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2012年8月の21件の記事

2012年8月31日 (金)

守護霊の人数は、多いほうがいいのか?

誰にも、その人と親和性の深い、たましいの繋がりである、守護霊という存在がいて、その人の生き方を、見守って、導いています。

霊は品物ではないので、ひとつ、ふたつ、ひとり、ふたり、と、本来は数を数えられるようなものではないのですが(コップの中の水が、何滴入っているか、と、数えられないように)・・・、個別の霊の姿として表れている状態を、人の数のようにカウントするならば、多い人もいますし、少ない人もいますし、バリエーションがいろいろです。

守護霊は、その人の導きにふさわしい存在が、前面に出くる仕組みですので、必ず、その人と霊との間には、共通性や学びの意味があって、「自分と合わない守護霊がついている」だとか「人数が少ないから、導きが弱い、守りが弱い」などという解釈は、あり得ません。

人数にしても、多い人には、多い理由があり、少ない人には少ない理由があります。

それぞれ理由があってそうなっているのであり、一律に、多いほどいい、少ないとダメ、というような、「品物のような」区分けは付けられません。

全員に当てはまるわけではありませんが・・・、一般には、その人が、多趣味だったり、活動の範囲が広かったり、いろんなことに意識と労力をつかっているようなタイプの人は、守護霊も、それらと比例するかのように、たくさんの霊がいらっしゃる場合が多いようです。

逆に、この道ひとすじ、のような、力を注ぐ範囲が狭い人は、守護霊の人数も、前面に出て来る人は多くはなく(もっと深いところまで遡れば、無限の叡智が必ずありますが)、霊の個性も、狭い範囲での共通性が見られたりすることが多いようです。

たとえば、多趣味な人のクローゼットは、シンプルな洋服もあれば、派手な服もあれば、運動用ウェアもあれば、ダンス用の衣装もあれば・・・と、バリエーションがありますよね。

この道ひとすじ、のような人は、たとえば、茶道の講師で、日頃から日本の古い生活様式を大事にしている人ならば、クローゼットの中は、着物が多くなるでしょう。そして、着物は高価ですから、洋服のように何十枚も所持とはいかず、数は少なくなると思います。

その二つを比較して、どちらが素晴らしいか、と、決めることは出来ませんよね。それぞれの、ライフスタイルや、考え方や捉え方の、個人差がある、というだけですから。

それと同じで、守護霊の数も、多いほうがいいとか、少ないとダメ、とか、たくさん居るから得だ、などのように、物質的価値観で、判断することは出来ません。

守護霊の中には、その人の仕事や趣味などの才能をつかさどる役割の指導霊という存在がいますので、多趣味で活動範囲が広いタイプの人は、それぞれを導くために、職業や才能にマッチした複数の指導霊がついている場合もあるので、人数は多くなることがほとんどでしょう。

また、その時期、精力的に活動していて、何かを成し遂げようとしている最中で、しかも、何か手応えのありそうな、追い風がふいていそうな、いわゆる「波に乗っている」状態のときには、守護霊もたくさんの霊が前面に出てきて関わっていて、その人を、実際に後押ししていることが多いようです。

ちょっと話は変わりますが、先日、ごメールでの指導霊のリーディングをうけていただいた方から、面白いお話をお聞きしました。

「チベットやタイなどの、日本以外の国の僧侶だと思われる男性が、鳥をつれて出てきている」様子があって、鳥をつれている姿であることを含めておつたえしたのですが、

その方は、「今年のはじめから、家で簡単な体操をしようと思い、チベット体操をしている。そして、鳥のインテリアが気になって、鳥柄のカーテンと、鳥のガラスの置物を飾っているので、読んでいて、その繋がりに思わず吹いたhappy02」と。

共通要素のある霊が、導いている、ってことなんですよね。

そういう霊が後にいるから、影響をうけて、チベット体操をやりたくなったり、鳥の置物を飾りたくなってしまう・・・という場合もあれば、逆に、その人が、鳥の置物を飾っているのを守護霊は知っているから、「いつも見ています」と伝えようとして、その人にだけ分かるように、鳥をつれて出てくる、という解釈も考えられます。

多分、どちらも当てはまる、両方の意味を含んでいると思います。

話を戻しますが、守護霊と私たち人間は、親和性のある霊の繋がりがありますので、何らかの意味があるからこそ、その霊との関係が在り、人数が多ければ多いなりの、少ない場合にもそうなる意味が必ずあります。

物質的価値観による、数が多ければ多いほどよい、というような、基準だけでは計ることはできないのが、霊的価値観でとらえていく、霊や霊性の領域です。

それぞれの繋がりの意味があって、そして、守護霊はいつでも、私たちを見守ってくれていていますので、私たち人間は、安心して、日々を大切に充実させて生きていくことが大事です。

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2012年8月30日 (木)

「察する」という感覚。

察するというのは、物事の状況や前後の関わりなどを、推し量って知ることです。察知する、推察する、見通す、気づく、想像する、などは、広い意味では、察することの類義語として当てはまる場合が多いでしょう。

日本という国で、生活していくためには、この、察する感覚を備えていることが、求められるし、必要となって来ることが多いです。

なぜなら、日本語というのは、主語がなくても成立する文法形式ですので、主語がなくても、そのときの物事の状況を把握して、何を指しているのかを理解しながら話の内容も理解する、という感性がないと、コミュニケーションが取りにくいからです。

たとえば、道を歩いている人が、ハンカチを落としたとします。日本語ならば、「ハンカチを、落としましたよ!」と、声を掛けますよね。でも、英語になれば、「主語」が入って、「あなたが、ハンカチを落としましたよ」と、形式上はなりますね。英語の場合は、IとかYOUとかITとかが、その単語に深い意味はなくても、形式として入っていきます。

しかし、日本語では、その部分は、特に強調させたいなどの理由がない限り、なくても意味が通じれば省かれる言葉も多いので、その都度、話を聞いている人が、脳内補完して、会話が進んでいきます。

生まれたときから、この会話をする世界にいるわけですから、自然に、主語の部分を、自分の想像力で補いながら、相手の言っていることを理解する感覚は、養われていきます。 察する感覚の得意度には、個人差はあるとしても、自然に誰もが分かるもの、とされているところがあるので、わざわざ親や学校で、「このように省かれている部分は、自分が察するのが普通なのよ」とは、教えられることはまずありません。

そのため、察する感覚がどのくらいあるか、弱いかもしれない、という点を、大人になって誰かに指摘されるまで、気がつかないことも少なくありません。よほど極端に察することができない場合を除き、周囲もあまり気にしなかったり、または気づいていても、他人のことですから、そこまで指摘はしてくれないのが大人の世界では普通だからです。

そのため、相手を察することが出来ない、いわゆる、空気が読めない言動をしてしまい、気が利かないとか、話をきちんと聞いていない、などと、怠けのように捉えられてしまうこともあります。

または、別のパターンとして、前後の状況や説明があってこその、省略しても伝わる、という関係性があるのに、何も察する前提のないところから唐突に、「あれ」とか「それ」とかの表現をしてしまい、混乱を招く事もあります(この場合は、相手が察することができない、のではなく、発言者側が、前後の状況や材料がなにもなければ、察することが難しい、という仕組みを理解していないために起こります)

どちらにしても、コミュニケーションがうまくいかない、深い人間関係を築けない原因となりうるのです。

私たち人間は、たましいの存在で、何度も生まれ変わって経験を重ねていくことで、さまざまな感性も磨かれていき、今回の人生で生まれた瞬間から、ゼロからのスタートをするわけではないので、生まれ持ったものとして、そういうことがとても得意な人もいれば、苦手な人もいます。

しかし、この時代の、この国に生まれて、生活していることは、偶然ではありません。自分のたましいが、自分の学びにふさわしい状況をえらんで、生まれてきている、という必然です。 察する感覚が苦手な人は、その感覚を磨いていくために、この日本という国に、縁があって生活しているのだと思います。

ですから、察することが苦手で、人間関係がうまくいかない人も、そこで悩んで、とじこもってしまわずに、「だからこそ、今回の人生で、学びをしているのだ」ということを、思い出して、自分に言い聞かせて、出来ることから、工夫をしていく姿勢をもっていきましょう。

察することが苦手、という点に気づいてしまえば、何かしら、改善のために努力できる方法は見つかっていくものです。意識の仕方、意識の焦点の当て方を変えていくだけでも、相当に効果的です。そのヒントとなることは、過去にたくさん書いてきました。

しかし、察することが上手くできていないために、人間関係がうまくいっていない、という関係性を、自覚するまでが容易ではありません。なぜなら、そういう気づきも、察することの一種、といえますので、そこを苦手としている人が、自分の分析だけで自覚していくのは、かなり難しいことでもあるでしょう。

そのため、察することが上手く出来ずに、人生が混乱しているのに、自分はコミュニケーションは得意で、それ以外の何かにうまくいかない原因がある、と思い込んでいる人も、少なくないので、「自覚」をするまでが大変で、自覚ができたら、越えなければならない山の、何割かはすでに登った状態にある、とも言えます。

そこから、少し、苦労はあるかもしれませんが、すべては自分を成長させていくため、そして、今回の人生も、より豊かで充実したものとするため、という目的意識をもって、くじけずに、そして、自分の成長を楽しみながら、少しずつでも、努力をして取り組んでいくのがベストだと思います。

察することが苦手な人は、そういう性質を生まれ持って、今回の人生で、成長のための学びをしていこう、としているたましいである、というケースもありますが、中には、親が過干渉で、判断して察するという自主性を発揮させずに育ててしまい、大人になって苦労してしまう、というケースも中にはあるようです。

たましいの引き継いでいる要素と、そして今回の人生でさまざまに経験した要素との「掛け合わせ」で現状がつくられていくので、どちらか一つだけが唯一無二の理由、というわけではないので、その理由、原因というのは、参考程度に捉えるとして、

大切なのは、現状が、自分にとって望ましいものではないならば、そしてそれが自分の努力や工夫という取り組みで、成長することができるものならば、自分のために、意欲をもっていく、という姿勢だと思います。

過去記事に、そのためのヒントとなることを、今までもたくさん書いてきましたので、参考になさっていただければ、と思います。

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2012年8月29日 (水)

過剰な飲酒や煙草など、常習性のあるものがもたらす、霊的な影響。

タバコやお酒など、常習性のあるものを過剰に摂取しすぎると、オーラがずれやすくなり、さまざまな不調和が出やすくなることがあります。

ずれる・・・とは、肉体にきちんとおさまっていない状態になる、ということです。

そうなると、そのずれている部分に「違うもの」が、入り込みやすくなります。自分以外のエネルギーの影響を過剰に受けやすくなったりして、波長も下がってしまいます。

煙草や飲酒のすべてが悪いということではないです。どんなことでも「過剰」になると、バランスが崩れるのであって、適度に抑えておくことが大切です。

霊的に敏感で、影響を受けやすいタイプの方は、お酒の飲みすぎで人が変わったようになることがあります。たくさん飲むことで、自分のエネルギーのバランスが悪くなり・・・、そしてもともとの霊的な体質も関係して、憑依のような現象が起こって、「飲まされている」というか「一緒になって飲んでいる」のですね、本人と憑依霊とが;。

なぜ、常習性のあるものにその人が夢中になるのかといえば、それは「肉体とオーラが、ずれている方が楽」だと感じる(人もいる)ためです。

私たち人間は、「肉体を持っている霊(的な存在)」です。実は、霊ですから・・・、この重い肉体に入っているのは、大変なことです。

私たちの表面的な意識は、この状態を「普通」と認識していますが、霊の観点からすれば、こちらの方が重くてきついのですね。で、肉体から、はみ出ている状態のほうに、「軽やかで、制限されない心地よさ」を感じてしまうことがあるのです。

普通は、はみ出た状態になるとエネルギーが上手く巡らなくなるので疲弊が大きくて、体調不良になるはずなのですが、それこそ飲酒時に、吐きながらでも飲み続けるのと同じでsweat02、その、「心地よさ」のほうだけに、過剰に意識を奪われてしまうわけです。

そのため、過剰に飲酒をして、飲酒をすれば憑依されるのでまた飲まされ・・・、我に返って反省しても、また「ここちよさ」のために飲酒をして・・・、という、悪循環に陥ります。

そうなる状態を、憑依する霊が悪い、もとから影響をうけやすい敏感な体質だから、と、考えなくなるものですが、しかし霊的に敏感といっても、それらの一連の出来事は、「飲酒という、自発的な行為」からスタートしています。悪循環のスイッチは、自分が飲まなければ押されることはありません。

影響を受けて極端になりやすいところは、本人の意向とは別の要素があるとしても、自分がしっかりしていれば、影響を「受けにくくすること」は可能なのです。

意識が現実的なことに向かず、現実逃避傾向のある人にとっては、意識が「肉体ありき」にならず、霊の方向に傾いている状態を好ましく思うので、ずれている方が楽に感じていくところがありあます。

そういう方にとって、常習性があるものを減らすのは、とても難しいことはわかりますが、悪循環からは抜け出さなければいけないし、そして、スイッチを入れているのは自分だという事実から、目をそらすことしてはいけないと思います。憑依される原因を、わざわざ作って、呼び込んでいるのは自分なのです。

好ましいものを、ただ「止めなさい」と言われても、難しいと思うのですが、このように、自分の肉体からオーラがズレて・・・、そしてそのズレたところに「隙」ができて、ありがくない影響が出てしまっている状態を、イメージしてみてください。

そして、この先も、その状態を続けるのか、自分以外のものにハンドルを明け渡すような行為を、お金と時間をかけて、霊的な消耗(当然、消耗します)をして、それでも続けていくのか?と、考える機会をもっていただければ、と思います。

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2012年8月27日 (月)

立場が違えば、意見も違っても当然。

周囲の人と意見が合わない、とか、周囲の人が自分に賛成してくれない、と、悩む人は多いのですが、・・・その悩みの内容によりますが、基本、それぞれ別の考え方をもった人同士の意見は、同じになるほうが珍しいものだと思います。

同じ立場からの意見であっても、個性が違いますから、複数の人同士で、同じ意見にならないことはあります。 ましてや、立場が違えば、意見は、「違って当然」と考えておくほうが、ストレスがないかもしれません。

同じになるほうが珍しく、違うのが当たり前、もしも、賛成してくれる人がいたら、とても貴重な相手だ、というくらいに、割り切りをもって、期待し過ぎないほうが、ちょうどよいと思います。

意見が違ったとしても、それは、その人の立場からの見方がそうだ、ということであって、その人が、自分の存在を否定しているのでもなければ、意地悪をしているのでもない、ましては攻撃ではない、単に、立場が違うことから生まれる、見方の違い、というだけの場合もあります。

なのに、人は、自分中心に考えてしまうものなので、自分が正しい、正しいことは賛成されるはず、賛成されないなら、相手の理解力がないから、というように、自分を正当化して、相手が悪いと、思い込んでしまいます(^^;)。

たとえば、以下のようなケースをかんがえてみます。

ある女性が、バツイチで子どもを連れて、一回り年下の男性と再婚するつもりで、お互いが、周囲の人達に「どう思うか?」と、相談をしたとします。

きっと、男性の親は、反対する人の方が多いでしょう。その女性の人柄がどうこう、という以前に、「そもそも、そんなに年上の女性と、将来までもずっと上手くいくのか。結婚は一時の感情じゃない。本人だけならともかく、子どもまで、あなたが養うなんて苦労する」と、意見されることがあるかもしれません。

誰でも、自分の子どもが大事ですから、親の立場になれば、息子に苦労させなくない、と考えると思います。

では、女性の親はどうか、というと、母親は、「(連れ子になる)子どものことを、よく考えなさい」というかもしれません。母親は、自分の娘も大事だけれど、孫も大事でしょうから、孫と結婚相手の相性のことなどを、心配することもあるでしょう。

「向こうの親御さんの意見はどうなの?」と、そちらも気になさるかもしれません。同じ親の立場になれば、あるいは渋られるのではないか、そうなったら娘が苦労する、という思いからの発言です。

女性の父親からは、「そこまで年が離れていたら、今はいいとしても、将来は浮気されるかもしれない。その覚悟はできているのか」と、聞かれるかもしれません。相手の男性を、男同士として想像した意見です。

女性が、自分の親友に相談したとします。「あなたがそうしたいのならば、自分の気持ちに従えばいいのでは」と、言うかもしれません。ある意味、その人が言ってもらいたい意見に近いのは、友人の意見という場合もあるでしょう。

しかし、それは、友人は、家族ではないから、責任もないので、感情だけを優先した発言ができるため、とも言えます。友人にとっては、その女性が幸せになればいいのであって、その子どものことまで、両親と同じようには考えないでしょうし、「きっと、こうアドバイスされたい相談なのだろうな」と察して、その発言をしてくれることもあるでしょう。

周囲の人、同じ事を相談しても、これだけの違いが出てくる可能性があります。しかし、そのどれもが、「その立場からの意見としては、常識の範囲内」だと思います。それでも、こんなにも、その人達の「思うこと」は、バラバラになります。

たったひとつの、誰にとっても正しい意見、などというものはないし、そして、どれかが(その人の立場になれば)間違っている、とも言えません。

複数の人がいて、「個人的な意見」がすべて一致するケースは少数です。同じにならないのが普通です。

たとえば、仕事で、一つの意見にまとめて、それに皆が従っていくのは、「仕事は、個人の感情でおこなうものではないので、仕事上、どう行動していくか、という「仕事人としての立場」を優先する」ので、方向性がまとまっていくのです。

上記の結婚話のケースでも、個人としての意見はそれぞれあっても、最終的には「本人同士の意向を優先して」となるかもしれません。それは、皆の意見がまとまった、のではなく、結婚とは、親がするものではなく、本人がするものだから、周囲がどう言おうと、自分達がその気になって書類を提出すれば、結婚は成立してしまいますからね。

複数の人達の意見が一致するのは、心から全員が同調してくれるから・・・とは限らず、ふもっとも多いパターンは、「これは、会社としての仕事の問題だから(個人の感情は関係がないから)」とか、「結婚は、基本は二人の問題だから(親としての意見はあるけれども、強制力はない)」とか、その案件についての、判断基準を統一していくからです。

そうすれば、だいたいの意見は(同じ基準ですから)まとまっていくことが多い、という仕組みであって、個人の感情や考えまでもが統一されているわけではありません。それは、それぞれの価値基準は違うのだから、同じにならないのが普通で、同じになることを求めるほうが、無理な要求をしていることになると思います。

周囲の人が、自分の意見に賛成してくれない、という不満は、どちらに該当するでしょうか。

もしも、周囲の人達が、その場の統一をしなければならないような、仕事上の方針などに、その人の個人的感情を主張して、意見を曲げないとか、付き合いの常識的範囲を超えた要求を一方的にしてくる、とか、町内会やご近所の最低限のルールを無視するとか、そういうことならば、相手の方が、少々、ワガママだったり、社会性がなくて幼いところがある、といえるかもしれません。

けれど、それぞれ自分の感情を自由に持っていて、それを主張してもおかしくはない、その場の統一見解を必要としない状況において、それぞれが、それぞれの立場による意見を言った結果が、同じにならない、自分に賛成してもらえない、という点が不満になっているのだとしたら、・・・実は、分かっていないのは自分自身のほう、ということにも、なるかもしれないです(^^;)。

自分が関わっている状態が、どちらのケースに当てはまるのか、という分類を先ずおこなって、その上で、一定の判断基準を持って、その基準にそった分析をすると、どこに、改善や一致の糸口があるかが、見えてくるのではないでしょうか。

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2012年8月26日 (日)

憑依は、(原因ではなく)結果です。

憑依や、派手な霊現象の数々があり、困っている、というご相談は本当に多いのです。

憑依で体調が悪くなる、憑依で人間関係がうまくいかない、憑依のせいでやりたいことが何もできない、と、あれもこれも大変になって困っている・・・と、実際に、その現象の渦中にいるときは思ってしまうものなのですが(憑依されているときは、冷静は判断力がなくなります)、しかし、憑依というのは、「結果」です。

憑依という原因が、いろんな不和という結果を生み出している、と思えてしまって、その原因を取り除きたい、と考えがちですが、しかし、憑依は何かの原因があって引き起こされる、「結果」なのです。

ラップ音や物品移動、幻聴や幽体離脱などの、超常現象が頻繁に起こって、生活に支障をいたしてしまうというのも、同様に、原因があって引き起こされる「結果」です。

憑依で、いろんなことに影響がでるのは、言うなれば、二次的な結果、とでも表現すればいいでしょうか、憑依に至るにも何かの原因があるから(憑依という、結果が)起こるのであり、憑依がおこったことでさらに二次的な結果が作られたのが、その後の体調不良だったり、人間関係の不和だったり、です。

憑依や、派手な霊現象などの結果に至った「原因」がある、という観点からの分析が必要です。その後に起こった現象だけにとらわれると、本当の原因が見えてこなくなることがあります。

それらの現象が、極端なまでに起こる場合というのは、その人が、強い霊感を備えている場合が多いです。けれど、霊感がある「だけ」では、そのような現象にはなりません。

霊感は大小を問わなければ誰にでもありますし、霊感が強い人の全員が、そのような現象に合うわけではないからです。

極端な現象が引き起こされてしまうのは、その人が備えている霊感が、平均よりも強くて、かつ、「波長が、とても低下してしまう、何かの要因が、掛け合わされているから」です。

引き起こされる出来事というのは、良くも悪くもすべて、その人のカルマと波長が決めています。無作為に、何の規則性も理由もなく、展開する出来事はありません。それこそが、「必然」といわれる所以です。

霊感の強さだけではない、プラスアルファの要素があり、それが、自分の波長を下げてしまって、そうなると、強い霊感が、その下げた状態を増幅する比率をも強くしてしまうのです。

その原因となることは、人の数だけ別の原因があるわけですが、中でも、一番多いのは、その人が、霊現象や超常現象に、とても強い好奇心を抱いて、おかしな心霊セミナーのようなものにあちらこちらと出歩いたり、自己流で「行」のようなことをして、バランスを崩してしまったことが、引き金となっているケースです。

それらの強い好奇心が、低いレベルの霊現象や超常現象を呼び込み、そして、そうなることで、実はその人は、自意識というか、特権意識というのか、「自分は特別で、他の人とは違っていて、世界を救う救世主である」、というような、そうありたいという欲求を、満たしている部分もあるのですね。

本当に、救世主でありたい、世の中のために何かをしたいと思うなら、まずは、その低い現象から抜け出していくことが必要があるはずなのですが・・・、しかし、そのような思い込みの渦中にあるときは、(なにしろ、本人が、そう「思いたい」のですから)、何をいっても、なかなか心に届かず、・・・ほっとくしかない、という面もあるのですが(^^;)。

過剰な好奇心って、本当に怖いのですよ。目に見えないことだから、意識しにくいですけれども、そのように、じわじわと、自分の波長を下げてしまって、下がりきったところから再び持ち上げるのは、本当に時間と労力の掛かる大変な作業になります。

そういう状態に、はまっているとき、自分は特別で、偉くて、皆とは違う存在だ、私は、霊界の●●の意識を代弁していて地球を救うためにやってきた、などと思い込んでいるときには、何を言っても無駄なので、・・・つまり、このようなことを書いても、あまり意味がないかもしれないのですが、いつか、心の霧がはれたときに、何かのヒントになることも無いとは言えないので、書いておこうと思いました。

どんなことも、良くも悪くも、すべての原因は、自分の中にあって、その要因が、さまざまな学びに繋がっている、という点を忘れなければ、好奇心に負けることもないですし、霊現象にひきずられてしまうこともなくなります。

どんな経験も、すべては学びなのですから、そこから成長に繋げていければ、(最終的には)それでいい、とも言えます。

特定の行動を、その場面だけ切り取って、良いとか悪いとか、定義したって、成長に繋がりませんから。原因と結果との織りなすさまざまな出来事の中から、学びを得ていくことが大事です。しかし、過剰な好奇心は、危険なこともある、という点は、覚えておくほうがいいでしょう。

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2012年8月25日 (土)

精神的理解が深まるゆえの、違う苦しみがある。

私たちは、この世という世界で生きている以上、どれほどに霊的な知識や感覚を身に付けたところで、物質的・現世的な悩みと無縁になることはできません。

人としての成長を遂げると、現世的な悩み事へのこだわりが「薄れる」ことは確かですが、・・・それは、すべての物事に、何らかの意義を見出せるようになるから、起こることに納得がいく、というだけであって、悩みや不満そのものが、一切なくなるという意味ではありません。

しかし、それでも、学びがすすんでいけば、かなり(意義が見出せることから)今までとは違った世界(観)で、生きられるようにはなります。

物質的、現世的な価値観につかっているときは、たくさんの不満がうまれ、それれはすべて外からやってくる要因で、自分は悪くないのに他人が悪いと思いこんで、とても大きな苦しみの中にとらわれてしまいますが、スピリチュアルな理解が進んでいけば、そういう、物質的・現世的な価値観から抜け出しいくことができます。

精神的な成長があって、かつその成長度合いが高まっていくほど、どんなことも、(一見、他人が悪いと思うことも)カルマの法則から外れる事象はなく、すべては、自分が備えている何らかの要因が引き起こしたと納得ができるので、楽になっていけます。

けれど、それは、あくまで、理解や気づきの、ある段階を超えた先の話です。

「気づくまでには、物質的・現世的価値観特有の苦しみ」があり、そして「気づいた後は、精神的な価値観に、移行する過程での,特有の苦しみ」があります。

楽になるのは、移行期間特有の苦しみを、抜け出した、その先、になるでしょう。(・・・といっても、現世的な悩みが何もなくなる、という意味ではありませんが)

物質的価値観につかっている状態では、原因を外にもとめることから、他者を批判する傾向があります。

しかし、精神的価値観に「移行していく過程」では、現状への不満からの感情が、(以前の他者への批判から)自分への批判に代わっていきます。

先に「ある段階を超えたら」と書きましたが、そこまでいければ、批判そのものから、自然に遠ざかっていきます。

けれど、「移行しつつある段階」では、批判そのものから抜け出すまでにはいかないのです。批判という概念は、まだ抱えている状態です。

けれど、他者に向ける批判は、正しいものではない、という考えになり、今までのように周りのせいにできなくなるので、批判が「自分」に向かってしまうのですね。「こんな考えをしている自分はダメだ」とか、「この何もしていない状態が、情けない」とか・・・。

優しくてまじめな性格の人ほど、そうなる傾向があります。

この状態も、不満を他人のせいにしている状態とは、また別の辛さがあります。理想とほど遠い自分の現状が、情けなくて、辛くて・・・。テレビや新聞の向こうの惨状を思っては、家があって、仕事があって、毎日暖かいご飯を食べていられる環境にある、自分を責めてしまうこともあるでしょう。

批判などしなくてもいいような些細なことでも、自分を責めてしまって、自分が欠点だらけのように思えて、苦しさが出てきます。

人を思いやる気持ちは、尊く、世の中のさまざまな出来事に思いを馳せ、共感していこうとする姿勢は素晴らしいと思います。

しかし、人を思いやる、という、「人」というくくりから、自分を除外しないこともまた大切です。

焦る気持ちがあっても、・・・物事は、順番にしか進まないものだと思うのです。自分以外の周りの人たちのために、力になる生き方をしたいと思ったら、自分を責めすぎずに、自分をしっかりと打ち立てて、揺らがない意思をつくっていきましょう。

移行期間特有の、自責の気持ちというのは、さらに大きくなるための、プロセスを経験している、と考えていけばいいと思います。そして、いつかは、抜け出していき、自責の念に捕らわれたその経験すらも、貴重な学びとして、いかしていくことが出来るときが、きっとやってきます。

苦しさという「感情」に浸っている場合ではない、「愛」という「本質」を、自分が体現していく、それこそが、成長であり、学びであり、そして、世の中のためであり、結果として自分のためでもある、と、はっと気づく、「そのとき」が、必ずやってくるのです。

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2012年8月24日 (金)

「他人の言動に敏感で、困っている」、という2通りのケース。

「他人の行動や、感情に敏感」で影響されやすくて困っている、という人がいます。自分でなくても、身近に、そのように訴える人がいたりすると思います。

この解釈には、主に2通りがあります。

ひとつは「他人の行動や、感情に敏感で、それに合わせてしまう、または無意識に同調してしまうので、自分が消耗して辛くなる」というケースです。「他人の行動や感情に、敏感」という文章からイメージするのは、一般には、こちらだと思います。

けれど、実際には、別のパターンのケースもあって、それは、「他人の言動で、自分が傷つくことに敏感、という、自分の思いに敏感である」ケースです。

どちらかといえば、前者のほうは、自分の主体性が保てずに影響されやすい、という趣旨であるのに対し、後者のほうは、自分が傷ついた、という、自分の感情を主体にしています。

後者のほうは、他人の言動に敏感・・・というよりは、他人の行動を受けとめる自分の感情というセンサーは敏感だけれども、実は、他人の気持ちを察することに鈍感な人も、少なくありませんsweat02。自分を主体として、相手の言動が、自分に影響することには敏感であっても、察することが鈍感であれば、同調できませんので、こちらは、前者とはちょっと違ってきます。

自分の感情に敏感であって、他人を察したり同調したりすることには鈍感だと、人間関係の不調和を生みやすくなります。

なぜなら、自分では、「自分は、他人の影響で傷つきやすい被害者だ」、という前提での主張をしがちですが、周囲からは、「傷つきやすいのはそうかもしれないけれども、他人に配慮できないし、その態度で自分が相手を傷つけていることだってあるだろうに、なぜ、自分だけ被害者意識でいられるの?鈍い人ね」と、思われてしまって、「他人の言動に敏感」というのは、その人の思い込みか、嘘だ、と、受け取られてしまうからです。

自分が敏感だ、それで困っている、と、周囲の人達に訴えている場合は、上記のように、実は、他人に配慮が十分ではない、自分の受けとめだけの敏感さを主張して、周囲の人を不愉快にしていないかどうか、考えてみるほうがいいと思います。

または、自分が該当しないけれども、周囲にそういうタイプの人がいる、という場合は、決して、その人が大げさなのでも思い込みや嘘を言っているツモリはないこと、その人にとって、自分の感情が中心で、それの振り幅が大きいことを、影響が大きい=敏感、と捉えているのだな、と、思ってあげられるといいですね。

自分のエネルギーが、自分の感情が敏感な反応をすること、傷つくことなどのほうに大きく取られていくと、残り少ないエネルギーで、他人を察することができなくなる(結果として鈍くなる)、という場合も、実際にあり得ることなので、「そういう人もいるんだな」くらいの気持ちで、周囲の方は、受けとめてあげるとよいと思います。

それは、自分自身が該当しない、自分は「周囲の人」の立場だった場合です。自分が該当する人は、自分の感情に敏感だから、といって、他人をないがしろにしていないか、考えてみることも大事だと思います。

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2012年8月23日 (木)

霊現象が、続くときの「状態」を改善するには?

霊現象、この場合は、どちらかといえば低いレベルの現象である憑依だったり、悪夢を見続けたり、未浄化霊を何度も見てしまう、ラップ現象や、物品が移動するような現象が、短期間立て続けに起こるときの改善法と、そうなる仕組みについて書かせていただきます。

そういう現象は、自分に霊感があるから起こるのですが、けれど、霊感がある「だけ」では、そこまでのひどい現象を呼ぶことはありません。

それ以外に、プラスアルファの、別の要素が「掛け合わせ」になったときに、起こります。

プラスとプラスを掛け算すると、答えはプラスになり、マイナスとマイナスを掛け算しても、やはり、答えはプラスになるように、プラス同士の掛け算か、マイナス同士の掛け算によって、「現象」が作られます。

「現象がある」という意味では、同じであっても、その現象が、どんな現象なのか、高いレベルの現象なのか、それとも低いレベルの現象なのか、というのは、その答えの元となっている、掛け合わせの要素が、プラス同士であるか、マイナス同士であるかによります。

自分自身がプラスなのに、マイナスの現象が引き寄せられてくるのが悪い・・・と、誰もが、少なからず考えたくなります(^^;)。自分は悪くないのに、霊感があるせいで、そういうものが集まってくる、と。

けれども、すべての出来事は、同じ要素が引き寄せ合うという、「波長の法則」によって成されていますから、自分がプラスなのに、マイナスが引き寄せられてくる、ということは、通常、ありません。(通常、と書いているのは、自分の価値観では、マイナスの出来事に思えても、それは、実は、学びのためや気づきのための導きである、苦しさが学びになる、などの、表面の現象では計れないことが起こる場合もあるからです)

自分のコンディションが低下しているなどして、霊感が低い方に発動され、そして、低い霊やエネルギーと感化したときに、そういう現象のきっかけが作られます。

さらには、現象が多発する理由として、自分が低いコンディションを持続している・・・というよりも、その現象が積み重なることで、「そういう現象を引き起こしやすい回路」のようなものが、出来上がってしまい、自分が、それに、引きずられ続けているために、きりがない、という状態になっていることがおおいです。

たとえば、引き戸のスライド加減が、どうもスムーズでない、というときに、がたがたと調節して、直したつもりが、また、同じ状態になる、など、「一度そうなると、また次もなりやすい」ことってありますよね。

江原さんの書籍にも、「一度、心霊写真などが撮れてしまったカメラは、そういうものと同調する回路が作られてしまうので、また、同様のものを写しやすくなっていることがある」とか、そんなことが書かれているものがあったように記憶しています。

同じ仕組みで、霊現象が続いているときも、「自分自身との間にそれらの回路が作られてしまっている」、か、または、「自分がすんでいるお部屋との間に、回路がつくられてしまっている」ことが、連続した現象に繋がっていることがあるのです。

なので、改善のためには、回路がつくられている状態を断ち切ることが必要です。断ち切るには、自分、または、お部屋などの状態を、変えていくことです。

同じ要素があるから引き合っていて、その引き合う「間」に作られている回路のほうが強くなってしまっているというか、主導権をとっていて、自分が引きずられている状態でもあるので、自分が切り替わることで、その回路から「抜け出す」のですね。

回路を無くそう、主導権を自分に戻そう、とするよりも、自分が同調しない状態を、まずは手っ取り早く作って、抜け出してしまうほうが、効果的です。

どのようにするのがいいのか、については、詳しいことは、なぜその現象を呼んでいるのか、という原因により変わってくるので、一概にはまとめられないのですが、(必要な方は、個別のご相談ください)

すべてに共通する要素としては、「その状態を変えるためには、自分を持ち上げて、同調しないようにする」目的ですので、

今まで、いくつもの記事の中で、自分の状態を手っ取り早く持ちあげるには、どういう手段をとるのが効果的か、というのを書いてきましたので、その中から、何か、自分が取り組みやすいものや、ピンとくるものを試してみるのもよいと思います。

たとえば、ボディーケアにいって、体を整えることで、間接的にオーラも整えていく、とか、運動をする、とか、おかしなスピリチュアルグッズ?を、たくさんあつめるのを止める、とか、塩と重曹を入れて入浴する、とか、そのほかにも書き切れないくらい、いくつもおつたえしたと思いますので過去記事をご覧いただければと思います。

お部屋そのものが回路となっている場合は、換気を心掛けるのが、かなり有効となります。

「その方法をとれば、すべてOK」という意味ではないですよ、結局、呼び込んでいるのは自分自身(の、状態)であることを理解して、いろんなことを、思考のし方を含めて、幅広く改善していくほうが望ましいですが、それには時間が掛かりますし、地道な努力もりますので、それ以前に、まずは、今の「回路が作られている状態を、断ち切ることを先決」とした場合には、そういう工夫がいいですよ、という意味です。

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2012年8月22日 (水)

受けとめる側の、相手が決めること。

自分が、一生懸命に尽くした行動や言動、その思いが、相手に正しくつたわらずに、軽く扱われたり、誤解されたりすることがあります。

そういうときには、分かってくれない相手に腹が立ったり、または、自分の伝え方が十分でないのだろうか、手段が適切でなかったのだろうか、と、複雑に捉えて、悩んでしまうこともあるかもしれません。

しかし、相手が、自分の行動をどう受けとめるか、どう反応するか(または、反応しない、という反応、の場合もある)は、相手が決めることであり、自分がコントロールできることではありません。

一生懸命に大きな力を注げば、その労力と比例して、相手をコントロールできるかのように、思い込んでしまうものですが、「自分が、努力をする」というのは、自分の領域に動機があり、「相手が、どう受けとめるか」は、相手の領域に決定権があります。

人間関係というのは、「自分」と「相手」との、『間』に作られていくもので、その「間」という領域は、お互いが共有しています。

しかし、その共有領域である、「関係」という「間」の部分について、どんな解釈で捉えているか、どのくらいの度合いで重視しているか、などの価値基準までも、共有しているわけではなくて、そこは、それぞれ独自に、ハンドルを握っています。

人間関係という、「間」の空間を共有していると、なんとなく、それに対する価値基準までも共有しているような気持ちになって、そして、自分の思い通りにいかないことは、そう受けとめない相手が悪いと解釈してしまって、「自分が、こんなにも頑張っているのに!」という不満が、相手に対して生まれていくものだと思います。

分かってもらうと努力をすることや、お互いが共有している人間関係という空間を、よりよいものにしようとする姿勢は、とても素晴らしく望ましいものです。ですから、自分の中に、「そうすべきだ」「そのほうがいい」「それが最善だ」という思いがあるなら、その思いにしたがって、行動をとっていくのがよいと思います。

けれども、その行動の受け止め方を、自分以外の他人に強要することはできないし、相手が、同じように「そうすべき、そのほうがいい、それが最善」と、思っているかは分からないし、思っていないとしても、それは相手の自由意思であって、自分がそれを正すことも、変えることも(相手が望んでいないならば)難しいものであることは、分かっておくべき知識です。

そうしないと、自分がイライラして消耗してしまうからです。

もっと工夫すれば、伝わるはず、もっと量を増やせば、分かってくれるだろう、と、そう考えたくなるものではありますが、働きかけそのものを大きくしても、その反応をする側の相手にその気がなければ、変化が見られないことも、あるでしょう。

でも、それは、自分が未熟だとか、相手が悪いとか、そういうことではなくて、そもそも、自分がどう動くかというのは、自分が決めることであり、相手がどう受けとめるかは、相手が、その人独自の価値基準で決めるのであり、そこは、別の人間である以上、重なり合うものではない、と、あらかじめ分かった上で、それでも(そうすることがお互いのためだと思うのならば)行動する、という、割り切りが必要だと思います。

価値基準を、全部とはいわないまでも、いくらかを共有して分かり合える関係になるためには、どちらかが、またはお互いに、「相手に寄り添って、自分が譲っていく」という姿勢になることも必要だと思います。

そのような譲る気持ちや、相手を思いやる気持ちを持たずに、自分の行動を一生懸命にやって、その量を増やして、工夫をするのだから、相手にそれを分かりなさい、というのも、よくよく考えると、実は、ワガママだったり自己主張が強すぎだったり、といことにもなるのではないでしょうか。

そこを考えずに、分かってくれない相手が悪い、思うような反応をしない相手がおかしい、と考えて、それを直そう、正そうとしている「自分」は、「本当に、分かっているのか」という考え方を、自分に向けてみることも、大切だと思います。

それは、何でも相手のいうままに譲るべきとか、自己主張をするな、という意味ではなくて。

「どう受けとめるかは、(働きかけをしている、自分、ではなく)受けとめる側の相手が決めること」という前提を理解し、その上で、自分の信念にしたがって、ふさわしい度合いの行動をとっているか(過剰な期待や、押しつけがないか)、という考え方のバランスだと思います。

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2012年8月21日 (火)

憑依で困っている人が、スピリチュアルカウンセラーになることは可能か?

平均よりも強い霊感があって、憑依現象や精神の消耗が大きく、日常生活を送ることすら大変だったり、精神のバランスが乱れやすい、ネガティブな影響をうけやすくて困っている状態の人から、影響のされやすさ、憑依のされやすさをいかして、スピリチュアルカウンセラーとして、仕事にしていくことはできないものか、と、ご相談をうけることがたまにあります。

影響されてしまう苦しさから、ならばいっそ・・・、と思ってしまう気持ちは分からなくはないですが、まず、その影響されて振り回されている状態を改善してから考えるほうがいいと思います。

私も、憑依体質・霊媒体質ですが、そういう体質だから、この仕事をやれているのではありません。私が、この仕事ができるのは、「精神が強いから」なのです。精神が強いというのは、気の持ち用とかの根性論ではなくて、もとから備えている精神の「質」が強靱だ、ということです。

たとえば、抜群の運動神経の人がいるとして、でも、体力があまりないならば、スポーツを職業にするは実質、難しくなると思うのです。

それと同じで、霊を感じたり、把握したり、媒介したりするセンスが優れているとしても、その結果、自分が影響されて振り回されてしまうのならば、その資質を職業に直結させていくのは、難しいのです。

私は、ものすごい憑依体質・霊媒体質ですが、しかし、霊に憑依されても、感情を乱されたり、精神のバランスを崩したりとか、そこまでの影響にはなりません。それは結局、私が精神の質が強いから、憑依されても、一定のレベルで自分の状態を保っていられるから、引きずられないためだと思います。

スポーツ選手に、スポーツのセンスや技能と、そして、それを発揮していく体力との両方が必要であるように、スピリチュアルカウンセラーになろうとしたら、霊的なセンスと、そして、それを発揮していくための精神力、つまりは、いろんなものを許容しながらも自分が揺らがない強さの、両方が必要になるでしょう。

自分がただでさえ影響されまくって、自分をしっかり保っていけないのに、それを仕事にして相談業のようなことを行えば、相談者さんたちからの影響もうけて、自分がますます大変になるでしょうし、それ以前に、相談者さんたちを、望ましい方向へと進んでいただくためのサービスを提供することができない可能性もあると思います。

相談に来る人、それも、お金を払ってまで相談したい人というのは、苦しくて辛くて、どうしようもない状態になっているケースがほとんどですから、そのような状態にある人と常に関わる仕事を、影響されやすく、コンディションを保ちにくい人が行ったら、どうなるかは、容易に想像がつきますよね。

影響というのは、その人の弱い部分において、表面化しやすいものです。同じ時期に風邪を引いても、その症状の現れ方は一律とはならず、お腹が痛くなったり、熱が出たり、その人の弱いところに、主に出やすいものではないでしょうか。

それと同じで、憑依などの霊的な影響も、その人の弱いところに影響が出やすくなります。精神的に不安定になったり、引きずられたりしがちな人は、精神の質に強さがないから、そこに影響がでるわけです。

私の場合は、精神が弱くないので、憑依されても、精神的な影響は小さいですが、体力がないので、肉体面に影響がでやすいです。以前にも書いたことがあると思いますが、とても状態が下がっているご相談者さまからの依頼メールが届くだけで、その瞬間、発熱したりsweat02、胃が痛くなったりします。

霊感があって、精神も強ければ、体力が弱くても、私のように、なんとかやっていくことはできますが(それでも、相当に大変ですよ。体力の消耗は半端ないです)、しかし、霊感があって、精神が弱くて振り回されてしまうならば、それでは、仕事としてやっていくことは難しいと思うのです。

体力が弱くてもやれるのは、そこが仕事上に必要な、メインの要素ではないからです。

けれど、精神が弱いタイプならば、それこそが、仕事上に活用するメインの要素でもあるので、成り立たせることは難しくなります。

特定の性質をいかして仕事をするには、自分が、その性質を、ある程度の精度でコントロールできることが必要だと思います。

なので、順番としては、まず、ネガティブな影響に振り回されている、現状を改善していき、揺らぎにくい自分を一定レベルにおいて保てるようになってから、改めて考えていくほうがいいでしょう。

人のためになろうという意思はとても素晴らしいと思います。その意思を保ちつつ、必要な準備として、自分をしっかりと立てていけるようになることも大切なので、必要なことを順番にクリアしていきましょう。

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2012年8月20日 (月)

情報を精査して、抱えすぎを改善する。

物質としての「品物」で、不要なものを処分することは出来るのに、物質のように形がない「情報」で、不要なものを処分出来ない人は多いものです。というよりも、情報も使わないものは処分すべきということを、考えてみたことがない人も、いるかもしれません。

品物は、物理的に場所をとるので、収納庫からはみ出していけば、処分するしかないな、と、意識することが容易です。

けれど、情報は目に見えず、現実的な収納庫を必要としないので、多すぎる情報を抱えていることに、なかなか気づけません。

目に見えないし、場所もとらないから、多すぎても別に問題はない、むしろ多ければ多いほうがいい、何かのときに活用できるはず、というような思い込みも作られることもあるかもしれませんが、物理的な場所を取らなくても、目に見えない領域の収納庫は、あふれかえってしまいます。

具体的な影響として、あちらこちらと気が散って、必要なことに意識を集中できなかったり、●●しなければ、●●であらねば、という、自分の中での約束事や制約が多くなって、時間が足りなくなったり、数が多すぎると、すべてを活用できなくて非効率になる、というのは、物質的な品物であっても、形のない情報であっても同じなのです。

たくさんありすぎると、優先順位を付けにくくなるという傾向も出てきます。そして、優先度を判断できないので、不安になって、ますます、たくさんの情報を集めたくなる、というループも起こりますsweat02

品物は使うためにあるように、情報も活用するためにあります。活用出来ないほどの数を集めても、自分の内側を混乱させるだけ、となることも多いのです。

物質と違って、情報や知識は、集めていくことが、自分の成長に繋がることが多いので、多ければ多いほどいい、と、思いがちです。そして実際に、それらを集めて、自分に取り入れることは大事であり有効です。

けれど、限度というものがあります。どんなことにも言えますが、過剰になったらアンバランスになり、適度であることが大事です。

あれもこれも、必要で有意義なものに思えても、たくさん集まれば、その範囲の中で、優先度の低いことや、すでに自分にあわなくなったものも、いくらかは含まれているはずです。それらを、手放してから、(必要があるなら)新しいものを得ていくようにしましょう。

知識や情報を集めておける、自分の収納庫の大きさは、有限です。見えない領域だから、無限に感じられますし、そのような理解も間違いではないのだけれども、「自分が、実際に活用できる収納庫」としては、無限とはいかないのが実情です。

集めすぎて、本来優先しなければならないことが、ぼやけてしまって混乱を引き起こすよりも、必要な情報を上手く活用していくほうが、有意義に毎日を過ごしてけるのではないでしょうか。

そのように、うまく、自分の収納庫を活用できるようにするためには、収納庫のスペースに余裕を持たせることが大事です。身動きがとれないくらいに詰め込まれていると、必要なものを探せなくなったり、持っていることすら忘れてしまうのは、物質的な品物の場合と同じです。

情報や知識も、集めすぎたら、優先度を判断して処分する、ということを、物質の品物と同じように、心掛けていき、すっきりとした状態にしていきましょう。多すぎる(そして、不要な)情報に囲まれていると、エネルギーも停滞しやすくなりますから。

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2012年8月19日 (日)

なぜ、自殺をしてはいけないのか?

皆様からご相談をいただく内容は、そのときの世相が反映されているものが多くなるもののようです。ここのところ、自殺について、ご相談をいただく機会がとても多くなりましたので、スピリチュアルな観点からの解釈を、書かせていただこうと思います。

あるご相談者さまが、おっしゃっていたことなのですが、江原さんの本を読んだところ、スピリチュアル的には、自殺をするのは殺人をするのと同じくらいに悪いこと、だとか、そのような表現で説明がなされていたそうです。

スピリチュアリズムに興味をお持ちの方は、江原さんの書籍はご覧になっていると思いますので、そのような内容を読んだことがある、という方も、いらっしゃるかもしれません。

自殺と殺人は、比較をするのは難しいですが、たぶん、江原さんは、「そのくらい、しないほうがいいことです」という点を強調して伝えるために、比較の表現をつかって、自殺をしてはいけない、と、伝えていらっしゃるのではないかと、私はそう思っています。

私の記憶でも、「自殺をするくらいなら、石にかじりついてでも、生き抜いたほうがいい」とか、そういう表現を使われていた本もあったような気がします。

では、実際に自殺をすると、どうなるのか、なぜ、自殺をしないほうがいい、してはいけない、ということになるのでしょうか。

それについて、ひと言で表現するならば、「肉体を失っても、たましいは永遠である」という、スピリチュアリズムの基本原則があるからです。自殺をしても、すべてが消えてなくなるわけではありません。

以下は、それらについて、さらに詳しく説明していきます。

今までにも何度も書いてきたことですが、私たち人間という存在は、「肉体という物質を伴っている、霊的な存在」です。実は、私たちは、人間であり、そして霊でもあるのです。

この点の、「私たちは、この時点で、すでに霊である」という理解は大切です。

死を迎えることで、肉体を失って、それから霊になるわけではないのです。 私たち人間は、物質的な肉体を持った存在でもあり、同時に霊でもあり・・・、同時進行で、この世でのさまざまな活動が行われていて、そして、肉体を失う、この世での死により、霊である部分だけが最終的に残っていくことになります。

「私たち人間は、霊的な存在であり、何度もさまざまなシチュエーションで、生まれ変わって、この世という物質的な場所で、あらゆる経験を通して、たましいの向上のために学んでいる」、という前提での哲学が、スピリチュアリズムです。

何度も生まれ変わって学びを繰り返していて・・・、その都度、失われていく、入れ替わっていくのは、物質的な肉体であり、霊、たましいとしての本質は、失われることはなく、引き継がれていきます。その繋がりがあるからこそ、前世というものが存在しますし、たましいの親和性のあるご縁の単位、グループソウル、というものあるわけです。

自殺をして、今回の人生が終わったとしても、同時に、霊、たましいとしての本質のところは、消滅するわけではないので、苦しさや、学びや、さまざまなカルマなど、それらは、残ってしまって、引き継がれてしまいます。

自殺をしたくなるとき、というのは、追い詰められていて、苦しみが大きく、精神的に極限に近い状態になってしまうっていると思います。

そして、死ぬことで人生を終わりにすれば、その大きな大きな苦しみから逃れることができるはず、解放されて楽になれるはず、と思ってしまうのでしょう。

しかし、実際には、死というのは、この世での肉体と、肉体を伴った活動が失われる、とういうだけですので、苦しみや学びやその他から、すべて解放されて楽になれる・・・というふうには、ならないのですね・・・。

では、自殺をすると、スピリチュアルな領域において、どんな影響がでるか、というと、「次の人生で、また、同じ学びを繰り返す」ことになります。

自殺をするというのは、学びが途中の状態で、強制リセットされたことになりますので、修了とはならず、もう一度、次の機会を得て、最初から、やり直すことにもなってしまうのです。(そのまま、まったく同じ人生をなぞる、という意味ではありませんが。学びにおいて、同じ学びをさせられる、という意味です)。

その状態とうのは、学校に似ています。途中で退学して、また学校にいこうとおもったら、改めて入学しなおしますよね。

つまり、自殺をして・・・、また次の人生を経験するときに、その途中から、学びを続けていくのではなく、最初からやりなおし、になる要素が多いのです。

その次の人生の機会が与えられたら(それは、簡単なことではありません。望めばすぐにいつでも生まれてこられるわけではありません)、時代や、国や、家族構成その他、いろんな状況は違っていても、「学び」「課題」は、その人のカルマという部分においては、同じ要素に取り組んでいくことになります。

ですから、江原さんは、「苦しくても、石にかじりついてでも、今の人生を、生き抜くことが大事」と、そのようにおっしゃっているのだと思います。

もう、5~6年も前だと思いますが、江原さんが、札幌のホテルでトークショーを行ったことがあって、私は、当時働いていた会社を早退させてもらって(^^;)、お話を聞きにいったのですが、そのときも、自殺についての話題がでました。

江原さんは「(当時、放映されていた)オーラの泉で、ゲストの方の中に、前世で自殺をした人というのは、少なからずいる。それを、はっきりそうと告げることもあれば、ぼかして言わないこともあるけれど・・・、たとえば『あなたの今回の人生は、25歳からが切り替わりで、そこからが本当のスタートですよ』のような表現をしたとしたら、それはほぼ、前世で自殺をしているのだと、思ってもらっていい(それが、はっきりと告げないときのパターン)」というようなことを、おっしゃっていましたね。

つまり、そのケースでいえば、25歳(前世で自殺をした年齢?)までが、前世で途中になっていた学びの要素を、状況や形式は変わっていても、共通の要素をもって学ばされていて、そして、それが終わったところで、本当の意味での、今回の人生の学びがスタートしていく、ということを、示しているのだと思います。

私たちは、前世からも(自殺という形ではなくても、前世からの学びを持ち越すことはありえます)、さまざまな取り組みの課題を持ち越してきたり、今回の人生では、こういうことを成し遂げて向上しよう、というような、大枠のプランを備えて生まれてきます。

そして、それらは、通常は、自殺以外の何らかの死、という形をもって、終わりを迎えて、本来のたましいのふるさとである、あちらの世界へと戻っていくことになります。しかし、自殺だけは、学びの終わり・・・というよりも、イレギュラーな形での強制終了となり、スピリチュアルな観点からは、予定していた学びが、本来のあるべき形で終了しなかった、という問題も出てきます。

ここまで書いてきたことは、自殺をしたらスピリチュアルな観点から、どのような展開があるのか、という、「仕組み」についての説明です。

そしてここからは、霊としての、自分自身の意識についての影響を説明していきます。

自殺をすると、死後の世界で、自分自身はどうなるのか、それは、霊として、たましいとしての(肉体をともなってはいませんが、実体はあります)自分は、どうなるのか、ということですが、相当の長い期間にわたって「苦しみが残る」ことになると思います。

この世でのさまざまな経験は、私たちがたましいを成長させるための学びである、と、スピリチュアリズムではとらえていきます。楽しいだけでは学びになりませんから、誰にとっても、少なからず、辛さ、苦しさは、存在するものです。すべてが楽しく、思い通りになったら、それは学びになりませんからね。

それらの、生きる上での辛さ、苦しさや、この世での経験ですので、本来は、死によって肉体を失うことで、解放されて楽になり、たましいの世界へと戻っていきます。この世というのは、学びの舞台で演じているようなもので、舞台の幕が下りたところで、学びの世界から、本来の霊の世界へと、戻っていくわけです。

しかし、それは、課題をやりおえて死を迎えた場合であって、自殺というのは、その途中で強制終了したようなものですから、苦しみの感情から、抜けられないことが少なくありません。

たとえば、飛び降りて自殺した霊が、自分がすでになくなっていることが分からないまま、まだ死ねていないと思い込んで、何度も飛び降りるという行為を繰り返している、とか、そういう話を、聞いたことがある方もいると思います。

そのことから、肉体はなくなっても、霊、たましいとしての意識は残っていて、だから気づくことができない、その人は、たぶん、死んだらすべてゼロで無になる、と思っていたので、無にならない自分はまだ生きている、と思って、飛び降りを繰り替えしているのだろうことが、想像できますよね。

自殺した霊の全員が、そのような行為を取るとは限らないですが、ここで理解しておいていただきたいのは、結局、死んでも、「意識は、そのまま」になっている、という点です。

つまり、辛さや苦しさから逃れようとしての行為のはずが、失うのは肉体だけであって、苦しみが消滅するわけではないのです。

自殺をしたいくらいの辛さ、苦しさというのは、相当だと思います。普通は、どんなに辛くても、そこまでは考えない人のほうが大多数です。なのでそれほどに辛いという気持ちは、分からないではないけれど・・・、しかし、生きていれば、何か、楽しいことがあって苦しさが薄れて行く時期もくるかもしれませんし、何かしら、苦しさを補うための機会というのは、与えられるものではないでしょうか。

けれど、その前に、自殺を選んでしまえば、その機会さえも、放棄してしまうことになり、苦しさから逃れようとしての行為のはずが、逆に、その行為をとることで、苦しさを固定してしまうことになりかねません。

自殺をした霊は、肉体を失っている事に気づかずに、延々と死のうとしている、上記のようなケースもありますが、気づいている霊もいて、その人達は皆、とても苦しんで、後悔しているといいます。

生きていれば挽回のチャンスもあるだろうに、死を選んでしまえば、そこで苦しさが固定されたり、または、死んだらゼロになると思っていたのに、死んでも自分の意識はあって、霊、たましいとしての自分は存在し続ける、とわかったら、それは、後悔も大きいでしょう。

けれども、自殺も、死の一形態であることには変わりませんので、自殺をすると、いつまでも苦しんで浄化できない、というわけではありません。いつかは、浄化をしていくことになりますが、その過程はスムーズにはいかず、とても長い時間が掛かることが多いと思われます。いろんなケースがありますから、すべてがそうだとは言えませんが・・・。

長々書いてきましたが、しかし、とても深いことなので、これだけ書いても、ほんの少ししかおつたえできていないような気がしてしまうのですが、上記のような仕組みを理解して、いろんな辛さも苦しさもあっても、それでも、この人生という経験のチャンスを与えられたことを感謝して、今のこの人生を、いかにして生きるか、そういう姿勢で自分の人生をクリエイトしていくことが大事だと思います。

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2012年8月11日 (土)

仕事に求める要素の、優先順位。

仕事に関するご相談は多く、中でも、どの職業を選ぶのがよいか、とか、これからやろうとしている仕事は自分にふさわしいのか、という内容のものが多くを占めます。

仕事に限らずすべてに言えることですが、良いか、悪いか、を判断するには、その基準となる前提が必要です。 どういう状況の中に、どんな基準に基づいて、良いか、悪いか、を判断することは出来ても、何も条件のないまま、判断はつきにくいものではないでしょうか。

前提がはっきりしていなくて漠然としているのに、その答えだけを、良い、悪い、と、はっきり付けようとするのは矛盾しています。答えが定まらないのは、そういう(矛盾がある)思考の仕方をしているため、だと思います。

答えを出すには、前提と基準をしっかりと認識して、その上で、それらの要素と照らし合わせて答えを出すことが必要です。

たとえば、「チョコレートや、アイスクリームをたくさん食べるのは、良いでしょうか?」と、ただそのことだけを、何の前置きもなく考えたとしても、答えを出すのは難しいでしょう。

美味しいものを食べて幸せな気分を感じたい、と思っているなら、甘い物が好きな人なら、チョコレートを食べるのは楽しみでしょうから、「良い」と思います。しかし、体の健康を保つという観点からすれば、適度ならよくても、あまり甘い物ばかり食べ過ぎるのは、「良くない」となることもあるかもしれません。

多くの人が、選択の答えが出せないのは、それらの基準がはっきりしないまま「自分にとって、良いか、悪いか」と、とても曖昧な前提から、答えだけをはっきりさせようとしているからです。「自分にとって」という基準は、範囲が広すぎて、それでは、何も定めていないのと変わらないです。

仕事の場合は特にそうで、何を基準として判断するか、という前提がないと決断ができませんし、そういう分析のないまま選んだ仕事は、開始してから壁にぶち当たることも少なくありません。

仕事について、悩んだり考えたりしているときに、その自分の考え方に、前提となる基準の要素が伴っていないことに、なかなか気づくことができません。なぜなら、仕事というのは、すでに現実的ですから、「仕事について悩んでいる」という時点で、きちんと現実を見ているような気持ちに、なってしまうためです。

たとえば「未来は、こうなりたいなぁ」と考えている状況は、曖昧な思考であることを自覚しやすいですよね。

しかし、「仕事を、これからどのようにするのが、自分にとって良いことなのか」と考えるのは、「仕事」という単語が出たとたんに、とても現実的で堅いことを考えているような気分になってしまって、「自分にとって」という曖昧さに基づいた思考に、実はなっていると、気づきにくいものなのです。

仕事は、現実的に、とても大きな比率で自分を左右する要素だから、つまり重要事項だから、考えてもなかなか決められない、と思っている人が多いですが、決められない理由の大部分は、思考の仕方が、基準も前提もない、あいまいなものになっているためという場合もああるのです。

どんな仕事をしようか、または、自分はこんな仕事をしてみたい、という、新たな選択の場合でも、今の仕事を続けるか辞めるか、という現状の判断の場合でも、まず、思考のスタートの時点で、前提を決めること、前置きとなる、元になる条件を考えていくことが大切です。

その前提とは、その仕事は、「生活の手段となる、金銭を得る必要のある仕事」なのか、それとも、金銭の心配はそれほどなくて(たとえば、結婚していて、あえて女性が働く必要はない、など)「金銭を得ることが主目的ではなく、自分の楽しみや、やりがいを得たい等の目的で仕事をしたい」のか、という点です。

この前提をしっかりとさせた上で、さまざまな条件や基準を当てはめて判断する、という順序が望ましいです。そこがあいまいでは、考えても、決断しきれませんし、考えないまま勢いで決断しても、不満だらけになってしまいます;。

私は、女性からの仕事のご相談は、必ず、その点を先に聞いています。前提が違えば、導き出す答えも違ってくるからです。男性の場合は、少々異なりますが。男性は、生活の手段としてではない仕事、という可能性が、ほとんどゼロになるためです。

女性の場合は、どちらなのかを、まず、自分がはっきり認識していくことがスタートで、男性の場合は、そこに選択の余地が無いケースのほうが多いので、生活の手段としての仕事である、という前提のもとで、次の判断なり基準なりを考えていく、という順番にしてくのがふさわしいと思います。

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2012年8月10日 (金)

浮気は、結果。

パートナーが浮気をしたことが発覚して、二人(自分と相手の)仲が上手くいかなくなった場合に、「相手の浮気さえなれば、それでうまくいったのに。相手がすべて悪い」と、そのように認識してしまうことが多いようです。

しかし、浮気という出来事が、二人の仲を上手くいかなくした原因で、それさけなければ上手くいったはずなのに、という解釈は、思い込みです。

もしも、浮気が起こらなかったとして、その状況で、二人の関係が上手くいっていたかどうか、大事なのはその点です。

浮気という出来事が起こる以前に、二人の関係はすれ違っていたり、気持ちの温度差が大きくなっていたりして、良い関係とは言い切れない状態になっていたとしたら、原因は「そこ」であり、浮気は、その原因が引き起こした「結果」ではないでしょうか。

その原因について、改善や対処をしようとせずに、浮気そのものが、二人の関係をうまくいかなくした原因で、相手が浮気をやめれば元の平和な状態に戻れる、というのは、原因を置き換えて認識してしまっています。

そういう出来事が実際に自分に降りかかったら、冷静ではいられなくなり、ショックをうけたり、頭にきたりして、感情に思考が引きずられてしまうものですが、「原因」がどこにあるのかを、分析して把握することが大事です。

すべてのケースに当てはまるわけではありませんが、多くの場合、浮気というのは結果であって、その原因となるものは、それ以前の、お互いの関係にあったり、思い癖やトラウマによって、引き起こされている場合が多いです。

原因となっているところに気づくことができず、ということは、そこに働きかけることもできず、浮気をしているという行為だけをストップさせても、本当の幸せを手にすることはできず、相手としては、不満がより一層募ってしまうかもしれません。

なぜそうなっているのか、という点に、パートナーが理解を示したり、寄り添ったりする気持ちがほんの少しもないならば、愛を与え合う、信頼で結ばれた関係を強くしていくのは、難しくなってしまうと思うのです。

浮気でうまくいかなくなった二人の関係を修復するために必要な行動とは、「相手の浮気という行為をやめさせること」ではなくて、それ以前の二人の関係を見つめ直し、改善するところがあれば改善して、お互いの信頼を取り戻していくか、または(信頼が壊れていないならば)強くしていくこと、だと思います。

浮気は原因ではなく、浮気は、(そうなる原因が、別にあって、起こる、という)結果です。

原因をしっかりと把握して、そして、必要な対処をしていけば、~そこには、相手に態度を正してもらおうとするだけでなく、自分も寄り添う気持ちや反省する気持ちが必要ですが、結果も、変わっていくと思います。

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2012年8月 9日 (木)

特定の能力の強弱は、オーラの「色」には限定されない。

オーラについて語るとき、イメージしやすく分かりやすい「オーラの色」が、クローズアップされることが多いと思います。

本来、オーラは、いろんな要素が、大きさ、状態、色、濃淡、強さ、集まり具合、形状、質感などとして反映されていて、色は、その一部でしかないのですが、オーラが青いから●●である、オーラが赤くて××だ、という認識は、頭の中でイメージが作りやすいので、理解しやすい要素なのだと思います。

オーラの色にも、実にさまざまな要素が表れていき、色から、たくさんのことが分かるのは確かなのですが、「色だけ」で、何でも分類しようとしても、無理があります。

特に女性に多いのですが、「オーラの色が●●色ならば、●●の職業に向いている」とか、「オーラの色が××色ならば、××という能力が備わっている」という、前提のもとで、オーラを知りたい、と思っていらっしゃる方がいます。

そういう捉え方は、ある意味「物質的な価値観」だと思います。職業だとか、特定の言葉で表現できうる能力というものは、この世ならではのものであって、たましいという枠組みのないものに、ピタリと当てはまるようなものではないからです。

性質や個性や霊性などの内面をあらわすオーラの色で、その人の性格上の傾向がある程度分類できることは確かですが、オーラの色から逆算して、職業等を特定する解釈には、少々無理がありますsweat02

ひとつ例をあげてみます。赤いオーラというのは、活力や行動力、集中力などをあらわします。元気で勝ち気な性格を持っている人も多いです。

スポーツ選手は、赤いオーラの人が多いと感じます。スポーツをするには、行動力や集中力、勝ち気な部分などが必要ですので、「スポーツ選手に、赤いオーラが多い」ことは確かであり、また、オーラについて知識をお持ちの方なら「多分、そうなるだろうな」と、想像力と感性で理解することができると思います。

その結びつきを、色別に当てはめると、どうなるでしょうか。「赤いオーラの人は、(スポーツ選手に多い色なのだから)運動能力が高いはず」・・・と、逆のパターンが、成り立つでしょうか。

結論を言うと、赤いオーラの人で、運動能力が鈍い人は、たくさんいますcoldsweats01

「スポーツ選手のような、運動能力を活用する職業についている人に、赤いオーラをもっている人が多い」のは確かですが、しかし、「赤いオーラがあれば、運動能力が優れている」という逆は、成り立ちません。

つまり、いろんな職業な能力の個性を持っている人達に、仮に共通するオーラの色という傾向が見られるとしても、それはそれ、これはこれ、であって、特定のオーラ色があるから、その職業に適した才能がある、というような、逆の定義はつけられないのです。

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2012年8月 8日 (水)

優等生タイプ、が、そのまま大人になって、苦労することがある。

真面目で努力家で、成績も申し分なく、周囲の大人からの評価も高い、優等生なタイプの方が、社会に出て、思うような評価を得られずに、苦労してしまうことがあります。

「真面目に努力してきたのに、なぜ、思うような評価を得られないのだろうか(昔は、そうではなかったのに)」という気持ちで、むなしさと、そして、なぜ、そうなっているのかが分からないので、悩み続けることになります。

自分が努力をしただけの、ふさわしい評価をすることができない世の中や、会社や、上司が悪い、と、自分以外のところに、理由をみつけようとして、ますます、複雑な迷路の中に入っていってしまいます。

真面目に頑張っていく、忍耐力や向上心、それはとても素晴らしいものです。

しかし、勉強は、自分が頑張れば、それなりに成績には反映して行くことが多いですが、仕事や、社会での立場というのは、勉強のようにはいきません。なぜなら、勉強は、基本は、自分自身を向上させていけばいいですが、仕事や社会生活は、自分だけで行うものではなく、そこに「他人」の存在が強く関わってくるからです。

学校にいるうちは、勉強の成績がよければ、友達との関係がいまひとつであっても(そのことを、自分が寂しく思う等の、苦しみのある・なし、とは別として)、成績の上では、「優秀」になれます。

しかし、会社では、いくら商品知識を誰よりも詳しく覚えていても、接客のマニュアルをしっかり暗記することができても、社内での人間関係や、取引先でのコミュニケーションがうまくできないと評価は高くならないこともあります。

商品には誰より詳しくても、それを、営業先で売り込んで、買ってもらう、という行為につながらなければ、成績に反映されにくいのが、営利企業の会社という場所だと思います。

会社というのは、学校ではないので(お金を出して、自分がお客さんの立場で勉強をすることができる場所ではなく)、「自分が、労力を提供して、お金をいただく」場所です。

新入社員のうちは、それでも、優等生が評価されることはあります。きちんと、指導したことはよくきき、向上しようと努力をする、その姿勢が評価されて、上司から目を掛けられることはあっても、それは、ずっと続くわけではなく、あくまでも、「新人だから」という前提においての評価です。そのことを間違えずに、気持ちを切り換えていくことも大切です。

優等生であることが、悪いわけではないのです。むしろ、それは、長所であって、誇るべき要素とも言えます。ただ、「それだけ」では、世の中で、そして会社という場所で、やっていくのは難しくなり、プラスアルファの要素が必要になる、ということです。

たとえば、数学の勉強を一生懸命にやったとしても、最高で、100点までしかとれません。それ以上に頑張り続けても、120点や、150点が取れるわけではありません。または、数学を100点とって、それ以上に努力続けたとしても、そのことにより国語の試験が、(数学への取り組みの高さにより)免除されるわけではありません。

それと同じで、暗記力とか、真面目さとか、努力の姿勢だとか、その部分がとても優れていたとしても、別の要素については、その要素に見合った努力の仕方で、身につけていき、活用していけることが、会社の中で認められるためには必要となります。

具体的には、それは、人間関係の力、コミュニケーションの取り方です。

それらが、柔軟に、そして適切に、活用できて、真面目さや努力家の要素が「掛け合わせ」になれば、言うことなしの、仕事ができるでしょう。

優等生タイプが、大人になって苦労することがある、というのは、「優等生で、コミュニケーション力がある人」は、含まれません。そういう人はむしろ、優等生で、大人になってもうまくやっていける人、になります。

苦労することがあるのは、「優等生タイプだけれども、コミュニケーション力が磨かれていない人」です。この、二つの要素が、絡んでくると、苦労をしてしまうのです。

コミュニケーション力が磨かれていないと、どんなタイプの人であれ、それなりの苦労はあるわけですが、なぜ、「優等生タイプ」と、範囲を限定しているかというと、優等生で、過去に評価された人は、そのことに、とても気づきにくい、という特徴があるためです。

一般に、効果がでない方法というのは、途中で、「これではダメだ」と、気がつきやすいと思うのです。やってもやっても、うまくいかないならば、この方法は合っていないな、と、どこかで気づきます。

けれど、優等生タイプの行動や思考のパターンは、過去には評価されています。学生時代、または、新入社員の時期には、素晴らしい、見習うべき姿勢、と、認めてもらえます。「だからこそ」、気づきにくいのです。

大人になっても、ずっと生徒の立場でいられない、ということに、過去にそのパターンが評価されていることが、逆に仇となって、今の自分がおかれている立場では、それだけではない、別の掛け合わせが必要であることに、意識が向きにくくなることもあるのです。

人は成長していき、成長というのは、変化です。立場が変わって、成長していけば、求められるものも、評価されるポイントも、発揮しなければならないことも、変わっていきます。

良い資質は残しつつ、必要とされるものを、その都度加えて、さらに成長していく、そのような視点からの取り組み方を、心掛けていくことが大事だと思います。

「過去に、それで、自分が成功したとか、得をしたとかの経験がある価値基準」を、変える必要があるかもしれない、という考え方をするのは、とても難しいものです。その可能性に思い至るまでが、とても難しいのです。

自分にとってあまりに自然で、かつ、途中までは、自分を大いに成長させてくれた価値基準ですから、改善点の選択肢に入ってきにくいものなのです。実際に指摘されないと、まず、気づけません。

しかし、そういう事例を身近で見聞きして、自分に当てはめてみて、分かることなら、あるかもしれませんので、この記事が、そういう意味での、ヒントになれば、と思って、書いてみました。

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2012年8月 6日 (月)

執着が大きくなることによる、不調和。

特定の事柄への思いが大きくなると、それ以外のことにエネルギーが十分に注がれずにおろそかになり、バランスが悪くなって、どこかにしわ寄せが出てしまう、という形で、不調和が起こることがあります。

「執着」といえるくらいに、特定の要素への強い思いを持っている場合は、上記のようなデメリットは承知の上で、それでも、こだわり続けたい、力を注ぎ続けたい、という気持ちで取り組んでいる場合もあると思います。

自分でそれらを分かった上で、デメリットの可能性も含めて、自分の責任で行動していて、「強い思いを持っていることが成功して、しかし、それ以外がおろそかになる」、という形に最終的に到達できるなら、納得の上ですから、それでいいのかもしれません。

けれど、現実には、「ひとつの出来事にこだわって、その他がおろそかになる」、という可能性よりも、「こだわっているそのこと自体が、うまくいかなくなる」可能性のほうが、大きくなるように思います。

力を掛ければ、掛けるだけ望ましい、力を掛けたすべてが直接的に結果に結びつくとはいわないが、少なくとも、力を掛けないよりは、掛けすぎるほうが、結果を押し上げていくはず、と、そのように思ってしまいがちです。

けれど、Mサイズの器の中に、LLサイズのものを無理に入れようとすると、器が壊れてしまうこともありますよね。

器から、外にあふれてくれるならよいけれど、そうならずに、器自体に、一気に圧が掛かると、それ自体が壊れてしまい、望んだ結果にならないこともあるわけです。

イメージとして、力いっぱいやるほうが、少なくとも「不足」にはならないだろうし、自分も後悔をしたくないから、と、思ってしまうので、「できるだけ、たくさん」をしたほうが、少しでも高いところに手が届くような気持ちになりますが、しかし、注ぎ先の器の状態を考慮しない、自分目線だけの強い思いによる執着は、自分とその対象との、関係そのものを壊してしまうこともあります。

「過剰」という単語が存在すること自体が、多すぎることで、望ましくない状態になることがある、という事実を示していると思います。

「力を注ぐ特定の事柄と、その他とのバランス」という意味での不調和がでることもありますし、「力が掛かりすぎることで、その対象への注ぐエネルギーが、攻撃になってしまう」という不調和を引き起こすこともあります。

一生懸命頑張るのも、そのことへの思いを強くするのも、適度であれは、望ましいことも、過剰になったら、上手くいかなくなってしまいます。そういう結果を、自分が招いてしまいますので、「どのくらいが、適度といえるのか、どこが過剰との境目なのか」という点を、考えながら、取り組んでいくことが大事だと思います。

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2012年8月 4日 (土)

頑固な相談者の、守護霊。

悩んだり困ったりしていて、不満や不安の気持ちがいっぱいの状態で長期間を過ごしてしまうと、ずっとストレスにさらされているわけですから、気持ちの余裕がなくなり、とても悲観的になったり、排他的になったりすることがあります。

何をやってもうまくいかない、どうせ、今後もそれが続くに違いない、という諦めの気持ちから、そうなることもあれば、傷つかないために、最初から受け入れることをせずに、攻撃的な態度に出ることで、自分を防御しようとすることもあります。

その状態になっていると、なかなか、他人の意見を聞き入れようとしません。それが、その人にとって、有益な助言であったとしても、です。受け入れるのは、その人に、まったくリスクがなく、自分を省みる必要もなく、今までの方法を変える必要もなく、今のまま、もっと幸せになれる、という、便利な魔法のような方法を提示された場合のみ、です。

しかし、そんなお手軽に幸せになれる方法などないので・・・、実質、ほぼ、どんな助言も、心に届きにくくなっっている状態です。

そういう状態になっている方から、ご相談をいただいた場合、私も結構、苦労します(^^;)。

何しろ、聞きたいこと、というか、言ってもらいたいことが決まっていて、それ以外を受け入れる気が無く、そして、そんな自分の状態を全肯定していて、ノーを言われたら、それは自分に対する攻撃だ、のように解釈なさるからです。

そういう人は、お申し込みの時点で、ほぼ、分かります。

なぜなら、その方の守護霊さんが、教えてくれるからです。「プライドが高くて頑固なので、言っても聞かないと思います」とか、「話を聞こうとする状態になるまで、とても時間が掛かります」などと、先に、言われてしまいます。

そして、その結果、・・・あぁ、やっぱりな、という、お約束どおりの展開になるわけですが(^^;)、それでも、理解していただこうと言葉を尽くして、お伝えしていけば、ほとんどの方は、最終的には理解してくださいます。

が、その途中は、本当に大変で・・・、私も、途中で(といっても、時間的には、大延長している状態で、です。私は延長料金をいただいていませんので、納得していただいて、区切りがつかないと、セッションの終わりになりません)、もういいわ、もう無理、と、投げ出したくなることも、たまにはあります。

でも、そういうときは、守護霊さんが、私をなかなか離してくれないのですね。

長時間で、くたくたで、意識の何割かがもうろうとしている状態のときに、そこに、入られてしまって、伝えたいことを、(私の意識を介して)伝えてくるので、終わらないのです。ならばもう、終わりにしましょう、という台詞を口にする前に、その間に入られて、次の助言になり、しかし、相手の方はそれを聞き入れない、という、ループになります;。

頑固になっている人というのは、もとの性格がそうだ、というよりも、移り変わりのある「状態」が、頑固に「なってしまっている」ことが多いです。苦しさを、自分から切り離そうとする防御の気持ちから、その原因の一端に、自分が関係していることが(切り離してしまうので)認められなくなってしまい、そして、その点を指摘されるのが苦しいので、抵抗したくなってしまうのです。

そういう状態にあるときは、自身の波長も下がっていますので、守護霊たちの高い波長とも合いにくくなり、なかなか、よいインスピレーションもわかないし、自分の思い込みにとらわれていき、ますます、「自分は、誰にも理解されない」という気持ちが強くなっていきます。

しかし、その状態を、守護霊の方達も、なんとかしたいと思っているわけです。だからこそ、私とも、ご縁が用意されるのだと思います。そして、最初に、「頑固ですから」と、前置きもしてくださいます(^^;)。

頑固になっている人も、そのときの「状態」がそうだ、というだけであり、「本質」までも、頑固なわけではありません。そして、その本質に、親和性のある、グループソウルというご縁のある霊が、守護霊という役割をになっている仕組みですので、当然、その人が、たまたま頑固になっているから、といって、守護霊の性質が頑固、ということもありません。

私も、そういうご相談でやりとりを重ねていると、「もう、何を言っても通じないから、この人のもとからの本質がこうなのではないか(状態、ではなく)、ならば、これ以上時間を掛けても、無意味じゃないか」という気持ちが出てきます。・・・というか、無理にでも、そう思うことで、終わりにしたくなることもあります;。

しかし、その人と、親和性を持っている、守護霊の方は、頑固ではないので(進化・向上している存在ですから、当たり前ですが)、そのことを、思い出せば、私も気持ちをスイッチを入れ直せるというか、いや、これは、苦しさがそうさせている「状態」なのだ、本質はこうではないはずだ、という原点に、私自身も、立ち返ることができます。

結局、あちらの世界の方たちは、そういう部分も含めて、全部、お見通しなのだろうな、と思います。

都度、私自身も、学ばされます。

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2012年8月 3日 (金)

恋愛も、必然であり、たまたまの偶然、ではない。

なかなか、恋愛や結婚の対象となる人と知り合えない、パートナーとなる人が見つからない、というご相談をいただく機会は本当に多いです。

その都度、その方に必要なことをお伝えさせていただいているのですが、そんな理屈がききたいのではない、具体的にどうしたら結婚できるのか、と、言われてしまうことがあります(^^;)。

そう言いたくなるくらいに、苦しいお気持ちになっていることは理解できますが、しかし、スピリチュアリズムは、自分のたましいを成長させていき、この世を生きていくための霊的な観点からの哲学であり、知恵でもあり・・・、自分の願いを便利に叶えるための魔法ではありませんので、お手軽に、ここをこう変えれば出来ますよ、的な、おまじないのような回答には成り得ません。

今というこの状態は、過去の言動や思いのすべてが積み重なって作られた状態ですから、今の状態を変えたい、と思うのであれば、過去の自分のパターンになっている言動は、思考の習慣を、より望ましいものへと入れ替えていく、という取り組みが必要になります。

「思うこと、考えること」も、行為の一種です。それらはすべてエネルギーとして作用していきます。思いのエネルギーも(肉体をつかった行動と同じように)自分自身を作っていきます。

「思いも、エネルギーであり、作用がある」ことを理解していないと、スピリチュアリズムの観点からお伝えすることはすべて、理屈のきれい事で、建前で、現実的に使える内容ではない、高見からの意見、に、思えてしまうかもしれません。

しかし、実際に、思うというエネルギーの作用は「ある」のです。そして、思うことで発生したエネルギーも、「あり」ます。

その観点からとらえていくと、もっとも効果的な取り組み方法というのは、エネルギーの発信装置である、発信スイッチでもある、「自分自身の考え方を、見直す」ことです。

自分が発するエネルギーと、同じ要素をもつものが、「波長の法則」により引き寄せられてくるわけで、もちろん、現実的な行動を心掛けることも大前提ですが、プラスとして考えていくと効果的なのは、やはり、自分では見落としがちになる、「思い」のエネルギーの部分です。

しかし、自分には原因がゼロとはいわないが、そこがうまくいかない大部分の原因ではないはず、外の環境が悪いから、親が悪いから、と、思ってしまうと、なかなか、自分の発する思いのエネルギーに目を向けていく、というのは、納得しがたいものとなってしまうようです。

「でも、自分の周りの人達は、たまたま出会って結婚している。その人達が、自分の思いに気を配っているから結婚できたとは思えない、何も深いことを考えてもみないような、とても若いうちに結婚する人だっているのに、なぜ、自分だけが、自分の思いを見つめていかなければいけないのか、そんなアドバイスは現実的ではない」、という反応をする方も少なくありません。

その、偶然に見える出会いも、同じ要素がある人同士が引き寄せ合って作られる必然であって、たまたま、ではないのですが・・・、しかし、その点を受け入れなくても、それはそれでもいいと思います。そこを受け入れなくても、理解を先に進めることはできます。

仮に、100歩譲って、本当に出会いが「たまたま」だとしても・・・、男性と女性が、ただ出会っただけで、そのまま恋愛や結婚に至るわけではありません。

その、たまたま(では、本当はないのだけれども)の機会を生かし、 親しく話すようになって、お互いをしり、自分が相手を好きになり、そして、相手からも自分を好きになってもらわなければ、恋愛や結婚という深い関係になっていくことができませんよね。

出会いそのものはさておき、その後を考えれば、やはり、自分自身の、物事の考え方とか、人づきあいの仕方、コミュニケーションの仕方などが、大いに影響するわけで、その面を考えてみても、自分の思いを見つめ直していくことは、やはり、恋愛や結婚には大いに関連していくと言えるのではないでしょうか。

自分の思い通りにならないことは、すべて他人か周囲の環境のせい、気に入らないことを言われたら聞き入れないですかさず反論、相手がどういう気持ちから発している言葉なのかを考慮せず、自分の思い込みだけで決めつけて怒り出す、このような受け止め方、考え方で、人づきあいをしていたら、・・・それは、深い関係になりようがない、相手からの信頼や愛情を得にくくならないでしょうか。

人との付き合いにおいて、相手の言動や気持ちを察する力、どのように会話や付き合いをしていくことで、相手との信頼関係が作られていくのか、そういうコミュニケーションの力が十分でない人が、恋愛や結婚という異性との関係において立ち止まってしまうことになるケースが少なくないと感じます。

恋愛も、結婚も、人間関係のひとつですから、自分のコミュニケーションの力を磨くこと、そしてそのためには、自分の思いのエネルギー、思いグセのようなものを、見つめていき、何のどんな部分が、よい関係を築くことを難しくしているのか、その点に気づくことが大事だと思います。

出会いが、仮に、たまたまだとしても(そうとしか、思えないならば、それでもいいです)、しかし、その後の人間関係の構築に関しては、たまたま、ではないのは明白だと思います。ならば、その、明らかにたまたまではない方、自力が及びやすいほうに、取り組む力を注ぐほうが、「現実的」ですよね。

思い通りにならないことがあると、どうしても感情がたくさん出て来て、それがいろいろ絡み合って、見るべきところが見えなくなり、混乱が生じるので、なかなか、うけいれられない気持ちはわかります。

しかし、自分の人生を豊かにするためには、自分を見つめることは苦しくても、どこかの人点で気持ちを切り換えて、望む未来のために、その苦しさを乗り越えていくことも大事だと思います。

乗り越えることで身につく強さは、一生の財産となり、その先の長い人生の中で、あらゆる場面で、自分自身を助ける事に繋がります。

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2012年8月 2日 (木)

雨男、晴れ女。

その人が、何か行動をしようとすると(行事や外出、旅行など)、決まって天気が雨になる、タイミングの人を、男性の場合は「雨男」、女性の場合は「雨女」などと表現することがありますよね。逆のパターンで、いつも天気が晴れになるタイミングの人を、晴れ男、晴れ女、と言ったりもします。

スピリチュアリズムでは、天候などの自然現象に、自然霊というエネルギーが関与している、というふうに捉えていきます。

この世に姿を現したことのない自然霊、つまり、人間の霊ではない、エネルギーですので、その概念が当てはまる対象は幅広く、妖精だとか天使だとか、姿形を、ある種、擬人化して(私たち人間にとって)イメージしやすいエネルギーもあれば、そういう擬人化がしにくい性質のエネルギーもあります。

雨男、晴れ女、のような現象が起こりやすいのは、その人が、自然のエネルギーと(平均よりも)引き合いやすい性質をもっている、ということは、言えると思います。(平均よりも、と書いているのは、誰もが少なからず自然と影響し合って生きていて、それは、引き合っているからこその現象であり、その性質がまったくゼロの人はいないからです)

現実的に、雨が降る、という物理現象を引き起こすのは、一人の人間の性質、たとえば山田太郎さんという雨男がいたとして、山田さんが、その場所にいったから、というだけの理由で起こる、と捉えるのは、拡大解釈だと思いますし、意識過剰が過ぎるようにも思います。

その人が、仮に、とても強い自然のエネルギーと引き合う力を持っているとしても、その人がその場所にいった、という「だけ」で、何千、何万の人に影響を及ぼす天候というものが左右されてしまうということは、現実的に考えにくいと思います。(少しくらいの影響があるとうことまでは、否定はしませんが)。

雨男の山田さんが出掛ける場所に、雨が降るのは、その人が行くから・・・というよりも、「山田さんが、自然のエネルギーと引き合う力が強いことによって、何かの情報のようなものを察知して、雨のタイミングを無意識に選んでしまって、自らその場所に出掛けている」ため、という面もあると思います。

私自身は、しいて言うならば、「雨のち晴れ、女」かもしれませんsweat02。ざばーっと雨が降って、その後、カラッと晴れる、のような天気にめぐりあいやすいタイプだと思います。

会社で仕事をしていて、この資料を仕上げたら、○○社に持っていって返事を聞いてくる、という用件があるとします。そうすると、資料を作り終わる時間や、私が外に出たタイミングあたりで、大雨になったりするのですね、そして帰るころにはからりと晴れ上がっている、という、そういうタイミングになることは、とても多かったです。

でもこれは、私という存在だけが原因で、雨や晴れを、引き寄せているのではないです。たかが一人の人間ごときが、広大な自然のエネルギーを、自分の都合で左右できるはずはありません。

結局それは、自然のエネルギーと引き合う作用が強い私が、雨のエネルギーや晴れのエネルギーと感化しやすく、「雨のふる少し前のタイミング、と同調している」から、そのタイミングで雨に合ってしまう、という現象に遭遇するのだと思います。

もっと早くやっておけばいいのに、そうせずに、雨の降る時間に仕事を終える、という点が、波長の法則で、引き合っているから起こる、のでしょう。

そういう関連があって、何度も、同じ天候のパターンに巡り会うのが、その人の存在が天候を呼んでいるような感じがして、「雨男」「晴れ女」のような認識が作られたのではないでしょうか。

今回、雨男の話として「山田さん」という名前をだして、たとえを書きました。そうすると、頭の中のイメージとして、山田さんという男性の姿を、なんとなく作り上げて解釈すると思います。名前があると、そういうふうに、イメージしやすいものですよね。

それと同じ仕組みで、自然「霊」という表現も、自然をコントロールする役割の、人物としての霊がいて、その人達が集まって協議して、あちらをこうしよう、次はこうしよう、と、イメージするのが分かりやすいので、「天候をつかさどっている、影響している」ということも、分かりやすいように、自分で擬人化してとらえてしまうものかもしれないのですが、その擬人化が過剰になると、誤解・曲解に繋がってしまうこともあると思います。

天候をつかさどる自然霊の働きというのは、姿をもった霊が、予定を組んだり、その霊の個人的な意思であれこれ都合をつけたり、という捉え方をするよりも、「エネルギーとしての作用の仕組み、そのもの」が、霊的エネルギーである、というふうにとらえていくほうが、本来の様子に近い、と、私はそう思っています。

そうして考えていけば、自然の作用という広大なエネルギーを、自分という人間が、コントロール出来るかのような、思い込みは、あまりに突飛な想像だとわかります。

霊を、過度に擬人化しすぎてしまうと、その「霊」を、自分に配下できるかのような、錯覚が生まれやすいのかもしれません。そういう観点からの解釈で、雨男、晴れ女のような概念を捉えることは、改めたほうがいいでしょう。

雨男、晴れ女の話とは、ちょっとずれてしまいますが、私たち人間と、自然エネルギーとの関わりは、私たちが一方的に受けていくだけ、というものではなく、お互いに影響は少なからず与え合っていくものです。ですから、私たちのいろんな思い、言動のすべてが、広い意味で、自然のエネルギーを動かしてもいる、という解釈は、間違ってはいません。

でも、それは、自分の思い通りに、自然を動かせるという意味ではないのです。たとえば、カルマの法則が、必ず自分に返ってくるという仕組みであるのはわかっていても、どう返ってくるか、いつ返ってくるかまで、把握はできないように、「仕組みとしてのエネルギー」を、(その動きが分かっていたとしても、なお)思い通りに出来るものではないのと同じです。

自然というエネルギーに対して、私たちも、影響を与えていることは確かですが、それぞれ、霊(エネルギー)としての働きと、次元の違いが、複雑に絡み合った中での関与であって、同列に明確に、一方のコントロールの配下になるようなものではない、という、働きの違いを、なんとなくでも理解していくと、私たちがこの世でスピリチュアリズムを学ぶことの意味も、少し、理解が進んでいくのかな、と、そう思います(^^)。

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2012年8月 1日 (水)

失敗も、無数にある「経験」の一つに過ぎない。

失敗を恐れて、新しい行動や、自信がない行動に躊躇する気持ちは、誰もが少なからず抱いているものだと思います。

失敗は、できれば避けたい、と、思うものですよね。

しかし、失敗というのは、単に、無数にある「経験」のひとつ、であって、それほど恐れるものではない、という理解のしかたも、新しい行動をしていくためには、大切だと思います。

失敗を恐れることにより、無謀な行動を避けられ、災難を未然に防げることもあります。

それは、ある意味、メリットにも成り得るかもしれません。

けれど、失敗に対する恐れの気持ちが出てきて、慎重になる、というのは、「過去に、失敗をして、痛い目に合っている経験があるから」こそ、わかることであり、失敗したことがなければ、慎重になることもできません。

失敗したときには、「次こそ、成功したい」と考え、「なぜ、今回はうまくいかなかったのか」と、考えるようになります。そこで、今まで気付かなかったことに気付けば、次の成功にも繋がり、同時に、洞察力や分析力も磨かれていきます。

何回も同じ失敗を繰り返してしまうのは、気づかなければいけない何かが見えていない可能性もあるので、むやみに挑戦を続けるよりも、そこで立ち止まって学んでいく方が良い場合もあると思います。しかし、一度は失敗してみないと、見えてこない、身につかないことも確実に存在すると思います。

そう考えれば、失敗のすべてが、避けた方がいいとも限りませんし、失敗から学べることも多いですから、恐れるようなものではない、という捉え方もできます。

また、失敗して苦しんだ経験のある人ほど、成功した場合のありがたみも、いっそう強く感じられることでしょう。

私たちは、経験することで理解が深まりますので、どんな経験もすべて貴重で大切であり、今後にいかしていくことができます。

失敗も、そして成功も、無数にある経験の、ひとつの形態に過ぎない、というとらえ方をしていくと、気持ちに余裕が生まれていき、ちょうどよい力の配分で取り組むことができると思います。

そうすると、結果として、成功する確率もあがっていくのではないでしょうか。

「失敗を恐れて慎重になり、簡単には行動しない」ことと、「失敗も、経験のひとつであり、恐れるようなものではない。経験があるからこそ、次に繋がる」と考えていくことと、どちらが、(失敗を避けられ、結果として)成功に繋がっていきそうか、その点を現実的に考えてみるといいと思います。

やはり、行動なくして、失敗しないかわりに成功もしにくい、という面はあると思います。

「失敗したくない」のと、「成功をしたい」のと、どちらが自分の中で優勢なのか、という、基本的なことが、意外と忘れがちになってしまうので、その点も改めて思い返してみるとよいでしょう。

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