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2012年7月31日 (火)

「私って、運が悪い?」と、考えてしまうとき。

私は生まれ付きの運が悪いのでしょうか、とか、私の仕事運や恋愛運は低いでしょうか、などのご相談をいただくことが、しばしばあります。

私は、「運」というものが、全くない、迷信だ、というつもりはないです。「運」というものを、どのような意味でとらえているかにより、答えは変わってきてしまいますので、ここでとりあげる意味としては、自分の努力や行動が及びにくい、既に決まっているもの、与えられているものとしての要素、という意味で、運を捉えた場合です。(○○運が低いか、というのは、そういうことを聞いていると思うためです)

スピリチュアリズムにおいては、統計学の占いのような○○運、という捉え方は一般的ではありません。決して、占いを低くみているわけではありません、比較のためには基準となる要素がそろっていることが必要で、そもそも、その成り立ちや、定義が一致していないところからの比較はできないと思っています。

統計学的な占いというのは、たとえば、血液型なら4種類、干支や星座なら12種類、などの、きまった枠組みがあって、その4種類なり、12種類なりの中で、相対的に、どちらが上か、下か、高いか、低いか、という比較はできると思います。

しかし、スピリチュアリズムには、きまった数の枠組みや種類の定義はないので、○○運が高い、低い、というのは、「何と比較して、そう判断するか」の基準がないので、そういう質問へのズバリの答えは難しいのです。

そうはいっても、中には、いつもお仕事が上手くいっている、とか、いつも恋愛が幸せそう、という人は、存在するよ、という意見もあるでしょう。私は、そういう人がいることや、そういう傾向を持った人がいることを、否定しているわけではありません。そういうタイプの人は、実際にいると思います。

しかし、その「差」を、○○運、というひと言でくくってしまったら・・・、それは、まったくスピリチュアリズムの目的である、この世で私たちが肉体をもった霊(人間)としての学びの中で成長していく、という趣旨において、役に立つ理解や情報とはなりえないと思うのです。

その差が、どこにあるか、あの人はなぜ、仕事に恵まれているのか、恋愛が途切れないのか、では、自分もそうなるためには、何をしたらよくて、何が十分ではないのか、を、考えていき、自分をより向上させていくための材料として、その違いについて考察したり分析したり、他人の意見を聞いたり、という、捉え方が大事ではないでしょうか。

そういう観点からの質問ならば、きっと、何かしらのヒントなり答えなりは、あると思います。

しかし、原因や動機や個性といった、根幹のところを踏まえずに、結果だけに判定をつけるような捉え方だと、「まず、その設問自体が、ずれている」ので、答えも、はっきりとしたものを提示することはできなくなります。

つまり、「○○運」の高さ、低さで、物事が決まっているかのように捉えている人(そう捉えているからこその、質問だと思うので)は、自分は何が得意で、何が苦手で、どんな個性をもっていて、どんな傾向が見られるか、というような、自己分析が十分でなく、そういう考え方をあまりしていない人が、(スピリチュアリズムに対して)抱きがちな質問、だと思うのです。

私たちには、持って生まれたそれぞれの個性がありますから、生まれた瞬間に、全員が横並びでゼロからスタートするわけではなく、得意分野、苦手分野などは、ある程度、備わった性質があります。

自分の人生や現状に、不満や不安がある人は、まずは、それらを、自己分析をしていき、見つめ直すことや、自分を知ることによって、どこをどう工夫すればいいか、という点が見えてくると思います。

いろんな、一般的な手段や方法は、試した全員に同じ効果がでるわけではないですよね。なぜなら、手段とは、それ単体で効果を生むのではなく、手段と自分との「掛け合わせ」によって、作られていくものだからです。

自分という数値が小さければ、掛け合わせの数値も小さいままとなり、自分がつかめている人ほど、その個性に見合った手段を選択することもできるので、数値も大きくすることができます。つまり、自分を知っていて、自分にふさわしい手段を選んでいる人ほど、掛け合わせの数値の大きさ、つまり、効果もまた、大きくなっていくことになります。

そういう深い考え方が、たましいの成長に繋がるのであり、そして、この世という学びの場所を、有意義に過ごしていくための、日常で現実に活用できる「知恵」に繋がっていくのではないでしょうか。

それぞれ、個性があって、一律に比較はできない中でも、いつも運を引き寄せているように見える人と、そうでないように見える人は、いると思います。

しかし、誰にも、良い時期だけが続くということはなくて、良い時期も、そうでない時期もあり、ある特定の人だけが、「運」という不確かなものを根拠に、いい目ばかりみる、ということはありません。

その、良い時期のいろんな流れを上手く活用して、チャンスを活かせる人とか、工夫をして広げて行ける人、または、良くない時期を、準備期間に当てていき、焦らないで先に備えていく、という、メリハリを付けられる人が、(そういう見方をしていない人の目から、表面だけを見ると)運のいい人、に、見えてしまい、自分と差があるように感じるのではないかと思います。

思考というのも、行為のひとつで、エネルギーをもち、作用していきます。上記のような分析を、頭の中で行っていくだけでも、自分から放たれるエネルギーが変化していき、ということは、自分と引き合うさまざまなご縁や出来事も変わってきます。そこから、いろんなことが変わっていく可能性が広がります。

「運」(という表現を、使うならば)を、良くするのも、悪くするのも、自分しだいであって、もちろん、そのすべてを自分がコントロールできるわけではないけれど、「掛け合わせ」となる自分自身のことは、少なくとも、働きかけを工夫する余地があるのは確かですから、そちらのほうに焦点をあてて、とらえていくことが、実り多き人生を呼び込むことにも繋がると思います。

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10.考え方、感情」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。体験的に霊的な生き方を理解されているのを感じました。
霊的な成長に対するアドバイスをされておられるとのことですが、クライアントの中にはアドバイスを聞くだけで、実行しない方もおられると思います。
そのようなクライアントに対しては、どのように対応されてみえるでしょうか?
悩みの解決も、自分が変わろうとしないで、周りの状況や人に対しての要求ばかりを問題点にされるクライアントとか。レスを頂ければ幸いです。

投稿: ヨシ | 2012年7月31日 (火) 20時33分

*ヨシさま

>霊的な成長に対するアドバイスをされておられるとのことですが、
>クライアントの中にはアドバイスを聞くだけで、
>実行しない方もおられると思います。

中には、そういう人もいるかもしれませんが、どう受けとめて、どう行動するかは、その方の自由意思だと思いますし、自分のことは自分の責任でなんとでもできるとしても、他人(クライアントさん)の考えや行動を変えることは無理ですし、変えようとすることも、何かが違うような気がします。


>悩みの解決も、自分が変わろうとしないで、
>周りの状況や人に対しての要求ばかりを問題点にされるクライアントとか。

ごくまれいにはいますが・・・、そこまでの要求をしてくる人は少数ですね。もっと以前、スピリチュアリズムが理解されていないころは、そういう人もおおかったのかもしれないですが、今は、知識を持つ方も多いですし、自分の問題点を見ないで、魔法のようなことを要求するようなタイプの人は、私のブログを読んで、私に相談しよう、とは、あまり思わないから、というのが少ない理由かもしれないですね、私は、結構、はっきり言うので(^^;)。


それでも、ごく少数、自分には何も悪いところはなくて、世の中が悪い、旦那が悪い、上司が悪い、親が悪い、と、自分は100%の被害者で、皆がひどいのだ、という前提で、相談してくる人もいます。

>そのようなクライアントに対しては、どのように対応されてみえるでしょうか?

私の場合は、それに対して、はっきりと言います。その人の成長のために、必要なことはお伝えする、という形をとると思います。でも、それは、私が相手を変えたいとか、説得したいという、私の我欲に基づくのではなく、それが、長い目でみれば、ご自身のためになる、と、思うからです。

それでも聞く耳を持たない人には、それ以上、何もできることはないので、あとは、その方がどう人生を学んでいくか、という、相手のパーソナルな領域であって、いくら私がそこに、摂理や真理を持ち込もうとしても、相手に受け入れる余地がなければ、それ以上は、どうしようもないので、対応をさせていただくのは、「そこまで」となると思います。

投稿: リカコ | 2012年8月 1日 (水) 13時06分

ヨシです。丁寧なレスをありがとうございます。ごく少数でも「100%の被害者」と表現されましたが、やはりそのような方がおみえになりますか。
対応を「そこまで」でとされることについては、「やっぱり」と安心を得ました。こちらが最善を尽くして真理や法則を説いても、相手に受け入れる姿勢がない場合には「終わり」にするべきですね。

投稿: ヨシ | 2012年8月 2日 (木) 00時43分

*ヨシさま

私は、受け入れてもらおう、と、押しつけるつもりは、持っていません。そして、私ができることは、あくまで、私ができる範囲での最善にすぎず、その相談者様にとって、私のすることが最善、とは限りませんので、「終わり」といのは、お互いの関わり合いの責任の中で、区切りをつけるしかない場合であって、相手が理解しないから打ち切る、などの意味ではないです。

なので、「終わりにするべき」「○○べき」という表現は、少なくとも、私は、あまり抱かない考え方、かもしれません。

投稿: リカコ | 2012年8月 2日 (木) 21時43分

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