« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

2012年8月の5件の記事

2012年8月31日 (金)

守護霊の人数は、多いほうがいいのか?

誰にも、その人と親和性の深い、たましいの繋がりである、守護霊という存在がいて、その人の生き方を、見守って、導いています。

霊は品物ではないので、ひとつ、ふたつ、ひとり、ふたり、と、本来は数を数えられるようなものではないのですが(コップの中の水が、何滴入っているか、と、数えられないように)・・・、個別の霊の姿として表れている状態を、人の数のようにカウントするならば、多い人もいますし、少ない人もいますし、バリエーションがいろいろです。

守護霊は、その人の導きにふさわしい存在が、前面に出くる仕組みですので、必ず、その人と霊との間には、共通性や学びの意味があって、「自分と合わない守護霊がついている」だとか「人数が少ないから、導きが弱い、守りが弱い」などという解釈は、あり得ません。

人数にしても、多い人には、多い理由があり、少ない人には少ない理由があります。

それぞれ理由があってそうなっているのであり、一律に、多いほどいい、少ないとダメ、というような、「品物のような」区分けは付けられません。

全員に当てはまるわけではありませんが・・・、一般には、その人が、多趣味だったり、活動の範囲が広かったり、いろんなことに意識と労力をつかっているようなタイプの人は、守護霊も、それらと比例するかのように、たくさんの霊がいらっしゃる場合が多いようです。

逆に、この道ひとすじ、のような、力を注ぐ範囲が狭い人は、守護霊の人数も、前面に出て来る人は多くはなく(もっと深いところまで遡れば、無限の叡智が必ずありますが)、霊の個性も、狭い範囲での共通性が見られたりすることが多いようです。

たとえば、多趣味な人のクローゼットは、シンプルな洋服もあれば、派手な服もあれば、運動用ウェアもあれば、ダンス用の衣装もあれば・・・と、バリエーションがありますよね。

この道ひとすじ、のような人は、たとえば、茶道の講師で、日頃から日本の古い生活様式を大事にしている人ならば、クローゼットの中は、着物が多くなるでしょう。そして、着物は高価ですから、洋服のように何十枚も所持とはいかず、数は少なくなると思います。

その二つを比較して、どちらが素晴らしいか、と、決めることは出来ませんよね。それぞれの、ライフスタイルや、考え方や捉え方の、個人差がある、というだけですから。

それと同じで、守護霊の数も、多いほうがいいとか、少ないとダメ、とか、たくさん居るから得だ、などのように、物質的価値観で、判断することは出来ません。

守護霊の中には、その人の仕事や趣味などの才能をつかさどる役割の指導霊という存在がいますので、多趣味で活動範囲が広いタイプの人は、それぞれを導くために、職業や才能にマッチした複数の指導霊がついている場合もあるので、人数は多くなることがほとんどでしょう。

また、その時期、精力的に活動していて、何かを成し遂げようとしている最中で、しかも、何か手応えのありそうな、追い風がふいていそうな、いわゆる「波に乗っている」状態のときには、守護霊もたくさんの霊が前面に出てきて関わっていて、その人を、実際に後押ししていることが多いようです。

ちょっと話は変わりますが、先日、ごメールでの指導霊のリーディングをうけていただいた方から、面白いお話をお聞きしました。

「チベットやタイなどの、日本以外の国の僧侶だと思われる男性が、鳥をつれて出てきている」様子があって、鳥をつれている姿であることを含めておつたえしたのですが、

その方は、「今年のはじめから、家で簡単な体操をしようと思い、チベット体操をしている。そして、鳥のインテリアが気になって、鳥柄のカーテンと、鳥のガラスの置物を飾っているので、読んでいて、その繋がりに思わず吹いた」と。

共通要素のある霊が、導いている、ってことなんですよね。

そういう霊が後にいるから、影響をうけて、チベット体操をやりたくなったり、鳥の置物を飾りたくなってしまう・・・という場合もあれば、逆に、その人が、鳥の置物を飾っているのを守護霊は知っているから、「いつも見ています」と伝えようとして、その人にだけ分かるように、鳥をつれて出てくる、という解釈も考えられます。

多分、どちらも当てはまる、両方の意味を含んでいると思います。

話を戻しますが、守護霊と私たち人間は、親和性のある霊の繋がりがありますので、何らかの意味があるからこそ、その霊との関係が在り、人数が多ければ多いなりの、少ない場合にもそうなる意味が必ずあります。

物質的価値観による、数が多ければ多いほどよい、というような、基準だけでは計ることはできないのが、霊的価値観でとらえていく、霊や霊性の領域です。

それぞれの繋がりの意味があって、そして、守護霊はいつでも、私たちを見守ってくれていていますので、私たち人間は、安心して、日々を大切に充実させて生きていくことが大事です。

 ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

リーディングのお申込みは、こちら→「メール回答」or「スカイプ通話

★ブログランキングに参加しています。記事がお役に立ちましたら、以下のバナーをクリックして、投票をお願いします。

   ↓ ↓ ↓

人気ブログランキングへ

| | コメント (0)

2012年8月29日 (水)

過剰な飲酒や煙草など、常習性のあるものがもたらす、霊的な影響。

タバコやお酒など、常習性のあるものを過剰に摂取しすぎると、オーラがずれやすくなり、さまざまな不調和が出やすくなることがあります。

ずれる・・・とは、肉体にきちんとおさまっていない状態になる、ということです。

そうなると、そのずれている部分に「違うもの」が、入り込みやすくなります。自分以外のエネルギーの影響を過剰に受けやすくなったりして、波長も下がってしまいます。

煙草や飲酒のすべてが悪いということではないです。どんなことでも「過剰」になると、バランスが崩れるのであって、適度に抑えておくことが大切です。

霊的に敏感で、影響を受けやすいタイプの方は、お酒の飲みすぎで人が変わったようになることがあります。たくさん飲むことで、自分のエネルギーのバランスが悪くなり・・・、そしてもともとの霊的な体質も関係して、憑依のような現象が起こって、「飲まされている」というか「一緒になって飲んでいる」のですね、本人と憑依霊とが;。

なぜ、常習性のあるものにその人が夢中になるのかといえば、それは「肉体とオーラが、ずれている方が楽」だと感じる(人もいる)ためです。

私たち人間は、「肉体を持っている霊(的な存在)」です。実は、霊ですから・・・、この重い肉体に入っているのは、大変なことです。

私たちの表面的な意識は、この状態を「普通」と認識していますが、霊の観点からすれば、こちらの方が重くてきついのですね。で、肉体から、はみ出ている状態のほうに、「軽やかで、制限されない心地よさ」を感じてしまうことがあるのです。

普通は、はみ出た状態になるとエネルギーが上手く巡らなくなるので疲弊が大きくて、体調不良になるはずなのですが、それこそ飲酒時に、吐きながらでも飲み続けるのと同じで、その、「心地よさ」のほうだけに、過剰に意識を奪われてしまうわけです。

そのため、過剰に飲酒をして、飲酒をすれば憑依されるのでまた飲まされ・・・、我に返って反省しても、また「ここちよさ」のために飲酒をして・・・、という、悪循環に陥ります。

そうなる状態を、憑依する霊が悪い、もとから影響をうけやすい敏感な体質だから、と、考えなくなるものですが、しかし霊的に敏感といっても、それらの一連の出来事は、「飲酒という、自発的な行為」からスタートしています。悪循環のスイッチは、自分が飲まなければ押されることはありません。

影響を受けて極端になりやすいところは、本人の意向とは別の要素があるとしても、自分がしっかりしていれば、影響を「受けにくくすること」は可能なのです。

意識が現実的なことに向かず、現実逃避傾向のある人にとっては、意識が「肉体ありき」にならず、霊の方向に傾いている状態を好ましく思うので、ずれている方が楽に感じていくところがありあます。

そういう方にとって、常習性があるものを減らすのは、とても難しいことはわかりますが、悪循環からは抜け出さなければいけないし、そして、スイッチを入れているのは自分だという事実から、目をそらすことしてはいけないと思います。憑依される原因を、わざわざ作って、呼び込んでいるのは自分なのです。

好ましいものを、ただ「止めなさい」と言われても、難しいと思うのですが、このように、自分の肉体からオーラがズレて・・・、そしてそのズレたところに「隙」ができて、ありがくない影響が出てしまっている状態を、イメージしてみてください。

そして、この先も、その状態を続けるのか、自分以外のものにハンドルを明け渡すような行為を、お金と時間をかけて、霊的な消耗(当然、消耗します)をして、それでも続けていくのか?と、考える機会をもっていただければ、と思います。

 ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

リーディングのお申込みは、こちら→「メール回答」or「スカイプ通話

★ブログランキングに参加しています。記事がお役に立ちましたら、以下のバナーをクリックして、投票をお願いします。

   ↓ ↓ ↓

人気ブログランキングへ

| | コメント (5)

2012年8月26日 (日)

憑依は、(原因ではなく)結果です。

憑依や、派手な霊現象の数々があり、困っている、というご相談は本当に多いのです。

憑依で体調が悪くなる、憑依で人間関係がうまくいかない、憑依のせいでやりたいことが何もできない、と、あれもこれも大変になって困っている・・・と、実際に、その現象の渦中にいるときは思ってしまうものなのですが(憑依されているときは、冷静は判断力がなくなります)、しかし、憑依というのは、「結果」です。

憑依という原因が、いろんな不和という結果を生み出している、と思えてしまって、その原因を取り除きたい、と考えがちですが、しかし、憑依は何かの原因があって引き起こされる、「結果」なのです。

ラップ音や物品移動、幻聴や幽体離脱などの、超常現象が頻繁に起こって、生活に支障をいたしてしまうというのも、同様に、原因があって引き起こされる「結果」です。

憑依で、いろんなことに影響がでるのは、言うなれば、二次的な結果、とでも表現すればいいでしょうか、憑依に至るにも何かの原因があるから(憑依という、結果が)起こるのであり、憑依がおこったことでさらに二次的な結果が作られたのが、その後の体調不良だったり、人間関係の不和だったり、です。

憑依や、派手な霊現象などの結果に至った「原因」がある、という観点からの分析が必要です。その後に起こった現象だけにとらわれると、本当の原因が見えてこなくなることがあります。

それらの現象が、極端なまでに起こる場合というのは、その人が、強い霊感を備えている場合が多いです。けれど、霊感がある「だけ」では、そのような現象にはなりません。

霊感は大小を問わなければ誰にでもありますし、霊感が強い人の全員が、そのような現象に合うわけではないからです。

極端な現象が引き起こされてしまうのは、その人が備えている霊感が、平均よりも強くて、かつ、「波長が、とても低下してしまう、何かの要因が、掛け合わされているから」です。

引き起こされる出来事というのは、良くも悪くもすべて、その人のカルマと波長が決めています。無作為に、何の規則性も理由もなく、展開する出来事はありません。それこそが、「必然」といわれる所以です。

霊感の強さだけではない、プラスアルファの要素があり、それが、自分の波長を下げてしまって、そうなると、強い霊感が、その下げた状態を増幅する比率をも強くしてしまうのです。

その原因となることは、人の数だけ別の原因があるわけですが、中でも、一番多いのは、その人が、霊現象や超常現象に、とても強い好奇心を抱いて、おかしな心霊セミナーのようなものにあちらこちらと出歩いたり、自己流で「行」のようなことをして、バランスを崩してしまったことが、引き金となっているケースです。

それらの強い好奇心が、低いレベルの霊現象や超常現象を呼び込み、そして、そうなることで、実はその人は、自意識というか、特権意識というのか、「自分は特別で、他の人とは違っていて、世界を救う救世主である」、というような、そうありたいという欲求を、満たしている部分もあるのですね。

本当に、救世主でありたい、世の中のために何かをしたいと思うなら、まずは、その低い現象から抜け出していくことが必要があるはずなのですが・・・、しかし、そのような思い込みの渦中にあるときは、(なにしろ、本人が、そう「思いたい」のですから)、何をいっても、なかなか心に届かず、・・・ほっとくしかない、という面もあるのですが(^^;)。

過剰な好奇心って、本当に怖いのですよ。目に見えないことだから、意識しにくいですけれども、そのように、じわじわと、自分の波長を下げてしまって、下がりきったところから再び持ち上げるのは、本当に時間と労力の掛かる大変な作業になります。

そういう状態に、はまっているとき、自分は特別で、偉くて、皆とは違う存在だ、私は、霊界の●●の意識を代弁していて地球を救うためにやってきた、などと思い込んでいるときには、何を言っても無駄なので、・・・つまり、このようなことを書いても、あまり意味がないかもしれないのですが、いつか、心の霧がはれたときに、何かのヒントになることも無いとは言えないので、書いておこうと思いました。

どんなことも、良くも悪くも、すべての原因は、自分の中にあって、その要因が、さまざまな学びに繋がっている、という点を忘れなければ、好奇心に負けることもないですし、霊現象にひきずられてしまうこともなくなります。

どんな経験も、すべては学びなのですから、そこから成長に繋げていければ、(最終的には)それでいい、とも言えます。

特定の行動を、その場面だけ切り取って、良いとか悪いとか、定義したって、成長に繋がりませんから。原因と結果との織りなすさまざまな出来事の中から、学びを得ていくことが大事です。しかし、過剰な好奇心は、危険なこともある、という点は、覚えておくほうがいいでしょう。

 ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

リーディングのお申込みは、こちら→「メール回答」or「スカイプ通話

★ブログランキングに参加しています。記事がお役に立ちましたら、以下のバナーをクリックして、投票をお願いします。

   ↓ ↓ ↓

人気ブログランキングへ

| | コメント (2)

2012年8月25日 (土)

精神的理解が深まるゆえの、違う苦しみがある。

私たちは、この世という世界で生きている以上、どれほどに霊的な知識や感覚を身に付けたところで、物質的・現世的な悩みと無縁になることはできません。

人としての成長を遂げると、現世的な悩み事へのこだわりが「薄れる」ことは確かですが、・・・それは、すべての物事に、何らかの意義を見出せるようになるから、起こることに納得がいく、というだけであって、悩みや不満そのものが、一切なくなるという意味ではありません。

しかし、それでも、学びがすすんでいけば、かなり(意義が見出せることから)今までとは違った世界(観)で、生きられるようにはなります。

物質的、現世的な価値観につかっているときは、たくさんの不満がうまれ、それれはすべて外からやってくる要因で、自分は悪くないのに他人が悪いと思いこんで、とても大きな苦しみの中にとらわれてしまいますが、スピリチュアルな理解が進んでいけば、そういう、物質的・現世的な価値観から抜け出しいくことができます。

精神的な成長があって、かつその成長度合いが高まっていくほど、どんなことも、(一見、他人が悪いと思うことも)カルマの法則から外れる事象はなく、すべては、自分が備えている何らかの要因が引き起こしたと納得ができるので、楽になっていけます。

けれど、それは、あくまで、理解や気づきの、ある段階を超えた先の話です。

「気づくまでには、物質的・現世的価値観特有の苦しみ」があり、そして「気づいた後は、精神的な価値観に、移行する過程での,特有の苦しみ」があります。

楽になるのは、移行期間特有の苦しみを、抜け出した、その先、になるでしょう。(・・・といっても、現世的な悩みが何もなくなる、という意味ではありませんが)

物質的価値観につかっている状態では、原因を外にもとめることから、他者を批判する傾向があります。

しかし、精神的価値観に「移行していく過程」では、現状への不満からの感情が、(以前の他者への批判から)自分への批判に代わっていきます。

先に「ある段階を超えたら」と書きましたが、そこまでいければ、批判そのものから、自然に遠ざかっていきます。

けれど、「移行しつつある段階」では、批判そのものから抜け出すまでにはいかないのです。批判という概念は、まだ抱えている状態です。

けれど、他者に向ける批判は、正しいものではない、という考えになり、今までのように周りのせいにできなくなるので、批判が「自分」に向かってしまうのですね。「こんな考えをしている自分はダメだ」とか、「この何もしていない状態が、情けない」とか・・・。

優しくてまじめな性格の人ほど、そうなる傾向があります。

この状態も、不満を他人のせいにしている状態とは、また別の辛さがあります。理想とほど遠い自分の現状が、情けなくて、辛くて・・・。テレビや新聞の向こうの惨状を思っては、家があって、仕事があって、毎日暖かいご飯を食べていられる環境にある、自分を責めてしまうこともあるでしょう。

批判などしなくてもいいような些細なことでも、自分を責めてしまって、自分が欠点だらけのように思えて、苦しさが出てきます。

人を思いやる気持ちは、尊く、世の中のさまざまな出来事に思いを馳せ、共感していこうとする姿勢は素晴らしいと思います。

しかし、人を思いやる、という、「人」というくくりから、自分を除外しないこともまた大切です。

焦る気持ちがあっても、・・・物事は、順番にしか進まないものだと思うのです。自分以外の周りの人たちのために、力になる生き方をしたいと思ったら、自分を責めすぎずに、自分をしっかりと打ち立てて、揺らがない意思をつくっていきましょう。

移行期間特有の、自責の気持ちというのは、さらに大きくなるための、プロセスを経験している、と考えていけばいいと思います。そして、いつかは、抜け出していき、自責の念に捕らわれたその経験すらも、貴重な学びとして、いかしていくことが出来るときが、きっとやってきます。

苦しさという「感情」に浸っている場合ではない、「愛」という「本質」を、自分が体現していく、それこそが、成長であり、学びであり、そして、世の中のためであり、結果として自分のためでもある、と、はっと気づく、「そのとき」が、必ずやってくるのです。

 ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

リーディングのお申込みは、こちら→「メール回答」or「スカイプ通話

★ブログランキングに参加しています。記事がお役に立ちましたら、以下のバナーをクリックして、投票をお願いします。

   ↓ ↓ ↓

人気ブログランキングへ

| | コメント (4)

2012年8月22日 (水)

受けとめる側の、相手が決めること。

自分が、一生懸命に尽くした行動や言動、その思いが、相手に正しくつたわらずに、軽く扱われたり、誤解されたりすることがあります。

そういうときには、分かってくれない相手に腹が立ったり、または、自分の伝え方が十分でないのだろうか、手段が適切でなかったのだろうか、と、複雑に捉えて、悩んでしまうこともあるかもしれません。

しかし、相手が、自分の行動をどう受けとめるか、どう反応するか(または、反応しない、という反応、の場合もある)は、相手が決めることであり、自分がコントロールできることではありません。

一生懸命に大きな力を注げば、その労力と比例して、相手をコントロールできるかのように、思い込んでしまうものですが、「自分が、努力をする」というのは、自分の領域に動機があり、「相手が、どう受けとめるか」は、相手の領域に決定権があります。

人間関係というのは、「自分」と「相手」との、『間』に作られていくもので、その「間」という領域は、お互いが共有しています。

しかし、その共有領域である、「関係」という「間」の部分について、どんな解釈で捉えているか、どのくらいの度合いで重視しているか、などの価値基準までも、共有しているわけではなくて、そこは、それぞれ独自に、ハンドルを握っています。

人間関係という、「間」の空間を共有していると、なんとなく、それに対する価値基準までも共有しているような気持ちになって、そして、自分の思い通りにいかないことは、そう受けとめない相手が悪いと解釈してしまって、「自分が、こんなにも頑張っているのに!」という不満が、相手に対して生まれていくものだと思います。

分かってもらうと努力をすることや、お互いが共有している人間関係という空間を、よりよいものにしようとする姿勢は、とても素晴らしく望ましいものです。ですから、自分の中に、「そうすべきだ」「そのほうがいい」「それが最善だ」という思いがあるなら、その思いにしたがって、行動をとっていくのがよいと思います。

けれども、その行動の受け止め方を、自分以外の他人に強要することはできないし、相手が、同じように「そうすべき、そのほうがいい、それが最善」と、思っているかは分からないし、思っていないとしても、それは相手の自由意思であって、自分がそれを正すことも、変えることも(相手が望んでいないならば)難しいものであることは、分かっておくべき知識です。

そうしないと、自分がイライラして消耗してしまうからです。

もっと工夫すれば、伝わるはず、もっと量を増やせば、分かってくれるだろう、と、そう考えたくなるものではありますが、働きかけそのものを大きくしても、その反応をする側の相手にその気がなければ、変化が見られないことも、あるでしょう。

でも、それは、自分が未熟だとか、相手が悪いとか、そういうことではなくて、そもそも、自分がどう動くかというのは、自分が決めることであり、相手がどう受けとめるかは、相手が、その人独自の価値基準で決めるのであり、そこは、別の人間である以上、重なり合うものではない、と、あらかじめ分かった上で、それでも(そうすることがお互いのためだと思うのならば)行動する、という、割り切りが必要だと思います。

価値基準を、全部とはいわないまでも、いくらかを共有して分かり合える関係になるためには、どちらかが、またはお互いに、「相手に寄り添って、自分が譲っていく」という姿勢になることも必要だと思います。

そのような譲る気持ちや、相手を思いやる気持ちを持たずに、自分の行動を一生懸命にやって、その量を増やして、工夫をするのだから、相手にそれを分かりなさい、というのも、よくよく考えると、実は、ワガママだったり自己主張が強すぎだったり、といことにもなるのではないでしょうか。

そこを考えずに、分かってくれない相手が悪い、思うような反応をしない相手がおかしい、と考えて、それを直そう、正そうとしている「自分」は、「本当に、分かっているのか」という考え方を、自分に向けてみることも、大切だと思います。

それは、何でも相手のいうままに譲るべきとか、自己主張をするな、という意味ではなくて。

「どう受けとめるかは、(働きかけをしている、自分、ではなく)受けとめる側の相手が決めること」という前提を理解し、その上で、自分の信念にしたがって、ふさわしい度合いの行動をとっているか(過剰な期待や、押しつけがないか)、という考え方のバランスだと思います。

 ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

リーディングのお申込みは、こちら→「メール回答」or「スカイプ通話

★ブログランキングに参加しています。記事がお役に立ちましたら、以下のバナーをクリックして、投票をお願いします。

   ↓ ↓ ↓

人気ブログランキングへ

| | コメント (6)

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »