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2012年4月の10件の記事

2012年4月27日 (金)

現実と、スピリチュアルは、分けられない。

私たち人間は、この世という現実社会、物質社会において、さまざまな経験を通して、霊性の向上に取り組んでいます。この世という場所は、スピリチュアルな観点からみれば、学ぶための場所です。

私たちは、「肉体を伴っている、霊的存在」です。いわゆる、幽霊などとよばれる霊と、私たちの差といえば、肉体を伴っているかどうか、という点で、霊であることは共通です。

そうと意識する機会は少ないかもしれないけれど、私たちは、実は、霊である、という前提で捉えていくことが、スピリチュアリズムのより深い理解に繋がっていきます。

「スピリチュアルが好き」という方に、たまにお会いすることがあるのですが・・・、私たちは、霊的(=スピリチュアル)な存在ですから、自分とかけ離れたところに、独立したスピリチュアル、というものが在るわけではありません。

例えば、呼吸や瞬きは、意識せずとも自然になされていくように、私たちは、霊的存在として、霊性を学んでいますから、好きとか嫌いとか興味のあるなしとは無関係に、誰もが、スピリチュアルな存在であり、スピリチュアルを学んでいるのが、この世という場所における、人間という存在です。

目の前にある現実から逃げていて、(それこそが、本当の、たましいの学びのはずなのですが)、目に見えない事柄「だけ」に夢中になったり、不思議体験にとらわれてしまうことは、本来の目指すべきところである、たましいの学び、霊性の向上から、どんどんかけ離れていくことになります。

そのような、好奇心いっぱいの興味の持ち方をするほどに、実は、私たちがこの世で体現していかなければならない、霊性という意味での「スピリチュアル」からは、どんどんかけ離れていくことになります。

そもそも、「現実」と「スピリチュアル」というものは、きっちり分けられるものではありません。それらが重なり合っている存在が、私たち人間であり、それらを重ねて解釈や理解ができることが、霊的な感性、です。

このふたつは、対極に存在するものではありません。両方が重なり合っている、同時に理解しうるものが、この世という場所において、肉体という現実の物質を伴った私たち人間に可能となる、スピリチュアルな解釈、なのです。

そのことを理解せずに、現実とスピリチュアルがまったく別物で、対極にあると、捉えてしまえば、・・・きっと、スピリチュアルに興味をもつほど、現実を遠ざけていきたくなるでしょう。現実から離れば離れるほどに、自分はスピリチュアルに「なれる」はず、というような、大きな誤解に繋がってしまうのではないでしょうか。

私たち人間は、物質の世界を、霊として(肉体をともなって)生きている存在です。そこに存在している、というだけで、すでに、それは神秘であり、スピリチュアル、なのです。そのことを分かっていくこと、「知らなくても、すでに、そうである」ことを、分かっていき、理解を深めていくことが、スピリチュアルな学び、といえるでしょう。

なので、それらは、好きとか嫌いとかの、移り変わりのある「感情」で判断されるようなものではないですし、スピリチュアルと、現実、というように、線を引いて考えられるようなものでも、ないわけです。

たとえば、味噌と水を混ぜて、一度、「味噌汁」となったものを、いまさら、水と味噌に分けて考えるのって、不自然ですよね。それと同じで、肉体を伴う霊的存在として「人間」となっている私たちは、現実とスピリチュアルを、二分化してとらえていくほうが、むしろ難しい理解ではないでしょうか。

同様に、現実とスピリチュアルを、統合しなればいけない、統合させるべき、という考え方も、ちょっとポイントがずれていると思います。これから「そうする」ものではなく、「すでに、そうなっている(統合はされている)」ものだからです。

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2012年4月25日 (水)

「思う」という行為も、自分がしたことは自分に返ってくる。

思考をすると、想念というエネルギーが作り出されます。行動や発言と違って、思ったことは、外に表れませんので、「なかったこと」になりそうな気がしてしまうのですが・・・、しかし、目には見えなくても、「思うこと」も、行動や発言と並んで、「行為」としてのエネルギーを持ちます。

前向きな思考をすれば、前向きなエネルギーが作られていく、というように、思考という行為を通して、さまざまなエネルギーを、日々、そして都度、放っていることになります。

「カルマの法則」とは、自分のしたことが、何かの形で、必ず自分に返ってくる、という真理の法則です。

行動、発する言葉、思うこと、を通して、自分から放たれたさまざまなエネルギーが、良くも悪くも、必ず自分自身に返ってきて、いろんなことに気づかされたり、学ばされたりする仕組みの中で、私たちは、この世という環境を経験していることになります。

外に表れて、他人と共有されることもある、行動や、発言については、それらの作用が返ってくる、という仕組みを認識しやすいですが、「思うこと」については、自分の中だけで、外に向けて、(実際は、エネルギーは作られて、放たれているのですが)影響を及ぼしているという実感がわきにくいので、それも、自分に返ってくるものに含まれる、という考え方が、抜け落ちてしまいがちです。

けれど、思うことも、認識はしにくいけれども、影響はありますし、・・・認識しにくいからこそ、「野放し」「垂れ流し」になりやすいですから、注意が必要、とも言えます。

上辺の、目につきやすい態度だけを、清く正しくしていても、心の中で、他人を恨んだり僻んだり貶めたりしていれば、・・・なかなか、創造的で建設的な人生には、なりにくくなってしまうでしょう。

その場合でも、たとえ上辺だけでも、態度や発言に気をつけていれば、それはそれで、きちんと、善きものが、自分に返ってきますから、すべてが揃っていないと駄目だ、というわけではありません。

誰もが、完璧ではないですから、心の中に、いろんな思いがあるのは当然で、ときに、ネガティブな思いが渦巻くこともあれば、他人を恨んだり妬んだりしてしまうこともあると思います。完璧にはなれない以上、ある程度は、仕方ないとも思います。

けれど、その、ある程度、というラインを超えて、ネガティブな思いでいっぱいになってしまうと、結局、それらの思いは、自分に返ってきますから、「自分が、自分を苦しくしている」ことにもなるわけです。

「思うこと」も、行為のひとつ、として、さまざまに作用するもので・・・、放ったものは、自分自身に返ってきて、良くも悪くも影響していく、という仕組みを理解した上で日々を過ごしていくと、他人への感情も、(すべて、とはいいませんが)多少は、うまく割り切っていけることもあると思います。

そのような、価値観の入れ替えという、行為もまた、自分に返ってきて、自分を助けることに繋がっていきます。

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2012年4月24日 (火)

カルマという言葉には、行動、発言、思いのすべてが当てはまる。

自分のカルマは何か、今回の人生におけるカルマを知りたい、というご質問を、結構な頻度でいただきます。

その場合、皆様に、ほぼ同じような説明をさせていただいていますので、ブログのほうにも書いておこうと思います。

霊的真理におけるカルマというのは、行為・行いの総称です。そして、「カルマの法則」とは、自分の行いが、自分に良くも悪くも返ってくるという、仕組みのことをいいます。

私たち人間は、たましいが肉体を伴っている「状態」であり、今回の人生がおわっても、たましいは永遠に在り続ける、という前提でスピリチュアリズムがあります。私たちには、前世、というものがあり、そして今回の人生の次には、来世、というものもあるでしょう。生まれ変わりの中でも、自分のしたこと=カルマは、引き継がれて作用していきます。

それらの生まれ変わったいくつもの人生の中で、当然、今回の人生も含めてですが、私たちが重ねていく、行動したこと、発言したこと、思ったことのすべてが、(広い意味でいえば)カルマ、といえるわけです。思うことも、想念というエネルギーを生み出す、創造行為ですから、行動や発言と同じように、行為のひとつ、となります。

つまり、カルマ、というのは、たった一つか二つの、特定の要素のみを狭い範囲では、捉えきれないものなのです。

私たちの今回の人生は、過去に行ったことが、良くも悪くも自分に返ってくる、という、仕組みの中で、さまざまな形で、たましいの学びをしています。

けれど、私たちが学ぶカルマは、過去の人生(前世)で作られたものだけが関わるわけではなく、今回の人生で積み重ねた行為も含まれます。それらの行為は、日々、リアルタイムで増えていくことにもなります。昨日、投げた石が、今日、自分の頭上に落ちてくることだって、あるわけです。

過去の行い、それは今回の人生における、日々の積み重ねも含めて、良いこともそうでないことも自分に返ってくることになり、その行動、発言、思いの「すべて」が、カルマという表現をするならば、カルマ、なのです。

特定の目立った要素「だけ」が、カルマとなって、それ以外は、カルマではない、というような区分けはありませんので、「今回の人生の、自分のカルマは?」とういような観点から、ひとつかふたつを抜き出してとらえるようなことは、実質できない、というか・・・、広い意味でとらえれば全部、が当てはまってしまいます。

狭い意味で捉えるならば、「どのように、狭い範囲を捉えるか」という前提が必要で、その前提なくして、「あなたのカルマは、●●です」という表現は、曲解に繋がると思いますので、私は、そういう表現はつかいません。

ご相談の中で、自分の今生でのカルマは?と、尋ねられた場合のみ、上記の説明をした上で、「特定の物だけが当てはまるわけではないけれど・・・、今から直近の関わりの中では、●●と○○の要素が、学びとして関わりが出てくると思われます」というような「狭い範囲」を限定して、お伝えすることにしています。

なので、その場合は、本来とても難しくて複雑で・・・、言葉には表しきれない、人生そのものについて、意図的に分かりやすさのためにそう表現しています。

そのひとつか二つの要素の中に、今回の人生における、カルマのすべてが集約および限定されているわけではありません。

カルマの法則という、仕組みを知ることは、生きる上で、大きな助けとなりますので、理解することは大事ですが、カルマのひとつひとつにこだわっても、・・・実質、全容を把握することはできませんから、そういう狭い捉え方から抜け出していくことも大切です。

自分に関わりを持ってくるすべての出来事が、今回の人生で自分が経験して学んでいくことであり、それらのすべてが、カルマの法則によるものだ、という理解で、カルマをとらえていくことをお勧めしています。

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2012年4月18日 (水)

頭の付近のオーラは、密度?が高いので把握しやすい。

以前に、ご自分のお写真を見ると、頭の上のほうに、強い雰囲気がするように感じるが、それは、オーラが浮き上がりやすいためだろうか、というご相談をいただいたことがあります。

そのご相談をいただいたことで、私も、「あ、そうだ、この件も書いておこうか」と気づいたのですが( ̄m ̄*)・・・、体全体のオーラを眺めたときに、その表れ方というのは、均等ではなく差があります。

その人により、弱いところ、強いところ、という個人差もありますが、「体全体」と「頭の付近」とでは、強さというか、密度というか・・・、表れ方の差があり、後者のほうがエネルギーの動きも大きいため、表れ方も強くなります。

心の状態、思考している様子、精神性、霊性などは、主に、頭の周囲のオーラによく表れます。そのため、心のエネルギーが豊かな方、思考力が高い方、霊感が平均よりも強い方ほど、頭の周囲のオーラが発達しています。それらは、頭の付近のオーラの、大きさ(体全体、ではなく)としても表れますが、密度?としても、表れるのです。

上記の要素が平均的な人でも、心や精神の要素が頭の付近のオーラに反映するのは同じ原理ですから、一般的にも、「体全体と比較して、頭の付近のほうが、オーラを感じ取りやすい」ものだと思います。それにも増して、上記が該当するならば、より、密度が感じられるでしょう。

そのため、お写真を見て「頭の上のほうに、強い雰囲気がするように感じる」という、印象になったのかと思われます。

それは、オーラが浮き上がっているためではないのですが、頭の付近のオーラの密度のようなものを、雰囲気としてキャッチできていることになりますね。

頭の周囲に表れる、さまざまな内的な要素を、「詳細に見分けていく」のは、容易ではありません。

けれど、詳細の把握を別として、オーラそのもの、エネルギーそのもの、として雰囲気を捉えていくならば、体全体のオーラと比較して、頭の付近のオーラは密度があるため、感じ取りやすい、と言えると思います。

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2012年4月15日 (日)

軽い憑依は、日常、誰にもで起こっていて、そして、いつの間にか、解消もされている。

霊に取りつかれることを、「憑依」といいます。恐ろしい言葉に思えてしまうかもしれませんが、実は、誰にでも、日常、よくあることだったりします。

憑依現象にも幅がありますので、かなり重い憑依もあれば、軽い憑依もあります。そのため、憑依という言葉の解釈に、誤解が生じているところがあるように思います。

軽い憑依は、日常、誰にでもあることで、気づかないところで普通に起こっていて・・・、そして、自然に解消されていきます。

憑依現象も、同じ要素が引き合うという、「波長の法則」ですから、波長が下がれば、未浄化霊と引き合って憑依が起こりますし、波長が整っていけば、引き合わなくなるので、解消されます。

重い憑依現象になると別ですが、プチな憑依現象に関しては、誰にでも、ありうることなので、それほど気にする必要もないですし、自覚もしにくいケースがほとんどだと思います。

自覚がしにくいので、意識もしにくいのですが・・・、好ましいことではないにしろ、普通によくあることだという「知識」を持っていれば、普段から心掛けができますし、実際に、憑依があると思われるときに、対処や工夫をすることもできますので、知識はないよりは、あったほうがいいのではないかと、私は思っています。

未浄化な霊と引き合ってしまうのは、自分の波長が下がっているときに起こります。未浄化霊が、一方的に悪さをする・・・などということはないので、何でも霊のせいにして、自分がまったく落ち度のない全面的な被害者だ、というような考え方は正しくありません。

憑依現象も、(軽いものも、深刻なものも)、「波長の法則」により、引き合って起こる現象なので、悩んで暗くなっていたり、他人を妬んだり恨んだり、怒ったりしていると、その状態とおなじ波長をもった未浄化な霊が寄ってきて、憑依という現象が起こるのです。

そして、その現象の大部分は、上記のとおり、軽い程度の憑依なので、自分の心掛け次第で、解消していくことができます。下がった波長が、元に戻っていけば、自然に離れていきます。

何か特定の技法や儀式をしないと、解消できない、という解釈は間違いで、「波長の法則」で、自分が引き寄せているわけですから、逆にいえば、引き寄せない自分(の波長)になれば、解消されることになります。

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2012年4月11日 (水)

霊の姿は、どのように霊視されるか。

これは、人により違うと思うのですけれど・・・、また、説明も難しいのですが、だいたい、こういう感じ、という雰囲気で捉えていただければ、と思います。

私の場合は、「肉体の目(肉眼)で、見える」場合と、「霊的な内側のスクリーンに映し出されて見える」場合とがあります。

霊的な内側のスクリーンに映し出されている場合は、私は、主に、後頭部の裏側のほうで、見ているような感覚?です。

以前に、あるテレビ番組で、有名な霊能者の方が、どのように見えるか質問されていて、頭のてっぺんのほうで見える、とおっしゃっていたように記憶しています。私も、そういう感じで見えることもあります。頭のてっぺんの裏側?のほうで、映像化、可視化が為される感じ、というか。

見え方は、人により違うと思うのですが・・・、だいたい、後頭部や頭の上のほうの、内側に見える、という方や、または、まぶたの裏側に映ってくるか、そういうパターンが多いようです。

ご相談者さまの中に、平均よりも強い霊感を持っている方もいて、お話をお聞きすることがあるのですが、映り込んでくる位置としては、同じようにおっしゃる方が多いですね。

霊能者が霊視する場面で、目を閉じることがありますが、それは、肉眼で見ているわけではないので、目を開けていようと、閉じていようと、内側のスクリーンに浮かんでくるのは同じだからです。その際、目を閉じている方が、物質的な要素が視界に入るのを防げるので、集中しやすいためだと思います。

しかし、霊を見るすべてが、そのように内側のスクリーンに映し出されるわけではなく、肉眼で見るように、見えてしまう場合もあります。

いつのまにか、波長があってしまって、いきなり姿が見えてしまうこともあれば、これから霊が見えてしまう・・・という、前触れ?のようなプロセスがある場合もあります。

私の場合は、その位置に、かげろうのように、ゆらゆらとしたエネルギーの流れが見えてきて、そこだけ、何かの時空が動いているような感覚になり・・・、しばらくすると、霊の姿に変わっていきます。

なので、ゆらゆらが見えてきたら・・・、すばやく、頭の中で( ̄A ̄)<る~~る~~、ら~~ら~ら~♪と、歌を歌って、意識を「そこ」から切り離すようにします。これは、冗談ではなく、実際にそうしています。

波長を切り替えるために、他のことを考えて、意識を向けないようにしています。

姿が見えるのが怖いためではなく、見える、ということは、波長があってしまう(から、見える)、わけですから、波長を合わせないように、意識を切り替えていくためです。波長が合うと、影響されてしまうこともあるからです。

努力(=頭の中の、歌)のかいなく、波長が合わされてしまう;こともありますが・・・、しかし、うまく切り替えられたときには、「よし!」と、達成感があります(笑)。

霊が見える人でも、いつでも、ひっきりなしに霊が見えているわけではないです。少なくとも、私はそうです。

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2012年4月 9日 (月)

感受性だけが強すぎる人は、会話が苦手になることがある(2)。

>(1)より続きます。

感受性が強い人の全員が、(1)で書いた仕組みにより、会話が苦手になる・・・というわけではありません。感受性が強くて、会話力も優れている人は、世の中にたくさんいます。

感じ取る力「だけ」が極端に高くて、それ以外の、思考の力や、言語に結びつける力が十分に発達していない人が、会話が苦手になってしまうのです。

そして、そうなりがちな理由として、感じる力が高いと、「感じる」と「思う」の境目がくっきり際だってしまい、自然に言葉での表現へと移行しにくくなるから、適切な言葉が瞬時に思い浮かばず、言葉につまってしまう、という説明が(1)の内容になります。

感受性の高さ、というのも、個性のひとつです。個性には、良いも悪いもありません。また、一般に、感受性が豊かである、というのは素晴らしいこととして捉えられます。

なので、感受性の高い状態を改善・・・という表現も、なんだかおかしいのですが・・・、しかし、現実的に、感受性だけが高すぎて、会話が苦手になり、社会の中で人間関係を構築していくことを難しくしている場合が少なくないのも事実です。

そのあたりは、ご本人がどう受けとめるかによると思います。少しでも、会話をスムーズにして、人間関係をより深く、または広く作り上げていき人生を豊かにしたい、と思っている人は、まず、今までに説明した仕組みを理解し、努力で改善(という言い方も変ですが)していける部分はしていく、という姿勢で取り組むのがいいと思います。

感受性そのものは、性質ですから、そう簡単には変えられませんし、変える必要もないと思います。感受性そのものが、悪いわけではないからです。

(1)で説明したとおり、会話が難しくなるのは、感受性「だけ」が高いゆえに、感じたことを、言語へ変換する力のほうへ、エネルギーが伝わりにくく(その理由は、エネルギーの大部分を、感じるために使われているから、です)、「感じる」→「思う」の間がスムーズに連結しないことから起こっています。

この連結を鍛えていくわけです。自分の中に、エネルギーの伝達の「パターン」、言葉への受け渡しのパターンを、構築していくのですね。

そのためには、ひたすら、反復練習をすることが効果的です。最初はうまく出来なくても、回数を重ねるごとにうまく出来ていきます。回数を重ねるごとに、連結が鍛えられていくからです。

私が、指導をする場合に取り入れている方法は、たとえば「感謝」などのシンプルな単語について、解釈を短い文章にして述べる、という練習です。

感受性も思考力もどちらもしっかりしていれば、解釈はすらすらと述べられます。が、感受性だけが高い人は、頭が真っ白になって、ご自分でもびっくりするくらいに、何も話せない、という状況に直面してしまうことがあります。

なぜなら、普段の発する言葉の動機は、無意識レベルで、何かを「感じること」でなされていて・・・、シンプルな単語一個だけがあり、その単語の出てくるバックグラウンドが何もない、という状態では、感受性が作動するための刺激が何もないため、なのでしょう。

「なぜ、これが出来ないのか、わからない」と、呆然とした状態になってしまう人も多いのですが・・・、でも、何度も繰り返し練習をしていけば、誰もが、「必ず」上達していきます。ほんの数十分の練習だけでも、最初と最後では大きな違いがはっきりと出ていきます。

練習の目的の一番は、出来るようになること、上達すること、ですから、私も今まではあまり、このような仕組み、なぜ話せないのか、何が原因となって言葉に繋がらないのか、という部分については、ご相談者さまに、はっきりとは説明してきませんでした。この仕組みのすべてを、何の前提もないところから一から説明して、納得していただくまでとなると、それだけで小一時間も掛かってしまい、肝心な練習が出来なくなるから、です。

でも、本当は、仕組みを理解して、その上で取り組んでいくほうが効果的ではあるので、今回、・・・なかなか、文章化して説明するのは難しさもあったのですが、書いてみたわけです。

私のセッションを受けなくても、ひとりで練習出来るよい方法が、何か思い浮かんだら、後で記事にしていこうと思います。

そして、セッションを受けた方の中で、「頭が真っ白になって、びっくりするほどに言葉が出てこない」経験をなさった方sweat02は、仕組みとしては、今回書いた(1)と(2:この記事)に書いたとおりで、それは、あなたの感受性の強さゆえの現象なわけです。さらなる理解の一助となれば、と思います。

筋力UPの筋トレと同じで、ある段階までは慣れていなければ難しいですが、筋肉がついていけば、スムーズになります。

鍛えられていなかった連結部分を鍛え、言葉への受け渡しのパターンを作っていくことを目的とした練習を、方法は問いませんが、繰り返し行っていければ、効果は表れると思います。

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2012年4月 7日 (土)

感受性だけが強すぎる人は、会話が苦手になることがある(1)。

感受性とは、外からの感覚的、もしくは感情的な要素を、キャッチする力のことです。誰にでも備わっていて、感受性がゼロの人はいませんが、備わり方には個人差があります。

平均よりも、とても強い感受性を持っている人は、ときに、会話や人間関係がうまくいかないという悩みを抱えてしまうことがあります。

一般に、感受性が強い人は、ちょっとしたことで泣き出すなど、皆と温度差ある反応の仕方をしたり、会話がテンポよく弾まないなどの特徴を持つ人が多いことは、なんとなく経験から分かっていても、では、なぜ、感受性が高い人が、会話がうまく繋がらなかったり弾まなかったりするのか、という、仕組みについては、分かっていない人も多いのではないかと思います。もしかしたら、感受性が強いご本人にも、分かってないケースがあるかもしれません。

今回は、そのことについて、書いてみたいと思います。

感じる力が強すぎると、それ(感じ取ったこと)を、どのように言葉に置き換えて伝えるか、という、言語変換力が働きにくくなることがあります

たとえば、とってもとっても嬉しいことがあったとき、その心境を人に伝えようとしても、ぴったりと当てはまる表現が見つからなくて難しい、という場合があると思います。嬉しい場面に限らず、複雑な心境のときなども、この気持ちを、どう言葉にしていいかわからない、という場合もありますよね。

そのような、たまに起こる、感情や思いを、言葉にするのが難しい、というこの状況こそが、感受性が強すぎる人が、うまく言葉を見つけられない状況に近いのです。それが、とても頻繁に、その人の内部では起こっているので、言葉につまってしまったり、はっきりしない表現になってしまい、誤解されたり、否定されたりしてしまうこともでてきてしまいます。

思う、と、感じる、は、あまり厳密に区分けをされずに日常会話で使われることが多いですが、思うとは、「思うこと」、だし、感じるは、「感じること」、です。「そう思った」のと、「そう感じた」の間には、それほど大きな違いはありませんが、「嫌だと思った」のと「嫌だ、と感じた」のでは、なんとなくニュアンスに違いがあり、感情や体感を伴います。

思考というのは、「思」という漢字を使うことから、思いにより為されることであるのがわかります。感じる、だけでは、それがイコール思考には、繋がらないわけです。

多くの人にとって、感じたことを、言葉にするのが難しくないのは、「思う」と「感じる」の境目が、あいまいで、重なり合っているから、だといえるでしょう。

一般的な会話や言葉の意味として、そう思った、そう感じた、というのを、あまり厳密に分けずになんとなく使っていることも、それを示していると思います。

思うこと(思考)と、感じることが、一部重なり合っている感性を持っていれば、ごく自然に、感じたことを、思考につなげて、言葉に表す事は難しくはありません。

つまり、感じる力だけが極端に高いゆえに、「感じる」と「思う(思考)」の境目がくっきり際だっているようなもので・・・、言語への変換に時間が掛かってしまい、直ぐに言葉が浮かばないことがあるのです。

「感じる」ことは、文字通り、「感じる」のであって、それは「思う」こととは(その人にとっては)別であって・・・、感じたことを、思考につなげて、言葉にするのは、自然にはなされず、意図的に、そうしよう、というプロセスがいる場合があるのです。

が、上記のような仕組みの自覚があれば意図はできますが、ふつうは、そこまでは自覚できませんから、なぜ、そうなってしまうのか分からず、自信が持てなくなったり、発言をするのが怖くなったりして、スムーズな表現がますます出来にくくなってしまうのです。

>(2)に続きます。

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2012年4月 6日 (金)

重心が上がりやすいオーラ。

オーラと体の繋ぎ目は、おへその少し下にある、丹田とよばれる位置だと言われています。そのため、丹田がしっかりしていない人のオーラは、上に向かって浮き上がりやすくなります。

肉体とオーラがずれてしまうと、気持ちや体調が不安定になったり、外からの影響を受けやすくなって、自分という軸がしっかりしなくなる、という傾向が見られることがあります。

浮き上がりやすくなる要因として、上記にプラスして、頭の周囲のオーラが、平均よりも発達していると、バランス的に重心が上にくることが影響してしまう場合もあります。

頭の周囲のオーラは、心の状態や感性などの内的な要素が反映していきます。ここのオーラが平均よりも発達している、ということは、心が豊かな人であるとか、聡明で思考力が豊かだとか、霊感が強いとか、そのような要素の大きさを示していることになります。

それらに該当する人が、影響されやすいオーラだ、ということではありません。頭の周囲のオーラが平均より発達していても、しっかりと自分を保っていて影響されにくい人はたくさんいます。中には、そうなりがちな人もいる、ということです。

そして、普段は問題はなくても、大きな疲労があるなどして、肉体とオーラの結びつきが弱くなっていると、バランスの乱れが影響することはあります。

または、楽しみや期待でわくわくし過ぎていたりすると、思考や感情がどんどん作られるわけで、そうなると、それらが反映する頭の周囲にエネルギーがどんどん集まってしまうので、「気が上がる」状態になります。

そうすると、普段以上にバランスの重心が上にくるので、丹田との繋がりが弱くなり、無防備な状態になりますから、その場のエネルギーやら、未浄化な霊やらに、影響されてしまうこともあるのです。

どんなことにも言えますが、全体的なバランスを取ることは大事です。

頭の付近のオーラが発達している人ほど、重心が上にきやすいので、気が上がっている状態も、作られやすくなるものです。

心と体とたましいとが、しっかりとバランスが取られている状態、極端な偏りがない状態を保っていくことが大事です。肉体的な疲労の蓄積や、精神的・霊的な方面への過剰な関心なども、バランスを乱しやすいので注意しましょう。

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2012年4月 3日 (火)

自発的に行動しなくても、同じ結論に行き着くこともある。

自分から、能動的に行動していく姿勢と、そのときに起こったことを受け入れていく、他からの影響により動いていく、という受動的な姿勢とでは、どちらかといえば、前者のほうが良しとされ、推奨されることが多いと思います。

もちろん、それぞれ、ふさわしい場面と状況があり、能動的であるほうが適している場合もあれば、受動的であるほうが適している場合もありますが、(個別のケースではなく)総合的にすべてをとらえていくとしたら、能動性が必要とされる場面は多いためでしょう。

けれど、何でも、自分からどんどん動いて、すべての判断や選択を自分が自ら下さなければならない、そのほうが素晴らしい未来が繋がるはず、という捉え方は極端すぎます。

10リットルの器に入る水は、どう一生懸命になっても10リットルより増えることはなく、それ以上を注ぎ続けたら、器から水があふれて無駄になってしまうように、物事には、「やれば、やるほどに成果に繋がる」ものもあれば、「ある一定の段階を超えれば、それ以上やっても、成果にはさほど大きな差はつかない」ものもあるからです。

しかし、「能動的であることが大切であり、価値がある」、という思いが強すぎると、器以上には入らないと分かっていても、注ぎ続けてしまったり、または、あふれていることに気づかずに、「注ぐ、という行為」に一生懸命になってしまったりして、結果、自分が大きく消耗してしまうことがあります。

それは、結果や成果との兼ね合い、という視点よりも、「行動すること」により高い価値を置いてしまっていることから起こる不調和だといえるでしょう。

受動よりも能動を優先する心理としては、「能動的、自発的であるほうが、少なくとも、他人のせいで自分が割を食う、という影響を避けることができる、仮に、うまくいかなくても、思い通りにならなくても、自分が選んだことは、自分が納得しやすいし、また、自分の努力と忍耐により、上手くできる可能性は高いはずだから」、という思いがあるためでしょう。

その考え方も一理あるのですが・・・、しかし、10リットルの器に、それ以上の水を注いでも入る量が増えるわけではないように、やればやるほど、成果に繋がるとは言い切れない部分もあります。

そこは、ある一定のところまで努力をしたら(この点は、大切な前提です)、それ以上の部分には、委ねる気持ちを持つことも、大切だと思いますし、そのほうが、より調和された結果に繋がる場合もあると思います。

現実に、自発的に行動しても、しなくても、結果として行き着くところは、ほぼ、変わらない、という場合があります。それなのに、自分の力で頑張ってしまうのは、自分のこだわりです。過度なこだわりは、自分を消耗させてしまいます。

それでもいい、消耗してもいいから、実感と手応えを得たいから、何でも自分で過剰なまでにやりたい、というのなら、それはご自分の自由ですが・・・、そのような気持ちから行動しているのではなく、少しでもやっていけば、よりよい未来に繋がるはず、という思い込みがあるために、手を抜けなくなっているのならば、「現実に、自発的に行動しても、しなくても、結果として行き着くところは、ほぼ、変わらない、という場合もある」ことを理解して、委ねる気持ちをもつことも、大事ではないでしょうか。

ひとつ、能動的でも、受動的でも、結果はほぼ同じになったであろう、例え話を、私の経験から書いてみます。

去年、私は、雪道で転倒して骨折し、救急車で運ばれたことは、過去にお伝えしたとおりです。その病院は、家からとても近い病院だったのですが、そこに運ばれたのは、私の意思によるものでは、ありません。たまたま、その日の、救急当番病院が、その病院だったから、という理由です。これは、私の意思によるものではなく、自分以外の状況によってもたらされた「受動的」な要素で、そうなりました。

もし、救急車で運ばれるほどではない、自分で歩けるくらいの怪我だったら・・・、私は多分、同じ病院に行ったと思います。こちらの過去記事で書いたとおり、私は、この病院に何度もいったことがありますし、家からも近いし、そして、親戚が骨折で入院&手術をしたこともありますから、そういう流れもあって、きっと、同じ病院に、自ら行ったと思うのです。

つまり、この件に関して、救急車で運ばれる、という受動的な形式であっても、もしも、という仮定の話でしかありませんが・・・、自分で選んでいく能動的なケースを想定しても、きっと、同じ病院になっていた、と思うのです。

世の中には、そういうことが、多々あります。なるようになっている、なるべくしてなる、ということが、あります。

私自身も、どちらかといえば、自発的、能動的に、どんどん頑張って動いていくタイプなのですが、いくつもの経験を通して、「現実に、自発的に行動しても、しなくても、結果として行き着くところは、ほぼ、変わらない、という場合もある」ことを理解していき、それにつれて、委ねる気持ちを、持てるようになっていきました。

一生懸命になりすぎるタイプの人は、どこかで力を抜くことの大切だ、力を抜いても、結果は実はそれほど変わらなかったり、むしろ、力を抜くほうが上手くいく場合もある、ことを、知っていくことも、学びだと思います。

どんなに素晴らしいことも、やり過ぎになったら、バランスが崩れることは共通です。

能動性が悪いということではないのですが、やり過ぎていないか、という観点から、自分を見つめていくことも、時には必要ではないでしょうか。

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