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2010年11月の26件の記事

2010年11月30日 (火)

ケータイやメールの普及と、コミュニケーション力の関係。

携帯電話とメールを使うことが、日常的になって、しばらく経ちます。多くの人が、これらのツールを介して、相手と連絡を取るようになり、とても便利にはなりましたが、いつでも簡単にコンタクトができるため、逆に、その人自身の「コミュニケーション力」が、低下しているようにも感じます。

とても簡単に連絡ができるので・・・、「とても簡単に連絡をしてしまう」のが習慣になり、大人としての常識的なコミュニケーション力、会話力が、低下し、かなり人間関係に支障が出ているのを感じます。

簡単に連絡をして、何でも尋ねられるからといって、その行為が正当化されるわけではありません。相手は別の考えをもった別の人間なのだから、自分の思う通りの反応をしてくれないのは、当たり前のことなのです。場合によっては、相手に迷惑だと思われることも、想定しておく必要があります。

自分が連絡するのは簡単でも、それに対応する相手にとっては、簡単ではないこともある、という点を、認識しておくことが大切です。

たとえば、あるレストランの料理の作り方を知りたいとします。そのためには、実際に自分も食べに行ってみるとか、似たような味を再現するために自分の知識で工夫してみるとか、料理の得意な友人にアドバイスをもらうなどするのが、「普通の行動」ではないでしょうか。

それを、いきなり、メールや電話で、「料理の作りを知りたいです」とレストランに連絡をしても、断られるのが当然だと思うのです。

なぜなら、お店は、料理を提供して金銭を得ているわけで、来店を前提とした料理の質問ならともかく、唐突に、「自分が知りたいから」という理由だけで、質問されても、・・・答えてくれなくても、文句は言えませんよね。

相手がレストランではなく、友達だというなら、話は別です。それなら、答えてくれることが多いでしょう。

ここで問題なのは、気ごころの知れた友達同士の連絡と、無関係な人に対する連絡を、同列に考えてしまう、それらの距離感の違いが判断できない、という点です。自分に全く悪気はなくても、相手からすれば「KY」に思われてしまうこともあるのです。

円滑なコミュニケーションをするためには、「相手の身になって考える」ことが大切です。それは、言葉づかいが丁寧であるとか、あいさつをきちんとするとかの、形式だけではなくて、相手の立場に立って考えるとか、自分のとの関係性を考慮した言動が必要、ということなのです。

ケータイも、メールも、とても便利な手段です。しかし、直接人と会って話す経験が不足すると、ふさわしい距離感が図れなくなり、それらは結局自分に降りかかって、人間関係の構築を難しくしてしまいます。

連絡の手段としては便利なツールも、実際に人と会って交流をする、という経験の代用にはなりません。コミュニケーション力があってこそ、道具を有意義に使いこなせるのではないでしょうか。

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2010年11月29日 (月)

ツインソウル(2)

私の記憶が確かならば、以前「オーラの泉」で、俳優の京本さんが、ツインソウルだと言われていました。若いころに、とてもよくしてくださった、銭形平次に出ていた大川さんという方と、ツインソウルだった、と。

大川さんは、俳優の仕事に対しての思い入れがあり、次の世代に託したい、という気持ちがあって、京本さんをひきたてた、とかなんとか・・・、そんなふうにお話されていたと記憶しています。

俳優という仕事、または時代劇を通して、何かを成し遂げようという目的のツインソウルだった、ということでしょうか。(しかし、たましいの目的というのは、たったひとつか二つということはありえませんので、このお二人が、ツインソウルとして出会った意義は、それのみではないはずです)。

もうひとり、ある女優さんも、ツインソウルだけれど、相手とは出会っていない、と言われていた方がいたと記憶しています。

ツインソウルという形態であることがまれですけれど、その中でも、京本さんのようなケースは少数で、出会わないケースがほとんどなのでしょう。

「ツインソウルを知りたい」というご要望は、特に独身の女性に多いのですが、それは、ツインソウル=ロマンスの相手、という誤解をなさっているためだと思われます。

たましいの観点からみて、縁の深い相手は存在しますけれど、そういう意味ではなくて、あくまで、スピリチュアリズムに基づいたツインソウルの定義からすれば、恋愛のたった一人の運命の相手、という解釈は正しくありません。

が、これらの知識を理解した上で、それでも、どうしても、自分がツインソウル(2つ以上のたましいが同時に生まれている存在のひとり)であるか、もしくは特定の相手とツインソウルであるか、という点が知りたいならば・・・、 江原さんと同程度の実力のある霊媒を探すしかないですが・・・、そんな力のあるひとは、めったにいません( ̄∀ ̄;)。

ツインソウルかどうか見分けるなんて、簡単ではないですから;。私は、どこに焦点を合わせればいいのか、それすら想像もつきません;。

私たちは、広い意味でいえば、まったく縁のない人と、出会うことはありません。出会う人とは、何らかの意味で、たましいのご縁がある人です。出会う人のすべてに(ご縁という)奇跡と意義を感じていく生き方こそ、理想的だと思っています。

そういう理解をしていけば、自身がツインソウルか否かを知ることは、それほど重要ではないと思います。

出会うすべての人は、自分を成長させてくれる、素晴らしいご縁なのですから、すべての人との関係を大切に考えていきたいものです。

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2010年11月28日 (日)

ツインソウル(1)

私たち人間は、大元のたましいである、グループソウル、もしくは類魂と呼ばれるところから分かれて、この世に生まれてきました。

分かれて・・・といっても、完全に分離されているわけではなく、私たちの霊としての部分は、いつでもグループソウルと繋がっています。

同じ(時代の)現世には、通常、ひとつのグループソウルから、一人の人間(のたましい)が分かれて、この世に生まれてくる仕組みですが、まれに、同じグループソウルから、2つ以上のたましいが生まれてくることがあります

その関係は、「ツインソウル」と呼ばれています。「ツイン」と表現されると、「2つ」をイメージしてしまいますが、2つとは限らず、それ以上となる可能性もあります。

先にも書いたように、「通常は、同じ時代に、ひとり」が生まれてきます。つまり、誰にでもツインソウルという存在が、いるとは限りません。確率としては、いない可能性のほうがずっと高いわけです。

また、ツインソウルの相手と、実際に出会う確率も低く・・・、出会ったとしても、恋愛の相手になるとは限りません。このあたりの解釈は、かなり誤解されているように思います。

なぜ、複数のたましいが、一度に生まれてくるかというのは、諸説ありますが、「一度にたくさんの経験を積む必要のあるたましいが、ツインソウルとして生まれる」と言われています。

より多くの経験をするためには、近場で生まれるより、まったく別の環境で生まれて暮らすほうが、広く学びを得られますから、ツインソウル(だとしても)出会わない可能性のほうが多いとされています。

ツインソウルが出会うとしたら、何かを共同で成し遂げる目的等を持っている場合が多いそうで、江原さんの本によると、代表的な例として、「キュリー夫妻」があげられています。

(2)に続きます。

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2010年11月27日 (土)

オーラの色と、ラッキーカラーとの関係。

スピリチュアリズムには、「ラッキーカラー」という考え方はありませんが・・・、たまに、「私にふさわしい、ラッキーカラーや、ラッキーアイテムを教えてほしい」というご依頼をいただくことがあります。

すべてのものは、「固有のエネルギー」を持っていますので、色もまた例外ではなく、それぞれの作用がありますが(つまり、何らかの効果は、期待できるとは思いますが)特定の色を身につけることで、幸せになれたり、ラッキーな棚ボタがあったりするわけではないです( ̄∀ ̄;)。

色もエネルギーですから、「波長の法則」で、そのエネルギーと同じような出来事や物を引き寄せる作用はあるでしょう。しかし、それ「だけ」で、努力もなく幸せになれたり、願いが叶ったりするわけではない、ということです。

その前提を理解していただいた上で、それでも、少しでも効果や作用を期待した色の使い方をしたい、というご希望の方には、私は、オーラの観点から、参考程度に、お伝えすることにしています

以前にもブログに何度か書いていますが、洋服の色なども、オーラに若干ですが反映していきます。

オーラの状態が、とくに問題なくバランスが取れている方には、備えている色のうちの、一番比率の高い色をお伝えして、「より、その性質を高め発揮していくために」という観点から、身につけていただくことをお勧めしています。自分に備わっているオーラの色は、外部からの色の作用も反映しやすい傾向があるからです。

特定のオーラの色(性質)が、過剰になっている場合は、その色を加えると、さらに過剰になってしまうので(笑)、逆に、中和させるような性質の色がふさわしいでしょう。

たとえば、赤いオーラの人が、より行動力を強めていくためには「赤」を、逆に、元気さが過剰になっている場合には、「赤以外の色(たとえば、青)」を、という感じです。

この程度しか、お伝えできないことを、ご了承ください。確かに色にも、エネルギーはありますが、色が幸せを呼ぶのではありません。あくまでも、サポートアイテムのような、少しの助けになる(可能性がある)というだけです。

特定の色や品物で、幸せになれることはありません。 カルマの法則、波長の法則、精神的な成長への理解を差し置き、「色だけ」を気にしたところで、ほとんど意味がありません。

すべては、「自分自身の在り方」が、大切なのです。その点をきちんと理解し、色や物に依存的になるのではなく、補助的に、色や物の作用を活用していく、という考え方がちょうどよいバランスだと思います。

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2010年11月25日 (木)

霊感が強い人と一緒にいると、不思議なことがおこりやすい。

私たちに人間は、「肉体を持っている霊的存在」なので、実は誰にでも霊感があります。その発達の程度は、人により差があり、霊感が弱い人も強い人もいますが、まったくゼロの人はいません。

以前にも書きましたが、霊感の強い人と一緒にいると、自分(の霊感)も刺激を受けて活性化されていくため、霊感が強まったように感じられることがあります。

また、自分では特に気に留めていない現象について、指摘をしてくれたり、答え合わせができたりもするため、「気づかなかったことに、気づくようになった」という場合もあるでしょう。

これらの現象は、霊感が後付けで増えたわけではなく、自分の中に備わっていながらも、眠った状態になっていた資質が、刺激を受けて、アクティブになったというか、スイッチオンになったために、起こります。

こういう現象も含めて、「霊感の強い人と一緒にいると、または交流を多くすると、不思議な現象がおこりやすい」傾向があります。

霊感の強い人は、霊界からの働きかけに感応する範囲が広いので、無意識に(霊からの働きかけを受けて)不思議なタイミングなどが「起こるように」行動をとってしまう、ためです。本人は、自主的に行動しているつもりが、実は、その出来事に導かれて行動しているのですね。

もうひとつの理由は、霊感の強い人は、オーラが大きいので、エネルギー(活力)がたくさんあり、それを使って、霊的な現象化をしやすいためです。

以前に、ラップ音のしくみについて書いた記事を読んでいただくとわかりますが、音とか物の移動とかの物理的な現象化をするには、霊感が強くてエネルギーがたくさんある人がその場にいると、起こりやすいと言われています。

日々、いろいろな方のご相談受けていて感じますが、「そこに置いたはずの物がなくなった」とか「なくしたはずのものが、突然、出てきた」などの出来事に、頻繁に遭遇するタイプの方は、例外なく大きくてエネルギッシュなオーラをしています。「そのオーラなら、いろいろ現象化がおこっても、不思議ではありませんなー」、みたいな感覚で話を聞いています( ̄∀ ̄)。

私自身も、霊感の強い人と一緒にいると、不思議なことが起こる確率が高くなるように思います。

・・・でも、一人で行動しているときも、たくさん起こります( ̄∀ ̄;)。

引き起こされる現象は、自分にとってありがたいことばかりとは限らず、ビックリするような苦しいことが、起こる場合ももちろんあります(笑)。現象を引き寄せる力が強くても、その出来事は本人のカルマや波長によって起こるので、「不思議だねぇ~」と、笑っていられるような出来事ばかりとは限りません;。

なので、霊感が強い人が、ミラクルなことばかり起こって得をする、というわけではないのです。「現象」は起こりやすいのは確かなのですが、現象の「質」も大切で・・・、質を決めているのは、霊感の大小ではなく、人としての器、人間力の大小です。

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2010年11月24日 (水)

言動が「過剰」「やりすぎ」「がんばりすぎ」になってしまう理由。

どんなことでも、「適度」であることが大切で、やりすぎになってしまうと、どこかにひずみが生まれて、調和がとれなくなるものです。

一般に、「いいこと」だと思われている事柄であっても、「適度」のラインを越えてしまうと、うまくいかなくなり、停滞や争いが生まれてしまうことが多いのです。

たとえば、「人を頼らずに頑張ること」や「行動的になること」、「積極性をアピールすること」「人に親切にすること」などは、概ね「いいこと」に分類されると思います。そのため、この手の事柄において、自分が「やりすぎ」になっていることに、なかなか気がつけない場合があります。

自分は、ひたすら「いいこと」をしているはずなのに・・・と、「悪いことが、分かっていながらやめられない場合」と違って、自覚が難しいのです。

このような行動をとってしまうタイプの人は、一見、行動的で積極性がある人に思えますが、それは表面だけで、本当は、心の中に、とてもナイーブなものを持っていることが多いのです。 傍から見れば「積極性のある人が、勢い余ってやりすぎになっているだけ」、に思えることにも、実は、本人的には理由があって、心の中に、「抱えているもの」があります。

その理由は、主に二つで、

ひとつは、「自信がない部分を、過剰や言葉や行動で埋めようとする」ためです。

自分の説明や会話力に自信がない場合に、「量をたくさん話す」ことで、相手の理解を得ようとして、矢継ぎ早に次々と言葉を発し、自分でも何を言っているのか、わからなくなったりします。

たとえば、技術を提供する仕事で、自分の技術に自信がない場合、それを埋めるために、とても作業に時間をかけたり、前置きの説明を長くしたり、または、相手の要求にノーが言えず、全許容になったりします。

あらゆる意味で、「質」に自信がないので・・・、それを「量」でカバーしようとしてしまい、言葉も行動も過剰になります。

それでも、相手がありがたがってくれれば、まだいいのですが(自分は消耗しますが)、相手にとっても、トゥーマッチになることも多く、そうなると、人間関係がうまくいかなくなります。

もうひとつは、「他人を、心から信用できない(ので、自分だけの力で、なんでもやろうとする)」ためです。

人を頼ることができない理由を、「相手に負担をかけると悪いから」と、自分では認識しているのですが、それは見せかけの理由で、本当は、信用できないからまかせられない、のです。しかし、一人だけの力でできることなど限られており、どこかで必ずしわ寄せがきます。

そのしわ寄せが、自分に降りかかるなら、(自分は消耗しますが)なんとかできても、相手に降りかかることもあります。自分がキャパオーバーで抱え過ぎになり、期限が守られなくなったら、当然、指摘されますよね。

しかし、自分の感覚では、「でも、こんなに沢山の案件を抱えているのだから、責められるのはおかしい」と、不満に思い、指摘する相手が悪いと思い込んでしまったりします。このb場合は、抱え込んでいるのは「(他人に任せられない)自分が」そうしている、という部分に、気がつかなければなりません。

前者は、自分を信じていないために、自分の行動を自分でカバーしようとすることから過剰になります。後者は、逆に、他人を信用できないので、他人に任せることができず、自分の行動が過剰になります。

どちらも、「信頼」がキーポイントです。自分か、相手を、信頼できないことから、過剰になってしまうのです。

自分の行動が、やりすぎになっている、という自覚がある方は、上記のように、さらに分析をもう一歩踏み込んで、「なぜ、そうなるのか」「何を覆い隠そうとして、または補おうとして過剰になってしまうのか」という点まで、考えてみると、そこに、自分の「思いグセ」が見えてくるかもしれません。

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2010年11月23日 (火)

自分の代名詞となる要素を見つけるか、作り上げる。

自分にとっての、代名詞になるような要素を、持っているでしょうか。「○○さんといえば、××」、のような言い表し方ができるような要素です。

それは、仕事だったり、得意なことだったり、個性だったり・・・。

そういうものがある人は、あらゆる意味で、自分を確立できますし、人づきあいの面でもメリットがあります。相手が、「○○さんは、これが得意」と、わかった上で付き合ってくれるので、話題も作りやすく、お互いに交流がしやすくなります。

たとえば、このたび異動してくる人が「入社3年目の、○○さんですよ」と聞くより、「今、野球部に入っていて、甲子園にも出たことがある、○○さんがきます」と説明されると、イメージがわきやすいですし、初めて会う場合でも、話題が作りやすいですよね。

私のクライアントさんの中に、ある専門職についている方がいて、「カリスマ○○(職業名)」と、呼ばれるくらいになりたい、とおっしゃっている方がいました。わかりやすい目的意識の持ち方だと思います。

ご自分の代名詞となりうる要素を見つけて、活用し、育てていく生き方を、心がけていくと、目的意識が明確になるので、何においても、行動しやすくなります。決断も(基準が生まれるので)行いやすくなるでしょう。

代名詞となりうるものが、明確になっている方は、それをさらに磨いていくとよいでしょう。まだ、現時点では、そういうものがないと感じる方は、過去のいろいろな経験や、備わっている資質を棚卸して、育てていける「種」や「芽」を見つけて、成長のための行動をとっていきましょう。

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2010年11月22日 (月)

認められたいのに、認められないのは何故?

「認められたいのに、認められない」と、不満足の気持ちをお持ちの方の多くはご自分が得意とする分野、アピールできる点で勝負していないために、認められるまでの道のりが困難となっているケースが多いです。

誰にも、独自な才能や魅力があります。その点を磨いていけば、認められることは可能です。それなのに、他人の才能や魅力と同じものを望むから、結果、自分が思い描く賞賛を得られず、不満が生じます。

江原さんがよく言いますが、「レンコンはレンコン、大根は大根。大根はレンコンにはなれないし、逆もまた同じ。自分の資質を活かすべき」なのです。

レンコンが、「水っぽい感じ、水分をたくさん含んでいるところがすばらしいよね。」という賞賛を得ることは、難しいですよね。それは、大根だからこその特性です。

他人の芝生を見ていないで、自分の良いところを見つけていけば、(本人が望むのならば)いくらでも賞賛を得ることは可能だと思います。

けれど、やはり、その方なりの独自な特性というものがあり、それぞれ違う以上、必ずしも自分が望む分野での賞賛が得られるとは限らないことも、受け入れる必要があります。このことを、早く受け入れて、自分の魅力を磨いていく人が、「勝ち」となるのではないでしょうか。・・・「勝ち」とは、俗な表現かもしれませんが、わかりやすくいえば、そういうことになると思います。

自分の得意な分野ならば、抜きんでることは、そう難しくはありません。自分の得意な資質を見極め、努力により磨きあげていくことです。

また、「認められたい気持ち」そのものから、抜け出してしまうのも、一つの方法です。人から認められようとしなくても、自分の基準で生きていけば、楽になれます。

自分の基準とは、「そのことに関るのが好きだから」とか、「取り組むことが自分のためになるから」という気持ちです。「人に賞賛される」目的で取り組むと、いつまでも他人の基準(それは、ときに公平な基準ではない場合もある)に、振り回されることになります。

他人からの評価は、自分を計るための目安になることは確かですが、評価が目的になってしまうと、「自分らしさ」「独自の特性」を見失ってしまうことになりかねませんので、大切なのは、自分という軸をしっかりと打ち立てていくこと、ですね。

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自分の「呼びかけ」があってこそ、相手からの反応が得られる。

「呼応(こおう)」という言葉があります。呼びかけに対する、答えや反応が返ってくるという、やりとり、コミュニケーションのことですね。

文字のとおり、まずは先に「呼びかけ」があり、それに対する「応答」があります。アクションがあって、相手からのリアクションが返ってくるわけです。

どんなこともすべて、やりとりというのは、「呼応」です。

種をまいてこそ花が咲くように、山に向かって叫ぶことでこだまが返ってくるように、「まずは、先に、呼びかける行為」をしなければ、反応は得られません。それは、意思的な(相手の反応を前提とした)呼びかけだけに限らず、無意識レベルのことも含めてです。

けれど、人は、まず「呼」よりも、「応」を先に求めようとするところがあります。自分が相手に何かをしてあげるよりも、まずは自分がしてもらいたい、その後で自分が返すならばよいけれど、・・・と、なかなか、先陣を切って「呼」の行動をとることができないのですね。

そのような気持ちは、誰にも存在するものですが・・・、しかし、やりとりというのは、「呼 → 」という順番であり、「応 → 呼」ではないわけです(笑)。反応を得たければ、まずは自ら、そのための呼びかけとなる行動を起こしていく必要があります。

例えば、誰にも教えていないメアドには、自分が望む反応は届かないはずです。それでも届くメールは、・・・迷惑メールくらいでしょう;。

撒かぬ種が実ることはありません。それは、良い意味でも、そうでない意味でも、です。世の中には、いろんな性格の方がいて、それぞれが素晴らしい独自性であり、優劣はありません。積極的にどんどん行動する人にも、どちらかといえば受身の人にも、それぞれに良い部分があります(一般には、積極性がある人がもてはやされますが)。

しかし、あまりに積極性を欠いた依存的な姿勢や、受身になりすぎることは、・・・やはり望ましいものではありません。まずは自分からの働きかけがあってこそ、反応を得られます。その反応には、ありがたいものも、そうでないものもありますが・・・、だからこそ、逆算的に、自分の「呼」が、相手にどういう作用をしていたのかを、顧みることも出来るのです。

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2010年11月21日 (日)

とても不思議な方法で、求めていた答えがもたらされた、私の経験。

不思議なタイミングで、不思議な方法で、求めている答えがもたらされることがあります。

以下は、私に起こった出来事です。

あるとき、「知りたいこと」が、発生しました。ネットで検索しようにも、該当する単語がよくわからず、( ̄~ ̄)うーん、どうしようかな・・・と、考えていたところ、ふと、ひらめきがありました

かなり前に、あるクライアントさんからの依頼メールの中に、その「知りたいこと」についての記載があったことを、思い出しました。

一年以上も前ですから、お名前も覚えてはいませんが、その方からのご依頼内容が、かなり特殊なものだったので、印象に残っていたのだと思います。

けれど、その内容について、今になって、「私が、知りたくなる」なんて・・・。あー、何て書いてあったかなー、思い出せないなーと、思っていたところ、

なんと、その方から、メールがきました(◎_◎)。

それも、一年以上前の、「依頼メール」が届きました。

その方から、再びメールがきまして、「一年前の古いメール(送信済み)を、手違いで、再び送ってしまった。ごめんなさい」、と。

ちょうど、知りたいと思って、その方の、そのメールを、思い出していたところだったので、ビックリしました。・・・一瞬、何が起こったのか、よくわからなかったくらいです(笑)。こんなに現実感の伴った記憶なのに・・・、あの出来事は事実ではなくて、未来透視だった・・???えぇ?まさか、と、本当に混乱しましたね( ̄m ̄*)。

知りたいと思っていたことは、おかげさまで、知識を得ることができました。

・・・かなり強引な方法(?)で、得ることができました( ̄∀ ̄;)。

不思議なタイミングって、ありますよね。

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2010年11月20日 (土)

何をやっても、うまくいかないときは、充電期間にあてる。

何をやっても、うまくいかない、空回りになりやすい時期があります。そういうときは、無理をせずに、少し休んでみることもいいと思います。

一つのことだけではなく、「何をやっても」、空回りになる時期は、だいたい、「充電すべき時期」で、積極的な動きをしても、的外れになりやすいです。

けれど、人は、そういうときほど焦ってしまうもののようで、空回りを取り返すかのように、さらに積極的に行動しては、事態をより複雑にしてしまいます;。

少ない電池で、多くのことをやろうとしても、負担が大きくなるだけで、どれも充実しないのですが、エネルギーの注ぎ先を増やすことには目が向いても、エネルギータンクの残量に、目が向かず、不足気味であることに気づかないことが多いです。

なぜなら、自分のことは、客観視しにくいので、じわじわと活力が下がっていても、3日前や1日前との落差は大きくはないはず、という程度でしか、認識しないものです。

たとえば、体重が増える過程は、じわじわと進むはずですが、実際に自分で「増えてしまった」と認識するのは、一定以上に重くなってから、ですよね。日々の変化(の積み重ね)は、なかなか気がつかないものだと思います。

とくに体力や精神が消耗している自覚がない場合でも、たまに、振り返って考えてみることは大切です。

ある一つのことだけがうまくいかないなら、方向転換をしたり、アレンジをしたり、または成果が出るまでの過程だと考えて、そのまま続けることもよいでしょうけれど、何をやってもダメなときは、少し休んで自分自身を満たす期間に充てていくほうが、効果的であることも多いのです。

真面目な人ほど、休むことに罪悪感を覚え、うまくいかない状況を、さらに動くことで解決したくなりますが、そういうときは、動くほど空回りを増長してしまうもの。休んで、充電することも、必要な行動なのです。

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2010年11月19日 (金)

趣味や興味の対象が、見つけられないときには。

「趣味が何もないので、自分に合うことを見つけたいが、何がいいのかわからない」「何をすれば楽しいのか、自分でもよくわからない」というご相談を受けることがあります。

いろんな選択肢を考えたり、実際に試してみたりしても、どうもよくわからない、判断がつかない、という場合は、その事柄を考える前に、「形態や、関わり方」のほうから、考えてみるとよいでしょう。

ある事柄(ここは、まだ具体的に決まっていなくてかまいません)を行う場合に、ひとりで行いたいのか、複数でシェアして楽しみたいのか、それとも誰かに何かをしてもらいたいのか、という、「関わり方」を考えます。

ひとりが落ち着く人もいれば、友達と過ごしているほうが楽しい人もいます。ひとりで行動するのが好きだけれど、人間関係を増やしたいので、複数で関わっていく趣味を持ちたい、という場合もあるでしょう。まず、そこから考えてみてはどうでしょうか。

たとえば、スポーツを趣味にする場合、ひとりが好きなら、ジムに通ったり、カルチャースクールで習ったり、という方法が考えられます。複数で楽しみたいなら、スポーツのサークルにでも入るのが適当かと思います

何かをしたいけれど、何をしたらいいのか分からない、と迷ってしまう人の多くは、スポーツをするなら、「テニス?それともスキー?」と、「スポーツ名」を選択肢にしていて、「どうやって、その事柄に自分がかかわっていくか」を、あまり重要視していないように思います。

料理でも、自分が作るのが好きな人もいれば、習って知識や技術が増えるのが楽しい人もいれば、作ったものを食べてもらうのが喜びになる人もいます。そういうことを考えずに「料理」という選択肢だけを考えると、自分がそれをしたいのか、そうでないのか、「判断基準がないから」わかりにくい場合も多いと思うのです。

まず先に、関わり方を、考えてみてはどうでしょう。そして、自分の望む関わり方と、選択肢(スポーツだったり、料理だったり)を、組み合わせると、判断基準が生まれて、決めやすくなると思います

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2010年11月18日 (木)

ひとり暮らしをすれば、自立できるか?

「今の自分は、依存的であると思う。自立心を養うために、ひとり暮らしをしたほうがいいだろうか?」というご相談をいただくことが、しばしばあります。

ひとりで暮らすと、助けてくれる人がいませんから、何でも自分でやらなければならず、確かに「ひとり暮らしならではの経験」は、たくさん積むことができます。

けれど、基本は、「自分の意識の持ちよう」だと思うのです。自立心、というのは、「精神」です。実家で暮らす、ひとりでアパートで暮らす、というのは、「状況の差」にすぎません。 精神的に成熟していれば、どこでも、どんな状況で暮らそうとも、「自立した生き方」は、出来るのではないでしょうか。

また、ひとり暮らしであっても、精神の成熟度が十分でなく、依存的な人はたくさんいると思います。

大切なのは、自分の意欲の持ち方や、精神の成長度であり、どんな形態で暮らしているか、という状況ではありません。実家暮らしなら依存、ひとり暮らしなら自立、というような、○か×かの区分けの仕方は、「まるで、物のように」考えていることになり、「物質的」ではないでしょうか。

本人が、しっかりしていれば、どんな暮らし方であろうと自立はできますが、自分が依存的である、という認識があって、自分を変えたい、自立心を高くしていかなければ、という意欲が強いなら、ひとり暮らしを経験してみるのもよいでしょう。

日常というのは、どうしても惰性になりがちですから、刺激を与える意味で、大きな変化をつけて、自分を奮い立たせていくのも、有効な方法のひとつです。

けれど、忘れてはいけないのは、自立心は、ひとり暮らしをする「だけ」で、即座に身に付くものではない、という点です。ひとり暮らしとは、「物理的な状況」に過ぎず、その環境で、自分がどうやって生きていくか、というのが大事な部分です。生き方により、自立心は、養われていきます。

その点を、よく考えた上で、ひとり暮らしという環境がベストだ、と思うのならば、踏み切ってみてもよいでしょう。「きっかけ」や「区切り」があったほうが、モチベーションが上がるのは確かですから。

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2010年11月15日 (月)

相手に合わせて、付き合い方を変える。

人間関係がスムーズにいかない、相手に理解されない、という悩みは多いです。人が数人集まれば、気が合う人も、そうでない人もいるのが普通で、すべての人と、気が合うことはありません。

そういう意味では、誰もが、人間関係の葛藤を少なからず抱えていると言えるでしょう。悩みとはいかないまでも、ストレスになる原因の多くは、人間関係です。

人間関係を上手にできる人というのは、「相手に合わせて、付き合い方を変えることができる人」です。逆にいえば、上手にできない人とは、「相手に合わせて、付き合い方を変えることが苦手な人」です。

苦手な人は、一つの方法にこだわっていたり、自分のやりたいように(もしくは、自分がよかれとおもって)行動し、予想通りの反応を得られないと、(付き合い方を変えるのは苦手なので)そこから前に進めなくなります。

それぞれ別の人間なのだから、同じ考え方にならないのが当たり前なのです。その中で、相手となんとか上手くやっていく必要があるなら、自分の行動の仕方を、柔軟に変えてみることが大切です。自分がどのような行動をすれば、相手からの反応が得られるのか、という観点から考えてみることは、コミュニケーションの上でとても大切だと思います。

人間関係で、つまづいている人の多くは、それができていません。つまづいた場所、同じ所で立ち止まって、同じことを繰り返しています。その方法では、うまくいかない、という結果がすでに出ているのに、同じことを繰り返せば、・・・どうなるかは、明白だと思います。

たとえば、ピーマンが嫌いな相手のために、料理を作る際には、では、ニンジンに変えてみるとか、ピーマンだと分かりにくい工夫をするとか、アプローチの方法を変えることは有効ですよね。

それと同じで、人間関係も、相手の反応が思う通りに得られなければ、自分のアプローチの方法に工夫をして変化をつけることを、試してみるべきだと思うのです。 何もしないまま、悩んでしまうのは、ピーマンが嫌いな相手に対して、「ピーマンが嫌いだと言われてしまう。どうすればいいのか」と考えながらも、毎回、ピーマンの料理を作り続けているようなもの( ̄∀ ̄;)。それでは、なかなか、溝は埋まらないのです。

どんなことでもいいので、今までと違う方法を、取り入れてみるとよいでしょう。仮に、相手の求めていることと、多少ずれがあるとしても、受け入れられないとわかっていながらピーマンの料理を作り続けるよりは、違うものを提供していくほうが、ずっと有意義ですよね。少なくとも、「今までとは、別の反応」が得られる可能性があるわけですから。

立ちどまって悩んでしまう人は、相手の求めているものを、唯一無二の正解という形で知りたいと考えます。しかし、そう簡単に相手のことはわからないので、取れる方法が存在しないように感じてしまうわけです。

人間関係が上手な人は、方法を工夫します。バリエーションをつけていき、ではニンジンならばどうか、キャベツならどうだろう、と統計を取っていけば、たとえ相手の反応が変わらないとしても、「正解に、該当しないもの」が見つかっていくので、不要な選択肢を除外することができます。唯一無二の正解はわからなくても、不正解を除いていけるので、だんだん焦点があっていくようになるでしょう。

相手のほうだって、工夫して何とかしようとしている姿勢を見せられたら、たとえ自分の要求とずれていたとしても、悪い気はしないものです。それだけでも、相手の態度が軟化していくことだってあるのです。

「相手に合わせた、行動をとる」ことを考えてみましょう。もう少し具体的に考えるならば、「少なくとも、今までとは違う方法を試してみる」ことです。正解を簡単に見つけようとせず、「正解でない方法を、除いていく」考え方で、範囲を絞っていくという行動のほうが、取り掛かりやすいでしょう。

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2010年11月13日 (土)

自立心の強い人と、依存心が強い人の、「犠牲的パターン」。

前回、自立心が強い人は、バイタリティーがあるゆえに、「犠牲的」になってしまう場合があるので、気をつけていく必要があることを、取り上げました。

犠牲的になることで、本人が得たいと思っているのは、「相手が、自分の(犠牲的なまでの)頑張りを認めるか感化されるかして、自分の望むように振舞ってくれる」ことです。

たとえば、怠けている相手の目を覚まさせたいと思い、その人の目の前で、いつも以上にたくさんの仕事をこなす、などです。この場合は、相手の成長を願ってのことですから、決して悪い行動ではありませんが・・・。

「自分が過剰に頑張ることで、相対的に、相手の頑張っていない様子を浮き彫りにし、プレッシャーをかける」とか、「自分が被害者であるように(意図的に)振舞うことで、相対的に、相手を加害者にして、罪悪感を受け付けることで、自分が主導権をとろうとする」ようなことを、してしまうのですね。

言葉に置き換えると、かなり厳しいものになりますが( ̄∀ ̄;)、しかし、これらは、誰もが無意識のうちに、やっていることではないでしょうか。

そして、ほとんどのケースで、そのたくらみは、通用しないことでしょう。 私自身も、たまに、そういう行動をしてしまうことがあります。・・・が、例外なく、自分が消耗するだけで、事態は変わりません(笑)。

前回は、自立心が強い人特有の、犠牲的な消耗について取り上げましたが、犠牲的になることで、相手にプレッシャーをかけようとするのは、自立心が強い人に限った話ではありません。依存心が強い人も、犠牲的な行動をとることもあります。

「自分が過剰に頑張ることで、相対的に、相手の頑張っていない様子を浮き彫りにし、プレッシャーをかける」・・・これは、どちらかといえば、自立心の強い人がとる行動です。

「自分が被害者であるように(意図的に)振舞うことで、相対的に、相手を加害者にして、罪悪感を受け付けることで、自分が主導権をとろうとする」・・・こちらは、依存的な人に多いパターンですね。どちらも傾向にすぎず、必ずそうなる、ということではありませんが。

依存的な人の、「犠牲的パターン」で、分かりやすい例は、「どしゃぶりの雨の中、傘もささずに、ずぶぬれになって、男性のアパートの前で待っている女性」、などのシチュエーションです( ̄∀ ̄;) 。

これは・・・、やめたほうがいい行動だと、ほとんどの人はわかりますよね;。雨をしのげる場所なんて、どこかにありそうなのに、「わざわざ」ずぶぬれになることで、待たせている男性を加害者のようにして、下手に出てくれるのを期待する行動です。が・・・、期待通りにはならない可能性が99%だと思います;。

人間関係というのは、自立した人同士において、良い関係が作られていきます。どんな形であれ(自立心に基づいたものでも、依存心に基づいたものでも)、やはり「犠牲的」な行動が過剰になれば、うまくいかなくなります。

「自立心が強い人の、犠牲的態度」は、自分を消耗させ、事態が変化しないことにイライラが募り、相手にあたってしまったりして、調和が遠のきます。「依存心が強い人の、犠牲的態度」は、相手をうんざりさせてしまうことが多いでしょう。相手が、しっかりしているタイプであればあるほど、それは顕著になると思います。

犠牲的態度というのは、たとえそれが、相手の成長を促すなどの、善意に基づいたものであれ、「相手からの、見返り」を、期待しているものだとも言えます。自分が得をするわけではなくても、相手に自分の望む行動をとってほしい、というのが発端ですから。

理想を言えば、相手のために、行動する際には、「犠牲」ではなく、「奉仕」であるのが望ましいです。「相手からの見返りを伴わない」、無償の愛の行動です

言葉で言うのは簡単でも、実際には、なかなか、出来ることではないですが・・・。

何でも、「やりすぎ」になったら、どこかにひずみが出ます。バランスが大切だと思います。

この「犠牲的」という要素は、誰の中にも、存在していると思います。そして、自覚しにくい傾向があります。「頑張っている」という行為自体は、悪いものではないので・・・、改善点が自分にもあることに、気づきにくいのです。しかし、それに気づくことができたら、大きく成長することができます。

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2010年11月12日 (金)

自立心の強い人は、頑張りすぎて「犠牲的」にならないように注意。

自立している人というのは、文字通り、「自分だけで、立つことができる」人、他人の存在がなくても、自分という存在が単独で成り立つ人です。一方、依存的な人は、相手があってこそ依存できるわけで、「自分だけで立つ意欲が少々薄い人」、とも言えます。

誰にでも、どちらの要素も備わっていて、比率が違うだけです。自立心が「強い人」はいるけれど、自立心「だけ」にはなれません。

イメージとして、自立心の強い人はポジティブで、依存心が強い人はネガティブにとらえられがちですが、そう単純に区分けはできません。自立心が強い人でも、落ち込むこともあれば、疲れることもあり、波長が下がってネガティブになることもあります。

自立心が強い人が、気をつけなければならないのは、強さが、違った方向に発揮されてしまうことです。中でも、一番多いのは、「犠牲的」になってしまうことです。

自立心が強い人とは、先にも書いたとおり、自分で立つことができますから、気持ちが落ち込んだり、悩んだりしても、依存的に傾くことは少ないものです。

たとえば、体力がたくさんある人が、多少疲れたからといって、もともと備えている体力の総量が減ることはありませんよね。一時的に疲れているのは、その時だけの「状態」ですから。

それと同じで、自立心の強い人が、ネガティブな状態、波長が下がった状態になったとしても、依存的になってしまうことは少なく、「犠牲的」になってしまうことが多いです。

「犠牲的になる」とは、自分が一生懸命に、時間をかけて、労力を尽くして、相手のために行動して・・・、そうすることで相手に対するアドバンテージを握ろう、としてしまうことです。

ほとんどの場合、本人は、無意識です。いつもどおり、自立心をいかして、人のために動いているつもり、奉仕をしているつもりになっても、やりすぎになって、自分だけが消耗していき・・・、苦しい状態になります。

その苦しさを打開しようと、ますます、行動して尽くして(いるつもり)も、事態を増長させるだけで、解決に繋がりません。自立心の強さゆえに、「頑張りすぎ」になってしまうのですね。特に、理想が高い人ほど、そうなる傾向があります。

通常、自立心の強い人が、一生懸命に何とかしようと働きかけている相手は、「依存的なタイプ」です。そういう人は、尽くすほどに、ますます依存的になっていくものです。

そうなったとき、自分が(よかれと思って頑張っていても)空回りになっていることに、気づかなければなりません。自分が犠牲的になることで、相手が目を覚ましてくれることを願っていても、それは通常、達成されません。依存的な人にとっては、いくらでもしてもらいたい、という気持ちが増長していくだけだからです。

依存的な人を、なんとかしたい、という気持ち自体は悪いものではないけれど、何ごとも、「適度」が大切で、過剰になったらよくないのです。

自立心があり、強さと忍耐力、そして奉仕の精神を持っている人ほど、自分の意欲や行動が、オーバーペースになっていないかを、常に考え、コントロールしていくことが必要になっていきます。

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2010年11月11日 (木)

守護霊は、自分と切り離された存在ではない。

守護霊、ガイドスピリットというのは、それぞれ、「自分ととても縁の深い存在」であり、広い意味でいえば、「自分自身」でもあります。というより、私たち人間が、それらの存在の一部である、という考え方のほうが、より正確だと思います。

守護霊とのつながりを持ちたいとか、私は繋がっていますか?などと、質問されることが多いのですが、私たち人間は、誰もが「肉体をもった霊的存在」である以上、誰もが霊的なつながりがあるのが「当然」で、切り離された人など、いないのです。

守護霊とのつながりというのは、「くっつける」ようなものでもなければ、「切れたり、結ばれたり」するようなものでもありません。先にも書いたとおり、「自分自身」だからです。

自分自身と切り離される、という解釈が不自然であるように、守護霊とも切り離されることはありません。

それらの存在が、自分とまったくかけ離れた、別人格があるように解釈してしまうから、どうやってコンタクトをとるのか、とか、繋がっているか、と、不安になってしまうのではないでしょうか。

すべて、自分という存在の一部(正確には、私たち人間のほうが、一部分なのですが)であり、別個の存在ではないのだとわかっていれば、不安にならなくて済みます。

この点を踏まえた上で、「繋がっていない」という表現を使うことがあるとすれば、「距離が大きく開いている」ときに、比喩として使われる場合だと思います。つまり、自分の波長が下がっていて、守護霊の高い波長と差がありすぎている場合、でしょう。

この場合でも、決して、切り離されているのではなく、自分の生み出した低い波長や想念が、繋がりを遮っている状態です。

この点を理解するには、実際の肉親の親を考えてみればわかります。親と離れて暮らすことや、しばらく連絡を取らないことがあるとしても、親子という縁が切れるわけではありませんよね。感情的な揉め事があって、「もう、縁を切った!」なんて言っても、実際の血縁という事実は、変わらず存在し続けます。

自分と自分の守護霊は、肉親の親子よりも、さらに(霊的に)密接なつながりを持つ関係です。繋がっていない人は、誰もいません。

そんな中でも、より密接なつながりを持っている人はいます。それは、「本人の波長」によります。守護霊とは、進化向上しているスピリットですから、波長は高いです。その波長に、自分がより近づいていければ、それだけ、繋がりは強固なものになると言えるでしょう。ただ、その場合でも、繋がりが深ければ、楽や得ができるとか、たくさん守ってくれて災難が除かれる、という意味では(必ずしも)ありませんが。

この理屈を理解するのは簡単ではないかもしれません( ̄∀ ̄;)。「広い意味では、自分自身である」という解釈自体が、わかりにくいものでもあるでしょう。

深い理解のためには、たくさんの知識を、実際に行動することにより、体感していくことが必要です。未知の比率が高いものは、わかりにくいのです。既知の比率が増えていけば、今までわからなかったものも、だんだん、わかるようになります。

基礎的な学びをせずに、ある事柄「だけ」を解釈すれば、誤解が生じてしまいます。正しい知識を、きちんと学ぶことが大切だと思います。

守護霊は、いつでも、大きな愛で、私たちを見守っています。私たちの自主性を尊重しながら、成長を願っているのです。

通常、あれこれと介入してこないのは、「私たちの成長のため」なのです。決して、「繋がっていないから」では、ありません。

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2010年11月10日 (水)

何が正しいのか、は、自分の解釈の深まりによって変化する。

すべての出来事には、それぞれ意味があり、原因が作られて結果に至っているわけで、とても複雑なものなのです。そう簡単に、「正しいか、正しくないか」「白か、黒か」のような、単純な定義付けはできません。

「これは、正しいのでしょうか?」「これは、許されますか?」「これは、依存になりますか?」と、ご質問をいただくことも多いのですが、複雑な要素が絡み合って展開している事柄に対し(そうなるに至った経過の分析をすることなく)、たったひとつの単語に当てはめると、理解が狭くなってしまうと思います。

多くの出来事は、単純な二分化は、出来ないことがほとんどです。白か、黒か、という区分けの、どちらにも含まれるし、どちらとも言い切れない、灰色にあたる出来事のほうが多いのではないでしょうか。

たとえば、「他人の物を、奪い取る」ことは、一般に考えれば、良くないこと、正しくないことだと分類されます。けれど、どこまでが「他人のもの」なのか、という定義だって、一定ではありません。

世の中を見渡せば、複数国にまたがる領土問題や、企業間の権利での争いなどもあります。それぞれの主張があり、白黒つけられないからこそ、問題が持ち上がるのだと思います。「とる」という行為も同じで、どんな状況の、どんな動機によるかで、評価や解釈は変わってくるでしょう。

「灰色」の受け止め方にしても、人により解釈は違います。黒からみた灰色は、「白っぽい色」になりますし、白からみた灰色は、「黒っぽい色」に感じられると思います。

つまり、物事に対する、正しい、正しくない、という認識の基準は、「その人の、精神の成熟度によって、変化するもの」なのです。

黒い状態を未熟で、白い状態を成熟だと仮定して話を進めますが、黒い状態からみた「灰色の出来事」は、許容範囲に感じるでしょう。しかし、成長していき、白い状態へと近づいたときには、「灰色の出来事」に対する認識は、変化すると思います。

以前は、許容範囲だと思ったものが、不要なものが除かれて、全容が見えてくれば、「改善点」として受け止めるようになるかもしれません。

灰色の出来事を、無理に白か黒かにあてはめて、評価を固定してしまうこともまた、自身の成長を妨げてしまうことにもなりますので、注意が必要なのです。

しかしそれは、あいまいを認める、という意味では(必ずしも)ありません。あいまいなままにしておくのが良い、という解釈と、定義をつけられないものを二分化しようとしても難しい(ので、その中間も踏まえて考えるほうがいい)、というのは、同じではありません。

白か黒か、○か×か、のような、単純な判断をつけようとすると、物事の表面ばかりが見えて、裏側にある見えにくい部分が、置き去りにされてしまうこともあります。しかし、見えにくい部分にこそ、気づかなければならない要素があります。

とはいうものの、「正しいか、正しくないか」と思考することが悪いというのではありません。むしろ、そのような思考は、成長のために欠かせない大切な要素です( ̄∀ ̄)。

ただ、認識は移り変わる(可能性がある)、ということなのです。その点を踏まえたうえで、現時点での自分の解釈を明確にしていく、という姿勢は、大事だと思います。

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2010年11月 9日 (火)

知る必要のあるタイミングで、出来事の意味が、明らかになる

この世で起こることは、すべて何らかの意味を持つ「必然」です。しかし、その出来事の意味するところのすべてを、私たちは知ることができません。

たくさんの出来事の、たくさんの意味のうち、ほんの一部を(自分なりの解釈で)認識することはできますが、どんな出来事の意味を、どのくらい、また、「いつ、知ることができるか」を、私たちがコントロールすることはできず、すべては「必要なときに、必要なことが知らされる」ようになっています。

以前、こんなことがありました。

毎年、自家製の野菜をたくさん送ってくださる方がいます。お会いしたのは、一度だけで、普段、連絡を取り合ったりは、一切ありません。野菜を送ってくださったときに、お礼の電話をかけるくらいなので、年に数回、お話しするような関係です。

去年も、野菜をいただき、いつもいただきっぱなしなので、たまには私のほうからもお返しをしようと思いました。

本州にお住まいの方なので、いかにも北海道、という品物のほうがいいけれど、野菜はご自分で作っていらっしゃるし・・・、うーん( ̄~ ̄)と、色々考えて、私は、北海道産の「小豆」を送りました。なぜ、小豆にしたのかは、自分でもよくわかりません(笑)。

その出来事があってから、一年以上もたってから、教えていただいたのですが、その方のお話によると、なくなったご親戚の方からいただいた、古い小豆が、お家にあったのだそうです。

煮てみたところ、やはり古いので、色が悪くて、風味もいまひとつ、「せっかくだけれど、これはもう処分したほうがいいのだろうか、けれど、○○さんがくれたものだし・・・。」なんて、考えていた、その数日後に、私から、新しい小豆が届き、「古い小豆は、処分してもいいよ」と、そのご親戚に、言われているような気がした、と。

私は、そんな事情は知らず、自分だけの考えで、小豆を選んだ気分になっていたけれど、そのご親戚の方の意識に感応していた部分も、あったのかもしれません。

小豆を差し上げてから、一年たって、そのような関連があったと、知ることになったのも、意味があるように思います。たぶん、一年前の私なら、その関連を、あまり深く受け取らず、こちらに書くこともなかったように思います。

一年前は、意識的に、そういう内容をブログに載せないようにしていました。何も土台のないところから、出来事「だけ」を載せることで、シンクロだとか、奇跡のようなことのみがスピリチュアリズムだという曲解を生みたくない、という考えがありました。

今、すでに500近くの記事がこのブログにあり、その今だからこそ、最近は、少し、このような内容も含めて、書けるようになりました。それらも含めての「タイミング」なのだと思います。

また別の知り合いに、少し前に、突然ひらめいて(?)、ちょっとした秋の味覚を送りました。その方の、誕生日の前日に自宅に届いたそうです。もちろん、私は、誕生日を知りませんでしたが、いいタイミングで届いてよかったです(笑)。

すべての出来事は、このように、すべて意味があって、必要なタイミングとともに展開しているのだと思います。その全部を知ることはできないけれど、気づかない、ということもまた、必然で・・・、知る必要のあることは、いつか必ず、ふさわしいタイミングで知らされるようになっているのですね。

私たちに、その出来事の意味を、受け止める準備が整ったときに。

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2010年11月 8日 (月)

結婚か、仕事か。

未婚の女性に多い悩みのひとつに、結婚するかしないか、というものがあります。もしも、結婚しない、という選択をするならば、収入を確保するために、仕事への取り組み方も変えていかなければならないので、どのように考えていけばいいのか、という観点からの相談です。

結婚するなら、そのまま仕事を続けることも、辞めて家庭に入ることも、選べる場合もありますが、結婚しない(かもしれない)となると、自分でその先一生の収入を確保していく必要が出てきますので、結婚と仕事は、密接な関連を持つと言えます。

多くの場合、どちらかといえば結婚を望む気持ちはあり、しかし、さまざまな事情があって、結婚しない可能性もあるので、今から未来に向けて、仕事をどう考えていったらよいのか、という内容の相談になりますが、このような場合は、まずは「優先順位」をつけることをお勧めしています。

どちらも、密接に関連しているので、はっきり区分けをすることは難しいのですが、現時点では、どちらを望む気持ちが強いのか、と、改めて考えてみるとよいでしょう。

多くの女性は、結婚したい気持ちはあるけれど・・・、でも、しないかもしれない可能性を考えると、結婚のほうに意識を向けすぎて、仕事への比重を下げてしまった場合「あのとき、もっと仕事を頑張っておけばよかった」と、後悔するのではないか、収入面で大変な思いをするのは困るので、今から対策をしておく必要があるのでは、というところから、迷いが深くなってしまいます。

この状態で、どちらか一つを選ぶのは、(関連している以上)難しいですし、たった一つに決めてしまうのもリスクもあります。それに、どれほど考えても、未知数の要素が大きすぎて、絞りこむのは難しいと思います。

なので、「どちらかといえば、結婚を望む気持ちのほうが強い(多くの場合、そうなります)」ことを、自分の中で再確認し、優先順位をはっきりさせることが、まずは大切です。

結婚をしたい、結婚する、という意欲をもったなら、そのための行動をしていきましょう。もしも、しなかった場合に・・・なんて、考えることはありません。自分が優先順位を高くした選択肢に、一生懸命になってみてください。

自分が掲げた選択肢に、一生懸命になっていくと、何らかの種がまかれて、そしていつか何かが実ります。思った通りの結果ではないかもしれないけれど、何かの形で実りは得られるでしょう。

たとえば、「よし、私は仕事を頑張ろう」と決めたとします。その意欲の大きさや、実際の仕事ぶりに、ご縁が引き寄せられて、結婚することもあるかもしれません。仕事に生きようとしても、やはり結婚に行きつくこともあるでしょうし、逆に、結婚をしようとしても、仕事に行きつくこともあると思います。

しかし、どちらにしても、強い意欲を持てば、波長の法則により、その意欲と同等の「何か」が、引き寄せられてご縁が作られたり、まいた種が何らかの形で、「実り」となって得られていくと思います。

多くの人は、はっきりと答えを出してどちらか一方を選ぶ、ということは、もう一方の選択肢を捨てる、ということでもあるので、リスクがありすぎると考えると思います。けれど、どちらか一方の「優先度を高くする」ことなら、難しくはないはずです。あいまいなままでいるよりは、そのほうがどれほど有意義か。

どちらとも決めず、迷ったまま、あいまいなままで過ごしてしまうと、あいまいという種がまかれ、あいまいな結果が実り、あいまいなご縁が引き寄せられて・・・と、それが一番、「望む結果から、一番遠のいてしまう行為」のように思います。

自分の気持ちに、正直になることが大切だと思います。

どうしたいのか、どのように生きていきたいのか。本心を見つめてみましょう。

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2010年11月 7日 (日)

スピリチュアルな理解の「深まり」に、終わりはない。

スピリチュアリズムに対する理解とは、ただ一つの答えを見つけるようなものではありません。しかしそれは、真理が複数ある、という意味でもありません。

スピリチュアリズム、霊的真理への理解というのは、終わりなき旅、「理解を深める、永遠の探求」です。人生という経験により、深まっていくものともいえるでしょう。

それは、たとえば「円周率」のように、最初は、「3」だと思っていたら、実は「3、14」だったと知り、そして、実はさらに「3,1416・・・」と、どこまでも続いていくのだと、わかっていく過程のようなものです。

日常の出来事に対しても、「3」だと思い込んで眺めるのと、「3、14」だと思うのと、「まだ、さらに奥が深いはず」と思って眺めるのとでは、受け止め方も違ってきますよね。まだその先の深い理解が存在する、と知っていれば、「自分は、実際のところ、まだ何も見えていないかもしれない」と、謙虚になることができます。

注意する必要があるのは、真理への理解を深めるとは、必ずしも、「3、14」の後に続く桁を、どこまでも追い続けることではない、という点です。

ここで、道をそれてしまう人は、奇跡的で神秘的な事柄や、知識だけにとらわれ、技法に走り・・・、最も大切である「真理の仕組みを理解し、日常の生活の中で自分が実践していく」ことを置き去りにします。

それはまるで、円周率の桁をたくさん丸暗記していても、円周を使った計算式が解けないようなものです。

「3」よりも、「3、14」で計算したほうが、より、正確さが増します。「3、1416」にすれば、さらに増します。けれど、複雑な解釈をあてはめれば、計算も複雑になるでしょうから、ミスが生じるリスクもあります。

単純な解釈でいいものと、複雑な解釈を要するものは、使い分けていくべきなのですが、知識だけを優先して、実践をしない人は、(理解する感性がないので)それらの判断基準が身につきません。そういう人は、重要ではない些細な出来事に、やれシンクロだ、導きだと、拡大解釈をあてはめる傾向があります。

「3」で計算しても、かまわないのです。それが唯一無二の正解だと思いこんで計算するのと、さらに続く数字があると知っているけれど、とりあえず「3」の計算でおおよその答えが出れば十分だ、という考え方は、同じではありませんよね。後者の考え方、認識で、あとは自分が実践していくのみ、という生き方でも十分なのです。

どこまでも数字を追って深めていくのが正しいとは、言いきれません。それは、人により違います。なので、間違いとも言い切れません。どちらにしても、実践を前提とした理解であることは不可欠ですが、そのために数字(=たくさんの深い知識)が重要な人もいれば、そうでない人もいます。

私は、円周率の終わりを知りませんし(笑)、そしてスピリチュアリズムの「深まりの終わり」も、知りません。けれど「この世を生きている限り、深まりの終わりを知ることはできない」ということを、知っています。

もしも、私が、みなさんよりも、深い解釈ができる部分があるとすれば、この点だけです。「まだ、自分は何もわかってはいないだろうことを、わかっている」という点です。

霊的な知識は、理解のための大きな助けになります。けれど、実践を差し置き、そこだけに傾倒してしまうと、アンバランスになります。

スピリチュアリズムとのかかわり方、勉強の仕方について、自分の理解力や実践力とのバランスがとれているか、という点から、よく考えてみることも大切だと思います。

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2010年11月 6日 (土)

決断するのは、自分の意思で。

人生は、選択と決断の連続だといえます。岐路に立ち、どちらの道を選ぶか、迷い悩むことの繰り返しです。

迷ってしまうのは、どちらか一方の道が「正解」で、もう一方が「間違い」のように、思ってしまっているからではないでしょうか。けれど、どちらの道に進んでも、その道なりの学びがあり、間違いの道、というのは存在しません。

その時点での選択肢の中で、「より、自分に適している道」という意味での優劣は、全くないとは言いませんが、それでも「○」や「×」のような、正解と間違いがあるわけではありません。

スピリチュアリズムへの理解が浅い方の中には、守護霊に聞けば、「右の道のほうが、楽ができて、お金が儲かって、幸せになりますよ」と、答えてくれると思っている方もいるかもしれませんが、実際、そのような都合のいい答えが得られることはありません。

我欲いっぱいの質問に、答えてくれるような守護霊はいません。

迷っているときの、後押しになったり、決め手につながるヒントは、得られるかもしれませんが、それでも、実際に、何をどう選んで、行動していくかは、自分で決めることなのです。

平穏無事な人生を望む気持ちは、誰の心にもありますが、目立ったトラブルが起こらないように、うまくやり過ごすことが「正解」だとは限りません。一見、苦労ばかりで「失敗」や「間違い」に思えるような選択肢こそが、成長につながる場合もあるからです。

すき好んで、苦労の多い道を行くべきとは、思いませんが、目先の損得のみを重要視してしまうと、大切なものを見失ってしまうこともあります。

守護霊に教えてもらいたい、と考えてしまう人が見失ってしまう、大切なものとは、「自主性」です。

私たちは、守護霊に導かれながら、さまざまな経験を通して、自主性を培う学びをしています。

答えだけを、苦労も努力もせずに先に知りたい、という依存心は、自主性とは対極にあるものです。

たましいが成熟している人は、「自分で決断してこその、自分の人生」であることを、ごく自然に「知って」います。知識ではなく、感性で理解しているものです。

自分の人生を、自分の手で作り上げていく、という気持ちをしっかりと持っていけば、迷い悩んだとしても、最終的な決断は自分で下せます。

どちらか一方だけが正解、というわけではなく、どんな選択にも、その先に、ふさわしい道は作られていくものだという理解もまた、決断の勇気を後押ししてくれるものとなるでしょう。

守護霊の存在は、あくまでもサポートであり、自分の人生という舞台の主役は、自分以外にない、ということを、忘れないようにしましょう。

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2010年11月 5日 (金)

未来は決まっていないからこそ、夢や希望を抱くことができる。

未来を知りたい方は、たくさんいることと思います。その手のご相談も、たくさんいただきます。私自身も、少しは、知りたい気持ちはあります( ̄∀ ̄;)。

けれど、未来というのは、「自分の手で創り上げていくもの」であり、あらかじめ決められているものではありません。たとえば、私が、ごく一部、未来のことをお伝えする場合でも、それは「現時点から見た未来の可能性のひとつ」にすぎず、変わることも十分にありえます。

もしも未来がすべて決まっていたら・・・、生きる希望をなくしてしまうと思います;。今から未来が完全に決まっていたら、誰も努力をしないでしょう。

現在の忍耐も、下積みも、まったく(未来において)報われないならば、どうやってモチベーションを保てばいいのでしょうか。そう考えると、未来が決まっていない(だから知ることはできない)という事実は、とてもありがたいことで、喜ばしいことでもあるはずです。

決定事項ではないからこそ、努力のしがいもあるというもの。頑張りが反映する余地があるというのは、実はとても幸せなことなのです。

未来のいつに何が起こるかは、これから作られるものなので、決まっていません。

けれど、スピリチュアリズムの大原則である「カルマの法則」により、自分がしたことはすべて、よくも悪くも(いつか)自分に返る このことは、決まっています。この法則をいつも頭において、前向きに生きることが、いつでも「最善の道を歩いている」ことにもなると思います。

未来を知って、楽や得をしたい、今の苦しみから逃れたい、という依存的な気持ちがあるがゆえに、逆に、依存を正されるような、苦難の出来事が起こって、「目を覚まさせられる」事態を招いていることもあります。

「未来は、自分の手で、これから作っていくことができる」という事実に、楽しみを見出す生き方のほうが、「未来を知って、楽をする」よりも、ずっと素敵で充実していると思います。

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2010年11月 4日 (木)

霊的に生きる、とは、「自分の器にあった霊的理想を体現して生きる」こと。

私たち人間は、(肉体をもった)霊的存在であり、霊的世界があるという前提の上での価値観や哲学である、スピリチュアリズムに則った生き方をしている人を「スピリチュアリスト」と言います。

スピリチュアリズムには、いくつかの便宜上の「定義」があります。けれど、その定義の解釈や、日常への活かし方などは、一律にすることはできません。

理解というのは、その人のパーソナルな領域で行われるものであり、精神的に成熟している人もいれば、まだ途中の人もいますから、差がつきます。

わかりやすさのための便宜上の数字になりますが、たとえば、スピリチュアリズムを20%理解している人と、50%理解している人で、「スピリチュアルな生き方」「霊的価値観の生き方」を比べれば、(理解が違う以上)同じにならないのは当然と言えます。

また、具体的な行動を、一つ一つ示して、「この行動をしていれば、OK」というような、定義もつけられません。

私たちは常に変化という成長をしている存在であり、スピリチュアリズムへの理解も、成長に比例して、深くなっていくはずです。

そのような成長過程において、どんな状態にあっても当てはまる「霊的価値観による生き方」「スピリチュアルな生き方」というのは、「現時点での自分が知りうる、霊的真理を実践し、最善を尽くして生きていく」ことだと思います。理解が深まれば、最善の示すところも移り変わっていきます。

それは、人に対する奉仕の気持ちや、やさしさ、さらには、自分自身を成長させるために、自分を満たすことや、人の役に立つために、自分の才能を磨くことや発揮することも含まれるでしょう。

「自分が知り得る、最善」ですから、他人との比較はできません。霊的真理を知らない人に強要することもできませんし、知っている自分が見ないふりをすることもできません。基準は、常に、「自分の心」と「自分の行動」を一致させることです。

「現時点での、自分が理解している真理」、ということは、霊的な理解が進んでいる人ほど、ハードルは高くなりますが、その人の器に合った霊的理想を目指す、という意味では、誰もが平等です。

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2010年11月 3日 (水)

一見うまくいく、「隠れ依存」の関係。

人間関係は、波長の法則により、同じような要素を持っている人同士で作られていきます。自立している人は、自立している人とうまくいきますし、依存的な人は、やはり依存的な人と、お互いに引き寄せあって親しくなっているものです。

人間関係がうまくいくのは、お互いに「自立した人」であることが基本です。依存してい人同士は、・・・なかなか、長続きしないものです。お互いに、相手に依存していたら、当然のことながら、調和していきませんよね。

しかし、どちらかが「隠れ依存」的なタイプの場合は、「一見」うまくいって、いいコンビになることがあります。一見、(表面は)依存的には見えないのだけれど、根本には依存心が隠されているタイプです。

もっともわかりやすいのが、「支配タイプ」と「依存タイプ」のコンビです。支配タイプというのが、隠れ依存、なのです。

依存タイプからみれば、すべてを強引に取り仕切ってくれる相手は頼りがいがあって望ましく、そして支配タイプから見ても、支配する相手がいてこそ、なので、依存タイプは思い通りにしやすい相手です。

お互いの需要と供給を満たしあっているように思えますが、これは、「相手の成長を許さない関係」であるともいえます。どちらかが今より成長してしまえば、とたんに不調和が出てくるという、危ういバランスで満たしあっている関係です。相手の成長を許さない関係、つまり、「相手の成長を奪う関係」である、ともいえるでしょう。

支配タイプが、なぜ、「隠れ依存」なのかが、わかるでしょうか。行動力があって、相手の行動を支配するような強引さを持っている人が、なぜ「依存」なのか。

それは、「相手がいないと、成り立たない関係だから」です。支配力を発揮するには、支配されてくれる相手がいてこそ、で、ひとりだけでは成り立ちません。まず、相手ありきの、力の発揮の仕方しかできないのが、依存、なのです。

自立している人というのは、文字通り、「自分だけで、立つことができる」人です。他人の存在がなくても、自分という存在が単独で成り立つ人です。

支配タイプは、強気で行動力があり、押し出しが強く見えるので、依存的であることが分かりにくいかもしれませんが、その性質は自分だけで(特定の相手がいなくても)自己完結するか、という観点から考えてみればわかります。

どちらかに、または両方に、強く依存がある関係は、長続きしません(ほんの少しの依存もない人はいませんが、強い依存は、調和を遠ざけます)。

上記の組み合わせがうまくいくのは「そのとき」だけです。その理由は、先にも書いたとおり、お互いの成長を許さない関係だからです。しかし、私たちに人間は、常に変化し、成長を続ける存在です。変化しないままでいる、ということ自体が不可能です。

ですから、どこかの時点で、「必ず」バランスが失われてしまうのが、一見、需要と供給が合っているように思える、隠れ依存、いわゆる供依存の関係なのです。

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2010年11月 1日 (月)

業務の適性を見抜けない上司に、イライラが募る場合。

とても仕事ができるタイプの方がもつ、共通の悩みのひとつに、「上司の、仕事の割り振りがおかしいと思う。適材適所になっていないことに、(気づいてしまう自分が)ストレスを感じる」というものがあります。

しかし、それを上司に告げると、自分がその仕事をやりたくて不満をのべているかのように受け取られたり、まったく話が伝わらなかったり・・・、いずれにしても徒労に終わるのがわかっているので何も言わないが、結果としてその仕事は、(適材適所になっていないので)うまくいかない。その状態を、わかっていながら眺めているのが、ストレスになる、という方も多いのです。

実際に、物事がうまくいくかどうかは、やってみなければわかりません。けれど、その人の持ち合わせている特性と、業務内容がどのくらい馴染みやすいか、というのは、物事をコーディネイトするような特性を持っている人には、だいたい見当がつきます。これらも、感性、センスの差になります。

特性を見抜いて、うまくコーディネイトしていく、というセンスは高い人もいれば、そうでない人もいるわけで・・・、仕事の経験年数が多い上司だからといって、そういう感覚も高い人ばかりとは限らないのが現実です。

何においても「できる人」からすれば、(自分にとっては、普通なので)他の人がなぜ、それができないのか、わかりにくいものなのですが、適性を見抜くというのは、その人独自の才能です。

ですから、「なぜ、これがわからないのだろう?」という気持ちになったら、思考回路も価値観も、センスも、すべて違うのだから、適性を見抜く目においては、上司よりも私のほうが勝っているのかもしれないな、くらに考えてみてはどうでしょう。

また、うまくいかないケースも含めて、すべて「学び」です。もしかしたら、その業務がうまくいかないほうが(長い目で見れば、会社にとって)よかった、という必然で、適性の低い人にその仕事が割り振られたのかもしれません。

そういうケースも考えられます。会社には、もっと別のよい話が後に持ち上がってくるので、今進行中の業務はストップしたほうがいい場合に、その状況を利用して、上司は適性を見抜くための経験を積んでいて、仕事を任された部下も、自分に何が不足しているのかを(失敗することから)気付く、という、それぞれの学びをしている場合もあるでしょう。

いろいろ目についてストレスになる方は、その鋭い感覚をさらに磨いて、「さらに、深く洞察する」ため訓練をしていると思って、「なぜ、この仕事が、この人に割り振られたのか」という点まで、考えてみると、イライラは収まり、そして、自分自身も成長していくことができるでしょう。

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