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2010年12月の22件の記事

2010年12月30日 (木)

スピリチュアルな知識は、実践することで、使える知恵として身につく。

スピリチュアルな知識は、実際に、自分が毎日の生活の中で活用していくことで、理解も深まっていき、そして身についていきます。

スピリチュアリズムに興味をお持ちの方は、広い意味で「霊的に成長していくこと」を望んでいると思うのですが、そのためには、知識を、実践することで、使える知恵として身につけていくことが大切です。

「カルマの法則とは、○○○で、波長の法則とは、○○○」と、文章を暗記するだけでは、霊的に生きているとは言えませんし、霊的な成長にも結び付きません。

実践のためには、法則や仕組みを、知らないよりは、知っているほうがいいけれど・・・、しかし、知っている「だけ」では、本当の理解に至ることはありません。

私たちは、あらゆるものを体感するために、わざわざ「肉体を伴った、今回の人生という経験」をしています。

頭の中での理解も、「気付き」も、霊的な成長のための、助けになることは確かなのですが、実際の体験を伴う理解は、気付きや納得の「深さ」が違います。

それらを存分に経験し、感動を伴う気付きとして、深い納得をするために、現世というこの場所と、今回の人生という学びのシチュエーションが与えられているのですから、一つでも多く、たくさんの経験をして、泣いたり笑ったりしながら、学んでいく姿勢が大切です。

知識のみを仕入れることが先行して、頭でっかちになっている人は、スピリチュアリズムと、この世を生きる自分という存在の関わり方について、視点を変えて考えてみるのがいいと思います。

たぶん、そのような方は、スマートにスピリチュアリズムにかかわって、霊的な生き方をしていきたい、という気持ちが、強すぎるのではないでしょうか。

その気持ちは、分からないではないけれど・・・、この世という世界は、そんなにスマートには生きられないようになっています。泣いたり笑ったり、ときに、転んで痛い目をみるという経験もしながら、その中から、学びを得て、成長していくための学びの場が、現世です。

頭の中だけで理解するほうが、時間が短縮できそうに思えるかもしれませんが、肝心なところは、「経験しないと、分からないようになっている」ので、結局、踏み出すまでに時間がかかればかかるほど、遠回りをしていることになります。

大切なのは、「実践」です。しかし、「完璧」に実践する必要はありません。

自分が、今できる範囲での最善を行っていけばそれでOKです。そして、「今の自分にとっての、最善」のラインは、成長とともに移り変わっていきますから、その時を楽しみに、まずは、目の前にある日常の中で、やれることから取りかかっていきましょう。

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2010年12月27日 (月)

変化を恐れる気持ちとは、「自分の考え方を変えることへの恐れ」でもある。

現状に、困っている何かの問題があって、それを変えたいと思っているなら、「自分の考え方を、変える必要がある」ことを、理解することが大切です。同じ考え方からは、同じ結論しか生まれません。違う結論を導き出すには、今と違う考え方が必要になります。

「2+2 という考え方を変えたくないのですが・・・、答えがいつも4になって、困っています」といっても、何らかの要素を変えない限り、いつまでも足し算の結果が4以外になることはありません。現状を変えたいけれど、自分を変えたくない、というのは、それと似ています。

多くの人が、困ったことや変化したいことがあっても、変わるための行動が起こせないのは、「現状に、嫌なことがあるのは確かだけれど、満足している部分もあり、そこは変えたくない」と、思っているからではないでしょうか。

今を(具体的な方法や箇所はともかく)変えなければ変わらないのだけれど、今を変えれば、不満ではない部分も変えなければならない(かもしれない)ので、それは避けたい、と、そのような気持ちが出てくるのだと思います。

たとえば、現状が、仕事をしていなくて収入がなく困っているけれども、人間関係のストレスからは解放されている、という場合、「仕事を見つけたい。今は収入がなくて困っている」と思いながらも、「しかしストレスがないのはありがたい、仕事を始めると、またストレスがあるだろう。今のままでいたい」のようなケースです。

「過去のトラウマを乗り越えて幸せになりたい」、と思っていながらも、同時に、「自分にこんな経験をさせた相手を許せないので、幸せになるわけにはいかない(幸せになってしまうと、相手を責められなくなる)から、変わりたくない」という気持ちを持っている場合も同じです。

「貯金の100万円で、車を買いたいけれど、貯金が減るのは嫌」と思っても、二つの要素を同時に満たすことはできません。「体重を5キロ減らしたいけれど、下半身だけから減らしたい。上半身は変えたくない」と思っても、意図するとおりにやせるのは難しいものです。

現状の満足している部分は残しながら、不満なところだけを変えたい、と考えると、現実的に取れる選択肢がとても少なくなります。通常、それらは表裏一体になっていて、切り離すことはできないからです。

変化を怖いと感じるのは、新しいものへの不安でもありますが、今ある現状を手放さなければならない(かもしれない)という気持ちでもあります。これらの気持ちもまた表裏一体で、切り離すことはできません。

変わりたいのに、変わるための行動がとれない人は、自己分析の際に、両方の要素から考えてみることが大切です。そうすると、多くの場合、自分の(変わりたい、という)考えが、どちらかに偏っていて、実は、もう一方を変えたくない、という執着もあり、その気持ちが、ブレーキになっていたのだと、分かるのではないでしょうか。

どんな状況であろうとも、誰にとっても、「現状が、自分の知り得る範囲での安全圏」であり、「現状の考え方が、今の自分に一番馴染んでいる」ので、変化を恐れる気持ちは誰の中にも存在します。

しかし、同じ考え方では、同じ結論にしか繋がっていきません。

そしてそれに不満があるという現状があるのならば、(同時に満足する部分があるとしても)、不満を解消するために、現状への執着を手放し新しい行動をとっていくか、または、現状に(満足する部分もあるというのに)、不満を抱いてしまう自分の考え方を見つめ直していくか、どちらにしても、自分の考え方を変えることが、可能性を広げ、未来を豊かにしてくことにつながるのではないでしょうか。

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2010年12月26日 (日)

オーラの大きさは、移り変わりのある、「状態」の反映で、変化する。

オーラの大きさは、もともと備えている資質や性質の表れとして見て取れますが、その時々で、大きくなったり小さくなったりの、「状態」を表すこともあります。

通常、私がリーディングでお伝えしているのは、前者の要素、備わっている性質の表れ方としての大きさを中心に、(必要があれば)その時の状態をプラスしてお伝えしています。

移り変わりのある「状態」の大きさには、感情などの、そのときの心のあり方が反映していきます。

自信を持って振舞っているときや、気持ちが前向きになっているとき、何かに集中して夢中になっているときなどは、いつも以上に大きく広がったオーラになっていることが多いです。

緊張しているときや、困っているとき、自信がない場面に直面しているときなどは、一時的にオーラが小さく縮こまった状態になります。

その人が備えている、元々の大きさは、そう簡単には変えられませんが、移り変わりを反映する「状態」の部分は、都度変わりますので、まずは、こちらのほうから整えていくようにすると、だんだんその状態が、習慣化していくようになります。

オーラを明るく透明感のある状態に整えていくと、意識が反映してオーラが大きく広がりやすくなり、影響力や存在感を発揮しなければならない場面が、楽にこなしていけるなど、自分に有利になることも多いでしょう。逆に、目立ちたくない場面でも、オーラを広げないようにすることも、念の力が強い人で、オーラの状態が整っている人なら、出来るかもしれません( ̄m ̄*)。

オーラが明るく透明感のある状態になっていけば、・・・それは、伝達を遮るものがなくなる状態、でもありますから、その時の心境が、より反映しやすくなります

たとえば、影響力を行使したいときには、その意識が(オーラ透明感があるほど、伝達力が増すので)強く反映しやすくなり、オーラが広がっていくために、影響力という作用が生まれる、というような仕組みです。

自分の心の状態が、オーラの「状態」であり、そして、状態が習慣化していくと、やがて本質にも反映していくようになります。そうなるまでには、結構な時間と、努力は必要になりますが。

オーラの状態は、自分が変わることによって、いくらでも変わっていくものなのです。

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2010年12月25日 (土)

オーラの中に、不要なエネルギーを帯びている状態を改善する方法。

私は、「オーラは、発信機でもあり、同時に受信機でもある」という表現をよく使うのですが、オーラの状態は、その人自身の反映であると同時に、外的な要素からの影響も受けていきます。

私たちは、常に、目に見えない、さまざまなエネルギーを発信していて、人との交流とは、実はエネルギーの交流でもあり、その土地や建物などのエネルギーとも、関わりながら過ごしています。

お互いに、自分以外のエネルギーの影響をさまざまに受けていきますし、適度に外部からの刺激を受けるのは、あらゆる意味で必要な学びですが、過剰になってもよくないわけで、バランスが大切です。

空気が乾燥していて、静電気を帯びやすくなる時期は、オーラの状態も、乾燥しているような状態になり、さまざまなエネルギーを帯びやすくなっていますので、ちょっとケアを心がけると効果的だと思います。

以前にも何度か書きましたが、霊的なエネルギーというのは、電気に似ていているために、お互いに馴染みやすいので、霊感や念が強いタイプの人は、電化製品が壊れてしまうことなどもあります。

オーラなどの見た目や、オーラを手で触るときに、ビリっと感じるなどの現象も、どこか「電気っぽい」ですよね。

エネルギーが大きく、しかし、それが外に向けて発揮されずに、自分の中にため込んでしまっているような状態の人は、普段から、まるで静電気を帯びているかのような、ピリピリした状態になっていることが多いのですが、空気が乾燥している季節には、その状態がさらに相乗効果?になってしまい、(電気と似ていて馴染みやすい)霊的な現象を引き寄せてしまったり、さらにオーラの中に取り込んでしまったり・・・、いろんな影響が出てしまうことがあります。

また、(それらのエネルギーを帯びることで)自分自身の(霊的な)アンテナが過敏になって、バランスがとれにくくなるケースもよく見られます。

霊的なエネルギーというのは、電気に似ていますから、霊感が強い人ほど、電気っぽいエネルギーを大きく放っている人である、と言えます。

本来ならば外に発揮されて動いて行くべきものが、何かの事情で、「自分の内側にこもっていて、スムーズに外に流れていかない」状態になっていると、自分の中に「帯電」してしまいます

そのような方は、私から見ると、「出口となるべきところが、塞がっている」、バランスの悪い状態に感じます。

改善方法としては、「出口をふさいでいる要因を見つけて除く」か、「出口を作る」ことです。 何らかの方法で、内にこもったままで帯電している状態を、流れだしていく状態にもっていけば、バランスの改善がなされていきます。

一番の根本的な解決方法は、自分の心の在り方を変えていくことなのですが(心の在り方が、塞がっている状態を作っているケースが多いので)、手っ取り早い対処法としては、整体やカイロプラクティック、アロマトリートメントなど、上手な施術者さんにかかって、整えてもらうこともよいでしょう。外側からの働きかけは、大変に有効です。

そうすると、一時的ではあっても、帯電しているものが放電されていきますので、その後の立て直しも楽になっていくでしょう。

根本的な、心の在り方の改善は、じっくり取り組むしかないですが、物理的な環境からの影響は、工夫して除いていくほうがいいですね。

乾燥している季節に、静電気が起こるのは、水分の不足により、本来ならば自然に放出される電気が、帯電してしまうためであり、水分が付加されれば改善しますので、その原理から、加湿するのもよいですし、ゆっくりと湯船につかって、(水との親和性を利用して)帯電したエネルギーを放出させていくのも効果的だと思います。

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2010年12月24日 (金)

自覚していない資質が、眠っていることもある。

「自分で自分のことは、よくわからないもの」という表現があります。また、「自分のことは、自分が一番よくわかる」という表現も使われます。

これは、どちらも正しいです。自分とは、自分ではわからないものでもあるし、同時に、自分が一番よくわかるものでもあるのです(笑)。

自分のことがよくわかる人とは、自己分析力があり、そして、他者との比較の感覚がバランスよく備わっている人です。比較は、優劣をつけるためではなくて、「違いを知るため」の感覚です。

私たちは、比較をして、「あれ」と「それ」、「A子さん」と「自分」という違いを認識します。 比較をするためには、基準となる「自分」を知らなければできませんし、また、比較をすることで(相手との違いが分かるので)、「自分」を知ることができます。分析をする力は、とても大切です。

自分のことはよくわからない、というのもまた、そのとおりです。自分と相手との比較(違いを知る)ことは難しくありませんが、自分と自分を比較することは(違いがないので)困難です。比較の感覚がないものは、認識しにくい傾向があります。

自己分析力が低かったり、または、(比較の対象である)他人と関わる機会が少ない人は、「自分」を知ることが、難しくなるでしょう。

上記は、とても一般的な「自分のことは、わかる」「自分のことは、わからない」という表現の説明です。

これとは別に、「今まで、それを自覚するような機会がなく、まったくの思考の外側にある要素だったために、意識することがなかった」というケースもあります。

自己分析力があっても、それなりに人と関わってきていても、自分の意識や思考から大きく外れる分野の資質や適性は、気づきにくいと言えるでしょう。

これは、私自身の例を出すのが一番分かりやすいと思います。

私は、5年前くらいまで、自分の霊感に気がつきませんでした( ̄∀ ̄;)。気付かなかった、というより、「そんなこと、考えてみたことも、なかった」という表現のほうがふさわしいです。

今まで見えなかったものが、突然見えたら、「過去と比較」ができるので、認識しやすいですよね。違いが分かるからです。

けれど、私の場合は、5年前も、今も、特に何も変わってはいません。10年前も、それほど変わっていません。でも、10年前の自分は、比較するものがないので、また、考えてもみない分野なので、分からなかったのです。

私は、当時から、よく気がついて機転がきくタイプではありました。しかし、私は、その理由を「経験則」や「洞察力」という自力だと思っていて、他の人が分からない方法で把握している(部分もある)なんで、これっぽっちも思っていませんでした。

分析というのは、本人の知覚の及ぶ範囲・・・それは、今までの経験だったり、知識だったりを、当てはめて解釈するものですから、「考えついたことすらない」要素は、自分ではなかなか認識できません。

5年前に、先生に指摘されなければ、そのまま自覚がないまま過ごしていた可能性もあります( ̄m ̄*)。

基本は、自分で分析する力を磨くことと、人と関わって、比較することで、相対的に(それと違う人間であるという)自分を知ることが大切なのですが、「考えついたことすらない」分野に、自分らしい資質や、眠ったままになっている輝きがあるかもしれませんので、第三者からのアドバイスも、有効だと思います。

ときには、信頼できる人や、目が利きそうな知り合いなどに、「自分について」聞いてみると、自覚していない資質の発掘へのヒントが得られることもあるでしょう。

気づきにくいことというのは、それだけ自分に馴染んで普通になっていること、でもあるので、掘り起こした先に、「予想以上の大きな実り」があるかもしれません。

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2010年12月23日 (木)

前世の回数が少ない人も、多い人も、今回の人生における大変さは同じ。

前世の回数が少ない人は、それだけ経験値が少ないわけですから、多い人に比べて、特定の苦手分野が生まれやすいことは確かです。

たましいの成長は、「どれだけ深く学びを得たか」により決まるのであり、回数や時間という、数値の多さで決まるのではありませんから、たましいの成熟度は、生まれ変わりの回数のみでは計れませんが(少ない回数でも、深い学びを得ているケースもあるので)、しかし、全体的な傾向としては、やはり、生まれ変わりの回数が多い人は、少ない人と比較すると、成熟している面はあると言えるでしょう。

けれど、前世が少ない人も、多い人も、今回の人生における、大変さの度合いは、どちらも変わりません。「その人なりに、大変」という意味では、同じになります。

なので、前世が少ない人は、この回の人生が生きにくくて、多い人は余裕があって今回の人生を生きる上で得ができる・・・などということは、ありません。

なぜなら、生まれ変わりが多い人は、その分、身につけていることも多いわけで、「得意分野を、人のために発揮していかなければならない人生を送る」という学びを担っていくからです。それはそれで、別の意味でのプレッシャーはかかるものです。

そのような機会が、ほぼ強制的にめぐってきて、学ばされるようになっていますので、経験が多いからといって、要領よく立ち回って得をするような生き方は、出来ないようになっています。

自分のためだけに何かを行うのと、人に働きかけるのは、背負う責任の重さも違ってきます。培った経験則を、自分のためだけに使えるなら、楽に生きられるかもしれませんが、人のために使うとなったら、やはり、そこで、「過去の経験が活かされない、新しい学びをする」わけですから、別の形で「未知の分野に挑む」ことにもなり、楽をすることはできません。

この世は、制限のある中で、苦労して学んでいくための場所ですから、「その人なりに、誰もが苦労しながら、学ぶ」仕組みになっていて、経験の少ない人は少ないなりに、多い人は多いなりに、苦労を伴って学んでいきます。

誰もが、「自分の感覚で」人のことも考えてしまうものですから、経験が少ない人で、階段の2段目で苦労している人は、2段目を悠々と越えていく人を、「あの人は得をしていて、私は苦労して損をしている」と思ってしまうものです。

けれど2段目は軽々越えても、3段目に挑む機会がやってくるわけで、決して楽ではありません。しかし、2段目で苦しみに直面している人は、(経験していないことは、分からないものなので)その先の3段目があることに、想像力が及ばないケースが多く、自分だけが大変、と思ってしまいます。

一方で、逆に、3段目に挑んでいる、経験の多い人は、(自分が経験済のことは、よく見えるものなので)自分が3段目にいて、相手が2段目にいることは、把握できます。

しかし、2段目にいる人が、楽をしているように見えてしまって、自分のほうが大変で、相手が楽をしているかのように思えて、「あの人は、2段目という簡単な学びをしていて、私は、3段目の学びをしているのは不公平」と、思ってしまいがちなのです。

苦労の度合も、そして、自分が苦しくて、他の人が楽をしているように思えてしまう、という誤解の部分も含めて、「その人なりの基準」という意味では、どちらも同じであり、公平です。

前世を踏まえて考えるならば、そのような仕組みを知ることが大切です。

それらを正しく理解していくことができれば、前世が多い人も、少ない人も、世の中に対する不公平感が薄れていき、自分も楽になり、他者への理解も深まっていきます。

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2010年12月22日 (水)

霊視の映像は、瞬間的に一部が見えて、全体は見えないことも多い。

対面やスカイプ通話でのリーディングのお申込みの際に、相談内容をメールで先にお知らせいただく形式にしているのは、ご依頼者さまが望んでいることと、私が対応できることとの、ミスマッチを防ぐためです。

霊能力に、過剰な期待をなさっていて、まるで魔法のように何でも分かるものと誤解なさっている方もいるので、ご期待に添えない案件は、理由を添えて、お断りしています。

たとえば「想念が伝わる」という内容でブログを書くと、「相手の思っていることが、何でも分かる」ものと勘違いなさって、ご相談をいただくことがあります( ̄∀ ̄;)。で、「相手の想念の一部が伝わることと、相手の考えていることがすべてわかるのは、同じではありません」と、説明させていただいています。

「未来は、自分の手で作っていける」と書くと、「未来を、何でも自分の思い通りにできる」と誤解なさって、「願いをかなえる方法を知りたい」というご相談をいただいたりもします( ̄∀ ̄;)。で、「自分しだいで、未来は変化していくのは確かだけれど、何でも思い通りに作ることができるという意味ではありません。それができたら魔法であって、現実的にありえませんよ」と、説明させていただいています。

・・・なかなか、スピリチュアリズムを理解していただくのは、難しいことなのだな、と日々、痛感しています。

霊視についても、「通常の視覚では、とらえられないものが、一部、映像でとらえられる」ことと、「魔法のように、何でもすべてお見通し」とは、同じではなく、本当にごく一部が、必要であれば見える、という程度のものです。

霊視力が高い人もいれば、低い人もいますし、見え方もそれぞれ違うと思うので、霊視で見える様子は同じではありません。また、その時々で、違いもあり、一定の見え方はなく、中には、瞬間的な映像で、ぱっぱっと、移り変わって見えるだけのこともあり、「何が見えているのか、何を意味するのか」は、把握が難しいことも多いです。

たとえば、ある景色のようなものが見えてくるときには、上下左右から、同時に見ている感覚があります。言葉にすると、あやしいですが(笑)、肉体の機能の目で見ているわけではないので、視野は前方だけではない感覚です。分離のない、霊的な感覚というのは、本来そのようなもの、なのでしょう。

しかし、それを見ている私は肉体を持った人間なので、限定されている分離の感覚で受け止めていますから、何がどう見えているのか(それとも、見えていないのか)、とらえきれなくて、ほとんどわからないまま、だったりもします。

先日、あるクライアントさんから、こんな話をお聞きしました。以前、お仕事のご相談をいただいたときに、私が「外国の景色と、ワイン色が見える」と、お伝えしたのだそうです。

その後、お仕事がきまり・・・、数年経った、つい最近、「よく考えてみたら、今の会社は、外国の企業との関連が深くあり、企業カラーはワインレッドだったことに気付いた」、と。

私がキャッチした内容は、当たっているような、的外れのような(?)、かなり微妙なところですが(笑)、すべてを把握できるわけではないので、はっきりとは分からないことも多いです。

上記のケースは、お仕事がその会社に決まることが、ほぼ確定していたからこそ、一部が映った(たぶん)のであり、必ず何かが見えるとは限りません。

未来予知のようなご要望には、お応えできないケースがほとんどです。

霊視とは、何でも見えるわけでもなく、見たいと望むものが見えるわけでもない、一部が映る(可能性がある)というだけものです。

能動的に、こちら側で見るものを決めることはできず、とても「受動的に起こるもの」なのです。

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2010年12月21日 (火)

物を捨てると、幸せになれるか?

年末も近くなってきましたので、一年の区切りとして、使わなくなった物の処分を考えている方もいることと思います。

不要な物を抱え込んでいると、自分の周りに不要なエネルギーをため込んでいるのと同じで、何かと展開が遅くなったり、停滞したりしやすくなることも、確かにあると思います。

物があるから悪い、というのではなく、「使わない物でも、手放せない」「そもそも、不用品であるかどうかの判断もつかない」という自分の心境が、そうさせている、ということです。自分の周りの状況は、自分自身の表れです。

たとえば、心と体は連動していて、体を鍛えると心も鍛えられますし、心が不安定になると体調も悪くなることもあるように、関連のある要素は、一方に何らかの作用があれば、もう一方にも影響があります。

「自分と、自分の周囲」も、連動して存在していますから、それらの仕組みを、物に限定して当てはめると、不要な物を処分することで、自分自身も身軽になっていく部分はあるでしょう。

私たちは、(物も含めた)周囲の事柄に、良くも悪くも影響を受けていきますから、周囲を整えていくことで、自分も整っていく作用は期待できます。処分の際に、物を手に入れたいきさつなどを思い返すことで、自分を見つめなおす機会にもなると思います。

しかし、「物を捨てることが、イコール有意義」というような、あまりに短絡的な解釈をしないように、気をつけなければなりません。

物を処分することにおける、動機だったり、過去への気持ちの整理だったり、そのための行動だったり・・・、それらが総合的に作用して、自分にも影響がでるのであって、その思考や行動という「経験」が自分に作用する仕組みです。

物を捨てるか否か、捨てさえすればいい、という解釈は、あまりにインスタントな、物質的価値観ではないでしょうか。

それはまるで、神社に行けばパワーがつく、水晶を身につければ守られる、○○を食べればやせる、と言っているのと同じになってしまいます;。

過去に、ひとり暮らしをすれば自立できるか?という内容の記事を書いたことがあります。大切なのは、精神的に自立することであり、ひとり暮らしでも依存的な人もいれば、家族と同居していても自立心が高い人もいるわけで、状況により決まるものではなくて、本人の精神的な成熟度により決まります。

けれど、やはり、私たちは、周囲の状況から良くも悪くも影響を受けることは確かなので、一人暮らしをすることで、自立心が身についていく可能性は、高くなると思います。

物を処分することも、それと似ていて、捨てさえすればいい、というわけではありませんが、周囲の物理的な状況をまずは変化させる、という形から入ったとしても、実際に行動をしてみれば、それなりの作用が出て、自分内面も変化していくことは、あり得るでしょう。

そのような考え方でいえば、不要なものを処分する機会をきっかけにして、より輝く生き方をしていくこともできると思います。

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2010年12月20日 (月)

前世でやりことした学びを、今回の人生で形を変えて経験することもある。

私たち人間は、肉体をもった霊的存在であり、何度も生まれ変わり、学びを続けています。今回の人生は、過去の人生で培った学び(カルマ)をもとに、家族環境、時代や地域、性別その他を自分で選んで、生まれてきています。

通常、私たちは、そのことを忘れていますし、意識する機会もありませんが・・・、たましいの観点からすれば、意味のないものはひとつもない、すべては「必然」の作用です。

今回の人生における、前世の活かされ方はさまざまで、たましいの数だけバリエーションがあります。前世で経験したことを、さらに伸ばして活用していくために、似たようなことを行う学びもあれば、逆に、前世で深く関わらなかった部分を学ぶために、新しいことにチャレンジしていく人生もあります。

誰もがたくさんの学びの要素を備えて、今回の人生を経験するのですから、「前世で培ったものを活かすだけ」の人もいませんし、「前世での不足を補うためだけ」の人もいません。

「ある特定の要素のみを抜き出し、あえて前世との関連性を見出す場合」のみ、上記のような定義が、「その要素については」見いだせるのであり、人生全般を考えるならば、そう簡単に、ひと言ふた言で定義はつけられません。

その前提で、ご理解いただければと思います。

以前、お仕事についてのご相談で、「現在、会社がかなり危機的な状況にあり、遠からず倒産するのではないかと思う。他の人たちは、それを察して辞めていく人もいるが、自分は、今の会社にとても恩があり、辞めることを考えられない。金銭だけ考えれば、損をするかもしれないけれど、倒産するまで勤め続けようと思う」というケースがありました。

この方が、直面している出来事は、「前世から引き継いだ学びを、今回の人生で果たすため」のようでした。

彼女はかつて武士として生まれ・・・、しかし、家を継がずに、出家したというのか、僧侶か行者か、そんな感じの修行を志して、家を出たようです。

どんな事情があって、そうしたのかは、わかりません。家を出ざるを得ない状況だったのかもしれないし、または、家を継ぐのを嫌ってそうしたのかもしれない。このときの行動に、良いか悪いかという区分けは無いと思うのです。

しかし、どちらにしても(仮に、家を出た後の人生がとても充実して学び多いものになっていたとしても、そうでなかったとしても)、「武家に生まれながら、家を継がなかった」という経験が、カルマとして、たましいに刻まれたでしょう。

そして今回の人生で、「先が見えている会社に、最後まで残る」という選択をして、前世でやらなかったことを、形を変えて学ぶことにしたのでしょう。状況は違えども、先代の意思を継ぎ、責任をともに担っていく、という点では、どちらも共通しています。

また、「自分が損をしても、相手に恩があるから」「義理を果たす」という考え方は、武士の考え方だと思います。

もしも、その方が、今回の状況に遭遇したときに、「倒産の前に、辞める」という行動をとったとしたら・・・、たぶん、また似たような状況に直面していくようになるのだと思います。今回の人生の未来か、もしくは来世以降で。

逆に、前世で、武家を継いでいたならば、今直面している会社が倒産するかも、という状況は、経験していない人生だったかもしれません。

もしくは、同じような状況だとしても、義理を果たそうと言う気持ちにはならず・・・というよりも、相手に恩を感じるようなシチュエーションもまた作られることはなく、「同じ出来事が、まったく違ったもの」として、経験のひとつになっていくのかもしれません。

そのように考えてみれば、「ひとつひとつの行動や出来事に、良い悪いの区分けはない」、というのが分かると思います。

自分の積み重ねた行動(カルマ)が、何らかの形で、自分に返ってきて、より深く学ばされている、という仕組みが存在するだけなのです。

もしも、武家を継いだら継いだで、別のカルマは発生するでしょう。「継がなかった」というカルマはできないけれど、たとえば「自分の意思を通さなかった」というカルマを、次の人生で学んでいく場合もあるでしょう。

カルマというのは、過去に自分が積み重ねた、思考、行動、その他の総称であり、「過去にした行動の、罰ではない」という正しい理解が大切です。

前世についても、守護霊についても、その他のすべてについても、そのこと「だけ」を単独で解釈しようとすると、大きな誤解が生じますので気をつけなければなりません。

スピリチュアリズムの大原則である、「カルマの法則」を良く理解した上で、それらを(必要ならば)学んでいくことが大切です。

みなさんが、今直面している、苦しいことや辛いことも、前世の出来事が関連して展開している学びかもしれません。

しかし、大切なのは、前世とどんな関連があるかを知ることではありません。大切なのは、今直面している学びに「立ち向かっていき、乗り越える生き方」です。

その意欲があれば、前世を知る必要はないと思いますし、知ったところで自動的に意欲がわくものでもありません。どちらにしても、必要な学びはめぐってくるわけで、それらを現実的に乗り越えていくのは「今回の人生を生きている、自分自身」であることを、忘れないようにしましょう。

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2010年12月19日 (日)

オーラの「透明感」がもたらす作用。

オーラは、想念などのエネルギーをキャッチする作用があります。透明感があって、キメが細かく、大きなオーラをしている人ほど、敏感に、いろんなものを受け取っていきます。

大きなオーラをしている人が、小さなオーラの人よりも、キャッチしやすいというのは、面積の比較を考えれば分かると思います。大きな器と小さな器を比べれば、前者にたくさんの物が入るスペースがあるのと同じ理屈です。

キメ細かさは、バックネットの網目と、洗濯ネットの網目を比較すれば、引っかかるものが多いのは、細かい網目のほうになります。

透明感の作用とは、受けとるものの精度、フィルターのような役割です。透明でくもりが少ないほど、そのままのエネルギーを、バイアスを掛けずにキャッチすることができます

くすんでいると、「くすんだフィルターを通して、情報その他をキャッチしてしまう」わけですから、自分の思いこみが入ったり、自己投影がなされたり・・・、「今の自分の状態(が、オーラの状態なので)を通して、情報や相手を判断してしまう」ことに繋がります。

直感力を高めたい方は、キャッチする量を大きくすることを考えがちですが、「量」も大切かもしれないけれど、「質」も同じくらい大切です。

自分がネガティブになっているときは、相手の発言や態度の中に、ネガティブなものばかり目につきやすくなります。

ネガティブな部分は、誰の中にもありますが、ネガティブだけの人などいないのに、そこばかりがクローズアップされるのは、自分のフィルターの状態が、投影されているためかもしれません。

この点は、気をつけていく必要があります。分かった気になって、相手を決めつけたり、批判したりしないよう、常に自分を省みて、謙虚になっていくことが大切だと思います。

オーラの透明感が高まっていくと、~それはつまり、こだわりや思いこみが、自分の中から除かれていくことになるので、さまざまな感覚の精度も、比例して高まっていきます。

私の師匠が、かなり昔ですが、ある外国人のヒーラーだかに会ったことがあって、「オーラの中に、ひとつのくもりも存在しないくらいの、すごく透明で明るいオーラだった」と、話していたことがあります。実力もそのオーラが示すとおりに素晴らしく、「身内の名前まで、当てられた」そうです。

オーラの透明感は、霊感の大小には直結しませんが、フィルターになりますので、キャッチしたものの「精度」には、やはり大きく関係してきます。

直感力を高める「コツ」を知りたいというご要望も多いのですが、精度を上げるためには、自分を見つめなおして、より高い心境になっていくための、日々の生き方が一番大切です。その部分が出来ていてこそ、「コツ」をお伝えすることができます。コツとは、基礎が身についている人の応用編として活かされるものだからです。

まずは、自分自身を、より向上させていき、オーラのくもりを除いて行くことが大切です。

自分が、以前と比較して、どのくらいクリアになったかを自覚するには、「周囲の人に対し、自分が抱く感覚や、見方が、どのように変化したか」を省みれば分かります。以前よりも、相手を深く見られるようになったならば、自分の感性も深まったことになります。以前には気付かなかった部分に気づくようになったら、それだけ視野が広がった、ということです。

自分の未熟な部分を認識し、改善していく過程は、苦しいところもあるけれど、しかし、その苦しみ以上の価値あるものが、得られていきます。

自分の周囲に、今まで気づかなかった美しいものを見出したり、神秘を感じたりするのは、喜びに繋がります。成長を実感するのは、とても幸せで満たされる経験です。

特別な何かを得る必要はありません。不要なものを、除いていけばいいのです。オーラの透明感や明るさを損なうような要素を、除いていけば、遮るものがなくなりますから、「必要なものは、自動的に流れ込んでくる」ようになるでしょう。

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2010年12月16日 (木)

やりたいことが出来ない状況もまた「必然」であり、気づくべき「何か」がある、ということ。

やってみたいこと、目指したいことがあるなら、自分のできる範囲でまずは取り掛かってみるという考え方が大切です。

基本、一番大切なのは行動力なのですが、現実には、その気はあるけれども、自分の状況が、その行動を制限してしまうこともあるでしょう。忙しくてまとまった時間が取れないとか、自由になるお金に制限があるとか。

しかし、私たち人間には、想像力があり、応用や工夫ができる感性があります。制限がある中でも、何とかする方法は、いくつもあると思います。

時間が足りないならは、毎日の生活習慣を見直して、「必要な時間をねん出する」ことです。とても忙しくて、そんな時間はないと思えても、よくよく考えてみれば、工夫出来る部分があるものです。そうして、生み出した、細切れの時間でも、その気になれば活用できます。

お金が足りないならば、「お金のかからない方法」を考えてみてはどうでしょう。知識は安価な本などから得られますし、習得するものは独学でもいいと思います。何もかもをそろえて、専門家に指導してもらうことに比べれば、かなりの手間と時間はかかるとは思いますが、少なくとも費用は抑えられます。

最初から100%で取り組もうとせずに、出来ることから初めていけば、前に進むことができます。進むにつれて工夫出来る範囲も、より広がっていくものです。制限があるからこそ、応用力が磨かれていく、という側面もあります。

けれど、どうしても、何かが不足していて、取り掛かることができないものも、中にはあるでしょう。高額のまとまったお金がどうしてもかかるものや、細切れの時間では対処できないものも、あると思います。

物事のタイミングや、めぐりあわせも「必然」ですから、すべての出来事に、必ず何かの意味があります。

どうしても今の状況では、糸口が見つからない事柄は、「自分には、必要ではないこと」「やらなくてもいいこと」であるという可能性もあります。

意欲さえ強ければ、何でも可能になるとは限りません。出来ることがあるかわりに、出来ないこともあるものです。それは、受け入れていき、気持ちを別の方向に切り替えていく考え方も大切だと思います

もしくは、「タイミングは、今ではない」ということかもしれません。少し時期をずらせば、可能性が出てくるなら、そういう考え方もよいでしょう。その場合も、「少なくとも、今は、できない」という事実を、受け入れていく必要があります。

人生に起こる出来事は、すべて意味のある必然で、自分のしたことが自分に返るという「カルマの法則」と、自分と同じ要素のあることが引き寄せられてくるという「波長の法則」により展開していきますので、ひとつも無駄なものはなく、「必要なことしか、起こらない」ので、それはつまり「不要なことは、起こらない」ことになります。

不要なことに執着してしまうと、必要なものが目に入らなくなります。開かないドアにこだわり続けると、スムーズに開くはずのドアを開けるタイミングまでも、逃してしまうこともあるでしょう。好きなことをあきらめるのは苦しいですが、どこかで気づいて、方向を変えていくという選択が、ベストとなる場合もあるのです。

工夫して出来ることがあるなら、実際に行動して、取り掛かってみましょう。制限のある中で、工夫をして成し遂げていく、というプロセスもまた、楽しみがあるものです。

しかし、どうしても工夫していく余地がない、現状では全く難しいとなったら、そのときは、それは本当に自分に必要なことなのか、という点を、改めて考えてみる機会にしてください。答えは、必ず、自分の中に備わっています。

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2010年12月15日 (水)

「正しい思考」が、想念の力を強めていくことになる。

私たちは、誰もが、無意識も含めて「想念というエネルギーを放って」いて、お互いに、「想念のやりとり(送受信)」をしています。

物理的な行動や、言葉を発することだけに限らず、思考も、創造行為としてのエネルギーを持ちます。

行動力がある活発な人もいれば、控え目な人もいて、話好きな人もいれば、無口な人もいるように、想念の放ち方、つまり思考の力とも言えますが、それらも同様に、強い人もいれば、弱い人もいて、頭の周りのオーラの様子に、現れます。

たとえば、「聡明な人」は、頭の周りのオーラがとても大きく明るく発達しています。「念の力が強い人」は、頭の周りのオーラに、勢いや強さがあります。特定のある部分から、とても強いエネルギーを放っているように感じられます。

思考もまた、想念というエネルギーとして作用しますから、高い想念を抱けば、「波長の法則」で、高いものと引きあいますし、低い想念を作り出せば、それもまた、低いものを自ら引き寄せてしまうことになります。

この「仕組み」は、誰にも共通するものなのですが、仕組みの作用の仕方、つまり、引き寄せる力の強弱のようなものはあって、念力の強い人のほうが、引き寄せる力も大きいといえるでしょう。

自分の波長が低いときには、引き寄せる力の強さが、災いしてしまう部分もありますが、しかし、高い波長を保っていくことができれば、たくさんの素晴らしいものを引き寄せる力も、大きく作用することになります。

想念の力を、大きく強くしていくためには、「思考力を活用すること」が大切です。もっと具体的にいえば、「正しい思考をするという、練習を重ねること」です。

私たちは、日々、いろんなことを思考しているツモリになっていても、そのほとんどは、実は、それほど重要でもなければ必要でもない「雑念」であることが多く、自分の成長に繋がるような深い思考は、意外と少ないものです。

思考は、私たちの感性を育てますが、雑念は、むしろ成長を遮ってしまうことが多いでしょう。その違いを、きちんと認識する必要があります。

それらを理解せず、ひとまとめにして解釈しているために、思考を手放しましょう、思考はいらない、などの、大きな曲解がうまれるのではないでしょうか。

雑念は、思考という創造行為の無駄遣いをしているようなものです。しかし、理性や愛に基づいた、高い波長の思考は、高い想念エネルギーの送受信でもあり、また、頭の付近のオーラ、想念の力をつかさどる部分の発達を促進していきます。

平均よりも大きなオーラを備えている人は、たくさんいますが、備わっている力を活用している人はあまり多くはありません。オーラでいえば、サイズは大きく、潜在的な資質はあっても、全体的な力強さや勢いがない状態、「活かしきっていない状態」になっている人が多いのです。

現代の世の中は便利すぎて、何も考えなくても、食べたい物は売っているし、ほしいものは手に入ります。本も読まない、人間関係を避けてネットに夢中になる・・・、これでは、思考のための、基礎力も身に付きません。思考力がなければ、考えようとしても、結果、生み出されるのが雑念になってしまうこともあるでしょう。

先にも書いたとおり、雑念では、思考力は深まっていきませんので、頭の周りのオーラも明るくならない・・・どころか、逆にくすんでしまうのです。

せっかく備わっている資質を、活用できない状態は、とてももったいないですし、そして何より、自分自身が苦しいのではないかと思います。

雑念ではない、思考の習慣を、自分の中に作り上げていくと、頭の周囲のオーラも、強く活性化して明るくなり、たくさんの有意義なものを、引き寄せる念力も、高まっていくでしょう。

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2010年12月13日 (月)

前世に、「職業」があるとは、限らない。

私は、前世や後ろの方の姿(具体的に、どんな人であったか)が、はっきり分かることもあれば、あまりよくわからないこともあります。そのような場合も、オーラ的なエネルギーの把握と、想念の伝達はなされますのでリーディングは可能ですが、霊視的映像や画像では、わからないこともあります。

この差は、どこから生じるのかは定かではないのですが・・・、その方にお伝えすべき何かが(前世の具体的な状況に)あるときには、分かるようになっているのだろう、と、今のところは、そのように解釈をしています。

「なぜ、自分の守護霊に、分かる場合と、分からない場合の差があるかを、聞かないの?」と、不思議に感じるかもしれませんが、守護霊は、何でも答えてくれる存在ではありません。

「あなたの資質は、こうなのよ」「あなたは、これをすることで、こんな意味がありますよ」などとは、説明されることはありません。そこは、私自身が、経験の中から、意味や関連を見出し、学んでいくべき要素だからです。私自身も、この活動を通して、自分の学びに挑んでいるのです。

ばらつきがあるため、私は、HP等で、「前世や守護霊の姿は、分からない」と、一律そのような表記にしていますが、実際には、分かることもあれば、分からないこともある、というのが正しいです。

前世「だけ」が知りたい方には、別のところに行っていただいた方が、お互いのニーズが合うとも思いますので、、(私にとっては)この状態が、ちょうどいいと思ったりもしています。前世にこだわるのは、スピリチュアリズムの大切な部分から、ときに距離を作ってしまう、というのが私の考えです。

なぜ、この前置きを書くかというと、今回お伝えする内容は、「具体的な前世の様子」が、関わってくるためです。

この場合は、スピリチュアリズムを説明する場合と違って、「霊視される様子からの、実例」の統計的な話になりますので、あくまで、今の私が知りうる統計からすれば、という話であることを、前提にしてお読みいただきたいと思います。

前世に関心がある多くの方は、自分の前世の職業を知りたいと、思っているのではないでしょうか。過去のご相談からすると、そのように思います。

「あなたの前世は、芸術家でした」とか「教師でした」とかの、「○○師」「○○家」「○○者」のような、具体的な名称を、「前世」にイメージされる方が多いようです。

けれど、前世に、職業名があるとは限りません。特に、「前世が女性だった場合」は、これといって職業名はない、というケースも多いです

男性ならば、何かしらの仕事に就いているでしょうけれど、女性は、今でいう主婦業の方だって多いわけですし・・・、また、「○○師」のような専門職への道が、女性にも開かれてきたのは、近年のことだからです。

前世に関しては、「オーラの泉」の印象が強いと思うのですが、番組に出てくるゲストは、スポーツ選手とか、芸能人などの、かなり専門的で特殊な生き方をしている人達です。

前世でも、何らかの関連がある活動をしていた方が、今回の人生で才能が開花した、というケースも多いでしょうから、いわゆる専門職などの分かりやすい職業に就いていた方が多くなると思います。

しかし、世の中の全員が、同じような「職業に関連性の強い前世」を持っているとは、限らず、そうでない場合のほうが多いかもしれません。

どちらが優れているとかの、優劣ではなく、「大昔の女性は、現代のようには職業を持っていない人も多かった」という比率で考えれば、理解は難しくないと思います。

ちょっと話は変わりますが、以前、江原さんがある本でインタビューを受けていて、・・・それは、若干のアンチ気味なニュアンスを含んだ質問だったのですが、「守護霊や前世の職業が、同じものに偏っているのはなぜか」と聞かれていました。たぶん、オーラの泉での霊視内容についての話だと思います。

江原さんは、「理由は単純で、江戸時代に武士が多かったからです。武士というのは、今でいうサラリーマンですよ。数が多いのは、当たり前です」と答えています。

まったく、その通りで・・・、同じ理屈で、「前世が女性の場合は、職業を持っていないケースも多々ある」のです。比率からすれば、それが普通だと思います。

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2010年12月12日 (日)

前世の影響が、幼少期の思考にあらわれていた事例。

私たちは、「たましいの存在」であり、何度も生まれ変わって、さまざまなシチュエーションで、自分のたましいの学びを経験しています。

この世に産まれてきたときには、表面的には、前世の記憶をもっていませんが、「たましい」の中には、備わっています。私たちは無意識ながら、前世で培ったものを活用したり、習慣を引き継いでいたりするものです。

子供の頃は、先入観がないので、ごく自然に、前世に関連した要素が、性格や行動に表れることもあります。しかし、本人は、まだ小さいのでよくわからないでしょうし、親御さんも意識するとは限らないので、特に気付かずに、出来事が過ぎ去っていくことが多いでしょう。

逆に、大人になってから、スピリチュアリズムを理解するようになってから、「もしかして、この習慣って、○○かな」という、想像力で、解釈できることは多いでしょう。また、「今の大人の感覚で、子供のころを思い返す」と、思い当たることもあるかもしれません。

私たちは、この世という、「相対(比較)の世界」で、何かと比較することで、自分を理解していく仕組みになっています。

誰にも当てはまるような、「この習慣があれば、前世は芸術家」などのような、定義はありえませんが;、しかし、「○○さんの、この習慣は、前世が芸術家だったことが影響している面がある」と、モデルケースを知ると、「じゃあ、自分も同じところがあるけれど、そういう関連なのかな」と、比較をすることで、想像ができます。そういう意味では、「オーラの泉」は、貴重な学びの機会だったな、と、改めて思います。

前世が、何者であったか、なんて、まったく重要ではないのだけれど、今の自分に対する気付きになることもありますし、また、自分の身近なところで、「スピリチュアルな関連性」を見出していくことで、スピリチュアリズム全般への理解が、とてもスムーズになることもよくあります。そういう意味では、重要ではないと思うけれども、まったくの無意味とも思いません。

私の知っているケースで、以下のようなことがありました。

あるセッションで、「直前の前世は、たぶん、男性だったと思う」というような内容をお伝えしました。そのときは、そこまでの話で終わったのですが、「セッションの後で思いだしたけれど、すごく小さい頃に、自分のてのひらをじぃーっとみて、「なぜ、この中(女性の肉体)に、入っているのだろう?」と、頻繁に考えていた時期があった」、とのことでした。

前世での、男性の記憶や感覚の影響が、強かったのだと思います。ずっと考えているわけではなく、ふとした瞬間に、記憶がかぶってきたときに、考えていたのかもしれません。

私は、このお話を聞いて、不思議で面白いものだな、と思ったのは、「そのことを、覚えていて、思い出せた」という点です。

子供のころに、前世の習慣などが、本能的に外に出てしまうことは、ありうるけれど、大人になっても、その時の感覚や違和感などの記憶を、持ち続けているのは難しいことです。

しかし、その方は、記憶の底に持ち続けていて・・・、この話をお伝えしたタイミングで、思い出すことができた、という事実が、とても神秘に思えるのですよね、私は。それもまた、「必然」なのだろうな、と感じます。

「今の、大人の感覚」で、スピリチュアルな知識をあてはめつつ解釈してみると、自分の子供のころに、前世を彷彿とさせる、神秘が見いだせるかもしれません。

ちなみに、私は、子供のころに、「大きくなったらバビル2世になろう」と、思っていたらしいのですが(笑)、・・・それは、私の前世が、男性で、そして行者で霊媒だったため、かもしれません( ̄w ̄*)。

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2010年12月11日 (土)

前世の影響により、人間関係をこなしていく力が不足している人も多い。

人との関わり方がうまくできずに、人間関係全般に悩みを抱えている方は、多いものです。

記事タイトルで、誤解をしていただきたくないのですが、人間関係を上手にこなしていくことができない理由が、必ず前世にある、という意味ではありません。

たましいの歴史上、いろいろな(関わりが苦手になるような)ことがあろうとも、「今回の人生で必要な感性は、今の自分が責任をもって磨いていく学びがある」ことには、かわりありません

けれど、私たち人間は、霊的存在であり、何度も生まれ変わって、たましいの学びをしている仕組みがある、という、スピリチュアリズムで解釈していくと、人間関係を作り上げる力、-つまり、コミュニケーションの力ということでもありますが、それが十分ではない理由の一端が、前世と深く関連している人も、少なくない、という事実があります。

すべての前世に言えますが、状況や職業に左右される比率はまったくのゼロではありませんが、状況や肩書という、ある意味「物質的な」要素で決まるのではなく、その状況から「どんな感性が身に付き、影響を受けたか」という「精神的な」部分が重要です。その前提で、参考程度に受け止めていただければと思います。

私が拝見してきた中で、おもに以下の理由がありました。もちろん、それ以外の理由も無数にあります。多いものだけを、取り上げます。

1)前世で、修道院や宗教関係施設などの、世間とのかかわりが薄い社会にいた。

修道院など、世の中とのかかわりが薄いところで生活していて、俗っぽいことになれていないために、「きちんと決まったこと」「決められていること」というルールや枠組みの中で生きていくのが居心地がよく、その場の状況を読んでフレキシブルな対応をするのが苦手な人もいます。

そういう人は、学生のうちや新人の頃は(ルールがあるので)楽ですが、その後、少し苦労が多くなる傾向があります。

2)前世で、身分が高かった。

人づきあいは、お互いに、相手の身になって、やりとりをしていく必要があります。自分のことだけを考え、自分の価値観をもとに行動すれば、当然、衝突が起こるものです。

前世で、高い地位にいた方は、「相手が、自分に合わせてくれる」環境の中で生きていたので、相手がどう思うか、とか、相手のことも考慮してふるまうという場面が少ないものです。

3)前世で、中年以降の人生を生きていない(短命だった)。

私たちは、たましいの存在であり、たましいは、その時々の人生には限定されず、霊的な成長をしていきますが、「たましいの観点、霊的な観点」と、「現世での人生の観点」は、違います。

また、「現世的な視点での経験値」も、子供時代と大人になってからでは、身につき方、受け止め方が違うものです。

人は、未知のものを恐れますから、前世で経験していないことには、今回の人生の場面でも躊躇や不安が生まれやすく、「前世での経験値がないゆえに、今回の人生でも遠慮がちになる(ので、今世でも経験が積まれない)」ため、ふさわしい振舞い方が身についていきにくい傾向もあります。

4)生まれ変わった回数が、少ない。

人間関係に限らず、人生の経験そのものが少ないことから、「経験則」が作られにくいため、工夫や応用が苦手になることがあります。

これらに、共通点が見て取れると思います。

すべて、「経験不足」から、起こっているのです。

過去に何度も、「人間関係をうまくやるには、たくさんの経験をするのが最も大事」という趣旨で、(とくに前世には絡めず)記事を書いてきました。

結局、「同じ」なのです。前世を絡めて考えようとも、前世をあえてふまえなくても。

どちらにしても、「経験を積み上げていき、感性を磨いていく」のが、解決方法です

前世にこだわりすぎると、「今、自分がやるべきこと」が、逆に見えにくくなってしまうと思います。本来、すべての問題は、今の自分を見つめていくことで、改善は計れるはずなのです。だからこそ、私たちは、前世を忘れて、生まれてきています。

「今」を、大事に考えましょう。答えは「そこ」にあります。

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2010年12月10日 (金)

霊感の強い人が、「早送りボタン」の役割を果たすことがある。

未来とは、自分の手で作り上げていくものであり、あらかじめ決まっている筋書きどおりに展開するものではありません。

過去から今までに積み重ねてきた出来事のすべて、~それらを総称して「カルマ」と呼ばれますが、自分がしたことが、良くも悪くも自分に返ってくるという「カルマの法則」と、自分と同じ波長の人や出来事を引き寄せるという「波長の法則」により、未来の筋書きが作られていきます

いつのどんなタイミングで、どのような形でカルマが返ってくるかは、誰にもわかりません。「その人の人生に、ふさわしいタイミングで」ということだけは確かですが、霊的にみた相応しいタイミングと、私たち人間の観点での都合のよいタイミングは同じにならないこともありますので、なかなか、思い通りにはいかないものです。

けれど、過去のすべてが積み重なったカルマにより、今があり、そして未来に繋がっているという仕組みですから、「直近の未来において」は、ある程度は、起こりうる出来事が定まっている場合もあります。

だとしても、やはり流動性は含まれており、確定ではありませんが・・・、だいたい、このような範囲内で展開する可能性は高い、という程度には、定まっている部分があります。

その、定まりつつある未来が、どのタイミングで出来事として展開するかは、本人の生き方や行動、カルマと波長により、計られていくのですが、霊感や、念力が強いタイプの人と関わりをもつと、まるで「早送りボタン」が押されたかのように、展開が早くなってしまうケースが、しばしばあります。

それは、おおよそ決まっていることの展開のスピードが速まる、ということであり、無かったはずのものが、付加される、という意味ではありません。なので、この様子を表すのにピッタリの表現は、「早送りボタン」なのです(笑)。

展開する「種」が備わっているのは、その人のカルマです。そして、どのタイミングで、というのは、その人の波長によります。同じ要素を引き寄せて展開しますから、出来事が起こるに相応しい波長になったときが「そのとき」となります。展開するスピードは、その人の波長なのですね。

霊感が強い人というのは、波長の同調する周波数の幅が、とても広いです。人との交流は、オーラの交流でもありますので、お互いに影響を受けます。相手のオーラの影響をうけて、幾分、同調していきます。

そうすると、霊感が強い人の波長の幅に、感応して、今まであまり活性されていなかった部分が、動き出して活力を帯びていきます。(活性するきっかけは、相手のオーラによるところが大きいですが、実際に活力が出てくるのは、相手から付加されるのではなく、自分の内から湧き上がる作用です)

そうすると、活力が増えていくので、スピードアップしていき、ある程度定まりつつあった未来の展開も、前倒しになっていくこともあります。

「定まりつつあった未来の出来事が、早まった」というのは、認識はしにくいことですが、「霊感の強い人と関わりを持ったら、出来事が一気に展開したとか、状況が急に変化した」という経験をお持ちの方も、多いのではないでしょうか。または、自分自身が、その役割になってしまっている、という方もいるでしょう。

私自身も、いろんな方の早送りボタンを、ばんばん押してしまうほうですが(; ̄∀ ̄)ノ凸、しかし、これは、「結果として、そうなってしまう;」のであり、私が意図的にコントロールをしているのではありません。

私と会わなくても、何らかの形で、展開するはずの要素が、勢いがついて一気に展開したから、突然に思える、というだけなのです。

私は、単に「ボタン押し係」で、しかも、自動操縦なので(笑)、特別なことをしているわけではありません。

スピリチュアルな活動をしている職業霊能者の方で、「私のパワーで、○○をしてあげます」などと宣伝している文面を雑誌などでよく見かけますが、「パワー」はきっかけにすぎず、「○○」は、(起こるとするならば)本人のカルマの作用です。

いくら霊能があろうとも、人様のカルマの領域には、そう簡単に踏み込めるものではありません。「たかが人間の霊能力」と、「絶対の法則であるカルマの領域」と、どちらが優先するかは、分かりきったことです。

そのような発言は、上記の仕組みを理解していなくて、本当に自分の力で出来事を起こしていると思い込んでいるか、または、知っているけれども、わざと、そのように騙って自分を大きく見せようとしているかの、どちらかだと思いますので、きちんと見分けていくほうがいいでしょう。

突然展開した出来事「だけ」を考えれば、びっくりするようなことでも、理屈を知れば、理解は難しくはないと思います。シンプルな作用です。

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2010年12月 8日 (水)

女性の悩み相談は、「解決策」ではなく、「聞いてくれること」を望んでいる場合もある。

女性は、一般的に、会話好きな人が多いです。単に「話していること」が好きなので、会話により、意見をまとめるとか、決を採るなどの目的を持っていないことも多いです(しいていうなら、「話すこと」自体が目的です)。

そのような性質を持っているため、女性の悩み相談および愚痴というのは、相手にアドバイスを求めているのではなく、自分の胸の内を誰かに話して楽になりたいとか、聞いてもらって共感を得たいため、という場合も多いものです

一方、男性は、基本、余計なことは言わない、という考え方の人が多いので、ただ話を聞いてほしくて、相談を持ちかかることは、まずありません。

男性も、心の中に葛藤を抱えていて、話すことで楽になるのは同じだとしても、そういう行動は、男性の感性にはそぐわないので、男性が相談するときというのは助言を求めていますし、愚痴を言うとしたら、よほど相手に気を許している場合に限られるでしょう。

誰もが、「自分の感覚で」考えますので、相手も自分と同じような考え方をしているものとして、受け止めてしまうところがあります。そのため、人間関係というのは、しばしば、行き違いがおこるわけですが・・・、

女性から相談を持ちかけられた男性というのは、普通は「相手は、悩み事への回答を自分に求めているのだ」と、受け取ってしまうでしょう。男性の感覚からいえば、相手に相談するというのは、そういうもの、だからです。

ただ話をきいて、同調してもらいたいとか、愚痴を聞いて慰めてほしいだけで、具体的なアドバイスは実は求めていないことや、正論だけれども厳しいアドバイスを聞きたいわけではない(こともある)のが女性の悩み相談である、ということは、なかなか分かりにくいかもしれません。

相談する女性本人も、このことを、自覚していないことが多いので( ̄∀ ̄;)、「話を聞いてほしい」と言えばいいところを、「相談がある、困っている」と持ちかけるので、男女間の感覚の相違で、温度差が生まれてしまいます。

このようなケースは、「女性間」でも起こります。相談される側の女性が、「男性的な感覚を持っているタイプ」だと、相手の相談にまともに切り込んで、結果として、かなりきびしい対応をしてしまったり、「こっちがアドバイスをしてあげているというのに、相手が聞き入れない。自分から言ってきたくせに・・・」と、とても不満を募らせてしまうこともあります。

この場合の「男性的な感覚を持っている女性」とは、女性特有の集団行動などが苦手で、ひとりで行動するのを好むクールなタイプです。当てはまる人は、ちょっと普段から、この点を踏まえて言動を気をつけていくと、女性同士の関係が、ずっと楽になっていくと思います。

「男女間」で、このケースが多いのは、親子関係です。母親が年齢が上がってきて、だんだん弱気になってきて、息子に何度も連絡しては愚痴をこぼす、というようなケースです。

息子は、母親の話が、「回答を求めている相談」だと思って、そのつもりで対応しますが、母親のほうは、「聞いてほしい、理解してほしい」が主目的なので、何度も連絡をしてきます。その都度、息子は、「それはもう、この間も言った話題だろ!」となって、温度差が生まれます。

これは「一般に」という意味で、男性は、女性は、と区分けしているので、すべてのケースに当てはまるわけではありませんが、女性には、上記のような傾向が多いに見られるのは事実です。

話の聞き役になるほうも、相談を持ちかけるほうも、この点を踏まえておくと、相手に、不満をいだかずに済みます。

相談する女性は、(相手が男性ならば)対応がアドバイス口調になることも、受け止めるべきです。相手は、それでも時間を割いてくれているのであり、求めらえていると思ってそうしているからです。

また、聞き役になる男性も、女性の話が、あっちにいったりこっちに脱線したりで、要領を得なくても、「それじゃ、アドバイスもできないだろう」と思わず、「ああ、この人は、自分の苦しさを吐き出したいだけなのかな、回答を求めているわけではないのかも」と、寄りそう気持ちを持って差し上げるとよいでしょう。

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2010年12月 7日 (火)

生まれる前に、「今回の人生の青写真」を、どこまで描いているか(2)。

今回の人生の経験等で、変わる余地のある「運命」については、決まっている「宿命」と違って、自分自身で作り上げていくことができます。

しかし、運命についても、流動的であるとはいえ、「ある程度の方向性を、絞って、青写真を描いている」たましいもあれば、「それほど細かくは、描いていない」たましいもあると、(1)で説明しました。

この差が発生するのは、そのたましいの「カルマ」によります。どの程度決めてくるか、というのもまた「必然」であり、そのときの無作為な思いつき等で、細かく決めたり決めなかったりするわけではありません。

カルマというのは、積み重ねた行為の総称です。悪いものだけがカルマではありません。通常、悪いことが返ってきた場合に、この言葉を使うことが多いため、カルマの理解にも誤解が生じやすいのですが、特定の行為のみをさす言葉ではありません。

今回の人生は、前回までの人生(過去生)を踏まえて、学びの要素を決めますので、過去に積み重ねたカルマにより、今回の人生の宿命を決め、そして運命も青写真を描いてきます。先にも書いたとおり、運命については、かなり流動性はありますが。

たくさんの過去生での経験値がある人は、その中から、より専門性のある人生を経験しようと、方向性を絞った青写真を描いて、生まれてくることもあるでしょう。経験値の少ないたましいは、専門性のある人生を送るには、基礎的な素養が少ないので、あまり方向を絞らない青写真で生まれてくることもあるかもしれません。

しかし、また別の考え方では、たくさんの経験値があり、フレキシブルに対応できる基礎力があるため、方向性を絞らないで生まれてくるたましも、あるでしょう。逆に、経験値が少ないので、より自分の特性を発揮して学ぼうと、方向性を絞ってくるたましいもあるかもしれません。そうなると、上記とは真逆になりますよね。

このあたりは、そのたましい個別の観点からすれば、すべて「必然」なのですが、積み重ねたカルマの活かし方や解消の仕方は、人の数・・・ならぬ、たましいの数だけバリエーションがあるので、定義はつけられないのですが、「カルマによる」ということだけは、言えるでしょう。

カルマの学び方も、さまざまなので、方向性を絞ったほうが学びやすいたまいしは、そうするでしょうし、方向性を絞らないほうが、むしろ、学びの上では都合がいい、というたまいしは、そうするのでしょう。どちらがいい、悪い、というような優劣はありません。

「変えられない宿命」とは違うけれども、「流動性があるけれども、方向性が絞られている運命」というのは、分かりやすさのために、極端な例をあげますが、歌舞伎役者さんの家にうまれる、男子のたましいなども、該当すると思います。

男子として生まれた時点で、将来の職業はほぼ決定ですよね。でも、どうしても継ぐのを嫌って、家を出るとかすれば、継がない未来も(可能性は低いかもしれませんが)あるかもしれず・・・、そう考えると、変えられない「宿命」とは、ちょっと違う気がします。「変えられる余地のある運命についても、かなり絞りこんだ青写真を描いてきた」、と言えるのではないでしょうか。

自分の進むべき道が、はっきりと見えない人は、「そうして、悩み考えることも含めた学び」が、青写真に組み込まれている(から、流動性の余地を大きくした)人生なのかもしれません。

方向性が定まっている人がうらやましいと思うかもしれませんが、しかし、方向性が定まっている人生を歩んでいる人は、自由になりたいと思っているかもしれず、総合的に考えれば、どちらも、その人なりの悩みもありメリットもあり、やはり「平等」なのだと思います。

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2010年12月 6日 (月)

生まれる前に、「今回の人生の青写真」を、どこまで描いているか(1)。

基本、「未来とは、これから作るものであり、最初から筋書きがきまっているわけではない」のですが、生まれてくる前に、大筋を決めている部分もあります。

生まれた時点で、生涯変えることのできない要素が、いろいろあります。たとえば、○○年の時代に生まれたことや、日本という国に、男性として、太郎さんと花子さんという両親のもとに生まれたことなどは、変えようがありません。時代、地域、性別、家族、容姿などは、あきらかに「事前に決めてきた」要素だと言えるでしょう。

一方、自分次第で変えられる要素もあります。たとえば、私たちは、いつでも、自分がその気になれば転職することもできるし、結婚したり離婚したりも(望むならば)できます。血縁の家族関係と違って、友人知人の人間関係は、都度、変わっていくこともあります。

江原さんの本では、前者を「宿命」、後者を「運命」と定義しているので、分かりやすさのために、ここでもその表現を使って説明していきます。

「宿命」については、自分の学びに相応しい環境や要素を選んで生まれてきますが、「運命」については、一から十までの筋書きを、あらかじめ決めているわけではありません

未来とは、これから自分が作り上げていくものであり、その時の波長や、積み重ねたカルマのよって、いかようにでも変化していきます。

だからこそ、努力の大切さや、忍耐の必要性を学ぶことができ、物事を成し遂げた際には、生きる喜びを感じられます。

流動性のある運命の中で、私たちは、責任と自由のバランスを学んでいる、とも言えるのです。あらかじめ決まった筋書き通りに生きるのならば、そこには何の自由もなく、責任も感じようもなく、感動を覚えることもありません。

しかし、「運命」についても、宿命ほどの縛りはないけれど、まったくの無限の可能性があるというわけでもなくて、ある程度の枠組みのようなものは、存在します。

「どのくらい」というのを、定義するのは難しく、言葉での表現も困難なのですが・・・、 そんなに細かくは決めてはいないけれども、まったく何も決めていないわけではなく、事前に決めている部分も存在します。・・・という、回りくどい表現になります(笑)。

職業や生き方の方向性をかなり絞って想定してきているたましいもあれば、自由な余地を大きくして生まれてきているたましいもあります。個人差があります。

かなり絞って想定してきているたましいであることを、把握する基準としては、あくまで「ひとつの目安」に過ぎませんが、「専門的な道を歩む人が多い」という点です。

専門職につく、ということではなくて、関わりができる物事などに一貫性がある、とでも言えばいいのでしょうか。本人の(表面的な)意向にかかわらず、自分のたましいが決めてきた道に、導かれて進むようになっていく、というか・・・、ある程度の年齢になれば、だいたい、「道」がはっきりしてきます。

そういう人は、「私は、何をすべきなのだろう?」みたいな悩み方をすることは少ないでしょう。「私は、これでいいのだろうか?」という悩み方をすることはあるかもしれませんが。

逆に言うと「何をすべきなのだろう?」「私は、何をするために生まれてきたのだろう?」と、気になってしまう方は、「生まれる前に、そこまで細かくは設定していない可能性が高い」ので、あまり考えすぎるよりも、「現実的な行動」を優先していくほうがいいと思います。

事前にあまり細かく決めていない、ということはつまり、今回の人生での行動が影響する余地が多いにある、ということですから、生まれる前の過去?を考えるよりは、今とこの先を考えていくほうが、たましいの青写真のとおりに進むことにつながるでしょう。

>(2)に続きます。

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2010年12月 3日 (金)

「悩むことができる」という、幸せ。

表面的には、どれほどに恵まれていて満たされているように思える人でも、心の中には、なにかしら、不満があったり、悩みがあったりするものです。

私は日々、お悩みをお持ちの方からの、ご相談をお受けしています。仕事の悩み、恋愛の悩み、子育ての悩み・・・、それぞれの理由と状況で、お悩みを抱えていらっしゃって、「今、とても苦しい」「とても辛くて、大変だ」と、異口同音におっしゃいます。

「悩む」という心の状態は、本人にとっては、本当に苦しいものなのです。ポジティブな考え方に切り替えていくのが望ましいとは、皆、頭では分かっています。分かっているけれども、そうするだけのパワーがない状態になります。

それらは、主に、頭の周りのオーラに現れますが、心のエネルギーが低下している状態は、本来外に広がっているはずのオーラが、縮んで内にまきこんでいるような状態になり、「活力不足」になっているのがよくわかります。

その状態にある人に、悲観的になるな、というのは、かなり無理な注文で、エネルギーが不足している状態で、あれもしなければいけない、これも考えなければ・・・となると、ますます消耗していき、もとのあるべき状態のエネルギーに、戻っていきにくくなります。

不足している力で、たくさんのことをしなければならない(その中には、「悩む」という行為も含まれます)となったら、ネガティブな考え方に偏ってしまうものです。

他の人から見れば、「それくらい」とか「そんなこと」と、思うようなことでも、本人にとっては、辛いものなのです。悩みそのものも、悩んでいる状態にある自分の波長も、重く感じられ、出口のない迷路にいるような気持ちになってしまうのです。

けれど、「悩むことができる、幸せ」というものがあると思います。

「子供が、言うことを聞きません」 ~子供がいるからこそ悩みです。子供がいるのは、幸せです。

「上司と気が合わずに、仕事が辛いです」 ~この不景気で、就職ができない人がたくさんいる中、仕事に就いているのは、幸せです。

「パートナーと、ケンカになります」 ~ケンカできる相手がいるのは、幸せです。

不満が生じるのは、「不満を感じられる対象がある」ということです。もしも、不幸になったらどうしよう、とか、パートナーと別れることになったらどうしよう、と心配になるのも、「今、手の中にあるもの、守りたいものが、たくさんある」からですよね。守りたいものが増えていくほど、人は、「失う恐れ」が出てきて、心配や不安が増えていきます。

多くの方は、「悩みがある私は、不幸だ」と、思っています。先にも書いたおとり、「そのような心境になるときは、悲観的にしか考えられなくなっている」ので、なかなか、気持ちを切り替えられないかもしれません。

しかし、「悩むことができる」のは、悩ませてくれる対象が身近にあるからです。「失う恐れがある」のは、守りたいものがたくさんあるからこそ出てくる感情です。

身近にコミュニケーションをとる相手がいて、守りたいものがたくさんある、この状況は、ありがたいことではないでしょうか。

物事の見方を変えて、今ある現状に感謝をしていければ、それにつれて、悩みの比率も小さくなっていくと思います。悩みが、完全に無くなることはないでしょう。 しかし、比率を下げて、「悩みに、とらわれてしまう」状況からは、抜け出すことはできます。感謝の気持ちと、真理への理解が、助けとなってくれるでしょう。

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2010年12月 2日 (木)

想念の力が強い(念が強い)人のオーラは、大きくて勢いが強い。

オーラは、その人のこころとからだとたましいを映し出しています。大きくて明るく輝いているのが、望ましい状態です。

大きくて、勢いがあるオーラの方は、「想念の力、思いの力が強い人」だと言えます。

オーラは、受信機でもあり、同時に発信機でもあります。大きくて力強いオーラは、その分、資質や才能を発揮しやすくなりますし、他人への影響力も持ち、そして、自分の想念的エネルギーも発信しやすいのです。

また、受信機としても作用しますので、大きなオーラは、それだけ「受け止める器が大きい」ようなもので、たくさんのものをキャッチすることもできます。「引き寄せる力」も強い、と言えるでしょう。

人との出会いも、出来事も、自分と同程度のものと引き合うという「波長の法則」がありますから、引き寄せられるものの対象範囲が広くなる、という意味では(必ずしも)ありません。「波長が合うものとの、引き合う力が、強くなる」という意味が、一番当てはまる表現だと思います。

自分が明るく良い波長を保っていられれば、(良い波長を発信する力が強いので)、より良いものを引き寄せる作用が発揮されていくことになります。ということは、逆に、波長を下げてしまえば、波長の低い物事が引き寄せられてくる可能性も、強いオーラの人のほうが、作用が大きく出てしまう、ということでもあります。

そのため、想念の力が強い人は、状態のよいときには、ものすごくラッキーなめぐり合わせに遭遇することが多いかわりに、怒ったりイライラしたりすると、その分、とんでもない大きな困難が発生したりして、大いに学ばされてしまうことにもなりやすいです( ̄∀ ̄;)。どちらにしても、極端に出来事が発生しやすい、というか・・・。

願いをかなえたり、目指すことを現実化するには、想念の力が強い人のほうが、出来事がついてきやすいです(といっても、想念の力「だけ」で、願いが叶うわけではありませんが)。自分の波長を高い状態に保ちつつ、念力で「発信」をしていければ、より、人生が創造的でエキサイティングなものになっていくでしょう。

想念の力が強い人は、良いものを引き寄せられる可能性を強く秘めている代わりに、波長を下げた場合の作用もまた大きくなりやすいので、明るく前向きに、清い心で過ごしていく心がけが大切です。

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2010年12月 1日 (水)

幼少期を含む、若いころの苦労が、「頑張りすぎ」を生むこともある。

幼少期に家庭環境が複雑だったり、若い頃に苦労している人は、全般的に「頑張りすぎ」になる傾向があります。

一般的に頑張るのは「望ましいこと」とされていますが、適度にそうする分には素晴らしいことも、過剰になれば、どこかに歪ができてしまいます。やりすぎになって、批判されたり誤解をうけたりすることもあるでしょうし、自分自身もひどく消耗するでしょう。

人一倍の頑張りが、結果に繋がっているうちはよいですが、空回りになっていたり、自分が消耗しても、頑張りをやめることができない人も多いです。

幼少期や若いころに「頑張れば、なんとかなる」、もしくは「頑張らないと、達成されない」という価値観の中で苦労して生きてきたので、その状態が、本人の中では普通になっていて、「ときに、休むとか、緩める、という方法で、物事がスムーズになっていくこともある」、という事実を、なかなか認められないし、また、認めなくない思いも持っています。

なぜなら、頑張らなくてもいい、と、認めてしまうことは、過去の苦労をした自分の否定だ、と思ってしまうからでしょう。過去の苦労した自分を肯定するためにも、「頑張りをやめることができなく」なってしまうのです。

人を頼ることが難しい環境を、自力で乗り越えてきた人ほど、「自分で頑張って何とかしよう」という価値観が根付いていますし、また、その価値観こそが、支えになってきた部分もあるでしょう。なので、なかなか、その考えから抜け出すことができない場合も多いのです。

頑張りというのは、決して悪いことではなく、むしろ望ましいことであるがゆえに、「過剰」になるラインとはどこなのか、というのが判断しにくいものでもありますが・・・、子供のころは、その頑張りが必要だったとしても、大人になった今、強さに加えて「柔軟さ」を身につけていくことも必要だからこそ、「頑張っても、うまくいかない」という事象が展開して、新しい価値観を身につけることを、促されていると思います。

「今は、必要がない考え方も、過去の自分に必要であり、そうしないと生きてこられなかった」という事実が実際にあり・・・、その経験があるからこそ、今の自分が存在するわけで・・・、大人になった今の状況に合わせて、価値観を成長させていっても、過去が否定されたりはしないし、苦労が無になるわけでもありません。

幼いころからの苦労ゆえに、頑張りすぎになってしまうタイプの方は、「自分の癒し」が必要です。満たされない部分を、自分の頑張りで埋めた生き方を、大人になった今の自分が認め、称賛し・・・、けれど、同時に、その価値観から卒業をしていく、という過程を経て、より調和のとれた自分の人生を作り上げることができます。

このタイプの方は、基本的に、強い人が多いです。苦しい状況を、自力でなんとかしようと、自分を奮い立たせて生きてきたように、その強さとパワーで、自分を癒していくこともできるでしょう。

「苦しみがないと、前には進めないはず」という価値観から、抜け出していく、という学びを持っている人は、とても多いと感じます。

この感情や価値観の癒しのために、具体的にどうしたらいいのか、というのは、その価値観が作られた状況により変わってくるので、一概には言えないのですが・・・、自分自身が、その苦労していた自分を認めて、「もう、この考え方で生きる経験は、十分に積んだ。あのときは、あれでよかったんだ。しかし、これからは別の生き方がある」と、心から思える状態になるのが、ゴールの目安となるでしょう。

また、ご家族などが、上記に当てはまるケースを助けたい場合は、「頑張りすぎなくてもいい」とか「力をゆるめなさい」と言葉で言うだけでは、なかなか、心に響かないかもしれません。それは、今現在、溺れている人に、「溺れるな!」といっても、どうにもできないのと同じです。なぜ、頑張りすぎになってしまうのか、という分析が必要ですし、過去への理解や寄りそう気持ちも必要だと思います。本人は、それを一番求めていることが多いのです。

表面的な現象「だけ」で計ろうとせず、原因から分析して包括的にとらえていくことが、どんな場合でも大切だと思います。

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