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2010年8月28日 (土)

直感は、思考の放棄から生まれるものではない。

直感の定義、言葉上の解釈はいろいろあると思いますが、通常、ぱっと脳裏に閃いたものを「直感」ととらえることが多いと思います。

分析や考察以外の方法で導き出された超感覚的なものを、直感と呼ぶことが多いため、まるで思考の対極にあるものが直感・・・であるかのように、間違った理解がなされているように感じられます。

たとえば「深く真剣に考えること」と、「クヨクヨと思い悩むこと」が、同じではないように、「思考以外の方法で、直感的な感覚でひらめきが得られること」と、「思考をしないこと」もまた、同じではありません。

変にクヨクヨ考えすぎて、頭の周りのオーラが陰っている人は、直感の受け取りが鈍くなるは確かですが、上記の例えに戻りますが、「クヨクヨ悩む」ことと、「理知的な思考」とは同じではないのだから、それらをすべてひとまとめにして、思考全部を余計なもののように考えるのはおかしいです。

そういう誤った考え方しかできない人は、オーラに深みが生まれませんので(思考のパターンその他も、オーラの状態に如実に現れます)、直感のキャッチも弱いことでしょう。

余計な自己流の解釈や、不要な心配ごとから生み出されるエネルギーは、ほとんどが(本来は)不要なものであり、そういうものがないに越したことはないとはいえ、人として生きるための必要な思考と、余計な雑念との区分は、きちんとつけるべきであり、それらをすべて「思考」というひとつの言葉にまとめてしまうことに無理があります。

それらの理解のバラツキにより、ある人は「思考が大切」だといい、また別の人は「思考は不要」だというのでしょう。

過去にも何度も書きましたが、想念というのは、目には見えないけれども(優れた霊視者には可視されますが)、エネルギーとして実体をもち、作用します。

つまり、思考というのは、「創造行為」です。私たち人間の資質として備わっている創造の力を、妬みや嫉み、勝手な誤解や妄想のために活用することはなるべく慎むようにして、理性と知性に基づいた、正しい思考から生み出される、美しいエネルギーの創造者となるよう、常に向上を目指して生きていく姿勢が大切です。

一方、余計な雑念的思考は、(生み出してしまうことは、しょうがないことではありますが、本来は)不要なものです。これらは、確かに直感の伝達を遮ることの方が多いでしょうし、私たち人間に備わっている創造の力を、無駄遣いしているようなものでもあるかもしれません。

直感を得るにあたり、雑念的思考(低いエネルギーの思考)は、必要ありません。また、直感を得ている「その瞬間」もまた、思考が介入する余地がないのも確かです。

けれど、理知的な創造行為である思考は、直感への架け橋となる「その前段階のもの」であり、思考を除いたら、いつまでも直感にはたどり着けません。仮に直感を得たところで、紐解く知性がなければ、活用がなされません。

直感とは、与えられるもの、もしくは、自分の内なる部分から湧き上がってくるものであり、「思いつきのあてずっぽう」とは違います。直感を誤解して、すべての思考を放棄して、適当に決めている(としか、思えない)ような方もいますが、そんなことで霊性が高まるはずもありません。

そういう決め方でも、結果として、良い選択ができることもあるでしょう。けれど、それで「何」が得られるのでしょうか?「当たった~!」という満足感でしょうか?そんなことのために、私たちに授けられている、大きな財産である「思考という創造の力」を放棄するのでしょうか。

動物は、私たち人間のように、理性や知性に基づいた思考はあまり出来ませんが、天災を予知して避難するなどの不思議な行動を見せることがあります。この部分「だけ」を抜き出して曲解を加えれば、思考が不要に思えてしまうかもしれません。

けれど、動物の危険予知の感覚は、直感的叡智というよりは、「動物的な本能」のよるものだと思います。順番としては、 本能 → 理性・知性・思考など → 直感 のように、本能の上に、理性が位置します。理性を授かり、思考という創造行為を許されている私たちが、直感を得るためには、「理性をさらに超えたところ」に手を伸ばしていく(つまり、向上していく)必要があるのです。理性的思考を排除しても、直感は得られません。そこにあるのは、「本能」だからです。

かの有名な哲学者パスカルは、「人間は、考える葦である」という言葉を残しました。子供のころは、「いったい、何のことだ( ̄_ ̄;)」と思いましたが、私は今になって、これはとてもスピリチュアルな表現だな、と思うようになりました。

あくまで私の自己流の解釈ですが・・・、「葦」には、本来、理性・知性はありません。私たち人間の「肉体」にも、理性・知性はありません。それらを備えているのは、葦や肉体という物質ではなく、私たちの本質である「霊」の部分です。そのように、「考えることのできる霊(性)が、物質にのっている状態が、私たち人間である」、・・・みたいな解釈を私はしています。肉体に、思考という創造の力を備えた存在が人間だ、ということかな、と。

パスカルが言いたかったことは、この解釈とは違うかもしれません。それぞれ感性が違いますし、文化圏も違いますので、私という別の人間が、彼を理解しようとしても無理がありますし、解釈というのは、発言者の側には権利がなく、受け手側のパーソナルな領域で行われるものですから、これらはあくまで、私なりの、私が真理を理解し深く探求するための、ひとつの思考に過ぎません。(なので、当たっているか、そうでないかに、私はまったく興味がありませんし、もとより、他人の思考のすべてが分かるわけがありません)

しかし、いずれにしても、このようなことではないかな、と想像することひとつとっても、「思考」ができるからこそ、です。

理性というのは、私たちに授けられた「財産」だと思います。この目に見えない財産は、物質と違って、長い人生をかけて大きく育てていくことができますし、使うことでさらに活性していくこともできます。

理性に基づいた創造行為である思考は、大いに(正しい方向に)活用すべきと思います。そして、低いエネルギーを作りだすことになる、雑念的な思考は、なるべく排除していく方が望ましいでしょう。とても難しいことですが、長い時間をかけて取り組んでいくプロセスが、霊(性)の向上に直結しています。

霊が向上していけば、直感はごく自然に得られます。意図的に得ようとしなくても、得ているのが普通になります。(本能の上に位置している)理性が、ごく自然に、(さらに上に位置している)直感に入れ替わっていくのです。

その状態は、一見、思考をしていない状態に思えるかもしれませんが、理性を排除しているのではありません。直感というのは、「理性をも包括して、その上にある状態」なのです。

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08.直感、霊感、霊能力」カテゴリの記事

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