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2010年9月の23件の記事

2010年9月30日 (木)

人間関係の問題点は、「関係」の中にある。

人間関係に不調和があるとき、「相手が悪い」と、相手にすべての原因があるかのように考えることは正しくありません。

自分がしたことが自分に返ってくるという「カルマの法則」と、自分と同じものが引き寄せられるという「波長の法則」がある以上、自分にも原因があります。

けれど、「自分が悪い」と、(反省する気持ちは素晴らしいけれど)、何もかもが自分「だけ」で起こっているという解釈もまた、正しいとは言えません。

物事は、自分の都合だけで起こっているわけではないので、自分にも相手にも原因はある、という前提で、自分の観点からみれば自分にそうなる原因がある、という表現を、とても短くした言葉が、「すべて自分」です。

この解釈を、理屈の上では理解していても、それでも、「きっかけとなっているのは相手の存在や行動なのに」、という気持ちがあって、納得ができないこともあると思います。今回は、その点の説明をしていきます。

人間関係の問題点は、双方の「存在そのもの」の中にあるのではなく、「関係間」にあるのです。ですから「相手(が悪い)」か、「自分(が悪い)か、という、○×では本来、理解することが難しく、「相手と、自分の関係間」に、問題点は見えてくるのです。

たとえば、とても勝手な性格のご主人に、奥様が困っているか怒っているとします。通常、ケンカのたびに、「あんな性格の主人が悪い。彼に原因がある」と、つい考えてしまうものだと思います。

そして、波長の法則、カルマの法則を考えたときに、そのような相手を引き寄せた自分にも原因はある、という考え方に至っても、相手の性格は歴然として存在するので・・・、自分の理解とは別の部分で、納得がいかないところもあると思うのです。

「仮に、自分が今のままと同じ性格でも、相手の性格が違えば、こんな気持ちにはならないはずなのに・・・。なのに、自分に揉め事の原因があるというのは、建前の理屈ではないか」と、考えてしまうのではないでしょうか。

実は、それこそまさに、真理なのです(笑)。

そのとおり、相手の性格が違ったものであれば、今と同じ問題は起こらないのです。それこそ、問題が「関係間において作られる」ことを表わしています。

たとえば、「とても能天気でこだわらない性格の、友人A子が、ご主人と結婚していたら・・・」と、考えてみてください。

「もしも、A子なら・・・、細かいことは気にしないので、主人が勝手でだらしないことには、怒ったりはしないかも。むしろ、主人のほうが怒るかもしれない。・・・でも、A子は、金銭感覚が適当なので、あの主人との組み合わせでは、いつも金銭問題で、揉めることになるかもしれないなぁ・・・」などと、自分とは違う問題を抱えるであろう、A子さんとご主人の間柄が、想像できますよね。

つまり、「主人がだらしない」「主人が勝手すぎる」という問題は、「自分と主人の関係間において、起こっている問題」なのです。・・・さらにいえば、その問題を、自分の側からみた場合、ですよね。ご主人にはご主人の言い分があると思うので。

上記の例のように、相手が代わって「主人と、A子」となったら、自分と同じ問題は起こらず、別の問題が浮上します。

このように考えれば、どちらが悪い、相手が悪いという次元を超えて、「組合せが、問題点を作っている」のが分かると思います。人間関係というのは、多面である人間の、どの側面がクローズアップされるか、という関係でもあるのです。

自分にも原因がある、というのは、「相手には責任がない」という意味でもなければ、「自分がすべて悪い」という意味でもないのです。問題点をクローズアップさせている「関係間の役割の半分は、自分が担っている」という意味です。

このように考えれば、少し、納得ができるのではないでしょうか。

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2010年9月29日 (水)

「ふさわしいスタートの時期」を見極めて動く。

物事には、早くスタートした方がいいケースと、タイミングをはかった方が効果的なケースがあります。後者の場合は、スタート時期の早さだけにとらわれないように、注意することが大切です。

どんなことにも、ふさわしいタイミングというものがあります。夏真っ盛りから、冬物商戦を初めても、暑いさなかに、冬用のコートが欲しくなる人はまずいません( ̄∀ ̄;)。

わざわざ売り場のスペースを割いても、タイミングが合わなければ、効果がありません。それどころが、逆に、夏物が売れるチャンスをロスすることになるでしょう。冬物を並べるには、やはり、秋の気配を感じる、夏の終わりが、ふさわしい時期ですよね。

しかし、季節や状況を問わないもの、早さが勝負のケースももちろんあります。「先着3名様、限定」の商品が欲しいなら、早く買いに行かないと売り切れてしまいます。

前者のケースは、今すぐに使うわけではないものは、購買者の意欲が薄いので、意欲が高まる時期をまったほうがいいわけです。「今でなくても、いい」という状況では、なかなか、購買欲が高まりません。

後者のケースは、数が決まっているので、「後になると、手にはいらない(かもしれない)」という、「今」である必要性が高いですよね。

つまり、「今が、ふさわしい」のか、「今でなくてもいい」のかを、見極めることが大切です。

焦ることは、一般的にはよくないことのように言われますが、急ぐ方がいい状況だって中にはあるでしょう。限定数台のものを手に入れなければ始まらないならば、そこでのんびり構えていたら、いつまでもスタートできないこともあります。

不要な焦燥感と、必要なスタートダッシュのモチベーションを、混同してしまわないことが大切だと思います。

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2010年9月27日 (月)

条件がバラバラの選択肢は、優先順位を決めて「選ぶ基準」をつくる。

複数の選択肢の中から、ひとつを選ぶことができずに迷ってしまうときは、自分の掲げている選択肢が、「同条件になっていない」可能性があります。

たとえば、進む方向を決めるときに、「右か、左か」や、「南か、西か」というふうに、選択肢をあげますよね。旅行先の目的地として、「ハワイか、熱海か」という選択肢も、地名という条件で揃っています。

上記のような二択なら、迷うことはあっても、結論を出すのは難しくありません。けれど、「右か、西か、熱海か」の中から、ひとつを選ぼうとしても、・・・基準が同じではないから、なかなか選べません。

迷いが深くなっているときは、冷静な考え方ができなくなって、このような無理な選択肢の並列を行ってしまうことがあります。

実際にありそうな相談例でいえば、お仕事の悩みで、「正社員か、パートか」というなら、「右か、左か」と同じです。

しかし、「正社員か、事務か、それとも、今年は働かずに来年からスタートするか」という迷い方は、「右か、西か、熱海か」の中から、ひとつを選ぼうとしているのと同じになります;。だから、いつまでも決められないのですね。

ただ、このような悩み方というのは、条件が単独で比較できないために、起こってしまうので、少々混乱してしまうのは、理解できます。

本当は正社員で販売職に就きたいけれど、正社員だと事務職しか求人がなく、ならば、少し待って年度替わりになったほうが求人があるだろうか、それとも別の選択肢がいいだろうか、という、条件が混在していると、「正社員か、事務か、それとも来年から働こうか」という、バラバラの条件の選択肢になってしまうのですね。

けれど、バラバラの中からは、やはり、選べないものです。

考え方としては、まずは、「正社員か、パートタイムか」、のように、基準を同じにして考えることなのですが、それができにくい場合、たとえば「正社員は希望職種がない、希望職種はパートタイムになってしまう、でも来年になれば状況は変わるかも」という現状ならば、選択の優先順位を決めるしかないです。

雇用形態なのか、職種なのか、開始時期、などのうち、最も優先される基準を決めてることが必要だと思います。

このようなことは、自分では意外と気が付きにくいものです。自分だけの考えというのは、端折ってしまうものなので・・・。

自己分析の際には、頭の中で、「他人に説明するかのように、分かりやすく詳細に」文章化して、選択肢を並べてみるとか、紙に書き出すこともよいと思います。

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2010年9月26日 (日)

遠隔でリーディングを「されている」のが、分かるという方もいます。

メールで回答するリーディングは、ご依頼をいただいてから、数日のうちに作業をしてお返事する仕組みになっています。

ご依頼者様は、私が、いつ、作業をするのかは、分からない・・・はずなのですが、敏感な方やカンの良い方は、「されている」のが分かるとおっしゃいます。

なんとなく、自分の周りに、いつもと違う気配のようなものを感じたとか、オーラを動かされたような感じがした、など、「もしかして・・・?」と、思っていると、数時間後に私からの返信が届いていて、「やっぱり!」と、思った、と。

または、「夢で、その様子を見た」という方も過去にいらっしゃいました。夢の中で、私がパソコンに向かっていて、メールを出そうとしている場面で、「○○さんへ」と、自分の名前が書いてあったので、そろそろ、自分の番ではないかと思った、と、私が返信するより先に、そのようなご報告をいただいたことがあります(笑)。

まさしくそのとき作業中で・・・、ご報告をいただいてから間もなく、実際に、回答を送らせていただいたと記憶しています。

スピリチュアルに興味を持つという時点で、平均以上の霊的感性をお持ちの方がほとんどなので、こういうことが、伝わる方もいらっしゃるのでしょうね(過去記事参考:霊感が強い人は、どれくらいいるか)。

メールでの回答は、作業が終わると、時間をおかずに返信することがほとんどなので、受信した時間の数時間前~が、「作業中」だと思われます。

その時間帯に、なんとなく、いつもと違う気配があるような・・・?と感じることがあったら、それは気のせいではなくて、実際に、オーラを動かされていたため、なのかもしれません。

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2010年9月23日 (木)

より霊的に進んでいる人が、大きな「比率」で責任を負う。

意図的に霊的な分野に関わろうとすれば、当然のことながら(霊的な分野において)相応の責任を負うことになります。

自分のまいた種が、自分のゆく道に実るという「カルマの法則」がある以上、必ず、その仕組みは作用していきます。

どんなことも、すべて自分に何らかの原因が合って起こるのであり、一見、理不尽に思えることも、100%の被害者ということはなく、自分にも相手にも、お互いに取り組むべき学びがあるからこそ、出来事が展開するわけです。

どちらにも責任はある、とは言っても、責任の比率が同じというわけではありません。より、霊的に進んでいる人が、大きな比率で責任を負うことになります。

カルマの法則というのは、「自分の作った原因が、自分に降りかかる」のですから、・・・実際、比率でいえば、100%なのです;。「自分が、自分に」という切り口で見れば。

しかし、「自分と、相手」という切り口で、責任の比率を考えたときには、必ずしも「50%-50%」には、なりません。霊的に進んでいる人は、その分守備範囲が広くなるようなもので、大きな責任を負うことになるのです。

よく、人格を表わす場合に「器が大きい」などと言いますが、まさしく、その言葉通り、「器が大きい」人と、「器が小さい人」が、同じだけの量を負担させられたら、・・・逆に不公平ではないでしょうか。器の大きさの比率で、負担率があるほうが、納得がいきます。

たとえば、私が自分の持っている100%の力で走った場合と、陸上選手が同様に100%の力で走った場合、タイムに差がつくのは当たり前であり、同じ基準で考えられても困ってしまいます;。自分比の100%の力で走ることについては、私も陸上選手も同じであっても、「現実的なタイム」は、私の比率を下げてもらわないと・・・、「備わっている力」が違うわけです。

同じように、「親子」の関係で考えた場合、親子間でいろんなトラブルがあるとしても、霊的な観点からみれば、親だけが一方的に悪いとも言い切れない、微妙な部分があります。

なぜなら、子は、自分の学び(カルマ)に合う状況と親を選んで生まれてくるわけで、自分がその状況を望んできた、とも言えるからです。そういう意味では、双方に、責任があります。

けれど、親と子の責任の度合いが、50/50だと考える人はいないと思います。普通は、親に大きな責任がある、と認識しますよね。なぜなら、親には大人の分別があるわけで、言葉もろくに話せないような小さい子供と、同じ基準で考えるのはおかしいからです。

このように、「本質的な、たましいの観点から解釈した場合」と、「現実的な事象を、スピリチュアルな感覚をもってとらえた場合」とでは、後者のほうに、現実という物質的な要素がからんでくるため、同列にはならない、という点をきちんと理解しておくことが大切です。

ここからやっと本題になりますが(笑)、霊的なことを指導する立場の人と、教えを受ける立場の人の関係も、自分比では「すべて自己責任の100%」という点は、双方とも変わりませんが、関係間においては、指導する立場の人が、より大きな責任を負うのは当然なのです。

・・・前置きが長くて、本題は、3行で終わってしまいました(笑)。

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2010年9月22日 (水)

「自分に、合っているか」を、常に考える。

自分を高めていこう、自分を変えよう、幅を広げようと考えることは大切ですが、その際、自分に合うもの(考え方、行動など)を選ぶことが大切だと思います。

自分に合わないものを選んでしまうと、・・・合わないので( ̄∀ ̄;)、なかなかうまくいきません。

たとえば、「明るく元気に、積極性を持って生きる」ことは(一般的に考えれば)大切ですが、クールで大人っぽい性格の人が、妙に明るくハイテンションになっても、周囲の人に与える印象は、「違和感」になると思います。

「波長の法則」で、自分の持っているものと「同程度のものを引き寄せる」わけですから・・・、そうなると、うまくいかないのは分かると思います。

自分の資質や個性にあっている成長、向上の仕方というものがあり、誰もが一律、同じような(一般に、そうすべきと言われるような)振舞いをしても、必ずしも、同じ結果に繋がるわけではありません。

「自分の長所を、より伸ばしていく」ことや、「自分の短所を、補っていく」ならいいのですが(短所も、個性のひとつです)、「自分の長所を投げ捨てて、他人の長所を当てはめる」ようなことをしてしまえば、何がなんだか分からなくなるのは当然なのです。

自分でもよくわからなくなってしまうと、波長の法則で、「あいまいでよくわからないもの」が集まってきて、ますます混乱し・・・、現状をどうやって乗り越えたらよいのかも、分からなくなります。

解決や改善の方法も、自分に合わないものは思い浮かびにくいはずです。その時点で、「仕切り直しが必要かな」というふうに、方向転換を含めて、考えて行くことが必要だと思います。

自分に合っているか否かは、人の反応が鏡となって教えてくれることもあります。もしくは、内側へと向かい、深く自己分析をしてみれば、「自分自身が、一番よくわかる」ものです。落ち着いて考えてみれば、きっと、必要な答えを手にすることができるでしょう。

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2010年9月21日 (火)

「霊的視覚でとらえたもの」が、すべて「霊界からの働きかけ」とは限らない。

霊視で、「ある品物や人物」だけが、ポンと映り、それが何をどう意味するのかが、あまり分からないことも、しばしばあります。

霊視というのは、そういうものである、とも言えますが、・・・私自身の実力不足のせいでもあるでしょう( ̄w ̄)。

たとえば、有名なスポーツ選手や芸能人などの姿が、オーラの中にうつって、見えることがあります。「えーと、○○選手が映っていますけれど・・・?」とお伝えすると、「私、○○選手のファンです」とか、「昨日、ちょうどテレビで試合を見ていました」、というケースになっていることが多いようです。

霊視上で注意が必要なのは、上記のことからわかるように今現在、目の前にない「何か」が見えたからといって、「それが、すべて霊の姿や、メッセージとは限らない」という点です。

上記の例でいえば、「○○選手の姿」は、霊ではないし・・・、特定のメッセージ的な意味をもつわけでもありません。

思考・想念は、エネルギーとして実態を持ちます。それは過去に何度も書いてきました。それら、生み出された想念エネルギーは、「霊視者には、可視されることもある」のです。

また霊視とまではいかなくても、高い感性を持っているカンの良いタイプの人には、「イメージ」や「雰囲気」として、それらが伝わることもあるでしょう。

けれど、それは、人が思考などで作り出した想念のエネルギーをとらえているもので、「霊界からのメッセージ的な働きかけ」や、「霊交信」とは、少々違うものですから、この差異を見分けて行く必要があると思います。

これらを、ガイドスピリットからの働きかけと混同してしまうと、・・・「間違ったメッセージ」を、クライアントさんに伝えてしまうことになりますので、よくよく注意が必要で、私自身も、一番気をつけている部分でもあります。

上記の、スポーツ選手のようなケースは、「想念をそのまま」把握しただけですが、また違ったケースでは、「ある出来事を象徴するような、(スバリではない)品物」が伝わることなどもあります。

今でも印象深く覚えている中に、「バレーのボール」が見えたケースがあります。お客様にお伝えしたところ、「特に思い当たりません。嫌いではないけれど・・・、この先、自分がバレーに関わるとも思えないし・・・?」と。

数日後、メールでご連絡をいただき、「今日、関連会社のバレーボール部から、試合観戦要請の回覧がきました。この件だったのでしょうか(笑)」と、連絡をいただきました。

これらは、(霊の働きかけというよりは)私自身がたまたま把握しただけの「ご本人様にとって、霊的にまったく重要ではないこと」だと思います。

これらの現象も、お話の中のエッセンスとして、緊張が抜けたり笑い話になったりして、それなりに意義はあるものだと認識してはいるのですが、「このようなこと」と、「肝心なメッセージ」は、感じ分けてお伝えするように心がけています。

本当に、どこまでも「勉強」で・・・、学びに終わりはない、と感じています。

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2010年9月20日 (月)

リーディングを行いやすい対象は「素直な人」と「霊感が強い人」

どんなことでも、合う・合わないの差、相性のようなものはあり、リーディング(霊査)も例外ではありません。

私が、リーディングを行う際に、読み取りやすいと感じる相手は、「素直な性格であること」と、「霊感が強いタイプの人」です。

また、そのときの波長というか、コンディションの良さも関係してきますが、そちらは移り変りの激しい「状態」であり、悩んだり困ったりしている状態で、精神的な状態がベストではないのは当然のことなので、ここでは説明は省きます。

霊感が強い人は、たとえばリーディングが、床に置いてある荷物を、1m上まで持ち上げる作業だとしたら、私が荷物に手をかけて自力のみで持ちあげなくても、ご本人が下から30cmくらい押し上げてくださるようなもので、ある意味「助けられる」のですね、「協力してもらっている」ような感じです。

素直な人は、オーラがくもっていなくて、私も働きかけやすいですし、読みやすいです。また、「あちらの世界」からの働きかけも、起こりやすいようです。これは、今までいろんな方にお会いした統計上、顕著にそう感じます。

以前、こんなことがありました。

とても素直で明るいタイプの方がお越しになっていて、ブログの運営方法について、アドバイスをしていた時だと記憶しています。検索エンジンのアルゴリズムを説明していて、エンジンが認識する「タグ」についての話をしていました。

( ̄∀ ̄)「こういうブログを作ったとして・・・。たとえば、日付が 200×年×月×日、となっていて、記事のタイトルが・・・。」と、ホワイトボードに書きながら、説明をしていました。

すると、お客様が「えっと・・・、その日付って、意味があるわけではなくて・・・適当に書いたのですよね?」、と。

( ̄∀ ̄)「そうです。意味があるのは記載ではなくて、タグだから・・・」

「いや、そういうことではなくて・・・。その日付、私の結婚記念日です。年月日すべて一致しています」

 ̄∀ ̄)「え?本当に?これは、霊視とかではないです。本当に適当に書いただけ。もう、何と書いたかも忘れているくらい。少なくとも私自身は、意識して書いたわけではないです」

「いや~、びっくりしました(笑)」

ということがありました。

素直な方には、あちらの世界も働きかけをしやすいので、こういうことが、たくさん起こるのです。まあ、この場合、働きかけられたのは、私でしたが(笑)。お客様の関係するスピリットに、「私が、使われた」のでしょう。

私が今までの経験上から思うに、このような「当てもの」のようなことは、それ自体に意味があるのではなくて、本人に、スピリチュアルな仕組みや霊の存在を、印象深くするために、効果的に起こっているように感じます。

そうやって、いつも導かれているのだと思います。私自身も、お越しいただく皆様との時間から、「教えられる」ことが多いです。

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2010年9月19日 (日)

意図的に霊的な世界と関わることによる、(霊的な)消耗は大きい。

スピリチュアルなことに、意図的に関わっていくこと、たとえば、仕事にしてしまうことなどは簡単ではない、と繰り返し書いてきました。

今までは、責任の及ぶ範囲や自分自身と相手へのカルマ的な影響についての説明をしてきましたが、さらに、霊能者やセラピスト自身にかかる、(霊的)消耗度も、並大抵ではなく・・・、「難しい」というのは、そういう意味も含まれます。

平均よりも敏感なタイプの方は、人ごみが苦手だったり、調子が悪い人がそばにいると、自分まで同調して調子が悪くなったりすることがあると思います。

基本、スピリチュアルな事を仕事にしている人の感度というのは、それらの影響度が、「もっと大きい」わけです。たとえば、私の場合は、とてもコンディションが下がっている状態の方から依頼のメールが届くと、チャラーン♪と受信音が鳴ったと同時に、一気に、38度近くに発熱したりします( ̄∀ ̄:)。

直接お会いしなくても、同調しますので・・・、それはもう負荷が大きいです。が、そのくらいの感度がなければ、仕事レベルに霊能を発揮することもできないわけで・・・、この点を、完全に克服することは多分できないだろうと思います。影響を最小限にする、というのがゴールではないかと思います。

仕事を初めてまもないうちの消耗がひどいのは、霊能者本人の実力不足が原因だと思います。

私自身も、当初は、仕事を終えると発熱、また仕事を終えると発熱、という繰り返しでした。大げさではなく、一年の1/3は発熱していたような( ̄∀ ̄;)。今でこそ、かなりましにはなりましたが、それでも発熱はひどいし、首も動かなくなりますし、オーラが体からおもいっきりズレた状態;になって、しばらく寝込んだりすることも普通にあります。

キャリアがつくられていくにつれ、当初の実力不足からの影響は解消できても、今度は、キャリアにより「さらに感度が高くなってしまう」ことから、やはり(以前には感じなかった)影響を受けやすくなったりもするので、完全な克服というのはないようです。

また、未浄化なエネルギーだけの影響ではなく、後ろの方達を媒介することでも、結果として、波長は一時的に下がってしまいます。

未浄化の霊からの憑依的影響とは違いますが、後ろの方の意識を媒介することによる霊的な活力の消耗、掛かる負荷の大きさというのは、トリプルアクセルを跳ぶようなもの、かもしれません。

仕事のときなど、高いエネルギーを媒介させていただくことで、よい影響を受けることもできます。ちょっとくらいの不調は、吹き飛ぶくらい、私自身の波長が一時的に持ち上がってくれることもあります。

しかし、「そのこと」と、「基本的な活力が使われてしまうこと」とは別問題です。つまり、波長の高いスピリットを媒介するときでも、波長の低い未浄化なスピリットやエネルギーを媒介してしまうとき;でも、どちらにしても、大きな活力が必要となります。

スピリチュアルな仕事をする、というのは、それらの影響も全部ひきうけて・・・、かつ、クライアントさんに、霊的な働きかけをする行為です。大きな責任もあるけれど、大きな負荷もあります。そして、相手からどんな憑依的現象をもらってしまったとしても、「自分が、そうなってしまった」という自己責任です。

影響を最小限にするには、日々、自分自身の成長を心がけ、波長が下がる要因を見つけては除き・・・、そのくり返し以外にありません。とても地道な道のりであり、努力も必要であり・・・、お手軽な魔法のような「技」はありません。

必要もないのに、どこまでも霊の世界に踏み込んでいくのは、大変に危険を伴います。過剰な好奇心を持ってそういうことを行うと、「好奇心を伴った結果」がカルマの法則により自分に降りかかってきて、思い知らされることになるでしょう。

真理を求める気持ちと、好奇心に走ることは違います。常に自分を省みて、セルフコントロールをしていくという高い意思が大切ではないでしょうか。

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2010年9月15日 (水)

スピリチュアリズムを伝える、という活動。

自分のしたことは、良くも悪くもすべて自分に返ってくるという「カルマの法則」は、スピリチュアリズムの大原則ともいえる仕組みです。

他者に向けた親切も悪意も、自分自身の向上も怠惰も、すべて、何かの形で自分に戻ってくるなり、自分の性質として身についていったりします。

例えば、私がこのブログやセッションで行っている、スピリチュアリズムを伝えていくという活動も、もちろん「カルマの法則」により、良くも悪くも、すべて私自身に返ってくる仕組みになっています。

そう考えると、この活動は、結構、勇気のいることなのです( ̄∀ ̄;)。少なくとも、私はそう思いながら、仕事をしています。

私は、「人様に、(私が)間違った働きかけをするのが怖い」という気持ちがあります。自分が間違って、自分が困る分には自己責任ですが、人様に多大な影響を及ぼす可能性のあることに対しては、どこまで慎重になっても、「これでよし」とは、思えません。

相手への影響と、自分自身への(カルマとして、自分に返ってくるという意味での)影響、どちらの観点から考えても、慎重になるのが当然だと思っています。

自分が楽しいから、とか、やりがいを持てるから、とか、そういう好奇心的な感情で、この活動をするものではない、というのが私の考え方です。

自分で責任を負う仕組みなのだから、何をやろうといいじゃない、という考え方もあるかもしれませんが、たとえば、「うっかり、窓ガラスを割ってしまった」ことと、「人様に、霊的な事柄について(自らの努力不足、勉強不足により)ミスリードした」ことの、重大性は同じではありません。

そういう点も含めて、理解ができる人が、自分のしたことはすべて引き受けるしかないのだという自己責任において、「人様に、霊的に働きかける」という、かなりプレッシャーのかかる(;)学びを経験「させていただく」のが、この活動なのだと私は思っています。

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2010年9月14日 (火)

「原因」と「結果」の結び付きは、網目のようになっている。

日々、いろいろなご相談やご質問が寄せられる中で、よくある質問文の形式として、「私は、○○○○をしたいと思っていますが、できません。何が原因でしょうか?」というものがあります。

疑問があるときに、その要因を把握したくなるのは、自然な考え方だと思います。「原因があって、(作用して)結果となる」という、カルマの法則を知っていれば、なおのこと、そういう考え方になると思います。

しかし、○○○○ができない原因というのは、たった一つではありません。いくつもの原因が相互に複雑に作用しあった結果が、出来事として展開している のであり、ひとつの原因からひとつの結果が作られるような単純な仕組みではないのです

つまり、「○○○○ができない原因(というものが、あったとして)」をお伝えして、そのことを改善したり、取り除いたりしても、○○○○の問題がすっかり消えてなくなるとは、限らないのです。それ以外にも、無数の原因が複雑に作用して、結果が作られているからです。

もちろん、努力の分だけ良い効果は現れると思いますが、完全に消去されるとか、完全に成功するような、反映の仕方をすることは、本当にまれです。

因果関係が、

Image10_3 

のように、結びついているのを想像すると、「原因を特定して、そのことを排除すれば・・・」と、イメージしてしまうと思います。

でも実際は、

Image11

と、網目のように、いくつもの原因がひとつの結果に、そしてひとつの原因も複数の結果に、影響を与えあっているのですね。

なので、ひとつの原因を除いても、どのように結果に結び付くかは確定できないのですが・・・、そのかわり、思いもよらない結果にも作用して、うれしい出来事が起こる場合もありますので、その点はうまくできていると思います。

例えば、「昇給を目指して一生懸命に仕事をした」ら、「取引先に認められて、引き抜きの話がきた」り、「成績が上がったので、有休消化をすすめられた」り、副産物のような結果に結び付いた経験が、誰にもあると思うのです。

それは、原因と結果の、1対1ではない、1対複数 の作用によるものです。なので、とにかく、よい種まきを続ければ、よい結果へと結び付きます。

よくない原因を特定して取り除くことも大切だけれど、「原因の特定」ばかりに一生懸命になるよりも、(原因は、ピンポイントに働くわけではない、という)「仕組み」を理解すれば、努力の間口が広がることを知っていただきたいです。

まったく無関係に思える「ある、行動(原因)」が、あなたの望んでいる「結果」に、いい方向に作用することだって、あるのですから。

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2010年9月13日 (月)

自分に合っている物事を選ぶのが、達成への近道。

物事がうまくいく可能性が高いのは、「自分の資質に合っている」ものです。

あくまで確率的な観点からいえば、合わないものは、合うものに比べて、上手くいきにくいです。当たり前のことですが・・・、基本となるこの部分をおさせておくことは大切です。

好きな色が、必ずしも自分に似合う色ではないのと同じで、好きで楽しいと感じることが、自分の資質に合っていることもあれば、そうではないこともあるので、冷静に分析することが大切です。

ある事柄を、「好きでいること」は、何の問題もありません。けれど、その事柄に、人生の大部分をかけて成し遂げていくとか、生活の手段である「適職」にするとなると、「好き」か「嫌い」かだけが基準になっては、・・・まず、上手くはいかないケースがほとんどでしょう。

ごくまれに上手くいくとしたら、「好き」と、「自分に合っている」が、重なっている場合です。しかし、そういうケースは、少ないのです。

なぜなら、通常、自分に合っている得意分野のことには、周りが見えないほどに夢中になれることは少ないからです。「夢中になるほど好きなこと」と、「資質を発揮できる得意なこと」は、別物です。

自分に合っていることは、違和感がなく自然に行えるので、どこかに冷静さがつきまとうものです。その冷静さがあるからこそ、コントロールができ、コントロールができるからこそ、必要な労力を注ぐことができて、その結果として「合う」「得意」という「状態が作り上げられる」のです。

好きなことをやるのはかまわないけれど、基本的な基準として、「自分に合っているか」という観点から、判断していくこともまた、好き嫌いの基準以上に、特に仕事においては、大切となるでしょう。

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2010年9月12日 (日)

オーラを、視覚ではなく、「感覚」で把握する。

オーラの把握の仕方は、いろいろあります。視覚で把握するだけに限らず、感覚で把握することもできます。実は、そちらの方が一般的ではないかと思います。

視覚でとらえることのできる人でも、感覚を併用している場合が多いです。

感性が研ぎ澄まされていくと、「気感」が、発達していきます。そうすると、オーラを、「熱感」でとらえることが出来やすくなります。一般に、良い気というのは、温かく感じられるもののようです。(イヤーな雰囲気の場所で、ぞくっと寒気がするのと逆、ですね)

どんなものでも、ポジティブなものよりも、ネガティブなもののほうが、把握しやすいので、一定レベル以上に、感覚が高まっていかないと、はっきりとは認識しにくいものですが、良い気は、温かく感じやすい、という傾向はあると思われます。

伝わり方はいろいろで、熱だけに限らず、波長の高さを「軽さ」や「密度」で感じる場合もあります。たとえば、波長の高いガイドスピリットは、バイブレーションが軽く、密度?がつまっている(と、私は感じる)、視覚的にも明るく輝いていて、そして熱感的把握でも温かい、という、・・・つまり、どんな把握の仕方であろうと同じ結論に繋がっていきます。

オーラの一部を、見ることは、練習すれば誰にでも出来ると思いますが、オーラから情報を読み取るためには、それぞれの違いを「見分ける」ことが必要で、それは、簡単にはできないので、視覚にこだわり過ぎない方がいいと思ます。

すべての人に(大小の差はありますが)霊的な感覚がありますから、研ぎ澄ませていけば、「感じ取る」ことで、いろいろなことが把握できるようになります。

どのくらいまで分かるようになるか、というのは、個人差がありますので、一概に言えませんが、一般的には「視覚で、見分ける」よりは、「感覚で、感じ分ける」ほうが、容易だと思われます。

得意分野はそれぞれ違いますので、熱で感じる人もいれば、密度で感じる人もれば、風のような勢いを感じる人もいます。

自分なりの得意な感じ方を見つけていくと、生活の中で、有意義に活かされる場面もあると思いますので、楽しみながら、感覚を磨いていくとよいでしょう。

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2010年9月 9日 (木)

知的な学者肌オーラ、「青」と「シルバー」のビミョウな違い。

青のオーラは、真面目で冷静、分析的で正確さを重視する考え方をするので、研究職など、頭脳を使う系統の仕事にとても向いていますし、実際、学者、研究者、教職などについている方も多いです。

シルバーのオーラは、知的で好奇心があり、マニアックな独特の世界観を好むところがあり、好きなことへの探究心が旺盛です。頑固でこだわりが強い一面もあり、「その道ひとすじ」のような生き方を好むところもあるので、学者や研究者、エンジニアなどの専門職、技術職などに多い色だと感じます。

どちらも知的で、知性を活かして仕事ができるタイプなのですが、シルバーのオーラの人は、自分がそのことが好きで研究している、好きなものだからこそのこだわり、みたいな感覚を持っています。個人的な好奇心や探究心が、知性と結び付いているところがありjます。

青いオーラの人は、その点がちょっと違っていて、自分がそのことを好きであるか否かとは無関係に知性を発揮できる人が多いですね。クールで割り切りができるので、「そうすることが、必要だから」という観点から、真面目にかつ地道に取り組むことができるタイプの知性です。

「ビミョウな違い」と書きましたが、私からすると、かなり違うように思えますが(笑)、「知的な学者さん」の、知性が、どこからくるのか、好奇心や探究心からなのか、真面目さからなのか、という点が一番の差ですね。

もちろん、この2色を併せ持った人もいますし、オーラの色は複数あるのが普通なので、「オーラが○○だから、性格は××」などと、狭く決めつけるようなものではありませんので、そのつもりで参考程度にとらえてください。

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2010年9月 8日 (水)

オーラのくもりと、体調(不良)の関連性。

心配事などからくるストレスが、オーラの中に、くもりとなって表れることがあります。そのくもりの位置から、そのストレスの要因が想像できます。

例えば、言いたいことを我慢していたり、自分の発言力や会話力に自信が持てない人は、のどの付近のオーラがくもっていることがあります。

そして、そういう方は、だいたい、のどが弱い場合が多く、風邪をひいたり、体力が落ちたりすると、のどに症状が現れやすいです。

オーラにくもりがあると、その部分のエネルギーの活力が鈍くなりますので、その度合いがひどくなり、長期化していけば、肉体的な症状として、現れることもあります。

ストレスとなっている要因の詳細までは、(オーラのくもりの位置のみからは)把握できませんが、くもりの位置から、傾向は把握できる部分もあるのです。

体調不良のすべての要因が、心理的ストレスとは限りませんし、○か×かのように、単純に当てはめてとらえてしまうと、誤解を招きますので、あくまで参考程度に考えていただきたいのですが・・・、実際に、体調面に不具合な症状が出るところと、オーラのくもりとは、関連性が感じられます。

スピリチュアル系書籍の中に、「頭痛は、○○○な性格の人に出やすい」「膝の痛みは、×××という心境になっているときに、表れる」などと、分類されていることがありますよね。

それらの記載も、不調の理由は性格によるものだと断定しているのではなく、あくまで、ひとつの傾向として、統計上の関連性からの提示だと思いますが、上記のとおり、何らかの関連性は、やはり見て取れるように思います。

似たような性格の方は、似たような部分がくもりやすいように思えますし、実際にその付近に、冷えを感じたり、疲れやすいなどの症状が出やすいもののようですから。

ただ、「心理的ストレスの要因と、オーラのくもりの部位には、関連性が見て取れ」て、長期化、習慣化すると、体調面にも症状が現れることもある、という事実はあるとしても、当然のことながら、体調不良や病気のすべてがストレスが要因ではない以上、病気の診断まがいのことを、オーラ透視や霊視に求めるのは、ナンセンスです。

体調に限りませんが、すべての結果に至るまでの「原因」はいくつもあるはずで、それらが複合的に作用して、何らかの現象に繋がっていますので、自分の心理的な「状態」が影響している点はあるとしても、それ「だけ」がすべてではありません。

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2010年9月 6日 (月)

未知の領域に、果敢に挑んでいくのは・・・前向き?

前向きに努力をしていくこと、変化を恐れずにチャレンジをしていくことも大切さは、誰もが知っていることです。しかし、これらの表現の意味するところを、拡大解釈してしまわないよう注意が必要です。

前向きなチャレンジというのは、必ずしも、未知の領域に飛び込んでいくことではありません。

それらの行動は、一見、とっても勇気のある行動に思えてしまいますが、たとえば、可能性がとても低いことに、見通しもないまま勢いに任せて飛び込むのは、「勇気がある」というより「計画性がない」「無謀な」行動だと私は思います。

趣味など、自分が好きですることならば、自己責任の範囲において、それでもかまいませんが、生活の手段として仕事をしていかなければならない状況や、これから起業して新しい世界に踏み出していこうと考える状況において、計画性がないまま、未知の領域に飛び込んでも、その結果は、・・・だいたい予想がついてしまうと思います;。

若いうち、まだたくさんの可能性を模索している段階では、ときにそういう行動も有意義となるでしょう。

けれど、人生の中盤になり、何かを成し遂げていこうとしている段階において、未知の領域に果敢に飛び込むのは、必ずしも前向きとはいえない、世の中や自分の置かれている現状が見えていないだけ、となっている場合もあります。

当然のことながら、未知と既知を比較すれば、既知のフィールドで活躍できる可能性(あくまで確率的な可能性)は高く、未知のそれは下がります

そういう部分も「分かった上で」あえて挑むのなら、前向きと言えなくもないけれど、勢いや雰囲気だけで、大きな大転換をするのみが前向きであるかのような認識は、改めたほうがいいと感じます。

どんな場合でも、一番の判断基準は、「自分に合っているか、否か」という点です。人生の中盤になって、まったく関わったことのない分野というのは、・・・通常、縁が薄い分野だと考えたほうがいいのかもしれません。

得意なことや向いていることは、間接的にでも、人生のどこかで関わりを持っていくことが多いと思うのです。

10代、20代のうちは、人生の経験値が少ないので、自分に何があっているのかも分からないので、果敢にチャレンジして失敗することからも、自分に「合わないものを、見極められる」という利点もあります。

しかし、社会経験がある程度積まれていけば、失敗から学ばなくても、今までの経験から自分の向き不向きを見極めることは、できるのではないでしょうか。(あくまで、適性についての話であり、成功するか否かが分かるという意味ではありません)。

それぞれ個性があるわけで、適性にも違いがあり、そして人生に与えられた時間は限りがあるのだから、果敢に挑むだけが前向きとは限らない、という考え方も大切です。

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チャンスはつかみ取る、もしくは呼び込むもの。

スピリチュアルなことを考えて、明るく、前向きで生きるように心がけていれば、自動的に物事が展開して、向こうからチャンスがやってきてくれて、幸せになれるに違いない、

・・・なんて思っている方がいたら、早めに、考え方を正したほうがいいでしょう。

といっても、この考え方が、完全に間違いなのではありません。ケースにより、違ってきます。

学ぶ内容は各々違いますから、一概には言えませんが、消極的な人や、依存心が強い人には、「自分から行動することに挑む学び」が、人生に配置されるようになっていますから、チャンスも、自分から動かないことには、なかなか展開しなようになりがちです。(必ずそうなる、というわけではありません。傾向としてそうなりやすい、ということ)。

そういう人が、ただ、「前向きに、明るく」と、頭の中でだけ考えていても、(確かに、思考もひとつのエネルギーであり、作用はしますが;)、なかなか、実際に物事が動きにくいのです・・・;。

おかしな思い込み、勘違いをしていると、創造的な人生どころか、大きく時間をロスしてしまうことになりかねません。自分から、行動を起こす決意を、なさってください。

では、行動的な人の場合はというと、「自分から、挑む」性質は、すでに備えていますから、今更学ぶ必要がないので、「前向きに、明るく」を心掛けていれば、(消極的な性格の方と比較すれば)、向こうからやってくるという形でのチャンスも多いと思います。

しかし、学びは公平ですから、行動的な人だけが、チャンスが向こうからやって来るので、得をするかといえば、それもまた違います。

たくさん行動すれば、実りのチャンスも多いけれど、失敗の可能性も多くなりますので、その分のリスクを負います。

仕事のできる人ほど、手を出す回数が多いがために、逆に失敗したときに目につきやくて、怒られる回数も多くなるという理不尽さ(笑)と、どこか似ています。

得意なことだけやれる人生はありません。苦手なことに挑むのが人生(の学び)です。自分から、行動を起こしてみましょう。

チャンスは自分からつかみ取るもの、もしくは、明確な意図をもつことにより、呼び込むものです。想念はエネルギーであり、波長の法則により、引き寄せ合いますから、自分が明確な「こうしたい」という意欲を持てば、それに見合ったチャンスが、引き寄せられてくるでしょう。

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2010年9月 5日 (日)

本当の「自由」とは?

一般的な会話や思考として、「自由」という言葉を使うときには、だいたい二通りの用途で使われることが多い気がします。

ひとつは「特定の制約から解き放たれること」、そしてもう一つは、「自分の欲求のままに動くこと」を表現する場合です。

けれど、これらは、とてもせまい理解で・・・、物質的価値観による「自由」の解釈、のように私は感じます。

例えば、「特定の制約から解放される」自由として、規則を無視することや、夜中まで出歩くこと、さらに「自分の欲求を満たす行動」として、好きなだけお酒を飲むこと、欲しいものを手当たりしだいに購入することなどを想定してみたとき、これらの行動は、本当に自由といえるでしょうか・・・。

一見、羽目をはずして、大いに自由を味わっているように思えなくもないけれど、・・・よく考えると、これらの行動は、実は「大いに不自由」だと思うのです;。

夜遅くまでお酒を飲んだり、買い物をたくさんすることでしか自由を味わえないならば、その人はとても「不自由な感性で生きている」人だと感じます。

本当にたましいが自由な人は、物質的な価値観には、とらわれていません。「○○がないと自由になれない」とか、「○○さえあれば、自由になれるのに」などの、イエスかノーかの物質的な条件には、惑わされることがない人こそが、本当の自由を知っている人です。

自分のまいた種が実るという、カルマの法則がある以上、生きることには「自己責任」が伴います。どんな結果もすべて自分で受け入れる仕組みになっている、という認識をもちながら、(物質的価値観の)何をも恐れず行動することが、この世を生きる上での、大人としての「自由」だと思います。

物質的価値観から解き放たれた先に、本当の自由があります。

・・・けれど、その領域に達するのは、容易ではありません(笑)。誰にとっても、かなりの難関だと思います;。だからこその、学びなのでしょうね。自由になりたいと願い、目指していく過程が「人生そのもの」なのでしょう。

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2010年9月 3日 (金)

悪気のない行動は、カルマの法則にどう影響するのか。

カルマの法則とは、「自分が種をまいたことが、いつか必ず返ってくる」という、絶対の法則です。良い種をまけば、いつか必ず、良い実りにつながりますし、・・・悪い種をまけば、その逆となります。

では、「悪いことと知っていながら、他者をいじめた場合」と、「本人は特に何も考えずに、他者をいじめた場合」、この二つの場合で、カルマの返り方に差はあるのでしょうか。

まず、どちらの場合でも、自分が引き起こしたことは、自分に返ってくることは変わりありません。意図的であろうと、知らずにやっていようと(それはそれで、問題なのですが;)、必ず何らかの形で、自分に降りかかることは変えられません。

ならば、この二つが、同じ扱いかというと、・・・そうではありません。「想念」はエネルギーとして実体をもち、作用します。目に見える行動や、口に出した言葉だけでなく、想念も、カルマの法則にかかわってきます。

つまり、わかっていながらやっている場合は、「実際に、いじめという行動をした」ことに加えて、「わかっていながら、自己制御ができていない」というカルマも、返ってくることになるでしょうね。・・・でも、知らずにやっている場合でも、「普通、身についているはずの、「いじめはよくない」という感性を身につけていない」という部分で、この先に学ばされることは多いでしょうから、そういう意味では、五十歩百歩かもしれませんが(笑)。

この点は、ごく普通に考えていただければ分かると思います。「新人」と「ベテラン」が同じ事柄の責任をもつ場合、よりキャリアがあって実績のある方が、リーダーシップをとっていくものですよね。

それとおなじで、霊的な法則も、より霊的に進んでいる人が、より責任を負う(よりレベルの高い学びに挑む)可能性を含みます。ベテランになれば、より難しく責任の重い仕事を任されるのと同じ仕組みです。

今回の話は、日常生活の学びで、「私は、スピリチュアルに考えると、本当はこのようしなければならないと分かっているが、実際には、なかなか出来ない」という場合とは、分けて考えてください。日常で、スピリチュアルな法則をすべて実践できたら、神様だと思います。自分ではそうしたいという意思があっても、生活上の事情が許さないことも、あるでしょう。それで、いいのです。

今回のいじめという例は、どう考えても「明らかに間違った行為;」なので、「明らかに、悪い種まき;」とカウントされますよ、という前提での話です。そのことと、日常における内的な学びとを同列に考えてしまうと、逆に、混乱が生じます。

日常のグレーゾーン(笑)については、少しずつ、時間をかけて、白に近づけていくことです。どんなことでも、時間がかかります。「自分のペース」以上に、早く進むことはできませんから。

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2010年9月 2日 (木)

リーダー的資質を備えている人のオーラ。

他者を率いたり、まとめたり、集団の先頭に立っていく資質を備えている方は、大きくて、勢いがあるエネルギッシュなオーラをしています。

大きなオーラは、他者への影響力がありますので、とりまとめ役、仕切り役には最適です。勢いのあるオーラは、自分の資質を、外に向かって発揮することや、表現していくことを好む方が多いので、人前に出ていくことが、それほど苦痛にならないでしょう。

このようなオーラをなさっている方は、ごく自然に、本人の(表面意識的な)意向とは無関係に、人から頼られたりアテにされたりすることが多いものです。そういう「役割」が、今回の人生の学びとして、あらかじめ設定されていて・・・、だからこそ、その役割にふさわしいオーラを備えているのです。

リーダー的資質を備えていて、さらに、その役割を担うこともまんざらでもない、という方でも、実際に、行動するとなると、また別の要素がからんできます。

面に出てあれこれ仕切るのが好きで得意な方もいれば、人前に出て影響力を行使したい気持ちはありながらも、行動に結び付けることが苦手な方もいますし・・・、そのあたりは、個々の性格の違いや、経験値の差などが関係してきます。

いずれにしても、平均よりも大きなオーラで勢いがある方は、人をまとめたり率いたりする役割が、今回の人生の学びとして用意されています。

ですから、得意だろうと苦手だろうと(笑)、「そういうもの」だと割り切って、楽しみながらかかわっていくほうがいいと思います。・・・どちらにしろ、かかわってくる要素なのですから( ̄∀ ̄)。

いつも前面に立つ役割が回ってくる、人から頼られてしまう、という方は、多分、上記に当てはまる方だと思います。苦労が多ければ、その分、学びや気づきも多くなりますので、無理をする必要はないけれど、出来る範囲で取り組んでみましょう。

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霊視した映像が、映る場所。

霊視した様子が、どのように見えるかというご質問をよくいただきます。

それぞれの霊視者により違うと思うのですが、私の場合は、相手のオーラがスクリーンのような役目を果たし、そこに映り込む形で見えることが多いです。

といっても、オーラをスクリーンにして、たとえばテレビを見るように見えているかというと、そういうのとも、ちょっと違います( ̄_ ̄)。説明が難しいのですが・・・、オーラに映っているのを見ているけれど、・・・実際に見えているのは、自分の後頭部の裏側?に映っているのを見ている・・・ような気もします。

実際の私の中では、この二つは全く矛盾しないのですが、言葉に置き換えると、分かったような分からないような、変な説明になってしまいますね;。

相手のオーラの状態が整っていると、とても把握しやすく、オーラがくすんでいると、(明るいオーラの人に比べると)分かりにくいこともあります。

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過去の選ばなかった道に繋がっていたはずの今を、知ることはできない。

誰でも、考えたことがあると思うのです。「もしも、あのとき、別の道を選んでいたとしたら、別の今があったかも」、と。

そして、もう、その時点に戻れないとはわかっていても、「別の道を選んでいたとしたら、今がどうなっていたかを知りたい」気持ちが、大きくなることもあるでしょう。

しかし、実際にあった過去の出来事を言い当てることが出来る力のある人でも、選択しなかった道を「もしも」選んでいたら・・・という、仮定の過去(による今の結果)についての霊査は、未来の予知以上に困難な事柄です。

なぜなら、すべての選択肢は「必然」で、行われているはずです。その時の自分の波長とカルマに見合った選択をしているはずですから、選ばなかった選択肢は、やはり、(その時の波長とカルマに見あわず)「選ばなかった」、という事実以外にないのです。

実際に歩んできた過去が、今の自分にとって「必然」なのです。(必然というのは、必ずしも最善という意味ではないかもしれません。なるべくしてなった、という意味においての、必然です)。

人生は、分岐点の繰り返し、決断や選択の積み重ねで作られていきます。これから先の人生にも、新たな分岐点と選択の場面がいくつもやってくることでしょう。もう戻れない過去を思い悩むことからなるべく離れて、これからの新たな分岐点に、意識を向けて生きていくことが大切です。

誰でも、取り返せるものなら取り返したい、やり直せるものならそうしたいと思う、過去のひとつやふたつ、胸の中にあるものです。けれど、私たちは「今」を、生きなければなりません。過去は、思い出に変えて、前を向いて行きましょう。

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2010年9月 1日 (水)

ブログを引っ越ししました( ̄m ̄*)

2か月前に、ココログから、jugemへ引っ越ししたのですが・・・、・・・、・・・、また、ココログへ戻りました( ̄w ̄*)。

以前の移転の理由は、ココログはと~っても使いやすいのですが、「過去記事が読みにくい」という、私的にたったひとつの不満点があり、その部分を解消しようと思ったためです。

が、jugemは、過去記事は読みやすいですが、日々の更新がしにくいことがわかりました;。予約投稿機能がないので・・・、毎日のブログ更新に多大な労力が取られ、寝る暇もなくなってしまいました(笑)。

で、もう一回、ココログに戻りました( ̄m ̄)。

現在、過去記事移転中です。9/1現在で、約450記事の内、半分をこちらにUPしています。

・・・ということで、どうぞよろしくお願いします。

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