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2012年7月の28件の記事

2012年7月31日 (火)

「私って、運が悪い?」と、考えてしまうとき。

私は生まれ付きの運が悪いのでしょうか、とか、私の仕事運や恋愛運は低いでしょうか、などのご相談をいただくことが、しばしばあります。

私は、「運」というものが、全くない、迷信だ、というつもりはないです。「運」というものを、どのような意味でとらえているかにより、答えは変わってきてしまいますので、ここでとりあげる意味としては、自分の努力や行動が及びにくい、既に決まっているもの、与えられているものとしての要素、という意味で、運を捉えた場合です。(○○運が低いか、というのは、そういうことを聞いていると思うためです)

スピリチュアリズムにおいては、統計学の占いのような○○運、という捉え方は一般的ではありません。決して、占いを低くみているわけではありません、比較のためには基準となる要素がそろっていることが必要で、そもそも、その成り立ちや、定義が一致していないところからの比較はできないと思っています。

統計学的な占いというのは、たとえば、血液型なら4種類、干支や星座なら12種類、などの、きまった枠組みがあって、その4種類なり、12種類なりの中で、相対的に、どちらが上か、下か、高いか、低いか、という比較はできると思います。

しかし、スピリチュアリズムには、きまった数の枠組みや種類の定義はないので、○○運が高い、低い、というのは、「何と比較して、そう判断するか」の基準がないので、そういう質問へのズバリの答えは難しいのです。

そうはいっても、中には、いつもお仕事が上手くいっている、とか、いつも恋愛が幸せそう、という人は、存在するよ、という意見もあるでしょう。私は、そういう人がいることや、そういう傾向を持った人がいることを、否定しているわけではありません。そういうタイプの人は、実際にいると思います。

しかし、その「差」を、○○運、というひと言でくくってしまったら・・・、それは、まったくスピリチュアリズムの目的である、この世で私たちが肉体をもった霊(人間)としての学びの中で成長していく、という趣旨において、役に立つ理解や情報とはなりえないと思うのです。

その差が、どこにあるか、あの人はなぜ、仕事に恵まれているのか、恋愛が途切れないのか、では、自分もそうなるためには、何をしたらよくて、何が十分ではないのか、を、考えていき、自分をより向上させていくための材料として、その違いについて考察したり分析したり、他人の意見を聞いたり、という、捉え方が大事ではないでしょうか。

そういう観点からの質問ならば、きっと、何かしらのヒントなり答えなりは、あると思います。

しかし、原因や動機や個性といった、根幹のところを踏まえずに、結果だけに判定をつけるような捉え方だと、「まず、その設問自体が、ずれている」ので、答えも、はっきりとしたものを提示することはできなくなります。

つまり、「○○運」の高さ、低さで、物事が決まっているかのように捉えている人(そう捉えているからこその、質問だと思うので)は、自分は何が得意で、何が苦手で、どんな個性をもっていて、どんな傾向が見られるか、というような、自己分析が十分でなく、そういう考え方をあまりしていない人が、(スピリチュアリズムに対して)抱きがちな質問、だと思うのです。

私たちには、持って生まれたそれぞれの個性がありますから、生まれた瞬間に、全員が横並びでゼロからスタートするわけではなく、得意分野、苦手分野などは、ある程度、備わった性質があります。

自分の人生や現状に、不満や不安がある人は、まずは、それらを、自己分析をしていき、見つめ直すことや、自分を知ることによって、どこをどう工夫すればいいか、という点が見えてくると思います。

いろんな、一般的な手段や方法は、試した全員に同じ効果がでるわけではないですよね。なぜなら、手段とは、それ単体で効果を生むのではなく、手段と自分との「掛け合わせ」によって、作られていくものだからです。

自分という数値が小さければ、掛け合わせの数値も小さいままとなり、自分がつかめている人ほど、その個性に見合った手段を選択することもできるので、数値も大きくすることができます。つまり、自分を知っていて、自分にふさわしい手段を選んでいる人ほど、掛け合わせの数値の大きさ、つまり、効果もまた、大きくなっていくことになります。

そういう深い考え方が、たましいの成長に繋がるのであり、そして、この世という学びの場所を、有意義に過ごしていくための、日常で現実に活用できる「知恵」に繋がっていくのではないでしょうか。

それぞれ、個性があって、一律に比較はできない中でも、いつも運を引き寄せているように見える人と、そうでないように見える人は、いると思います。

しかし、誰にも、良い時期だけが続くということはなくて、良い時期も、そうでない時期もあり、ある特定の人だけが、「運」という不確かなものを根拠に、いい目ばかりみる、ということはありません。

その、良い時期のいろんな流れを上手く活用して、チャンスを活かせる人とか、工夫をして広げて行ける人、または、良くない時期を、準備期間に当てていき、焦らないで先に備えていく、という、メリハリを付けられる人が、(そういう見方をしていない人の目から、表面だけを見ると)運のいい人、に、見えてしまい、自分と差があるように感じるのではないかと思います。

思考というのも、行為のひとつで、エネルギーをもち、作用していきます。上記のような分析を、頭の中で行っていくだけでも、自分から放たれるエネルギーが変化していき、ということは、自分と引き合うさまざまなご縁や出来事も変わってきます。そこから、いろんなことが変わっていく可能性が広がります。

「運」(という表現を、使うならば)を、良くするのも、悪くするのも、自分しだいであって、もちろん、そのすべてを自分がコントロールできるわけではないけれど、「掛け合わせ」となる自分自身のことは、少なくとも、働きかけを工夫する余地があるのは確かですから、そちらのほうに焦点をあてて、とらえていくことが、実り多き人生を呼び込むことにも繋がると思います。

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2012年7月30日 (月)

「とりあえずの結論を出して、思考を終える」という習慣をつける。

考えても決まらない、考えても方法が思い浮かばない、と、考える時間や機会を十分に取っているわりには、決断に至らず、悩みが長期化してしまうことがあると思います。

たまに、そういうことがある、というくらいなら、誰にでもありうる頻度だと思いますが、いつもそうして、決断ができないままの悩みを、何かしら抱え続けてしまうのは、「その都度、結論を出す考え方をしていない」ために、引き起こされている問題、かもしれません。

あれこれと思い浮かべて、頭の中を忙しくしている状態を、考えている時間、だと認識している方は多いと思います。

しかし、それでは、「ただ思い浮かべた」とか「頭の中で、その事柄を文章化してなぞった」だけで、分析等を行っていないケースも出てきます。

または、分析をしても、「分析だけで終わってしまう」こともあると思います。

思考をしたら、その時点なりの答えや結論を出してみる、という習慣を心がけるとよいでしょう。思い浮かべるだけで終わらせず、暫定の答えを出したところで、思考が完了、という習慣を、自分の中に作り上げるのですね。

暫定の答え、ですから、最終決定ではなくてもいいのです。とりあえず、今日のところは、このような答えとしておこう、続きは明日考えよう、でもいいのです。

または、今日の段階では、Aの選択肢がよいだろうと思う、しかし、明日以降、また考えは変わるかもしれないが、という、不確定でもいいので、とりあえずの、その時点での答えを出したところで、思考を締めくくる、という習慣です。

また別のケースとして、はっきりとした「答え」ではなくてもいいと思います。たとえば、簡単には解決できない問題に対して、「この件は、そう簡単には解決しない難問だ」と、認識するだけでもいいでしょう。

それでも、ただ漠然と、「どうしよう・・・」「どうすれば・・・?」と、答えに向かわずに、考え続けている状態よりは、ずっと建設的だと思います。

実際に、世の中には、気持ちの持ちようだけでは解決しにくい事柄も多いですから、問題の(解決の)難しさを、自分が再確認することが、最初の一歩として有効となることもあるのです。

ただ考え続けて、時間がたって、思考に費やす時間切れとなり・・・、そのまま、別の作業や家事などにうつっていき、思考のスタートから、終了までの間に、思考が右にいったり左にいったりして、どうしよう、どうしよう、となっているだけで、どこにも進んでいない、という状態であいまいに思考を終えると、「なかなか決まらない思考の仕方が、習慣づいてしまう」ことになると思うのです。  

考えても決まらない、考えても答えがでない、という人は、「決まるための考え方を知らない」「答えを出しやすい考え方をしていない」人が、多いように感じます。

逆の言い方をすると、決まらない考え方、答えがでにくい考え方で、時間を費やして、迷路に入り込んでいるケースが多いのです。

「そのつど、最終確定ではなくていいので、暫定の、その時点でのまとめをしたところで思考を終える」という習慣を付けることは、意外に効果があるので、ためしてみてください。

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2012年7月29日 (日)

親は、いつまでも若くはない。

スピリチュアリズムにおける、家族という血縁のご縁というのは、それぞれ別の個性をもった、別のグループソウルに属するたましいが、今回の人生において、共通した学びがあるために、同じ学校に入学して、家族という単位を構成した集まりです。

そういう繋がりですから、性格がまったく違っていたり、どうしても気が合わないとか、好みや価値観が違うこともあります。家族だからといって、無条件で分かり合えるとは限りませんし、仲が良い家族もいれば、そうでない家族もいるというのが、実際のところです。

血縁であれば、無条件の、絶対の愛情があるはず、と、私たちは、どこかで思ってしまいます。血縁というのは、絶対の強い繋がりである、と、そのように、考えてしまいがちですが、それは、現世だけを切り取って考えた場合であり、スピリチュアリズムの観点からすれば、今回の家族は、今回の人生における、同じ学校の仲間、という、繋がりに過ぎません。

それでも、血縁という繋がりは大きく、「肉親の情」というものが作られ、それは、一般には、大きな愛情となる場合が多いといえます。

けれど、情の深さがどのくらいあるか、というのは、その人の個性により差があります。誰もが、ドラマに出てくるような、愛情いっぱいの幸せ家族、のようにはならず、どこの家も、なにかしら、問題を抱えているというのは、実際のところではないでしょうか。

人間関係の中でも、家族との関係というのは、血縁、という深い繋がりがあるので、問題点がクローズアップされやすく、そしてお互いに、「家族なのだから、相手が自分のことを分かってくれて当然」という前提で考えてしまうために、上手くいかないときの、関係のこじれ具合も、大きくなりますし、「親なのだから、無償の愛情を、子どもに注いでくれるのが当然」という思いが、少なからず誰の心にもありますので、親に対する不満の気持ちというのは、なかなか、解消されにくく・・・、そのまま年月を重ねてしまうこともあります。

大人になって、理性で物事をとらえていけるようになれば、上記のようなことも頭では分かるとはいえ、子どもの頃に、自分を庇護してくれるはずの親との関係がしっくりいかないと、子どもにとっては、もっとも不安定な状況に、長期間さらされて緊張を強いられるわけで・・・、大人になって頭では分かっても、心が、なかなかついていかないのも、当然でもあるでしょう。

それでも、その気持ちを乗り越えて、自分の幸せをつかんでいける人もいれば、ずっとその思いにとらわれて、親を恨み続けてしまう人もいます。それだけ、子どもの頃の苦しさが大きかった、とも言えるのでしょうけれど、恨みを抱えたままの人生を過ごすのは、そこでさらに、自分を苦しめてしまうことになると思います。

自分が若いうちは、親もまた若いでしょうから、ときに、感情をぶつけあったり、衝突したりするのも、もしかしたら、そういう行動も必要なのかもしれませんし、お互いに、相手のそれを受けとめることもできるでしょう。子どもの立場から、当時の親の未熟さについて、不満だったことを伝えていく、という行為に、ある種の正当性も、存在するようにも思えます。

しかし、自分が年齢を重ねていけば、当然、親もまた、年齢を重ねていくことになります。若いころのように、感情をぶつけて、当時の不満をぶつけていく行為は、親にとって、うけとめられる許容範囲なのか、子どもという弱い立場からの主張は、自分が大人になった今でも、正当性が存在することなのか、その点は、考えていく必要があるのではないでしょうか。

こんな話を聞いたことがあります。

以前から、妻の父と、気が合わなかった男性がいました。長いこと、何かと意見があわなくて、とくに仕事にたいする価値観が真逆だったそうです。男性にとって、仕事というのは、一生の大部分の時間を費やす要素ですから、義父が何かと、仕事の話で絡んでくるのが気に入らない気持ちでいました。

いつもは、それでも、あまり反論はせずに、なんとなく話を聞いていたのだけれども、あるとき、また、義父が仕事の話で絡んでくるので、そのとき、自分にお酒がはいっていたこともあり、徹底的に論破をして、義父の言うことひとつひとつに、理屈で対抗して、言い負かしたのだそうです。

しかし、後になって、お母さんに泣かれたそうです。

「あなたの言うことは、どれもみな正しい。お父さんが間違っていて、あなたのいうことが事実なのだと思う。でも、もう仕事を定年して、これから人生を終わっていく人に対して、ああいう言い方をしないでほしい。あの人は、娘の父で、あなたの妻の父なのだから」と。

その話を聞いて、その男性は、頭を殴られたような衝撃を覚えて、自分の言動を反省した、と。

このケースは、義理の関係のものですが、「こういうこと」が起こってしまうのって、いつまでも、親を自分と対等か、または上の存在だという思いがあるため、ではないでしょうか。子どもにとって、親はいつまでも親なので、自分が成長して、親も年をとる、という、当たり前のことを、忘れてしまうため、だと思うのです。

大人になってもなお、親を許せない気持ちで、親を責めて、あのときの自分に詫びてほしい、反省して改めてほしい、という気持ちを持っている人に、この件を考えてみてほしいのです。

あなたの目の前にいるご両親は、当時の、まだ若くて元気いっぱいだったときと、かわらない存在でしょうか。年齢を重ねて、人生の折り返しを過ぎた男女、ではないでしょうか。

年齢がいけば、いろんな部分が衰えます。肉体だけではなくて、精神面も、難しいことを考えられなくなったり、頑固になったりして、若いころのような柔軟さや賢さは、ゆっくりと衰えていきます。

自分の悔しい気持ちはあるとしても、「親が、子どもを大事にしてくれなかった」という不満があるなら、自分は、同じことをしないように、「子どもが、親を(考慮しなければならない年齢になっている時期に)思いやっていない」という、同じことをしてしまわないように、どこかで、気持ちを切り換えていくことも大事だと思うのです。

それは、親のため、ではなく、自分自身のために、です。

肉親というのは、情が絡み合うので、揉めてしまうときは、本当に複雑に、とことん揉めてしまう関係になりやすいです。頭では分かっていても、感情がついていけない、恨みは解消されない、というお気持ちも、理解できます。

当人にとっては、本当につらい、他人にはわかり得ない、さまざまな感情と苦しさがあると思います。

だから、私は、「こうしなければならない」「こうすべき」とは、何も申し上げませんし、思ってもいません。

しかし、この世での人生も、いつかは終わります。そのときに、和解すればよかった、和解はできなくても、せめて自分だけは寄り添っていけばよかった、という、後悔にはならないように・・・と、そのことだけは思います。

自分も年齢を重ねる以上、親も、いつまでも若いままではない、このことを、親とうまくいかない方に、あたらめて、考えてみてほしいと思いました。

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2012年7月28日 (土)

自然霊が、私たちの指導霊になることはあるのか。

自然霊とは、「この世に姿をもったことのない霊」のことを言います。つまり、以前は、人間だった霊のことではありません。

スピリチュアリズムに関心を持っている人にとって、一般的にわかりやすいのは、龍とかお稲荷さん(狐)の霊などでしょうか。またはフェアリー(妖精)なども、自然の霊、つまり、人霊ではない霊、です。天使、なども、同様に、自然霊の呼び名のひとつ、と考えていいでしょう

私たちの、この世での学びをサポートするのは、「グループソウル」という、たましいの縁で繋がっている、親和性の深い霊が、その役割を担うものですが、スピリチュアリズムでは「指導霊」とい名称がつかわれます。もっと広い意味で、「守護霊」とまとめられることもあります。

これらの呼び名は、こちらの世界で、スピリチュアリズムを研究する人間達が、理解のために「便宜上」付けた呼び名であって、霊のほうから、私たちは○○霊である、と、名乗ってくるわけではありません。

わかりやすく、ざっくりとまとめると、以前にこの世で肉体をもって人間だった人生を経験している、霊、たとえば、武士の霊とか、お坊さんの霊とかは、「人霊」で、竜とか、天使とか妖精などと名称を付けている霊は、広い意味で(人間の霊ではない、という意味で)すべて、「自然霊」と分類することができます。

人霊とか、自然霊とかいう区分けは、たとえば、男、女、東洋人、西洋人、のような、「タイプ」であって、指導霊とか、守護霊とかいうのは、たとえば、課長、リーダーとかのような、「役割」の分類、と考えていけばわかりやすいでしょうか。

通常、私たち人間の、指導霊をになう、親和性のある霊は、やはり、もとは人間だった霊の、お坊さんの霊や、武士の霊であることがほとんどです。

が、中には、自然霊も、その構成の中に、入っている人をたまに見かけます。たとえば、稲荷(狐)の自然霊が、指導霊のような形で、導いていることがあるのです。

それは、狐という動物の霊、ということとはちょっと違っていて、いわゆる「ご眷属」というのでしょうか、本来、姿形のない、最高級の自然霊?ともいえる神が、目に見える形として、動物などを遣わすことを指す言葉ですが、そういう、ご眷属のエネルギー体、とでもいえばいいのでしょうか、そういう霊が、いることもあるのです。

自然霊の指導霊?は、人霊の指導霊とは違って、人間的な感覚での、言語のメッセージのようなものは、とくにもっていなくて、おそばで導いていらっしゃる、という感じで、文章化してお伝えするような内容は、特にない、というケースがほとんどです。

先ほどの霊でいえば、狐のご眷属霊が後にいらっしゃる方であれば、わりと衣食住に恵まれやすいとか、物質的なものにはあまりこまらない、という特徴を持っていることも少なくありません。

稲荷神社というのは、農耕や商業の神様といわれている存在を奉っているところですので、そのエネルギーを帯びている霊がいらっしゃると、そういう影響が出たりすることはあるのです。

江原さんの書籍によれば、守護霊を細かく分けると、指導霊の他にも、(スピリチュアリズムの上で)いろんな分類があって、中には、支配霊と呼ばれる役割の霊がいて、この役割は、自然霊が担っていることが多いのだそうです。自然霊は、私たちの指導霊になることは少なくて、支配霊になることのほうが多い、と。

そこから推察するに、(私は、支配霊というのは、どのように把握すればいいのかわからないので、そこは分かりません)、きっと、私たちの誰もが、親和性の深い自然霊は「いる」のだと思います。

しかし、その霊は、ずっと後に控えていて、とくに前面に出てくることは役割上なくて・・・、でも、中には、その(誰にでも、深いところまで探れば、存在するのであろう)自然霊が、わりと前面に出てきて、指導霊的な役割を果たすケースもある、ということなのではないかと、そんなふうに理解をしています。

私の記憶では、以前の、オーラの泉で、劇団ひとりさんがゲストに出たときに、江原さんが、ひとりさんの守護霊は、宇宙生命体みたいな自然霊の存在、とか、そういうことを言ったんですね。つまり、宇宙人である、と(笑)。その瞬間、スタジオは、しーーーーーーん、となって、国分さんも、かなり目が泳いでいたような(^^;)、そんなことがありました。

ひとりさんは、とても才能あふれる方で、そういう意味では、宇宙人?の守護霊であってもびっくりはしない?のですが、(人霊の守護霊がいない、というわけではないと思います。霊がひとりだけ、ってことではないので)、才能がある分、かなり個性的で、変わっている感じもしますよね。彼は芸能人だからお仕事的に、そういう才能がちょうどよいのだと思います。

でも、人それぞれ、今回の人生における学び、カルマは、違っていますので、その学びに見合った霊が、導く役割をになっていきますので、自然霊がその役割の中に含まれている、というのが、素晴らしいとか、優れているとか、そういう優劣とは違うのです。人それぞれ、自分の学びに見合った霊が導く、という仕組みですから。

そして、親和性のある霊のつながりを、深いところまでとらえていけば、誰もが、自然霊ともご縁はあるのだと思います。

タイトルの、「自然霊が、私たちの指導霊になることはあるか」という設問に対する答えは、

一般には、人霊が多いが、中には、自然霊が指導霊的役割を果たしている人もいる。しかし、それは、その人の学びの種類に合わせてことであり、良い悪い、という優劣があるわけではない。そして、あえて前面に出てくることはなくても、深い繋がりまで遡っていけば、誰もが、親和性のある自然霊の存在が、遠くで見守っている、という感じのまとめになると思います。

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2012年7月27日 (金)

理解が深まるために必要な「時間」「期間」を受け入れる。

理解の深まりは、どこまでも終わりがないものです。表面だけの理解は一瞬で出来ても、深いところまでの理解には、時間が必要です。

自分が成長するまでの時間、たくさんの経験をするための時間、同じ出来事を違う視点から見る機会を得るまでの時間は、必要なものです

早く到達するのが良いことばかりとは限りません。時間を掛けてこそ分かる領域、というものがあります。

日々、さまざまな経験を積み重ねている中で、無数の「経験」をしていきます。それらの経験を通して、いろんな事に気づき、学び、理解をしていき、私たち人間は成長して行く仕組みになっています。

しかし、単に、出来事を経験した、というだけでは、学べる範囲は狭くなります。経験から、さまざまな分析をしたり、思考を重ねたり、過去と比較したり、または、その出来事の関わる人とのやりとりの中に、広く大きな学びが含まれています。 そして、学びが大きくなるほど、矛盾を感じたり、不愉快な感情になったり、比較をして苦しんだり、さまざまな思いが付いてまわるようになります。

私たちが、この世で味わうすべては、必要だからこそ起こる、大切な要素であり、無駄なものはひとつもありません。苦しい感情や思いが出てくるとしても、そういう葛藤があるからこそ、違う見方ができたり、なんとかして打開策を見つけようと工夫をしようとしたりして、視野が広がっていきます。視野が広がると、その分、見えてくるものが増えていき、理解も深くなります。

それらの一連の経験をするためには、どうしても「時間」が必要です。この世で生きる上で、経験を積むには、時間を費やすことになるからです。

思考での理解が進んでいる人ほど、経験のための時間が、もどかしくなる傾向があります。

思考はどんどん進んでいけても、その思考のとおりに実際の行動をとるには、思考に掛ける時間の数倍~数十倍がかかります。思考力がある人ほど、この期間の進み方が「遅い」と感じてしまうからです。

頭では分かっているのに、現実が進んでいかない、展開までに時間がかかる、というのは、思考の力が強い人ほど、苦しみを感じるものです。

しかし、それらも、受け止め方を変えていけると、逆に「楽しみ」に転換できることもあります。

たとえば、旅行に出掛ける際には、1泊二日よりも、3泊四日のほうを、望む人は多いと思います。長いほうが、望ましい、と思っているからです。なぜ、旅行に対して、長いほうがいいと思うか、といえば、そのほうが、いろんな経験が出来て楽しめるから、です。

また、好きなテレビや映画を見ているときには、「もっと長く見ていたい」という気持ちになりますよね。楽しいことは、「もっと早く進んで、終わりたい」とは、受けとめないものです。

日常のさまざまな出来事にも、そのような考え方を当てはめていけます。「人生という旅」における経験を、味わっていこう、楽しんでという広い受け止め方をしていくと、きっと、もどかしさは薄れていくでしょう。

そのことに関わっている中で楽しみを感じられれば、時間が掛かることもまた楽しい、と、そう思えますよね。

子どもの頃にはわからなくても、大人になって、その意味が分かった、という経験が誰にもあるはずです。それもまた、自分が「時間を掛けて」成長したからこそ、到達できた領域です。

この世で生きる以上、どうしても、時間、期間が必要ならば、それを味わい楽しむほうが、より豊かな心を育てることができる、と、受けとめていきましょう。

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2012年7月26日 (木)

仕事場は、学校ではない。

これは、私の守護霊が、よく使う表現です。なので、リーディングの際にも、この表現を使っておつたえするケースは、結構でてきます。

学校というのは、「自分が、お金をはらって、勉強をする場所」です。

会社とは、「自分が、お金をもらう場所」です。

この違いをしっかりと理解していないと、仕事上での不満の思いがあふれてしまいます。

学校で、自分がお金を払っている状態は、自分がお客さんですから、大事にされます。分からないところは教えてもらえますし、勉強をしたくないとか、思っているとおりの内容ではなかった、という意味での不満はあるとしても、それほど理不尽な目にあうことは少ないでしょう。

しかし、会社は、学校ではないので、「自分が、お金をもらう」ところです。自分は、お客さんではありません。自分が、お客さんから、お金を稼ぐところが会社です。お金をいただく、というのは、たとえそれが一円であっても、大変なことですから、苦労もあるでしょうし、ときに理不尽な目にあうこともでてくるでしょうし、学生のときのような気持ちでは、なかなかうまくいかないこともあります。

学生のときは、自分がお金を払って、生徒の立場を確保して、そして提供されるサービスをうけて、その中で、どのくらい頑張って勉強に取り組んでいくか、というのは、生徒の考え方しだい、だと思います。たくさん勉強して成績を上げるも、逆に手を抜くも、(知識が身につかなくてもいいなら)自分の好きなようにできますよね。ある意味、自分がお金を払って、自分が分かった上でそうしているからこその、自由意思に任されている、とも言えるでしょう。

しかし、会社の場合は、自分はお金をもらう立場ですから、「頑張るも、手を抜くも、自分のことなのだから自由」とは、なりません。労力を提供して、お金をいただくのですから、お金をいただいただけのことは、しなければ成り立ちませんよね。

学生から、社会に出て働く、ということは、「お金を払って、お客さんでいられた立場」から、「お客さんの要求を満たして、自分がお金をもらう立場になる」ことでもあります。お金をいただくためには、それに見合った労力を提供することは当然で、自分が悪くなくても、怒られたり、謝らなければならない場面だって、出て来ることも、あるかもしれませんが、「そういう部分も含めて、仕事」なのだと思います。

ですから、お金をいただく立場になるということは、割り切らなければいけない部分も出てきます。

「正しい」「正しくない」「どっちが悪い」「相手のほうが悪い」という点だけでは、計れない、会社としての力関係があったり、立場の上下があったりして、悔しさや不愉快さも出てくることもあるかもしれませんが、それをすべて我慢しろといっているのではなくて、「(お金をいただくための)仕事だから、そういうこともある」という、受け止め方が、大事だと思うのです。

そして、「そういうこともある場所」の中で、しかし、流されずに、自分の信念を貫いて、取り組んで行ける人が、「良い仕事が出来る人」に、なれるのではないでしょうか。

学校には学校の学びがあり、仕事には仕事の学びがあります。

仕事は、好きな人や気が合うひととだけ、つるんでいるわけにはいきませんので、苦労もありますが、しかしだからこそ、学びになることも多いのです。苦手な人とも、なんとかうまくやっていかなければならない、という環境は、大いに自分を鍛えてくれます。

仕事場では、自分はお客さんではない、ということ、そして、すべては学びになり、自分が成長していくことを意識してみると、今まで不満だと思っていたことへの、こだわりは、少しだけ、薄れていくのではないか、と思います。

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2012年7月25日 (水)

転換期の捉え方と付き合い方。

私たち人間は、この世で、さまざまな出来事を経験することから、いろんなことを考えたり感じたりしながら、自分のたましいを成長させていく、という学びを経験しています。

その際、今回の人生はこういうことを学ぼう、という大枠の内容を決めて、自分が実際に生まれる時代や国や家族や性別などを、自ら選んで、しかし、生まれてしまうと、そんなことはすっかり忘れて(笑)、私たちはこうして、日々悩んだり苦しんだり、理不尽に思ったり、不公平じゃないかと怒ったりしながら、過ごしているわけですね(^^;)。

しかし、ある程度の大枠の学びは決めている、といっても、細かい部分の何もかもが、決まった筋書きになっているわけではありません。日々、積み重ねられた出来事が、いろんな形で未来への影響として繋がっていき、まさしく今、その要素となることが作られていくので、流動的な部分も大いにあるのです。

そうして、変化の連続、その都度いろんな要素が交差しあう流動性をもった、ひとときとして、動きもなく変化もない状態、とはならない、私たちの人生が存在するのですが、その中でも、数年おきくらいに、「転換期」と呼ばれる時期がやってきて、状況が大きく動いたり、さらに向上するための、シフトアップをさせられたりするようになっています。

そういう時期にさしかかると、とても眠くなったり、懐かしい人との再会が次々繰り広げられて、過去を振り返る機会を持たされたり、または、いろんなものが次々壊れたり、馴染んだものと疎遠になるなどして、「次」へと促されていくような、印象的な出来事が起こっていくようになります。

私が多くの方を拝見して統計上思えるのは、その時々の、ご本人の成長度などにより前後はするとしても、だいたい、2年半から3年くらいサイクルで、ひとつの学びの時期を終えて、次へと移り変わっていく、という流れがつくられていく場合も多いようです。

もちろん、それ以外のもっと短いサイクルでも変化はなされていますし、もっと大きな、人生に数度の転換期、というものもあると思います。(それらの、「どこ」を「転換期」ととらえるか、により、解釈にも違いが出てくると思われます)。

いずれにしても、私たちの人生は、変化の連続です。常に変化していて・・・、同じでいたいと思っても、同じではいられないのが人生である、とも言えます。

仮に、その出来事が、自分のたましいが、生まれる時点で決めてきた、想定内の出来事であって、決まった筋書きどおりに、決まったタイミングで展開したものだとしても、人間としての自分は、そんなことは覚えていないのですから、自分にとっては、びっくりするような大転換、となりますよね(^^;)。

転換期とは、「変わり目」です。次のサイクルへと、そろそろ流れが切り替わっていく時期ですよ、という、お知らせを含めた、準備の時期でもあります。

季節は、私たちが意識しようとしまいと、願おうと、願わなかろうと、そういうこととは無関係に、春から夏になって、秋の次は冬になっていく、という、自然の摂理です。

転換期もまた、季節が巡ってくるように、誰にでも関わってくる、「仕組み」です。

このままでいたいのに、今のままで満足しているのに、派手なことは望んでいない、慎ましく過ごしていたいだけなのに、なぜ、変化が起こるの?と思っても、それは、ずっと同じ季節でいられないように、受け入れていく必要のある、自然の摂理であって、真理の仕組みなのです。

「なぜ、ずっと夏のままでいられないの?」と思っても、「秋のままを持続したい!」と思っても、それなりの変化は、生きている以上、避けることはできません。

たとえば北海道は、梅雨がありませんから、冬の雪解け水がなくなったら困るので、ずっと夏のまま、では、生活に支障をきたします。

私は、冬が大好きで、雪も大好きだったのですが、・・・骨折で大怪我をしてからは、次の冬がくるのが恐怖です;。でも、いくら私が恐怖心を抱こうと、抱くまいと、そんなこととは無関係に後数ヶ月したら、確実に冬はやってきます(^^;)。

季節も、突然めぐるわけではないです。「夏」という同じ時期が続いていて、秋への切り替わりの時期に、大きな変化があらわれて、意識しやすいので、切り替わりの時期が「あるように見える」だけであって、実際には、少しずつ、秋へと向かっているわけですよね。

転換期も、目立って意識しやすい出来事が起こりやすいので、その時期に唐突に大転換したように思えても、毎日じわじわ変化してきたことの、延長上に展開する、目立ちやすい時期であって、季節の替わり目と同じ仕組みなのです。

あまりにその変化が大きいと、受け入れられない気持ちになったり、自分は悪くないのに思い通りにならない被害者だ、と、誰かを悪者にしたくなったり、なんとかして、今のそのままを変わらずに保ちたい、と、変化に抵抗しようと力を掛けてしまったりもします。

季節が変われば、服装を変えたり、行動を変えたり、または、その時々の旬の食べ物を楽しんだりして、生活のスタイルを合わせていくように、人生の変化も、「そういうもの」として、受けとめ、その中で、存分に自分らしさを発揮して、味わい楽しむくらいの気持ちで、うまく、適応していけたら一番よいですね。

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2012年7月24日 (火)

他人を言い負かすと、具合が悪くなってしまう?

怒りでいっぱいになったり、ひとつの出来事に思い強くすると、消耗し過ぎて疲れてしまうことがあります。

しかし、そういう意味での消耗とはまた別の感覚で、他人を言い負かしたり、他人のミスを指摘することで自分の正当性を主張した後に、なぜか、体調が悪くなってしまう経験をしたことはないでしょうか。

この仕組みというのは、強い感情でいっぱいになることで、消耗して、自分のコンディションが下がってしまうことや、対立したときに、相手を尊重することなく、自分の主張だけを(自分が正しいとしても)強く行ったことにより、理性がなくなって、感情にとらわれてしまう、という、やはり、コンディションが下がったことも、少なからず影響しているのですが、それ以外にも、エネルギーレベルでの別の作用もあるためです。

言い合いになったり、対立になったりするときに、通常は、どちらが一方「だけ」が悪いということはなく、どちらにも、それなりの原因があったり、または立場上の見方の違いからの認識の差が影響してのことで、どちらにも、その人なりの言い分はあって、100対ゼロ、ということはまずありません。

けれど、そうかといって、すべてが、50対50にもなることは少なく、相手が一方的にすべて悪いとはいわないが、もちろん相手にもそうする理由があるとはいえ、しかし、一般的・客観的に見ると、どう解釈しても、相手の言動のほうに、大部分の原因があり、どちらかといえば、自分は巻き込まれている、というケースもありますよね。

そういうケースにおいて、「相手を言い負かした形にになった(どちらかといえば、自分が勝ったような形になった)後に、自分の体調が悪くなる」という状態を招くことが、少なくないのです。

相手がだらしないとか、きちんとしないとか、約束を守らないとかの事情がある場合、主張する自分のほうが、立場が強気になれます。自分の言っていることが、世間一般で考えたところの常識に叶っていて、相手がそこから外れているから、自分の主張は不当ではない、という思いがあるからです。

そのため、どうしても、強い態度で、相手に向かうことになりますし、相手のほうもまた、その人なりの言い分はあるとしても、やるべきことをきちんとやってない、という負い目があるから強気には出にくく、自分のほうが優勢になりますよね。

そういう対立というのは、優勢になった自分(相手を言い負かして、勝ったほう)が、相手のエネルギーをうばうような形になり、相手のほうは、エネルギーをとられるような、主従、上下、のような力関係になります。それは、例えではなく、実際に、そのように、エネルギーが動く(移動する)のです。

うばったエネルギーはどうなるか、というと、自分の中に取り込むことになります。そのため、相手は、エネルギーを奪われるので、活力がなくなって弱気になり、エネルギーをうばったほうは、エネルギーが増えたので、満たされて、活力がみなぎったかのような状態になります。

言い負かした後に、「してやったり」のような、満足した思いなるのは、そうして、自分のエネルギーが増えていて、底上げが起こっているため、でもあるのです。

相手を言い負かしてやろう、としているとき、最初はそのつもりがなくても、だんだん、そういう気持ちが出てきたときには、自分自身も感情に駆られて、理性をなくし、少しずつ波長が下がってしまうものです。

ただでさえその状態なところに、さらに、プラスアルファーの原因がからんできます。それが、相手から、奪った形になった、エネルギーの作用です。

なぜなら、そもそも、対立の発端となっているのは、きちんとしていない、とか、約束を守らないとか、責任を果たさないとか、そういう理由があってのこと、ですよね。つまり「そういう相手」の、きちんとしていない状態でのエネルギーを、うばいとって、そして自分に取り込んでいるわけですから、・・・それは、調子が悪くなることもあり得る、とわかると思います(^^;)。

でも、相手が、自分にエネルギーを勝手によこしてきたわけではありません。言い負かして、強気で感情的なまでに主張をする、という、自発的名行為によって、なされた結果であり、それは、自分のせい、ですよね。

どんな場合でも、自分が正しいと思っても(そして、それは客観的に正しいと思われるものであっても)、何でも主張すればいいわけでもない、正しいからといって、感情的に攻撃する行為が正当化されるか、といえばそれはまた別の問題で・・・、仮に相手に全面的に非があろうとも、言い方や態度には、心掛けていかなければならない部分がある、ということを、その仕組みが、教えてくれているのではないでしょうか。

最初は、相手の言動をたしなめよう、という動機でスタートしたやりとりのはずが、だんだん感情的になってくうちに、相手に向かって、(対立している理由とは別の)自分のストレスを発散するという、歪んだ「楽しみ」を見出して、エスカレートすることもあると思います。

そういう部分は、相手には関係のない、自分自身の問題なので、やはり、自分がしたことが自分に返る、というカルマの法則で、言い負かして、相手をへこませて、勝った・・・はずが、自分が体調が悪くなる、という形で、学ばされてしまうことになるのだと思います。

狭い範囲での「正しさ」は、ときに、広い視野をとざし、バランスを悪くしてしまうこともありますので、常に自分を省みて、改善するところは改善していく、という素直な姿勢で、その上で、主張すべきことは、その場や相手と自分の関係性にふさわしい形で伝えていく、という、使い分けが大事なのだと思います。

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2012年7月23日 (月)

複数の価値観の中で、もっとも「重い」ものは、自分の内側にあるべき。

物事を判断したり、決断したりする価値基準を、どこに置いているか、というのは、さまざまな表現で語られます。

たとえば、「自分が何をしたいかが大事であって、他人からどう見られるかを意識してしまうと、自分らしさが損なわれる」などと、価値基準を、自分の「外」に置いてしまうと、常に他人を気にしながら生きていくことになるので、自分を基準にする大切さを説いているものはたくさんありますよね。

たったひとつの価値基準で生きている人はいなくて、誰もが複数の、ときに、その両立が矛盾しているような(^^;)、いろんな判断基準をもっているものです。それもまた、個性であり、どれが正しいとか、間違いという、○×を付けられるようなものではなく、「複数の価値基準を、その場により使い分けて、うまく適応している」のが、私たち人間の在り方です。

複数あっていいのです。ですから、最初の例として書いた、「他人からどう見られるか」を、基準として持っていても、いいのです。というより、他人からどう見られるかを、まったく考慮しない大人がいたら、別の意味で、困ってしまいますよね;。

他人からどう見られるか、を、もっとも比率の高い基準として、自分自身の重要度を下げてしまうのは、改めたほうが望ましいですよ、というふうに、とらえていけばいいと思います。

では、なぜ、価値の基準が、自分の外側にあると、よくないと言われるのか、内側が望ましいのか、というと、「物事を判断するための、基準点が一定しない」からです。

たとえば、おきあがりこぼしというのは、本体の中心下部に重りがあるので、揺り動かしても、その場を前後左右にくるくる動くだけで、本体の位置はあまり動きません。重りのある位置は、しっかり固定されています。

その状態、自分の内側の、そして、しっかりと、下の方に「重さ」があれば、外からの刺激により動きがあるとしても、基準となるところはしっかりとしていられます。「自分」という器に、刺激をうまく加えていくこともできるのです。

もしも、起き上がりこぼしの、頭に重りがあったらどうでしょうか。それって、とても不安定で、足元がふらふらして、結構、位置が動いてしまいますよね・・・。不調和があって、オーラが浮き上がっている人は、重心が上部にきて、不安定になることがあります。

どちらも、自分の本体の中に、重りがあるとしても、収まりがいいのは、やはり、「重りが、あるべき位置に、ある状態」なのです。頭に重りがついている起き上がりこぼしは、・・・ちょっと不自然ですよね(^^;)。やっぱり、本来の姿が一番です。

他人からどう見られるかと気にしていたり、自分の中にないものにあこがれて、意識を外へ外へと、過剰なまでに向けている人の状態とは、中身が空洞の(重りなしの)起き上がりこぼしが、ハンマー投げをしているような状態です。重りが外にあって、そして、そちらに向ける意識の比重が高いから、どんどん回って加速をつけていきます。

本来のハンマー投げは、自分の体重があるので、自分が空洞ではありませんし、最終的には、重りを手から放しますので、自分の位置は、それほど動きません。

しかし、空洞のおきあがりこぼしが、ハンマー投げをして、くるくると加速していったら、・・・自分自身も、重りと一緒に、飛んでいってしまいます;。

自分があちらこちらと、飛んでいってしまったら、基準点がその都度移り変わるわけで、一貫したものがありません。

そうなると、いつまでも、本体の内側に、重りがつくられていかないのです。自分では、あちらこちらと、フットワークかるく、動いていくことで、自分の中をいっぱいにしているつもりでも、その都度、本来の自分のあるべき位置から飛ばされていて、そのケースごとの、何かは、自分の糧になるとしても、同じ基準値を深めていく重りの役割にはなりようもなく、共通しない、「いろんなもの」が、増えていくだけ、になることもあるのです。

しっかりと、自分の中心下部に重りがある状態での、ハンマー投げは、きっと有意義でしょう。重りを、外側に(でも、もっとも重いのは、内側です)置いて、その勢いを付けて、くるくる回ったら、自分の活動範囲を広げていけそうですよね。仮に、勢いがつきすぎて、重りに振り回されたとしても、そんなに極端な、自分を見失うほどの移動距離にはならず、それもまた経験として、生かすことも出来やすいのではないでしょうか。

外に価値の基準を置くことが、悪いわけではありません。内側「だけ」にとらわれるのがいいわけでもありません。

大切なのは比率であって、自分の内側への信頼が、もっとも重くあることを意識していけば、むしろ、外に価値観を分散しいくほうが、自分自身の器や活動範囲を広げていくという、メリットに繋がることもあるでしょう。

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2012年7月22日 (日)

「目的を見つけることが、目的」にならないように。

目的を持って生きていくことは大切ですが、「目的を見つけなくては!」という気持ちが強すぎるあまり、自分自身や、現状にふさわしくない目的設定を、してしまうことがあります。

目的が定まっていないと、そのための手段として、今取り掛かっていくことが見えてこないのは確かなのですが、何でも設定すればそれでいい、というものではありません。

目的は、自分に合っているものであることが大切ですし、また、(本来は)目的というのは、定めようするもの、というよりも、必要に応じて、定まるもの、ではないでしょうか。

たとえば、感謝の気持ちというのは、内から湧きあがってくるものであり、「感謝をするべき」というような条件からつくられるものではありません。

「身近なものにも、感謝をしていきましょう」という場合は、本来すでに「在る」ものを、意識してみましょう、ということであり、まったく感謝の気持ちが無のところから有を作り出せ、ということはではないはずです。

目的も、それと同じで、本来は、内から、意欲や願望として湧き上がってくるものです。

「目的を定めましょう、そうすることが有効です」という場合は、意欲があるけれども、それがまだあいまいではっきりとした輪郭を伴っていない段階にある状態において、「特定の目的」という方向付けをすると有意義になることが多いから勧められるものであり、何でもいいからまず決めるのがよい、という意味ではありません。

単純に「目的を、見つけよう!」という気持ちだけが強くなると、それはつまり、「目的を見つけるために、目的を探す」ことになってしまうので、それが自分に合っているのか、現状で可能な目的設定なのか、という観点からの分析が十分でなくなります。

そうすると、流行っているものや、分かりやすくて派手なものを、つい選んでしまうことになりがちで・・・、目的が決まっても、それを達成する手段が見えてこないならば、目的がはっきりしていない状態と、(現状、どう動いていくか、という方法が分からない、という意味では)ほとんど変わらなくなり、またそこから迷いの中に入り込んでしまう場合もあります。

目的を見つけたら、それで終わり、ではないのですから、目的をさだめてどうしたいのか、という、「その先」があることを考えてみれば、何の分析も考慮もなく、ただ、定めただけの目的は、あまり意味をなさない、と分かると思います。

自分、という、基点となる位置がはっきりしていてこその、そこから線を引いて、エネルギーの向かう先を定めていくのが、目的設定なのです。

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2012年7月21日 (土)

霊感が平均より強い人ほど、気をつけなければならないこと。

心身に不調和がある状態、とくに、心、精神の面という内面に、アンバランスが見られる場合は、その状態を反映して、オーラのコンディションも下がっていきます。

そのため、オーラが分かると、逆算的に、その人の内的な状態が(オーラの様子に反映しているために)把握することができる、というのが、いわゆる、オーラリーディング、というものの仕組みだと思います。

不調和があるときには、オーラが肉体からずれた位置にあるように見えます。言い換えると、オーラが、肉体という器の中にきちんと収まっていない状態、ともいえます。

オーラが、肉体から大いにずれていると、その人の意識は、肉体を通した、現実社会の把握のほうに向かずに、「霊の世界」へと向かいます。霊の世界という表現がわかりにくければ、見えない世界、エネルギーの世界、または、思考や感情や意識などの物質として表れない部分へ過剰に向かっていく状態という解釈でもいいでしょう。

以前に、オーラが浮き上がっている(ということは、肉体からずれている、ということです)人は、雑念が止まらなくなる、という内容の記事を書いたことがあります。

それも同じ仕組みで、オーラが肉体という器にしっかりはいっていない人は、思考や感情や意識の世界に、過剰に同調してしまうために、雑念が止まらない、という状態が作られます。

私たち人間も、肉体をもった霊的存在であり、霊である以上、霊的要素と関わりながら過ごしているのですが、しかし、肉体を持って、この物質社会であるこの世で、生きている間は、霊としてのさまざまな感覚は制限されていて、・・・というよりも、制限された環境をあえて選んで、その中での経験を学んでいます。

肉体を持っている状態での思考や意識は、この世の仕組みである「時間」というものに合わせて、最近の記憶や印象が鮮明で、古い記憶や印象は薄れていく、という差がついてきます。

ところが、状態がアンバランスになると、肉体で制御している意識の要素が、過剰に外側にはみ出してしまい、今考えなくてもいいこと、ものすごい過去の記憶やら、重要なこともそうでないことも、いっきに自分の意識の中にはいってきて、オーバーフローになります。自分が「肉体を伴った状態で、扱える容量」を超えてしまうのですね。

そこまでになると、多くの場合、体調も悪くなります。活力が、意識のほうばかりに過剰につかわれて、肉体面にまわっていかないからです。

ところが、平均よりも霊感が強い人は、(霊感は、誰にでもありますので、「平均より強い、弱い」という表現で記しています)、それだけ、扱える容量の器も、平均よりも大きいので、「アンバランスになっても、大きな不調和が外に表れにくい」という、いいんだか悪いんだか、よくわからない状態(^^;)が作られてしまうことがあります。

普通なら、オーバーフローになるところが、サイズの大きい器の中で、なんとか収まってしまうので、自分も周囲もその不調和に気づきにくくなってしまうのです。

それでも、いずれ、元の望ましい状態に戻っていけるなら、ほんの一時期そうなることは、誰にでも起こり得るので問題はないのですが、その状態が、長期化してしまうと、元の状態に戻すのはかなり大変になってしまいます。

平均よりも霊感が強い人が、肉体からオーラが浮き上がるような状態になって、思考や感情や意識の方面にひっぱられるようになると、器が大きいので、影響のされ方も大きくなり、雑念が次々に出てきたり、無作為に思考や感情が(時系列を無視して)どんどん自分に向かってくる状態を、「自分は、高位の霊と、通信をしている」と、思い込んでしまうことがあります。

高位の霊が自分に対してアクションを起こしているために、その状態が作られている、と、なんの分析もなく、真偽も疑わず、思ってしまうのです。

なぜなら、分析をするとか、真偽を疑うとか、そういうことは、理性で行うものですから、意識の世界に自分を無防備にさらしている状態の人は、理性が働きませんので、どんどん影響されてしまうのです。

その状態が長期化して、オーラがきちんと肉体にはいっていない状態が普通になってしまうと、こちらも以前に書きましたが、あやつろうとしている霊に憑依され、自分と本来の守護霊との「間」に、入り込まれてしまうこともあります。

そして、自分は高位の霊と通信をしている、という思い込みが、そのままスライドして、今度は本当に、霊との通信がはじまったりもします。・・・その相手となっているのは、守護霊との間に入り込んでいる、低い波長の霊です。

霊的な感性を磨くこと、霊的真理に関心を持つことは、素晴らしいと思います。が、それは、自分の現状の器の大きさに見合っていることが前提です。器からオーバーフローになると、思いもよらない類の不調和が出てしまうこともあるのです。

そして、上記のようなことは、「平均的」な人よりも、むしろ、「平均よりも霊的感性が高い人」のほうが、起こりやすい、という点がポイントです。小学生と中学生の勉強の難しさの違いのようなもので、後者のほうが、より大きな比率で、自分を律していき、好奇心に流されないことを、求められていくからです。

スピリチュアルな分野、霊の世界への、興味関心が(適度ならいいですが)過剰になってしまうと、意識が現実に向かなくなるので、どんどん、肉体との繋がりが薄くなり、あちらの方面だけに感化しやすくなり、そして隙ができて、大変な状況を伴って学ばされてしまうことになると思います。

だから、気をつけなければいけないんですね。まともなスピリチュアリストは、安易に霊的な方面への好奇心をあおることはしません。そういう危険性を、分かっているからです。

こういう場合、本来の守護霊はどうしているか、というと、・・・たぶん、多くの場合、「傍観」でしょうね。

守護霊の願いは、その人のたましいの成長ですから、その人本人が経験から学んで、より強い自力を備えていくために、あえて、何もせずに、気づくまでを見守っている場合もあるのです。

この世で生きている私たちは、誰もが未熟なたましいで・・・、だからこそ学んでいるわけですから、ときに、そういうことが、長い人生の中で、あってもいいのです。それらの経験を通して、真理が分かることもあるでしょうし、そういう経験をしてみないと、恐ろしさがわからないこともあると思います。

しかし、いつかは、その状態に気づき、自分の本来の波長を取り戻し、本来の守護霊からの導きを受けて、すべての経験を成長に繋げていくことが大切です。

今回の話は、ちょっと怖いかもしれませんが、実は見えないところでは、こんなことが起こり得るので、学びを見失わないことと、謙虚な姿勢を忘れずに、できれば、悪い影響から反面教師として学ぶよりも、良い影響を与え合うという形での学びが多くなるような、そんな生き方をしたいものです。

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2012年7月20日 (金)

自然霊とは?

自然霊とは、「この世に姿をもったことのない霊」のことを言います。

私たちの曾祖父母、祖父母などは、家系という縁で繋がっている「先祖霊」です。

私たちの、この世での学びをサポートしているのは、「グループソウル」という、たましいの縁で繋がっている、「守護霊」「指導霊」です。

これらの呼び名は、こちらの世界で、スピリチュアリズムを研究する人間達が、理解のために「便宜上」付けた呼び名であって、霊のほうが、自分達は●●霊である、と、名乗ってくるわけではありません。

私たち人間も、実は、肉体を伴っている、霊的存在なのですが、私たちを含めて、先祖霊も、守護霊も、指導霊も、通常、私たちが深い関わりを持つのは、「人霊」であることがほとんどです。つまり、この世で、人の姿をもったことのある霊となります。

自然霊とは、その点が違っていて、人の霊ではありません。 スピリチュアリズムに関心を持っている人にとって、一般的にわかりやすいのは、龍とかお稲荷さん(狐)の霊などでしょうか。またはフェアリー(妖精)なども、自然の霊、つまり、人霊ではない霊、です。天使、なども、同様に、自然霊の呼び名のひとつ、と考えていいでしょう。

人の霊というのは、通常、生前の姿で可視化されますが、霊そのものが、人の形をしているわけではありません。霊というのは、エネルギー体ですから。しかし、必要のあるときには、やはりこちらも便宜上、生前の人としての姿を伴って見せてくる、とも言えますし、人の姿のエネルギーを「備えている」から、そのように見えている、とも言えます。かつては、人間として、この世に姿があったわけですから。

しかし、自然霊とは、この世に姿を現したことがない霊なので、きまった形を持ちません。純粋なエネルギー体です。

それが、なぜ、龍の形になっていたり、狐の形になっていたりするのか、というと、人間のほうが、自然霊に対して、そのようにイメージを持っているので、そのイメージをつかって、可視化しているためです。

同じような性質の自然霊を、西洋では羽の生えたティンカーベルのような妖精のイメージでとらえていたり、それが、東洋にくれば、もしかすると、仙人のような姿に見えたり?していることも、あるいは、あるのかもしれません。

自然霊を考えるにあたり、誤解しやすいのは、自然霊の成り立ちと、人の霊の成り立ちの違いを、考慮しないことです。

どうしても、イメージの中で、人の形に近い姿をイメージして(たとえば、羽の生えた妖精のように)しまうためか、自然霊を、過度に擬人化してとらえてしまう傾向があるように思います。

自然霊には自然霊の働きがあって、人霊には(私たち人間も含めて)人霊の働きがあって、それらの作用がさまざまに入り組んで、学びの場がつくられているのが、この世という場所、だと思います。

自然霊については、ちょっと複雑な説明になるところもありますので、何回かに分けて、ゆっくりと書いていければと思います。私が忘れなければ(^^;)、続きをそのうち書きたいと思います。

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2012年7月19日 (木)

「自分が嫌い」と、思ってしまうのは?

「自分の存在が嫌い」と、思ってしまう人がいます。自分を好きになれない、自分に価値を見いだせないと、常に行き詰まり感を持ち、自分を成長させようというモチベーションも持ちにくくなり、なかなか、その状態が抜け出すことができません。

自分が嫌い、と思ってしまう人の多くは、「他人を信用していない人」です。そして、「自分のことを分かっていない人」である場合もあります。

「他人を信用していない人」が、なぜ、自分嫌いに結びつくか、というと、他人を信用していない人は、他人の言うことも信用していません。なので、他人が自分について語ること、「あなたって、こういうところがあるよね」とか「あなたは、こんなタイプなのね」という言葉のひとつひとつに、拒否反応を示してしまうところがあります。

あなたは、こういうところがあるよね、という言葉の、「こういうところ」は、否定や批判ではないものであっても、他人が言うことが信用できないので、全面的に嫌になってしまい、「他人から語られる、題材になりうる自分という存在が嫌」になってしまう人もいるのです。

自分で自分を知るのって、ちょっと難しいものですよね。なので、他人の言うことをすべて鵜呑みにしないまでも、多少は、第三者の評価から、または、他人との違いという比較から、自分を計っていくことはあると思います。

しかし、他人を信用出来ない人は、それができません。信用していない人の語ることを信用しませんから、結果、自分を計ることも難しいのです。そうして、「自分のことを、分かっていない自分」が出来上がってしまい、よく分からないことは、好きになりようがないので、嫌いという感情に拍車が掛かってしまいます。

つまり、自分を嫌いだと思ってしまう人の多くは、「自分のことを、よく知らない」のです。知らないから、価値を見いだせず、好きになる要素を見つけられません。

なので、そういう人達は、「自分が嫌い」というよりは、「自分を好きになっていない、好きだと思う要素を見つけていない=だから、嫌いである」となっていて、嫌いな要素が自分にあるから嫌い、とは、なっていないケースがほとんどです。

私は先ほどから、自分を嫌いだと「思っている」という表現をつかっています。それは、「嫌い」と「嫌いだと、思っている」のとでは、後者のほうが、事実とちょっと違うかも、というニュアンスがある表現だからです。

自分を嫌い、と言う人は、自分を実はよく分かっていないゆえに、一時的に「嫌いだと、思っている」だけであり、自分をよく知っていけば、大好きとはいかないまでも、別に嫌いだとも思わない、という状態には、なっていけるものです。

時間はそれなりに掛かるでしょうが、自分が嫌いと思いこんで過ごしていくのは苦しいですから、改善に取り組む価値はあると思います。

「他人が好きで、信用もしていて、でも、自分が嫌い」、というケースは、まずありません。ほとんどの場合、他人嫌いと自分嫌いは、結びついています。

他人が好きで、そういう人達と比較して自分に価値がないと思う、というのは、自分に自信がない、のであって、それは、自分が嫌いとは違うと思います。他人を好きだ、と思えるには、他人を好きになる自分、という立ち位置が必要ですから、自分の存在の全否定のような「嫌い」には、ならないものです。

自分が嫌いな人は、まず、その理由のひとつに、「他人を信用していない」ことが絡んでいる、と、認識することが大事です。理由をしっているのと、知らないのとでは、それだけでも、全体の理解が違ってきます。

そして、その改善方法として、「自分を知る」ことに取り組んでいきます。

「他人嫌いを直そう」とは、しなくてもいいです。なぜなら、ネガティブをポジティブに変換させるのは難しいからです。嫌いを好きにするのは、苦しいですし、感情が絡むことは、とても大変です。

それよりも前に、まずは、自分を知ることから、取り掛かるほうがいいでしょう。自分を知ることも、大変ですし、見たくない部分を見なければならない苦しさもありますが、他人が絡むよりは、自分の中で完結できることのほうが取り組みやすいでしょう。

そうして、自分を知っていけると、自分の存在に「価値」を見いだせるようになります。自分という存在には価値がある、という認識を積み重ねていけば、嫌いだという感情は薄れていきます。

そうすると、他人との関わりも変化していき、他人を信頼出来ない感情も、同時に薄れていき・・・、人生をもっと楽しめるようになるでしょう。

なぜなら、他人嫌いと、自分嫌いは、結びついているわけですから、どちらか一方が少しでも改善していけば、もう一方にも影響が及ぶことは普通であり自然だからです。

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2012年7月18日 (水)

最近、急に霊感が強くなったような気がする?

私たち人間は、「肉体をもった霊的存在」なので、誰にでも霊感はあります。といっても、見えたり、聞こえたりするだけが霊感ではないので、自覚していない人は多いですし、自覚があろうとなかろうと、必要な場面で、自然に使われていく感覚ですので、自覚がなくても特に不都合は生じません。

霊感の自覚の仕方にもいろいろありますし、その表れ方も、望ましい方面と、そうでない方面があります。

見えない形での導きや仕組みについて、理解が深くなって、鋭い分析力が身についてきた、という場合もあれば、未浄化な霊を見てしまうとか、憑依されてしまう、という形で、あまり望ましくない表れ方の場合もあるでしょう。

今回の題材は、後者のほう、憑依を受けることが増えてしまった、とか、未浄化霊をよく見てしまうようになった、というケースを取り上げていきます。

過去にも何度か書いていることですが、首の後側と、肩甲骨の間のあたりは、エネルギーが出入りしていく場所である、と言われています。

なので、その位置のオーラが、無防備な状態になっている人は、常に、さまざまなエネルギーに影響されやすい、と言えますし、逆にいうと、影響されているから、その部位のオーラがなかなか整わず、乱れてしまい、無防備な状態を作り上げていることにもなります。どちらが先、というのはなくて、両方が影響しあってループになってしまっていることが多いです。

その位置の状態が、整っていないと、容易に入り込まれて、影響を受けてしまうことになります。

オーラと肉体は連動していますので、オーラが整っていないときには、その部位の肉体にも、不調和が生じやすいですし、肉体に不調和があれば、オーラも整っていませんので、その乱れた部位から、入り込まれやすくなるわけです。

つまり、この二つの部位が、入り込まれやすい状態になってしまうと、霊的影響も受けやすくなります。

もともと、生まれつき、霊的エネルギーと馴染みやすい体質の人は、少なからずいるのですが、そこにさらに、上記のような不調和が生じると、二つの要素が掛け合わせとなって、大きな影響に繋がってしまうこともあるのです。

その人の年齢にもよりますが、だいたい、女性で、30代後半~、40代くらいになって、急に、霊的影響を受けやすくなった、憑依されやすくなった、という場合は、年齢による筋力の低下から引き起こされている場合が多いです。

女性は、一定の年齢を超えると、毎年1%くらい、筋力が下がっていくと言われています(鍛えている場合は別です)。

そういう、体力面での、変化の時期になると、影響の受けやすさが加速してしまう人が少なくありません。

首の後と肩甲骨の間がエネルギーレベルで干渉されやすい人は、その部位の骨がずれやすくなっているので、定期的に、カイロプラクティックなどにいくと、位置が戻っていくので効果的であることは、過去にも何度も書いてきました。

背筋が低下してしまうと、骨を引っ張って支える力も弱くなりますので、骨の位置も、ちょっとした刺激で、ずれやすくなっていくので、年齢が上がって、筋力の低下が顕著になると、その影響のされやすさも、格段に上がってしまい、悪影響に繋がっていると思われます。

なので、このケースに該当する人が、改善を図るならば、筋力UP、特に、背筋の低下を防ぎながら、体のケアをしていくことが効果的です。そうすると、筋肉というコルセットが、背骨をあるべき位置にきちんと支えてくれるので、影響されにくくなります。

で、タイトルに戻りますが、「霊感が急に強まったので、霊現象に遭遇するようになった」というよりは、体力が低下して、背中の筋力が弱くなったために、憑依現象が頻発するようになった、という説明のほうがしっくりくるケースも、中にはあるのです。

私は今、足の骨折による体力低下を回復するために、ジムに通っています。2ヶ月経っても、それもマイナスのスタートなので、怪我前に戻るのは時間が掛かるとしても、上向きになることは難しくないと思ったのですが、昨日のブログにも書いたとおり、体脂肪率も、体重も、まったく変化なし;で、めまいがしてきそうですが(笑)、

でも、自分では、少し、背筋が付いてきたような気がするんですよね、なんとなく。・・・数字上は、表れていないとしても(笑)。

で、そうなると、やっぱり、霊的な影響のされやすさが、多少ましになってきたように思います。回復までの時間が、以前よりも短くなってきたと思いますし、その原因として、以前と変わったことといったら、「運動をして、鍛えている」ことくらいしか、思い当たる要素がありません。

ジムにいくのは、かなり時間が取られるので、料金もそれなりに掛かりますので、なかなか、難しい人もいると思います。私も、足の怪我の件がなければ、きっと、行こうと思わなかったので、その気持ちもわかります。

日常のちょっとした心掛けで、筋力を落とさないように工夫すると、影響のされやすさは防ぐこともできますし、体のラインも整ってくると、自信に繋がって、気持ちが上向きになる場合もあると思いますので、出来る範囲で取り組んでいくことをお勧めします。

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2012年7月17日 (火)

ジムに通っています(4)

久しぶりに、体重計と体脂肪計をつかって計測してみたところ・・・

体重・・・変化なし

まあ、それはいいです。私が目的としているのは、筋力を戻すこと、筋力UPです。

筋肉というのは、脂肪よりも重いですから、筋トレを開始すると、最初のうちは、体重が変わらないか、もしくは(筋肉の分)少し重くなって、しかし、そこから、体脂肪率が減りだしていき、体重も減る、という順番になるのが普通です。

体脂肪率・・・変化なし

( ̄A ̄) ・・・ え?

( ̄A ̄) ・・・ 何故?

体重も、体脂肪率も変化なし・・・って、この2ヶ月の努力は、無駄だった、ってか?なんということ!!

体重はどうでもいいとして・・・、体脂肪までも変化なし、って・・・、それ、どうなってんの??こんなに頑張っているのに??どちらかが変化していれば、まだ納得もするのに、まったく変化なしって・・・; 

( ̄_ ̄)あ、そうか、これはきっと、

( ̄_ ̄)体脂肪計が、故障しているんだろうな。(← ポジティブ・シンキング)

と、気持ちを切り換えて、・・・当分、計測はしないことにしました。

体脂肪率の変化、ということは、筋力をUPさせつつ、全体の体重を絞っていくことでなされます。

脂肪だけを下げることは難しく、筋力を考えずに、ウオーキング等だけで体重を絞ると、脂肪も下がる代わりに、筋力も一緒に下がってしまうこともあるので、このバランスが難しいところです。

なので、中身を無視した体重だけの減少と違って、体脂肪率を下げるのは、そう簡単にはいかないことは承知していますが、それは、「普通の場合」だと思っていました。

私の場合は、慢性的なものではなくて、短期間の運動制限のために一気に筋力が落ちている、という、マイナスからのスタートだから、平均にまで戻るのは時間が掛かるとしても、「マイナスの位置から上昇傾向に転じることは、難しくはない」、と思っていましたが、一度落ちた筋力を戻すのは、これほどに大変だとは。

そんなことを考えて、がっかりしている私の様子をみて、ジムのスタッフさんが、話しかけてきました。

「リカコさんは、なんとなく・・・、見た目的に、筋肉が付きづらそうな体質に見えますねぇ」と。

( ̄_ ̄)はっ、やっぱり、さっき、整骨院の彼の言っていたことが当てはまるのか。彼は、一般論のように話していたけど、私のことを遠回しに教えてくれていたようです(笑)。

なんかもう、がっかりsweat02

でも、きっと、いつか結果はついてくるはず、とりあえず、今のままでは、歩くことはできても、走ることもできませんし、スキップもできないし、開脚もできないので、とりあえず頑張り続けるしかないです。

でも、ちょっと、改善してきた部分もあります。

私が今、ジムで使っている運動靴は、入院中に、リハビリ用に買ったものです。当時は、筋肉の拘縮により膝を90度に曲げることもやっとで、車椅子に移動するのも一苦労、という状態でしたので、靴を履くのが楽なように、と、一回り大きなサイズの、25センチを買いました。

で、退院してからも、その靴をはき続けていたのですが、足を動かせない、歩けない、というのは、むくみも出てきますので、25センチの靴が、ぴったりだったのです(笑)。

でも、最近はさすがに、大きく感じられてきて、つまり足のむくみが軽減する程度には歩けるようになりました。

まあ、目立った変化というのは、そのくらいなのですが(笑)、まだ当分、ジム通いは続けますので、スカイプでのリーディングは、今月以降も、火、木、土、に限定させていただきます。

数字の結果は、未だ見えて来ませんが;、でも、ジムに行くようになって良かったと思っています。

体の組織、筋肉の構成など、自分のトレーニングを通して体験的に分かった部分もありますし、ジムのスタッフさんや、整骨院の方から教えてもらったこととか、役立つものがたくさんあります。

そういう部分も、機会があれば、皆様にシェアできたら、と思っています 。

ちなみに、ジムのスタッフさんが言うには、運動を開始しても、体がエンジンが掛かるまでに時間が必要なタイプの人もいるから、もう少し様子をみましょう、と。その言葉を信じて、がんばるっ( ̄_ ̄★

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ジムに通っています(3)

さて、筋力回復のために、ジムにいくようになって、2ヶ月が経過しました。

病院のリハビリと同じスケジュールで、月、水、金の、週三回通っていますが、雨の日は行けないので、6月はなかなか進みませんでした。北海道は梅雨がありませんが、それでも、一年を通した比率では、6月は雨の日も少なくはないです(北海道比)。

雨の日は、傘をさしながら、杖をつく、という器用なことをしなければなりませんので;、それは現状、ちょっと無理、というのと、単純に、「水ですべるのが怖い」からです。そもそも、骨折は、氷の上ですべってひっくり返ったことから起こったので、私は「滑る」というのがとても怖いのです。

なにしろ、2ヶ月たって、一度も、ジムのお風呂を使っていません。「床がぬれている」という状態が、怖いからです。さらには、お風呂を使うと、そのためのバスタオルなどがいるので、荷物が多くなりますので、杖をついて歩いている現状では、荷物を増やしたくない、というのもあります。

骨は、3ヶ月経ったところで、ほぼ完全についている状態、となりました。しかし、その間に低下した筋力を戻していくのが大変で・・・、そちらに苦戦しています。

以前にリハビリの先生が言っていたのですが、骨折した場合に、骨が最も早くつくのは、指と肋骨だそうです。そして、一番くっつきにくいのが、私が骨折した箇所の、太ももの骨で、それは、血流の多さにより決まってくるのだとか。「太ももは、早くても3ヶ月」だそうです。

そういうこともあって、太ももの骨を骨折した場合は、自然にくっつくのが難しいので、手術をして、くっつけてしまい、筋力が落ちないように、直ぐにリハビリを開始するようですね。なにしろ、手術の翌日、おしっこの管も取れないうちから、すぐリハビリですからね(笑)。

しかし、「骨が折れているから、歩けない」のは分かるとしても、「筋力が下がってしまうことから、歩けなくなる」のは、予想外でした。それも、こんなにも大変だとは・・・。

先月、テレビで男子バレーを見ていたときのことです。解説者の方が「○○選手は、今年の初めに、足を骨折して手術をして、そのときの彼の足は、スポーツ選手の足と思えないくらいに痩せていたけれども、それからよくトレーニングをして戻してきたと感心した」というようなことをお話になったのですね。

私はそれを聞いて( ̄_ ̄)「へぇー、そういう人がいるのかぁ」くらいに思っていましたが、話をよくよく聞いてみると、その選手というのは、今、レギュラーで試合に出ている選手だったのです。

( ̄A ̄)「な、なんですと~?今年のはじめに手術をしたのに、もう、飛んだりはねたりして、力いっぱい試合をしている??」と、びっくりしました。

私は、ジムの中に併設されている、整骨院にもたまに行って、トレーニングを受けています。整骨と整体はまったく違っていて、後者は誰でも開業できますが(できる、というか、黙認されている状態、というか)、前者は、資格が必要で、開業にも届け出がいりますし、怪我の内容によっては保険がきくこともあります。

今の足の状態は、筋肉の拘縮による股関節の可動域制限があります。筋力そのものが低下しているのと、長期間(通常のようには)動かせないことから、縮んでしまうので、開脚がぜんぜんできない状態です。なので、あぐらがかけません。

今は、ここが一番の問題なのですが、解消するには、ストレッチを初めとする運動療法しかありません。

しかし、膝なら自分で動かせるけれども、股関節は自力で動かしにくいのと、どのように自主トレーニングをしたらいいのかも分からないので、私は、整骨院で、まったりとリラクゼーションを・・・というのではなく、「トレーニング」をしています。

柔道整復師になるには、学校に通って試験を受ける必要がありますので、リハビリの先生は、理学療法士という、また別の種類の資格になりますが、知識的に、やはり、そういう勉強をしている人、そして日頃、患者の体を触って経験を積んでいる人ですから、リハビリの先生に聞いていたことと同じようなことを質問しても、的確な答えを出してくれます。

話は戻りますが、ある日、整骨院で、バレーの話をして、「今年の初めに手術をした人が、すでに飛んだりはねたりしていた」という話をしましたら、

彼曰く、「骨折にも箇所により違いがある。リカコさんが骨折したところは、最も重い骨折の一つと言われていて、高齢者であれば、痴呆の心配をしなければならない、と言われているくらい(に、つまり、動けない期間が長期化する)」と。

いくらプロのスポーツ選手で鍛えているといっても、3ヶ月かかるところが、2ヶ月半になることはあっても、3ヶ月が、2週間になることはありえない。多分、手術してもしなくても付くような骨折でも、試合があるから早く直そうとして手術を選択した、とかではないのか、と。

そう言われてみれば、確かに、リハビリの先生も、高齢者以外で、この骨折の患者さんを担当したのは、僕は3年ぶりくらい、と言っていました。どうやって転んだら、ここの太い骨が折れるのか、とも言われましたしsweat02、同じ日に転んで救急車で運ばれた同室の患者さんは、私よりも一回り以上も年上なのに、私だけ、骨粗鬆症の検査をしたのも、骨折の箇所が、年齢的に普通は起こりにくく(悲しい・・・;)、やぱり、回復は、とても大変なんだな・・・と、そう思いました。

その彼が続けて行った言葉は、「でも、骨がつくのはそれほど違いはないとしても、筋肉の違いはあると思います。普段から鍛えている、というのもあるけれど、それ以前に、体質の差というのがあって、筋肉の種類と比率で、運動向きの筋肉がつきやすい人と、つきにくい人がいる、と言われていますから、プロの選手になるような人とは、その点が違っていると思う」と。

あ、そういえば、最近、体重も体脂肪率も計っていないな・・・。よし、久しぶりに、計測してみよう、と思いました。

>次に続きます。 。

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2012年7月16日 (月)

不倫の関係、既婚者の恋愛。

既婚者に恋愛感情を持ってしまう、自分が既婚者なのに、パートナー以外を愛してしまうことも、長い人生の中で、起こり得るものです。

私は、それらの関係のすべてが、「悪い」とは、思いません。もちろん、手放しで喜べるような「良いこと」とも、思いませんが、大人同士、当人同士がそれでよく、何があっても、自分達がすべての責任を負う、という覚悟の元で行うならば、それは、その人達の自由であり、他人が口を出すことではない、とも言えるからです。

この世において、私たち人間には、自由意思を尊重した「経験という学び」が与えられていますので、どんな行動をとるか、何を選択するか、すべて自分の自己責任における自由があります。

自己責任における自由、といのは、その行動をとることで、何が起ころうとも、自分が選んだことだから引き受ける、という納得のもとに決断や選択をする自由、という意味です。

既婚者も、人を好きになることは、あると思います。または、自分が独身で、既婚者に思いを寄せることも、あるかもしれません。その感情自体は、自然なものであり、悪いものではありませんよね。

きっと誰もが、心の中どこかでは、日常のさまざまな人との関わりの中で、パートナー以外の異性を、素敵だな、とか、良い人だな、と思ったり、会話や挨拶をするたびに、ちょっとしたドキドキな気分の、プチな恋愛モードを味わったりしているものではないでしょうか。

そのくらいの、心の中での、プチ恋愛モードは、少なからず誰もが経験していることで、悪いものではなく、むしろ、そういう気持ちが、日常にハリを持たせたり、やる気が出てきたりすることもあると思います。そのくらいなら、特に問題はなく、メリットのほうが大きい、とも言えます。

けれども、ある一定レベルを超えて、相手に特別な恋愛感情を抱いてしまうと、そこから、バランスが乱れて、不具合を引き起こすこともあり得ます。

この世では、自分のしたことは、何らかの形で、いつか自分に返って来る、という『カルマの法則』という仕組みがあります。

プチ恋愛気分を、心の中で楽しむくらいならいざ知らず、それを越えて、深い関係に及んでしまうと、そのカルマは、自分にいつか返って来る、という点も、考えていく必要があります。相手や自分の、本来のパートナーとの信頼関係が崩れてしまったり、知られたくない相手や会社などの組織にその事実を知られてしまうなどの、社会的なダメージを受けてしまうこともあるかもしれません。

仮に、そういう、外への目立った影響がなくて、お互いに納得の上で、誰にも迷惑を掛けずに関係を作ったとしても、それは、表面的には影響がないように見えるだけであり、スピリチュアルな領域では、カルマの法則が作用していきます。

カルマの法則とは、悪いことをした罰が与えられる、という意味ではなくて、どんなこともすべて、自分が原因をつくったこと、種を蒔いたことは、良くも悪くも、いつか自分に返って来る、という仕組みです。

不倫の恋愛をしていることで、本来のパートナーや家族に優しく接することができて、バランスが取れる、と言う方も少なくはないのですが、そして、その気持ちも、分からないではないですが・・・、

しかし、本来のパートナーとの関係を清算しないまま、隠して恋愛をしなければならない間柄というのは正当化されるのか、という、さまざまな要素を含めて考えれば、一見、皆が幸せで、どこにも悪影響がないように思えても、そういう都合のいい理屈は通らず、どこかの時点で、自分がしたことは、自分に降りかかり、学ばされてしまうものではないでしょうか。

それでもいいなら、何をするのも自由、なのです。何が起ころうとも、引き受ける、とは、そういう意味です。

一般の常識的、道徳的に、良いか、悪いか、と言われれば、やはり、どうひいき目にみても、「良い」とは、言いがたいでしょう。しかし、いろんな事情はあるでしょうから、簡単に○×を付けられるようなことでも、ありません。そこは、人の数だけ、その人なりの理由は、存在するのだと思いますから。

しかし、それでも、社会的、一般的には、正当化はされにくく、認めてもらいにくいものであることは確かですから、その点は、きちんと認識しておくほうがいいと思います。

そして、どんな場合でも、自分のしたことは、すべて自分が引き受けることになる、という、カルマの法則が作用することも、覚えておくほうがいいでしょう。

自分が本当に大切なものは何なのか、失って気づくことのないように、自分の心の中を、よくよく見つめてみることは、大事だと思います。

隣の芝生は青く見える、と言いますが、誰もが、自分の手の中にあるものは当たり前だと思って、無いものが良く見えて・・・、長い人生の中で、外に意識がむいてしまうことはきっと、珍しいことではないのでしょう。

私たち人間は、未熟な存在ですから、そういうことも、ときに、あってもいいのかもしれません。そういう経験も含めて、学びであり、他人の痛みや、自分の愚かさがあぶり出されて見えてくることもあります。

ただし、自分を制御することと、責任を自分で取ることと、本当に大切なものを失うかもしれない覚悟、というものを天秤に掛けたときに、そこまでして、本当に新しい恋愛は必要なのか、という、冷静な視点をもち、自分を律することもまた、大人として大切なこと、ではないでしょうか。

どんなことにも、単純に○×は付けられません。良い、悪い、と、定義することも容易ではありません。だから、何が正しい、という正解の答えはありません。答えは、自分の中にあるので、自分のたましいが望んでいることは何か、という点を、よく考えてみることが大切です。

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2012年7月15日 (日)

すべてを悲観的に捉えてしまう状態を改善するには。

私たちの精神の状態は、その時により、上がったり下がったりしています。

悩み事や不安を抱えていたり、疲労が蓄積していたり、自信喪失状態のときなどは、波長が低下しているので、物事を、何でも悪いほうに受け止めてしまう、明るい希望が持ちにくい状態になりがちです。

なぜなら、波長が下がっているときは、「くすんで透明感のないフィルター」を通して、さまざまな物事を感知している状態になりますから、本来、それほど悲観的に受け止めなくてもいいことまでも、不安要素が付け加えられた解釈になりやすいのです。

ほんの少し相手からの連絡が遅れただけで、「私の提案は、迷惑だったに違いない」、

ノーの返事がきたら、「もう駄目だ、相手を怒らせた」、

というように、自分の勝手な(事実ではないかもしれない)想像で、物事を決めつけては、悲観的になったりします。

実際には、相手が迷惑かなんて、分からないですし、相手にも都合があって連絡が遅れることもあるでしょうし、その案件の返事がノーだったとしても、すべてを否定されたわけではありません。

そのことを、理屈の上では分かっていても、波長が下がりきっているときには、考え方が悲観的な方へと傾いてしまい、ポジティブな考え方が出来なくなります。

そういうときには、「今の自分の状態という、移り変わりのある要素」から視点を変えて、「移り変わりのない真理である、スピリチュアリズムによる解釈」に、立ちかえってみることが有効です。

個人的な感情や、状況・立場などの現実的要素を深く絡めずに、できるだけ客観性をもって、スピリチュアリズムの解釈を当てはめていき、 波長が下がった状態のフィルター(である、今の自分自身)から、意識を離していくようにすると、物事への見方が変わっていくこともあるでしょう。

「自分の価値基準」というのは、本来のあるべき状態での(高い波長で)、自分の考え方や捉え方を当てはめていくことであり、低い波長の状態になっている自分の感情的解釈に固執することではありません。

状態が下がっているときに、自分は、自分は、と、自意識を強くし過ぎるのも、あまりよくないのです。・・・というより、波長が下がっているからこそ、柔軟性がなくなり、過剰なまでに自分にこだわってしまう、とも言えるので、それは、裏表で、同じこと、でもあります。

「波長が下がっているときには、すべてが、悲観的に思えてしまうことがある」、

「そして、そんな自分自身を正当化して、こだわってしまうので、ますます抜け出しにくくなる」

という仕組みを、頭で理解しておくことは有効です。

自分に降りかかる出来事はすべて、何らかの意味がある必然で、すべては学びのため、という、スピリチュアルな視点を忘れないようにすると、低い感情や思いに、とらわれてしまうことは(無くなる、とはいいませんが)軽減することもできるでしょう。

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2012年7月10日 (火)

加害者になる恐れからくる、行き過ぎの完璧主義。

何でも、きちんと完璧に成し遂げようとするタイプの人は、「他人の手を煩わせることのない、自立した、向上心あふれる人」に、見えるものです。

それらの要素は、ひとつひとつは、望ましいものであり、立派でもあり、何も問題となる点はなく、そのままで多くの人の手本となりそうな姿勢にも思えます。

けれど、何事もバランスが大事で、過剰になったら、どこかに負荷が掛かるのは、(それが、一般的にみて、どんなに素晴らしいことであっても)同じです。

きちんとするのも、「適度」がよく、過剰になったら、何より自分自身が常に消耗して、気が休まりませんし、消耗することで、他人へしわ寄せが出ることもあります。

完璧主義の人は、多少の負担は苦にせず、むしろ、きちんとできない状態になるより、自分が苦しむほうがずっとまし、と思ってしまうところがあるので、自分の負担は、よほど極端にならないかぎりは、受け入れていくでしょう。

それよりも、「過剰なまでの完璧主義の人」が、苦しくなるのは、「他人に、そのしわ寄せがいくこと」、の場合が多いです。

逆に言うと、自分のせいで、他人に負担を掛けてしまうかもしれない、という状況がとても苦手な人が、その苦しいシチュエーションから逃れたいために、行き過ぎた完璧主義に、なってしまうことが多いのです。

被害妄想、ならぬ、加害妄想とでもいえばいいのか、自分が加害者になってしまうかもれない、そういう可能性のある芽をつんでしまわないと、安心できない、そのために、常に動き回って、消耗します。

その人が思っている「加害」なんて、実はたいしたことのない、お互い様としか言えないくらいの負担なのですが、それが怖い、人に影響を与えてしまうのが怖い、自分のことはいいとして、他人に与えた影響に責任が取れないから、最初から、そうならないように、少しの負担も与えないように・・・と、常に忙しく動き回り、何でも自分でがんばって、終わりのないプレッシャーの中に居続けることになります。

他人に迷惑を掛けない、という心持ちは大事ですし、自分で何とかしようという姿勢も立派ですが、しかし、どんなことも、適度ならよいけれど、過剰になったらバランスが乱れます。

他人に迷惑を掛けられない、そうなったら責任が取れない、と、先周りしてがんばるその考え方が、加害妄想的になっていないか、過剰になっていないか、という点を、よく考えてみることが大事です。

なぜ、加害者になるのが嫌か、というと、相手を思いやる優しい気持ちが大きい人と、そして、自分が他人に迷惑を掛けるような人でありたくない、そうして低く見られるのが嫌だ、という、プライドが高すぎる人である場合が多いですね。どちらか一方だけ、というのは少なく、両方が掛け合わされていることが多いようです。

この世は、学びの場所ですから、完璧・完全な人は誰もいなくて、どんなにがんばろうとも「必ず」抜けてしまうところは出てきます。そういう前提で、誰もが、学んでいる途中なのだから、という気持ちを、自分自身にも向けていき、楽な気持ちになっていけると、自分にも、周囲にいる他人にも、良い影響が出ていくことが多いです。

集団の輪の中で、ひとりだけが、過剰な完璧主義になっていると、周囲の人もなんとなく巻き込まれて、緊張感の中に置かれるためもあってか、特にこれといった原因がなくても、人間関係がいつもばたばたしていて落ち着かない、という状況を招いてしまうこともあります。

そうなったら、加害者になりたくない、という気持ちからの気配りが、逆効果になってしまいますよね。そう考えれば、過剰になる気持ちを、緩めていくこともできるのではないでしょうか。

「適度」ならよくても、「過剰」になったらバランスが乱れる、このことは、すべてに言えると思います。

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2012年7月 9日 (月)

他人が、自分を分かってくれることは、「感謝」に値すること。

望ましい人間関係が構築できるのは、お互いに自立していることが大事です。お互いを尊重し、そして自分を自分で立てていくこと(自立)ができれば、相手に過剰な期待も抱かず、違いも受け入れ合って、お互いを認めていくことができます。

依存の心は、誰の中にも、少しくらいはありますが、あまりに大きな依存的性質を持っていると、人間関係は上手くはいきません。

人間関係はお互い様であり、時に役割を入れ替えながら、相手のためになったり、自分のためにしてもらったり、のやりとりがありますが、依存心が強い人同士は、どちらも、「しれもらうこと」「分かってもらうこと」ばかり考えて、自分から寄り添っていこうとしません。それでは、良い関係は作られず、信頼も生まれませんよね。

依存心が強い人と、自立心が強い人では、自立心の強い人のほうに一方的な負担がかかり、依存の強い人は、自分が一方的に要求してばかり、となるので、自立心のある人のほうが、嫌になって離れていくケースが多いです。

依存心が強い人同士が、形を変えて結びつく形態に、「共依存」というものがあります。相手のために何かをすることで、自分の価値を計りたいと思うタイプの人は、何かをしようという意欲は素晴らしいのですが、「相手からの反応や感謝」を常に必要としていている、自分で自分を認められない、という意味では、(反応を)相手に依存している部分があり、して上げたい人と、してもらいたい人が、お互いを強く必要として依存し合っているのです。

依存が強い人にとっての人間関係とは、お互いに依存しあう「共依存」か、または、自立心の強い人との間で、不満や我慢いっぱいの関係になるか、の、どちらかです。

依存から相手に望む、「もっと、自分を分かってほしい」「もっと、相手は、自分にこうしてくれるべき」「なぜ、(相手が思い通りに振る舞ってくれないことを)自分だけが、我慢しなければならないのか」という気持ちは、不満を募らせます。

つまり、「相手が、自分を分かってくれない」「相手が、自分の望み通りの振る舞いをしてくれないことで、自分だけが我慢している」と、思っている人は、=依存心の強い人、ということになります。

どこが依存なのか、というと、「相手が自分を分かってくれるのが当然、と思っているところ」です。分かってもらえるのが当然であり、普通だ、と思うからこそ、(そうならない現状に)不満が生まれます。

相手が分かってくれるのは、当たり前ではありません。普通でもありません。

相手が分かってくれるのは、相手が譲ってくれて、自分に寄り添ってくれる、という、思いやりと奉仕の精神からきている、「ありがたいこと」であって、それを当然と思ってはいけません。

相手が、自分を分かってくれたら、それは「感謝しなければならないこと」であり、逆に「自分を分かってくれなくても、それが普通」なのです。

自分もまた、相手に寄り添う気持ちを持っていれば、自分が相手に不満があるように、相手も自分に不満があるかもしれず、お互い様なのだな、とわかります。そして、自分よりも相手を優先することが、どれほどにストレスになるかも、わかります(自分を省みれば、わかります)。

そう考えると、一方的に相手に不満を募らせている状態というのは、「自分が、相手を分かっていない」からこそ起こるのであり、自分が相手を分かろうとしていないのに、相手には、自分を分かってもらうことを当たり前だと思っている、ここに大きな依存があるのです。

自立心が強い人は、自分を分かってもらいたい気持ちがゼロ・・・とはいいませんが、あまり大きくありません。他人にわかってもらえなくても、自分がわかっていればそれでいい、他人が思い通りに動いてくれなくても、自分が率先して行動するので、相手に過剰な期待をしないのが、自立している人、だと思います。

自分のことは、自分が理解していて、そして、必要なことは、自分から率先して行動する、それが出来る人は、「思い通りにならない」という不満の気持ちで消費されるエネルギーが少ないので、気持ちに余裕があり、その余裕から、他人を思いやる行動がとれます。

他人を思いやれば、相手からもまた、同じものを返してもらえて、そこに、よい循環がつくられていきます。

相手に理解してもらいたい、寄り添ってもらいたい、と思うならば、まずは自分から、相手を理解しよう、寄り添っていこう、という姿勢を取ることが大事ではないでしょうか。

他人は、自分とは違う価値観をもった別の人間なのだから、そう簡単には、分かってくれいないし、自分の思い通りに振る舞ってもくれないのが普通であり、そんな中、自分に寄り添ってくれて、分かってくれる人がいたら、それは、感謝すべき貴重なことだ、と思っていれば、相手への過剰な期待から抜け出すことが出来ると思います。

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2012年7月 8日 (日)

無料のものは、無料だからこその反応や評価であることを理解しておく(お仕事の話)

余暇を活かして、お家にいながら自分で出来るお仕事をしたい、とか、会社員を辞めて、自営業をしてみたい、という夢をお持ちの方は少なくないようです。

そうして、より難しい生き方に(自営って、難しいですよ)挑んでいき、自分を鍛えようとしたり、または、自分が備えている才能を、世の中に向けて発揮していこうとする姿勢は、立派であり、素晴らしいことと思います。

さらに、そこに、自分のやりがいなり、手応えなりがついてくるなら、大きな学びと喜びを手にすることもできるでしょう。

しかし、自営というのは、開始するのは簡単でも、それを続けて維持していくのが大変です。

お金が十分にあって、生活上の心配がなく、自分の楽しみのため、やりがいのため、と、割り切ってやるなら、好きなこと好きなようにすることで何も問題はないのですが、そこに、生活上の金銭を得なければならない、という条件がつくのなら、慎重に考えていかないと、自分が大変になります。

自分で仕事をしていく、というのは、指示してくれる人も、代わりに行ってくれる人も誰もいませんので、すべてを自分の責任で、先を見通しながら進めて行くことが必要となってきますから、世の中を見渡す広い視野と、そして、社会性が必要です。

ただ、それが好きだから、自分は技術があって上手だから、というだけでは、現実には仕事は回っていきません。

この、「社会性」という感覚は、身につけるのも、自覚するのも、なかなか難しいところがあるのですが・・・、広く社会に通じる感覚をもっていること、他人との関係など、社会生活に必要な性質を、備えていて、そこに、提供する品物なりサービスなりが掛け合わされて、仕事が回っていくようになります。

特に女性は、「自分の好き嫌いの感情に基づいた目線」が強くなりがちなので、注意が必要だと思います。

タイトルのとおり、「無料」と「有料」は違うという理解も、わかっておくべき要素だと思います。

無料で提供をして、反応がよければ、すぐに有料化できる、・・・とは、限らず、無料のものは、無料なりの反応、有料のものは有料なりの反応であって、それらは、完全にイコールとなることは、ありません。

無料で提供をしたものが、そのまま有料化して、成立するのは、「もともと、有料に出来る価値があるものを、無料で提供していた」からであり、お客さんが、それにお金を出すだけの価値がない、と思ったら、いくら無料では反応はよくても、商売としてなりたたないこともあります。

無料のものに、あれこれダメ出ししたり、苦情を言ったりする人は少なく、普通は、喜んでくれますし、お礼も言ってもらえるでしょう。

でもそれば、「無料だから」という前提があってのこと、かもしれません。そこは、割り引いてとらえて行くべきであり、そういうことが、あらかじめ分かっているのが、「自営業に必要な社会性」だと思います。商売というのは、お客さん目線になって解釈することができないと、難しいものなのです。

以前に、雑誌か何かで、このような話を読みました。

お菓子作りがとても上手な女性がいて、ケーキなどをつくっては、近所のお友達に振る舞っていたそうです。客観的に観ても、その人の作ったものは本当に上手で、おいしいものだったそうです。

それを食べた人は、口々に、「これは、売り物になるね」とか「お金を出すと、きっと○○円くらいはすると思う」などという評価をしてくださった、と。

そんなことが続いて、あるとき、その女性が、「次のクリスマスや、お子さんのお誕生日は、私の作ったケーキでお祝いするのはどうでしょう?」と、話してみたのだそうです。

そうしたら、あれほど褒めてくれて、○○円の価値がある、と言ってくれていた人達が、「でも、うちは、決まったお店との付き合いがあるから」とか「子どもが、好きな物を、その都度、選んでいるので・・・」などと、その場の空気が一変してしまい、「ごめんなさい、今のは冗談よ、言ってみただけ」と、言うしかなかった、と。

無料でもらうのと、それに自分がお金を出して購入するのとは、別という、わかりやすい事例だと思います。

それが、たとえ、本当に美味しくて、そして値段も安かったとしても(通常、手作りの場合は、逆に高くなりがちですが(^^;))、個人でのやりとりは、何かのイレギュラーが発生したときに、その代替が難しくなる、とか、連絡ミスその他不具合もなにか、起こりやすそうな気持ちに、買う側としては「なってしまう」ので、「そこまでして、買いたいか?」という天秤に掛けて、「それでも、買いたい」とならないと、購入には結びつかないわけです。

どちらでもいい、手作りでも悪くはないけど、というくらいであれば、わざわざ、イレギュラーな事態が発生するかもしれないというリスクを負うよりも、既製品の購入のほうが、無難で楽で、気兼ねがない、と考える人のほうが多いかもしれません。

そういうことを、理解した上で、「それでも、その中で、うまくやっていく」ための社会性を持っていることが、商売に必要なセンス、といえると思います。実際、そのような状況でも、うまく、予約を取って行ける人も、いるわけですから。

きっとそれは、お菓子の出来という技術だけではない、別の要素が絡んでのこと、だと思います。その「別の要素」=「商売のセンス」の、あるなしが、結構大きく、影響してくると思います。

自営の活動を開始する際に、いくら商品やサービスがよくても、いきなり有料は難しいでしょうから、最初は、無料で、お客様からのフィードバックを集めていくことも、必要になるかもしれません。

それが悪いとか、無意味だというのではなく、「その意見は、(あくまで、無料前提なので、苦情をいうはずもないので)、少し割り引いて受けとる」くらいにしておく、冷静さをもって、その上で参考にしていくのがいいと思います。

人付き合いの中には、「建前」という、表面上の付き合いもあるわけで、それは、仲がいい人ほど、賛成・同調してくれると思いますから、身内や仲間内の意見が、そのまま、外の世界の意見とイコールにならないこともあります。

先にも書いたとおり、自分の楽しみのためにやるなら、それでもいいと思います。しかし、その収入で生活を成り立たせて行こうと思っているなら、甘さは捨てて、現実をきちんとみていき、わくわくという感情だけにとらわれず、冷静さを持っていくことが大事ではないでしょうか。

ただし、それらのことは、実際にやっていく中で身についていくことで、やる前から分かっていくのは難しいものかもしれません。

なので、あまりに事前に頭で考えすぎても、動き出せなくなってしまうので、そのさじ加減は難しいですが、夢に向かっていくために、このようなことも、頭の隅にでも留め置いていただけると、何かの参考になることもあるかと思いました。

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2012年7月 7日 (土)

制限があるからこそ、行動できる。

「私は、旅行にいきたいのに、時間がないから行くことができない」、「自分の好きな仕事がしたいのに、家族がいるから自分が犠牲になってて、好きなことがやれない」などと、自分の意図に反する、何かの制限があるために、行動ができない、と考えている人は多いと思います。

しかし、実際には、「制限があるから、行動できる」のであり、「制限が何もなかったら、意外と行動はしにくいものである」ことを、理解していくことも大切です。

制限がなければ、一見、自由で、何でも出来るように思えてしまいますが、「何でも」というのは、実は、簡単ではありません。

「何を食べたい?」と聞いたときに、相手が「何でもいい」と答えたら、・・・決めるのは楽にはならず、むしろ、難しくならないでしょうか。

「麺類なら、何でもいい」とか、「軽いものだったら、何でもOK」とか、「とにかく直ぐに食べたいので、近い店にいこう、種類は何でもいいよ」とか、範囲を狭める条件が少しはあった上で、何でもいいというなら、決められますが、何も条件のない「何でもいい」は、難しいものです。

もうひとつ別の例を出すと、、8畳のお部屋を自由に使っていいよ、好きなように家具を配置していいよ、という条件ならば、その制約の中で、想像力を働かせてレイアウトを考えることができます。

しかし、100坪の土地を、自由にしていいよ、と言われても、・・・どうすればいいのか分かりません;。自由って、どこまでの自由なのか、期間はどのくらいなの?金銭はずっと無償?と、いろんな条件が気になってくると思います(^^;)。

自由にしたい、好きなようにしたい、と思いながら、「期間は?」「金銭の負担は?」と、自分から制約条件を確認したい気持ちになるのではないでしょうか。

少なくとも、私だったら、100坪の土地を自由にしていい、といわれても、裏があるのではないか?などと考えて、落ち着かなくなり、きっと、そのありがたいお申し出は、遠慮すると思います。

制限がない、というのは、意外と行動しにくいものです。制限があるから、行動できない、というのは、「そういうふうに、世の中を見ている」からであって、逆に、「しかし、制限が何もないと、行動もしにくい」と、捉え方を変えてみると、違う見方ができると思います。

制限があるからこそ、その中で何とかしようという工夫や応用が生まれ、想像力を働かせて考えることができます。制限がないということは、何の条件も基準もないわけですから、想像力すらも使いにくいです。

そう考えると、制限がある状況も、自分の成長のためには、ありがたいのです。私たちを、やる気にさせてくれます。

制限が何もなければ、行動できる・できない以前に、行動「したくならない」可能性もあります。

私たち人間が、この世という、時間を含めた、あらゆる制限がある世界で生きる以上、その枠の中で、自分にできる最善を尽くしていくことに学びがあるのだと思います。

制限があることを、やらない理由にすることなく、考え方を逆にして、制限があるからこそ応用ができる、やる気にもなれる、と考えてみれば、達成の方法は、何かしら見つかっていくのではないでしょうか。

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2012年7月 6日 (金)

守護霊と、自分との間の「隙」をつくらないように。

前回、守護霊は、人間が意図的に、くっつけたり、増やしたりすることはできない、という内容の記事を書きました。

守護霊とは、たましいの親和性を持った存在の中で、進化・向上した霊がその役割を担うのであり、そうすることに意味があるからこその繋がりであって、よそから、ご縁の薄い霊をつれてきて、付け足すようなことは、あり得ません。

しかし、ときに、「自分」と「本来の守護霊」の間に、違う霊が入り込んでしまい、一種、ガイド的な役割を「果たしてしまう」ケースがある、とも、前回の記事の中で書きました。

その件について、今回は書いていきたいと思います。

本来、私たち人間と、その導き役である守護霊は、密接な繋がりを持っていて、二人羽織のように、協力しあって、今回の人生という学びを行っています。

その繋がりが、しっかりとしているときには、上記のような、違う霊がはいりこんで混乱が起きるようなことはありません。

けれど、いつも一定のコンディションでいられる人は誰もいなくて、思い通りにならなくてイライラしたり、起こったり、他人を恨んだり妬んだりして、自分の波長を下げてしまうことは、ありますよね。

ずっと高いままの状態でいるのは難しく、上がったり下がったりを繰り返しているのが人間だからです。

そうして、自分の波長が下がって、その下がりの度合いが大きくなり、守護霊の高い波長と遠くなってしまい、隙ができたときに、別の霊が、その「間」に入り込んで、ガイド的な役割を、(本来の守護霊に変わって)行ってしまうようなケースも、ありうるのです。

ひとつ例をあげてみます。

以前に、江原さんと美輪さんが、「オーラの泉」という番組をなさっていたときに、ある男性のゲストさんに、上記の似たケースがありました。その中では、上記のようなしくみの詳細までは、はっきりとはおっしゃっていなかったので、たぶん、それは、同じようなことであろう、という、私なりの解釈となります。

その方は、前世で、いろんな戦いの人生を歩んでいた、というお話の後に、ナイフだか、刀だか、忘れましたが、「古い時代の武器をコレクションする趣味がありますね」、と、江原さんがおっしゃって、それで、その人が、そういうものに強い関心をもっていて、歴史や戦などにも造形が深い方であるのも手伝って、その想念やコレクションに引き寄せられて、ちょっとあまり程度の高くない霊が、集まってしまっている、と。それは、一種の憑依でもあるのだけれども、しかし一方では、あなたを助けるような働きをしてもいる、と。

そのあとも、あーだ、こーだと、話はあって、できれば、そのコレクションは、手放したほうがいい、と、お勧めになっていたと思います。

思いがつまった品物は、エネルギーが残りやすかったり、媒介する役割を果たしてしまったりすることもあるので、武器のようなコレクションをたくさんしているのは、良くないエネルギーを引き寄せてしまうこともあるから、という意味だと思います。

番組の中で、上記のようなことを、詳細にお話なさっていたわけではありませんので、私なりの解釈を加えて書いていますので、その点はお間違いのないようにお願いします。ガイド的な役割を果たしているとか、守護霊との間に入っているとか、そういう説明は、番組内ではなされてはいなかったと思います。

このようなケースは、ただ、憑依するのと違って、「ある種、助けにもなっている」のが、ポイントです;。

その霊の望み通りの行動をする分には、助けてもくれるのです。でも、本来の守護霊が望んでいるような、本人の成長を願ってのサポートとは別の意味で、ですが。

望み通りにするなら助ける、望み通りにしないなら助けない、というのは、とてもあからさまな感情的行動であり、高い波長の霊の意思ではありません。

そういう霊は、やけに饒舌であり、あれもこれもと、人間のやることに干渉をしてきます。ああしろ、こうしろ、そうすればご褒美をやるとばかりに、自分の思い通りにしようとします。

そういう霊に憑依されると、本人も、その霊にだんだんと感化されていき、崇高さのない感情に支配され、損得勘定で物事を考えることが多くなっていったりします。

普通に、未浄化霊に憑依されるのと、何が違うかというと、未浄化霊のほとんどは、自分が霊である感覚をもっていなくて、とりついている感覚もなく、人間が、感化されて調子を崩していたとしても、意図的にそうしようとしていない、操ろうとしているわけではない、という点です。

操ろうとしていない未浄化霊の憑依よりも、操ろう、利用しようという意思を持っている霊とでは、後者のほうがずっとやっかいだと、分かると思います。

前者の憑依なら、人間側からみて、何もメリットがないから、その状態から抜けたいと思うのですが、後者の場合は、ある種、メリットも与えてくれるわけで、だからこそ、本人が気づくのも、そこから抜けるのも、難しさもあるわけですね・・・。

いろんなことに興味関心を持つのは、その人の個人的な自由であるとはいえ、あまりに極端な関心を、特定のものに向けていき、バランスが取れなくなると、そのバランスの隙をついて、操ろうという意図をもった霊が入り込んでくることもあります。

でも、もしもそうなったとして、入り込んでくる霊だけが悪いのではありません。もとは、バランスを欠いた自分にも原因はあるわけです。

そういうケースもありますので、霊的世界に、過剰な関心をよせることや、安易な興味でおかしな行動をとるのは、大きな危険を伴うこともあるのです。

ちなみに、上記のゲストさんは、江原さんに、ものすごい霊媒体質だと言われていました。とてもスピリチュアルな人だ、と。だからこそ、そういう人は、もともとが、霊と馴染みやすい体質、回路が備わっていますので、ほんのちょっとしたことがきっかけとなり、霊を集めてしまうようなことにも、なりやすいのです。

自分を助けてくれたら、自分に有利な計らいをしてくれたら、それは高位の霊であり、守護霊である、という解釈は、ときに正しくないこともあります。そういう、魔法のような便利なことばかり望んでいると、その気持ちの隙をついてくる霊も、いることを覚えておくほうがいいと思います。

高位の霊が、本当にその人の成長を助けようと思ったら、過剰な干渉はしてきませんし、自主性を尊重したサポートをしてくれると思います。そういう、さりげない見守りが、愛ではないでしょうか。

大事なのは自力で・・・、そのつもりでしっかりと日々を生きていれば、自分と守護霊の波長に隙はできず、惑わされることもありません。

姿は見えなくても、声は聞こえなくても、いつでも寄り添い、一緒に歩んでいる、切っても切れない深い繋がりをもっているのが、私たち人間と、守護霊との、たましいの繋がり、なのですね。

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2012年7月 5日 (木)

守護霊を、意図的にくっつけたり、増やしたりを、することはできない。

「あなたに、いい守護霊をつけてあげます」

「あなたの守護霊を、増やしてあげます」

「あなたには守護霊がいませんので、私が付けてあげましょう」

「私の力で、あなたの守護霊を交代させて、もっと良い霊に付け替えます」

などのような、スピリチュアリズムの原則を無視するような発言で、多額のお金を取るような、霊能者には、騙されないように注意しましょう。

江原さんが、書籍の中でよく使っている表現ですが、「守護霊は、いうなれば、私達の「たましいの親」のような存在」で、親が先にいて、

だからこそ子が生まれるわけで、子に、あとから親をくっつけたり、付け足したりすることが出来ないように、あとから守護霊をつけたり足したりする、という考え方そのものが不自然で、そういうことを言う人は、霊的真理をまったく理解してない証拠になります。

守護霊が、途中で変わったり、増えたりすることは、あります。しかしそれは、後から「くっついた」のでもなければ、「足された」のでもなく、元から、たましいの親和性の霊が複数いて、その時々で、必要な役割を備えた霊が、前面に出てくる、という仕組みです。

なので、まったく違うところから、唐突に新しい霊をつれてきて、「さあ、あなたは今日から、この人の守護霊として活躍しなさい」「はい、分かりました、ご主人様!」などのような仕組みは、マンガの中にしか存在しません。

そんなふうに、特定の「人間」の言うことに、唯々諾々と従う、高位の霊がいる、というそのこと自体がすでにおかしいのです。

では、上記のような発言をする霊能者は、すべてインチキなのか、というと、・・・それは、そうとも言い切れません(正しいわけではないが、インチキでしている、とは、言い切れない、という意味)。「ある部分においては」、霊視が出来ているからこそ、そういう曲解も作られるという側面もあります。

「自分」と、「本来の守護霊」との「間」に、違う霊が入り込んで、一種、ガイド的な役割を果たしているようなことが、実は、しばしばあります。

それは、どういう時になるか、というと、自分と守護霊との間に、開きが大きくなりすぎたときです。

・・・つまり、自分の波長が下がって、守護霊の高い波長が遠くなり、隙ができたときに、別の霊が、その「間」に入り込んで、ガイド的役割を(本来の守護霊にかわって)行っているようなことも、中にはあり得るのです。

この世というのは、低い波長の世界ですから、私たち人間にとって、高い波長よりも、低い波長のほうが、容易に認識しやすいという特徴があります。

そのため、上記のように、違う霊が入り込んでしまうと、守護霊の働きかけよりも、入り込んだ霊の働きかけのほうが、ダイレクトに伝わりやすいこともあるのですね。

そうして、そちらの霊と馴染んでいくにしたがって、ますます自分の波長も下がり、本来の守護霊の波長が遠ざかって行く状態になります。

その「入り込む、別の霊」については、また改めてお伝えするとして・・・、そのような霊ならば、「後から、付ける」ことは、できなくもないでしょうが・・・、それは、本来の守護霊のような存在とは、まったく違います。

ガイド的役割は、(本来の守護霊の意向を無視して)一部果たすこともあるかもしれませんが・・・、それは、その人にとって、決して良い状態ではないことは、言うまでもないでしょう。

また、このような「入り込んだ霊」を、守護霊だと認識してしまう霊能者がいた場合、この霊を取り除き(守護霊を除くことなどできませんが、入り込んだ霊は除くことはできますので)、 その結果、不要な霊が去り、本来の守護霊が前面に出て来たのを、「自分の霊能力で、守護霊を付け替えた」と、思い込んでいるパターンも、あると思われます。

この場合は、「付け変えた」という認識は正しくありませんが・・、まったく霊を把握をしていないわけではない、当人的には嘘を言っているわけでもない(正しくはないけど:)、という、パターンもあるのではないかと思います。

そういうパターンまで想定すると、インチキとはいいきれない、のですよね・・・。表現が難しいのですが。

霊能者にとっても、この判断というのは、霊の波長を見分ける必要があって、それは本当に難しいことなのですけれど・・・、

基本の考え方として、

「あなたに、いい守護霊をつけてあげます」「あなたの守護霊を、増やしてあげます」「あなたには守護霊がいませんので、私が付けてあげましょう」「私の力で、あなたの守護霊を交代させて、もっと良い霊に付け替えます」

このような発言をする人は、スピリチュアリズムを理解していない、ことは確かですので、そういう発言をしている時点で、ちょっと注意をして、惑わされないように気をつけるほうがいいと思います。

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2012年7月 4日 (水)

なぜ、「相手の気持ちが知りたい」と思うのか。

相手が、自分をどう思っているか(相手に確認する、という方法以外で、自分だけが先周りして知っている、という形で)、知りたい、と思ったことのある方は、少なくないでしょう。

相手が何を考えていて、自分をどう思っているか、気になってしまって、「相手の気持ちを知ることができたらいいのになぁ・・・」と、ぼんやりと思うくらいは、きっと誰にでもあると思います。

なぜ、相手の気持ちを知りたいと思うのか、といえば、それは、「相手の気持ちを、あらかじめ分かっていれば、上手く立ち回って、自分が得をすることができる」と、思っているから、だと思います。

けれど、実際には、仮に、何らかの方法で、相手の気持ちを知ることができたとしても、その「知ったという事実」を活用して、上手く立ち回れるとは、限りません。それとこれとは別です。

仮に、相手の気持ちを知ったとして、それを基に、うまく立ち回ることができるのは、「上手い立ち回り方が、出来る人」だけです。「知ること」と、「上手い立ち回りが出来る人」は、イコールではありません。

「上手い立ち回りが出来る人」は、相手の気持ちを知りたいとか、(まったくないとは言いませんが)あまり気にしない人も多いです。なぜなら、相手の意向がどうであろうと、自分の行動の仕方が、確立されているからです。

計算上で、最終的な「答え」を先に知っていても、途中の計算式が、逆算から把握できるとは限りませんよね。

単純なものは逆算できても、複雑なものは出来ません。それと同じで、相手の気持ちを知ったとしても、その答えを基に、自分がとるべきふさわしい言動が分かるとは、限らないのです。

もしも、今、相手から好かれているとしても、その好意は永久に続くとは限りません。何かの拍子に、好意に甘えすぎた行動をとれば、その瞬間から、嫌われてしまうことだって可能性としてはありますから、相手が、どう思っているか、を知っても・・・、実は、そんなに得をするわけでもない、のです。

繰り返しになりますが、それで得が出来る人は、立ち回り方を知っている人だけ、です。そして、そういうセンスのある人は、相手の気持ちを先回って知ることに、あまりこだわっていません(知っていうと、そうでなかろうと、ふさわしい行動をとれいばいいだけ、と思っているからです)

相手の気持ち、という「答え」は、その時点での「暫定の答え」であり、永久に保証されているものではありません。気持ちや考えは、都度、移り変わっていきます。

しかし、自分がどのように振る舞っていけばいいか、答えに至る途中の計算式をしっかり把握するという人間力は、「一度身につけたら、永久に失われることのない、自分の財産」となり、他の事柄にも、広く応用できるので、自分の人生の可能性を大きく広げてくれることになります。

なぜ、相手の気持ちを知りたいのか、それは、知ることで安心して、上手い立ち回りができるはず、と、どこかで思っているからです。しかし、知っている、というだけでは、(立ち回り方が分からなければ)得をするとは限りません。

それでも、相手の気持ちを知りたい、何とか知ることはできないか・・・と、知ることに、時間を費やすのか、それとも、まずは自分の行動のしかた、相手を尊重する姿勢や、好感度の高い言動を学ぼうとするか、どちらを選択するほうが自分のためになるのか、よく考えてみましょう。

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2012年7月 3日 (火)

他人から、どう見られるかが気になるタイプは、自分もまた、他人をよく見ている。

自分は、他人からどう思われているのか、低くみられているのではないか、とか、こんな行動をとったら相手は自分にどんな感想を持つだろう、・・・などと、常に、他人からの自分への視線を、気にしてしまう人がいます。

「他人から、どう思われているか、どう見られているか」が、気になる人は、「自分が、他人のことを、よく見ている」タイプであることがほとんどです。

誰もが、自分の考え方や価値観が「普通」であり「一般的」だと思っているところはあるので、自分が他人を気にしているタイプの人は、同様に、他人もまた自分の言動を気にしているもの、という前提で、受けとめてしまうためです。

しかし、世の中には、いろんな人がいるもので・・・、価値観はさまざまですから、他人をとても気にしている人もいれば、ほとんど気にしていない人もいて、その平均をとるならば、「あまり、気にしていない」人のほうが多いのかもしれません。

少なくとも、自分が思うほどには、他人は、自分のことなど気にしてないもの、だと、思うくらいが丁度良いでしょう。

皆、それぞれの価値観をもっていて、他人を気にする度合いも個人差があり、世の中の多くの人は、自分ほどには、他人を見ていないし、気にしていないものである、という知識での理解をしておくことは、大事です。

なぜなら、誰もが、自分の感覚で他人を見ていますから、皆、自分と同じ考えのはず、という前提で見ている事柄に対して、実際の出来事を通して、そうではないと、体験から知るまでには、とても時間が掛かって、難しいものだからです。その前に、知識としてまずは理解しておくほうが、底上げになってくれます。

しかし、とても気にする性質の人は、それでも、きっと、気になってしまい、「分かっていても、出来ない」かもしれません。

そういうときには、世の中全員に対して、ではなく、「自分と同じ考え方をしているタイプだけ」に、気を配っていくようにする、と考えてみてください。

自分と同じように、他人を細かく気にしているタイプは、きっと、似たような雰囲気なり、言動なりがあり、なんとなく、分かるものではないでしょうか。そういう人達に対しては、普通よりも、少し気を配っていき、それ以外の人は、自分が思うほどには、気にされていないものだ、という割り切りをもって、過ごしていくようにすると、メリハリがつき、少しは緊張から解放されていけると思います。

上記は、単純に「他人から、どう見られているか」または、「人から、低くみられるのではないか」という点が、気になる人に向けたものです。

他人から評価されたい、とか、良く思われたい、などのように、「どう見られるかが、気になる」のではなくて、「自分の望み通りにみられているかどうかが、気になる」という動機から他人を気にしてしまう場合には、考え方は当てはまらないところも出てくるかもしれません。

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2012年7月 2日 (月)

生まれ持った性格や性質は、そう簡単には変わらない。

スピリチュアリズムでは、私たち人間は、たましいの存在であり、何度も生まれ変わって、さらなる成長のための学びを続けている存在である、と考えます。

そのため、今回の人生以前の、「前世」「過去世」という概念があり、また、今回の人生も、前世の影響を受けている部分は、あります。

私たち人間は、「生まれ変わって、学びを続けている」わけで、その時々の人生単体で、学びをゼロからスタートさせているわけではありませんので、さまざまな「たましいが備えている要素」を引き継いで、さらなる学びに挑んでいくことになります。

人の性格や性質というのは、今回の人生での過ごし方、育ち方で、後天的に形成させる部分もありますが、しかし、持って生まれた、たましいの性質である部分も多いものです。その両方の掛け合わせで、現時点での、性格・性質、というものが存在します。

クライアントさんに、助産師をなさっている方がいて、その方がおっしゃっていたことですが、「赤ちゃんは、生まれた時点で、性格が違う。自分の要求したいことを、聞いてもらえるまで、大声でいつまでも泣いている赤ちゃんもいれば、短時間であっさり諦めて寝てしまう赤ちゃんもいる」と。

そのように、「先天的に備えている性格・性質」というものが確かにあって、それは、そう簡単には、変えられない部分ですし、また、変える必要もないもの、とも言えます。

肉体の特徴というのも、生まれ持った個性のひとつです。背が高いことや、黒髪であることや、アジア人であることなどの、外見的特徴や、ナショナリティーは、独自の個性であって、変えられないものだと、多くの人が分かっています。

ところが、「性格・性質」は、肉体と違って、目に見えないものだし、ナショナリティーのような、客観的定義によるものでもないので、自分の努力や意思しだいで、変えられること、のように、どこかで思ってしまいがちです。

そのため、「自分の性格を変えるには、どうしたらいいか」というご相談は、少なくありません。

しかし、生まれ持った要素というのは、たましいが備えている要素であり、その要素を前提として今回の人生という学びがあるわけですから、(その学びの前提である)性格というのは、そう簡単には変えられません。

そのように、基礎的な要素は変わらないけれども、その「成長の段階」での変化は、みられます。

肉体の変化は、赤ちゃんのころは平均サイズで、小学生になったら平均以上になってきて、中学生くらいになったら「背が高い」と言われるような体型になって・・・という段階を踏んで「背の高い人」のスタイルが作られていきます。

性質や性格という目に見えない要素についても同じで、基本的な要素は変わらなくても、それが、どのくらい発揮されるか、どんな形で発揮されるか、どこまで自分がコントロールできるか、どこまでその要素に自分がこだわりをもつか、などの部分は、成長とともに変化しますし、自分が意図的に工夫をして変えていくこともできます。

自分の性質や性格において、変えられるのは「その部分」です。

自分に備わっている要素(そこは、変えられない)に基づいて、自分の中に構築している、価値の基準や思考の習慣を、成長に比例する変化として、向上させたり改善させたりすることはできます。

このような分析のないまま、「物事がうまくいかないのは、私の性格が○○だからだと思う。なので、うまくいくためには○○という性格を変えたい」という考え方では、出口のない迷路にはまり込んでしまいます。

変えられるところと、変えられないところは、分けて考えていき、変えられない部分は受け入れていくこと、そして、変えなければならないものではない、ということを、理解していくことが大切です。良くない、変えた方がいい、と思う部分は、性質に原因があるのではなく、発揮のされ方に工夫がないから上手くいかない場合が、とても多いからです。

性質そのものに、良いも悪いも、ありません。性質は性質です。

その要素を、「どんな形で」「どんな場所」で「どんな方法」で発揮するかで、性質は、長所にも短所にもなりうるので、長所となるような発揮の仕方を心掛け、短所となるような発揮の仕方に気をつけて振る舞っていくことで、自分らしさが最大限に発揮できるようになるでしょう。

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2012年7月 1日 (日)

昆虫は霊媒の生き物。

以前に、あるテレビ番組の中で、江原さんがおっしゃっていたことなのですが、昆虫というのは、たましいを媒介して、メッセンジャーの役割を果たすことがあるそうです。

そのように、たましいを媒介する、霊の意思を媒介するというのは、人間でも(無意識のうちに)よくあるケースですし、犬や猫などのペットでもあります。

その中で、「昆虫」があえて、その役割を果たすことがある、というのは、とても興味深いなと思いました。

私が思うには、たぶん、昆虫は、人間のような自我というものが少ないので、「乗りやすい」のではないか、と。

人間でも、犬でも猫でもそうですが、性格の差、個別差が大きい種類の生き物は、それだけ自我が発達している(から、差がでる)、といえます。理性、知性が発達しているほどに、個別差が、表れます。

そういう自我の部分は、「本来の自分意外のたましいを媒介する」場合には、少々、邪魔になって、スムースにいかないことがあるのでしょう。

私も、それほどオーラ透視が得意なタイプでもないので(^^;)、あくまで、私に分かる範囲で、ですが、

人間や犬や猫という、個性の差が大きい生き物は、オーラも、個性の差があらわれて、それぞれ独自のものとなっていて、昆虫などの個性の差、個別差が大きくない生き物は、オーラにもあまり差が表れないように思えます。

理性や知性を強く持っている生き物は、それだけ、自主性があって、そう簡単には操られたりはしないもいのだ、とも言えるでしょう。

「昆虫が、霊媒」というケースは、今になって思えば、私の過去の経験上も、いくつも思い当たることがあります。

子どもの頃に、お盆に親戚が祖父母の家に集まっているとき、毎年、その時期になると、家の中に、大きな「蛾」が、飛んできていました。窓を閉めていても、古い家ですから、どこかから、入ってきたのかもしれません。

それを見ていた叔父達が、「そういえば、ばーさんが(私からみれば、曾祖母)が、自分がしんだら、蝶々になって、皆に会いに来る、といっていたな」と。もしかして、この蛾は、ばーさんかもしれないから、捕まえずにそのままにしておこう、と。

一度だけではなく、何年か、そのようなことがありました。蛾の命は、そんなに長くないでしょうし、ましてや北海道で越冬できるとは思えませんから、別の蛾が来ていたと思います。大きなサイズの蛾ですから、たまたま、にしては、タイミングが合いすぎます。

もしかすると、そのとき、本当に、曾祖母のたましいが、その蛾に乗って、皆に会いにきていたのかもしれません。

それ以外では、うちの父が、家の前にいた、カブトムシ?だったかを捕まえてきて、唐突に、「おれは、お父さん(私の祖父)だ」とか、言い出したことがあります;。私も、母も、「は?( ̄A ̄)何故?」と、思ったのですが・・・(笑)、何故、家の前にカブトムシが、とは思いましたが・・・、それが、何故、祖父だと思ったの?と。

でも、今にして思えば、うちの父も、相当に霊感が強いので・・・、本当に祖父だった可能性もゼロではないような・・・。祖父のたましいが、カブトムシに乗って、父の前にあらわれたのかもしれないです。

こう、書いていると、過去に、同様のことが、いくつもあったな・・・と、どんどん思い出してきますね。

きっと、ご覧になっている皆様にも、過去を思い返してみると、こういう経験をなさっている人は、いらっしゃるのではないでしょうか。

「偶然」と片付けられたきたことに、ちょっと別の視点から意識を向けてみると、見えてくることは多いですね。

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