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2012年8月の8件の記事

2012年8月31日 (金)

守護霊の人数は、多いほうがいいのか?

誰にも、その人と親和性の深い、たましいの繋がりである、守護霊という存在がいて、その人の生き方を、見守って、導いています。

霊は品物ではないので、ひとつ、ふたつ、ひとり、ふたり、と、本来は数を数えられるようなものではないのですが(コップの中の水が、何滴入っているか、と、数えられないように)・・・、個別の霊の姿として表れている状態を、人の数のようにカウントするならば、多い人もいますし、少ない人もいますし、バリエーションがいろいろです。

守護霊は、その人の導きにふさわしい存在が、前面に出くる仕組みですので、必ず、その人と霊との間には、共通性や学びの意味があって、「自分と合わない守護霊がついている」だとか「人数が少ないから、導きが弱い、守りが弱い」などという解釈は、あり得ません。

人数にしても、多い人には、多い理由があり、少ない人には少ない理由があります。

それぞれ理由があってそうなっているのであり、一律に、多いほどいい、少ないとダメ、というような、「品物のような」区分けは付けられません。

全員に当てはまるわけではありませんが・・・、一般には、その人が、多趣味だったり、活動の範囲が広かったり、いろんなことに意識と労力をつかっているようなタイプの人は、守護霊も、それらと比例するかのように、たくさんの霊がいらっしゃる場合が多いようです。

逆に、この道ひとすじ、のような、力を注ぐ範囲が狭い人は、守護霊の人数も、前面に出て来る人は多くはなく(もっと深いところまで遡れば、無限の叡智が必ずありますが)、霊の個性も、狭い範囲での共通性が見られたりすることが多いようです。

たとえば、多趣味な人のクローゼットは、シンプルな洋服もあれば、派手な服もあれば、運動用ウェアもあれば、ダンス用の衣装もあれば・・・と、バリエーションがありますよね。

この道ひとすじ、のような人は、たとえば、茶道の講師で、日頃から日本の古い生活様式を大事にしている人ならば、クローゼットの中は、着物が多くなるでしょう。そして、着物は高価ですから、洋服のように何十枚も所持とはいかず、数は少なくなると思います。

その二つを比較して、どちらが素晴らしいか、と、決めることは出来ませんよね。それぞれの、ライフスタイルや、考え方や捉え方の、個人差がある、というだけですから。

それと同じで、守護霊の数も、多いほうがいいとか、少ないとダメ、とか、たくさん居るから得だ、などのように、物質的価値観で、判断することは出来ません。

守護霊の中には、その人の仕事や趣味などの才能をつかさどる役割の指導霊という存在がいますので、多趣味で活動範囲が広いタイプの人は、それぞれを導くために、職業や才能にマッチした複数の指導霊がついている場合もあるので、人数は多くなることがほとんどでしょう。

また、その時期、精力的に活動していて、何かを成し遂げようとしている最中で、しかも、何か手応えのありそうな、追い風がふいていそうな、いわゆる「波に乗っている」状態のときには、守護霊もたくさんの霊が前面に出てきて関わっていて、その人を、実際に後押ししていることが多いようです。

ちょっと話は変わりますが、先日、ごメールでの指導霊のリーディングをうけていただいた方から、面白いお話をお聞きしました。

「チベットやタイなどの、日本以外の国の僧侶だと思われる男性が、鳥をつれて出てきている」様子があって、鳥をつれている姿であることを含めておつたえしたのですが、

その方は、「今年のはじめから、家で簡単な体操をしようと思い、チベット体操をしている。そして、鳥のインテリアが気になって、鳥柄のカーテンと、鳥のガラスの置物を飾っているので、読んでいて、その繋がりに思わず吹いたhappy02」と。

共通要素のある霊が、導いている、ってことなんですよね。

そういう霊が後にいるから、影響をうけて、チベット体操をやりたくなったり、鳥の置物を飾りたくなってしまう・・・という場合もあれば、逆に、その人が、鳥の置物を飾っているのを守護霊は知っているから、「いつも見ています」と伝えようとして、その人にだけ分かるように、鳥をつれて出てくる、という解釈も考えられます。

多分、どちらも当てはまる、両方の意味を含んでいると思います。

話を戻しますが、守護霊と私たち人間は、親和性のある霊の繋がりがありますので、何らかの意味があるからこそ、その霊との関係が在り、人数が多ければ多いなりの、少ない場合にもそうなる意味が必ずあります。

物質的価値観による、数が多ければ多いほどよい、というような、基準だけでは計ることはできないのが、霊的価値観でとらえていく、霊や霊性の領域です。

それぞれの繋がりの意味があって、そして、守護霊はいつでも、私たちを見守ってくれていていますので、私たち人間は、安心して、日々を大切に充実させて生きていくことが大事です。

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2012年8月29日 (水)

過剰な飲酒や煙草など、常習性のあるものがもたらす、霊的な影響。

タバコやお酒など、常習性のあるものを過剰に摂取しすぎると、オーラがずれやすくなり、さまざまな不調和が出やすくなることがあります。

ずれる・・・とは、肉体にきちんとおさまっていない状態になる、ということです。

そうなると、そのずれている部分に「違うもの」が、入り込みやすくなります。自分以外のエネルギーの影響を過剰に受けやすくなったりして、波長も下がってしまいます。

煙草や飲酒のすべてが悪いということではないです。どんなことでも「過剰」になると、バランスが崩れるのであって、適度に抑えておくことが大切です。

霊的に敏感で、影響を受けやすいタイプの方は、お酒の飲みすぎで人が変わったようになることがあります。たくさん飲むことで、自分のエネルギーのバランスが悪くなり・・・、そしてもともとの霊的な体質も関係して、憑依のような現象が起こって、「飲まされている」というか「一緒になって飲んでいる」のですね、本人と憑依霊とが;。

なぜ、常習性のあるものにその人が夢中になるのかといえば、それは「肉体とオーラが、ずれている方が楽」だと感じる(人もいる)ためです。

私たち人間は、「肉体を持っている霊(的な存在)」です。実は、霊ですから・・・、この重い肉体に入っているのは、大変なことです。

私たちの表面的な意識は、この状態を「普通」と認識していますが、霊の観点からすれば、こちらの方が重くてきついのですね。で、肉体から、はみ出ている状態のほうに、「軽やかで、制限されない心地よさ」を感じてしまうことがあるのです。

普通は、はみ出た状態になるとエネルギーが上手く巡らなくなるので疲弊が大きくて、体調不良になるはずなのですが、それこそ飲酒時に、吐きながらでも飲み続けるのと同じでsweat02、その、「心地よさ」のほうだけに、過剰に意識を奪われてしまうわけです。

そのため、過剰に飲酒をして、飲酒をすれば憑依されるのでまた飲まされ・・・、我に返って反省しても、また「ここちよさ」のために飲酒をして・・・、という、悪循環に陥ります。

そうなる状態を、憑依する霊が悪い、もとから影響をうけやすい敏感な体質だから、と、考えなくなるものですが、しかし霊的に敏感といっても、それらの一連の出来事は、「飲酒という、自発的な行為」からスタートしています。悪循環のスイッチは、自分が飲まなければ押されることはありません。

影響を受けて極端になりやすいところは、本人の意向とは別の要素があるとしても、自分がしっかりしていれば、影響を「受けにくくすること」は可能なのです。

意識が現実的なことに向かず、現実逃避傾向のある人にとっては、意識が「肉体ありき」にならず、霊の方向に傾いている状態を好ましく思うので、ずれている方が楽に感じていくところがありあます。

そういう方にとって、常習性があるものを減らすのは、とても難しいことはわかりますが、悪循環からは抜け出さなければいけないし、そして、スイッチを入れているのは自分だという事実から、目をそらすことしてはいけないと思います。憑依される原因を、わざわざ作って、呼び込んでいるのは自分なのです。

好ましいものを、ただ「止めなさい」と言われても、難しいと思うのですが、このように、自分の肉体からオーラがズレて・・・、そしてそのズレたところに「隙」ができて、ありがくない影響が出てしまっている状態を、イメージしてみてください。

そして、この先も、その状態を続けるのか、自分以外のものにハンドルを明け渡すような行為を、お金と時間をかけて、霊的な消耗(当然、消耗します)をして、それでも続けていくのか?と、考える機会をもっていただければ、と思います。

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2012年8月27日 (月)

立場が違えば、意見も違っても当然。

周囲の人と意見が合わない、とか、周囲の人が自分に賛成してくれない、と、悩む人は多いのですが、・・・その悩みの内容によりますが、基本、それぞれ別の考え方をもった人同士の意見は、同じになるほうが珍しいものだと思います。

同じ立場からの意見であっても、個性が違いますから、複数の人同士で、同じ意見にならないことはあります。 ましてや、立場が違えば、意見は、「違って当然」と考えておくほうが、ストレスがないかもしれません。

同じになるほうが珍しく、違うのが当たり前、もしも、賛成してくれる人がいたら、とても貴重な相手だ、というくらいに、割り切りをもって、期待し過ぎないほうが、ちょうどよいと思います。

意見が違ったとしても、それは、その人の立場からの見方がそうだ、ということであって、その人が、自分の存在を否定しているのでもなければ、意地悪をしているのでもない、ましては攻撃ではない、単に、立場が違うことから生まれる、見方の違い、というだけの場合もあります。

なのに、人は、自分中心に考えてしまうものなので、自分が正しい、正しいことは賛成されるはず、賛成されないなら、相手の理解力がないから、というように、自分を正当化して、相手が悪いと、思い込んでしまいます(^^;)。

たとえば、以下のようなケースをかんがえてみます。

ある女性が、バツイチで子どもを連れて、一回り年下の男性と再婚するつもりで、お互いが、周囲の人達に「どう思うか?」と、相談をしたとします。

きっと、男性の親は、反対する人の方が多いでしょう。その女性の人柄がどうこう、という以前に、「そもそも、そんなに年上の女性と、将来までもずっと上手くいくのか。結婚は一時の感情じゃない。本人だけならともかく、子どもまで、あなたが養うなんて苦労する」と、意見されることがあるかもしれません。

誰でも、自分の子どもが大事ですから、親の立場になれば、息子に苦労させなくない、と考えると思います。

では、女性の親はどうか、というと、母親は、「(連れ子になる)子どものことを、よく考えなさい」というかもしれません。母親は、自分の娘も大事だけれど、孫も大事でしょうから、孫と結婚相手の相性のことなどを、心配することもあるでしょう。

「向こうの親御さんの意見はどうなの?」と、そちらも気になさるかもしれません。同じ親の立場になれば、あるいは渋られるのではないか、そうなったら娘が苦労する、という思いからの発言です。

女性の父親からは、「そこまで年が離れていたら、今はいいとしても、将来は浮気されるかもしれない。その覚悟はできているのか」と、聞かれるかもしれません。相手の男性を、男同士として想像した意見です。

女性が、自分の親友に相談したとします。「あなたがそうしたいのならば、自分の気持ちに従えばいいのでは」と、言うかもしれません。ある意味、その人が言ってもらいたい意見に近いのは、友人の意見という場合もあるでしょう。

しかし、それは、友人は、家族ではないから、責任もないので、感情だけを優先した発言ができるため、とも言えます。友人にとっては、その女性が幸せになればいいのであって、その子どものことまで、両親と同じようには考えないでしょうし、「きっと、こうアドバイスされたい相談なのだろうな」と察して、その発言をしてくれることもあるでしょう。

周囲の人、同じ事を相談しても、これだけの違いが出てくる可能性があります。しかし、そのどれもが、「その立場からの意見としては、常識の範囲内」だと思います。それでも、こんなにも、その人達の「思うこと」は、バラバラになります。

たったひとつの、誰にとっても正しい意見、などというものはないし、そして、どれかが(その人の立場になれば)間違っている、とも言えません。

複数の人がいて、「個人的な意見」がすべて一致するケースは少数です。同じにならないのが普通です。

たとえば、仕事で、一つの意見にまとめて、それに皆が従っていくのは、「仕事は、個人の感情でおこなうものではないので、仕事上、どう行動していくか、という「仕事人としての立場」を優先する」ので、方向性がまとまっていくのです。

上記の結婚話のケースでも、個人としての意見はそれぞれあっても、最終的には「本人同士の意向を優先して」となるかもしれません。それは、皆の意見がまとまった、のではなく、結婚とは、親がするものではなく、本人がするものだから、周囲がどう言おうと、自分達がその気になって書類を提出すれば、結婚は成立してしまいますからね。

複数の人達の意見が一致するのは、心から全員が同調してくれるから・・・とは限らず、ふもっとも多いパターンは、「これは、会社としての仕事の問題だから(個人の感情は関係がないから)」とか、「結婚は、基本は二人の問題だから(親としての意見はあるけれども、強制力はない)」とか、その案件についての、判断基準を統一していくからです。

そうすれば、だいたいの意見は(同じ基準ですから)まとまっていくことが多い、という仕組みであって、個人の感情や考えまでもが統一されているわけではありません。それは、それぞれの価値基準は違うのだから、同じにならないのが普通で、同じになることを求めるほうが、無理な要求をしていることになると思います。

周囲の人が、自分の意見に賛成してくれない、という不満は、どちらに該当するでしょうか。

もしも、周囲の人達が、その場の統一をしなければならないような、仕事上の方針などに、その人の個人的感情を主張して、意見を曲げないとか、付き合いの常識的範囲を超えた要求を一方的にしてくる、とか、町内会やご近所の最低限のルールを無視するとか、そういうことならば、相手の方が、少々、ワガママだったり、社会性がなくて幼いところがある、といえるかもしれません。

けれど、それぞれ自分の感情を自由に持っていて、それを主張してもおかしくはない、その場の統一見解を必要としない状況において、それぞれが、それぞれの立場による意見を言った結果が、同じにならない、自分に賛成してもらえない、という点が不満になっているのだとしたら、・・・実は、分かっていないのは自分自身のほう、ということにも、なるかもしれないです(^^;)。

自分が関わっている状態が、どちらのケースに当てはまるのか、という分類を先ずおこなって、その上で、一定の判断基準を持って、その基準にそった分析をすると、どこに、改善や一致の糸口があるかが、見えてくるのではないでしょうか。

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2012年8月26日 (日)

憑依は、(原因ではなく)結果です。

憑依や、派手な霊現象の数々があり、困っている、というご相談は本当に多いのです。

憑依で体調が悪くなる、憑依で人間関係がうまくいかない、憑依のせいでやりたいことが何もできない、と、あれもこれも大変になって困っている・・・と、実際に、その現象の渦中にいるときは思ってしまうものなのですが(憑依されているときは、冷静は判断力がなくなります)、しかし、憑依というのは、「結果」です。

憑依という原因が、いろんな不和という結果を生み出している、と思えてしまって、その原因を取り除きたい、と考えがちですが、しかし、憑依は何かの原因があって引き起こされる、「結果」なのです。

ラップ音や物品移動、幻聴や幽体離脱などの、超常現象が頻繁に起こって、生活に支障をいたしてしまうというのも、同様に、原因があって引き起こされる「結果」です。

憑依で、いろんなことに影響がでるのは、言うなれば、二次的な結果、とでも表現すればいいでしょうか、憑依に至るにも何かの原因があるから(憑依という、結果が)起こるのであり、憑依がおこったことでさらに二次的な結果が作られたのが、その後の体調不良だったり、人間関係の不和だったり、です。

憑依や、派手な霊現象などの結果に至った「原因」がある、という観点からの分析が必要です。その後に起こった現象だけにとらわれると、本当の原因が見えてこなくなることがあります。

それらの現象が、極端なまでに起こる場合というのは、その人が、強い霊感を備えている場合が多いです。けれど、霊感がある「だけ」では、そのような現象にはなりません。

霊感は大小を問わなければ誰にでもありますし、霊感が強い人の全員が、そのような現象に合うわけではないからです。

極端な現象が引き起こされてしまうのは、その人が備えている霊感が、平均よりも強くて、かつ、「波長が、とても低下してしまう、何かの要因が、掛け合わされているから」です。

引き起こされる出来事というのは、良くも悪くもすべて、その人のカルマと波長が決めています。無作為に、何の規則性も理由もなく、展開する出来事はありません。それこそが、「必然」といわれる所以です。

霊感の強さだけではない、プラスアルファの要素があり、それが、自分の波長を下げてしまって、そうなると、強い霊感が、その下げた状態を増幅する比率をも強くしてしまうのです。

その原因となることは、人の数だけ別の原因があるわけですが、中でも、一番多いのは、その人が、霊現象や超常現象に、とても強い好奇心を抱いて、おかしな心霊セミナーのようなものにあちらこちらと出歩いたり、自己流で「行」のようなことをして、バランスを崩してしまったことが、引き金となっているケースです。

それらの強い好奇心が、低いレベルの霊現象や超常現象を呼び込み、そして、そうなることで、実はその人は、自意識というか、特権意識というのか、「自分は特別で、他の人とは違っていて、世界を救う救世主である」、というような、そうありたいという欲求を、満たしている部分もあるのですね。

本当に、救世主でありたい、世の中のために何かをしたいと思うなら、まずは、その低い現象から抜け出していくことが必要があるはずなのですが・・・、しかし、そのような思い込みの渦中にあるときは、(なにしろ、本人が、そう「思いたい」のですから)、何をいっても、なかなか心に届かず、・・・ほっとくしかない、という面もあるのですが(^^;)。

過剰な好奇心って、本当に怖いのですよ。目に見えないことだから、意識しにくいですけれども、そのように、じわじわと、自分の波長を下げてしまって、下がりきったところから再び持ち上げるのは、本当に時間と労力の掛かる大変な作業になります。

そういう状態に、はまっているとき、自分は特別で、偉くて、皆とは違う存在だ、私は、霊界の●●の意識を代弁していて地球を救うためにやってきた、などと思い込んでいるときには、何を言っても無駄なので、・・・つまり、このようなことを書いても、あまり意味がないかもしれないのですが、いつか、心の霧がはれたときに、何かのヒントになることも無いとは言えないので、書いておこうと思いました。

どんなことも、良くも悪くも、すべての原因は、自分の中にあって、その要因が、さまざまな学びに繋がっている、という点を忘れなければ、好奇心に負けることもないですし、霊現象にひきずられてしまうこともなくなります。

どんな経験も、すべては学びなのですから、そこから成長に繋げていければ、(最終的には)それでいい、とも言えます。

特定の行動を、その場面だけ切り取って、良いとか悪いとか、定義したって、成長に繋がりませんから。原因と結果との織りなすさまざまな出来事の中から、学びを得ていくことが大事です。しかし、過剰な好奇心は、危険なこともある、という点は、覚えておくほうがいいでしょう。

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2012年8月25日 (土)

精神的理解が深まるゆえの、違う苦しみがある。

私たちは、この世という世界で生きている以上、どれほどに霊的な知識や感覚を身に付けたところで、物質的・現世的な悩みと無縁になることはできません。

人としての成長を遂げると、現世的な悩み事へのこだわりが「薄れる」ことは確かですが、・・・それは、すべての物事に、何らかの意義を見出せるようになるから、起こることに納得がいく、というだけであって、悩みや不満そのものが、一切なくなるという意味ではありません。

しかし、それでも、学びがすすんでいけば、かなり(意義が見出せることから)今までとは違った世界(観)で、生きられるようにはなります。

物質的、現世的な価値観につかっているときは、たくさんの不満がうまれ、それれはすべて外からやってくる要因で、自分は悪くないのに他人が悪いと思いこんで、とても大きな苦しみの中にとらわれてしまいますが、スピリチュアルな理解が進んでいけば、そういう、物質的・現世的な価値観から抜け出しいくことができます。

精神的な成長があって、かつその成長度合いが高まっていくほど、どんなことも、(一見、他人が悪いと思うことも)カルマの法則から外れる事象はなく、すべては、自分が備えている何らかの要因が引き起こしたと納得ができるので、楽になっていけます。

けれど、それは、あくまで、理解や気づきの、ある段階を超えた先の話です。

「気づくまでには、物質的・現世的価値観特有の苦しみ」があり、そして「気づいた後は、精神的な価値観に、移行する過程での,特有の苦しみ」があります。

楽になるのは、移行期間特有の苦しみを、抜け出した、その先、になるでしょう。(・・・といっても、現世的な悩みが何もなくなる、という意味ではありませんが)

物質的価値観につかっている状態では、原因を外にもとめることから、他者を批判する傾向があります。

しかし、精神的価値観に「移行していく過程」では、現状への不満からの感情が、(以前の他者への批判から)自分への批判に代わっていきます。

先に「ある段階を超えたら」と書きましたが、そこまでいければ、批判そのものから、自然に遠ざかっていきます。

けれど、「移行しつつある段階」では、批判そのものから抜け出すまでにはいかないのです。批判という概念は、まだ抱えている状態です。

けれど、他者に向ける批判は、正しいものではない、という考えになり、今までのように周りのせいにできなくなるので、批判が「自分」に向かってしまうのですね。「こんな考えをしている自分はダメだ」とか、「この何もしていない状態が、情けない」とか・・・。

優しくてまじめな性格の人ほど、そうなる傾向があります。

この状態も、不満を他人のせいにしている状態とは、また別の辛さがあります。理想とほど遠い自分の現状が、情けなくて、辛くて・・・。テレビや新聞の向こうの惨状を思っては、家があって、仕事があって、毎日暖かいご飯を食べていられる環境にある、自分を責めてしまうこともあるでしょう。

批判などしなくてもいいような些細なことでも、自分を責めてしまって、自分が欠点だらけのように思えて、苦しさが出てきます。

人を思いやる気持ちは、尊く、世の中のさまざまな出来事に思いを馳せ、共感していこうとする姿勢は素晴らしいと思います。

しかし、人を思いやる、という、「人」というくくりから、自分を除外しないこともまた大切です。

焦る気持ちがあっても、・・・物事は、順番にしか進まないものだと思うのです。自分以外の周りの人たちのために、力になる生き方をしたいと思ったら、自分を責めすぎずに、自分をしっかりと打ち立てて、揺らがない意思をつくっていきましょう。

移行期間特有の、自責の気持ちというのは、さらに大きくなるための、プロセスを経験している、と考えていけばいいと思います。そして、いつかは、抜け出していき、自責の念に捕らわれたその経験すらも、貴重な学びとして、いかしていくことが出来るときが、きっとやってきます。

苦しさという「感情」に浸っている場合ではない、「愛」という「本質」を、自分が体現していく、それこそが、成長であり、学びであり、そして、世の中のためであり、結果として自分のためでもある、と、はっと気づく、「そのとき」が、必ずやってくるのです。

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2012年8月23日 (木)

霊現象が、続くときの「状態」を改善するには?

霊現象、この場合は、どちらかといえば低いレベルの現象である憑依だったり、悪夢を見続けたり、未浄化霊を何度も見てしまう、ラップ現象や、物品が移動するような現象が、短期間立て続けに起こるときの改善法と、そうなる仕組みについて書かせていただきます。

そういう現象は、自分に霊感があるから起こるのですが、けれど、霊感がある「だけ」では、そこまでのひどい現象を呼ぶことはありません。

それ以外に、プラスアルファの、別の要素が「掛け合わせ」になったときに、起こります。

プラスとプラスを掛け算すると、答えはプラスになり、マイナスとマイナスを掛け算しても、やはり、答えはプラスになるように、プラス同士の掛け算か、マイナス同士の掛け算によって、「現象」が作られます。

「現象がある」という意味では、同じであっても、その現象が、どんな現象なのか、高いレベルの現象なのか、それとも低いレベルの現象なのか、というのは、その答えの元となっている、掛け合わせの要素が、プラス同士であるか、マイナス同士であるかによります。

自分自身がプラスなのに、マイナスの現象が引き寄せられてくるのが悪い・・・と、誰もが、少なからず考えたくなります(^^;)。自分は悪くないのに、霊感があるせいで、そういうものが集まってくる、と。

けれども、すべての出来事は、同じ要素が引き寄せ合うという、「波長の法則」によって成されていますから、自分がプラスなのに、マイナスが引き寄せられてくる、ということは、通常、ありません。(通常、と書いているのは、自分の価値観では、マイナスの出来事に思えても、それは、実は、学びのためや気づきのための導きである、苦しさが学びになる、などの、表面の現象では計れないことが起こる場合もあるからです)

自分のコンディションが低下しているなどして、霊感が低い方に発動され、そして、低い霊やエネルギーと感化したときに、そういう現象のきっかけが作られます。

さらには、現象が多発する理由として、自分が低いコンディションを持続している・・・というよりも、その現象が積み重なることで、「そういう現象を引き起こしやすい回路」のようなものが、出来上がってしまい、自分が、それに、引きずられ続けているために、きりがない、という状態になっていることがおおいです。

たとえば、引き戸のスライド加減が、どうもスムーズでない、というときに、がたがたと調節して、直したつもりが、また、同じ状態になる、など、「一度そうなると、また次もなりやすい」ことってありますよね。

江原さんの書籍にも、「一度、心霊写真などが撮れてしまったカメラは、そういうものと同調する回路が作られてしまうので、また、同様のものを写しやすくなっていることがある」とか、そんなことが書かれているものがあったように記憶しています。

同じ仕組みで、霊現象が続いているときも、「自分自身との間にそれらの回路が作られてしまっている」、か、または、「自分がすんでいるお部屋との間に、回路がつくられてしまっている」ことが、連続した現象に繋がっていることがあるのです。

なので、改善のためには、回路がつくられている状態を断ち切ることが必要です。断ち切るには、自分、または、お部屋などの状態を、変えていくことです。

同じ要素があるから引き合っていて、その引き合う「間」に作られている回路のほうが強くなってしまっているというか、主導権をとっていて、自分が引きずられている状態でもあるので、自分が切り替わることで、その回路から「抜け出す」のですね。

回路を無くそう、主導権を自分に戻そう、とするよりも、自分が同調しない状態を、まずは手っ取り早く作って、抜け出してしまうほうが、効果的です。

どのようにするのがいいのか、については、詳しいことは、なぜその現象を呼んでいるのか、という原因により変わってくるので、一概にはまとめられないのですが、(必要な方は、個別のご相談ください)

すべてに共通する要素としては、「その状態を変えるためには、自分を持ち上げて、同調しないようにする」目的ですので、

今まで、いくつもの記事の中で、自分の状態を手っ取り早く持ちあげるには、どういう手段をとるのが効果的か、というのを書いてきましたので、その中から、何か、自分が取り組みやすいものや、ピンとくるものを試してみるのもよいと思います。

たとえば、ボディーケアにいって、体を整えることで、間接的にオーラも整えていく、とか、運動をする、とか、おかしなスピリチュアルグッズ?を、たくさんあつめるのを止める、とか、塩と重曹を入れて入浴する、とか、そのほかにも書き切れないくらい、いくつもおつたえしたと思いますので過去記事をご覧いただければと思います。

お部屋そのものが回路となっている場合は、換気を心掛けるのが、かなり有効となります。

「その方法をとれば、すべてOK」という意味ではないですよ、結局、呼び込んでいるのは自分自身(の、状態)であることを理解して、いろんなことを、思考のし方を含めて、幅広く改善していくほうが望ましいですが、それには時間が掛かりますし、地道な努力もりますので、それ以前に、まずは、今の「回路が作られている状態を、断ち切ることを先決」とした場合には、そういう工夫がいいですよ、という意味です。

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2012年8月22日 (水)

受けとめる側の、相手が決めること。

自分が、一生懸命に尽くした行動や言動、その思いが、相手に正しくつたわらずに、軽く扱われたり、誤解されたりすることがあります。

そういうときには、分かってくれない相手に腹が立ったり、または、自分の伝え方が十分でないのだろうか、手段が適切でなかったのだろうか、と、複雑に捉えて、悩んでしまうこともあるかもしれません。

しかし、相手が、自分の行動をどう受けとめるか、どう反応するか(または、反応しない、という反応、の場合もある)は、相手が決めることであり、自分がコントロールできることではありません。

一生懸命に大きな力を注げば、その労力と比例して、相手をコントロールできるかのように、思い込んでしまうものですが、「自分が、努力をする」というのは、自分の領域に動機があり、「相手が、どう受けとめるか」は、相手の領域に決定権があります。

人間関係というのは、「自分」と「相手」との、『間』に作られていくもので、その「間」という領域は、お互いが共有しています。

しかし、その共有領域である、「関係」という「間」の部分について、どんな解釈で捉えているか、どのくらいの度合いで重視しているか、などの価値基準までも、共有しているわけではなくて、そこは、それぞれ独自に、ハンドルを握っています。

人間関係という、「間」の空間を共有していると、なんとなく、それに対する価値基準までも共有しているような気持ちになって、そして、自分の思い通りにいかないことは、そう受けとめない相手が悪いと解釈してしまって、「自分が、こんなにも頑張っているのに!」という不満が、相手に対して生まれていくものだと思います。

分かってもらうと努力をすることや、お互いが共有している人間関係という空間を、よりよいものにしようとする姿勢は、とても素晴らしく望ましいものです。ですから、自分の中に、「そうすべきだ」「そのほうがいい」「それが最善だ」という思いがあるなら、その思いにしたがって、行動をとっていくのがよいと思います。

けれども、その行動の受け止め方を、自分以外の他人に強要することはできないし、相手が、同じように「そうすべき、そのほうがいい、それが最善」と、思っているかは分からないし、思っていないとしても、それは相手の自由意思であって、自分がそれを正すことも、変えることも(相手が望んでいないならば)難しいものであることは、分かっておくべき知識です。

そうしないと、自分がイライラして消耗してしまうからです。

もっと工夫すれば、伝わるはず、もっと量を増やせば、分かってくれるだろう、と、そう考えたくなるものではありますが、働きかけそのものを大きくしても、その反応をする側の相手にその気がなければ、変化が見られないことも、あるでしょう。

でも、それは、自分が未熟だとか、相手が悪いとか、そういうことではなくて、そもそも、自分がどう動くかというのは、自分が決めることであり、相手がどう受けとめるかは、相手が、その人独自の価値基準で決めるのであり、そこは、別の人間である以上、重なり合うものではない、と、あらかじめ分かった上で、それでも(そうすることがお互いのためだと思うのならば)行動する、という、割り切りが必要だと思います。

価値基準を、全部とはいわないまでも、いくらかを共有して分かり合える関係になるためには、どちらかが、またはお互いに、「相手に寄り添って、自分が譲っていく」という姿勢になることも必要だと思います。

そのような譲る気持ちや、相手を思いやる気持ちを持たずに、自分の行動を一生懸命にやって、その量を増やして、工夫をするのだから、相手にそれを分かりなさい、というのも、よくよく考えると、実は、ワガママだったり自己主張が強すぎだったり、といことにもなるのではないでしょうか。

そこを考えずに、分かってくれない相手が悪い、思うような反応をしない相手がおかしい、と考えて、それを直そう、正そうとしている「自分」は、「本当に、分かっているのか」という考え方を、自分に向けてみることも、大切だと思います。

それは、何でも相手のいうままに譲るべきとか、自己主張をするな、という意味ではなくて。

「どう受けとめるかは、(働きかけをしている、自分、ではなく)受けとめる側の相手が決めること」という前提を理解し、その上で、自分の信念にしたがって、ふさわしい度合いの行動をとっているか(過剰な期待や、押しつけがないか)、という考え方のバランスだと思います。

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2012年8月 2日 (木)

雨男、晴れ女。

その人が、何か行動をしようとすると(行事や外出、旅行など)、決まって天気が雨になる、タイミングの人を、男性の場合は「雨男」、女性の場合は「雨女」などと表現することがありますよね。逆のパターンで、いつも天気が晴れになるタイミングの人を、晴れ男、晴れ女、と言ったりもします。

スピリチュアリズムでは、天候などの自然現象に、自然霊というエネルギーが関与している、というふうに捉えていきます。

この世に姿を現したことのない自然霊、つまり、人間の霊ではない、エネルギーですので、その概念が当てはまる対象は幅広く、妖精だとか天使だとか、姿形を、ある種、擬人化して(私たち人間にとって)イメージしやすいエネルギーもあれば、そういう擬人化がしにくい性質のエネルギーもあります。

雨男、晴れ女、のような現象が起こりやすいのは、その人が、自然のエネルギーと(平均よりも)引き合いやすい性質をもっている、ということは、言えると思います。(平均よりも、と書いているのは、誰もが少なからず自然と影響し合って生きていて、それは、引き合っているからこその現象であり、その性質がまったくゼロの人はいないからです)

現実的に、雨が降る、という物理現象を引き起こすのは、一人の人間の性質、たとえば山田太郎さんという雨男がいたとして、山田さんが、その場所にいったから、というだけの理由で起こる、と捉えるのは、拡大解釈だと思いますし、意識過剰が過ぎるようにも思います。

その人が、仮に、とても強い自然のエネルギーと引き合う力を持っているとしても、その人がその場所にいった、という「だけ」で、何千、何万の人に影響を及ぼす天候というものが左右されてしまうということは、現実的に考えにくいと思います。(少しくらいの影響があるとうことまでは、否定はしませんが)。

雨男の山田さんが出掛ける場所に、雨が降るのは、その人が行くから・・・というよりも、「山田さんが、自然のエネルギーと引き合う力が強いことによって、何かの情報のようなものを察知して、雨のタイミングを無意識に選んでしまって、自らその場所に出掛けている」ため、という面もあると思います。

私自身は、しいて言うならば、「雨のち晴れ、女」かもしれませんsweat02。ざばーっと雨が降って、その後、カラッと晴れる、のような天気にめぐりあいやすいタイプだと思います。

会社で仕事をしていて、この資料を仕上げたら、○○社に持っていって返事を聞いてくる、という用件があるとします。そうすると、資料を作り終わる時間や、私が外に出たタイミングあたりで、大雨になったりするのですね、そして帰るころにはからりと晴れ上がっている、という、そういうタイミングになることは、とても多かったです。

でもこれは、私という存在だけが原因で、雨や晴れを、引き寄せているのではないです。たかが一人の人間ごときが、広大な自然のエネルギーを、自分の都合で左右できるはずはありません。

結局それは、自然のエネルギーと引き合う作用が強い私が、雨のエネルギーや晴れのエネルギーと感化しやすく、「雨のふる少し前のタイミング、と同調している」から、そのタイミングで雨に合ってしまう、という現象に遭遇するのだと思います。

もっと早くやっておけばいいのに、そうせずに、雨の降る時間に仕事を終える、という点が、波長の法則で、引き合っているから起こる、のでしょう。

そういう関連があって、何度も、同じ天候のパターンに巡り会うのが、その人の存在が天候を呼んでいるような感じがして、「雨男」「晴れ女」のような認識が作られたのではないでしょうか。

今回、雨男の話として「山田さん」という名前をだして、たとえを書きました。そうすると、頭の中のイメージとして、山田さんという男性の姿を、なんとなく作り上げて解釈すると思います。名前があると、そういうふうに、イメージしやすいものですよね。

それと同じ仕組みで、自然「霊」という表現も、自然をコントロールする役割の、人物としての霊がいて、その人達が集まって協議して、あちらをこうしよう、次はこうしよう、と、イメージするのが分かりやすいので、「天候をつかさどっている、影響している」ということも、分かりやすいように、自分で擬人化してとらえてしまうものかもしれないのですが、その擬人化が過剰になると、誤解・曲解に繋がってしまうこともあると思います。

天候をつかさどる自然霊の働きというのは、姿をもった霊が、予定を組んだり、その霊の個人的な意思であれこれ都合をつけたり、という捉え方をするよりも、「エネルギーとしての作用の仕組み、そのもの」が、霊的エネルギーである、というふうにとらえていくほうが、本来の様子に近い、と、私はそう思っています。

そうして考えていけば、自然の作用という広大なエネルギーを、自分という人間が、コントロール出来るかのような、思い込みは、あまりに突飛な想像だとわかります。

霊を、過度に擬人化しすぎてしまうと、その「霊」を、自分に配下できるかのような、錯覚が生まれやすいのかもしれません。そういう観点からの解釈で、雨男、晴れ女のような概念を捉えることは、改めたほうがいいでしょう。

雨男、晴れ女の話とは、ちょっとずれてしまいますが、私たち人間と、自然エネルギーとの関わりは、私たちが一方的に受けていくだけ、というものではなく、お互いに影響は少なからず与え合っていくものです。ですから、私たちのいろんな思い、言動のすべてが、広い意味で、自然のエネルギーを動かしてもいる、という解釈は、間違ってはいません。

でも、それは、自分の思い通りに、自然を動かせるという意味ではないのです。たとえば、カルマの法則が、必ず自分に返ってくるという仕組みであるのはわかっていても、どう返ってくるか、いつ返ってくるかまで、把握はできないように、「仕組みとしてのエネルギー」を、(その動きが分かっていたとしても、なお)思い通りに出来るものではないのと同じです。

自然というエネルギーに対して、私たちも、影響を与えていることは確かですが、それぞれ、霊(エネルギー)としての働きと、次元の違いが、複雑に絡み合った中での関与であって、同列に明確に、一方のコントロールの配下になるようなものではない、という、働きの違いを、なんとなくでも理解していくと、私たちがこの世でスピリチュアリズムを学ぶことの意味も、少し、理解が進んでいくのかな、と、そう思います(^^)。

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