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2011年2月の18件の記事

2011年2月26日 (土)

挑戦するか、否か、というのは、「極端な二択」。

特に女性に多いのですが、「イエスか、ノーか」、「やるか、やらないか」、「良いか、悪いか」のように、極端な二択の定義を、自分が作り上げ・・・、そのどちらも選ぶことができず、迷いの中にはまり込んでしまうことがあります。

世の中で起こる出来事というのは、とても複雑な要因が絡み合って起こるわけで、そう簡単に、白黒、つけられるようなものではないはずで・・・、本来、白黒つけられないものを、つけようと「自分が」している(から、うまくいかない)と、気づくことが大切です。

複数の、たとえば5つくらいある選択肢のうち、最も相反する選択肢が、ほぼ真逆になるなら、わかります。けれど、たった2つの限られた選択肢が、真逆で、何も共通点がない、という状態であれば、それは、「選べない」という迷いが問題なのではなく、「選択肢の定め方に問題がある」のではないでしょうか。

あまりに極端すぎる二択では、答えがきまるわけはないのですが、・・・しかし、困っているときは視野が狭くなるため、それに気づくことができません。

たとえば、新しいことに挑戦するかどうかで迷っている場合、「挑戦するか、しないか」という二択からひとつを選ぶのは、とても難しいものです。ひとつを選べば、自動的にもう一方の選択肢が消滅するような定義ですから。

世の中の出来事というのは、そう簡単には白黒つけられない、グレーゾーンに属するものが多いと思います。ときに、そのような、あいまいさを受け入れていく大人の感性を持つことも大切です。

なぜなら、仮に、「挑戦する!」と決めて、行動したとしても・・・、スタートと継続はまた別ですから・・・、「二択の考え方」から抜け出さないことには、ほどなく、「このまま、続けるか、やめるか」という、似たような迷いに直面してしまうでしょう。

極端な考え方しかできない人は、(たとえ、ひとつ決断したとしても、また別の悩みが出てきて)いつまでも落ち着かない、ジェットコースターのような、激しい上下の気持ちの波を持ち続けることになります。

このような場合であれば、「挑戦すると決めて行動する」、「いつかは挑戦するかもしれないが、今すぐには動かない」、「3年以内には挑戦するつもり」、「何人かに相談してみて、参考意見を聞いてから判断する」「挑戦は無謀だと思うので、やめておく」、「もうちょっと敷居の低い、別のことを検討する」など、白とも黒ともはっきしない、その中間に位置する選択肢が、いくつもあってもいいと思うのです。

「やるべきか、やめるべきか、どちらがいいだろう」と悩んでしまう気持ちはわかるのですが、そのような、極端な定義で一つを選ぶような思考の仕方を改めないことには、心に平安が訪れません。いつも、悩み続けることになってしまいます。

世の中にはたくさんの出来事がありますが、両極端の選択肢から、ひとつを選ばなければ「ならない」という状況は、それほど多くはないはずです。多くのケースは、「自分が」その定義を作り上げては・・・、選べなくて、苦しんでいるという状況です。

「今の仕事はとても苦しくて不満がいっぱいだけれど、我慢して働くしかないのか、それとも、以前から夢だったが、資金的に無理だと思っている、お店を開く、という道に進むべきなのか」、などという考え方に、困っているときほど、偏ってしまいますが( ̄∀ ̄;)、そんな自分に気づいて、もう少し緩やかな選択肢も想定していくことで、自分が楽に生きられるようになるのではないでしょうか。

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2011年2月25日 (金)

大きくて明るいオーラの人は、「困難を乗り越えるパワーを備えている」。

私たちは、「オーラ」と呼ばれる、霊的なエネルギーを放っています。オーラの様子には、その人の性格や資質、感情、その他がさまざまに反映していますので、色や形や質感、明るさや大きさなどに個人差があります。

オーラの色は、その色が表す性質の差があるだけで、特定の色であることが素晴らしくて望ましい、というような、優劣はありません。

優劣があるとしたら、むしろ色よりも、「明るさ」です。明るく輝いていて、力強いエネルギーを発している状態がベストです。

オーラが大きくて明るく輝いている人は、「どんな困難も、乗り越えていけるパワーがある」という、特性を持っています。

この世でおこるすべての出来事は、そうなる意味があっておこる必然であり、自分がそのことから学ぶ要素がある(から、出来事に遭遇する)と、とらえることができます。

そのような受け止め方ができるのは、自分と同じ要素のある物事が引き寄せられてくるという「波長の法則」と、自分がしたことが何らかの形で自分に返るという「カルマの法則」によるものです。

「背負えないほどの大きな荷を、与えられることはない」などという表現はよく聞きます。

苦難に思える出来事も、罰が与えられているのではなくて、「苦難という形態をとった学びの機会が与えられている」と考えれば、明らかに、オーバースキルな学びの要素は、(負担になるだけで、学びになりにくいでしょうから)与えられるはずもないのです。

言いかえれば、常に「背負うことができる荷(学びの要素)が、その人のレベルに合わせて与えられる」のですから、人として大きな器を備えていて、人格が磨かれている人ほど、より高度で複雑な学びに、挑むような生き方になっていくものです。

オーラが大きな人は、活力や行動力を備えているケースが多いです。現時点では、あまり表立って発揮されていない状態であったとしても、備えている(眠っているものも含めて)要素の大きさと、オーラの大きさは、ほぼ比例すると言えるでしょう。

そして、それらが、良い形で発揮されていれば、オーラに輝きとなって反映していきます。妬み嫉み、怒りや、怠惰などの否定的な要素に傾くことなく、いつも前向きで自主性を持って生きている人は、オーラが輝きます。

この二つの要素がそろっている、大きく輝いたオーラは、自力という力に満たされ、そして、霊的なサポートもあらゆる形で得られているからこそ、です。 どんな困難にもくじけることなく、立ち向かうことで、さらに力をつけていくこともできるのです。

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2011年2月24日 (木)

直感力が高い人の特徴、「せっかち」である。

私たち人間は、肉体をもった霊的存在なので、実は誰にでも霊感があります。強い人もいれば、そうでもない人もいるという差はありますが、霊感がまったくゼロの人はいません。

直感も、広い意味でいえば、霊感とほぼ同義語でもあり、霊感の表れ方のひとつ、と言えるでしょう。

過去の記事で、霊感が強い人の特徴をいくつか取り上げました。霊的感性の幅広さは、実にさまざまな表れ方があり、ポジティブな方向に発揮されていく場合もあれば、感度のよさゆえに、ネガティブなものに引きずられやすくなることもあります。

霊感と直感の間に、それほど大きな違いはないのですが・・・、霊感というのは、感度の幅広さ全般を表す場合もあり、良い方向に発揮されることもあれば、そうではない場合もあると思います。

そのように、幅広い意味がある霊感の中で、「直感」と限定をして考えた場合、そもそも、ネガティブになっている状態では、直感力が働きようがない、とも言えますので、ここでは、波長が高く保たれていて、備えている直感力が、創造的な方向に発揮されている場合の特徴を、いくつかお伝えさせていただきます。

直感力が優れている人の特徴として、「せっかちである」という点があげられます

直感力が高いと、物事に取り掛かる際に、「先の予想が、なんとなくついてしまう」ので、そこに至るまでのプロセスが、「分かりきった結果のために、なぜ、手順を踏んで、その結果にたどりつく必要があるのか」というような気持ちになってしまうことが多いです。

たとえば、野菜を刻んで、香辛料をブレンドして、煮込んでカレーを作る、というプロセスが頭の中に構築されるのは10秒だとしても、実際の作業は、1時間くらいかかります。直感力の高い人は、思考(10秒)と行動が終わるまで(1時間)の時間差が、まどろっこしくなるのです。

どんなことにも言えますが、頭の中で考えているスピードで調理はできませんし、頭の中で計画したとおりに、実際の物事はうまく進んでくれません。そうとわかっていながらも、意識が先へ先へと進んでしまうのが、直感力の高い人の特徴なのです。

階段の一段目に足を掛けた瞬間に、そのはるか先にある十段目の様子が、根拠はなくても、何となく予測がついていきます。そうなると、二段目や三段目というプロセスを経ることがまどろっこしくて、一気に十段目に行きたい気持ちになり、せっかちになってしまうのです。

また、次々に新しいことがひらめくので、同じことに集中して忍耐力を発揮することも、面倒に感じられて、移り気にもなりやすいです。

このようなタイプの方は、「プロセスを、味わい楽しむ」「プロセスに、学びがある」という考え方をしていくことが大切です。

十段目という結果「だけ」を重視するのは、目に見える成果や結果を重視するという意味で、物質的価値観になってしまうと思います。その間にある、さまざなプロセス、思い通りになったことや、ならなかったことも含めた、すべての延長上に十段目の結果や成果があり、その経験のどれもが貴重なものである、という考え方こそが、私たちが身につけていくべき、スピリチュアルな価値観ではないかと思います。

直感力が高い人は、どうしても、(ひらめきがいいので)気忙しくなって、考えるスピードと同じに展開しない現実に、イライラしがちになります。

それは、性質上、しょうがないことでもあるのですが・・・、そこを理性でコントロールして、バランスを保っていくこともまた、直感力が高い人に与えられた学びのひとつ、だと言えるでしょう。

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2011年2月23日 (水)

女性同士の人間関係が、うまく作れなくて悩む人へのアドバイス。

女性同士の付き合いが得意でない、と感じる人は少なくありません。

「うまくやっていきたいけれど、どうしたらいいのか分からない」場合と、「付き合いそのものが苦痛で、できれば避けたい気持ちがある」場合とに、分けられると思われます。

女性同士の関係というのは、基本「横並び、同列の関係」です。

つまり、前者の「うまくやっていきたいけれど、できない」人とは、「横並びの関係を、どのように作っていけばいいのか、分からない」人でもあります。その人のもともとの性格にもよりますが、家庭環境(親が支配的でいつも主導権をとり、上下の関係の中で過ごした、など)によって、作られてしまうこともあると思われます。

後者の「女性同士の付き合いそのものが、苦痛」と感じる人は、「横並びの関係が、苦痛」なのでしょう。自立心が高い人は、女性同士の団体行動が、負担に感じられる傾向があるようです。

いつもお伝えしてるように、改善のためには、「問題となっている点を、取り違えない」「あいまいにせずに、掘り下げて解釈する」ことが大切です。

「女性同士が苦手」、とまとめてしまうと、・・・これは、改善の方法を考えても、なかなか難しいと思います。きっと、思考をしても、「でも・・・、苦手は苦手だし」という結論に至って、それ以上の深まりが得られないことも多いでしょう。

けれど、「横並びが苦手なのだ」と置き換えて受け止めると、「女性でも、横並びの要素が少ない関係なら、自分は苦痛には感じないのだろうか?」「横並びに馴染むには、何か共通点があるほうがいいだろう。どんな要素が共通すればいいのだろうか?」などと、具体的な思考に結びつけることができます。そうすると改善のためにとれる行動が、何かしら思い浮かぶのではないでしょうか。

横並び、というのはつまり「同じ」であることです。「同じになれない」人が、女性同士の関係を苦手に感じます。「同じになりたいのに、なれない」と悩む人もいれば、「同じでありたくない、なぜ同じにならなければいけないのか」と悩む人もいる、という違いはあっても、要素は共通しています。

ちなみに、女性同士の人間関係は、「横並び」ですが、男性同士の場合は、「縦の序列」がある関係になります。

男性と、女性の、同性間の関係について、受け止め方はまったく違って、男性は、女性のように「同じになれない」ことで悩む人は少数です。なぜなら、男性同士は、序列があるのが前提で、同じでないことがむしろ普通だからです。男性間における人間関係の悩みは、女性とは、違うものになります。

女性は、横並びの関係、男性は縦の序列の関係、このことを、覚えておくと、あらゆる場面で役立つでしょう。自分のことを見つめる場合にも、他者にアドバイスをする場合にも。

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2011年2月22日 (火)

直感力が高い人の特徴、「タイミングに恵まれやすい」。

私たち人間は、肉体をもった霊的存在なので、実は誰にでも霊感があります。強い人もいれば、そうでもない人もいるという差はありますが、霊感がまったくゼロの人はいません。

直感も、広い意味でいえば、霊感とほぼ同義語でもあり、霊感の表れ方のひとつ、と言えるでしょう。 過去の記事で、霊感が強い人の特徴をいくつか取り上げました。霊的感性の幅広さは、実にさまざまな表れ方があり、ポジティブな方向に発揮されていく場合もあれば、感度のよさゆえに、ネガティブなものに引きずられやすくなることもあります。

霊感と直感の間に、それほど大きな違いはないのですけれど・・・、霊感というのは、感度の幅広さ全般を表す場合もあり、良い方向に発揮されることもあれば、そうではない場合もあると思います。

そのように、幅広い意味がある霊感の中で、「直感」と限定して考えると、そもそも、ネガティブになっている状態では、直感力が働きようがない、とも言えますので、ここでは、波長が高く保たれていて、備えている直感力が、創造的な方向に発揮されている場合の特徴を、いくつかお伝えさせていただきます。

直感力が優れている人の特徴として、「タイミングに恵まれやすい」という点があげられます。

直感力とは、いろいろなものを、キャッチする力、感じとる力でもあるので、その力が高い人ほど、感じとるアンテナが発達しています。

アンテナが発達している人は、自分にとって有意義なタイミングに恵まれやすい傾向があります。ご自分の周囲を見渡していくと、「なんかよくわからないけれど、常にタイミングよく、必要なものに出会っていて・・・、運がいいように感じられる」人が、いるものではないでしょうか。もしくは、ご自身がそのタイプ、という場合もあるでしょう。

そういう人は、直感力が高いタイプなのだと思います。(もちろん、自分にとっていいタイミングが引き寄せられるというのは、直感力だけでなされるのではなく、努力や行動力があってこそ、ですが)。

その現象のメカニズムは、自分と同じレベルの物事を引き寄せる「波長の法則」により、自然に、ふさわしい(タイミングの)出来事が関わりを持ってくる、という面もないわけではないけれど、「実は、タイミングよく物事が展開するような選択を、無意識で 自分が 選んでいる」ためでもあるのです。

たとえば、A子さんを含めた、6人の女性が会社にいるとします。あるとき、上司から、ホテルのお食事系を4枚もらったとします。

その中から、4人・・・というのは、2人があぶれるわけで、A子さんは気を利かせ、権利を辞退し、残りの5人で、じゃんけんをして4人を決めることになりました。その様子を見ていた上司が、「では、私がお金を出してあげるから、皆で行きなさい」という提案をしてくれました。そこでも、A子さんは辞退し、ひとり分の追加料金を上司に出してもらった5人が、お食事に出かけます。

ホテルに着くと、レストランはかなり混雑していて、予定よりも相当に時間がかかってしまいました。しかも、天気が大荒れとなり、雨風がとても強い状態の中帰宅したため、全員が体調を崩しました。

こうなってみると、結局、一番いい形の結果になったのは、A子さんだったかもしれません。体調を崩すこともなく、気分を害することもなかったわけですから。

この場合、A子さんは、無意識ながら、「自分にとってベストで、安全な状況を、選んでいた」とも言えるのです。

どうしても行きたければ、じゃんけんに加わればよいし、また、上司がお金を出してやるといったのだから、A子さんも行くことはできました。しかし、そうしないほうがいい、という直感があり、乗り気にならなかったのでしょう。

これは、たとえ話の創作ですが、直感力のある人は、一見、物理的に損をしている状況に思えることが、後になってみれば、自分にとって一番、望ましい方向に進んでいた、というような事例に遭遇することがあると思います。

直感力が高い人は、無意識で、そのようなタイミングに繋がることを、選びとっているものですが、気付きが深くなり、真理の仕組みを理解していくことで、それらを、「意図的に活用する」ことができます。

そうすると、ますます、自分にとって有意義なものを引き寄せたり、作り上げたりできるようになり、「常にタイミングよく、必要なものに出会っていく人」になっていくのです。

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2011年2月21日 (月)

仲のいい夫婦の顔は、似てくるもの?

「仲の良い夫婦は、顔が似てくる」などと、言われます。実際、いろんな方たちのお顔を思い浮かべると、そういう傾向は、少なからずあるように感じます。

親子は、血縁があれば似ていても不思議ではないけれど、なぜ、血縁のない夫婦の顔が、似てくるのでしょうか。

それは、一緒に暮らしていて、オーラが影響しあっていることから、オーラの親和性が高くなることが関係しているように思います。

人との交流は、オーラの交流でもあります。オーラが受信機になったり、発信機になったりしながら、いろんなことをお互いに感じ取っています。

元気な人と一緒にいると、自分の元気になったり、落ち込んだ人の話を聞くと、自分も暗い気持ちになったりすることからわかるように、相手の感情その他のエネルギーに、影響を受けていくことがあります。

一緒に過ごしていて、さらに、お互いに信頼感を持っている間柄では、より自然で滞りのないオーラの交流が行われ、相手の影響を受け合っていきます。

そうすると、お互いのオーラに親和性が生まれ、オーラが似てくることが多いように感じます。オーラが似てくる・・・ということは、考え方や行動などに、いろんな共通点が出てきて、だんだんと雰囲気も似てきて・・・、顔立ちも似てくるのではないでしょうか。

外見的な要素も、内面の反映として作られている部分があると思うのです。たとえば、意欲的になっているときには、気持ちに張りが出て、お肌の状態や目の輝きが違ってきたりしますよね。

そのような、骨格などの先天的な要素を除いた部分は、いろんな環境や自分自身の心のあり方などの影響受けて作られていくことが考えられるので、一緒にいる時間が長くて、お互いにオーラが影響し合って融合していけば、顔立ちも似てくることもあるのでしょう。

「あの夫婦は、よく似ている」と感じる場合、きっと、お顔だけでなく、「雰囲気も含めて、似ている」と感じているのだと思います。

顔だけ単体で比較すると、実はそれほど似てはいなくても(笑)、融合した雰囲気が、他人にそう感じさせている・・・場合もあるかもしれません( ̄m ̄*)。

どちらにしても、お互いに影響し合っていれば、似てくるのは自然なことです。

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2011年2月19日 (土)

付き合っている彼と、結婚できるか?という悩みについて。

長くお付き合いしている相手に、結婚の意思があるのかどうかはっきりしない、自分は、相手との結婚を望んでいるが、このまま(相手との結婚を願い)付き合い続けていいのか、それとも別の相手を探したほうがいいのか・・・というご相談をいただくことがあります。

女性は、男性と違って、結婚するとなったら、お仕事の形態から何から、いろんなことが変わっていくことが多く、出産を考えるならば、年齢的なタイミングもあります。

それで、「彼のことは好きだけれど、彼に結婚の意思がないのだとしたら、私は今後どんな選択をすればいいのか(付き合い続けるほうがいいのか、別れるほうがいいのか)」という悩みに繋がってしまうようです。

このようなご相談の場合、「自分で、彼の意思を確かめるしかない」という回答を差し上げることになります。冷たいようですが・・・( ̄∀ ̄;)、実際、そうするしか方法はありません。

「それができないから、困っているのに」と思うかもしれませんが、自分で確かめ、お互いの意思を合わせていかないことには、結婚に向かって進んでいくことができません。

このようなケースでは、なぜ、女性側が、相手の男性に意思を確かめることができないのか」を、考えてみることが大切です。

多くの場合、もしも、彼に結婚の意思がなかったとしたら、自分がその話を切り出して、イエスかノーかを迫ることで、付き合いそのものが断たれてしまうことにならないか、という不安があるためです。

つまり、結婚したい願望はあるけれど、結婚しないなら別れる、というほどの強い意思はなく、相手に恋愛感情もあるため、「結婚するか、しないなら別れるか」という二択はとれず、「結婚するか、しないなら・・・とりあえず、このまま付き合いを継続するか」という二択になってしまうため、相手が煮え切らないことに悩みながらも、自分もあいまいな部分を抱えてしまうわけですね・・・。

それで、外に答えを求めたくなり、「彼と、結婚できるか否か」または「彼は、どう思っているのか」という、ご相談に繋がるわけです。

が、先にも書いたとおり、これは、「自分で、彼の意思を確かめるしかない」です。なぜなら、仮に、今の状態のまま(彼の意思を自分で確かめず)結婚することができたとしても、結婚してから「その先」が長いのであり、結婚すればそこがゴールではありません。

お互いの意思をきちんと確認し合うことのないまま、結婚に至っても・・・、今度は、「このまま、ずっと結婚生活が続けられるのだろうか」「相手は、どう思っているのだろうか」と、表向きの要素を入れ替えた、同じ悩みが続いてしまうと思います。

とにかく、結婚だけすれば、すべて丸く収まるならば、彼の意思を自分で確かめずに、何とかして結婚という形を整えることに一生懸命になればよいかもしれませんが、しかし、結婚したその後の継続が大切なのですから、この点をきちんと考えていく必要があります。

彼に、意思表示を求めたことで、(彼に結婚の意思がない場合)、お付き合いの関係そのものが、壊れてしまうことも場合によってはあるでしょう。が、何もしなければ、今のままが続いてしまう可能性も高くなりますし、その程度で壊れてしまうような、不安定な関係の二人ならば、結婚してもうまくいくものだろうか、という観点からも、考えてみれば、別れに繋がるかもしれないという恐れを、冷静にとらえることもできるでしょう。

「彼は、どう思っているのか」と、悩んでしまう女性が多いですが、男性と女性の考え方は違うので、「女性が思っているほどには、実際のところ、深くは考えていない」というケースも多いようです。

なので、やはり、きちんとお互いの意思を確認しあって、次の段階である、結婚に進んでいくことが大切だと思います。

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2011年2月18日 (金)

直近の未来は把握できることもあるけれど、遠い未来は未知数。

私たちの未来とは、これから自分の手で作っていくものであり、あらかじめ決まった筋書きを生きているわけではありません。

未来のことをお伝えする場合は、あくまで「現時点から見た、未来の可能性のひとつ」という前提で、参考までにお伝えしています。

私たちは、自分の学びに相応しい時代や地域や家族や性別その他を決めて生まれてきます。その先の人生で、経験する必要のある要素までも、おおよそ(あくまで、広い範囲において)決めてきている場合もあります。

しかし、それは、すべてが細部まで決められているということではありません。枠組みは大きなものであって、学ぶべき要素から外れない範囲で、どのように選択し、どのように生きるかは、私たちの自由意思となっています。

そのような仕組みですから、この先の未来のすべてを、すべて言い当てるようなことは不可能だと言えます。

過去をほとんどすべて言い当てることは、相当に実力のある霊能者ならば可能かもしれませんが、それは、既に終わったことだから可能なのであって、これからの未来についてすべてを言い当てることなど、どんなに実力のある霊能者でも、絶対に不可能です。なぜなら、未来は、これからどう生きるかにより決まってくる未知数の部分があり、あらかじめ確定しているものではないからです。

といっても、未来について、まったく何も分からないかといえば、そうではありません。

この世の仕組みとして、自分がしたことが、何かの形で自分に返ってくるという「カルマの法則」と、自分と同じレベルの物事が引き合うという「波長の法則」というものがありますから、そこを踏まえてとらえていけば、直近の未来に関しては、ある程度の精度をもって予測がつく部分はあります。

未来は、過去の積み重ねで作られていきますから・・・、過去の積み重ねは、既に終わったことなので、(そのカルマが、どのように展開していくかという細部まではわかりませんが)可能性の範囲を、少し絞ることはできるのです

分かりやすく、現実的な出来事に置き換えて説明します。

たとえば、今、このブログを日本国内でご覧になっているみなさんが、3年後に、アメリカで生活している可能性は・・・、ゼロとは、言いきれないと思います。まず、そんなはずはない、予定も意思もない、としても、3年という期間に何があるか分からない以上、絶対にないとは言い切れませんよね。

けれど、3日後だったら・・・、その可能性は、ゼロだとほぼ言い切れるでしょう。直近の未来というのは、現状を踏まえれば、大きな枠組みでは、今から続く未来の範囲に存在しているという予測を立てることは可能です。

基本、それと同じ原理なのです。上記は、現実の物理的要素を判断材料とした予測です。私たちがお伝えする未来のリーディングとは、過去から積み重ねられた、さまざまな要素の蓄積を判断材料として予測されたものになる、という違いです。

ただ、過去からの予測・・・とはちょっと違っていて、未来からの逆算、のような形になる予測なのですが、これらは、あちらの世界は、現世と違って時間という概念がないため、なかなか、言葉で説明するのは難しいところなのですが・・・、ひとつ言えるのは、「たぶん、こうなるのではないかな~、という、想像とは違う」ものです。

カルマと呼ばれる、その人が積み重ねた行為は、今この瞬間からも、未来に向けて、付加されていきますから、「今」と、「今からみた、未来の可能性」の期間が長くなるほど、未知数の要素が増えていくことになるので、先のことほどわからないようになっています

未来についてのリーディングの仕組みは、おおよそ、上記のとおりとなります。その上で、良く分かるもいれば、そうでもない人もいるのは、(どちらも、それなりの確かな霊能がある、という前提においてですが)、霊能者の資質の大小や、得意分野の差、ということになってくると思われます。

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2011年2月15日 (火)

霊的観点からの「意味」「意義」とは、私たちの霊的成長に伴うこと。

日常のさまざまな出来事について、「この出来事には、意味があるか?」というご相談をたくさんいただきます。スピリチュアリズムに関心が深い方ほど、意味があるかないかを知りたい気持ちが強くなるようです。

このようなことを、自分自身で深く考察して紐解く場合、まずは「すべてに、何らかの意味はある」という前提で考えてみることです。この世に偶然はありません。すべては、意味のある必然です。そういう前提で、「何らかの意味はあるはずだから・・・、だとしたら、どんな意味が?」という考え方をしてみると、何かが見えてくるかもしれません。

ただ、このとき、気をつけなければならないのは、「必ず、意味はある」ことを、「必ず、とても強いメッセージ性を含んだ意味がある」などと、思いこみや拡大解釈をしすぎないように、冷静になっていく必要がある、という点です。

物事には、必ず何らかの意味を含んでいますから、「これには、意味があるのか、それとも意味がないのか」という問いには、ノーという答えになることはないとはいえ、だからといって、すべてに具体的でかつ重要な意味があるとは、限りません。

あちらの世界から、何か、気づきを起こしてほしいと思うことがあって、もたらされるような、メッセージ性を含んだものは、本人にそうとわかるように、とても印象的なタイミングや状況を伴って起こるものです。

メッセージ性を読みとろうという意識が強すぎると、些細なことにまで、拡大解釈をあてはめて考えすぎるために、実際の行動が取れにくくなったり、妄想の域に入り込んでしまう場合もあります。

「この世に無意味なものはない、すべては必然である」、と理解することが、階段の一段目だとしたら、次は、「すべてに意味はあるが、とりわけ重要な意味を持つものと、そうではないものという差は存在する」という理解に到達することが、階段の二段目です。そうして、「出来事の意味するところを考えすぎになる状態から、抜け出す」ことや、「○か×か、イエスかノーか、のような、限定的な解釈は、そう簡単にはつけられないのだ」という理解に達することが、三段目です。

そのように、霊的な価値観というものは、より深いものへと置き換わっていけるものです。自分自身の成長と比例して、思考や感性の及ぶ範囲が広がっていくからです。

物質的な解釈、現世的な解釈というのは、「○か、×か」「イエスか、ノーか」と、定義をつけたらそれで終わりで、深まりがありません

いろんな出来事に対する気づきや、メッセージ的なものを、あちらの世界からの、自分に対する恩寵だととらえるのならば、「霊(的存在)から与えられるものは、霊的成長に伴うもの」と理解することが大切です。

そうすることで、過剰な拡大解釈により、実は自分の意識や行動を狭くしている自分自身に、気がつくこともできるでしょう。

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2011年2月14日 (月)

孤独が辛い人と、孤独が楽な人がいる。

世の中には、さまざまな考え方、感じ方の人がいて、孤独が辛い、ひとりでいたくない、と感じる人もいれば、ひとりのほうが楽、他人といると煩わしい、と感じる人もいます。

考え方、感じ方というのは、その人の個性ですから、どちらがいい、悪い、という優劣はありません。

どんなことにも言えますが、大切なのはバランスです。適度なら問題のない性質も、過剰になったらよくないのです。

孤独が辛い、と感じる人は、「孤独さを乗り越える」学びを持っている、ということです。乗り越え方には、いくつもの形があります。それは、自分を強くすることだったり、分かりあえるパートナーを得ていくことで、孤独感を埋める人もいるでしょう。その場合は、孤独感を解消していく学びと、人間関係を構築する力をつけていく学びが、重なり合っているわけです。別の言い方をすると、孤独感を動機として、人間関係に挑むような学びをさせられるのです。

孤独が楽、と感じる人にとっては、「孤独という環境に、逃げない」ことが、学びになるケースが多いのです。こちらもまた、乗り越え方にはいくつもの形があります。意図的に人と関わるようにして、苦手意識を薄くしていく方法もありますし、集団ならではの楽しさや手ごたえを見つけていくこともよいでしょう。

人は誰もが、楽な方に流されてしまいます。辛いことは、避けたいと考えます。

そのため、孤独が辛い人は、他人に依存しがちになりますし、人付き合いが辛い人は、孤独な環境に逃げたくなるのです。

つまり、考えるべきポイントは、「孤独は、良いか、悪いか?」というような、○×の定義ではない、ということなのです。

同じ「孤独」という感覚に向き合っていったとしても、ある人にとっては、他人に依存したい気持ちがあり、別の人にとっては、他人を避けたい気持ちがあるわけで・・・、その人にとっての(たましいの観点からの)正解となる行動はあっても、全員に当てはまる正解はありません。

その人の備えている考え方のクセとか、動機などを含めて、自分のあり方全体のバランスを考えていかなければ、改善すべき点はどこなのか、・・・改善すべき点があるのか、ないのかも、見えてはきません。

先にも書いたとおり、大切なのはバランスです。

孤独が辛い人も、孤独が楽な人も、その性質の発揮のされ方が、極端にならないように、というのが、基本的な判断のポイントとなるでしょう。

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2011年2月11日 (金)

精神的な要素のみに価値を置きすぎても、この世という物質界ならではの学びが得られない。

スピリチュアリズムに興味を持つ方には、あまりに精神的な部分「だけ」に価値を求めすぎ、物質を悪いもののように受け止める、極端な思考になる方が、少なくありません。

どんな(一般に、良いと受け止められている)ものでも、過剰になったらよくないのであり、適度であることが大切です。

精神「だけ」に、全面的な価値を置くのなら、私たちは、なぜ、この物質世界に、肉体という物質を備えて、わざわざ生まれてきているのか・・・、その意味すら、わからなくなります。

もしも、精神的な部分「だけ」が大切ならば、なぜ、生まれてきているのでしょうか。それなら、ずっとあちらの世界にいれば済むのであり、この世という物質界の存在意義がなくなってしまうと思います。

私たちは、自ら望んでこの世に生まれてきています。それは、この物質社会という状況を活用して、物質界ならではの経験を通して、効果的に学ぶためです。

この物質界のなかで「精神的な部分にも、価値を見出して受け止める」のと、「精神的な部分にだけ、価値を置く」のとは、同じではありません。

たとえば、自然を大切にすることや、ときに不便を受け入れること、効率や機能のみを求めすぎないという考え方ができるような、大人の感性が、今の世の中では、強く求められていると思いますし、私たち人間の誰もが真剣に考えていかなければならない問題だとも思います。

けれど、自然を大切に、という部分「だけ」を深く追求しすぎると、・・・地球や自然にとて、一番よくないのは、私たち人間の存在ではないか、とも思うわけです( ̄∀ ̄;)。自然は破壊するわ、ゴミは出すわ、いつもどこかで戦ったり競争したりで、大いに自然に負荷をかける存在ではないか、という矛盾に行きあたってしまいます;。

でも・・・、そんなことまで考えたら、どこまでも、パラドックスにはまり込み、キリがないです。私たち人間は、「すでに在る」として、考えていかないと、自然保護のための思想もいだけないし、活動もできません。

それと同じように、既にこの物質界は「在る」のであり、そしてその世界に、私たちは、肉体という物質をまとって生きているのだから、まず、その点は受け入れていくべきだと思うのです。

その上で、「物質界において、どう(精神的、霊的価値観を踏まえて)生きるか」「物質を、どのように活用するか」、という考え方をしていくのが、限られた状況における「最善」ではないでしょうか。

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2011年2月 8日 (火)

オーラで包まれて、衝撃から守られることがある、という3つの例。

大怪我をしてもおかしくはないような事故にあったのに、奇跡的にほとんど無傷だった、という経験をお持ちの方は、少なくないようです。

そのアクシデントに直面する瞬間に、オーラがクッションのような役割を果たして、肉体をくるまれて、ほぼ無傷、という状態にさせてもらっているようです。

そのような経験をなさる方のほとんどは、平均よりもかなり大きくて勢いのあるオーラをなさっていて、オーラで包まれる、という状況がつくられることも、それほど不思議ではないな、と感じさせられることが多いです。

最近、続けて、そのような話をお聞きする機会がありました。

お一人目は、私がいつも伺っているサロンの整体師さんです。とても、大きなオーラをなさっています。昔、バイクだか車だかで、大きな事故にあって、バイクだか車だかは、大破したけれど、自分はかすり傷程度だった、と。この場合は、オーラでご自身を包んだのでしょうね。

お二人目は、最近、たまたま(必然?)伺った、あるお店のオーナーさんです。その昔、運転中に、山道を走っていたときに、道路から外れて、数メートルも落差がある場所に、車ごと落ちた!のだそうです。でも、無傷だったのだとか。車も、ストンとそのまま垂直に落ちた状態で、多少の衝撃の負荷は車に掛かったけれども、ほとんど故障していない状態で、しかも、道路から外れて飛んだ(落ちた)瞬間に、「あ、このまま、着地できるのではないか」という、不思議な確信めいた感覚があったそうです。このケースは、自分と車を、エネルギーでくるんだのでしょう。

私自身にも、同様の経験が思い当たります。かなり昔ですが、あるお店で、売値で軽く100万円以上するであろう、エメラルドの指輪を、1mくらいの高さから、大理石の床に落としたことがあります( ̄m ̄;)。

エメラルドというのは、ダイヤなどと比較して、とても柔らかく、そして結晶の形状上、割れやすさを持った石だと言えます。エメラルドは、超音波洗浄も避けるべき石とされています。それくらい衝撃に弱い石を、固い床に落としたときは・・・、もう、心臓が止まるかと思いました(汗)。が、壊れていなかったのです。あのときは、本当に心の中で神に感謝しました。

当時は、「よかった、助かった」という思いでいっぱいで、あまり深くは考えていなかったけれど・・・、今にして思えば、あのときは「落下した品物を、自分のオーラでくるんだ」ために、衝撃を避けられたのかな、と。

ちなみに、この記事を書きだした時点では、整体師さんの話と、あるお店のオーナーさんの話と、2件について書くつもりでした。単純に「オーラで包まれて、怪我がなかった」という話を書こうと思っていたのです。

が、書きだしていくうちに、自分の過去の経験がふと思い浮かび・・・、そうだ、あれも書こうか、と思ったときに、はっとひらめきました( ̄A ̄!)。

1例目は、「自分を、オーラでくるんだ話(品物は壊れている)」、2例目は「自分と品物をオーラでくるんだ話(車も無事)」、3例目の私自身の体験では、「品物のみを、私のオーラでくるんだと思われる話(私自身には影響なし)」、と、それぞれ違いがある話の流れが作られていました。

こういうことは、「書かされている」のでしょうね、というか、「書くことを、助けてもらっている」というほうが適当でしょうか。自分で考えて、思いついたつもりになっていることにも、あちらの世界の働きかけが入っていて、後押しが含まれているのでしょう。

そうでなければ、タイミングよく思い出したりしませんよね、それに、自分の経験が、「自分のオーラで指輪をくるんだ」なんて、今この記事を書きだすまで、考えてもいなかったことです。書きながら、あー、そうだったかも、と、今思っています(笑)。

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2011年2月 7日 (月)

物質的価値観とは、目に見えるものや数値のみで価値を計ろうとすること。

私たち人間は、本来は「たましいの存在」です。この世を生きている間のみ、肉体という物質を得て、「人として生きる」という経験をしている、霊的な存在なのです。

本来、私たちは、「霊」であり、それこそが私たちの本質で、大切にすべきものなのですが、この世という、物質社会に生きているうちに、「物質」を第一に考えるような価値観が、作り上げられてしまうことがあります。

霊的、精神的な要素に価値を見出さず、目に見える物質や、数値で計れる、分かりやすく単純な○×をつけられるようなもののみに、高い価値があるかのように思い、その価値観で、「すべて」を計るような受け止め方が、物質的価値観、と呼ばれるものです。

物質的価値観、という表現における、物質とは、目に見えるもの、数値化して計れるもの、比較が容易なものなど、「現世的なもの」をさします。

つまり、現世で生きている間は、(その世界なりの)価値はあるけれど、肉体を失ってたましいの存在になったときに、価値を失うような、その場限りの満足にしかならないものが該当します。

たとえば、金銭や、物質的な財産(家や、宝石など)、肩書、役職、学歴、肉体や容姿なども、この世においては、この世なりの価値はあるけれど、それをたくさん得たとしても、霊的な向上や、たましいの充実感には結び付きません。

この世は、物質社会ですから、ある程度の物質を求める気持ちや、それにより価値を計ったり比較をしたりすることもあって当然、それらが全面的に悪い、ということではありません。「それだけ」が目的になってしまうのが良くない、という意味です。

たとえば、高学歴であることに価値がない、ということではないのです。それを得るために、努力をしたプロセスは、素晴らしい財産です。そして、実際、この物質社会の中では、高学歴という肩書がないとつけない職業などもあります。

ある目的のための手段として、学歴や、お金や、その他の物質が必要となるケースはいくらでもあり、それぞれに意義があります。

けれど、そのような手段として活用するための物質、というとらえ方と、物質や数値が高いことこそが重要であるかのような、目に見えないものに価値を見出さない、偏った価値観に、流され、振り回されることは、同じではありません。

私たち現代人は、ともすれば、後者のほう、物質のみを追い求める価値観に馴染んでしまうものではないでしょうか。

この世は物質界なので、その中で暮らす私たちの意識は、どうしても、物質的に傾いてしまいがちです。けれど、私たちの本質は霊ですから、物質だけを追っても、・・・どこかに不調和が出て、「大切なことに、気付かされる」ようになっています。

それらのバランスを取っていくことが必要で・・・、そのためには、霊的価値観による「スピリチュアリズム」という哲学が、指針となってくれます。

本当は何が大切で、何がそうではないのかを、私たちは、この、物があふれている時代の中で、考え直していかなければいけない時期に入っていると思います。

物欲や名誉欲が満たされることで、本当に幸せになれるのか、そのような考察もしてみると、自分の心のバランスが見えてくるでしょう。

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2011年2月 6日 (日)

家族の波長を高めるために、自分ができること。

ご自分の波長を高めるにはどうすればよいか、すでに何度も書いてきました。

「こうすればいい」というマニュアル的なものではなく、すべてにおいて、自分自身が成長していければ、それにつれて波長も高くなっていきます。

ご家族など、自分以外の身近な人にも、スピリチュアリズムに則った生き方を薦めたくても、なかなか、理解されなかったり、否定されてしまったり、ということもあるようです。

「他人を変えることはできないとわかっているけれど、間接的にでも何か自分ができることはないだろうか」というご質問をいただくことは多いです。

オーラは、エネルギー発信機であり、同時に受信機でもあるので、お互いに影響し合います。近くにいる人や、頻繁に交流がある人とは、普段からエネルギー的に馴染みがあるので、とてもよく感応し合うものです。

家族によい影響を与えるためには、「自分がいつも明るく高い波長でいること」が、(何でもないことのようですが(笑))実は、かなり有効な方法です。

他人を変えることはできないが、自分が自分を変えることはできる、とはよく耳にする話です。しかし、自分を変える場合でも、唐突にそう思うことはなく、人付き合いの中から気づきを得たり、誰かの言動に刺激を受けて、変わっていくケースがほどんどですよね。

つまり、お互いが感応しあっているからこそ自分(や、相手)に変化が起こるわけで、実行しているのは自分だけれど、きっかけとなっているのは、人間関係から受ける作用なのです。

他人を変えられないというのは、直接的にはできない、という意味であって、間接的には(影響を与える、という方法で)変えることができますし、また、自分もそうして成長という変化をしているものです。

過剰に意識して、「私が、家族に良い影響を与えなくては( ̄_ ̄*)・・・!」なんて、肩に力を入れて頑張りすぎなくても、自分の波長が高く保たれていれば、よい影響は周囲の方達に自然に作用していきますので、明るく前向きで、こだわりのない心で、生き生きと過ごしていきましょう。

あなたが明るいオーラになれば、ご家族にも波及していきますsun

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2011年2月 4日 (金)

感情を「反応させている」のは、自分自身。

私たちは、毎日、いろいろな物事や他人の言動から、感情を揺れ動かしまいます。

怒ったり、イライラしたり、共感したり・・・、その感情が、怒りや不満に結びつく、ネガティブな要素を持っているものであればあるほど、大変に消耗しますし、この状況をなんとか改善したいものだ、という気持ちになっていきます。

そのとき、注意しなければならないのは、その(自分が感じている)不満や怒りの「原因はどこにあるか」という点の認識を間違えないことです。

多くの人は、その原因を、自分以外のところに見いだします。「うるさい上司が悪い」「会社の方針が悪い」「子供が、私をイライラさせる」「旦那が許せない」・・・、と。

けれど、感情を、「反応させている」のは、自分自身なのです。たとえ、その(自分の)反応に結びつく、「きっかけ」が、子供だったり、旦那だったり、上司だったりという事実があったとしても、そのことにより、実際に、感情を反応させているのは、他人ではなく自分ではないでしょうか。

「子供に、イライラさせられる」と思ったとしても、実際にイライラしているのは自分であり・・・、その感情を、発動させているのは、子供が決めているのではなく、自分の内面が、反応を見せているからこそ、感情が出てきます。

これらは、認識が難しく、外の要因によって、自分が割を食ったように思えてしまうものですが、しかし、そもそも、自分の中に、反応してしまう要素を持っていなければ、その感情は(たとえ、子供や上司が何をやろうとも)出てこない、とも言えるのです。

たとえば、自分の中に、「行動が遅い人をみると、イライラしてくる」という要因があるとします。その要因の導火線が自分の中にあって、子供の態度によって、「火」がつけられます。すると、多くの人は、火をつけた(反応の、きっかけを作った)子供の態度が原因である、と考えてしまいます。

しかし、子供がどんな態度をとろうとも、自分の中に、導火線が用意されていなければ、その先の反応はありません。

見つめるべきは、「行動が遅い人をみると、イライラしてしまう」という要素があって、これこそが、自分の感情が大きく揺り動かされる「原因」なのです。そのことに、まずは、気づくことが大切です。

気付けば、感情が収まる、ということでは(必ずしも)ありません。その後、自分を顧みながら、正しい思考にいれかえ、反応を変えていくためには、長い時間がかかります。

けれど、多くの場合、その視点を持つことで、外を向いていた目が、内を向くようになり、「原因が、どこにあるのか」という解釈が以前とは違ったものになっていくはずです。

まずは、そこから、です。問題点の正しい認識があってこそ、そのことに改善するための、取り組む方法が見つかります。

そして、それは、自分の中に見つかるはずですから、「自分を高める」という改善策につながっていきます。

そこを考え違いをして、問題点を外にあると思い、上司が悪い、旦那のせい、と思ってしまうと、「上司や旦那を変えるためには、どうすればいい?」・・・などという、無理な方向に解決策を探してしまい、結果として、(他人を変えることなど、無理なので)自分が取れる解決策がない、という結論になってしまうのです。

感情の原因は、自分の中にあります。外の他人の言動は、「きっかけ」です。

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2011年2月 3日 (木)

無難な生き方が、悪いわけではないけれど・・・。

性格はそれぞれ違いのある、独自のものですから、行動的な人もいれば、そうではない人もいます。どちらが正しいということもないし、優劣もありません。

行動的な性格の人にも、そうでない人にも、私は、「立ち向かっていく人生」「自分を常に高めていく人生」という前提で考えてみていただきたいと思っています。無理をしてでも…という意味ではなくて、安易に無難を選ぶと、成長の機会がそれだけ少なくなるので、範囲を限定しない生き方のほうが望ましいと思うからです。

無難な選択は、多少の安定は手にできるかもしれませんが、得られるものも、「それなり」です。その状態に満足することなく、ときには冒険やチャレンジを選択してほしいと思います。これは、おとなしい性格の方や、受身なタイプの方には、難しいことだとわかっていますが、それでもあえて、お伝えしたいことです。

といっても、険しい山に挑んで、限界に挑戦すべきという意味ではありません。それは、解釈が極端すぎます;。山の困難さと、自分の体力との兼ね合いというものがありますから、何がいいとも悪いとも、一律に決めることはできません。

険しい山に挑んだからといって、その先に素晴らしいパラダイスがあるとは限りません。そうなるかもしれないし、そうではないかもしれない。けれど、それでも山に挑もうとする人には、強い意思や忍耐力が身についていきます。たとえ目指すものが山の中に見つからなくても、「自分がやれるだけのことは、実行した」と、納得することができるでしょう。

一方、無難な選択をしてしまうということは、安全に前に進めて、かつ目的地が明確になっている、近所のバス停から、バスに乗ることを選ぶようなものです。

誰もが簡単にたどり着ける場所は、他の方もたくさん並んでいます。それだけライバルも多い、ということです。一見、楽に見えても、そこから競争しなければならないこともあります。

何に価値を見出すかは、人それぞれですから・・・、無難な選択もいいでしょう。けれど、後になってこんなはずではなかったと思っても、すべて自分で選んだ過程が引き起こした「結果」です

それでもいいのか、と、今のうちに考えてみていただきたいのです。

もちろん、既定路線を行き、確実に得られるものを手にするという人生も、本人が望むならばそれでいいのです。ただ、そのような人生を選ぶならば、ご自分が納得の上で、ということですね、後で他人のせいにすることはできませんので・・・。

私は、立ち向かって、自力できりひらいていく人生をお勧めしたいですね。そのほうが、学ぶことも多いですし、何より、後悔することが少ないと思います。

後悔することが少ない、というのは、後悔につながる出来事が減る、という意味ではありません。「後悔なんて、している暇がない」という意味です。能動的に生きると、やることも考えることもたくさんあるため、後ろを向く時間が惜しいと思うようになります。自然に、生き方そのものが、前向きになっていくのです。

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2011年2月 2日 (水)

オーラと間違いやすい?、補色残像。

赤や青などの、強い色を見ると、周囲にその反対色が見えることがあります。または、視線を別の場所にずらしても、反対色が残像として、見えたりもします。

以下をしばらく見つめて、余白に視点をずらすと、残像が分かりやすいです。

 ⇒ ⇒ ⇒         緑の○が、見えてきます。

  ⇒ ⇒ ⇒         黄色の☆が、見えてきます。

これらは、補色残像と言われる現象で、人間の目は、見ている色の刺激と反対の色を網膜上に作り出し、色の刺激をやわらげるのだそうです。

この補色残像という現象は、オーラの色(を、見ている)と、間違えてしまいやすいかもしれません。

オーラ視は、「物が発しているエネルギーを、その人が、見ている」のですが、補色残像は、「その人の、肉体的な目の機能が、(目の刺激をやわらげるために)作り出している」作用なので、これらは同じではありません。

自然の中で、緑色の草木を眺めていると、ピンク色が視覚に入ってくるが、それはオーラなのか、という質問を受けることは多いですが、色相環を確認すると、緑の補色はピンクなので、・・・このような質問には、「たぶん、補色残像をご覧になっているのではないでしょうか」、とお答えしています。

オーラの色と、補色が、同じ色の場合もあるかもしれませんので、絶対違うとは言い切れません。

たとえば、真っ赤な洋服を着ている人の周囲に、緑が見えた場合でも、その人のオーラも緑の場合は、補色を見ているのか、オーラを見ているのかを、他人が定義をつけるのは難しいので・・・、「たぶん、・・・ではないか」というような、あいまいな言い方になってしまいます( ̄∀ ̄;)。

補色の仕組みを認識しておくと、補色残像であることの判断は、つきやすくなっていきますので、相対的に、補色残像ではないもの(つまり、オーラ等)が、見分けやすくなると思います。

すべてに言えますが、知識は、認識を助け、感覚を底上げしてくれます。それがあってこそ、「見分ける」ことができるのです。

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2011年2月 1日 (火)

人間関係が「下手」なのか、「嫌い」なのか。

ご相談内容の多くは、広い意味でとらえれば、どれも人間関係についての悩みに分類されます。会社関係でも、身内の関係でも、恋愛や結婚でも、「悩み」に直結している部分は、人との関係です。

そのような悩みを持つ方は皆、「人間関係が、苦手」だと言えるのですが、この表現は、とても広い意味を含み、あいまいさがあり、問題点が明確になりにくいので、あえて、タイトルにつけたように、「下手」なのか「嫌い」なのか、という観点から考察していきます。

「私は、人付き合いが苦手で・・・」と思っている方は、「苦手」というのは、どういうふうに苦手なのか、という点まで、踏み込んで考えてみてください。

私を例にとります。 私は、人付き合いが、決して好きとはいえません。私は、どちらかといえば「嫌い」なほうです( ̄m ̄*)。私は、ひとりでいるのが好きで、他人といると疲れる、と感じるタイプなのです。

けれど、それは「人との付き合いが下手」とは違います。コミュニケーションは上手なほうだと思っています。ですから、人間関係で悩む、ということが少ないです。好きか嫌いかにかかわらず、下手でなければ、こなすことはできるからです。つまり、嫌い、と、下手、は、違うのです。

人が好きであろうと、嫌いであろうと、こなすことはできるので、理由が「それだけ」では、全面的に避けたい気持ちにはなりません。

悩んでしまう人のほとんどは、・・・わかりやすさのために、はっきりした表現をつかうと、「人付き合いが、下手」なのです。だから、悩みが出てきます

誰もが、自分の欠点は見たくない、目をそらして認めたくない、という気持ちがありますから、「人間関係は、苦手」という、あいまいな表現に置き換えて、自分をごまかしてしまうか、または、「嫌いだから、やらないだけ(やろうとすれば、出来るけれど)」のようなポーズをとりたくなります。無意識で、そのようにしてしまうものなのですね・・・。

このような「置き換え」は、問題の解決を難しくしてしまいます。本来、クローズアップするべきところに、目が向いていかないからです。

このことを、認めていくのは、辛いかもしれません。心が痛くなることもあるでしょう。しかし、そうして、認めていき、改善する必要のある部分を成長させていくことで、助かるのは、自分自身なのです。

人間関係が苦手、と思っている方にお伝えしたいのは、人を全面的に好きにならなくてもいい、ということです。好きでなくても、こなすことはできます。こなしていければ、自信がついていきます。

会話や付き合いが上手になるためには、実際の人付き合いの経験値を増やしていき、実践で学ぶ必要があり、やはり、どうやっても、人づきあいそのものを避けては前に進んでいけないようになっています。

「下手」なら、いずれ「上手」になればいいのです。嫌いでも、「上手」になることは可能です。好き嫌いと、上手下手は、比例する要素ではありませんから、分けて考えていくほうがいいでしょう。嫌いだと、上手くできない、というのは、思い込みに過ぎません。

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