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2012年7月の14件の記事

2012年7月31日 (火)

「私って、運が悪い?」と、考えてしまうとき。

私は生まれ付きの運が悪いのでしょうか、とか、私の仕事運や恋愛運は低いでしょうか、などのご相談をいただくことが、しばしばあります。

私は、「運」というものが、全くない、迷信だ、というつもりはないです。「運」というものを、どのような意味でとらえているかにより、答えは変わってきてしまいますので、ここでとりあげる意味としては、自分の努力や行動が及びにくい、既に決まっているもの、与えられているものとしての要素、という意味で、運を捉えた場合です。(○○運が低いか、というのは、そういうことを聞いていると思うためです)

スピリチュアリズムにおいては、統計学の占いのような○○運、という捉え方は一般的ではありません。決して、占いを低くみているわけではありません、比較のためには基準となる要素がそろっていることが必要で、そもそも、その成り立ちや、定義が一致していないところからの比較はできないと思っています。

統計学的な占いというのは、たとえば、血液型なら4種類、干支や星座なら12種類、などの、きまった枠組みがあって、その4種類なり、12種類なりの中で、相対的に、どちらが上か、下か、高いか、低いか、という比較はできると思います。

しかし、スピリチュアリズムには、きまった数の枠組みや種類の定義はないので、○○運が高い、低い、というのは、「何と比較して、そう判断するか」の基準がないので、そういう質問へのズバリの答えは難しいのです。

そうはいっても、中には、いつもお仕事が上手くいっている、とか、いつも恋愛が幸せそう、という人は、存在するよ、という意見もあるでしょう。私は、そういう人がいることや、そういう傾向を持った人がいることを、否定しているわけではありません。そういうタイプの人は、実際にいると思います。

しかし、その「差」を、○○運、というひと言でくくってしまったら・・・、それは、まったくスピリチュアリズムの目的である、この世で私たちが肉体をもった霊(人間)としての学びの中で成長していく、という趣旨において、役に立つ理解や情報とはなりえないと思うのです。

その差が、どこにあるか、あの人はなぜ、仕事に恵まれているのか、恋愛が途切れないのか、では、自分もそうなるためには、何をしたらよくて、何が十分ではないのか、を、考えていき、自分をより向上させていくための材料として、その違いについて考察したり分析したり、他人の意見を聞いたり、という、捉え方が大事ではないでしょうか。

そういう観点からの質問ならば、きっと、何かしらのヒントなり答えなりは、あると思います。

しかし、原因や動機や個性といった、根幹のところを踏まえずに、結果だけに判定をつけるような捉え方だと、「まず、その設問自体が、ずれている」ので、答えも、はっきりとしたものを提示することはできなくなります。

つまり、「○○運」の高さ、低さで、物事が決まっているかのように捉えている人(そう捉えているからこその、質問だと思うので)は、自分は何が得意で、何が苦手で、どんな個性をもっていて、どんな傾向が見られるか、というような、自己分析が十分でなく、そういう考え方をあまりしていない人が、(スピリチュアリズムに対して)抱きがちな質問、だと思うのです。

私たちには、持って生まれたそれぞれの個性がありますから、生まれた瞬間に、全員が横並びでゼロからスタートするわけではなく、得意分野、苦手分野などは、ある程度、備わった性質があります。

自分の人生や現状に、不満や不安がある人は、まずは、それらを、自己分析をしていき、見つめ直すことや、自分を知ることによって、どこをどう工夫すればいいか、という点が見えてくると思います。

いろんな、一般的な手段や方法は、試した全員に同じ効果がでるわけではないですよね。なぜなら、手段とは、それ単体で効果を生むのではなく、手段と自分との「掛け合わせ」によって、作られていくものだからです。

自分という数値が小さければ、掛け合わせの数値も小さいままとなり、自分がつかめている人ほど、その個性に見合った手段を選択することもできるので、数値も大きくすることができます。つまり、自分を知っていて、自分にふさわしい手段を選んでいる人ほど、掛け合わせの数値の大きさ、つまり、効果もまた、大きくなっていくことになります。

そういう深い考え方が、たましいの成長に繋がるのであり、そして、この世という学びの場所を、有意義に過ごしていくための、日常で現実に活用できる「知恵」に繋がっていくのではないでしょうか。

それぞれ、個性があって、一律に比較はできない中でも、いつも運を引き寄せているように見える人と、そうでないように見える人は、いると思います。

しかし、誰にも、良い時期だけが続くということはなくて、良い時期も、そうでない時期もあり、ある特定の人だけが、「運」という不確かなものを根拠に、いい目ばかりみる、ということはありません。

その、良い時期のいろんな流れを上手く活用して、チャンスを活かせる人とか、工夫をして広げて行ける人、または、良くない時期を、準備期間に当てていき、焦らないで先に備えていく、という、メリハリを付けられる人が、(そういう見方をしていない人の目から、表面だけを見ると)運のいい人、に、見えてしまい、自分と差があるように感じるのではないかと思います。

思考というのも、行為のひとつで、エネルギーをもち、作用していきます。上記のような分析を、頭の中で行っていくだけでも、自分から放たれるエネルギーが変化していき、ということは、自分と引き合うさまざまなご縁や出来事も変わってきます。そこから、いろんなことが変わっていく可能性が広がります。

「運」(という表現を、使うならば)を、良くするのも、悪くするのも、自分しだいであって、もちろん、そのすべてを自分がコントロールできるわけではないけれど、「掛け合わせ」となる自分自身のことは、少なくとも、働きかけを工夫する余地があるのは確かですから、そちらのほうに焦点をあてて、とらえていくことが、実り多き人生を呼び込むことにも繋がると思います。

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2012年7月28日 (土)

自然霊が、私たちの指導霊になることはあるのか。

自然霊とは、「この世に姿をもったことのない霊」のことを言います。つまり、以前は、人間だった霊のことではありません。

スピリチュアリズムに関心を持っている人にとって、一般的にわかりやすいのは、龍とかお稲荷さん(狐)の霊などでしょうか。またはフェアリー(妖精)なども、自然の霊、つまり、人霊ではない霊、です。天使、なども、同様に、自然霊の呼び名のひとつ、と考えていいでしょう

私たちの、この世での学びをサポートするのは、「グループソウル」という、たましいの縁で繋がっている、親和性の深い霊が、その役割を担うものですが、スピリチュアリズムでは「指導霊」とい名称がつかわれます。もっと広い意味で、「守護霊」とまとめられることもあります。

これらの呼び名は、こちらの世界で、スピリチュアリズムを研究する人間達が、理解のために「便宜上」付けた呼び名であって、霊のほうから、私たちは○○霊である、と、名乗ってくるわけではありません。

わかりやすく、ざっくりとまとめると、以前にこの世で肉体をもって人間だった人生を経験している、霊、たとえば、武士の霊とか、お坊さんの霊とかは、「人霊」で、竜とか、天使とか妖精などと名称を付けている霊は、広い意味で(人間の霊ではない、という意味で)すべて、「自然霊」と分類することができます。

人霊とか、自然霊とかいう区分けは、たとえば、男、女、東洋人、西洋人、のような、「タイプ」であって、指導霊とか、守護霊とかいうのは、たとえば、課長、リーダーとかのような、「役割」の分類、と考えていけばわかりやすいでしょうか。

通常、私たち人間の、指導霊をになう、親和性のある霊は、やはり、もとは人間だった霊の、お坊さんの霊や、武士の霊であることがほとんどです。

が、中には、自然霊も、その構成の中に、入っている人をたまに見かけます。たとえば、稲荷(狐)の自然霊が、指導霊のような形で、導いていることがあるのです。

それは、狐という動物の霊、ということとはちょっと違っていて、いわゆる「ご眷属」というのでしょうか、本来、姿形のない、最高級の自然霊?ともいえる神が、目に見える形として、動物などを遣わすことを指す言葉ですが、そういう、ご眷属のエネルギー体、とでもいえばいいのでしょうか、そういう霊が、いることもあるのです。

自然霊の指導霊?は、人霊の指導霊とは違って、人間的な感覚での、言語のメッセージのようなものは、とくにもっていなくて、おそばで導いていらっしゃる、という感じで、文章化してお伝えするような内容は、特にない、というケースがほとんどです。

先ほどの霊でいえば、狐のご眷属霊が後にいらっしゃる方であれば、わりと衣食住に恵まれやすいとか、物質的なものにはあまりこまらない、という特徴を持っていることも少なくありません。

稲荷神社というのは、農耕や商業の神様といわれている存在を奉っているところですので、そのエネルギーを帯びている霊がいらっしゃると、そういう影響が出たりすることはあるのです。

江原さんの書籍によれば、守護霊を細かく分けると、指導霊の他にも、(スピリチュアリズムの上で)いろんな分類があって、中には、支配霊と呼ばれる役割の霊がいて、この役割は、自然霊が担っていることが多いのだそうです。自然霊は、私たちの指導霊になることは少なくて、支配霊になることのほうが多い、と。

そこから推察するに、(私は、支配霊というのは、どのように把握すればいいのかわからないので、そこは分かりません)、きっと、私たちの誰もが、親和性の深い自然霊は「いる」のだと思います。

しかし、その霊は、ずっと後に控えていて、とくに前面に出てくることは役割上なくて・・・、でも、中には、その(誰にでも、深いところまで探れば、存在するのであろう)自然霊が、わりと前面に出てきて、指導霊的な役割を果たすケースもある、ということなのではないかと、そんなふうに理解をしています。

私の記憶では、以前の、オーラの泉で、劇団ひとりさんがゲストに出たときに、江原さんが、ひとりさんの守護霊は、宇宙生命体みたいな自然霊の存在、とか、そういうことを言ったんですね。つまり、宇宙人である、と(笑)。その瞬間、スタジオは、しーーーーーーん、となって、国分さんも、かなり目が泳いでいたような(^^;)、そんなことがありました。

ひとりさんは、とても才能あふれる方で、そういう意味では、宇宙人?の守護霊であってもびっくりはしない?のですが、(人霊の守護霊がいない、というわけではないと思います。霊がひとりだけ、ってことではないので)、才能がある分、かなり個性的で、変わっている感じもしますよね。彼は芸能人だからお仕事的に、そういう才能がちょうどよいのだと思います。

でも、人それぞれ、今回の人生における学び、カルマは、違っていますので、その学びに見合った霊が、導く役割をになっていきますので、自然霊がその役割の中に含まれている、というのが、素晴らしいとか、優れているとか、そういう優劣とは違うのです。人それぞれ、自分の学びに見合った霊が導く、という仕組みですから。

そして、親和性のある霊のつながりを、深いところまでとらえていけば、誰もが、自然霊ともご縁はあるのだと思います。

タイトルの、「自然霊が、私たちの指導霊になることはあるか」という設問に対する答えは、

一般には、人霊が多いが、中には、自然霊が指導霊的役割を果たしている人もいる。しかし、それは、その人の学びの種類に合わせてことであり、良い悪い、という優劣があるわけではない。そして、あえて前面に出てくることはなくても、深い繋がりまで遡っていけば、誰もが、親和性のある自然霊の存在が、遠くで見守っている、という感じのまとめになると思います。

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2012年7月27日 (金)

理解が深まるために必要な「時間」「期間」を受け入れる。

理解の深まりは、どこまでも終わりがないものです。表面だけの理解は一瞬で出来ても、深いところまでの理解には、時間が必要です。

自分が成長するまでの時間、たくさんの経験をするための時間、同じ出来事を違う視点から見る機会を得るまでの時間は、必要なものです

早く到達するのが良いことばかりとは限りません。時間を掛けてこそ分かる領域、というものがあります。

日々、さまざまな経験を積み重ねている中で、無数の「経験」をしていきます。それらの経験を通して、いろんな事に気づき、学び、理解をしていき、私たち人間は成長して行く仕組みになっています。

しかし、単に、出来事を経験した、というだけでは、学べる範囲は狭くなります。経験から、さまざまな分析をしたり、思考を重ねたり、過去と比較したり、または、その出来事の関わる人とのやりとりの中に、広く大きな学びが含まれています。 そして、学びが大きくなるほど、矛盾を感じたり、不愉快な感情になったり、比較をして苦しんだり、さまざまな思いが付いてまわるようになります。

私たちが、この世で味わうすべては、必要だからこそ起こる、大切な要素であり、無駄なものはひとつもありません。苦しい感情や思いが出てくるとしても、そういう葛藤があるからこそ、違う見方ができたり、なんとかして打開策を見つけようと工夫をしようとしたりして、視野が広がっていきます。視野が広がると、その分、見えてくるものが増えていき、理解も深くなります。

それらの一連の経験をするためには、どうしても「時間」が必要です。この世で生きる上で、経験を積むには、時間を費やすことになるからです。

思考での理解が進んでいる人ほど、経験のための時間が、もどかしくなる傾向があります。

思考はどんどん進んでいけても、その思考のとおりに実際の行動をとるには、思考に掛ける時間の数倍~数十倍がかかります。思考力がある人ほど、この期間の進み方が「遅い」と感じてしまうからです。

頭では分かっているのに、現実が進んでいかない、展開までに時間がかかる、というのは、思考の力が強い人ほど、苦しみを感じるものです。

しかし、それらも、受け止め方を変えていけると、逆に「楽しみ」に転換できることもあります。

たとえば、旅行に出掛ける際には、1泊二日よりも、3泊四日のほうを、望む人は多いと思います。長いほうが、望ましい、と思っているからです。なぜ、旅行に対して、長いほうがいいと思うか、といえば、そのほうが、いろんな経験が出来て楽しめるから、です。

また、好きなテレビや映画を見ているときには、「もっと長く見ていたい」という気持ちになりますよね。楽しいことは、「もっと早く進んで、終わりたい」とは、受けとめないものです。

日常のさまざまな出来事にも、そのような考え方を当てはめていけます。「人生という旅」における経験を、味わっていこう、楽しんでという広い受け止め方をしていくと、きっと、もどかしさは薄れていくでしょう。

そのことに関わっている中で楽しみを感じられれば、時間が掛かることもまた楽しい、と、そう思えますよね。

子どもの頃にはわからなくても、大人になって、その意味が分かった、という経験が誰にもあるはずです。それもまた、自分が「時間を掛けて」成長したからこそ、到達できた領域です。

この世で生きる以上、どうしても、時間、期間が必要ならば、それを味わい楽しむほうが、より豊かな心を育てることができる、と、受けとめていきましょう。

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2012年7月25日 (水)

転換期の捉え方と付き合い方。

私たち人間は、この世で、さまざまな出来事を経験することから、いろんなことを考えたり感じたりしながら、自分のたましいを成長させていく、という学びを経験しています。

その際、今回の人生はこういうことを学ぼう、という大枠の内容を決めて、自分が実際に生まれる時代や国や家族や性別などを、自ら選んで、しかし、生まれてしまうと、そんなことはすっかり忘れて(笑)、私たちはこうして、日々悩んだり苦しんだり、理不尽に思ったり、不公平じゃないかと怒ったりしながら、過ごしているわけですね(^^;)。

しかし、ある程度の大枠の学びは決めている、といっても、細かい部分の何もかもが、決まった筋書きになっているわけではありません。日々、積み重ねられた出来事が、いろんな形で未来への影響として繋がっていき、まさしく今、その要素となることが作られていくので、流動的な部分も大いにあるのです。

そうして、変化の連続、その都度いろんな要素が交差しあう流動性をもった、ひとときとして、動きもなく変化もない状態、とはならない、私たちの人生が存在するのですが、その中でも、数年おきくらいに、「転換期」と呼ばれる時期がやってきて、状況が大きく動いたり、さらに向上するための、シフトアップをさせられたりするようになっています。

そういう時期にさしかかると、とても眠くなったり、懐かしい人との再会が次々繰り広げられて、過去を振り返る機会を持たされたり、または、いろんなものが次々壊れたり、馴染んだものと疎遠になるなどして、「次」へと促されていくような、印象的な出来事が起こっていくようになります。

私が多くの方を拝見して統計上思えるのは、その時々の、ご本人の成長度などにより前後はするとしても、だいたい、2年半から3年くらいサイクルで、ひとつの学びの時期を終えて、次へと移り変わっていく、という流れがつくられていく場合も多いようです。

もちろん、それ以外のもっと短いサイクルでも変化はなされていますし、もっと大きな、人生に数度の転換期、というものもあると思います。(それらの、「どこ」を「転換期」ととらえるか、により、解釈にも違いが出てくると思われます)。

いずれにしても、私たちの人生は、変化の連続です。常に変化していて・・・、同じでいたいと思っても、同じではいられないのが人生である、とも言えます。

仮に、その出来事が、自分のたましいが、生まれる時点で決めてきた、想定内の出来事であって、決まった筋書きどおりに、決まったタイミングで展開したものだとしても、人間としての自分は、そんなことは覚えていないのですから、自分にとっては、びっくりするような大転換、となりますよね(^^;)。

転換期とは、「変わり目」です。次のサイクルへと、そろそろ流れが切り替わっていく時期ですよ、という、お知らせを含めた、準備の時期でもあります。

季節は、私たちが意識しようとしまいと、願おうと、願わなかろうと、そういうこととは無関係に、春から夏になって、秋の次は冬になっていく、という、自然の摂理です。

転換期もまた、季節が巡ってくるように、誰にでも関わってくる、「仕組み」です。

このままでいたいのに、今のままで満足しているのに、派手なことは望んでいない、慎ましく過ごしていたいだけなのに、なぜ、変化が起こるの?と思っても、それは、ずっと同じ季節でいられないように、受け入れていく必要のある、自然の摂理であって、真理の仕組みなのです。

「なぜ、ずっと夏のままでいられないの?」と思っても、「秋のままを持続したい!」と思っても、それなりの変化は、生きている以上、避けることはできません。

たとえば北海道は、梅雨がありませんから、冬の雪解け水がなくなったら困るので、ずっと夏のまま、では、生活に支障をきたします。

私は、冬が大好きで、雪も大好きだったのですが、・・・骨折で大怪我をしてからは、次の冬がくるのが恐怖です;。でも、いくら私が恐怖心を抱こうと、抱くまいと、そんなこととは無関係に後数ヶ月したら、確実に冬はやってきます(^^;)。

季節も、突然めぐるわけではないです。「夏」という同じ時期が続いていて、秋への切り替わりの時期に、大きな変化があらわれて、意識しやすいので、切り替わりの時期が「あるように見える」だけであって、実際には、少しずつ、秋へと向かっているわけですよね。

転換期も、目立って意識しやすい出来事が起こりやすいので、その時期に唐突に大転換したように思えても、毎日じわじわ変化してきたことの、延長上に展開する、目立ちやすい時期であって、季節の替わり目と同じ仕組みなのです。

あまりにその変化が大きいと、受け入れられない気持ちになったり、自分は悪くないのに思い通りにならない被害者だ、と、誰かを悪者にしたくなったり、なんとかして、今のそのままを変わらずに保ちたい、と、変化に抵抗しようと力を掛けてしまったりもします。

季節が変われば、服装を変えたり、行動を変えたり、または、その時々の旬の食べ物を楽しんだりして、生活のスタイルを合わせていくように、人生の変化も、「そういうもの」として、受けとめ、その中で、存分に自分らしさを発揮して、味わい楽しむくらいの気持ちで、うまく、適応していけたら一番よいですね。

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2012年7月24日 (火)

他人を言い負かすと、具合が悪くなってしまう?

怒りでいっぱいになったり、ひとつの出来事に思い強くすると、消耗し過ぎて疲れてしまうことがあります。

しかし、そういう意味での消耗とはまた別の感覚で、他人を言い負かしたり、他人のミスを指摘することで自分の正当性を主張した後に、なぜか、体調が悪くなってしまう経験をしたことはないでしょうか。

この仕組みというのは、強い感情でいっぱいになることで、消耗して、自分のコンディションが下がってしまうことや、対立したときに、相手を尊重することなく、自分の主張だけを(自分が正しいとしても)強く行ったことにより、理性がなくなって、感情にとらわれてしまう、という、やはり、コンディションが下がったことも、少なからず影響しているのですが、それ以外にも、エネルギーレベルでの別の作用もあるためです。

言い合いになったり、対立になったりするときに、通常は、どちらが一方「だけ」が悪いということはなく、どちらにも、それなりの原因があったり、または立場上の見方の違いからの認識の差が影響してのことで、どちらにも、その人なりの言い分はあって、100対ゼロ、ということはまずありません。

けれど、そうかといって、すべてが、50対50にもなることは少なく、相手が一方的にすべて悪いとはいわないが、もちろん相手にもそうする理由があるとはいえ、しかし、一般的・客観的に見ると、どう解釈しても、相手の言動のほうに、大部分の原因があり、どちらかといえば、自分は巻き込まれている、というケースもありますよね。

そういうケースにおいて、「相手を言い負かした形にになった(どちらかといえば、自分が勝ったような形になった)後に、自分の体調が悪くなる」という状態を招くことが、少なくないのです。

相手がだらしないとか、きちんとしないとか、約束を守らないとかの事情がある場合、主張する自分のほうが、立場が強気になれます。自分の言っていることが、世間一般で考えたところの常識に叶っていて、相手がそこから外れているから、自分の主張は不当ではない、という思いがあるからです。

そのため、どうしても、強い態度で、相手に向かうことになりますし、相手のほうもまた、その人なりの言い分はあるとしても、やるべきことをきちんとやってない、という負い目があるから強気には出にくく、自分のほうが優勢になりますよね。

そういう対立というのは、優勢になった自分(相手を言い負かして、勝ったほう)が、相手のエネルギーをうばうような形になり、相手のほうは、エネルギーをとられるような、主従、上下、のような力関係になります。それは、例えではなく、実際に、そのように、エネルギーが動く(移動する)のです。

うばったエネルギーはどうなるか、というと、自分の中に取り込むことになります。そのため、相手は、エネルギーを奪われるので、活力がなくなって弱気になり、エネルギーをうばったほうは、エネルギーが増えたので、満たされて、活力がみなぎったかのような状態になります。

言い負かした後に、「してやったり」のような、満足した思いなるのは、そうして、自分のエネルギーが増えていて、底上げが起こっているため、でもあるのです。

相手を言い負かしてやろう、としているとき、最初はそのつもりがなくても、だんだん、そういう気持ちが出てきたときには、自分自身も感情に駆られて、理性をなくし、少しずつ波長が下がってしまうものです。

ただでさえその状態なところに、さらに、プラスアルファーの原因がからんできます。それが、相手から、奪った形になった、エネルギーの作用です。

なぜなら、そもそも、対立の発端となっているのは、きちんとしていない、とか、約束を守らないとか、責任を果たさないとか、そういう理由があってのこと、ですよね。つまり「そういう相手」の、きちんとしていない状態でのエネルギーを、うばいとって、そして自分に取り込んでいるわけですから、・・・それは、調子が悪くなることもあり得る、とわかると思います(^^;)。

でも、相手が、自分にエネルギーを勝手によこしてきたわけではありません。言い負かして、強気で感情的なまでに主張をする、という、自発的名行為によって、なされた結果であり、それは、自分のせい、ですよね。

どんな場合でも、自分が正しいと思っても(そして、それは客観的に正しいと思われるものであっても)、何でも主張すればいいわけでもない、正しいからといって、感情的に攻撃する行為が正当化されるか、といえばそれはまた別の問題で・・・、仮に相手に全面的に非があろうとも、言い方や態度には、心掛けていかなければならない部分がある、ということを、その仕組みが、教えてくれているのではないでしょうか。

最初は、相手の言動をたしなめよう、という動機でスタートしたやりとりのはずが、だんだん感情的になってくうちに、相手に向かって、(対立している理由とは別の)自分のストレスを発散するという、歪んだ「楽しみ」を見出して、エスカレートすることもあると思います。

そういう部分は、相手には関係のない、自分自身の問題なので、やはり、自分がしたことが自分に返る、というカルマの法則で、言い負かして、相手をへこませて、勝った・・・はずが、自分が体調が悪くなる、という形で、学ばされてしまうことになるのだと思います。

狭い範囲での「正しさ」は、ときに、広い視野をとざし、バランスを悪くしてしまうこともありますので、常に自分を省みて、改善するところは改善していく、という素直な姿勢で、その上で、主張すべきことは、その場や相手と自分の関係性にふさわしい形で伝えていく、という、使い分けが大事なのだと思います。

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2012年7月23日 (月)

複数の価値観の中で、もっとも「重い」ものは、自分の内側にあるべき。

物事を判断したり、決断したりする価値基準を、どこに置いているか、というのは、さまざまな表現で語られます。

たとえば、「自分が何をしたいかが大事であって、他人からどう見られるかを意識してしまうと、自分らしさが損なわれる」などと、価値基準を、自分の「外」に置いてしまうと、常に他人を気にしながら生きていくことになるので、自分を基準にする大切さを説いているものはたくさんありますよね。

たったひとつの価値基準で生きている人はいなくて、誰もが複数の、ときに、その両立が矛盾しているような(^^;)、いろんな判断基準をもっているものです。それもまた、個性であり、どれが正しいとか、間違いという、○×を付けられるようなものではなく、「複数の価値基準を、その場により使い分けて、うまく適応している」のが、私たち人間の在り方です。

複数あっていいのです。ですから、最初の例として書いた、「他人からどう見られるか」を、基準として持っていても、いいのです。というより、他人からどう見られるかを、まったく考慮しない大人がいたら、別の意味で、困ってしまいますよね;。

他人からどう見られるか、を、もっとも比率の高い基準として、自分自身の重要度を下げてしまうのは、改めたほうが望ましいですよ、というふうに、とらえていけばいいと思います。

では、なぜ、価値の基準が、自分の外側にあると、よくないと言われるのか、内側が望ましいのか、というと、「物事を判断するための、基準点が一定しない」からです。

たとえば、おきあがりこぼしというのは、本体の中心下部に重りがあるので、揺り動かしても、その場を前後左右にくるくる動くだけで、本体の位置はあまり動きません。重りのある位置は、しっかり固定されています。

その状態、自分の内側の、そして、しっかりと、下の方に「重さ」があれば、外からの刺激により動きがあるとしても、基準となるところはしっかりとしていられます。「自分」という器に、刺激をうまく加えていくこともできるのです。

もしも、起き上がりこぼしの、頭に重りがあったらどうでしょうか。それって、とても不安定で、足元がふらふらして、結構、位置が動いてしまいますよね・・・。不調和があって、オーラが浮き上がっている人は、重心が上部にきて、不安定になることがあります。

どちらも、自分の本体の中に、重りがあるとしても、収まりがいいのは、やはり、「重りが、あるべき位置に、ある状態」なのです。頭に重りがついている起き上がりこぼしは、・・・ちょっと不自然ですよね(^^;)。やっぱり、本来の姿が一番です。

他人からどう見られるかと気にしていたり、自分の中にないものにあこがれて、意識を外へ外へと、過剰なまでに向けている人の状態とは、中身が空洞の(重りなしの)起き上がりこぼしが、ハンマー投げをしているような状態です。重りが外にあって、そして、そちらに向ける意識の比重が高いから、どんどん回って加速をつけていきます。

本来のハンマー投げは、自分の体重があるので、自分が空洞ではありませんし、最終的には、重りを手から放しますので、自分の位置は、それほど動きません。

しかし、空洞のおきあがりこぼしが、ハンマー投げをして、くるくると加速していったら、・・・自分自身も、重りと一緒に、飛んでいってしまいます;。

自分があちらこちらと、飛んでいってしまったら、基準点がその都度移り変わるわけで、一貫したものがありません。

そうなると、いつまでも、本体の内側に、重りがつくられていかないのです。自分では、あちらこちらと、フットワークかるく、動いていくことで、自分の中をいっぱいにしているつもりでも、その都度、本来の自分のあるべき位置から飛ばされていて、そのケースごとの、何かは、自分の糧になるとしても、同じ基準値を深めていく重りの役割にはなりようもなく、共通しない、「いろんなもの」が、増えていくだけ、になることもあるのです。

しっかりと、自分の中心下部に重りがある状態での、ハンマー投げは、きっと有意義でしょう。重りを、外側に(でも、もっとも重いのは、内側です)置いて、その勢いを付けて、くるくる回ったら、自分の活動範囲を広げていけそうですよね。仮に、勢いがつきすぎて、重りに振り回されたとしても、そんなに極端な、自分を見失うほどの移動距離にはならず、それもまた経験として、生かすことも出来やすいのではないでしょうか。

外に価値の基準を置くことが、悪いわけではありません。内側「だけ」にとらわれるのがいいわけでもありません。

大切なのは比率であって、自分の内側への信頼が、もっとも重くあることを意識していけば、むしろ、外に価値観を分散しいくほうが、自分自身の器や活動範囲を広げていくという、メリットに繋がることもあるでしょう。

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2012年7月21日 (土)

霊感が平均より強い人ほど、気をつけなければならないこと。

心身に不調和がある状態、とくに、心、精神の面という内面に、アンバランスが見られる場合は、その状態を反映して、オーラのコンディションも下がっていきます。

そのため、オーラが分かると、逆算的に、その人の内的な状態が(オーラの様子に反映しているために)把握することができる、というのが、いわゆる、オーラリーディング、というものの仕組みだと思います。

不調和があるときには、オーラが肉体からずれた位置にあるように見えます。言い換えると、オーラが、肉体という器の中にきちんと収まっていない状態、ともいえます。

オーラが、肉体から大いにずれていると、その人の意識は、肉体を通した、現実社会の把握のほうに向かずに、「霊の世界」へと向かいます。霊の世界という表現がわかりにくければ、見えない世界、エネルギーの世界、または、思考や感情や意識などの物質として表れない部分へ過剰に向かっていく状態という解釈でもいいでしょう。

以前に、オーラが浮き上がっている(ということは、肉体からずれている、ということです)人は、雑念が止まらなくなる、という内容の記事を書いたことがあります。

それも同じ仕組みで、オーラが肉体という器にしっかりはいっていない人は、思考や感情や意識の世界に、過剰に同調してしまうために、雑念が止まらない、という状態が作られます。

私たち人間も、肉体をもった霊的存在であり、霊である以上、霊的要素と関わりながら過ごしているのですが、しかし、肉体を持って、この物質社会であるこの世で、生きている間は、霊としてのさまざまな感覚は制限されていて、・・・というよりも、制限された環境をあえて選んで、その中での経験を学んでいます。

肉体を持っている状態での思考や意識は、この世の仕組みである「時間」というものに合わせて、最近の記憶や印象が鮮明で、古い記憶や印象は薄れていく、という差がついてきます。

ところが、状態がアンバランスになると、肉体で制御している意識の要素が、過剰に外側にはみ出してしまい、今考えなくてもいいこと、ものすごい過去の記憶やら、重要なこともそうでないことも、いっきに自分の意識の中にはいってきて、オーバーフローになります。自分が「肉体を伴った状態で、扱える容量」を超えてしまうのですね。

そこまでになると、多くの場合、体調も悪くなります。活力が、意識のほうばかりに過剰につかわれて、肉体面にまわっていかないからです。

ところが、平均よりも霊感が強い人は、(霊感は、誰にでもありますので、「平均より強い、弱い」という表現で記しています)、それだけ、扱える容量の器も、平均よりも大きいので、「アンバランスになっても、大きな不調和が外に表れにくい」という、いいんだか悪いんだか、よくわからない状態(^^;)が作られてしまうことがあります。

普通なら、オーバーフローになるところが、サイズの大きい器の中で、なんとか収まってしまうので、自分も周囲もその不調和に気づきにくくなってしまうのです。

それでも、いずれ、元の望ましい状態に戻っていけるなら、ほんの一時期そうなることは、誰にでも起こり得るので問題はないのですが、その状態が、長期化してしまうと、元の状態に戻すのはかなり大変になってしまいます。

平均よりも霊感が強い人が、肉体からオーラが浮き上がるような状態になって、思考や感情や意識の方面にひっぱられるようになると、器が大きいので、影響のされ方も大きくなり、雑念が次々に出てきたり、無作為に思考や感情が(時系列を無視して)どんどん自分に向かってくる状態を、「自分は、高位の霊と、通信をしている」と、思い込んでしまうことがあります。

高位の霊が自分に対してアクションを起こしているために、その状態が作られている、と、なんの分析もなく、真偽も疑わず、思ってしまうのです。

なぜなら、分析をするとか、真偽を疑うとか、そういうことは、理性で行うものですから、意識の世界に自分を無防備にさらしている状態の人は、理性が働きませんので、どんどん影響されてしまうのです。

その状態が長期化して、オーラがきちんと肉体にはいっていない状態が普通になってしまうと、こちらも以前に書きましたが、あやつろうとしている霊に憑依され、自分と本来の守護霊との「間」に、入り込まれてしまうこともあります。

そして、自分は高位の霊と通信をしている、という思い込みが、そのままスライドして、今度は本当に、霊との通信がはじまったりもします。・・・その相手となっているのは、守護霊との間に入り込んでいる、低い波長の霊です。

霊的な感性を磨くこと、霊的真理に関心を持つことは、素晴らしいと思います。が、それは、自分の現状の器の大きさに見合っていることが前提です。器からオーバーフローになると、思いもよらない類の不調和が出てしまうこともあるのです。

そして、上記のようなことは、「平均的」な人よりも、むしろ、「平均よりも霊的感性が高い人」のほうが、起こりやすい、という点がポイントです。小学生と中学生の勉強の難しさの違いのようなもので、後者のほうが、より大きな比率で、自分を律していき、好奇心に流されないことを、求められていくからです。

スピリチュアルな分野、霊の世界への、興味関心が(適度ならいいですが)過剰になってしまうと、意識が現実に向かなくなるので、どんどん、肉体との繋がりが薄くなり、あちらの方面だけに感化しやすくなり、そして隙ができて、大変な状況を伴って学ばされてしまうことになると思います。

だから、気をつけなければいけないんですね。まともなスピリチュアリストは、安易に霊的な方面への好奇心をあおることはしません。そういう危険性を、分かっているからです。

こういう場合、本来の守護霊はどうしているか、というと、・・・たぶん、多くの場合、「傍観」でしょうね。

守護霊の願いは、その人のたましいの成長ですから、その人本人が経験から学んで、より強い自力を備えていくために、あえて、何もせずに、気づくまでを見守っている場合もあるのです。

この世で生きている私たちは、誰もが未熟なたましいで・・・、だからこそ学んでいるわけですから、ときに、そういうことが、長い人生の中で、あってもいいのです。それらの経験を通して、真理が分かることもあるでしょうし、そういう経験をしてみないと、恐ろしさがわからないこともあると思います。

しかし、いつかは、その状態に気づき、自分の本来の波長を取り戻し、本来の守護霊からの導きを受けて、すべての経験を成長に繋げていくことが大切です。

今回の話は、ちょっと怖いかもしれませんが、実は見えないところでは、こんなことが起こり得るので、学びを見失わないことと、謙虚な姿勢を忘れずに、できれば、悪い影響から反面教師として学ぶよりも、良い影響を与え合うという形での学びが多くなるような、そんな生き方をしたいものです。

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2012年7月20日 (金)

自然霊とは?

自然霊とは、「この世に姿をもったことのない霊」のことを言います。

私たちの曾祖父母、祖父母などは、家系という縁で繋がっている「先祖霊」です。

私たちの、この世での学びをサポートしているのは、「グループソウル」という、たましいの縁で繋がっている、「守護霊」「指導霊」です。

これらの呼び名は、こちらの世界で、スピリチュアリズムを研究する人間達が、理解のために「便宜上」付けた呼び名であって、霊のほうが、自分達は●●霊である、と、名乗ってくるわけではありません。

私たち人間も、実は、肉体を伴っている、霊的存在なのですが、私たちを含めて、先祖霊も、守護霊も、指導霊も、通常、私たちが深い関わりを持つのは、「人霊」であることがほとんどです。つまり、この世で、人の姿をもったことのある霊となります。

自然霊とは、その点が違っていて、人の霊ではありません。 スピリチュアリズムに関心を持っている人にとって、一般的にわかりやすいのは、龍とかお稲荷さん(狐)の霊などでしょうか。またはフェアリー(妖精)なども、自然の霊、つまり、人霊ではない霊、です。天使、なども、同様に、自然霊の呼び名のひとつ、と考えていいでしょう。

人の霊というのは、通常、生前の姿で可視化されますが、霊そのものが、人の形をしているわけではありません。霊というのは、エネルギー体ですから。しかし、必要のあるときには、やはりこちらも便宜上、生前の人としての姿を伴って見せてくる、とも言えますし、人の姿のエネルギーを「備えている」から、そのように見えている、とも言えます。かつては、人間として、この世に姿があったわけですから。

しかし、自然霊とは、この世に姿を現したことがない霊なので、きまった形を持ちません。純粋なエネルギー体です。

それが、なぜ、龍の形になっていたり、狐の形になっていたりするのか、というと、人間のほうが、自然霊に対して、そのようにイメージを持っているので、そのイメージをつかって、可視化しているためです。

同じような性質の自然霊を、西洋では羽の生えたティンカーベルのような妖精のイメージでとらえていたり、それが、東洋にくれば、もしかすると、仙人のような姿に見えたり?していることも、あるいは、あるのかもしれません。

自然霊を考えるにあたり、誤解しやすいのは、自然霊の成り立ちと、人の霊の成り立ちの違いを、考慮しないことです。

どうしても、イメージの中で、人の形に近い姿をイメージして(たとえば、羽の生えた妖精のように)しまうためか、自然霊を、過度に擬人化してとらえてしまう傾向があるように思います。

自然霊には自然霊の働きがあって、人霊には(私たち人間も含めて)人霊の働きがあって、それらの作用がさまざまに入り組んで、学びの場がつくられているのが、この世という場所、だと思います。

自然霊については、ちょっと複雑な説明になるところもありますので、何回かに分けて、ゆっくりと書いていければと思います。私が忘れなければ(^^;)、続きをそのうち書きたいと思います。

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2012年7月18日 (水)

最近、急に霊感が強くなったような気がする?

私たち人間は、「肉体をもった霊的存在」なので、誰にでも霊感はあります。といっても、見えたり、聞こえたりするだけが霊感ではないので、自覚していない人は多いですし、自覚があろうとなかろうと、必要な場面で、自然に使われていく感覚ですので、自覚がなくても特に不都合は生じません。

霊感の自覚の仕方にもいろいろありますし、その表れ方も、望ましい方面と、そうでない方面があります。

見えない形での導きや仕組みについて、理解が深くなって、鋭い分析力が身についてきた、という場合もあれば、未浄化な霊を見てしまうとか、憑依されてしまう、という形で、あまり望ましくない表れ方の場合もあるでしょう。

今回の題材は、後者のほう、憑依を受けることが増えてしまった、とか、未浄化霊をよく見てしまうようになった、というケースを取り上げていきます。

過去にも何度か書いていることですが、首の後側と、肩甲骨の間のあたりは、エネルギーが出入りしていく場所である、と言われています。

なので、その位置のオーラが、無防備な状態になっている人は、常に、さまざまなエネルギーに影響されやすい、と言えますし、逆にいうと、影響されているから、その部位のオーラがなかなか整わず、乱れてしまい、無防備な状態を作り上げていることにもなります。どちらが先、というのはなくて、両方が影響しあってループになってしまっていることが多いです。

その位置の状態が、整っていないと、容易に入り込まれて、影響を受けてしまうことになります。

オーラと肉体は連動していますので、オーラが整っていないときには、その部位の肉体にも、不調和が生じやすいですし、肉体に不調和があれば、オーラも整っていませんので、その乱れた部位から、入り込まれやすくなるわけです。

つまり、この二つの部位が、入り込まれやすい状態になってしまうと、霊的影響も受けやすくなります。

もともと、生まれつき、霊的エネルギーと馴染みやすい体質の人は、少なからずいるのですが、そこにさらに、上記のような不調和が生じると、二つの要素が掛け合わせとなって、大きな影響に繋がってしまうこともあるのです。

その人の年齢にもよりますが、だいたい、女性で、30代後半~、40代くらいになって、急に、霊的影響を受けやすくなった、憑依されやすくなった、という場合は、年齢による筋力の低下から引き起こされている場合が多いです。

女性は、一定の年齢を超えると、毎年1%くらい、筋力が下がっていくと言われています(鍛えている場合は別です)。

そういう、体力面での、変化の時期になると、影響の受けやすさが加速してしまう人が少なくありません。

首の後と肩甲骨の間がエネルギーレベルで干渉されやすい人は、その部位の骨がずれやすくなっているので、定期的に、カイロプラクティックなどにいくと、位置が戻っていくので効果的であることは、過去にも何度も書いてきました。

背筋が低下してしまうと、骨を引っ張って支える力も弱くなりますので、骨の位置も、ちょっとした刺激で、ずれやすくなっていくので、年齢が上がって、筋力の低下が顕著になると、その影響のされやすさも、格段に上がってしまい、悪影響に繋がっていると思われます。

なので、このケースに該当する人が、改善を図るならば、筋力UP、特に、背筋の低下を防ぎながら、体のケアをしていくことが効果的です。そうすると、筋肉というコルセットが、背骨をあるべき位置にきちんと支えてくれるので、影響されにくくなります。

で、タイトルに戻りますが、「霊感が急に強まったので、霊現象に遭遇するようになった」というよりは、体力が低下して、背中の筋力が弱くなったために、憑依現象が頻発するようになった、という説明のほうがしっくりくるケースも、中にはあるのです。

私は今、足の骨折による体力低下を回復するために、ジムに通っています。2ヶ月経っても、それもマイナスのスタートなので、怪我前に戻るのは時間が掛かるとしても、上向きになることは難しくないと思ったのですが、昨日のブログにも書いたとおり、体脂肪率も、体重も、まったく変化なし;で、めまいがしてきそうですが(笑)、

でも、自分では、少し、背筋が付いてきたような気がするんですよね、なんとなく。・・・数字上は、表れていないとしても(笑)。

で、そうなると、やっぱり、霊的な影響のされやすさが、多少ましになってきたように思います。回復までの時間が、以前よりも短くなってきたと思いますし、その原因として、以前と変わったことといったら、「運動をして、鍛えている」ことくらいしか、思い当たる要素がありません。

ジムにいくのは、かなり時間が取られるので、料金もそれなりに掛かりますので、なかなか、難しい人もいると思います。私も、足の怪我の件がなければ、きっと、行こうと思わなかったので、その気持ちもわかります。

日常のちょっとした心掛けで、筋力を落とさないように工夫すると、影響のされやすさは防ぐこともできますし、体のラインも整ってくると、自信に繋がって、気持ちが上向きになる場合もあると思いますので、出来る範囲で取り組んでいくことをお勧めします。

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2012年7月15日 (日)

すべてを悲観的に捉えてしまう状態を改善するには。

私たちの精神の状態は、その時により、上がったり下がったりしています。

悩み事や不安を抱えていたり、疲労が蓄積していたり、自信喪失状態のときなどは、波長が低下しているので、物事を、何でも悪いほうに受け止めてしまう、明るい希望が持ちにくい状態になりがちです。

なぜなら、波長が下がっているときは、「くすんで透明感のないフィルター」を通して、さまざまな物事を感知している状態になりますから、本来、それほど悲観的に受け止めなくてもいいことまでも、不安要素が付け加えられた解釈になりやすいのです。

ほんの少し相手からの連絡が遅れただけで、「私の提案は、迷惑だったに違いない」、

ノーの返事がきたら、「もう駄目だ、相手を怒らせた」、

というように、自分の勝手な(事実ではないかもしれない)想像で、物事を決めつけては、悲観的になったりします。

実際には、相手が迷惑かなんて、分からないですし、相手にも都合があって連絡が遅れることもあるでしょうし、その案件の返事がノーだったとしても、すべてを否定されたわけではありません。

そのことを、理屈の上では分かっていても、波長が下がりきっているときには、考え方が悲観的な方へと傾いてしまい、ポジティブな考え方が出来なくなります。

そういうときには、「今の自分の状態という、移り変わりのある要素」から視点を変えて、「移り変わりのない真理である、スピリチュアリズムによる解釈」に、立ちかえってみることが有効です。

個人的な感情や、状況・立場などの現実的要素を深く絡めずに、できるだけ客観性をもって、スピリチュアリズムの解釈を当てはめていき、 波長が下がった状態のフィルター(である、今の自分自身)から、意識を離していくようにすると、物事への見方が変わっていくこともあるでしょう。

「自分の価値基準」というのは、本来のあるべき状態での(高い波長で)、自分の考え方や捉え方を当てはめていくことであり、低い波長の状態になっている自分の感情的解釈に固執することではありません。

状態が下がっているときに、自分は、自分は、と、自意識を強くし過ぎるのも、あまりよくないのです。・・・というより、波長が下がっているからこそ、柔軟性がなくなり、過剰なまでに自分にこだわってしまう、とも言えるので、それは、裏表で、同じこと、でもあります。

「波長が下がっているときには、すべてが、悲観的に思えてしまうことがある」、

「そして、そんな自分自身を正当化して、こだわってしまうので、ますます抜け出しにくくなる」

という仕組みを、頭で理解しておくことは有効です。

自分に降りかかる出来事はすべて、何らかの意味がある必然で、すべては学びのため、という、スピリチュアルな視点を忘れないようにすると、低い感情や思いに、とらわれてしまうことは(無くなる、とはいいませんが)軽減することもできるでしょう。

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2012年7月 9日 (月)

他人が、自分を分かってくれることは、「感謝」に値すること。

望ましい人間関係が構築できるのは、お互いに自立していることが大事です。お互いを尊重し、そして自分を自分で立てていくこと(自立)ができれば、相手に過剰な期待も抱かず、違いも受け入れ合って、お互いを認めていくことができます。

依存の心は、誰の中にも、少しくらいはありますが、あまりに大きな依存的性質を持っていると、人間関係は上手くはいきません。

人間関係はお互い様であり、時に役割を入れ替えながら、相手のためになったり、自分のためにしてもらったり、のやりとりがありますが、依存心が強い人同士は、どちらも、「しれもらうこと」「分かってもらうこと」ばかり考えて、自分から寄り添っていこうとしません。それでは、良い関係は作られず、信頼も生まれませんよね。

依存心が強い人と、自立心が強い人では、自立心の強い人のほうに一方的な負担がかかり、依存の強い人は、自分が一方的に要求してばかり、となるので、自立心のある人のほうが、嫌になって離れていくケースが多いです。

依存心が強い人同士が、形を変えて結びつく形態に、「共依存」というものがあります。相手のために何かをすることで、自分の価値を計りたいと思うタイプの人は、何かをしようという意欲は素晴らしいのですが、「相手からの反応や感謝」を常に必要としていている、自分で自分を認められない、という意味では、(反応を)相手に依存している部分があり、して上げたい人と、してもらいたい人が、お互いを強く必要として依存し合っているのです。

依存が強い人にとっての人間関係とは、お互いに依存しあう「共依存」か、または、自立心の強い人との間で、不満や我慢いっぱいの関係になるか、の、どちらかです。

依存から相手に望む、「もっと、自分を分かってほしい」「もっと、相手は、自分にこうしてくれるべき」「なぜ、(相手が思い通りに振る舞ってくれないことを)自分だけが、我慢しなければならないのか」という気持ちは、不満を募らせます。

つまり、「相手が、自分を分かってくれない」「相手が、自分の望み通りの振る舞いをしてくれないことで、自分だけが我慢している」と、思っている人は、=依存心の強い人、ということになります。

どこが依存なのか、というと、「相手が自分を分かってくれるのが当然、と思っているところ」です。分かってもらえるのが当然であり、普通だ、と思うからこそ、(そうならない現状に)不満が生まれます。

相手が分かってくれるのは、当たり前ではありません。普通でもありません。

相手が分かってくれるのは、相手が譲ってくれて、自分に寄り添ってくれる、という、思いやりと奉仕の精神からきている、「ありがたいこと」であって、それを当然と思ってはいけません。

相手が、自分を分かってくれたら、それは「感謝しなければならないこと」であり、逆に「自分を分かってくれなくても、それが普通」なのです。

自分もまた、相手に寄り添う気持ちを持っていれば、自分が相手に不満があるように、相手も自分に不満があるかもしれず、お互い様なのだな、とわかります。そして、自分よりも相手を優先することが、どれほどにストレスになるかも、わかります(自分を省みれば、わかります)。

そう考えると、一方的に相手に不満を募らせている状態というのは、「自分が、相手を分かっていない」からこそ起こるのであり、自分が相手を分かろうとしていないのに、相手には、自分を分かってもらうことを当たり前だと思っている、ここに大きな依存があるのです。

自立心が強い人は、自分を分かってもらいたい気持ちがゼロ・・・とはいいませんが、あまり大きくありません。他人にわかってもらえなくても、自分がわかっていればそれでいい、他人が思い通りに動いてくれなくても、自分が率先して行動するので、相手に過剰な期待をしないのが、自立している人、だと思います。

自分のことは、自分が理解していて、そして、必要なことは、自分から率先して行動する、それが出来る人は、「思い通りにならない」という不満の気持ちで消費されるエネルギーが少ないので、気持ちに余裕があり、その余裕から、他人を思いやる行動がとれます。

他人を思いやれば、相手からもまた、同じものを返してもらえて、そこに、よい循環がつくられていきます。

相手に理解してもらいたい、寄り添ってもらいたい、と思うならば、まずは自分から、相手を理解しよう、寄り添っていこう、という姿勢を取ることが大事ではないでしょうか。

他人は、自分とは違う価値観をもった別の人間なのだから、そう簡単には、分かってくれいないし、自分の思い通りに振る舞ってもくれないのが普通であり、そんな中、自分に寄り添ってくれて、分かってくれる人がいたら、それは、感謝すべき貴重なことだ、と思っていれば、相手への過剰な期待から抜け出すことが出来ると思います。

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2012年7月 6日 (金)

守護霊と、自分との間の「隙」をつくらないように。

前回、守護霊は、人間が意図的に、くっつけたり、増やしたりすることはできない、という内容の記事を書きました。

守護霊とは、たましいの親和性を持った存在の中で、進化・向上した霊がその役割を担うのであり、そうすることに意味があるからこその繋がりであって、よそから、ご縁の薄い霊をつれてきて、付け足すようなことは、あり得ません。

しかし、ときに、「自分」と「本来の守護霊」の間に、違う霊が入り込んでしまい、一種、ガイド的な役割を「果たしてしまう」ケースがある、とも、前回の記事の中で書きました。

その件について、今回は書いていきたいと思います。

本来、私たち人間と、その導き役である守護霊は、密接な繋がりを持っていて、二人羽織のように、協力しあって、今回の人生という学びを行っています。

その繋がりが、しっかりとしているときには、上記のような、違う霊がはいりこんで混乱が起きるようなことはありません。

けれど、いつも一定のコンディションでいられる人は誰もいなくて、思い通りにならなくてイライラしたり、起こったり、他人を恨んだり妬んだりして、自分の波長を下げてしまうことは、ありますよね。

ずっと高いままの状態でいるのは難しく、上がったり下がったりを繰り返しているのが人間だからです。

そうして、自分の波長が下がって、その下がりの度合いが大きくなり、守護霊の高い波長と遠くなってしまい、隙ができたときに、別の霊が、その「間」に入り込んで、ガイド的な役割を、(本来の守護霊に変わって)行ってしまうようなケースも、ありうるのです。

ひとつ例をあげてみます。

以前に、江原さんと美輪さんが、「オーラの泉」という番組をなさっていたときに、ある男性のゲストさんに、上記の似たケースがありました。その中では、上記のようなしくみの詳細までは、はっきりとはおっしゃっていなかったので、たぶん、それは、同じようなことであろう、という、私なりの解釈となります。

その方は、前世で、いろんな戦いの人生を歩んでいた、というお話の後に、ナイフだか、刀だか、忘れましたが、「古い時代の武器をコレクションする趣味がありますね」、と、江原さんがおっしゃって、それで、その人が、そういうものに強い関心をもっていて、歴史や戦などにも造形が深い方であるのも手伝って、その想念やコレクションに引き寄せられて、ちょっとあまり程度の高くない霊が、集まってしまっている、と。それは、一種の憑依でもあるのだけれども、しかし一方では、あなたを助けるような働きをしてもいる、と。

そのあとも、あーだ、こーだと、話はあって、できれば、そのコレクションは、手放したほうがいい、と、お勧めになっていたと思います。

思いがつまった品物は、エネルギーが残りやすかったり、媒介する役割を果たしてしまったりすることもあるので、武器のようなコレクションをたくさんしているのは、良くないエネルギーを引き寄せてしまうこともあるから、という意味だと思います。

番組の中で、上記のようなことを、詳細にお話なさっていたわけではありませんので、私なりの解釈を加えて書いていますので、その点はお間違いのないようにお願いします。ガイド的な役割を果たしているとか、守護霊との間に入っているとか、そういう説明は、番組内ではなされてはいなかったと思います。

このようなケースは、ただ、憑依するのと違って、「ある種、助けにもなっている」のが、ポイントです;。

その霊の望み通りの行動をする分には、助けてもくれるのです。でも、本来の守護霊が望んでいるような、本人の成長を願ってのサポートとは別の意味で、ですが。

望み通りにするなら助ける、望み通りにしないなら助けない、というのは、とてもあからさまな感情的行動であり、高い波長の霊の意思ではありません。

そういう霊は、やけに饒舌であり、あれもこれもと、人間のやることに干渉をしてきます。ああしろ、こうしろ、そうすればご褒美をやるとばかりに、自分の思い通りにしようとします。

そういう霊に憑依されると、本人も、その霊にだんだんと感化されていき、崇高さのない感情に支配され、損得勘定で物事を考えることが多くなっていったりします。

普通に、未浄化霊に憑依されるのと、何が違うかというと、未浄化霊のほとんどは、自分が霊である感覚をもっていなくて、とりついている感覚もなく、人間が、感化されて調子を崩していたとしても、意図的にそうしようとしていない、操ろうとしているわけではない、という点です。

操ろうとしていない未浄化霊の憑依よりも、操ろう、利用しようという意思を持っている霊とでは、後者のほうがずっとやっかいだと、分かると思います。

前者の憑依なら、人間側からみて、何もメリットがないから、その状態から抜けたいと思うのですが、後者の場合は、ある種、メリットも与えてくれるわけで、だからこそ、本人が気づくのも、そこから抜けるのも、難しさもあるわけですね・・・。

いろんなことに興味関心を持つのは、その人の個人的な自由であるとはいえ、あまりに極端な関心を、特定のものに向けていき、バランスが取れなくなると、そのバランスの隙をついて、操ろうという意図をもった霊が入り込んでくることもあります。

でも、もしもそうなったとして、入り込んでくる霊だけが悪いのではありません。もとは、バランスを欠いた自分にも原因はあるわけです。

そういうケースもありますので、霊的世界に、過剰な関心をよせることや、安易な興味でおかしな行動をとるのは、大きな危険を伴うこともあるのです。

ちなみに、上記のゲストさんは、江原さんに、ものすごい霊媒体質だと言われていました。とてもスピリチュアルな人だ、と。だからこそ、そういう人は、もともとが、霊と馴染みやすい体質、回路が備わっていますので、ほんのちょっとしたことがきっかけとなり、霊を集めてしまうようなことにも、なりやすいのです。

自分を助けてくれたら、自分に有利な計らいをしてくれたら、それは高位の霊であり、守護霊である、という解釈は、ときに正しくないこともあります。そういう、魔法のような便利なことばかり望んでいると、その気持ちの隙をついてくる霊も、いることを覚えておくほうがいいと思います。

高位の霊が、本当にその人の成長を助けようと思ったら、過剰な干渉はしてきませんし、自主性を尊重したサポートをしてくれると思います。そういう、さりげない見守りが、愛ではないでしょうか。

大事なのは自力で・・・、そのつもりでしっかりと日々を生きていれば、自分と守護霊の波長に隙はできず、惑わされることもありません。

姿は見えなくても、声は聞こえなくても、いつでも寄り添い、一緒に歩んでいる、切っても切れない深い繋がりをもっているのが、私たち人間と、守護霊との、たましいの繋がり、なのですね。

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2012年7月 2日 (月)

生まれ持った性格や性質は、そう簡単には変わらない。

スピリチュアリズムでは、私たち人間は、たましいの存在であり、何度も生まれ変わって、さらなる成長のための学びを続けている存在である、と考えます。

そのため、今回の人生以前の、「前世」「過去世」という概念があり、また、今回の人生も、前世の影響を受けている部分は、あります。

私たち人間は、「生まれ変わって、学びを続けている」わけで、その時々の人生単体で、学びをゼロからスタートさせているわけではありませんので、さまざまな「たましいが備えている要素」を引き継いで、さらなる学びに挑んでいくことになります。

人の性格や性質というのは、今回の人生での過ごし方、育ち方で、後天的に形成させる部分もありますが、しかし、持って生まれた、たましいの性質である部分も多いものです。その両方の掛け合わせで、現時点での、性格・性質、というものが存在します。

クライアントさんに、助産師をなさっている方がいて、その方がおっしゃっていたことですが、「赤ちゃんは、生まれた時点で、性格が違う。自分の要求したいことを、聞いてもらえるまで、大声でいつまでも泣いている赤ちゃんもいれば、短時間であっさり諦めて寝てしまう赤ちゃんもいる」と。

そのように、「先天的に備えている性格・性質」というものが確かにあって、それは、そう簡単には、変えられない部分ですし、また、変える必要もないもの、とも言えます。

肉体の特徴というのも、生まれ持った個性のひとつです。背が高いことや、黒髪であることや、アジア人であることなどの、外見的特徴や、ナショナリティーは、独自の個性であって、変えられないものだと、多くの人が分かっています。

ところが、「性格・性質」は、肉体と違って、目に見えないものだし、ナショナリティーのような、客観的定義によるものでもないので、自分の努力や意思しだいで、変えられること、のように、どこかで思ってしまいがちです。

そのため、「自分の性格を変えるには、どうしたらいいか」というご相談は、少なくありません。

しかし、生まれ持った要素というのは、たましいが備えている要素であり、その要素を前提として今回の人生という学びがあるわけですから、(その学びの前提である)性格というのは、そう簡単には変えられません。

そのように、基礎的な要素は変わらないけれども、その「成長の段階」での変化は、みられます。

肉体の変化は、赤ちゃんのころは平均サイズで、小学生になったら平均以上になってきて、中学生くらいになったら「背が高い」と言われるような体型になって・・・という段階を踏んで「背の高い人」のスタイルが作られていきます。

性質や性格という目に見えない要素についても同じで、基本的な要素は変わらなくても、それが、どのくらい発揮されるか、どんな形で発揮されるか、どこまで自分がコントロールできるか、どこまでその要素に自分がこだわりをもつか、などの部分は、成長とともに変化しますし、自分が意図的に工夫をして変えていくこともできます。

自分の性質や性格において、変えられるのは「その部分」です。

自分に備わっている要素(そこは、変えられない)に基づいて、自分の中に構築している、価値の基準や思考の習慣を、成長に比例する変化として、向上させたり改善させたりすることはできます。

このような分析のないまま、「物事がうまくいかないのは、私の性格が○○だからだと思う。なので、うまくいくためには○○という性格を変えたい」という考え方では、出口のない迷路にはまり込んでしまいます。

変えられるところと、変えられないところは、分けて考えていき、変えられない部分は受け入れていくこと、そして、変えなければならないものではない、ということを、理解していくことが大切です。良くない、変えた方がいい、と思う部分は、性質に原因があるのではなく、発揮のされ方に工夫がないから上手くいかない場合が、とても多いからです。

性質そのものに、良いも悪いも、ありません。性質は性質です。

その要素を、「どんな形で」「どんな場所」で「どんな方法」で発揮するかで、性質は、長所にも短所にもなりうるので、長所となるような発揮の仕方を心掛け、短所となるような発揮の仕方に気をつけて振る舞っていくことで、自分らしさが最大限に発揮できるようになるでしょう。

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2012年7月 1日 (日)

昆虫は霊媒の生き物。

以前に、あるテレビ番組の中で、江原さんがおっしゃっていたことなのですが、昆虫というのは、たましいを媒介して、メッセンジャーの役割を果たすことがあるそうです。

そのように、たましいを媒介する、霊の意思を媒介するというのは、人間でも(無意識のうちに)よくあるケースですし、犬や猫などのペットでもあります。

その中で、「昆虫」があえて、その役割を果たすことがある、というのは、とても興味深いなと思いました。

私が思うには、たぶん、昆虫は、人間のような自我というものが少ないので、「乗りやすい」のではないか、と。

人間でも、犬でも猫でもそうですが、性格の差、個別差が大きい種類の生き物は、それだけ自我が発達している(から、差がでる)、といえます。理性、知性が発達しているほどに、個別差が、表れます。

そういう自我の部分は、「本来の自分意外のたましいを媒介する」場合には、少々、邪魔になって、スムースにいかないことがあるのでしょう。

私も、それほどオーラ透視が得意なタイプでもないので(^^;)、あくまで、私に分かる範囲で、ですが、

人間や犬や猫という、個性の差が大きい生き物は、オーラも、個性の差があらわれて、それぞれ独自のものとなっていて、昆虫などの個性の差、個別差が大きくない生き物は、オーラにもあまり差が表れないように思えます。

理性や知性を強く持っている生き物は、それだけ、自主性があって、そう簡単には操られたりはしないもいのだ、とも言えるでしょう。

「昆虫が、霊媒」というケースは、今になって思えば、私の過去の経験上も、いくつも思い当たることがあります。

子どもの頃に、お盆に親戚が祖父母の家に集まっているとき、毎年、その時期になると、家の中に、大きな「蛾」が、飛んできていました。窓を閉めていても、古い家ですから、どこかから、入ってきたのかもしれません。

それを見ていた叔父達が、「そういえば、ばーさんが(私からみれば、曾祖母)が、自分がしんだら、蝶々になって、皆に会いに来る、といっていたな」と。もしかして、この蛾は、ばーさんかもしれないから、捕まえずにそのままにしておこう、と。

一度だけではなく、何年か、そのようなことがありました。蛾の命は、そんなに長くないでしょうし、ましてや北海道で越冬できるとは思えませんから、別の蛾が来ていたと思います。大きなサイズの蛾ですから、たまたま、にしては、タイミングが合いすぎます。

もしかすると、そのとき、本当に、曾祖母のたましいが、その蛾に乗って、皆に会いにきていたのかもしれません。

それ以外では、うちの父が、家の前にいた、カブトムシ?だったかを捕まえてきて、唐突に、「おれは、お父さん(私の祖父)だ」とか、言い出したことがあります;。私も、母も、「は?( ̄A ̄)何故?」と、思ったのですが・・・(笑)、何故、家の前にカブトムシが、とは思いましたが・・・、それが、何故、祖父だと思ったの?と。

でも、今にして思えば、うちの父も、相当に霊感が強いので・・・、本当に祖父だった可能性もゼロではないような・・・。祖父のたましいが、カブトムシに乗って、父の前にあらわれたのかもしれないです。

こう、書いていると、過去に、同様のことが、いくつもあったな・・・と、どんどん思い出してきますね。

きっと、ご覧になっている皆様にも、過去を思い返してみると、こういう経験をなさっている人は、いらっしゃるのではないでしょうか。

「偶然」と片付けられたきたことに、ちょっと別の視点から意識を向けてみると、見えてくることは多いですね。

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