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2012年2月の8件の記事

2012年2月27日 (月)

見えないことを語るのが、スピリチュアル、ではない。

スピリチュアルというのは、「霊的な」「たましいの」という意味の単語であり、スピリチュアルな考え方、スピリチュアルな生き方、というのは、霊的な価値観を重んじて物事をとらえていく考え方や、生き方を指します。

この「霊的な価値観」の対極にあるのが、「物質的な価値観」です。「この世的、現世的」と言い換えることもできるでしょう。目に見える品物の価値、肩書きや立場やお金など、この世ならではの価値観だけで、物事を計っていくことを表します。

人間とは、肉体を伴った霊的存在です。つまり、私たちも、実は霊なのです。

その、霊である私たちは、この世という物質の世の中で、霊(性)を向上させる学びを自ら望んで行っています。

物質の世界で、物質的価値観によるさまざまな事象を経験し・・・、そんな中でも、自分の霊(性)を向上させていき、自分の中にある霊的な価値観を再認識していく、という、一見まどろっこしい(笑)学びを、あえて行っています。

この世は、物質界ですから、物質的価値観に則った、さまざまな仕組みや考え方があるのは、当然のことです。私たちは、霊である、とはいえ、しかし、同時に肉体という物質も備えている存在ですから、霊的価値観だけで、生きていくことはできませんし、そうするのが望ましい、というわけでもありません。

私たちは、物質界に、学びに来ていて・・・、単に霊として霊を学びたいなら、そのまま霊界にいればいいわけで( ̄m ̄;)、この世にいる、ということは、物質界ならではの学び方を、選んで生まれていることになります。

物質界で、物質的価値観「だけ」にとらわれずに、霊的な価値観を重んじる、というのは、難しさがあります。重りをつけて筋トレをしているようなもので、スムーズにいかずに、負荷があります。

だからこその、学び、なのです。

つまり、この世という物質界で、霊でもあり、しかし肉体という物質も備えている私たち人間にとって、「見える物だけにとらわれない、霊的な価値観を大事にすること」と、そして、「物質や、現実の出来事の中から、霊的な価値観を見出し成長していくこと」が、スピリチュアルな学びであり、考え方であり、生き方である、といえるでしょう。

目に見えることや、現実の出来事はスピリチュアルじゃない、という解釈は正しくありませんし、同様に、目に見えないことならば、それはすべてスピリチュアルな考え方、というわけでもありません。

目には見えないことでも、物質的価値観の欲求から生まれるものはありますし、物質や現実の事象という目に見えることのなかに、大切な霊的価値観の学びが含まれていることもあります。

何をどこまで見出せるかは、その人が、どれだけ霊(性)を備えているか、磨いているか、によるでしょう。

それぞれの、霊としての「格」が、得られるものを決めていきます。霊としての格、とは、イコール人格です。

スピリチュアルな生き方とは、霊としての格、人格を磨いていく生き方である、ともいえるでしょう。

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2012年2月26日 (日)

どちらが、自分にとって「良い選択肢」なのか。

いくつかの選択肢を前にして、どちらが、自分にとってより良い選択肢なのか、迷って決められないことがあると思います。

決められない状態から脱して、決められるようにするために、より多くの情報を集めたり、時間を掛けて考えたりしても、なかなか結論が出せない状態になっているときには、「良い選択は、どちらか」という考え方そのものに、決められない理由が潜んでいる場合があります。

どちらが、自分にとって「良い」選択肢かを、判断する基準がきちんと決まっているなら、結論にたどり着くことは難しくはありませんが、基準がないままでは、結論が出せません。

具体的に、何がどうなっていることが「良い」状態といえるのか、考えていなければ、どれだけ時間をかけたし思考でも、言葉の表面だけを滑っていくかのように、深みや重みを伴わなくなってしまいます。

たとえば、「無難でリスクがなるべく少ない選択肢」を良しとする場合と、「大きな飛躍が出来る可能性がある選択肢」や、「自分が昔からやってみたかった内容の選択肢」を良しとする場合では、選ぶものが違ってきますよね。

希望の全部を満たす選択肢はない、という前提で考えることも大事だと思います。パーフェクトな選択肢があるなら、すぐに決断できるわけで、悩んで迷っている時点で、何らかの希望に沿わない要素がそれぞれに存在するのですから、何かの要素を優先して考えるしかありません。

自分にとって、何が「良い」ことに該当するのかを、分析した上で思考すれば、少なくとも、選択肢の範囲を絞り込むことは出来るでしょう。最終的に一つを選ぶまでに、時間は掛かっても、明らかに該当しない選択肢は排除することができ、迷う範囲を狭くすることはできるはずです。

そういう分析がないまま、あいないに、「良い選択肢を選ぼう」とだけ思っても、どの選択肢にも、メリットもあればデメリットもあるので、思考があちらにいったり、こちらにいったりして・・・、時間を掛けて考えているわりには、いつまでも決断ができません。

自分にとって、「どのような要素を満たす選択肢こそが、良い、といえるのか」を、まずは考えてみましょう。それだけでも、ずっと、思考がまとまりやすくなって、少なくとも「不要な選択肢を除く」ことはできるので、決断へ向けて、少しだけ前進することはできると思います。

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2012年2月25日 (土)

人間関係の問題は、「どこ」にあるのか。

人間関係で悩んでいる人は、少なくありません。上司がひどい、旦那が悪い、私は被害者だ、と、そのように考えてしまうことはあるでしょう。

そういうときには、やれ「相手を変えることはできない」だとか、「自分にも悪いところはある」などという表現は、きれいごとの理想論で、現実とはかけ離れている、だって、これほどに相手に非があるのは歴然としている、と、納得の行かない気持ちになることがあると思います。

そういうときには、「人間関係」とは、「どこ」にあって、そして、「人間関係の問題点」とは、「どこ」にあるのかを、図でイメージするとわかりやすいと思います。

人間関係とは、

まず、自分がいて

Imageaka

そして、相手がいて

Imageao

自分と、相手との「間」につくられるのが、「関係」です。

Imageaoaka

ですから、自分と相手との「人間関係上の問題点」も、同様に、上記の図の、白抜きの位置にあることになります。

けれど、「上司がひどいのよ、私は悪くないのに」「旦那が、こんな性格だから私は困っている被害者なの」と、思っている人は、

Imagekoko

上記の矢印の部分に、問題の原因がある、と言っていることになります。

その解釈は、「関係」から、位置がずれています。そうなると、まったく自分には無関係の問題で怒っていることになります。人間関係のやりとりで、うまくいかないところがあるのならば、やはり、問題となるところは、お互いの「間」に存在するはずです。

ですから、人間関係の問題において、相手「だけ」に原因がある、という考え方は、ちょっと意味がとおらなくなってしまいます。

相手を変えることはできない、とか、自分にも原因がある、という解釈は、人間関係が、お互いの「間」につくられる空間に位置するからです。その空間を構成している半分は、自分ですよね。

自分を変えていけば、人間関係も変化する、というのは、構成要素の半分が自分だから当然、半分が変われば、混ざり合って作られる関係も比例して変化していく、という、当然の反応の結果なのです。

もしも、本当に、自分に一切の改善点がなく、相手だけが一方的に悪い、というのであれば、それはすでに、「二人の人間関係の問題」ではなく、「相手の個人的な問題」になるのではないでしょうか。

「人間関係」に、自分が口を出せるのは、こうすべき、と主張ができるのは、自分もその関係の当事者だから、です。先にもかいたとおり、お互いの間に位置するわけですから、構成要素の半分は自分だからこそ、です。

相手個人の問題には(相手だけが、一方的に悪い、という解釈をするのならば、それは個人の問題になると思います)、自分は当事者ではないのだから、口を出すことはできませんよね。

人間関係の改善のためには、謙虚さをもって、自分を省みる姿勢が大切ではないでしょうか。それなくして、上司がひどい、旦那が悪い、といっているうちは、なかなか、問題が改善しないと思います。

なぜなら、「その問題点がどこにあるのか」という、「焦点を当てる位置」が、正しく認識されていなからです。

そして、その観点で考えていけば、人間関係における解釈として、「相手を変えることはできない」だとか、「自分にも悪いところはある」などという表現は、きれいごとでも理想論でもなく、ある意味、「理屈は通っている」ことになると思います。

一方的な、自分目線になっているときは、相手が全部悪くて自分は悪くない、と、そのように思ってしまうもの、かもしれません。しかし、そう思っているうちは、問題が解決することも、まず、ありません。

まずは自分をみつめていくことが、どんな場合でも、大切であり、そして効果的だと思います。

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2012年2月23日 (木)

改善のためには、問題点を正しく認識することが必要。

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ある問題や、心配事を、解決するためには、まずは「問題点を正しく認識して、ふさわしい対処方法をとる」ことが大切です。

この「問題点を、正しく認識する」ことが、実はかなりハードルが高いのです。

多くの方は、この点がきちんと把握できていないため、なかなか、解決や改善に至りません。

正しく認識していない、ということはつまり「正しくない認識をしている」わけで・・・、つまり、本当の理由ではない、見せかけの理由こそが問題点だ、と思い込んでいることが多いのです。

自分にとって、痛みの少ない理由、自分以外の誰かが悪い(自分は悪くない)という理由、今すぐにそのことに取り組まなくてもいい(もしくは、取り組むことができない)理由など、本当の理由を覆い隠すための、見せかけの理由を作り上げ、自分もそう思いこんでしまうことを、無意識に行っています。

そうすると、痛みが伴う「本当の理由」に触れなくてすみ、プライドも保てる代わりに、(結果、見当違いの対処をしているために)いつまでも、根本的な解決に至りません。

問題点を置き換えてしまうと、比例して、解決のための方法も置き換わるので、なかなか効果が上がりません。絆創膏を貼るべきところを、頭痛薬をのんでいるようなことになります。

それでも、頭痛薬をのんだことで「これは、違う」という消去法に繋がっていくならまだよいですが、今度は「頭痛薬が効かなかった理由」を、新たに追求しだしたりして、どんどん焦点がずれいき、混乱して、ますます改善から遠ざかってしまうことも多いです。

認識の置き換えがなされてしまうのは、「自分の中の欠点を認めるのは、苦しい」からです。

誰でも、自分の中のネガティブな要素は認めたくないし、触れたくないけれど、そこを避けていては、改善がなされません。

なにしろ、今の悩みがある現状そのものが、「そこを避け続けた、結果」でもあるわけです。改善のためには、心配事や悩み事に関連する、「本当の理由」に目を向ける勇気が必要となります。

自分のことを、自分の目線でみると、一方通行なので、なかなか気づけないことも多いのです。そういう場合は、第三者の意見やアドバイスを聞いて見ることも有効になるでしょう。

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2012年2月15日 (水)

霊的な感性は、終わりなく向上し続ける。

私たち人間は、肉体を持った霊なので、誰にでも霊感と呼ばれる、霊的な感性があります。

誰にでも必ず備わっていますが、その備わり方や大小には、個人差がありますので、霊感が強い人もいれば、それほど強くない人もいます。

そして、人間の霊感は、100%全開になることはありません。私たちの本質は霊である、とはいえ、この限定された肉体を伴っている以上、発揮できる要素は限定されます。

個性の差として、備わっているものの大小、という差もありますし、その時点で、本人的に、どのくらい発揮されているか、活性化されて、使えるようになっているか、という違いもあります。

この表現では、イメージしにくいと思いますので、別の例に置き換えます。

備わっている個性としての大小を「器のサイズ」、本人的に発揮されている度合いは、「器にどのくらい水がはいっているか」、として考えると分かりやすいでしょう。

大きな器であっても、中身の水が少しの場合は、「備わっている資質は大きいけれども、使われているのはごく一部で、眠っている部分が多い」ことになりますし、 小さい器でも、中身の水がたくさん入っていれば、「備わっているものを、存分に発揮できている」ことになります。

人により、器のサイズと、そして、器の中身がどのくらい使われているか、活性化しているか、という度合いが違っていて、それぞれの霊的な感性の、個性がつくられています。

大きな器から小さな器まで、個人差がありますが、いずれにしても、その器の中身が、100%満タンになることはなく、必ず、「伸びしろ」が残されているようになっています。

小さい器を、努力により中身がたくさんになれば、その分、器自体のサイズが広がっていきます。器のサイズという分母は、必ずしも固定されておらず、努力しだいで、中身が増えていけばいくほど、器も少しずつですが、広がっていく仕組みになっています。

どの時点でも、必ず、さらなる伸びしろ、成長の余地は、その人なりに残されていて、頭打ちになることはありません。

私たちは人間は、どこまでも成長し続けることができる存在で、学びに終わりはありませんから、それは霊的な感性においても、仕組みは同じなのです。

備わっていながら使われていない、活性化する余地のある潜在的な力を、日々の心がけや生き方という学びを通して、光を注ぎ、目覚めさせ、そして、自分の波長を維持してくことにより、高めて続けていくことはできるのです。

広い意味での、霊的な感性、豊かな心のエネルギーは、さまざまな形で活用することができ、私たちの人生の学びを深めてくれますし、彩りを添えてくれます。

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2012年2月14日 (火)

不思議な夢を、不思議に感じない、夢の中の自分。

夜、眠っている間には、私たちのたましいは、あちらの世界に里帰りしていて、いろんな知恵をさずかったり、作戦会議のようなことをしている、と、江原さんの書籍には書かれています。

作戦会議・・・といっても、人が数人集まってテーブルを囲んでいるようなものではなくて;、あくまで、たましいレベルというか、私たち肉体をもった人間の場合は、意識レベルで、という解釈でいいと思います。

寝ている間に、夢を見ることがありますが、「眠ることで、活力がチャージされていく」という仕組みも、そして、「夢を見る」という仕組みも、実はとってもスピリチュアルなことです。

江原さんのおっしゃるように、あちらの世界に戻って、いろんな経験をして、知恵を授かり、その様子の一部を、「夢」として、覚えていることもあると思います。なんとなく、メッセージ性を含んだ夢のような・・・、自分への励ましのような夢を見たりするときは、そういうケースの記憶の一部なのかもしれません。

けれど、私たち人間は、肉体を伴っていますから、いくら意識だけがあちらの世界に戻っても、肉体をもった人間としてのフィルターを通して関知する以上、肉体的な影響を含んだ捉え方になってしまいます。

そのため、体が疲れているときや、重い布団をつかっていると、「体が重くて、動きにくい夢」を見たりするわけです。

気になっていることや、心配事、強い欲望があるときなどは、心がそちらにとらわれてしまうので、その内容にそった夢を見てしまうものですが、それは、私たち肉体を持った人間にとって、霊的な叡智という繊細なエネルギーよりも、自分の肉体の動きや、感情や欲望の動きという、現世的なエネルギーのほうが、馴染みやすく影響されやすいので、そちらの意識が優先してしまいます。

ですので、たとえば、好きな人のことをずっと考えていて、強い気持ちでいっぱいになっているときに、その人と付き合う夢をみたからといって、それが予知夢だとか、霊界からのメッセージということではなく、自分の強い願望の念が、夢に反映しているだけ、ということもあるのです。

中には、意味がまったく分からない、あまりに奇想天外で辻褄が合わないような夢を、見てしまうことがあると思います。

たとえば、夢の中で、お部屋の窓を開けたら、沙漠に繋がっていて、窓からラクダに乗り移って自分が会社に出勤する・・・、などという、意味不明な内容のものって、あると思います。

こういう夢の不思議なところって、夢の中の自分が、そのシチュエーションをまったく不思議に思わず、受け入れているところにもあると思います。朝、目が覚めたときには、「どうして、あんな夢を見たのだろう」という気持ちとともに、「なぜ、あのような現実的でない内容で、途中で、これは夢だ、と、気づかなかったのだろう?」と、思いますよね。

窓を開けたら、そこが沙漠、という時点で、夢だと気づいてもよさそうなものですが、そうならずに、普通に受け入れて、夢の中でストーリーが展開していきます。なぜ、そうなるのか、という点について、仮定ですが、書いてみたいと思います。

ここから先は、江原さんの本の記載ではなくて、私の解釈なので、そのつもりでお読みください。

眠る、という行為は、とてもスピリチュアルなもので、寝ている間は、たましいがあちらの世界に戻っていくので、いわゆる、幽体離脱のような状態になります。肉体を伴っていないので、意識はどこまでも広がっていきます。(実際には、肉体とまったく切り離されてはないので、いくらかの肉体的影響は受けと思われ、本当の意味での、無限、とはならないですが)

夢の中では、肉体的な制約がないので、いろんな要素が同時に起こったり、複数の要素を同時にまたは一瞬にして学んだり、叡智を授かったりすることができます。

しかし、私たちは、そのすべてを、表面的な記憶として、あまり覚えていられません(たましいには、刻まれているのでしょうけれど)。記憶に残るのは、意識がかなり、現世的なほう、肉体のほうに、戻りつつある状態になっているときです。

寝ている間の、あちらの世界での意識の経験が、たとえば、新聞紙のように、きちんと内容が整理され、見やすく分かりやすいものだったとしても、新聞紙のすべてを、私たちは、表面的な記憶として、把握することができません。

肉体という制限された場所の意識での理解ですから・・・、まるで、プリングルスの筒に、新聞紙を無理に押し込めて、理解することになってしまいます。

そうすると、元の新聞紙の状態としては、理路整然としていた内容も、押し込められた筒の中では、ありえないことがおこります。

(本来そうなるはずのない)1面と3面が隣り合ったり、テレビ欄と政治欄が重なり合ったりするわけですから、そして、それらを、くしゃくしゃにして、無理に容器の中へ、入れている状態でもあるので、筒の中を、断面的に、「夢の記憶」として「ある部分のみ」を見てしまうと、その場面は、何だかよく分からない、摩訶不思議なものになるのではないでしょうか。

ですから、「お部屋の窓を開けたら、沙漠に繋がっていて、窓からラクダに乗り移って自分が会社に出勤する」という夢は、目が覚める直前の、意識が肉体に戻ってきつつあり、プリングルスの筒に入った新聞を、断片的に記憶している状態で、ちょっと、混沌としたものであり、実際に、あちらの世界でたましいが経験しているとおりに記憶をしているわけではないのでしょう。

そのため、「夢の中では、シチュエーションに疑問を抱いていない」のに、朝起きると「疑問を抱かない、夢の中の自分が、不思議に思える;」という、認識の差が作られるように思います。全部が、このパターンではないかもしれませんが。

夢に限りませんが、どんなことも、私たち人間にとっては、肉体を伴った人間としての解釈や理解になりますので、スピリチュアル100%には、なれないのです。スピリチュアリズムを学ぶ場合でも、その前提で、受け止めることは大切だと思います。

そして、100%にはなれなくていいのだと思います。そのような、肉体を伴った、制限された経験をするために、自ら望んで、この世で学んでいるのですから。

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2012年2月 7日 (火)

自らが望んで、苦難をも学んでいる世界が「この世」です。

スピリチュアリズムとは、私たちが、霊的な向上をしていくための、指針となってくれる思想であり哲学です。

これらは、あくまで、私たちの自力に基づき、いかされるものであり、魔法のように困難を解決したり、願いをかなえたりする方法ではありません。

私たちは、あえて「この世に、学びのために生まれてきている」のであって、面白おかしく過ごすために、生まれてきているのではありません。

学び、ですから・・・、困難も忍耐も、必要ならば、経験「させられる」でしょう。

これらは、「誰が」、そうさせているのでしょうか。この私たちの困難を、与えているのは誰なのか、というと・・・、その答えは、「自分自身(のたましい)」です。

それは、「自分」というとらえ方でも、「グループソウル」や、「守護霊」というとらえ方でもいいと思います。これらは、理解のための便宜用の定義のようなものですから、どれが正しく、どれが間違っている、というわけでもありません。広い意味でいえば、守護霊も自分である、と言えます。また、自分とは、グループソウルの一部です。

それら、広い意味での、「自分自身のたましい」が、必要な経験を、「今回の人生を生きている、自分」に、与えているのが、「カルマの法則」の仕組みです。

私たちは、「あえて、この世に、学びのために生まれてきている」のであり、「あえて、そのことを忘れている」のであり、「あえて、困難や忍耐をも、学んでいる」というのに、それを、簡単に除く方法が、あるものでしょうか。

仮に、100歩譲って、簡単に楽ができる方法があるとしても・・・、それは、自分のたましいの向上に、まったく寄与しないことは明らかです。

私たちの人生は、困難を経験するためにある、というわけでは決してありません。それらの出来事を通して、学んで成長していくことが目的です。

私たちは、困難に直面したときに、物事を深く考えるものです。「そのため」に、困難があるのです、悩み苦しむと言う経験から、大切な学びに気づくために。

すべて出来事は、自分が、自分に与えている、成長のための学びの機会なのです。

そのことから学ばずに、出来事をスキップするようなお手軽な方法論を、どこの誰が、与えくれるものか・・・、スピリチュアリズムという、私たちのたましいの成り立ちを考えてみれば、魔法のようなサポートが与えられるはずがない、とわかるはずです。

この点を誤解している多くの方は、「自分に降りかかる困難は、自分自身が与えている」という、スピリチュアリズムの根幹の仕組みを、理解なさっていないのだと思います。

たとえば、自分に全く無関係の困難が降りかかり・・・、それを、守護霊や霊的な存在が、サポートしてくれて、一緒に避ける方法を考え取り組んでいく・・・かのように、思っていらっしゃるのではないでしょうか(この理論は、前提が間違っています)。

この世でおこるすべては、自分がしたことが自分に返るという「カルマの法則」、そして、自分と同じ要素の出来事が引き寄せられてくるという「波長の法則」から成り立っていますから、自分のまったく無関係な出来事が、降りかかることはありません。

先にも書いたとおり、私たちは、必ずしも困難のみを学ばされるわけではありません。ですから、自分が引き起こしたこととはいえ、「より、効果的に、気づきや学びを得るための、サポート的なヒント」は、得られることはあります。

あくまで、私たちの自力を前提として、それをサポートするための導きは、必要なときに、一番ふさわしい形で、与えられます。気付きや工夫も学びなので、より効果的な向上の方法をとるために、ヒントが示されることもあります。

しかしそれは、「あちらの方たちの観点で、必要だと判断されたとき」に、または「私たちが、そのヒントを与えられるに相応しい自分になったとき」に、必然で、示されるものであり、どれほどに私たちが望んでも、不要な手助けをされることはありません。

「あちらの側の、霊的な観点からみて必要であるとき」、と、「私たち人間の感情論での、導きを求めているときは」、同じになるとは限りません。

つまり、霊的な働きかけを得られるか否かは、私たちの「困り度」とは比例しない、ということです。

どれほどに辛くて困っていたとしても、その内容が、あまりに物質的価値観に基づいたものだったり、自分がそこから学ばなければならないことに気づかず、他人のせいにしていたりしては、サポートは得られないでしょう。それは「あちらの霊的な観点で、必要だと判断されたとき」に該当しないからです。

この世を生きている私たち人間は、誰もが未熟な部分を抱えている存在ですから、楽な方に流されたり、気持ちが緩んだり、できれば得をしたい、という気持ちになってしまうことは、少しくらいは、しょうがないとも言えます。

けれど、楽をするために生まれてきたのではないので・・・、すべてを「自分の学びになるだろうか」という観点から考えていくことが大切です。とても難しいことですが、一生をかけて、私たちは、さまざまなことを経験して学んでいくのです。

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2012年2月 5日 (日)

入院記(7)

退院の朝、目を覚ますと、テーブルの上に、メモが上がっていて、それは、入院記(4)の看護師さんからのものでした。前日は夜勤で、私が寝ている間にやってきて、メモを置いてくださったのでしょう。

私は、看護師さんに、2年前から、流れが切り替わっていて、節目となる出来事があったはず。また、そろそろ、次の節目の時期とお伝えしたのですが、「あの日、突然、スピリチュアルな話になるとは思っていませんでした。これも、必然なのでしょうね。2年前は、ちょうど、この病院の正社員になった時期です。」と、書かれていました。

そして最後に、「明日は、退院ですね。おめでとうございます。これからも、たくさんの人に励ましと勇気を与えるお仕事を、頑張ってください。」と。

私は、それを読んで、はっとしました。

あぁ、そうかぁ・・・、私、退院したら、また仕事するのか・・・?

そうだった、仕事をするのか、と、そんな気持ちになったのです。

なぜか、そのことを、忘れていました。「ああそうだ、私は仕事をしなくてはいけない」、と、看護師さんからのお礼のメモが、そう思わせてくれたのです。

私は、入院という非日常に慣れすぎて、少し、気持ちが緩んでいたんだと思います。その状態に気づかせてくれるきっかけとなったのは、私がして差し上げた、ほんの少しのこと(そんなにたいしたことを伝えたわけじゃないのです、本当に)に対する、丁寧なお礼のメモでした。

私は、以前から、オーラが何色だとか、前世が誰だったとか、そういうことが大事ではない、という思いで、この仕事をさせていただいているのですが、今回の手術と入院の経験を通して、その思いはますます強くなって、前世とか本当にどうでもいいし、霊感というものもどうでもいいし、・・・なんかもう、そういうことが全面的にうざくなってきた、というのが、そのときの、私の正直な思いだったのです。

スピリチュアルと現実というのは、決して両極ではなく、重なり合っているものであり、この世を生きることは、現実でもありスピリチュアルでもあるわけですが、そのときの私は、「物質的な現実」のほうに、意識がとても傾いていました。

そんな私を、あるべき状態に引き戻してくれたのは、「お仕事を、頑張ってください」という一文でした。

入院という非日常から抜けて、日常の、私の居場所は、そこだったと、思い出すことができました。

学びや奉仕というのは、決して一方通行ではないものです。私が、看護師さんにして差し上げたように思えても、その行動を通して、私が、とても大切なことを、ちょうどよいタイミングで、気づかせてもらえているのですから不思議です。

でも・・・、気持ちが、食事とか運動とか、そちらの大切さのほうにとっても傾いていて、以前とまったく同じ活動形態で、仕事をすることなんて出来るだろうか、もっと、私がやれることって、他にあるような気がする、この経験から学んだことをプラスして、もっと現実的な要素の強いことをやっていきたいような気もするし、そうするべきという気もするし・・・、と、頭の中は、定まっていませんでした。

が、実際に退院してきたら、一気に、日常に引き戻されます。一年に一度の、確定申告の書類も届いているし(笑)、過去にひたっている時間はありません。

去年までは、2012年には、そろそろ、サロンでのセッションを再開しようかな、と、ぼんやりとは思っていたのですが、残念ながら、その選択肢はなし、となりました;。今の状態では、まったく無理なので、お待ちいだだいている札幌市民の皆様、申し訳ございません;。

今年は、今までとは少し、違う方法からのアプローチを取り入れていこうと思っています。といっても、今は、リハビリ最優先なので、少し先になると思いますが、「ヒーリング」を、自分の中で、構築していこうと予定しています。今回の怪我の経験が、何かの形で役だっていく部分もあるかもしれないな、とも思っています。

入院記は、ここまでとなります。

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