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2012年11月の18件の記事

2012年11月30日 (金)

依存的で、わがままで、自己主張が強い人の、価値基準。

世の中には、いろんな性格の人がいて・・・、自分とあまりに違っている個性をもった人と関わると、相手が、何を元にその言動をしているのか、全く想像することもできず、対応に困ってしまうことがあります。

逆に言えば、相手が何を元にその言動をしているのか、自分はそれに共感できるかどうかは別として、相手の価値基準を一部でも予測することができれば、多少なりとも、対応がとりやすくなる、といえます。

「依存的で、ワガママで、自己主張が強い」タイプの人が、どうして、どのような強気な言動をとって、相手に好き放題の主張ができるのか、

おそらく、この文字だけを見て考えると、「きっと、甘やかされて、我慢することを知らないために、何でも自分の言い分が通ると思っているのだろう」と、想像するものではないかと思います。

中には、そのパターンが当てはまる人もいると思います。しかし、実は、そのような言動を取る人は、自分のことを、弱い立場にある被害者だ、と、思っていることが多々あります。

イメージは、まるで真逆ですよね。端から見れば「甘やかされて強気なのだろう」と思われていて、本人としては、「自分は弱い立場の、被害者である」と、思っているのです。

なぜ、自分のことを弱い立場だと思っている人が、依存的で、わがままで、自己主張が強い態度をしてしまうのか、

それは、「自分はこんなにも大変なのだから、他の人達が、そんな自分にいろいろしてくれることが当然」だと、思っているからです。

依存ともワガママとも思っていなくて、本人は、世の中に対して、正当な要求をしているだけ、という認識をもっているのです。

体の調子が悪い人や、病人がワガママになってしまう、というケースを見聞きしたことがある方もいるのではないでしょうか。それと同じようなものです。

私も、怪我をして入院した経験があるからよくわかるのですが、「自分は大変な目にあっている。だから、大変な目にあっていない他の人達は、そんな自分に配慮するのは当然で、合わせるのが当然で、そうしてくれることで、お互いがやっとイーブンな関係になる」かのように、思ってしまうところがあります。

わかりやすさのために、数値化してみます。

たとえば、病気になった人が、自分の状態を「マイナス3」だと思っているとします。お見舞いに来てくれた相手が、「プラス8」くらいのことをしてくれたら、とてもありがたく相手に感謝します。

しかし、「プラス2」や「プラス3」程度のことをしてくれても、あまり感謝の気持ちがわかずに、それくらいしてくれて当然、のような気持ちになります。

その人の中では、プラス2~3、くらいのことをしてくれても、それでは、まだ、相手のほうが有利で、自分が 不利ではないか、自分はこんなに辛いのだから、そんな自分には相手はもっと気を配るべき、それが当然であり、常識であり、礼儀であろう、というような、考え方に「なってしまう」ことがあるのですね。

私も、入院中は、一瞬、そういう考えになりかけたことがあります(^^;)。が、数時間で、ほどなく、その考えは正すことができました。それは、人の振り見て我が振り直せ、というやつで、他の入院患者さんたちが、教えてくれたというか、見せてくれたことで、内省することができたのです。

整形の入院患者さんは、高齢の方がほとんどです。「私は、怪我をして大変なのよ」という気持ちに、「私は、高齢なのだから、もっと大変なのよ」という気持ちが掛け合わせになるので、それはもう、ワガママになります(でも、そうなってしまうのは、仕方がないと思いますので、酷いとは思いません。ご家族の方やスタッフの方は、大変そうですが;)。

入院中に、そのような極端なケースを見せてもらって、私は学ぶことができました。

本当は、してくれることは全てありがたいことであって、してもらえるのが当然、などということは存在しないのですが、自分が、弱い立場に置かれているときは、気を配ってもらうことは当然で、さらに、プラスアルファを要求することも、当然だと、どこかで思い込んでしまうものなのでしょう。

「依存的で、ワガママで、自己主張が強い」タイプの人にも、上記の例えのような思考が、そのまま当てはまります。

何か、その人の中で、自分は弱い立場であって、かわいそうであって、被害者であって・・・、周囲の人がそんな自分のマイナスを埋める行動をすることが当然であって、自分はそれを要求することができる、という、自分目線での思い込みがあるのでしょう。

私が、ほんの一瞬でその思いから抜け出せたのは、「自分で転んだから(^^;)」という状況が大きいような気がします。もしも、他人の自転車に引っ掛けられて転ばされた、とかであれば、被害者意識が掛け合わされて、なかなか抜け出すことができなかったかもしれません。

つまり、その思いが大きく強固になるには、その人の中での、被害者意識の大きさが影響しています。

自分が今の弱い立場や苦しさを抱えているのは、親が悪い、上司が悪い、旦那が悪い、という、他人を責める気持ちが大きいほどに、相対する自分の弱者、被害者という、自分の中での印象が強くなります。

そして、加害者と思っている相手(親、など)に対してではなく、第三者にも、主張や要求や依存を向けてしまう人が多いので、そこで、トラブルが作られるわけです。

私がこんなに大変な目にあっている、苦しい生き方をしてきたことを、知っているはずなのに、考慮しない相手がおかしい、もっと気を配ってくれるべき、それが公平であって、自分だけが割を食っているのは不公平(だから、要求できるはず)、と、自分中心の思考が展開していきます。

「依存的で、ワガママで、自己主張が強い」タイプの、言動の「元」になっている価値基準は、自分を被害者だと思っていて、そのことを他の人にわかってほしい、共感してほしい、という強い思いから、作られていることが多いのです。

そういうタイプの人と、うまくやっていくために、どう接していくのがよいのか、「元」となっている価値基準の仕組みを、知識として理解しておくと、少しは、役立つ部分もあるかと思い、書いてみました。

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2012年11月29日 (木)

直感から、完全に「思考」「知識」を排除することはできないし、その必要もない。

直感や閃きというのは、「やってくるもの」「降りてくるもの」という、受け身的に「キャッチ」する要素、といえます。自分から意図的に、直感や閃きを、欲しいタイミングで「つかみ取ろう」とするのは、難しいものです。

この事柄について直感が働いてほしい、とか、望む要素について閃きたい、というような、コントロールは、実際、なかなかできません。

しかし、そうかといって、直感や閃きのすべてが受け身、とは言い切れません。なぜなら、閃いた要素を、解釈するのは、自分自身が能動的に行うものであって、解釈の仕方までをも与えられるわけではないからです。

つまり、直感や閃きがやってくること自体は、自分の好きなようにコントロールはできませんが、解釈は、自分が好きなように「できてしまう」ものです。つまり、どのように工夫しても、ある程度は、「自分」が入った解釈になってしまうことを前提として、受けとめていくほうが、実情に合っているといえるでしょう。

その際の解釈とは、想像力と同じように作用します。知らないものは想像しにくく、知っているものは想像しやすいように、閃きを解釈する際も、自分の知っている知識や要素の範囲内で、だいたい近いと思われるものを当てはめて解釈していきます。

たとえば、「赤い花を買う」と閃いたとします。赤い花といえば、チューリップだ、と思っている人は、チューリップを買おうと思うでしょう。しかし、赤い花には、チューリップもあればバラもある、と知っている人は、どちらにしようか迷うでしょう。

「赤い花を思い浮かべてください」という、想像する場合でも同じです。その人にとっての、代表的な赤い花をそれぞれ思い浮かべるでしょうから、人の数だけ差があります。

「直感や閃きを得たい」と思っている人は、おそらく、閃きを活用していきたいのだと思いますが、活用していくという、能動的な思考をする時点で、完全な受け身ではいられず、意図的な部分は加わってしまいます。それが当然なのです。

直感を得たい、と強く思っている、決して少なくない人達が、そのためには、自発的・能動的な要素、意図的な感覚を「無くして」いけばいいのだと、大きな誤解をしているように思います。

意図的な感覚を抑えていくことで、直感をキャッチしやすい、という受け止め方を、間違っているとは言いません(しかし、そのまま、ズバリ当てはまる、とも思いませんが)。

しかし、キャッチしたものを解釈するのは、自分自身の感性であり、備えている感性の範囲内でしか、解釈が広がっていきません。それぞれ感性の領域での、近似値を当てはめて、イメージがつくられたり、言語での説明が思い浮かんだりしていくものだからです。

つまり、「直感」という受け身的なものを、「得たい」と意図的になる時点で、それは少々の矛盾がある」ともいえますし、

直感をキャッチするためには、能動的な要素を無くしていくのがある意味において有効であることも間違っていませんが、キャッチしたものを解釈する時点では、自分の知識や感性という要素が必ず関わってきますので、

受動と能動、無意識と意図的、のような、相反する要素を「包括」してとらえていくことが大切であって、どこか一部分「だけ」を抜き出してとらえても、誤解や曲解に繋がるだけではないかと思います。

思考を消して無意識状態になるほうが受けとめやすい、とか、自分の解釈を加えてはいけない、というような、一部分を全部のようにとらえた受け止め方は、上記の例えでいうならば、「赤い花といえば、それは、チューリップのことである」と、思い込んでいるのと同じになります。しっかりした定義をつけようとして、逆に世界を狭くしているのと同じなのです。

豊かに広がる解釈の材料となる、知識を増やしていくことはとても大切です。それなくして、受けとめたものを「活用」することはできません。

受けとめることができる「器」がしっかりとつくられていけば、それに比例して、自然に直感や閃きは、ふえていくものです。

器に入らないものは受けとめられませんし、器の外側をスルーしたものは、自覚できないわけで、その仕組みを逆に考えれば、入る器の大きさにより、受けとめられるものはきまってくる、とも言えますし、小さい器の外側にあるものも、器が大きくなれば、内側として自覚できるようになるとも言えます。

一部を全部のようにとらえることは正しくありませんので、私が言いたいことも、知識だけを増やせば良い、とか、知識が全て、ということではありません。

しかし「伸ばしたい」「高めたい」という、意図的なものは、「意図した行動がしやすい要素」のほうが、格段に取り組みやすいです。

完全に、自分の思考や知識を排除することは難しく、むしろ、解釈の際にはそれらを活用していく必要があるのですから、ならば、それらの要素を最初から含んで、包括した解釈で、直感や閃きという、そのものを、受けとめていくほうが、ずっとスムーズであり、ずっと取り組みやすく、直感を高めることも達成しやすい、といえるでしょう。

巷でよく言われる、「直感を受けとめるためには、思考や自我を静めていきましょう」的な表現は、わかりやすさのために端折った説明であって、何もいりません、思考をゼロにするほうが素晴らしいのです、ということを言っているのではない、と思います。

結局、それを解釈する人が、自分の狭い範囲の感性で、「何もしないほうがいい、思考はすべきではない」かのように、曲解して受けとめているのではないでしょうか。

そのような浅い考え方こそが、感性の器が小さい、ということです。

直感が高い人は、わざわざ、そこに意図的な思考を挟まず、自然にいろんなことを受けとめ、毎日の生活で、活用しているものです。

そういう人たちは、直感が日常に自然に馴染んでいるので、「高めよう」とも、「使おう」とも、意識していないことが多いです。そこまでの段階になれば、思考も知識も、(十分に備わっているから)意識しなくていい、ということです。意識しなくても、使われているからです。

そこにたどり着く前の段階で、思考や知識を排除したら、器は大きくならず、解釈の幅も広がらず、望むことから逆行することになりかねません。

直感や閃きを得て、どうしたいのか、といえば、それは、この人生を創造的で豊かにするため、よりたくさんの学びをして成長していこう、という、意欲があるため、ではないでしょうか。

(直感という要素を抜きにして、一般的に)人生を創造的に豊かにするためにも、たくさんの学びをして成長するためにも、思考や知識は必要ですよね。

本来の目的をしっかりとらえていれば、何にも惑わされることはありません。本当に大切なものと、そうでないものを、混乱させないように、よく考えることが大切だと思います。

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2012年11月28日 (水)

会話の「目的」は何か。

上手な会話やコミュニケーションのためには、そのやりとりの、目的とは、どんなことなのかを、自分の中でしっかりととらえて置くことが大切です。

そこがはっきりしていないと、その時々の相手の反応や発言の内容で、あちらこちらとゆれ動いて、何を得るためのやりとりだったのかが、曖昧になったり、把握できなくなったりして、ストレスが掛かります。

何のために、その(やりとりの)場が設けられているのか、何を目的として、会話がなされているのか、そこを、あらかじめ押さえておけば、スムーズでストレスのないコミュニケーションがとれ、相手からも好印象を抱かれるようになります。

やりとりには、必ず、目的があります。

たとえば、就職の面接時に、「あなたは、どんな動物が好きですか?」と聞かれることは、まずありません。なぜなら、採用の基準にも、業務にも、そんなことは関係がないからです。

しかし、一見、業務には関係がなさそうな質問をされることはあるものです。「学生時代に、部活をしていましたか?」と、聞かれることなら、あるかもしれません。業務に直接関係はなくても、部活をしていると、団体行動や上下関係になれているとか、根性があるとか、忍耐力や継続力があるなどと見なされ、その部分が、採用のポイントとなることは考えられます。

ですから、面接の際に、部活のことを聞かれたら、上記のようなことを問われているわけですから、ぽかんとして、「はい・・・、○○をやっていましたけど・・・」などという答えをするよりは、「はい、私は○○をしていて、団体行動から、忍耐力を培ったと思います。良い経験になりました」などと答えれば、相手の言わんとしていることを汲んでいるという点でも好感度が上がるかもしれません。

部活をしていなくても、「していませんでした」とだけ答えるよりも、「していませんでしたが、その分ボランティア活動をしてたくさんのことを学びました」などと言うほうが、よいアピールになることもあるでしょう。

採用担当者が知りたいのは、部活をしていたか否か、という点ではなく、「その人が、採用に値する人か」という点ですから、その「目的」をわかっていれば、たとえ、少々、基準に合わなくても「上手いかわし方、上手い答え方」というものはあるわけで、そういう答え方ができると、「この人は気が利く」とか「こちらの言わんとすることを察するセンスがある」と思ってもらえます。

また別の例えとして、あまり意味のない、世間話のような、その場だけの会話というものがあります。それは、一見、「目的がない」ように思うかもしれませんが、そうではありません。やりとりを重ねて、建設的な結論を導き出すことが目的ではない、というだけであり、「時間つぶし」という会話の目的は存在します。

そういうときには、目的にあわせて、つまり、時間つぶしに合わせて、その場だけのあっさりとした軽い会話をかわしていくことが、双方にとって、最もストレスが少ないやりとりになります。そこで頑張って深い話をすることは、(時間つぶし、という)目的を逸脱して、相手を疲れさせ、自分にもストレスが掛かることになります。

そのあたりを、上手に使い分けるためには、「目的」をとらえていくことはとても大切なのです。

やりとり、会話というのは、相手があることですから、自分の想定したとおりに進んで行くとは限らず、相手次第となるところは、必ず出てきます。

しかし、そもそも、その場とは、その場でかわされるやりとりとは、何を目的としているのか、という基本を押さえておけば、相手の反応がどうであろうと、ある程度の、やりとりの方向性はつかんでおくことはできます。

仮に、相手の反応が予想しないものになったとしても、基本の目的を思い出していけば、話の流れを引き寄せて、結論に導くこともしやすくなるでしょう。

何のために、その場が設けられているのか、何を目的として、会話がなされているのか、意識した場合と、そうでない場合と比較してみると、その違いがよくわかると思います。

この点をあまり考えたことがない方は、ちょっと意識して、試してみるか、またはそういう視点で、話し上手な人を観察してみることをおすすめします。

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2012年11月26日 (月)

子どもは、親の苦労を見ている。

子どもが大人になっていく過程で、とても反抗的になったり、親の言うことを聞かなくなったりして、「あんなに素直で良い子だったのが、なぜ?」と、悩んでしまう方は少なくないと思います。

いろんなことに好奇心が出てきたり、自分は大人になったようなつもりで、あえて、悪いことをしてみたくなったり・・・、そんな時期は、多かれ少なかれ、誰もが経験するものかもしれません。

好奇心に突き動かされている時点で、まだまだ子どもといえるのですが、そういう時期は、ルールや常識に沿った生き方をしている大人が、不自由で縛られた存在のように感じたりして、自分こそが正しいと思いこみ、親を見下したり、反抗したりする行動をとることもあるものです。

きっと、そうして、気持ちがあちらにいったり、こちらにいったり、と、定まらない状態を経験することも学びとして、自分の中に「軸」が作られていき、大人になっていくと思うので、ある意味においては、必要な経験のひとつとも、言えるのでしょう。

そういう時期は、親の言うことに従いたくない、従わないことこそが大人だ、と思っていたりするので、親としては心配でも、子どもが自分自身で気づいて学んでいくことを見守る姿勢も、ときには、大切となるかと思います。

けれど、その定まらない不安定な状態が、許容範囲を超えているのでは、と思われる場合には、親が、軌道修正のための、助言なりをしていくことも必要です。

親が、愛情から、子どものためを思って伝えるならば、耳の痛い苦言であっても、子どもの心に届いていくものです。

愛からの言葉が、子どもの心に届かないならば、それ以前に、お互いの間に、信頼関係が作られていたか、という点を、省みる必要があると思います。

具体的には、「子どもかわいさの気持ちから、甘やかしてばかりいなかったか」、「親の大変さや努力や苦労という要素を、子どもに見せてきたか」という点です。苦労している姿を見せない、という愛情の示し方もあるけれども、それをあえて見せることで、子どもの感性を育てていける場合もあります。

親が一生懸命に頑張って、自分を育ててくれている姿を知っている子どもは、親に対してわがまま放題にはならないものではないでしょうか。

たまたま、人生の一時期、好奇心から派手なことをしたくなったり、反抗したりすることが仮にあったとしても、親が泣いている姿や、自分のために、親が頭を下げている様子をみれば、心が痛んで、反省する子は多いと思うのです。

信頼関係で結ばれている親子の間で、親が一生懸命に生活している姿を見せることは、子どもにとって、過剰な好奇心の抑制力になる、という一面もあります。

それは、子どもをコントロールすることとは違います。世の中の、社会の大変さを、間接的に、(親の姿勢を通して)教えていく、という、教育です。

どの時点からでも、気づいたところから、親子の関係を見つめ直し、そこから、前向きに、自分ができることを尽くしていくという姿勢は大切です。

スムーズにいかない、思い通りにならないときにこそ、自分を省みて、大きく成長していく機会だととらえて、過度に悲観的になることなく、冷静さをもって、臨むことが大切ではないでしょうか。

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2012年11月24日 (土)

「自然」に出会いたい、と思っている人が、まずは考えておくこと。

恋愛や結婚のパートナーを得たい方で、「自然な出会い方」を希望される方は少なくありません。「自然に出会うことは無理でしょうか」とか、「自然な出会い方をするには、どうしたらいいのか」と、聞かれることがあります。

今は、昔と違って、男女の出会いは多様化していて、親が相手を決める時代でもなければ、本人同士の意向が無視される時代でもありません。さまざまな場所で、さまざまな形での出会いを経験することも、選ぶことも、ある程度は出来るのが、現代である、といえるでしょう。

「自然に、出会いたい」というご希望は、その人の思いとして、尊重されるべきものであり、他人があれこれ口を出す問題でもありませんので、私は、そのご希望自体は、いいと思うのです。

けれど、ひとつ、気になることがあって、「自然」というのは、「どんな出会い方のことを意味しているのか」、その発言をしている本人が、そこまで掘り下げて考えていないケースがとても多いことが、ちょっと心配になります。

おそらく、お見合いなどの形式は、そのような考え方を持っている人達にとっては、「自然ではない」カテゴライズになるのでしょう。そこまでは、わかります。

けれど、友達の紹介という出会い方は、「自然な出会い」を望む人にとって、「自然」に入るのか「不自然」に入るのか、結婚式の二次会で知り合うなど間接的な知人のような立場の人との出会いは、「自然」に含まれるのか、相手を探すために、あちこちのサークルに参加したり、行事に出掛けたりする行動を取ることは、自然なのか不自然なのか、つまり、「どこまでが、その人にとっての自然なのか」が、意外と曖昧になっていると思うのです。

価値観はそれぞれ違うので、どこまでが自然という範囲になるのかは、一律区切りを付けることはできません。それぞれの、解釈の違いがあるはずですから、自分が思う、自然な出会いとはどういうものを指すのか、自覚しておくことは大切です。

自然に出会いたい、と思うことが悪いとは言いません。しかし、「どこまでが自然なのか」を、自覚しておかないと、いろんなチャンスを見逃してしまったり、工夫できることをしないまま、そしてそれに気づかないまま、迷いや悩みだけが深まることになりかねないと思います。

自然というのが、「まったく何もしないこと」というのであれば、つまり、そのことについて思考したり分析したりすることすらも作為的で不自然だ、というのであれば、これいとって工夫できる行為は存在しないことになりますが・・・、何もしないままに出会うことが、望んでいる自然な出会い方だ、というのなら、それを貫くことも、自分の人生ですから自由だといえます。

しかし、もっと緩い範囲で、「自然」を捉えている人もいると思うのです。

たとえば、相談所やお見合いや紹介など、「自分以外の他人を介在する出会い方」が、気持ちの上で負担になるので、自分と相手が直接出会うようなパターンがいい、それを、「自然に」と自分の中で表現している場合もあるでしょう。

または、お見合いや、出会いイベントのような、「そのことを目的とした出会い方」というのが、なんだか直接的すぎるので、たとえば仕事や趣味を通して知り合い、付き合いを目的としない出会い方をした延長上に、お付き合いに発展するような形となることを「自然」と、とらえている人もいるでしょう。

このような分析は大事であり、違いは大きいのです。

なぜなら、前者のように、まったく何もしないことこそが自然だ、というのであれば、工夫や努力もしようがないけれども、後者のような、自分が思う特定の条件さえ除けば自然な出会いと解釈できる、というのであれば、そこには、何らかの努力や工夫の余地があります。

たとえば、行動範囲を広げるとか、場合によっては転職するとか、美容方面を磨くとか、会話力を向上させるとか・・・、自分が出来る工夫はいくらでもあります。

自分の人生を、自分が創っていく、というのは、そういう姿勢で臨むことを表す言葉ではないでしょうか。

曖昧な思考が引き寄せる結果とは、同じものを引き寄せる「波長の法則」により、同様に曖昧となりがちです。明確な思考をしていけば、その思考の結果、導き出した答えというのは、少なくとも、曖昧な思考をしたときよりは、いくらか現実的ではっきりとしたものに、なっていくものではないでしょうか。そこは、スピリチュアルな法則を抜きにして、日常の経験から考えてみた場合でも、同じだと思います。

「自然な出会い方」を希望している方、あなたにとっての、「不自然さ」とは、具体的にどんな範囲のことでしょうか。その不自然さを除いた範囲で、確率を上げるような、出会いに繋がるような、工夫できることや、取り組めることはないでしょうか。

思考することも、エネルギーとしての作用を持ちます。それは、決してきれい事でも、建前でもなく、「事実」です。 自分の中の曖昧な思考に気づき、出来る範囲で改善していく、という繰り返しで、人は大きく成長していきます。成長とは変化です。自分が変化すれば、自分が発するエネルギーが変化し、同じものを引き寄せる、波長の法則で、出会う人や、関わる出来事の質も、だんだん変化していきます。

出会いのために、実際の行動は大切ですが、そのために、思考をしっかりさせておくことは、大きな底上げにもなっていきます。この機会に、少し、自分の思考の仕方を、意識してみることをお勧めします。 そこから、改めて、スタートをしてみましょう!幸せな、人生を自分の手で作り上げるために。

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2012年11月23日 (金)

自慢をしているように、誤解されがちな話し方。

自分では、全然そんなつもりはないのに、話したことが「自慢話」のように受け取られてしまう、誤解されてしまうことが多い人の「話し方」には、共通点があります。

ひとつは、「聞かれてもいないのに、自分の話ばかりすること」、そしてもうひとつ、「話にオチがないこと」です。この二つの要素が両立している人が、そのような受け止め方をされてしまうことが多いといえます。

基本、会話というのは、人と人とのやりとりであって、自分だけが一方的に話すことで成立するものではありません。それなのに、聞かれてもいないのに、自分が言いたいことを、相手の反応をお構いなしに話してしまうところがないか、自分を省みることは大切だと思います。

「自分が、話したい」からといって、そのとき「相手が、聞きたい」とは限りません。相手の状況を考えながら、相手が聞く姿勢になっているときに言うとか、聞いてもらう状況を整えてから話す、という工夫は必要です。

そしてもうひとつ、結局その話は、何がいいたいのか要点がよくわからない、話にオチがない人の話は、自慢と受け取られがちです。

オチというのは、笑いの要素という意味では必ずしもないですが、何か、「その話をすることの目的」というか、「その一連の話で、相手に訴えたい内容」、「中核となる要素」がよくわからない場合に、「・・・で、結局何がいいたいの?自慢?」と、解釈されてしまうケースが出てきてしまうと思います。

たとえば、「出掛けた先で、ある芸能人を見かけた」という話題を話す場面があるとして、「昨日、○○に行ったときに、なんと、芸能人の××さんを見かけて、めったにいかない○○に行ったタイミングだったから、びっくりしたけど、芸能人も行くってことは評判の良い店なのかもね、今度一緒にいかない?」と発言するとします。

それを聞いている側は、「その人が、芸能人をみてびっくりした」という情報とともに、「○○という店は、芸能人御用達らしい」という情報と、そして、「今度、一緒にいかない?」というお誘いを、会話の中から得ていることになります。

話す側の一方的な経験や思いの伝達だけでなく、聞く側の人にも、活用できそうな何かが含まれていますから、「芸能人を見たという自慢」にはならず、「芸能人もいくような店に出入りしている自分の自慢」のようにも、受け取られることはあまりないと思います。めったに行かない場所だ、ということも、会話の中で伝えていますからね。

けれど、このような言い方だったらどうでしょう。「昨日の夕食に、両親と、○○に出掛けて。そこで、芸能人の××さんを見かけた」と、それだけを伝えられても、聞いているほうは、「へぇー、・・・すごいね」となるか、「ああ、そうなのね。(・・・で、何が言いたいのか?)」という反応になるだけで、話に広がりがありません;。

聞く側としては、「食事に出掛けた、両親と出かけた、芸能人を見かけた」という以外の内容が含まれていないので、なぜ、それを自分に話すのか、と考えた場合に「ただ、それを言いたいだけなのだろう=自慢なのだろう」と、思ってしまうものではないでしょうか。

そんなつもりがないのに、自慢話に思われてしまう人の話し方とは、その多くが、伝えたい要点がはっきりしないか、または、まるで日記のような「時系列にそった自分の行動の説明のみ」をしています。それでは、話を聞いている相手も疲れるので、否定的な受け止め方をされてしまいがちです。

聞く側の、相手のことを考えた会話や発言をするならば、一方的に自分の言いたいことだけを言うこともなければ、時系列にそった説明だけの会話をすることにもならないはずです。そういう部分の、気配りが十分でない人が、「ただ言っただけ」のはずが、「自慢だと受け取られてしまう」ことになりがちなのです。

自分にとって普通になっている発言の習慣は、何が原因で相手との温度差を作りだしているのか、自覚することが難しいものですが、相手の反応から逆算して、考えていくことは有効な方法だと思います。

自分ではまったく他意がなくても、相手にはそう受け取られないことが、一度や二度ではなく、しかも、複数の相手から同じように指摘されてしまうときには、素直に、自分の発言を省みて、聞かれてもいない話を一方的に話していることはないか、相手との「やりとり」がなされているかを、冷静に分析してみると、ヒントとなることがつかめるのではないでしょうか。

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2012年11月16日 (金)

「どうしたらいいのか」という思考の、動機は何か。

「○○○について、自分は、これからどうしたらいいのか?」という、考え方をすることは、誰にでもあると思います。私も、この仕事において、しばしば、このように聞かれることがあります。

「○○○について、どうしたらいいのか」という考え方の、根底にあるのが、「より、成長した自分になるには、どうしたらいいか」とか、「この状況において、自分にとって望ましい行動はどういうことなのか」というように、現状の自分自身を含めて、前後左右を広くとらえた視点ならば、相応の答えは、ご自身の中から見えてくると思います。

しかし、「○○○について、どうしたらいいのか」という、言葉の意味が、「自分の主張を通すには、どうしたらいいのか」とか、「自分の思うとおりにするためには、どんな方法をとればいいのか」という、周囲を省みない、自己中心的な視点のみでの問いならば、そこには、「方法」と言えるものは、存在しない場合もあると思います。

どうしたらいいのか、考えても答えが見つからない、という人は、後者の動機で方法を考えていないか、振り返ってみてください。

世の中というのは、自分の思い通りに(必ずしも)なるものではない、思い通りにならないことにも、そうなる意味と学びがあって、気づかなければいけない何かが存在しているのだろう、と、自分を省みることも大切だと思います。

前者の前提で考えているのに、答えが見つからないときは、以前にも何度も記事にしていることですが、考え方が具体的になっていなくて、抽象的で曖昧なために、思考が前進していかないことが、その理由だと思われます。「○○○」という対象となっている範囲を、もう少し狭くするか、あるいは、具体的なものに置き換えて、考えてみることが有効となるでしょう。

自分の思い通りにしたい、我を通したい、という場合、その対象が、「品物」「物質」であれば、今の世の中では、よほど高望みをしないかぎり、手に入れる方法は存在すると思います。

しかし、それが、物質のように形を持たないもの、お金では変えないものであれば、そう簡単には手に入らず、相応の、努力や工夫や忍耐や成長が必要で・・・、そうして、時間を掛けて、やっと得られるものではないでしょうか。

形をもたないもの、たとえば、信頼関係や、尊敬や評価、手応えや充実感といったものを、「物質を得るときと、同じような「方法」で、得ようとしている」ときに、「自分の思い通りにするには、どうしたらいいのか」という考え方が、出てきてしまうことが多いように思います。

物質を手に入れるには、物質を手に入れるにふさわしい方法があり、形のないものを手にいれるためには、物質を手に入れるのとは違った、形のないものを手にいれるにふさわしい方法があります。

そのことを踏まえていけば、選択の範囲をある程度絞り込んで、とらえていくことができますので、思考の展開がスムーズになっていき、答えに到達することも、いくらか楽になるのではないでしょうか。

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2012年11月15日 (木)

付き合っている相手と、穏便に別れたい?

相手が嫌いになったわけではないが、別れたい気持ちになることがあると思います。そういうときは、喧嘩別れにはなりようがないので、むしろ、切り出し方が難しいものかもしれません。

嫌いになったわけではないし、喧嘩もしていないので、相手を必要以上に傷付けてしまうのは本意ではない、なんとか、出来る限り痛みが少ない形で、別れを迎えられないものだろうか、という心境になると思います。

そういうときの考え方としては、「別れには、相応の痛みが伴う」ものであることを、まずは、受け入れることが大切です。

なるべく痛みが少ないように・・・と、思う気持ちは分かりますが、そんな良い方法があるなら、そもそも、悩む必要はありませんよね。それができないから、現状、悩んでいるという事実があるわけで・・・、自分が「別れたい」という意思がはっきりしているならば、そうと伝えて、分かってもらうしかないでしょう。

付き合いを継続する意思はないけれども、しかし、相手に対する思いやりの気持ちは残っている、という、優しいタイプの人ほど、悩んでしまうものだと思います。

恋愛感情が薄れてきても、付き合ってきた期間に培われた情はあるでしょうから、そう簡単に割り切れないのは当然のこと。しかし、それでもなお、相手と別れたいならば、話し合って分かってもらうしかないのです。

既に出来上がった人間関係を解消する、というのは、とても大変なことです。傷つくでしょうし、修羅場にもなるかもしれませんが、別れたいという気持ちがはっきりしているならば、前に進むしかありません。

スムーズにはいかないかもしれない、どちらも傷つくだろう、という前提で、誠心誠意、とりくむことが、お互いのよい未来のために必要なことではないでしょうか。

そう考えてもなお、相手を傷付けるのが嫌だ、と思ってしまうのは、相手のため、というよりは、自分がかわいいため、自分が悪者になりたくない、という気持ちがあると思います。

付き合いを継続したい相手に、別れを告げるとなったら、それは、どうやっても、少なからず悲しい思いはさせてしまうわけで、そこはしかたないのです。

こちらから別れ話をする前に、相手に好きな人が出来るなどして、相手のほうから離れていってくれたら楽なのに、と思う人も多いけれど、そんなに自分ばかりに都合のよいことばかりは起こりません;。そうなったら確かに、自分は楽かもしれませんが・・・、そんな展開を望むのは、自分が苦しまないための、自分が悪者になりたくない、という、自分かわいさの気持ちですよね。

傷つけたくない、とこだわっていても、そうして、ずるずると付き合いを続けてしまうことで、相手をより傷つけてしまうこともあるかもしれません。総合的に考えて、そのほうがずっと、相手にダメージが大きい、ということだってあると思います。

一時の感情だけの話ではなく、本当に相手に思いやりがあって、感謝もしている、嫌いではないのならば、「どうすることが、最も相手のためになるのか」という観点から、理性で考えていくことも必要だと思います。

誰にも、その人を導く存在がいて、この世で、私たちは、さまざまな出来事や人間関係を通して、たましいの学びをしています。

相手にも、相手の導き役がいます。そして、何より、相手には、一人の人間としての「自力」が備わっているはずです。そのような存在である相手を、信じ、尊重していくこともまた大切ですよね。

それぞれが、最も望ましい方向に、導かれていくことを信じる気持ちを、相手にも、自分にも向けていくようにすれば、心配や不安の気持ちは、薄れていくのではないでしょうか。

いざ別れを切り出してみたら、思いの外スムーズで、相手も素直に受け入れてくれた、という結果になることも、中にはあるかもしれません。しかし、それは、結果としてそうなった、ということであり、そうなるように仕向けることは難しいですし、相手が表面的にはあっさりしていても、心の中がどうなのか、までは、計ることはできません。

穏便に、という思いは、どちらかといえば、自分のほうに意識がむいた考え方とも、いえるかもしれません。表向き、穏便にことが展開しても、相手の本心までは分からない、相応の積み重ねがある人間関係を解消するというのは、そう容易いものではない、と、分かっていれば、出てこない考え方のようにも思います。

そういう、自分自身の気持ちも、見つめていくことが大切だと思います。

そして、お互いが、よりよい未来をつくっていけるように、自分と相手の幸せを願い、気持ちに区切りをつけたら、過去は大切な思い出として、扱うことができる日もくるでしょう。いろんな複雑な思いは、時間が解決してくれる部分もあると思います。

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2012年11月14日 (水)

「適切な伝え方」は、一パターンに限定されないと学びました。

通常、霊界から伝えられることというのは、抽象的なメッセージであり、ああしろ、こうしろ、このほうがいい、というような、指図や強要はしてこないですから、場合によっては、わかりにくいと感じる方もいると思いますので、「おそらくこれは、こういうことであろう」という、私なりの解釈を加えて、お伝えしていることが多いです。

そのほうが、分かりやすいはず、と思うから、そうしているわけなのですが・・・、しかし、いろんなケースがありますので、中には、そのままをお伝えしたほうが伝わりやすく、私が余計な解釈を加えないほうがいい、という場合もあるようです。このさじ加減は、本当に難しいと感じます。

以前に、このようなケースがありました。

ご相談者様のご家族で、霊感が強くて、いろいろ感じやすいタイプの方がいて、近頃とても夢見がわるい、と。そして夢の中で、ある特定の数字が出てくるが、その数字には何か、意味があるのだろうか、というものでした。

霊界から伝えられたのは、「その数字は、○○○を表している」というものでした。

・・・そして、なぜ、その数字が、○○○を意味しているのか、という理由や関連については、何も伝えられませんでした;。

私はちょっと、困ってしまいました;。「その数字は、○○○を表しているそうですよ」と、そのことだけを伝えても、なぜ、どうして、という理由の解説もなく、唐突に「答え」だけが存在しても、疑問もでるだろうし・・・、それでは、回答にならないのではないか、と、思ったからです。少なくとも、私がその立場だったら、そう受けとめると思います。

なので、私は頭の中で、いろいろと、言い訳?を考えました。ご依頼者さまは、当然、「なぜ、その数字が、○○○だ、ということになるのでしょう?」と、聞いてくるだろうから・・・と、「それが、○○○を示していることは伝えらたけれども、なぜか、という根拠のようなものは、特に示されていません。霊界からのメッセージとは、このような抽象的なものも少なくないので・・・、こちらの聞きたいことに、すべて逐一答えてくれるとは限らず・・・」とか、そういうことも、お伝えしたのですが、

その方は、「○○○が大切なことは、とても納得ができた」と、あっさりと納得してくださいましたcoldsweats01

・・・つまり、私が、いろいろ言い訳?を作る必要は、何もなかったのです。それだけで、ご本人には通じていたからです。

「えっ、・・・これで納得できるの?」と、私は思ってしまいましたが(笑)、私が納得するかどうかは、無関係ですからね。ここで、私が、余計な心配をする必要はなく、余計な何かを付け加える必要もなかったのですよね(汗)。

私の、とても現世的な考え方からすれば;、ならば、数字で示すというわかりにくい方法をとることで、解釈の際に、こうしてひと手間かけるより、○○○という単語をそのまま夢で伝えたほうがストレートじゃないか、とか、いろいろ思ってしまうわけですが、

しかしそれは、霊界の判断でもたらされるものであり、分かりやすい単語であれば、その方だけが自分の胸に留めておき、ご家族で夢の意味を共有して考える機会をもたなかったかもしれないですよね。

そういうことも含めての、必要な一連の出来事、という可能性もあるので、私が人間の頭で考えたところで分かるわけもなく、そして、分かる必要もないのかもしれないです。何しろ、ご依頼者さまが、それで納得なさっているのですから、そこで完結していること、ですからね。

霊界から伝えられることを、分かりやすくお伝えするために、解釈を加えていく、という形式を基本としていますが、中には、何も加えないことがもっともシンプルで伝わりやすいこともあるのだ、ということを、このケースで学んだと思います。

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2012年11月13日 (火)

守護霊が伝えてくれること、とは。

守護霊は、何でもかんでも、教えてくれたり、願いを叶えてくれたりするような、便利な存在ではありません。「守護」という単語が含まれているためか、災難から守ってくれて、苦労を除き、幸せを与えてくれる存在のように(スピリチュアリズムの理解が浅い方からは)思われてしまうかもしれませんが、決して、そのような、軽い存在ではありません。

守護霊が伝えてくれること、とは、「その人の学びに必要なこと」や、「気づかなければいけないこと」に限られます。そして、学びに必要な事柄だとしても、何でもすべて教えてくれるわけでもありません。

守護霊と、コンタクトを取ろうとしても、必ず出てきてくださるとも限りません(ほとんどの場合、何らかのメッセージ的なことは下さいますが、中には、出てこられないケースもあります)。

守護霊が伝えてくること、というのは、「霊的な基準に基づき、あちらの方達がこちらの方に伝えたいこと」、であって、「こちらの方が、あちらの方達に期待していることや、聞きたいこと」ではないのです。

ですから、霊とのやりとりというのは、人との会話のように、一問一答のようには、なりににくいものです。 聞きたいことを伝えてくれるのではなく、伝えるべきことを伝えてくるからです。 そのため、こちら側の意思とは無関係に、ゼロ問十答sweat02のようになることもあれば、十問ゼロ答sweat01、となることもあったりします。

守護霊というのは、私たち人間と比較すれば、相当に進化・向上をした存在です。霊は、高い意識をもった存在になればなるほど、その霊個人の感情だとかの要素を超越していきますので、そう簡単に、こちらの世界の事柄に、あれこれ詳細に口を出したり、指示したり強要したりはしないものなのです。

ちなみに、その霊個人の感情などを持ち続けている、私たち人間に近い存在の霊として、この世を卒業してまもない、身内の霊、いわゆる「先祖霊」がいます。先祖の霊も、進化向上の道を行きますが、あちらの世界に戻ってすぐに、守護霊と同じようなレベルの存在になるわけではありません。

先祖霊と守護霊は、その役割が一部被るところもあるとはいえ、先祖霊には、感情の入った、身内の情のような気持ちが多分にあり、守護霊には、それらを超越した、(時にそれは、私たち人間の感覚では理解が難しいくらいの)深い愛という、揺るがない繋がりがあります。

守護霊が、人々に注ぐ愛や、導きというのは、たとえば、とても優しかった祖父母が孫に示すような、身内の情愛とは質が違っていることもあります。そういう愛と同様の部分ももちろんあるけれども、大局的な広い視点で、自主性を尊重しながら、学びを見守り助けているという、ときに厳しさを含む愛を備えているといえます。

守護霊は、その人の成長を願っていますので、常に自主性を尊重していて、その人自身が強くしっかりとした意思を持って、人生を作り上げていくことを助け、導いていきます。

どんな場合でも、基本は、自分自身、そのことは変わりません。守護霊からのアドバイスやメッセージというのも、その人に自力があってこそ活かされるものです。

「守護霊と、つながりたい」と望む人の声をよく聞きます。しかし、守護霊とは、自分と親和性の深い、たましいの繋がりが前提にある関係で、最初から繋がっているからこそ、守護霊という役割になっています。守護霊と切り離されてしまうことが、そもそもあり得ないのです。(ただし、自分の波長が下がって、守護霊の波長と開きが出てしまうことなら、あり得ます。守護霊と自分の波長が揃っている、自分が高い波長になっていることを、便宜上、繋がる、と表現していることは、あるのかもしれませんが、切り離されている人は誰もいません)。

「守護霊に、感謝を伝えたい」「守護霊に対して、祈っている」という人も、いると思います。感謝の思いや、祈りの気持ちは、尊く純粋なエネルギーですから、それらを常に抱いている姿勢は大切ではありますが、しかし、感謝をすれば、守護霊に思いが通じて、たくさん守ってもらえるとか、便宜を計ってもらえるとか、そんな考えを持っているとしたら、それは間違いだと言えます。感謝や祈りは、見返りを期待して行うものではなく、心から湧き出るものではないでしょうか。

感謝をすること自体が、悪いわけでも、無意味とも言いません。感謝や祈りのエネルギーを発することは、相応の結果を作り出すでしょう。それは否定しません。

しかし、守護霊というのは、感謝をしなければ思いが通じないような、そんな遠い存在ではありませんし、感謝をすればするほど助けるというような、俗っぽいレベルの霊は、人の守護霊にはなりません。「たくさん○○をしてくれるから、お返しに○○をしてあげよう」などというような、交換条件が付くのは、本当の愛とは言えないと思います。

守護霊からの導きをたくさん得たいと思ったら、自力を磨いて、しっかりと、まずは、自分の人生に向き合うという姿勢で臨んでいくことが大切です。そして、そうなっていくほどに、わざわざ「守護霊」ということを、意識しなくなっていくかもしれません。

そんな自力がみなぎっている状態が、もっとも、守護霊が働きかけをしやすく、後押しを与えやすい状況だと言えます。

この点を、誤解している人がたくさんいます。自主性を立てることなく、流されるように生きていながら、祈りや感謝という形式だけにとらわれていたのでは、仮に何かを与えられたところで、受けとめる側の器がザルになっていたら、それを現実にいかすことができないですよね。

守護霊が伝えたいことは、すべて自分次第であること、その上で、与えられた学びから成長していくことも大切さです。日々の細かい出来事に、ああしろ、こうしろ、こうすべき、などのような、口出しをすることが、役割ではないのです。

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2012年11月11日 (日)

解決や改善のための、自己分析。

心配ごとや悩みごとがあって、立ち止まっているときに、「自分は、どの段階で立ち止まっているのか」を、まずは考えてみることが、解決や改善のために有効な、最初の思考となることがあります。

悩みごとがあって、解決のために、どう取り組んだらよいのかまったく分からない状態なのか、それとも、解決のために、こうするのが望ましいだろう、と、予測は立っているけれども、実際の行動に移すことができないのか、そのどちらが該当するかによって、解決のために次に取るべき行動も変わってきます。

どう取り組んだらよいのか、まったく分からないときは、実は、その悩み自体が、どこから発生していて、何がどのように関わりあって、出来事が発生しているのかという認識もあいまいになっているケースがほとんどです。

ですから、その場合は、まずは、出来事や現状から逆算していくように、悩みごとについて、分析をしていくことからスタートです。それは、そもそも、なぜ起こっているのか、それは、誰の問題なのか(自分の問題なのか、相手の問題なのか、等)、それは解決するほうが望ましいのか・・・、その問題点を、自分自身がしっかりと把握することが大切です。

解決のために取り組むべき手段はだいたい分かっていても、実際に実行することができない、というのであれば、それは、「なぜ」できないのかを、考えてみます。なぜ出来ないかを分からずして、その行動を押し進める方法を考えても、・・・それでは、取りかかれないので、同じ思考の堂々巡りになりがちです。

そうしたほうがいいと分かっていても、苦しくてできない、という、心理的抵抗によるものなのか、それとも、条件や金銭面の事情でできない、というような、現実的・物理的な条件が整わないためなのか、その違いによって、行動を押し進めるために必要な要素は変わってきます。

「悩みごと」「心配ごと」と、一口にいっても、その内容はさまざまです。

それらを区分けせずに、どれも同列にとらえてしまうと、本来無関係な要素を絡めては、思考を混乱させてしまいがちです。

「解決のためにどうしたらいいか、皆目見当がつかない状態にある」のか、それとも、「解決のために有効な行動や考え方は分かっていても、それができなくて困っている」のか、自分は「どの段階で」悩んでいるか、自覚していれば、その先が見えてきやすいので、少なくとも、同じところで立ち止まる状態からは抜け出すことができると思います。

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2012年11月10日 (土)

他人の欠点に、イライラしてしまうときは?

他人が自分に、何かを仕掛けてきて、自分が迷惑を被る場合を除けば、他人の欠点(そのことで、直接自分が被害を受けるわけではない)そのものは、自分には関係のないことであって、相手の問題なのですから、気にしなくてもいいことのはずです。

しかし、理屈はそうでも、感情的に、他人の欠点が目について、イライラしたり、なぜ改めないのか、なぜそんなことも分からないのか、と、相手を説得して理解させたいような気持ちになることは、誰にでもあると思います。

そういう気持ちになる人は、基本、真面目で努力家の人といえます。そして、表面的には、自信があるタイプに、見られることも多いかもしれません。

そういうタイプの人が、なぜ、他人の欠点をみてイライラしてしまうか、というと、「自分が、ものすごく努力をしていて、そして、その努力の度合いに無理があって、消耗している」ためです。

自分が無理をしてまで、とても消耗しながら、今のこのレベルを保っている、それだけ努力をして頑張っている、という思いがあるので、身近で、それをしない人の、勝手だったりわがままだったりの言動を見ると、自分の努力を無視されたような思いになって、イライラしてしまうのですね。

表面的には、自信があるように見られてしまう、けれど、実際にはそこまでの自信はない、けれど、そのギャップを知られたくなかったり、相手の期待に応えたいというサービス精神旺盛で真面目なタイプの人は、そのギャップを自分の努力で埋めようとして、過剰に頑張ってしまいます。

そのため常に消耗していて・・・、その消耗がマックスになっている状態で、そんなことを気にもしていないような人が、何の配慮もなくふりまく欠点が、自分への影響とは無関係に、殊更目につき、自分が我慢していたり、期待に応えていたりする感情と結びついて、イライラが発生してしまいます。

つまりこれらは、「自分(の努力)が否定されている、または、自分が正当に認められていない」という「思いの問題」と、

常に頑張りすぎて、「消耗している」という「気力、活力の問題」が掛け合わせになっています。

掛け算というのは、どちらかの数値がゼロになれば、その答えもゼロになります。

ですから、二つの要素のうち、取り組みやすい方に働きかけて、そちらをゼロにもしくはそれに近い形にしていけば、気持ちは収まっていきますね。

どちらが取り組みやすいかは、人によりますが、通常は、思いの問題に取り組むよりは、行動の問題のほうが改善しやすいと思いますので、そこまで消耗してまで、頑張り続けなければいけないことなのか、過剰になっていないか、という「行動面」のほうから、自分を見つめ直す機会にしてくとよいと思います。

相手に迷惑を掛けられている場合は、話が別です。しかし、自分は直接被害もないのに、イライラしてしまうときは、それは相手の問題ではなく、自分自身の問題であることが多いです。

相手の欠点、という、要素をきっかけとして、「それに反応している、自分の感情」をみつめていくことが大切です。

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2012年11月 9日 (金)

この世における、スピリチュアルな生き方とは、現実の中に霊を見出すこと。

スピリチュアル(=霊的)な生き方をしている、という言葉の意味は、スピリチュアルなこと「だけ」に、傾倒して生きることではありません。

私たちが学ぶべき要素を、日々の生活や出来事を通して経験をつみ、霊の部分を成長させていくことが、「この世という限定された場所で、肉体という限定された物質を伴った私たちが、体現していく、スピリチュアル(=霊的)な生き方」、といえるでしょう。

私たち人間は、肉体をもった霊的存在です。私たちもまた、霊なのです。人間を、ここまでが肉体(物質)で、ここからが霊、と、明確に分けることはできません。それは、海水を塩と水に区分けして理解することが難しいように、既に混じり合って作られているものは、そのまま理解をしていくことが、(この世という物質次元においては)自然です。

同じように、実は、この世という物質世界と、あの世という霊的世界も、この世の次元においては、明確な分け目はありません。この世でも、見えない世界のルールは作用していて、塩と水の混じった海水のように、実は、霊的世界と物質世界の両方が存在している場所、といえるのです。

海水をみて、視覚的に塩をとらえることは難しいように、それは、通常、意識はなされないものですが、成分としては確かに含まれています。それが、この世における、霊的要素の存在の仕方です。

この世とは、目に見える物質のみの世界ではないことを、そこを備えている霊性という部分で理解していき、この世という学びの場所で、日々の生活や出来事を通して、自分を成長させていく、それが、スピリチュアルな生き方、といえますし、霊としての成長していくプロセスといえます。

あまりに極端に、霊という存在「だけ」、目に見えない領域のこと「だけ」、平均以上の霊感を持つこと「だけ」にとらわれた生き方は、それは、本当の意味で、霊的な生き方といえませんし、そこに霊としての成長はありません。

自分の毎日の生活をさしおき、それらの特殊な事柄だけが、スピリチュアルだと思っている人は、霊的な仕組みや学びの要素の理解がなされていないから起こる、曲解をなさっているように私には、感じられます。(しかし、私の意見が正しいと、主張するつもりはありませんので、その人が、どんな価値観で生きていくかは、その人の自由です)

現実を見据えることなく、頭の中で、妖精ごっこ、天使ごっこ、高次元ごっこを繰り広げ、それこそがスピリチュアルだ、と思い込んでいる人というのは、「霊的に進んだ人」を自認していても、実際のところ、それを客観視するならば、「精神世界によくいる、思い込みの強い人」「スピリチュアルの深い意味を理解しない、たましいが幼い人」です。

結局それは、現実に展開する出来事のすべては、霊的な法則が見て取れ、その経験を通して、私たち人間は、人としても、霊としても、同時進行で学び成長していく、という仕組みを理解していないためではないでしょうか。

霊の世界への、知識や関心を持つことや、霊的存在を敬うことは大切です。それらの価値観や行動が悪い、ということではないのです。

しかし、それ「だけ」になっているのは、例えて言えば、海水の中において、そのうちの塩のみにフォーカスして、水を無視するくらいに、不自然なことと言えます。

そのような生き方に、霊としての学びはあるでしょうか。そうして、霊だけ、霊的事象だけにとらわれるならば、私たちはなぜ、この世という物質次元に存在しているのか、(霊だけを意識するなら、あの世にそのまま存在していればよいのであって、わざわざこの世にやってくる意味がありません)、それは、この世ならではの、限定された物質次元において、学ぶ必要があるため、ではないでしょうか。

そのような、根本のところを押さえた上で、興味・関心を抱くのは、向上意欲に繋がる部分もありますので、有意義だと言えるでしょう。しかし、そこを差し置き、霊的な世界だけにとらわれてしまえば、どこまでも流され、そして、それを自覚できずに、本来のこの世の学び(=つまりは、現実的な経験を通して、成長することです)から、どんどん遅れをとることもあるかもしれません。

この世で生きて、霊としての学びをしている私たちは、スピリチュアルな生き方を志すにあたり、現実から目がそれていくのは不自然です。

なぜ、私たちは、この世という場所に生きているのか、なぜ、この環境を与えられているのか、そしてその中で、物質だけにとらわれない、霊的真理に関心が向くのはなぜなのか・・・、

それらを包括的に捉えて理解を深め、そして、その知恵を、毎日の生活の中で活用していく、その一連の行為を通して、私たちは成長することができる感性をもった存在です。人としても、霊としても、同じ行為を通して、成長していくものだと思います。

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2012年11月 7日 (水)

ネガティブなことを考えているときのオーラ?

思考や感情などの、その時点での「内面の状態」も、オーラに反映していきます。前向きさや柔軟さをもっているときは、オーラの流れ・動きもスムーズになっていきますし、頑固になってとらわれているときは、オーラも固く滞りが出やすくなります。

人との交流というのは、オーラの交流でもあり、近い距離になると、お互いのオーラは重なり合いますし、会話をしたり、一緒に行動したりするやりとりがあると、お互いのオーラの動きもそれに比例していきますので、相互に影響しあいます。

そうして、見えない領域では、重なり合ったり、影響を与え合ったりしているので、つまり、エネルギー的なやりとりが成されていますから、特に会話がなくても、実際の状況を知らなくても、なんとなく、「今日のあの人は、機嫌が悪そうだな」とか、「あの人は、いつも楽しそうだな」とか、内面を想像することもできます。

イライラして不愉快になった出来事を、心の中で考えていたり、悪口や批判を思い浮かべていたり、「ネガティブな思考をした瞬間に、突然、近くにいる見知らぬ人が、はっと、自分のほうに振り返って・・・、心の中でも見透かされたかと、びっくりしたsweat01」という経験をしたことがある方は、少なくないと思います。

口には出していない自分の心の中で思い浮かべたネガティブな思考を、知らない相手に見抜かれたような気持ちになりますよね(^^;)。

そういうときは、見抜かれたわけではないですが・・・、相手は、エネルギーに反応していると考えられます。

自分のネガティブな思考や感情がつくりだすエネルギーが、自分のオーラから放たれていくので、それは、ビリビリしていたり、トゲトゲしているような、なめらかでないエネルギー、重いエネルギーとなります。

それが、唐突に放たれると、その「落差」が違和感となって相手が反応してしまうのでしょうね。スムーズでないエネルギーを何となく感じて、「え?何があった?」と、つい振り返ってしまうのでしょう。

振り返られたほうは、そのタイミングにびっくり、となりますが、・・・というか、お互いに、よくわかっていないことがほとんどでしょうけれど、見えない領域では、お互いのエネルギーの影響や反応が行われているのですね。

こういうことも、偶然ではない、意味のあることです。しかし、「ああよかった、自分の心の中を知られているわけではないのね」と、そういうまとめで納得してしまわないでください。そこが論点ではないのです。その出来事から、気づかなければならないことがあります。

自分の心の中で思っていて、発言をするわけでもない、行動をするわけでもなければ、何も影響も与えないし、相手を攻撃するわけでもない、もちろん、自分にもその反響がくるわけではない、と、つい、私たちは、心のどこかで思ってしまうものです。

けれど、思うことも、「思う、というエネルギーを作り出す行為」であって、それは、発言や行動と同じ用に、作用をしていきます。行動や発言のような、直接的な作用ではないので意識しにくい、自覚しにくい、というだけであり、影響が出ないわけではありません。

そのことを、相手が反応してくれる、という現象を通して、教えていただいているのです。忘れがちなことを、意識させられて、学ばされています。ですから、その現象から、自分を省みていくことが大切です。

つい、心の中で、いろいろ考えてしまうことは、誰にでもあり得ます。しかし、そういう出来事が起こって、「あ、また、ネガティブなことを考えて、自分のコンディションを下げていた」と気づいたら、その都度、その思考をストップすることを意識する、そうして、自分を立て直していくための、ありがたい学びの機会として、相手の反応をとらえていくことも大切ではないでしょうか。

周囲の人達は、自分の鏡である、とは、よく言ったもので、本当にそのとおり、自分の何かを映し出してくれる役割を、お互いに果たしている、それが、この世の人間関係の仕組みのひとつなのだな、と思いますshine

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2012年11月 6日 (火)

誤解と憶測。

誤解されることが多い人は、基本、言葉が足りていないというか、言うべきことを言わず、伝えるべきことを伝えていないのに、そのことに自覚がないケースが少なくありません。

会話の中で、説明や主張の言葉が少ないので、相手の憶測を生みます。そして、意図したことと違う受け取り方や解釈をされてしまうことから、「誤解」という落差が作られます。

「憶測」というのは、自分かってに推しはかること、いいかげんに推しはかること、で、類語には、「当てずっぽう」があります。

このように言葉の意味をとらえると、勝手な解釈をしている相手のほうに、誤解の原因があるように思えるかもしれませんが、しかし、そもそも、相手が憶測で解釈しなければならないのは、普通に解釈するための、十分な説明や主張がなされてないためでしょうから、そう考えれば、相手だけが悪いとは言えませんよね。

十分な言葉で主張や説明をしていれば、相手の憶測が入る余地は、少なくすることができます。

それぞれ、違う個性をもった別の人間ですから、どれほど言葉を尽くしても、まったく同じに理解することはできませんが、最低限のところで共通認識を持つくらいは、可能だと思います。(そうでなければ、世の中の仕組みもルールも、機能しませんからね)

いつも誤解されてしまう人は、自分のコミュニケーションを見つめ直してみましょう。言葉が少ないことはないでしょうか。言わなくても分かるはず、言わなくても察してほしい、察しない相手が悪い、なぜ、察してくれないのか、と、相手にその原因の大部分があるかのような解釈になっていないでしょうか。

そして、自分は「具体的に、誰に」誤解をされてしまうのか、そういう分析をしてみることも大切です。男性からの誤解が多いのか、女性からの誤解が多いのか、上司や親など目上の人からのみ誤解が多いのか、初対面や付き合いの浅い間柄で発生するのか、など、自分のパターンを見つけ出してみます。

たとえば、目上の人からの誤解が多く、友人からは誤解されないのであれば、おそらく、「目上の人と、同列の人と、接する時の言動の使い分けをしていないか、しているつもりでも出来ていない」ことが「推測」されます。

推測と憶測は、違います。推測とは、相応の事柄や根拠に基づいて推しはかることを言います。分析的思考をすれば、根拠となるものを絞り込むことができます。

会話において、どのくらいの発言量になれば、おおよそのところが相手に伝わるだろう、と判断するかの基準は、通常、自分自身が解釈をする側になる場合を想定していくものです。

たとえば、「自分なら、このケースだと、かなり詳しい初歩からの説明がないと内容がよく把握できないから、相手に伝えるときも、同じくらいの発言量にしないと、相手もわからないだろうな」、というように、自分に引き寄せて考えます。

その仕組みから逆算で分かるのは、会話の際に、言葉が少ないために誤解されるタイプの人、というのは、「自分自身が解釈するときも、言葉が少なくてすむ人」と、言えるのではないでしょうか。だからこそ、相手が理解するために、たくさんの言葉が必要で、それを満たしていない自分の発言量に誤解の原因があると、わからないのです。

つまり、自分自身もまた、実は、相手の言葉が少ないときに、「憶測」で解釈していて、それで通じている、と、認識している人が、自分も同様に少ない言葉のコミュニケーションをとった結果、誤解を招いてしまうのですね。

自分も、実は、憶測で相手の発言を解釈していながら・・・、相手から同じように、自分が憶測で判断されたときにのみ、「誤解されている」「分かってくれない」と思っている、それが、誤解で悩んでいる人を、少し距離をとったところから眺めた全体像だったりします。

相手に自分の主張や説明がきちんと伝わり、誤解をされない会話をするためには、「自分の言葉が少ない」のではないか、と考えてみることと、そして同時に、自分もまた「相手の発言を憶測で判断」していないか、つまり、自分もまた誤解をしていないか、気を付けていくこと、その二つを心掛けていくとよいと思います。

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2012年11月 4日 (日)

「娘に、自分の主張ばかりする母親」に、見られる傾向。

すべてのケースに当てはまるわけではないですが・・・、ここ最近、続いてご相談をいただいたことで、共通するものが見られることが多かったので、「そういう理由・原因がありうる」という、ひとつのケースとしてとらえていただければと思います。

娘に対して、母親が、自分を大事に扱うべき、もっとこうしてほしい、自分の要求をとおすべき、という主張を、限度を超えてどんどん行ってきて、娘の人生は振り回されっぱなし、親子関係も家族関係も、母親のわがままで振り回されて大変なことになっている、というケースがあります。

このような場合、私にご相談をいただく本人は、娘の立場にある方です。「母親が、私を自由にしてくれない、反論を聞き入れてくれない、反論しようものなら、大騒ぎの大暴れになって、何としても自分の主張を通そうとする。そして、それを母は当然と思っていて、従わないなどあり得ない、という態度で、自分も家族も困っている」というような内容です。

娘さんが、例えばひとり暮らしをしたいとか、結婚したいとか、自分から離れていくことを認めないのです。

ここだけ読めば、子どもに愛情のあるお母さんで、寂しいからわがままをいっている、ちょっと子どもっぽいところはあるけれども、そういう人はいるだろう、と思うかもしれません。 しかし、事実は、そう簡単なものではありません。

なぜ、このケースで娘さんが悩んでしまうか、というと、「母親の行動は、自分に対する愛情や心配から、ではなく、単純に、母親自身の心配や欲求に基づいて、自分の行動を制限している」ように思える言動をされるからです。

引っ越しをしたい、結婚したい、となったときに、仮に本心は別にあっても、表向きだけでも、「あなたが心配だから、とか、あんな相手ではあなたが幸せになれない」というなら、まだ少しは娘さんも納得できるかもしれません。

しかし、お母さんの要求というのは、もっとストレートに、「自分の老後はどうするのか、自分の介護は誰がするのか」と、自分のことだけを心配している言動をしたりします。

これでは、娘さんもたまったものではない、自分の人生を大事にしたいし、自分を心配して(それが少し過剰であったとしても)反対するならともかく、お母さんの都合だけを主張されても聞き入れられるものではない、と、考えます。しかし、それを言おうものなら、大騒ぎの大暴れになり、他の家族も巻き込むので、どうしたらいいのか困ってしまうのです。

母親の言動に頭にきて、もう嫌だ、母親のことが大嫌いだ、となってしまうなら、割り切って行動もできるのかもしれませんが、母親に、親子としての愛情が存在する限り、そこまで割り切ることもできない、どうしたらいいのか、何とかして分かってもらうことはできないのか、そもそも、なぜ、こうなってしまうのか、と、とても深い悩みを抱えてしまいます。

このケースに該当する親子関係は、幼少期は、過干渉になりがち、という特徴がみられます。

なぜ、幼少期に過干渉になるのか、そして、大人になったら、自分の主張だけをして娘の独立心や独自性を認めない言動になるのか、その理由というのは、母親の認識で、「自分と娘は、同一であり、一体である」かのような、強い思いがあり、娘を別の人格ととらえる認識が薄いためです。

女性というのは、男性と比較して、「共感」で人間関係をとらえていく傾向が強いところがあります。一般にそれは、よく見られる特徴なのですが、出産という行為を通して、同一感を抱くためでしょうか、自分の娘と、自分自身との同一感を、とても強く持ってしまい、性別も一緒となると、ますます、その思いが強くなってしまうことがあるようです。

幼少期に、過干渉になるのは、娘のことは、イコール、自分自身のこと、でもあるからです。娘への愛情がないわけではないのです。娘への愛情が、イコール、自分自身への愛情、のようにも、とらえてしまうのですね。

娘は自分自身であり、娘に掛ける愛情は、自分自身への愛情でもある、その延長上でとらえていくならば、娘に老後や介護を当然のように要求するのも、「自分が、自分にすること」と、同様の捉え方になっているのです。

自分と娘が、別人格なのだ、と思っていれば、「自分のことは、自分で」と認識することはできますが、自分と娘が同一のような認識をしていると、「自分が、自分で」と、「娘が、自分を」の間に、あまり差異を感じなくて、自分のことは自分でする、のと同じくらいの思いで、娘が自分のことをしてくれる、ように、とらえてしまっているのでしょう。

だから、それをしないなんてありえない、娘が自分と違う主張をもっていて、自分を優先しないのもありえない、なぜなら、お母さん自身は、自分のことがとても心配、ならは、自分と同じように、娘も、自分(お母さん)のことが心配になるはず、・・・なのに、娘がそれと違う言動をするから、半分パニックのようになって、大暴れの大騒ぎ、と、なるのだと思います。

自分と娘は、別の人格をもった、別の人間であり、それぞれの思いがあって、それぞれの人生がある、ことに、お母さんが気づかなければいけないのですね、本当は。

けれど、長らく、お母さんの中では、自分と娘が同一であるかのような認識をしてしまっていて、そして、このようなタイプの方は、少々わがままさもあるため、なかなか聞き入れられないし、認められないのです。

そういうタイプのお母さんと付き合っていくのは、家族も大変なので、お父さんにでも相談できればまだいいのですが、お父さんもお母さんをもてあましていたり、または、それ以前に、離婚になっているケースもあり、娘さんは、ひとりで、どうしたらいいのか分からずに困ってしまう状況が作られます。

現実的に、どう対処したらいいのかというのは、ひとまず置いておきます。それは、ケースバイケースで、一概には言えないことだからです。その前に、現状に至っている分析のほうからはじめてみるのも、有効だと思います。

問題の解決や改善をはかるために、まず大切なのは、その原因を特定すること、出来る範囲で(どこまでも遡ってもきりがないので、自分が分析したり思考したりできる範囲でよいです)、なぜ、そのことが起こっているのか、を、認識することです。そうすれば、相手が、どんな動機でそういう言動をしているのか、または、何故、自分がそこで感情を反応させてしまうのかを知るための、手がかりが得られるからです。

このケースでいえば、お母さんは、自分を娘を、同一化しがちなタイプであること、そして、自分自身が大事である、という気持ちが大きいこと、この二つが絡み合っていると考えられる、そこをまず、押さえておくことです。

まずは、根本の認識を押さえておき、その前提で、ではどのように対応をしていったらよいのか、そのような段階を踏んだ捉え方と考え方をしていくと、頭の中と心の中が整理されていくと思います。

このような場合も、お母さんは、娘さんに愛情がないわけではないのです。実際、過干渉になるくらいに面倒を見ている事実もあるのですから。そして、娘さんも、お母さんが大事だから、突き放すこともできない、それで困ってしまうのですが・・・、こういう問題は、お互いに愛情が在るゆえに、複雑なものになってしまいがちです。

しかし、まずは、感情を切り離して、理性で捉えていき分析をすること、そこから、お互いのために望ましい何かが見えてくることもあると思います。母親と上手くいかない娘のパターンが、すべてこれに当てはまるわけではありませんが、ひとつのケースとして、参考にとらえていただければと思います。

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2012年11月 3日 (土)

向き合うべきもの、抜け出すべきもの。

自分が、現実の出来事として、あるいは、内的な学びとして、「向き合うべきものに、向き合っていく」ことの大切さは、多くの人が、理解なさっています。

しかし、実際に、「向き合うべきものを、自分自身で見極める」ことは、容易ではありません。

なぜなら、それらを見極めるためには、自分自身を客観視するように、冷静な視点でとらえていく必要がありますが、自分を客観視するのはむずかしいからです。

自分が他人を見るときには、自分から他人までの「距離」があり、その距離の「間」に、理性的な分析や洞察という思考をいれていくことはしやすのですが、自分と自分との間には距離がないので、そこに意図的に理性を入れることは(他人の場合と比較して)、難しさが出てきます。

その結果、自分では、「向き合うべきものに、向き合っているために、その過程で発生する苦労を経験している」つもりが、実は「本来、その人が、向き合うべきものではなく、「こだわりや、とらわれから抜け出すべきものに、向き合っている」ゆえに、苦労を作りだしている」ようなことが、起こり得ます。

自分の向き合うべきものに向き合っていく作業は、とても辛くて苦しいものですが、しかし、そうして努力をしていけば、だんだんと、見えてくる喜びや手応えというものが、何かしら感じられるものです。

なのに、時間を掛けて取り組んでいるのに、向き合うほどに、どんどん苦しくなる一方で、まったく、そのような内的な気づきや手応えが得られない、というときは、ちょっと、取り組んでいるところが、ずれているのかもしれません。

考えられる原因のひとつとして、「取り組み方が、ふさわしくない」場合もあります。向き合う要素は正しくても、その向き合い方が効果的ではないこともあるでしょう。

しかし、少なくない確率で、「それは、抜け出すべきもの、であり、向き合うべきものではない。なのに、そこに向き合っているために、むしろ、こだわりやとらわれを強めてしまっている」ケースは、見られるように思います。

自分ではきちんと取り組んでいるはずなのに、手応えがつかめない場合は、今一度、自分が、「向き合って、乗り越えよう」としている要素は、「自分が、真正面から取り組んで乗り越えていくことがふさわしい要素」なのか、むしろ、「抜け出さなければいけない要素に、向き合ってしまっていないか」、この点を考えてみるとよいでしょう。

自分が向き合うべきものは、本当に、「それ」「そこ」なのか、という観点で、とらえていくと、また別の何かが、見えてくるかもしれません 。

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2012年11月 2日 (金)

前世と守護霊が、同じケースはあるか。

私たち人間は、たましいの存在で、何度も生まれ変わって、さまざまな状況や立場を経験することで学んでいますので、「前世」「過去世」と呼ばれる、以前の生があります。

守護霊とは、私たちが、この世で、学んでいく際に、私たちを霊的な観点から導く役割の、たましいの親和性の深い霊のことです。

この世では、もっとも基本となる繋がりの単位は、「血縁」「家族」で考えることが多いですよね。血縁には、いろんな責任やら義務やらが、道義的にも法的にも存在します。

霊的な観点からみた、基本となる、繋がりの単位は、「グループソウル」と呼ばれる、たましいのご縁です。このくくりの中には、私たちの前世も入りますし、守護霊も入ります。

グループソウルは、今回の人生を生きる上で、現実的にはあまり意識されることがありませんが、「霊的な観点からいえば、血縁をはるかに超えた、より深いたましいの繋がり」です。

そのような、たましいの繋がりである「グループソウル」を基本として考えると、前世も、守護霊も、その親和性の中に存在しますので、「自分の前世が、自分の守護霊でもある」、というケースがあっても、不思議ではありません。

ですから、そういうケースはあるか、ないか、といわれたら、「可能性として、あり得る」というのが答えになるでしょう。

先日、守護霊(指導霊)のリーディングをさし上げた方から、「以前に、別の方に聞いたことがある前世の話と、職業が同じで、国まで同じだった。これは、同じ時代に生きていた(その職業の)仲間の人が、守護霊になっていたりするのだろうか?」という、ご質問をいただきました。

私ではない別の方がおっしゃったことなので、その前世の件については、第三者である私が定義を付けることはできないですが、上記のとおり、グループソウルという霊的な繋がりの中でのご縁なので、前世でもあり守護霊でもある、というケースはありうる、可能性としての話しかできないけれども、「同じ職業だった、当時の仲間?」という解釈よりは、「同じ人(霊)が、前世でもあり、守護霊でもある」と解釈するほうが、むしろ自然だと思う、断言はできないけどおそらく・・・、というようなことを、お伝えしました。

そのとき、あ、そういえば、このケースは、ブログには書いてなかった、とおもったので、忘れないうちに、書いておくことにします(^^;)。

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