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2011年10月の10件の記事

2011年10月25日 (火)

「感情」のオーラの色。

オーラというのは、体の周りを覆っている、スピリチュアルなエネルギーです。

詳しく語ると、どこまでも細分化出来るくらいに、複雑で精妙なエネルギーの表れなのですが、一般に、「あなたのオーラの色は、○○色ですよ」と表現する場合には、頭の上のほうに表れる、性格や霊性などを意味するオーラのことです。

精神的な成長や変化に従い、変わっていきますが、その度合は大きくはありません。なぜなら、性格というのは、日ごとに、コロコロ変わったりしないからです。今日は、明るい性格で、明日は引っ込み思案な性格になる、ということは、まずありません。

頭上のオーラは性質の反映ですから、変化はするけれども、その度合いは大きくはない部分、だといえるでしょう。

性格や資質、霊性というのは、その人のたましいの、本質的な要素です。本質は、それほど大きくは変化はしないものですよね。

一方、オーラの表れ方として、(性格等と比較して)変化が大きい要素もあります。それは「感情」です。

性格そのものは、変化に時間がかかりますが、感情は、瞬間ごとに変化していきます。今怒っていても、5分後には、怒っていないかもしれませんし、今日、不機嫌になっていても、明日になったら忘れているかもしれません。感情は、容易に移り変わっていきます。

感情の他に、体調も当てはまります。今日、疲れていても、明日には元気に回復しているかもしれません。体調も、移り変わりがあり、固定されていません。

つまり、感情や体調など、移り変わりのある「状態」を表すオーラは、(性格のオーラと違って)変化が大きい要素なのです。

状態を表す、感情のオーラにも、色があります。こちらは、性格のオーラと違って、移り変わりが激しい部分ですから、「その人特有の感情の色」というものは、ありません。

たとえば、 怒りや、情熱などの、活気を伴う強い感情は、赤いオーラとして表れていきます。

しかし、怒りでいっぱいになって他人を恨んだりしているオーラと、特定の物事に情熱を傾けて集中しているオーラの、「赤の度合い」は、同じではありません。

怒りの感情は、不満の表れですので、どちらかといえば、くすんだ赤、「赤黒い」オーラとなりやすいです。情熱のオーラは、意欲的とか前向きさの要素を含んでいるので、こちらのほうが、透明感のある赤色となりやすいです。

不安なときや、緊張しているときには、青っぽいオーラになることが多いです。緊張がやわらぐと、青っぽいオーラは薄れていき、暖色系のオーラが広がっていきます。

感情や思いは、色だけでなく、オーラの形状や、動き方としても、表れていきます。警戒心を強くもっているときには、オーラがとげとげしているような状態になります。まるで、オーラを変化させて、自分を防御しているかのようです。警戒心が薄れると、ふんわりとした、やわらかさが広がっていきます。

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2011年10月22日 (土)

行動は強要はできても、感情までは強要できない。

相手を、自分の思い通りに変えようとしても、相手には相手の考えがあり、都合がありますから、なかなかうまくはいかないものです。

ほとんどの人間関係には、相手が自分の望む行動をとってくれないというストレスが、多少なりともついてまわります。誰もが、悩み苦しむ点だと思います。

基本的には、相手を思い通りにすることはできないのですが、場合によっては、「行動」のみ、相手を従わせることはできます。

上司が部下に指示をする場合、取引先が担当者に要求をする場合など、相手に要求を伝えることで、望むとおりの行動をしてもらうことはできます。

けれど、その場合でも、要求できるのは「行動のみ」であり、相手の感情までは、思い通りにすることはできません

たとえば、上司が部下に、「仕事が終わったら、都度、報告書をまとめて、自分に報告を入れるのが普通だろう!それが当たり前の意識の持ち方だ!言われなくても、そうするのが当たり前だとわからないのか、反省しろ!」などと怒った場合、たぶん部下は、「上司の指示通り、報告書を提出する」という行動は、することでしょう。

けれど、「それが当たり前だと認識する」ことや、「それが分かっていなかった自分を反省する」ことに対しては、上司の言い分に従えるとは限りません。そのように思う人もいれば、反発する人もいるでしょうし、何も思わない人もいるでしょう。

その出来事や指示に対して、どんな感情を抱くかまでは、強制はできません。心から反省して、自分が果たすべき役割をこなそうとする人もいれば、行動だけはするものの、責任感に基づいた行動ではなく、言われたからやっただけ、という場合もあるでしょう。

それぞれ、独自の性質を持つ、別の人間である以上、受け止め方はさまざまです。一般の常識として、「このように考え、このようにふるまうべき」という形式があるとしても、そのとおり考えるか否かは、本人が選び決めることです。

「社員として、または部下として、会社に労力を提供すること」は、きちんとしなければいけない行動です。けれど、それを「どんな気持ちで、どんな動機で」行うかまでは、他の人が干渉することは出来ない領域です。

できない、というのは、要求してはいけない、という意味ではなくて、そこまで踏み込んで強制することは実質不可能、という意味です。

人間関係で、相手に不満を抱えている状況の多くは、「相手に、(自分の望むとおりの)感情を要求している」ことから、起こっているように思います。

けれど、行動については、常識や道徳の観点から、またはその人との上下関係等において、望むことを伝えて、行動してもらうことは可能であるとしても、感情までは、踏み込むことは難しいです。

このことを理解していないと、よく言われる「人づきあいは、腹六分でするのがちょうどよい」という、六分の付き合いが、出来なくなります。

理解していると、程よい距離感が保てて、衝突することも減りますし、相手に過剰な期待をしてしまうこともなくなります。

感情を要求するようなセリフを口にすることが、必要な場合もあります。そのほうが、相手の心に響くこともあるからです。その場合は、「(しかし実際には、感情までは要求できないと)分かった上で」演じることが大切です。

自分が感情でいっぱいになりながら、感情に駆られたセリフを口にして、相手の感情を要求する、というのでは、相手の心には響かないでしょう。自分も消耗してしまいます。

親しい間柄であるほど、感情を要求したくなるのですが、「やりすぎ」になると、どこかにひずみが出てきます。きちんと見極めて、良い関係を保てるよう、心がけていきましょう。

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2011年10月21日 (金)

守護霊の個性は、私たちにどこまで影響するか?

私たち人間には、たましいの縁が深い、見守り役・導き役の霊がいて、その総称として、守護霊、という表現が使われています。

守護、という言葉のイメージから、災難を除いてくれるヒーローのような役割のように思われてしまうかもしれませんが、実際には、私たち人間の自由意思が尊重され、さまざまな出来事から経験を積んで学びを得ていくことをサポートし、導いていく役割を担っています。

守護霊になるのは、私たちそれぞれのたましいと、親和性のある霊なので、私たちと、どこか共通点があり、似ている要素を持っている、といえます。

もともと、縁のあるたましいなので、私たちのほうが、守護霊に似ている部分を(当初から)持っている、とも言えますし、見守り、導かれている経験を重ねていくうちに、だんだんと似ている部分が出てくる、とも言えるでしょう。

そのような、深い繋がりを持っている霊であり、どこか、似ている要素を持っている、とはいえ、守護霊になるような霊は、進化・向上した霊なので、私たち人間が持つような、個人的な感情等は、超越している存在です。

なので、守護霊が、まるで人間のように、感情に左右されて我を忘れたり、怒りでいっぱいになったり、意地になったり、ひねくれたりすることはありません。仮に、そういう態度を見せる霊がいるとしたら、それは守護霊ではなく、未浄化な霊でしょう。

進化・向上していて、感情的にならない、といっても、それは、決して、没個性になるという意味ではありません。

それぞれの、霊として、たましいとしての個性というか、性質の特徴のようなものは、そなえていらっしゃいますし、私たち人間は、それらの性質の特徴に感化されながら(導かれながら)生きている、といえます。

真面目でクールなタイプの守護霊がついている人は、本人も、同じように、真面目でさわやかな性質を持っていることが多いのです。真面目さと、クールさ、という要素の共通点があるからこそ、守護霊としての縁が存在している、ともいえますし、逆に、そういう守護霊に導かれているからこそ、(感化されて)真面目な性格が表面化していく、とも言えるのです。

ただ、ここで注意しておく必要があるのは、私たちの性格や個性のすべてが、守護霊の影響によって表面化しているわけではない、という点です。同じ個性の「表れ方」により、高く表れるか、低く表れるかの違いはあり、それは、私たち人間の成熟度や、そのときの状態により、移り変わっていきます。

基本的に、性質そのものに、良い悪い、どちらが正しいというような、区分けはありません。たとえば、「やさしい」性質に、良いも悪いもないですよね。ただ、その、やさしさの表れ方として、状況に応じた判断を下すことはできます。

やさしすぎてハッキリしないと、優柔不断だ、という評価になることもあるかもしれませんし、また別の場面では、愛の表れとしてのやさしさが、発揮されていくこともあるかもしれません。

そのように、性質そのものに、上下があるわけではなく、その性質の表れ方、ふさわしい発揮の仕方という意味で、相手のためだったり、自分を守るためだったり、恐れの気持ちだったり、という、いろいろな条件や感情が複雑に絡み合い・・・、自分本位になってしまうのが、私たち人間、だと思います。

同じ性質を持っていても、それを、どのレベルで発揮していくのか、自分の性格として表れていくのか、というのは、私たち人間の在り方しだいであって、守護霊からの影響で決まるわけではありません。

守護霊に、「僧兵」がいらっしゃるケースを例として、考えてみます。

僧兵とは、文字通り、僧が武装しているのですが・・・、社会に混乱がある時代に、寺社が自衛のために武力を保持したわけですね。

このような守護霊がついている人は、本人も、とても強い性格だったり、正義感を備えていたり、独自の思想や主張を持っているケースが多いです。それは、守護霊からの影響を受けているため、でもありますし、そのような共通点があるからこそ、守護の縁が作られている、とも言えますし、両方です。

このような人は、ときに、言葉や態度が強気になりすぎたり、自分の考えが絶対的に正しい、と思い込んだりして、人間関係がうまくいかなくなることがあります。守護霊が、思想と武力の両方を備えているので、その感性に影響を受ける自分も、正義感ゆえに強情になってしまうことがあるのです。

けれど、それらのトラブルは、すべてが守護霊の影響のせい、というわけではありません。それは、大部分が自分のせいで、引き起こされています。

なぜなら、先にも書いたとおり、性質そのものに、良いも悪いもないからです。正義感は、決して悪いものではありません。発揮の仕方によっては、むしろ、とても素晴らしいものです。

それを、過剰に発揮して不調和を生み出しているのは、「自分の発揮の仕方」に問題があるのであり、その性質が悪いわけではありませんし、発揮の度合いのすべてを、守護霊がコントロールしているわけでもありません。

備わっているもの、守護霊からの影響を受けていく性質も含めて、その発揮のされ方や、度合いは、私たち人間の成熟度と比例します。

私たち人間が、より成長していければ、備わっているものを、より高いレベルで発揮することができるわけです。

備わっている個性は、重なり合っている部分もありますが、それらを望ましい形で発揮していけるか否かは、私たち人間の在り方が決めているのです。

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2011年10月19日 (水)

女性は、男性に、自分を分かって欲しい、と思っている。

誰もが、少なからず「理解されたい」と思っているものです。理解されたい、というのは、自分を(何らかの意味で)認められたい、ということでもあります。

一般に、男性は人間関係を、縦の序列、上下関係で捉えていくところがあり、女性は、「横並び」感覚で捉えていくことが多いです。

「同じ」であるとか「分かり合える」ことに、親しみや安心を感じるのが女性なので、男性からみると、きっと、不可解な部分も多いであろう、「どこでも団体行動、皆で示し合わせてトイレにいく、どうでもいい噂話で盛り上がる、今日も顔を合わせているというのに、家に着いたらまた同じ相手と長電話」、のような行動をとるわけです。

そのため、女性は、「同じだね」とか「それは、よく分かるよ」と、共感される、同調されることに安心していき、そういう言動を取ってくれる相手に親しみを感じていくことが多いです。

つまり、誰もが少なからず抱いている、「理解されたいという欲求」は、多くの女性は、共感されたい、分かってもらいたい、という形で、求めている部分があるのです。

コミュニケーションの根本が、この点なので・・・、共感を得られないことには、とても不満が募ってしまいます。とくに、自分をわかってくれる「はず」と、思っている相手が、期待通りの反応をしてくれないと、怒り出す女性も少なくありません。

そのため、よく、以下のような、認識の差による行き違いが起こります。

女性は、自分を分かってほしくて、自分のことを一方的に話したいのだけれど、何も題材がないのに、話し続けるわけにもいかないので、本当はそれほど困っていないのだけれども(笑)、とりあえず「相談形式」にして、「こんなことで困っているの、どう思う?」のように、話を進めます。

話すことで理解されたい、共感されたい、大変だね、といってもらいたいだけなのですが、しかし、「相談形式」で「どう思う?」と、持ちかけているわけですから・・・、会話の相手は、真面目に悩み事への回をしたりすると、そこに、不満が生まれます。

相談に回答してもらいたいのではなく、共感してもらいたいのですが、・・・しかし、相談を持ちかける形式で話を進めているので、相手からのリアクションが、思うようなものにならないのです。

このようなことは、男女間で、しばしば起こります。

女性は、話したい、分かってほしい、心配してほしいだけ、なのに、男性は、真面目に回答を望んでいるのだと思って、善意の気持ちから、その女性をたしなめるような言動をとってしまうなど、です。

こうなるのは、どちらか一方が悪いのではなく、双方の認識の差であり、女性のほうは、女性同士の会話のノリを、男性に求めるのは難しいと思いますし、しかし、一方で、男性のほうも、女性の、聞いて欲しい、分かって欲しいという、感覚に、もう少し寄り添って、共感をしてあげると、女性は安心すると思います。

相談の形式になっていても、その解決策を示すよりも、ただ、話を聞いて、寄り添ってくれるだけで満足することもあるのが、女性、なのです。

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2011年10月18日 (火)

先祖霊が、指導霊=ガイドスピリットになることは、あるか?

まず、本題に入る前に、「先祖霊」と「指導霊」についての定義を簡単に書かせていただきます。

先祖霊とは、文字通り、私たち人間の先祖、血縁の霊のことです。お祖父さんとか、ひいお祖父さん・・・、という、○○家の、身内の霊のことです。

指導霊とは、仕事や趣味など、才能や資質を発揮することを、指導する役割のスピリットです。(スピリチュアルリーディングで、お伝えをする場合には、こちらの霊に焦点を合わせるのが、一般的だとされています)

一般に、その人と親和性のある霊的存在の見守り役を「守護霊」と表現することが多いです。この表現は、先祖霊を含めた総称として使われることもあれば、先祖霊を省いて使われることもあります。

なかなか、区分が紛らわしいのですが・・・、あえて区分けをするならば、スピリチュアリズムでは、もっとも基本の単位として、たましいの親和性がある「グループソウル」と呼ばれる繋がりを基準としてとらえていきます。その場合は、先祖霊を、区別して考える場合も多いのです。

なぜなら、○○家、という「血縁の繋がり」は、この世ならではのもの、だからです。

といっても、身内には霊的な繋がりがまったくない、というわけでもないので・・・、そこが、説明をする場合も、理解をする場合も、困難を伴うのですが;、一般に、指導霊などの繋がりのほう、グループソウルのほうを、重視していくことが多いです。

さて、タイトルの、「先祖霊は、指導霊になることはあるか?」についてですが、 守護霊の中でも、特に限定的な意味をもつ、「指導霊」についていえば、少なくとも、わりと最近の、たとえば、お祖父さんとか、自分が実際に関わりを持ったことがあるくらいに最近の先祖霊が、その役割を担うことは、まずない、といっていいでしょう。

何代も前の、身内の霊ならば話は別ですが・・・、たとえば、「かわいがってくれたお祖父さんが、そばにいて、(先祖霊として、補助的に)見守ってくれて、ときに助けてくれている」ことならば、あるとしても、「かわいがってくれたお祖父さんが、指導霊となって、才能を導いている」というケースは、ほとんどない、と思います。

(先祖霊を含めない、狭義の意味での)守護霊や、指導霊というのは、進化向上したスピリットがその役割を担いますので、霊的に進化向上するためには、それなりの時間が必要です。

あちらの世界には、こちらの世界のような、時間という概念はありませんが、あちらの世界に帰ってすぐに、人を導いていけるだけの力を持つのは難しいわけです。「肉体を失って、霊という状態になっていること」と、「霊として向上していること」は、イコールではないからです。

仮に、とても人格者な先祖だったとしても、そういう意味での成熟度と、人を霊的に導いていく指導霊としての成熟度というのは違うのでしょう。

先祖霊は、私たちを、補助的に見守っていて、何かにつけて、助けてくれていることはあるとしても、スピリチュアリズムの分類上の指導霊とは、その役割やスタンスが違う、というとらえかたになると思います。

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2011年10月15日 (土)

「誰にも、同じ態度で接する方が望ましいはず」という、思い込みを手放す。

人付き合い、人間関係とは、「自分と、相手との、間にうまれること」なので、その相手により、作られる関係が変わっていきます。

なので、相手やその場にふさわしい接し方を、使い分けていくことが、人間関係をうまくこなしていくコツの一つであると言えます。

ところが、人間関係に悩みを抱える多くの人は、逆の受け止め方をしています。

たとえば、上司とか、義理の両親とか、あきらかに立場が違うとか目上の方には、ふさわしい態度を取るけれども、「友人や知人には、態度を同じにしていくのが良い事で、使い分けをするのは不公平」だと、思っている方が多いのです。

そうして、とても消耗したり、逆に、これほどにしているのに、なぜ、うまくいかないのだろう、と、悩みを深めてしまっています。

人間関係がうまくいかない悩みを持つ、多くの方が、誤解している「誰にも、同じ態度で接するのが望ましい」という思いは、なぜ、作られるのでしょうか。

この点を、理屈で理解することは有効です。(理解のないまま、態度だけを改めようとしても、では、具体的にどう改めたらよいのか、というのが見えてこなくなります。)

たとえば、自分から1mの距離にいる人と、10mの距離にいる人に、同じ声のボリュームで話しかけるのは、ふさわしくありませんよね。

10m先に聞こえるほどの声では、1m先にいる人にとっては大声過ぎますし、1m先の人との、ひそひそ話は、10m先の人には聞こえません。

こうやって、私たちは、人との距離を計って、適切な声のボリュームという、使い分けをしています。

この例えが、理解出来ない人は、まずいないと思うのです。 これらは、私たちにとって、難しくはない関係です。

なぜなら、この場合の距離感というのは、「物理的な距離によるもの」であり、数値の基準が明確ですから、使い分けが自然になされていきます。

ところが、人間関係の距離感というのは、相手が、自分から、物理的に何メートル離れているか、という意味ではなくて、「精神的な部分の共通性や、親しさの度合い、立場や関係の上下などを指す表現」ですよね。

これらは、物理的に目に見える距離がないので、「感性」で計っていかなければなりません。

実際の距離を計って、声の大きさを調整するようには、自然な使い分けができにくいものでもあるのです。意図的に、行っていく必要があります。

誰にも公平な態度が望ましいはず、と思い込んで、一生懸命になり、うまくいかないタイプの人は、上記のような、「感性での判断」を苦手としているか、または、そういう考え方を、今までにしたことがないタイプ、とも言えるでしょう。

そのため、「物理的な距離のように、見た目に、はっきりと違いがない相手に対して、目に見えない距離の差を、認識しにくい」のです。そのため、明らかに差がある、上司や目上の人以外の、友人・知人というくくりには、使い分けの必要性を認識しにくいのでしょう。

けれど、友人知人という立場は同じであっても、人というのは、それぞれ独自の個性を持った存在ですから、同じにしようとしても、うまくいかないのですよね・・・。

感性での判断というのは、とても難しいものです。ゆっくりとしか身につきません。平面の距離を物理的に計るようにはいかず、動機やプロセスも含めた、総合的な解釈をしていく必要があります。

誰もが、失敗したり、うまくいかなかったりした経験を通して、感性を磨いていきます。最初から、何の失敗もなく、完璧に振る舞い、使い分けが出来る人はいません。うまくいかずに、悩む経験も、感性を磨いてくための、必要なプロセスのひとつです。

そのように受け止め、価値観を、より、ふさわしいものへと、入れ替えていくとよいでしょう。

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2011年10月12日 (水)

動機やプロセスを含めた考え方が大切。

霊的な価値観で、物事をとらえていくには、表面的なことや、ある一部分のみにとらわれることなく、その出来事の動機やプロセスも含めて、包括してとらえていくことが大切です。

けれど、実際には、このような解釈の仕方を、自分に取り入れていくのは、なかなか難しいことのようです。

多くの人が、特定の物事や、出来事の一場面のみを取り上げて、○か×か、白か黒か、良いか悪いか、と、定義を付けることを、理解であり、解釈だと思いこんでしまいます。というよりも、むしろ、積極的にそのように定義をつけたほうが望ましい、そのほうがスピリチュアルだ、という解釈に偏りがちになる人にもいます。

なぜ、そのような認識のズレが生じるのでしょうか。

大きな理由は、2つ、だと思います。

ひとつは、「言葉」というものの、曖昧さを、理解しないまま、言葉の表現を重要視しているため、だと思います。言葉の表現というのは、曖昧さを含んでいて、同じ表現をつかっていても、複数の人の解釈が一致しているとは限らず、同じ物を表しているとも限りません。

たとえば、「普通」という単語ひとつとっても、何を普通とするかも一定ではありませんし、無難で没個性だね、という意味で、「普通だね」と表現する場合もあれば、特に異状がみられずに平穏で在ることを「普通だね」と、表現することもあります。

つまり、同じ言葉でも、それが使われている状況や、発言者の立場が変われば、意味もまったく違ったものとなる可能性を含んでいるわけです。

言葉を解釈するときにも、「表面的なことや、ある一部分のみにとらわれることなく、その出来事の動機やプロセスも含めて、包括してとらえていく」ようにしていかないと、誤解、曲解に繋がります。

「良い」といっても、その意味するところは、一律ではないのだ、と、しっかりと理解していれば、そう簡単に、一言で定義を付けようなどとはしないものです。というより、そうして、簡単に定義を付けて、もしも間違いだったら、という、慎重さが生まれ、「出来なく」なるものではないでしょうか。

そして、もう一つの理由は、「特定の要素だけを基準にするほうが、楽だから」です。あれもこれもと、多方面から分析するよりも、これは良い、これは悪い、これは○、これは×、と、決めてしまえば、(他の要素を考えなくていいので)、負担が少なく、楽ができるからです。

意図的に手を抜いている、ということではなくて、この世というもの、そしてこの世に生きる私たち人間というのは、いつの間にか、「楽なほうに、流されてしまう」傾向があると思います。単純に○×で判断したい気持ちには、誰もがなってしまうでしょう。

けれど、たとえば、企業の採用試験で、人柄や技能や経験を広く考慮されずに、そのうちのたった一つの要素だけを抜き出し、それも、採用担当者の(多分に個人的な感性による)判断基準をもって、○だ、×だ、と決められたら、理不尽に思わないでしょうか。

ほとんどの人は、自分がそうされたら、「その基準はおかしい」と、不愉快になると思うのです。ならばなぜ、試験や履歴書や面接という、複数の判断材料を提出する手間があるのか?と、思うことでしょう。

そう思うなら、自分も、世の中に対して、または、自分自身のことに対しても、そのように、○か×か、の、狭い見方をして、理不尽なことをしていないか、と、考えてみることが大切ではないでしょうか。自分が他人にされたら不愉快に思うならば、自分の行動もまた、慎重にならないといけません。

○か×か、という判断をするのが悪い、というのではないです。世の中の出来事の、多くの場合、最終的には、その判断を下していくことになるのが普通です。大切なのは、その判断に至るまでの、動機やプロセスをも、深く考慮していくこと、なのです。

それらを包括的にとらえていき、最終判断で、○×、良い悪い、イエスかノーか、になるのは、まったく問題はありません。そして、そういうとらえが出来る人が、ときに、瞬間的・直感的に、○×の判断を下すことも問題ありません。

自分なりの思考パターンが作られ、経験値が増えていけば、以前よりも考慮の時間が短くなり、瞬間的に判断に至る、というケースが、出てきてもおかしくないからです。私がよく、ブログで取り上げる、「経験値に底上げされることによる、直感」とは、そういうことを指します。

ところが、これらの包括的な視点を持たず、経験も十分でないまま、ただなんとなく、誰かの言葉や自分の感覚で、○だ×だ、これは良い、あれは悪い、と、すべてをそのように判断しては、自分の人生を混乱させてしますケースが少なくないのです。

世の中の多くのことは、そう簡単には、一つの決まった表現には当てはめることはできないし、当てはめた自分の基準が絶対的なものではない、ということを考えていくと、「表面的なことや、ある一部分のみにとらわれることなく、その出来事の動機やプロセスも含めて、包括してとらえていく」という、霊的な価値観に至ることになるのです。

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2011年10月10日 (月)

自立した人同士の関係が、長続きする。

人間関係がうまくいくようになるには、・・・それは関係が成熟したものになる、長続きするなど、さまざまな意味においてですが、「自立した人同士」による関係です。依存的な人との関係は、うまくいきません。

すべての出来事は、「波長の法則」により、同じ要素を持った人や出来事が引き寄せあって展開していく仕組みになっています。

つまり、依存的な要素のある人には、やはり依存的な相手と縁ができやすいのです。「自分を支えてくれるようなタイプの人と付き合いたい」「自分を引っ張っていってくれるような相手がいい」と思っていても、なかなか、その通りの人と出会えないのは、相手に頼りたい、という気持ち強すぎるため、ともいえるでしょう(つまり、自分が、理想の相手を遠ざけている、ともいえます)。

相手を支える強さや行動力を備えている人は、やはり「波長の法則」により、同じような自立心を持っている相手と、縁ができていきます。自分が依存心いっぱいになっていながら、自立心の強い相手を望むのは、まるで「ざるで水をすくう」ようなミスマッチです。

そういう相手と出会って、親しくなりたいと思うなら、自分自身も、自立心を備えている人間になる必要があります。

逆の立場になって考えてみればわかります。どれほどに行動的で、相手を思いやる気持ちが強い人でも、過剰に依存されれば、「手に負えない、面倒を見きれない」、と思うものではないでしょうか。

「自立した人」と「自立していない(依存心が強い)人」との関係は、長続きしません。自立しているほうが、嫌になって離れていくか、もしくは、自立していないほうが、相手が思い通りになってくれないことに不満を抱えて離れていくか。どちらにしろ、長くはもちません。

依存心が強い人、というのは、相手の身になって考えることが苦手な人、ともいえます。いつも、自分中心の考え方をするので、相手が何かをしてくれるものである、という前提で人間関係をとらえる傾向があります。

しかし、相手にも、当然、要求したいものはあるでしょうし、一方的な関係はバランスが悪く、必ずどこかに負荷がかかります。そういう関係は、最初はよくても、どちらかが(または両方が)不満が募ったときが、終わりのとき、となってしまいます。

素敵な相手と親しくなりたい、お付き合いをしたい、と望むなら、「相手から支えてほしい、支えてくれる人と出会いたい」、などの自分だけが過剰な要求をする考え方から抜け出して、「お互いに支えあって、協力しあえる関係を作りたい」「支えあえる相手と、出会いたい」という、「大人の考え方」をしていくことが大切だと思います。

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2011年10月 7日 (金)

長所と短所は、それぞれ何?という考え方。

人の性質には個人差があります。特定の要素が上手にできる人もいれば、下手な人もいます。そして、また別の要素を比較すれば、上手にできる人の順位は入れ替わるものだと思います。

そのように、備えている個性の差、というものがあるからこそ、私たちは、相手と自分を、または、世の中の平均的な度合いと自分とを、比較することで、自分を知ることができますし、改善や向上の目的を設定することもできます。

ある要素において、どちらが優れてるか、とか、平均的と比較してどのくらいか、という位置づけはできますが、しかしそれは、比較する相手が別の人になれば、移り変わるもの、入れ替わるものであり、絶対的な固定されたものではありません。

個性や性格に関わる優劣、というのは、実はあいまいなもの、なのです。品物を扱うかのように、明確な定義は付けにくいです。絶対的な基準があるわけではなく、対する環境や相手により、解釈も変わってくるからです。

たとえば、優しい性格の人は、場合によっては優柔不断になることもありますし、はっきり発言をする人は、批判的になることもあると思います。「同じ要素が、発揮のされ方により、良くも悪くもなりうる」のが、人の性格や個性という、流動的な性質ではないでしょうか。

自分の長所と短所とは、はっきりと定義できるようなものではなく、移り変わりのあるものであり、「備えている要素の、発揮のされ方の違いによる、同じもの」、でもあると思います。

どちらにもなりうるもの、であり、比較対象により、容易に入れ替わるもの、でもあります。なので、クイズの○×の答えのようには、決められません。

自分の長所と短所を知りたい(ということは、自分では、分からない)という人は、自分自身の分析ができていないか、分析するための方法がわからないか、そもそも、自己分析が必要だ、という考え方に至っていないか、の、どれかだと思います。

自分の性質もまた、移り変わりのあるものですが、しかし、現時点では、どのような個性があり、どのような発揮のされ方になっているかを自覚すれば、特定の相手や周囲との比較が容易となり、その結果、「自分→自分」という見方よりも、「自分→特定の誰か→自分」という、比較を経由することで、客観視がしやすくなっていきます。

「長所、短所、という、明確な定義はなく、発揮のされ方により違いがあるだけ」という前提で、自己分析と、そしてさまざまな自分以外との比較から、現時点なりの長所と短所というものが、見えやすくなると思います。

ここで私が言いたいのは、自分の長所と短所を、それぞれ分析して、認識しておくべき、という話ではありませんので、お間違いのないようにお願いします。長所、短所、という認識をしたいのならば、という話です。

私自身、もしも「あなたの短所と長所を答えてください」と、急に言われたら、すぐには答えられないと思います。長所と短所に分ける、という考え方を、普段まったくしていませんから。「そんな簡単に、表せないと思いますが」とか、答えてしまいそうです(笑)。

個性や性質を包括的に捉えられるのなら、それが一番だとは思いますが、しかし、便宜上の定義をつけると、比較という概念により、認識しやすくなることは確かなのです。この世ならではの、比較という学び方がありますから、必要な人は、それを取り入れていくと良いと思います。

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2011年10月 6日 (木)

世の中には、「はっきりしないこと」「はっきり出来ないこと」が、あふれている。

世の中には、とても曖昧で、はっきりしていない出来事や要素がたくさんあります。それぞれ個性があり、価値観もさまざまな人たちで構成されている世の中というのは、そういう世界です。

そのことを受け入れられなかったり、合わせられなかったりすると、悩みが苦しみが作られてしまうことがあります。

一般に、はっきりさせるのは良いことであり、はっきりしないのは悪いこと、のように思われている場合が多いですが、この区分けがすべてに当てはまるとは限らずケースバイケースとなります。

たとえば、「赤い品物」と「白い品物」があって、どちらが欲しいか、はっきりしなさい、という状況になったときには、明確に一方を選ぶことが望ましいです。

けれど、「ピンク色」を、「赤か、白か、どちらに分類させるか、はっきりさせろ」、といっても、・・・それは、なかなか難しいものであり、迷う方が自然です。

世の中には、そのように、どちらとも言える、○か×かのような区分けはしにくい物事があふれているものではないでしょうか。

はっきりしない、もしくは、はっきり出来ないのは、怠けているからでも誤魔化しているのでもなく、相手を傷つけないためだったり、調和を乱さないためだったり、という、愛情や気配りから、そうしていることもあります。

そんな中、それらの配慮も汲まずに、イエスorノーを、単純に当てはめた回答を迫るようなことをすれば、そんな言動をとっている自分が周囲から浮いてしまいます。けれど、「はっきりさせるのが良いこと」と思っている人は、自分は正しい主張をしているのに、周囲が理解しないのが悪いと思い込み、何が、その状況を招いているのかに気づけません。

はっきりさせるのも、時と場合によるのです。物事を表面だけでとらえずに、動機とプロセスを含めて、はっきりさせる方が良いのか、はっきりさせないくらいで良いのかを、判断した上で、ベストの行動をとっていくように、心がけましょう。

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