思いにも、なるものではないでしょうか。

お互いに、そのように相手に気配りをすることになるので、節度をもった大人同士の関係では、(自分がされたらどう思うかを考えるため)過剰な依存にはなりませんし、ときに、かなりお世話を掛けてしまうことがあっても、同じことを何度も繰り返したりはしないものです。

しかし、世の中には、相手に過度な要求を繰り返しても平気、そういう自分の態度に抵抗感も持たず、それが当たり前のような態度をする人もいます。

たまに、自分の気持ちに余裕がないときに、誰かに話しを聞いてもらうとか、相談に乗ってもらうとか、そういうことはお互い様の範疇ですが、何度も同じことを繰り返されて、しかも感謝もなければお詫びもない、という態度になれば、相手になるほうも、疲れてしまいますよね。

一般的に、相手の立場になって考えるためには、「もしも、自分が同じ立場になったとしたら、こう受けとめるだろうな」という想像を基本とすることが多いと思います。そのため、相手に配慮する人同士の間では、過剰な依存や要求というのはあまり見られずに、ほどほどの距離感をたもってやっていけます。

その基準を当てはめていくと、もしも、その人が、逆の立場になって、誰かにいろいろ協力してあげる側になっても、特にそれを意識しない、感謝もお礼も期待していないような、こだわらないタイプの人ならば、「あの人は、自分がしてもらう場合も、自分がしてあげる場合も、それに対して相手がどう反応するかを、一切気にしない、さっぱりした人なのだな」と、解釈できます。

ならば、要求ばかりが大きくなっても、(相手がどう思うかを気にしていないから)、しょうがない、そういう性格の人なのだろう、と割り切って付き合えば、それほど、難しいことにはならないでしょう。

そういう人は、出来ないときは、出来ないと断っても、あまり気にしない、根に持たないところもありますし、逆に、自分が何かをお願いする側になるときも、気兼ねなく接していけるというメリットもあり、そういう意味で「お互い様」の関係をつくっていくこともできます。

付き合い方に困ってしまうのは、「自分が、依存や要求を繰り返しても、平気」でありながら、逆に「自分がして上げる立場になったときには、その見返りを相手に要求する気持ちが大きい人」ではないでしょうか。

そういう言動になってしまう人の根底にあるのは、「被害者意識」です。自分は、損をしている立場の、被害者だから、周囲の人達は、そんな自分に何かをしてくれても普通であって、そんな自分は、相手に要求できる権利がある、してもらってやっと釣り合うくらいだ、というような思い込みを持っています。

被害者意識といっても、実際に攻撃をされたとか、いじめられたとかの行動に伴う意識とは限りません。その人の価値観において、「自分は、本来はこんなものではない、もっと世の中に認められるべき素晴らしい人間なのに、それを理解しない世の中が、自分を低く扱うために、こんな思いをさせられる」、という解釈からの不満をもっている場合もあります。

そして、そういうタイプの人が、何かをしてあげる側になったときには、殊更に大きくとらえて、恩に着せるような言動になるのも、「本来、してもらう側の権利がある自分が、して上げたことは、大きく感謝されて当然」と、思ってしまうのでしょう。

「もしも、自分が同じ立場になったとしたら、こう受けとめるだろうな」という想像を働かせるにも、自分と相手は対等ではなく、自分は損をしている前提でとらえてしまうので、温度差がつくられるのですね。自分が要求をすることも、見返りを求めることも、そうしてもらうことで、やっと釣り合いがとれるか、または、それでもまだ、自分が割りをくっている、という思いになってしまうので、「損をしている」という思いが解消されるまで、何度でも、いろんなことを要求してきたりします。

そういうタイプの人と、どう付き合うかは、自分とその人との関係性によって判断することですね。

家族などの近い関係であれば、その人は、「何が、満たされていないのか」、寄り添っていくこともときには必要かもしれません。

それほど近くはない関係の人であれば、踏み込んで寄り添おうとすることで、むしろ、こじれてしまう場合もありますので、距離感によって、自分の接し方を判断するのがよいと思います。

どちらにしても、上記のようなことを、少し、頭に入れておくと、うまく接していくためのヒントにはなるかな、と思います。

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2012年12月18日 (火)

想念が放たれて、そして、戻ってくるという仕組み。

過去にも、想念については、何度も書いてきましたが、今回は、「想念の放たれ方~戻り方」についての考察です。

思考をすると、想念というエネルギーが作られていきます。行動や発言とちがって、頭の中で思ったことは、自分以外に知られていませんし、表れていませんので、なんとなく、それは、「なかったことに、できる」ような気がしてしまいますよね。または、「それほど、意味をもたない」もののような、軽い扱いをしてしまうこともあると思います。

しかし、実際には、見たり聞いたりできなくても、思ったことはすべて、「想念というエネルギーを作りだしていること」になり、行動や発言のように、エネルギーが作用していきます。

前向きな思考をすれば、前向きなエネルギーが自分から発せられ、後向きの思考をすれば、後向きのエネルギーが発せられていくことになるわけです。

私たちは、思考という行為を通して、日々、そしてその都度、想念というエネルギーを膨大に作りだしていることになります。

ある外国のヒーラーが書いた書籍の中に、このような記述がありました。

わかりやすい言葉に置き換えた要約ですが

「想念のエネルギーは、人の眉間から放出されて、それは、1ミリにも満たない小さいもの。作られたエネルギーは、しばらくすると、その人を離れ、似たような波動のエネルギーに引き寄せられていき、大きくなっていく。やがてそれは、似たようなエネルギーを引き連れた状態で、想念を発した人の、首の後側へ戻ってくる」、

というような内容でした。

確かに、念がとんでくるときは、首の後側のほうに、やってくるケースが多いように、私の経験や知識からも、そう思います。

また、想念が放たれるのは、私は、それらを視覚でとらえたことは、おそらくないと思うのですが、しかし、このことは、なんとなく理解ができる気がします。

以前にも書いたと思いますが、念力が強い人の、オーラ上の特徴として、「額や眉間のオーラが放たれる勢いが強い」、というのがあります。これは、眉間から、想念を放つ勢いが強いことと、関連してみられる特徴なのかもしれないです。

(過去記事参考:オーラに念力の強さは、どのように表れるのか

この世の出来事のすべては、「カルマの法則」という、自分のしたことが自分に返る、自分が種を蒔いたものが、良くも悪くも実っていく、という仕組みが関わりますので、自分の放った想念もまた例外ではなく、眉間のあたりから放たれたエネルギーが、めぐりめぐって、自分に戻ってくるようになっているようです。

その際に、同じようなエネルギーを引き連れて戻ってくるらしいので、・・・よからぬエネルギーを一緒につれてきてしまっても、それも、かつての自分が放った想念であり、自分の蒔いた種という側面もあるといえるようです。

もちろん、よい想念を放っていけば、それが自分に戻ってくる、というのも、同様ですねsun。こういうことは、いちいち気にしすぎてもキリがないのですが・・・、知識として仕組みをわかっているほうが、理解が深まることもたくさんあると思いますので、基礎知識として、書いてみました(^^)。

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2012年12月17日 (月)

「剣」がとんでくる、イメージ。

これは、私の覚え書きとして、忘れないためにUPしておく記事となります。 霊視や透視というのは、「事実そのまま」が見える場合もあれば、「その出来事を表現するための、象徴が、視覚化されたもの」が、見える場合もあります。

たとえば、前者であれば、ある人が、人間関係で困っている様子が見える、後者であれば、その人が、手に花を持っていてその花が枯れている、などです。この場合であれば、枯れた花が、その人の心配の象徴、というような感じでの伝わり方です。

後者のような伝わり方は、その透視者と指導霊の間で伝達される、独自のものなので、どんな画像が、何を表すか、という関連づけは、その透視者にしか当てはまりません。

先日、ある方のセッションで、剣のようなエネルギーが、その人に向かってくるような様子をとらえた感覚がありました。「剣」というのも、はっきりしないのですが・・・、そのような形状のエネルギー、とでもいえばいいのか、何かがその方に向かっていて、そして、「眠れない」とおっしゃっていたんですね。 そ

の剣は、「他人からの念」が、その人に向かっていて、そして、それを受けて、なにか調子が乱れてしまって、眠れなくなってしまうのだろうな、と、・・・セッションが終わってからわかりましたね(^^;)。私も、まだまだ、わからないことがたくさんなので、その最中は、意味がうまくキャッチできていませんでした;。

次回、同じようなケースがあったら、そのときに忘れないように、という覚え書きです。

この見え方は、「私が、そう見える」というだけであって、念が剣の形をしている、ということではないです。象徴を、自分なりのルール?で、映像化しているだけだと思いますので。

ちなみに、他人から念がとんでくる、というのは、普通によくあることです。というか、お互いに、想念をとばしあって、いろんなエネルギーが行き交っているのが、この世という場所です。なので、かなり強い、怒りとか恨みのようなエネルギー以外は、別に気にする必要はない、お互い様のことと言えます。

強い念がとんできたときに、もっとも影響をうけやすいのは、首の裏側です。なので、そういうときは、首や肩のオーラが干渉されて、本来の流れが滞り、肩こりのような症状になったり、頭の周囲のオーラは、心の状態と直結しているので、頭が休まらなくなることもあるようです。

しかし、所詮、自分ではない他人のエネルギーですので、「自分がそれを引き受けてしまう原因」がないならば、いずれは自分から離れていくエネルギーです。そして、自分にそういう念が向けられたからといって、何でもかんでも、引き受けて影響が出てしまうわけでもありません。

影響を強く受けてしまうときは、自分のコンディションが下がっていることも多いので、生活習慣を見直したり、リラックスする機会を得たりしていれば、解消はされていくと思います。

ただしそれは、自分が、怒りや恨みを向けられるような行動をしていない場合です。自分もまた、他人を恨んだり、意地悪をしたり、改めなければならないような言動をしているならば、そちらを何とかしない限り、改善はなされていかないかもしれません。

「自分がそれを引き受けてしまう原因」があるならば、そちらを改善すべきであって、そこには、自分の行い、というものも、当然含まれるのです。

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2012年12月15日 (土)

その行動は、誰のせい?

以前、こんな話を聞いたことがあります。その家では、お祖父さんが、お酒が大好きで、お祖母さんに、「おまえが、オレをイライラさせるから、オレはお酒を飲まないとやっていられない。お酒を飲んでしまうのはおまえに原因がある」と、そんな勝手なことをよく言っていて、その様子を見ていた両親が、困っていた、と。

そして、その人(孫)は、お祖父さんの発言を「そんな理屈が、通るはずもないのに・・・」と、いつも思っていた、と(^^;)。

他人に不満を言うときや、心で思うときに、実は、その根底には、自分を正当化したい思いがあり、「あの人が、○○をしてくれないから、自分は××ができなくて、こんな態度をしてしまう」という、理由を作りあげていることがあります。

たとえば、「娘がしっかりした態度をとらないから、自分はこんなにもイライラの感情でいっぱいになり、家族にあたってしまう」とか、「上司が自分を正当に評価しないので、自分は、こんなつまらない役割を与えられて、会社に行く気にならない」などのように、です。

その全てを、間違いだというつもりはありません。小分けにした繋がりのみ見ていけば、まだ理解ができる部分はあります。

「娘がしっかりしていないから、親がイライラする」というのも、「上司の正当な評価が得られていないために、簡単な仕事しか与えられない」ということも、あり得ることです。

また、「イライラするから、家族に八つ当たりをしてしまう」ことも、「仕事がつまらないから、会社に行きたくない」のも、その行為が常識的に見てどうなのか、という視点を抜きにすれば、そういう行動を取ってしまう人も、いるだろうな、とも思えます。

しかし、その両方を、さらに結びつけて、「娘がしっかりしていないから、親がイライラする」ことと、「イライラするから、家族に八つ当たりをしてしまう」ことを、結びつけて、「自分が、家族に八つ当たりをするのは、(自分ではなく)娘が悪い」とするのは、無理があるように思うのですsweat02

お祖父さんがお酒を飲むのは、お祖母さんのせいなのか、自分が会社に行く気がしないのは上司のせいなのか、自分が家族に八つ当たりしてしまうのは、娘のせいなのか、そこを冷静に考えてみれば、自分が悪くない、という思いを前提にした、結びつけの思考を飛躍させすぎていることに、気がつけるのではないかと思います。

お酒を飲みたくない、八つ当たりをしたくない、会社にいかない、どれも、自分の意思で、その行為を続けることも、止めることもできます。どんな行動も、自己責任においては自由があります。

しかし、その責任を、自分の器の中で収めきれない、依存心のある人ほど、周囲の出来事と過剰に絡めては、あれが悪い、これが良くない、と、責任の所在を外に置こうとしてしまうように思います。

とはいっても、依存心は誰にでもあり、ゼロに出来る人はいませんので、そういう思考をしてしまうことは、誰にでも起こり得ます。この例えのような、わかりやすい極端なものではないだけで、気づきにくい形で、皆が経験している思いでしょう。

ですから、極端になりすぎないように、という点を、まずは気を付けていくところからスタートするくらいでいいと思います。

最初に書いた例のように、まだ年のいかない幼い孫にまで、そんな理屈は通らない、と思われてしまう(^^;)ような甘えは、やはり、正していくほうがいいですよね。

自分に甘くなりすぎには気を付けたほうがいいですが、厳しくなりすぎにも、注意して、冷静に自分を分析することからはじめてみましょう。

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2012年12月14日 (金)

「認められたい」思いを満たすのは、他人ではなく、自分。

他人に自分を認めてもらいたい、わかってもらいたい、という思いを、とても強く持っているために、人間関係がうまくいかなくなることがあります。

認められたい気持ちは、少しくらいなら、誰もが持っているものですが、その思いが強くなりすぎ、他人にそれを要求することが当然の権利であるかのような思い込みをしてしまい、人間関係の調和がとられなくなることがあります。

「他人から、自分を認めてもらいたい」と強く思っている人とは、「自分で自分を認めることができない」状態であり、なおかつ、「他人に自分を認めてもらいたい」と思っている人です。

自分が自分を認めていけば、自分を内側から満たしていくことができますが、それができないので、自分を外側から持ってくる要素で満たしたいという思いの比重が高くなります。

つまり、「自信のなさを、他人からの評価で満たそうとしている」状態です。

なぜ、自分で自分を認めることができないのか、それはおそらく、「どうすれば、自分を認められるのか、その方法がわからない」からだと思います。

自分を認めることはとても難しいので、どうすればそれができるのかがわからない、という人がいることは不思議ではありません。

しかし、自分を認めることができないと、他人から認められていることが、わかりません。「自分が、自分を認めたときの、感覚」が、わからないと、「他人から、自分を認められたときの、感覚」を、とらえることが難しくなります。

たとえば、「おやつとは、手作りケーキのことである」という思いを持っている人がいて、毎日、美味しい羊羹を与えられているのに、「自分は、おやつ(ケーキ)を与えてもらっていない」という認識になってしまうような、すれ違いが出てしまいます。

相手の人は、相手の人の感覚で、十分に自分を認めてくれているかもしれないのに、たとえば、「あの人は、行動力があるから」と、認めてくれて、自主性を尊重されているのに、「自分はまったく、構ってもらえず、存在価値を認められていない」と思い込んで、「自分が望む形での評価のみ」を求めると、自分と相手の感性が一致しない限り、不満はいつまでも解消されなくなります。

自分が自分を認めることができる比重が高くなるほどに、他人が自分を、実はいろんな形で認めてくれていることに、どんどん気づいていけるようになります。

あまりに強すぎて、自分を苦しくしてしまうほどの「他人から、認められたい思い」は、「自分が、自分を認めていくこと」を、抜きにしては、なかなか改善しないのです。

自分を認めるのって、簡単ではありません。とても難しいです。ですが、難しいからといって投げ出さずに、まずは、とり組んでみようという意思を持って下さい。そうすると、得たいと思っていた、他人からの評価もついてくるようになり、他人からの評価が高くなると、自信も底上げされていきます。この二つは連動しています。

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2012年12月11日 (火)

頑張っている自分を、過剰に正当化していないか。

「自分は、こんなに頑張っているのに、上手くいかない」とか、「こんなに頑張っているのに、他人がそれを認めてくれない」という不満を持ってしまうことがあります。

それについて、基本的な考え方として、「頑張ればいい、とは限らない」「ふさわしい頑張り方をしていない」「そもそも、頑張ることは、自分の都合によることが多く、他人がそれを考慮しないからといって、不満に思うのはおかしい」というポイントを、押さえておくことは、偏った考えにならないために、有効だと思います。

「こんなに頑張っているのに!」と訴える人とは、「自分の頑張りを拠り所としている」わけですが、その頑張りは、そもそも、「私はこんなに○○している!」と、主張できる内容なのか、その点をまずは考えてみてはどうでしょう。

頑張り自体は、悪いことではありません。むしろ、望ましいこと、褒められるべきこととしてとらえられるほうが多いでしょう。

けれど、頑張っているからといって、その行動のすべてが正当化されるとは限りません。不当なことに頑張ってしまうこともあると思います。不当だと気づかずに頑張ってしまうこともあれば、分かっているけれど自分がそうしたいから、という、感情論で止めることができない場合もあるでしょう。

頑張りが長期に及ぶほどに、自分の注いだ労力と時間が惜しくなって、途中で止めることができず、もっと良い方法はないのかと視点を変えることもせずに、同じことにとらわれて、頑張り続けてしまうことも起こり得ます。

たとえば、痩せたい目的の人がいるとして、「1日に、10個のドーナツを食べることで、痩せよう」と思い込むとします。当然のことながら、そんな方法で痩せられるわけはないので、そのような頑張り方では無理が、方法がふさわしくない、と気づくことが大切です。

この例えを読んで「そんなの、当たり前じゃないの」と思う人は多いでしょう。そう思うのは、「この例えの方法は、明らかにふさわしくないと、誰がみてもわかることだから」です。

世の中の出来事が、すべてこのように、わかりやすいものならば、誤解も曲解も生じません。

しかし、世の中の出来事のほとんどは、とても間違いやすく、明確でなく、あいまいで、簡単に誤解・曲解が生じる、不確かな要素を含んでいるので、ふさわしくない頑張り方をしていることに、なかなか、気づけないものなのです。

では、上記の話が、「1日に10個のドーナツを食べたいが、同時に痩せたい気持ちもあるので、市販品よりもカロリーが低いであろう、手作りドーナツに切り換えて、毎日、調理を頑張ることにした」という内容だったらどうでしょう。(上記の例はちょっと現実的ではないでしょうが、こちらのよう程度なら、現実にありそうですよね。)

たしかに、手作りのほうがカロリーは低いでしょうし、油の酸化も心掛けられるので、いくらかヘルシーにはなるでしょう。けれど、毎日10個も食べていたら、いくら手作りといっても、カロリーオーバーになることは必至です;。

つまり「このような頑張り方では、痩せられない」のですが、同時に「このような頑張り方は、(いくらかの良い面もあるので)、止めにくい、方向転換しにくい」のです。「だって、市販品よりも、ヘルシーなのだから」という、口実があり、そして、ドーナツを止めることはしたくない、さらには、毎日自作するという労力を重ねているので、それを無駄だと定義づけるようなことは、気持ちの上で拒否反応が出てきます。

そして、「だって、頑張っているのだから」と、頑張りから離れることができなくなります。頑張っている自分に酔ってくる、というか、頑張りがふさわしいか否かの検証をすることなく、頑張っているそのこと自体を、正当化してとらえていくようになります。

自分を正当化するほどに、自分の頑張り方に原因があると認められなくなるので、自分以外の他人や、世の中の仕組みに、その原因があると思い込むことになります。

「自分が一生懸命に、苦労して、時間を掛けて、頑張ること」と、「その行為が、手段としてふさわしいのか、成果に繋がるのか、他人に認められるほどの中身があるのか」、というのは、全く別のこと、ではないでしょうか。

しかし、頑張りを拠り所としてしまうと、そのような理性的な判断ができずに、「だって、私、頑張っているもん!」という、感情論になってしまうことがあります。

そうして頑張るほどに、自分が正当化され、そして、正当化されるほどに、他人を否定する根拠と権利が手に入ったような錯覚に陥り、ますます、狭い範囲にとらわれて、客観視ができなくなる人もいます。

重ねて言いますが、頑張りが悪いということではないのです。必要なときに、頑張ることは望ましく、素晴らしいことです。

しかしそれはふさわしい取り組み方や、度合いがあってこそ、であり、何でも頑張ればいい、とは限らず、自分はこんなにも頑張っているのだから、他人はそれを認めるべき、そうならない世の中はおかしい、という考え方は、とても自己中心的であることに、気づく必要があるのではないでしょうか。

ふさわしい方向、望ましい方法に、労力をつかっているか、という分析を、感情を抜きにして考えていく習慣が、その偏りを正したり、気づかせたりしてくれると思います。

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2012年12月10日 (月)

霊的感性が高い人にありがちな、過剰な「運命論」への執着。

霊的な感性が高い人や、スピリチュアリズムに関心が深い人ほど、過剰なまでの、運命論者(宿命論者)となって、こだわりを持ちすぎてしまいがちな点には、注意する必要があると思います。

運命論(宿命論)とは、この世の出来事は、すべて、あらかじめ定められた通りに展開し、それに人々は支配されていて、自分の意思ではそれらを動かすことはできない、というような、人生観のことです。

この世で起こることはすべて意味のある必然であり、意味の無い出来事が無作為に降りかかることはなく、すべては、たましいの学びが含まれた、その人にとって意味のある出来事になっている、というのが、スピリチュアリズムの基本的な捉え方ではあるのですが、しかし、それらに過剰なまでにとらわれて、私たち人間に与えられた、それぞれの自由意思や、選択や判断の責任や、創造の可能性を否定して、変に悲観的にとらえてしまうのは、問題です。

それは、一見、(必然を前提とした)スピリチュアリズムに従った理解のように思えるかもしれませんが、(必然の意味を、拡大解釈して曲解している、という)全体を見渡していない、大いに自己流に偏った解釈になっている、といえるでしょう。

運命論的な捉え方に偏ると、日々の出来事のすべてに、過剰にこじつけ気味な意味をもたせては、「あの数字がなんたらだから、未来がこうなるに違いない」、とか、「この出来事には、あの件の、示唆が含まれているに違いない」、と、何でもかんでも、小さいことにまで、過剰なこだわり、こじつけ、を作りだします。

そして、素直な解釈を遠ざけ、何でも一ひねりした解釈をしないと気が済まなくなり、本来シンプルであるはずのものまで、とても複雑に「してしまう」ことが起こります。

このような考え方は、世界を狭くします。与えられた自由意思や、創造性を活用したり、育てたりすることもなく、何でも決まったとおりにしかならない、努力しても何も変わらない、となれば、「私たちは、何のために、この人生を生きているのか」という、存在意義の根本が不確かになります。

この世という学びの場所で、心豊かに生きて学びを深めていくための指針となるはずの、スピリチュアリズムを、限定された狭い捉え方をしてしまえば、それはむしろ、曲解を増長し、混乱を作り出すことになります。

全ての出来事に、相応の意味があることは事実です。それは否定されるものではありません。けれど、全てに意味がある、といっても、とりわけ重要な意味を持つものと、そうでもないものという、重要度の差はあります。

何でも、こだわれば良い、細かいことにまで意味を見出そうという捉え方は、こじつけを作りだし、本来見るべきものから意識がそれて、重要ではないことにとらわれてしまう、本末転倒な状態を作りだしてしまうのではないでしょうか。

霊的な感性が高い人ほど、世の中のいろんな出来事の関わりの中に、霊的な法則性を見出すことができます。他の人が気づかないことまでも、意識の網にとらえていくことが多くなります。だからこそ、逆に、「気にしすぎ」「こだわりすぎ」になってしまうケースが出てきます。

適度であれば素晴らしいものも、過剰になったらバランスが悪い、それはどんな事柄にも共通して当てはまります。

全ての出来事に、(過剰なまでに)意味を見出そうとして、決まった宿命・運命論にとらわれてしまうならば、動かせない要素にのみ、意識を向けることにあり、本来、誰もが手にしているはずの創造性や可能性を、使わずに、無駄にしているのと同じにならないでしょうか。

私たち人間の意思のみでは、動かせない要素は存在します。しかし、動かせる要素もたくさんあります。それらの両方が複雑に関連しあって、出来事を作りだしている学びの場所が、この世という世界です。

スピリチュアリズムに関心を持っている誰もが、ときに、偏った理解になってしまう可能性はあります。この世で霊的な仕組みを理解しながら、現実を生きていくことは、とても難しいものだからです。誰もがそうして、揺れ動きながら、しっかりとした自分の軸を創り上げていく、それもまた、学びの一環といえるでしょう。

もしも、自分が、こだわりすぎていることに気づいたなら、その都度、基本に立ち返り、創造性と可能性を信じていく大切さを思い出し、ちょっと、スピリチュアリズムから、意識を離して、深呼吸をしてみましょう。

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2012年12月 8日 (土)

住んでいる場所と、人の個性は、互いに影響していく。

私たちは、たましいの存在で、何度も生まれ変わって、その時々の人生を経験することで、学び、成長しています。

そのときの学びに見合った環境を、「自ら、選んで」生まれてくるので、家族構成、国、時代、場所、性別その他は、それぞれの学びの要素を反映したものとなります。

たとえば、日本という国がもつエネルギー、日本人に多い特徴や個性というものはたくさんありますが、それらの何かが引き合うたましいが、日本という国を、自ら選んで生まれてくる、という仕組みです。

日本の中でも、いろんな地域があり、それぞれの特徴や個性があります。県民性、という言葉がありますが、北海道はおおらかな人が多い、とよくいわれますし、関西の人は明るい陽気なイメージがありますし、それぞれの地域性を反映した特徴がみられますよね。

これらは、学校に置き換えて理解すると、わかりやすいです。

高校は、義務教育と違って、「自分が、選んで」入りますので、「同じ目的の人が、集まりやすい」といえます。

商業を志す人が、商業高校に、工業を目指す人が、工業高校にいきます。学校のランクもありますので、だいたい、同じような範囲の人達が集まる場所となりえます。そうなれば、集まった人達の中に、ある程度の共通性が見られることは、不思議ではありませんよね。

または、このような考え方もできます。いろんな個性をもった、大勢の人達が、同じ学校にで過ごすうちに、その校風に馴染んでいくことで、共通性が(後天的に)作られていくこともあるでしょう。

それらの仕組みは、住んでいる場所と人の関係にも当てはまり、その地域ごとの特徴や共通性が、少なからず見られるもののようです。

私のかつての師匠がよく言っていたことですが、北海道と沖縄の人に、霊感が強い人が多い、と。私は、沖縄のクライアントさんが、なぜかほとんどいませんので(^^;)、沖縄に関してはよくわかりませんが、北海道の人は、確かにそういう傾向が見られるかも~?とも、思ったりもします。

私の経験上、クライアントさん達の統計上、見られる特徴としては、「神奈川の人は、UFO遭遇率が格段に高い」ように思いますtyphoon。そういう話題を出してくるのは、ほとんど神奈川の人、といっても過言ではないくらいです(当社比)。

神奈川の方からご相談をいただいた時に、私のほうから、「UFO見たことがある人って、神奈川に多いような気がするんですよ~」と、世間話の延長でお話したりしますと、「ああ、私も見たことありますよー」と、普通に、言われたりしますね(^^;)。それがどうかしましたか?的な反応で、そんなに日常なのか、という(笑)。

神奈川に住んでいると、そういうものを見やすいのか、それともUFOに縁のあるたましい(というものが、あるのだとしたら)が、神奈川に住むように集まってくるのか、・・・明確な答えはありませんが、おそらく、どちらも当てはまるのではないかと思います。

私がここでお伝えしたいのは、UFOがどうとかの、好奇心を刺激することではなくて;、そのように、住んでいる場所と、住んでいる人は、お互いに影響を与え合っていて、個性や特徴をつくりあげたり、際立たせたりする意味がある、という点です。

土地や場所のもつエネルギーに人間のほうが影響される、という部分もありますし、逆に、住んでいる人が発するエネルギーが影響して、土地や場所の特徴が作られていく、という、両方なのだと思います。

何か引き合う要素がある、学びがある、という場所を、私たちは、誰もが選んで生まれてきていて、引っ越す場合でも、無意識のうちに、何かの縁があるところを選んでいることもあるでしょう。

自分が生まれた場所、今住んでいる場所と、自分との関わりやご縁などを、考えてみることも、結構、いろいろに解釈できて、面白いものです。

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2012年12月 5日 (水)

感情と感情の「掛け合わせ」。

感情に振り回されてしまう、感情が優先してしまう、という状態になることがあります。

しかし、そう頻繁に、感情だけが先行することは、普通はないもので、多くの場合は、理性があることでバランスが作られ、ある程度はコントロールがなされているものです。

誰かが、自分に、何か酷い言動をとって、その瞬間に、自分の感情が爆発した、というのは、普通に考えてみれば、ちょっと不自然でもあります。唐突に、酷い言動をされたら、「私が何かしたかしら?」と、単純にびっくりするとか、または、「なぜ?」とショックをうけるとか、そういう反応になることが多いはずで、いきなり、感情の導火線に火がついてしまうのは、よく考えてみれば、ちょっと極端な反応といえるのではないでしょうか。

このような場合、そのとき発生した感情と、既に存在していた別の感情とが、掛け合わせとなり、大きなエネルギーとなって表面化していることが多いです。

たったひとつの出来事から作られた、感情単体では、自分のコントロールがきかなくなるほどの大きさとはならず、二つ以上の感情が、「掛け算」になっているときに、一気に数値が大きくなって、大爆発になっていきます。

「子どもが言うことをきかない」「義両親が勝手だ」「旦那に思いやりがない」」という、感情だけでは、しれた程度ではないでしょうか。

その他に、掛け合わせとなる感情、たとえば、「自分だけが常に損をしている」「私が好きなことをする時間がない」「自分の存在価値が正当に認められていない」という思いがあって、その状態で、何かのきっかけが、新たな感情を発生させたときに、

過去から存在している感情と、新しく発生した感情が掛け合わせとなり、とても大きくなって、「新しく感情を発生させた対象に、そのすべてが向かってしまう」場合が多いです。掛け合わせになっていることに気づかずに、新しい感情の要因が、すべての原因だと認識してしまいます。

たとえば、「以前からずっと、自分は誰からも大事にされていない」、という不満をもっていて、そこに、「旦那が勝手にお金をつかった、という状況が発生」すると、その二つの感情が掛け合わされて、大きな不満となり、その不満のすべてが新しい要因へと向かい、「旦那がお金をつかったことで自分がこんなにも苦しくなっている」と、思ってしまいます。

そして、旦那に向かって、掛け合わせた感情のすべてが、爆発してしまい、トラブルになります。

「二つの掛け合わせで、大きくなった感情」を、「そのうちの一つである、相手」にぶつけてしまえば、相手からみれば、自分が発した以上の大きさでエネルギーが返ってくるわけですから、相手もまた不満を募らせ、関係の継続に影を落とすことになってしまう可能性もあります。

それほど大げさに怒らなくてもいいような状況で、感情が大きく出てしまう人というのは、それ以前に、自分の中に、何かの不満なりの感情が存在しているから、なのですね。

このようなタイプと接する場合、とにかく刺激を与えないようにして、やりすごそう、という対処法を取ることが多いのではないでしょうか。

上辺だけの付き合いならば、それも一つの方法だと思いますが、近い関係で、お互いの信頼をつくっていく必要があるときには、「その人が、常に抱えている不満とは何か」を想像して、そちらを減らすことはできないか、という点からのアプローチが、改善につながることもあるかもしれません。

自分が感情に振り回されてしまうタイプだ、と、自覚がある場合は、上司が悪い、世間が悪い、○○が原因で怒りが出てくる、だから私はこんなにもイライラさせられる、という、「それ以前に、心の中に、何かの不満なり、不安なりが存在していないか」、自分の心を見つめていくことが大切です。

感情に支配されているときに、自分の心を見つめるのは難しいものです。冷静なときに、自分を見つめる時間をとっていくと、過去から抱え続けている何かを、見つけることができるかもしれません。

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2012年12月 2日 (日)

「そんな自分が嫌いだ」という、自嘲気味な発言の裏にある、本心。

「○○○と、思ってしまう自分が嫌になる」、「こんな自分を消したいと思う」などのように、自嘲気味の発言をする人の中には、一見、自己評価の低い人のようでいて、実は、自分のことを嫌ってはいなくて、むしろ、常に自分目線で物事を見ていることが、人間関係の不調和を招いている場合があります。

そのパターンに当てはまる人は、自分の考え方が、自分本位になりがちであることに、心のどこかでは気づいていて、思考力が平均よりも発達している、聡明な人であることが多いようです。

そして、そのパターンに当てはまる人が、ほとんど自覚してない要素がひとつあって、それは、「建前を先に用意しないと、本音が言えない」タイプである、ということです。

つまり、そういうパターンに当てはまる人が言いたいことは、「○○と思う自分が嫌になる」という点ではなくて、その後に続く、その人が一番主張したい、本音の部分です。

思考力が発達していますから、自分の本音の部分が、結構自分目線になっていることにも、それをそのままストレートに表に出しても受け入れられないことにも、少しは気づいていたりします。

なので、最初に、自嘲気味な発言をもってきて、本音のインパクトを軽減しようとすることを、(頭がいいので)無意識に、してしまう、ところがあります。

つまりは、自分の主張を押し通したい、相手に認めさせたいのですが、そこは、無意識に、行われていくことが多いです。自分が、建前を先に言わないと本音が言えないことを、あまり自覚していません。なので、自分では、伝えるべきことを主張しているはずなのに、相手が鈍くて伝わらない、と、思い込んでいたりするのです。

しかし口から出る言葉は、相手批判ではなく、自嘲、という、建前、なのです(建前も必要ですから、それが悪いとうことではありません。その建前に、覆われていることに自覚がないところが、混乱を招くことがある、という話です)

実際、そのような変化球なコミュニケーションでは、受けとめる側が真意を測ることは難しいものです。

多くの人は、そのワンクッションの発言に対して、「そんなに自分を下げることはないよ、自分をもっと認めて」とかの優しい言葉を掛けてくれるかもしれませんが、本当に言ってもらいたいところ、認めてもらいたいところは、その表面ではなく、深いところにある主張なので、結局、いつまでもやりとりがかみ合わずに、解決に至る前に、どちらかが、コミュニケーションを投げ出してしまうこともあります。

そういう発言をしがちなタイプは、変化球のコミュニケーションでは相手に通じるはずもないことを、自覚する必要があるでしょう。

そしてもうひとつ、ストレートな主張では、あまりに自分目線だ、ということに気づいているなら(この点は、なんとなくでも気づいていることが多いものです)、ストレートの球速を弱めるような工夫をすればいいのであって、工夫の仕方が複雑になってしまうと通じない、それは相手の受け取り方のせいではない、という点にも気づく必要があると思います。

そして、そのようなタイプが周囲にいて、付き合い方が難しいと思っている人は、「そんな自分が嫌い、な人」が、「本当に主張したいことは、何か」を、想像してみることです。本当に主張したいことが、それとは別に存在することが少なくないのがこのタイプです。

その人が、本当に自分が嫌いで悩んでいるなら、「そんなことないよ、嫌う必要はないよ」という励ましで、力になっていくでしょう。しかし、その励ましをしても、いつまでも会話が終わらない、進展しない、何回も同じ話を繰り返すならば、言いたいことは別にあるのかもしれません。

その人が、本当に主張したいことは何か、という点を想像していくと、打開策の糸口が見えてくることもあると思います。

誰にも本音と建て前があって、それを使い分けて、人間関係を保っていくわけですが、自分を否定されないように、そして傷つかずに、しかし本音を主張したいという思いがある人が、自嘲気味な発言をしていることもあるのです。

つまり、誰もが、「認められたい」のですよね・・・。

思考力のある人は、プライドも高い人が多いので、とかく複雑な変化球の主張になりがちなところがあります。もうちょっとシンプルで、柔軟なコミュニケーションの取り方をするほうが、自分が楽になれるのですが、自分を見つめるのは時間が掛かりますので、周囲の人が、「待ってあげる」ことも大事だと思います。

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