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2012年11月の5件の記事

2012年11月29日 (木)

直感から、完全に「思考」「知識」を排除することはできないし、その必要もない。

直感や閃きというのは、「やってくるもの」「降りてくるもの」という、受け身的に「キャッチ」する要素、といえます。自分から意図的に、直感や閃きを、欲しいタイミングで「つかみ取ろう」とするのは、難しいものです。

この事柄について直感が働いてほしい、とか、望む要素について閃きたい、というような、コントロールは、実際、なかなかできません。

しかし、そうかといって、直感や閃きのすべてが受け身、とは言い切れません。なぜなら、閃いた要素を、解釈するのは、自分自身が能動的に行うものであって、解釈の仕方までをも与えられるわけではないからです。

つまり、直感や閃きがやってくること自体は、自分の好きなようにコントロールはできませんが、解釈は、自分が好きなように「できてしまう」ものです。つまり、どのように工夫しても、ある程度は、「自分」が入った解釈になってしまうことを前提として、受けとめていくほうが、実情に合っているといえるでしょう。

その際の解釈とは、想像力と同じように作用します。知らないものは想像しにくく、知っているものは想像しやすいように、閃きを解釈する際も、自分の知っている知識や要素の範囲内で、だいたい近いと思われるものを当てはめて解釈していきます。

たとえば、「赤い花を買う」と閃いたとします。赤い花といえば、チューリップだ、と思っている人は、チューリップを買おうと思うでしょう。しかし、赤い花には、チューリップもあればバラもある、と知っている人は、どちらにしようか迷うでしょう。

「赤い花を思い浮かべてください」という、想像する場合でも同じです。その人にとっての、代表的な赤い花をそれぞれ思い浮かべるでしょうから、人の数だけ差があります。

「直感や閃きを得たい」と思っている人は、おそらく、閃きを活用していきたいのだと思いますが、活用していくという、能動的な思考をする時点で、完全な受け身ではいられず、意図的な部分は加わってしまいます。それが当然なのです。

直感を得たい、と強く思っている、決して少なくない人達が、そのためには、自発的・能動的な要素、意図的な感覚を「無くして」いけばいいのだと、大きな誤解をしているように思います。

意図的な感覚を抑えていくことで、直感をキャッチしやすい、という受け止め方を、間違っているとは言いません(しかし、そのまま、ズバリ当てはまる、とも思いませんが)。

しかし、キャッチしたものを解釈するのは、自分自身の感性であり、備えている感性の範囲内でしか、解釈が広がっていきません。それぞれ感性の領域での、近似値を当てはめて、イメージがつくられたり、言語での説明が思い浮かんだりしていくものだからです。

つまり、「直感」という受け身的なものを、「得たい」と意図的になる時点で、それは少々の矛盾がある」ともいえますし、

直感をキャッチするためには、能動的な要素を無くしていくのがある意味において有効であることも間違っていませんが、キャッチしたものを解釈する時点では、自分の知識や感性という要素が必ず関わってきますので、

受動と能動、無意識と意図的、のような、相反する要素を「包括」してとらえていくことが大切であって、どこか一部分「だけ」を抜き出してとらえても、誤解や曲解に繋がるだけではないかと思います。

思考を消して無意識状態になるほうが受けとめやすい、とか、自分の解釈を加えてはいけない、というような、一部分を全部のようにとらえた受け止め方は、上記の例えでいうならば、「赤い花といえば、それは、チューリップのことである」と、思い込んでいるのと同じになります。しっかりした定義をつけようとして、逆に世界を狭くしているのと同じなのです。

豊かに広がる解釈の材料となる、知識を増やしていくことはとても大切です。それなくして、受けとめたものを「活用」することはできません。

受けとめることができる「器」がしっかりとつくられていけば、それに比例して、自然に直感や閃きは、ふえていくものです。

器に入らないものは受けとめられませんし、器の外側をスルーしたものは、自覚できないわけで、その仕組みを逆に考えれば、入る器の大きさにより、受けとめられるものはきまってくる、とも言えますし、小さい器の外側にあるものも、器が大きくなれば、内側として自覚できるようになるとも言えます。

一部を全部のようにとらえることは正しくありませんので、私が言いたいことも、知識だけを増やせば良い、とか、知識が全て、ということではありません。

しかし「伸ばしたい」「高めたい」という、意図的なものは、「意図した行動がしやすい要素」のほうが、格段に取り組みやすいです。

完全に、自分の思考や知識を排除することは難しく、むしろ、解釈の際にはそれらを活用していく必要があるのですから、ならば、それらの要素を最初から含んで、包括した解釈で、直感や閃きという、そのものを、受けとめていくほうが、ずっとスムーズであり、ずっと取り組みやすく、直感を高めることも達成しやすい、といえるでしょう。

巷でよく言われる、「直感を受けとめるためには、思考や自我を静めていきましょう」的な表現は、わかりやすさのために端折った説明であって、何もいりません、思考をゼロにするほうが素晴らしいのです、ということを言っているのではない、と思います。

結局、それを解釈する人が、自分の狭い範囲の感性で、「何もしないほうがいい、思考はすべきではない」かのように、曲解して受けとめているのではないでしょうか。

そのような浅い考え方こそが、感性の器が小さい、ということです。

直感が高い人は、わざわざ、そこに意図的な思考を挟まず、自然にいろんなことを受けとめ、毎日の生活で、活用しているものです。

そういう人たちは、直感が日常に自然に馴染んでいるので、「高めよう」とも、「使おう」とも、意識していないことが多いです。そこまでの段階になれば、思考も知識も、(十分に備わっているから)意識しなくていい、ということです。意識しなくても、使われているからです。

そこにたどり着く前の段階で、思考や知識を排除したら、器は大きくならず、解釈の幅も広がらず、望むことから逆行することになりかねません。

直感や閃きを得て、どうしたいのか、といえば、それは、この人生を創造的で豊かにするため、よりたくさんの学びをして成長していこう、という、意欲があるため、ではないでしょうか。

(直感という要素を抜きにして、一般的に)人生を創造的に豊かにするためにも、たくさんの学びをして成長するためにも、思考や知識は必要ですよね。

本来の目的をしっかりとらえていれば、何にも惑わされることはありません。本当に大切なものと、そうでないものを、混乱させないように、よく考えることが大切だと思います。

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2012年11月11日 (日)

解決や改善のための、自己分析。

心配ごとや悩みごとがあって、立ち止まっているときに、「自分は、どの段階で立ち止まっているのか」を、まずは考えてみることが、解決や改善のために有効な、最初の思考となることがあります。

悩みごとがあって、解決のために、どう取り組んだらよいのかまったく分からない状態なのか、それとも、解決のために、こうするのが望ましいだろう、と、予測は立っているけれども、実際の行動に移すことができないのか、そのどちらが該当するかによって、解決のために次に取るべき行動も変わってきます。

どう取り組んだらよいのか、まったく分からないときは、実は、その悩み自体が、どこから発生していて、何がどのように関わりあって、出来事が発生しているのかという認識もあいまいになっているケースがほとんどです。

ですから、その場合は、まずは、出来事や現状から逆算していくように、悩みごとについて、分析をしていくことからスタートです。それは、そもそも、なぜ起こっているのか、それは、誰の問題なのか(自分の問題なのか、相手の問題なのか、等)、それは解決するほうが望ましいのか・・・、その問題点を、自分自身がしっかりと把握することが大切です。

解決のために取り組むべき手段はだいたい分かっていても、実際に実行することができない、というのであれば、それは、「なぜ」できないのかを、考えてみます。なぜ出来ないかを分からずして、その行動を押し進める方法を考えても、・・・それでは、取りかかれないので、同じ思考の堂々巡りになりがちです。

そうしたほうがいいと分かっていても、苦しくてできない、という、心理的抵抗によるものなのか、それとも、条件や金銭面の事情でできない、というような、現実的・物理的な条件が整わないためなのか、その違いによって、行動を押し進めるために必要な要素は変わってきます。

「悩みごと」「心配ごと」と、一口にいっても、その内容はさまざまです。

それらを区分けせずに、どれも同列にとらえてしまうと、本来無関係な要素を絡めては、思考を混乱させてしまいがちです。

「解決のためにどうしたらいいか、皆目見当がつかない状態にある」のか、それとも、「解決のために有効な行動や考え方は分かっていても、それができなくて困っている」のか、自分は「どの段階で」悩んでいるか、自覚していれば、その先が見えてきやすいので、少なくとも、同じところで立ち止まる状態からは抜け出すことができると思います。

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2012年11月10日 (土)

他人の欠点に、イライラしてしまうときは?

他人が自分に、何かを仕掛けてきて、自分が迷惑を被る場合を除けば、他人の欠点(そのことで、直接自分が被害を受けるわけではない)そのものは、自分には関係のないことであって、相手の問題なのですから、気にしなくてもいいことのはずです。

しかし、理屈はそうでも、感情的に、他人の欠点が目について、イライラしたり、なぜ改めないのか、なぜそんなことも分からないのか、と、相手を説得して理解させたいような気持ちになることは、誰にでもあると思います。

そういう気持ちになる人は、基本、真面目で努力家の人といえます。そして、表面的には、自信があるタイプに、見られることも多いかもしれません。

そういうタイプの人が、なぜ、他人の欠点をみてイライラしてしまうか、というと、「自分が、ものすごく努力をしていて、そして、その努力の度合いに無理があって、消耗している」ためです。

自分が無理をしてまで、とても消耗しながら、今のこのレベルを保っている、それだけ努力をして頑張っている、という思いがあるので、身近で、それをしない人の、勝手だったりわがままだったりの言動を見ると、自分の努力を無視されたような思いになって、イライラしてしまうのですね。

表面的には、自信があるように見られてしまう、けれど、実際にはそこまでの自信はない、けれど、そのギャップを知られたくなかったり、相手の期待に応えたいというサービス精神旺盛で真面目なタイプの人は、そのギャップを自分の努力で埋めようとして、過剰に頑張ってしまいます。

そのため常に消耗していて・・・、その消耗がマックスになっている状態で、そんなことを気にもしていないような人が、何の配慮もなくふりまく欠点が、自分への影響とは無関係に、殊更目につき、自分が我慢していたり、期待に応えていたりする感情と結びついて、イライラが発生してしまいます。

つまりこれらは、「自分(の努力)が否定されている、または、自分が正当に認められていない」という「思いの問題」と、

常に頑張りすぎて、「消耗している」という「気力、活力の問題」が掛け合わせになっています。

掛け算というのは、どちらかの数値がゼロになれば、その答えもゼロになります。

ですから、二つの要素のうち、取り組みやすい方に働きかけて、そちらをゼロにもしくはそれに近い形にしていけば、気持ちは収まっていきますね。

どちらが取り組みやすいかは、人によりますが、通常は、思いの問題に取り組むよりは、行動の問題のほうが改善しやすいと思いますので、そこまで消耗してまで、頑張り続けなければいけないことなのか、過剰になっていないか、という「行動面」のほうから、自分を見つめ直す機会にしてくとよいと思います。

相手に迷惑を掛けられている場合は、話が別です。しかし、自分は直接被害もないのに、イライラしてしまうときは、それは相手の問題ではなく、自分自身の問題であることが多いです。

相手の欠点、という、要素をきっかけとして、「それに反応している、自分の感情」をみつめていくことが大切です。

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2012年11月 9日 (金)

この世における、スピリチュアルな生き方とは、現実の中に霊を見出すこと。

スピリチュアル(=霊的)な生き方をしている、という言葉の意味は、スピリチュアルなこと「だけ」に、傾倒して生きることではありません。

私たちが学ぶべき要素を、日々の生活や出来事を通して経験をつみ、霊の部分を成長させていくことが、「この世という限定された場所で、肉体という限定された物質を伴った私たちが、体現していく、スピリチュアル(=霊的)な生き方」、といえるでしょう。

私たち人間は、肉体をもった霊的存在です。私たちもまた、霊なのです。人間を、ここまでが肉体(物質)で、ここからが霊、と、明確に分けることはできません。それは、海水を塩と水に区分けして理解することが難しいように、既に混じり合って作られているものは、そのまま理解をしていくことが、(この世という物質次元においては)自然です。

同じように、実は、この世という物質世界と、あの世という霊的世界も、この世の次元においては、明確な分け目はありません。この世でも、見えない世界のルールは作用していて、塩と水の混じった海水のように、実は、霊的世界と物質世界の両方が存在している場所、といえるのです。

海水をみて、視覚的に塩をとらえることは難しいように、それは、通常、意識はなされないものですが、成分としては確かに含まれています。それが、この世における、霊的要素の存在の仕方です。

この世とは、目に見える物質のみの世界ではないことを、そこを備えている霊性という部分で理解していき、この世という学びの場所で、日々の生活や出来事を通して、自分を成長させていく、それが、スピリチュアルな生き方、といえますし、霊としての成長していくプロセスといえます。

あまりに極端に、霊という存在「だけ」、目に見えない領域のこと「だけ」、平均以上の霊感を持つこと「だけ」にとらわれた生き方は、それは、本当の意味で、霊的な生き方といえませんし、そこに霊としての成長はありません。

自分の毎日の生活をさしおき、それらの特殊な事柄だけが、スピリチュアルだと思っている人は、霊的な仕組みや学びの要素の理解がなされていないから起こる、曲解をなさっているように私には、感じられます。(しかし、私の意見が正しいと、主張するつもりはありませんので、その人が、どんな価値観で生きていくかは、その人の自由です)

現実を見据えることなく、頭の中で、妖精ごっこ、天使ごっこ、高次元ごっこを繰り広げ、それこそがスピリチュアルだ、と思い込んでいる人というのは、「霊的に進んだ人」を自認していても、実際のところ、それを客観視するならば、「精神世界によくいる、思い込みの強い人」「スピリチュアルの深い意味を理解しない、たましいが幼い人」です。

結局それは、現実に展開する出来事のすべては、霊的な法則が見て取れ、その経験を通して、私たち人間は、人としても、霊としても、同時進行で学び成長していく、という仕組みを理解していないためではないでしょうか。

霊の世界への、知識や関心を持つことや、霊的存在を敬うことは大切です。それらの価値観や行動が悪い、ということではないのです。

しかし、それ「だけ」になっているのは、例えて言えば、海水の中において、そのうちの塩のみにフォーカスして、水を無視するくらいに、不自然なことと言えます。

そのような生き方に、霊としての学びはあるでしょうか。そうして、霊だけ、霊的事象だけにとらわれるならば、私たちはなぜ、この世という物質次元に存在しているのか、(霊だけを意識するなら、あの世にそのまま存在していればよいのであって、わざわざこの世にやってくる意味がありません)、それは、この世ならではの、限定された物質次元において、学ぶ必要があるため、ではないでしょうか。

そのような、根本のところを押さえた上で、興味・関心を抱くのは、向上意欲に繋がる部分もありますので、有意義だと言えるでしょう。しかし、そこを差し置き、霊的な世界だけにとらわれてしまえば、どこまでも流され、そして、それを自覚できずに、本来のこの世の学び(=つまりは、現実的な経験を通して、成長することです)から、どんどん遅れをとることもあるかもしれません。

この世で生きて、霊としての学びをしている私たちは、スピリチュアルな生き方を志すにあたり、現実から目がそれていくのは不自然です。

なぜ、私たちは、この世という場所に生きているのか、なぜ、この環境を与えられているのか、そしてその中で、物質だけにとらわれない、霊的真理に関心が向くのはなぜなのか・・・、

それらを包括的に捉えて理解を深め、そして、その知恵を、毎日の生活の中で活用していく、その一連の行為を通して、私たちは成長することができる感性をもった存在です。人としても、霊としても、同じ行為を通して、成長していくものだと思います。

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2012年11月 3日 (土)

向き合うべきもの、抜け出すべきもの。

自分が、現実の出来事として、あるいは、内的な学びとして、「向き合うべきものに、向き合っていく」ことの大切さは、多くの人が、理解なさっています。

しかし、実際に、「向き合うべきものを、自分自身で見極める」ことは、容易ではありません。

なぜなら、それらを見極めるためには、自分自身を客観視するように、冷静な視点でとらえていく必要がありますが、自分を客観視するのはむずかしいからです。

自分が他人を見るときには、自分から他人までの「距離」があり、その距離の「間」に、理性的な分析や洞察という思考をいれていくことはしやすのですが、自分と自分との間には距離がないので、そこに意図的に理性を入れることは(他人の場合と比較して)、難しさが出てきます。

その結果、自分では、「向き合うべきものに、向き合っているために、その過程で発生する苦労を経験している」つもりが、実は「本来、その人が、向き合うべきものではなく、「こだわりや、とらわれから抜け出すべきものに、向き合っている」ゆえに、苦労を作りだしている」ようなことが、起こり得ます。

自分の向き合うべきものに向き合っていく作業は、とても辛くて苦しいものですが、しかし、そうして努力をしていけば、だんだんと、見えてくる喜びや手応えというものが、何かしら感じられるものです。

なのに、時間を掛けて取り組んでいるのに、向き合うほどに、どんどん苦しくなる一方で、まったく、そのような内的な気づきや手応えが得られない、というときは、ちょっと、取り組んでいるところが、ずれているのかもしれません。

考えられる原因のひとつとして、「取り組み方が、ふさわしくない」場合もあります。向き合う要素は正しくても、その向き合い方が効果的ではないこともあるでしょう。

しかし、少なくない確率で、「それは、抜け出すべきもの、であり、向き合うべきものではない。なのに、そこに向き合っているために、むしろ、こだわりやとらわれを強めてしまっている」ケースは、見られるように思います。

自分ではきちんと取り組んでいるはずなのに、手応えがつかめない場合は、今一度、自分が、「向き合って、乗り越えよう」としている要素は、「自分が、真正面から取り組んで乗り越えていくことがふさわしい要素」なのか、むしろ、「抜け出さなければいけない要素に、向き合ってしまっていないか」、この点を考えてみるとよいでしょう。

自分が向き合うべきものは、本当に、「それ」「そこ」なのか、という観点で、とらえていくと、また別の何かが、見えてくるかもしれません 。

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