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2010年8月の20件の記事

2010年8月30日 (月)

過程を含めた、「全体の仕組み」を理解することが大切。

スピリチュアルな理解とは、物事の全体を包括して理解することです。

日常のさまざまな出来事に対して、理解を深め、活用や応用を心がけていくのは大切ですが、些細なことにとらわれてしまわないよう、バランスを考えることも必要です。

理解を深めようという意欲が、違う方向に結びついて、それほど重要ではない小さなことまで、無理矢理に関連付けて、意味付けて・・・、出口が分からないくらいに「入り込んで」しまうことのないよう、正しい理解をしていくことが大切です。

たとえば、大きな木があるとして、枝の先に小さな花が咲いているとします。花にこだわって、花だけを見てしまうと、全体の様子が視界に入らず、偏った見方になってしまうことがあります。

さらには、物事を包括して理解する、というのは、木があって、何メートル先の枝に花が咲いているという、構図をとらえることではありません。

木の成長する過程に、たくさんの出来事が関わっていて、たくさんの人の手が掛けられていて・・・、その結果として今ここに、美しい花が咲いている、という、「仕組み」を含めて全体を考えることです。

霊的な現象や、目に見えない領域のことが「花」だとしたら、花が咲くに至るまでの、成長の過程をすべて踏まえた上で、花について理解することに意義があるのであり、花だけを単独でとらえ、花だけが崇高で価値あるものかのようにとらえるのは、スピリチュアルな理解ではありません。

原因や結果だけにとどまらず、それらを含めた、「プロセス」や事象の成り立つ「仕組み」をしることにより、全体的な考え方ができ、(全体を踏まえた上での)ある特定の部分についての考察に、深みが出てくるのです。

スピリチュアルな理解というのは、ある一定の範囲までは、大きく外側に広がっていきますが、ある範囲に至ると、その後は、「深まっていく」ようになります。奥行きが出てくるのです。

深まりを知ると、今までと何一つ変わることのない日常からも、いくらでも新しい刺激や気づきをえることができます。

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2010年8月29日 (日)

資質や個性も、長い目でみれば平等。

私たちに備わっている、独自の個性や資質、物事に対する得意・不得意という適性などは、今回の人生だけで培われたものではなく、過去の人生からも引き継いでいる部分があります。

この世に生まれた瞬間から、資質が作られるわけではない以上、複数の人が、同じような経験や練習をしたとしても、開花する才能には、ある種の差がついてしまうこともあります。

たとえば、A子さんとB子さんが、二人とも歌手を目指して、10年間のレッスンをして、A子さんは資質が大きく花開き、B子さんはそうではない場合、「同じレッスンを10年も続けたのに、こんな差がでるのは不公平」と思うかもしれません。

けれど、キャリアが10年というのは、あくまで「今回の人生」において、ですよね。もしかしたら、過去の人生(前世)でも、A子さんはプロの歌手で、たましいの歴史すべてを合わせれば、100年のキャリアがあるかもしれません。

だとしたら、A子さんの(累積)100年と、B子さんの10年、というふうに比較をすれば、今回の人生おいて、実力に差がでるのも、あり得ることだと納得できます。

そして、次の人生(来世)では、もしかしたら、もうA子さんは、歌の道から離れるかもしれません。今回の人生までで、音楽に生きる道をやりきって、次はまったく別の生き方をすることもあるでしょう。

そして、B子さんは、次の人生でも引き続き歌を志すなら、今度は、B子さんがかつてのA子さんのように、前世で培った経験を活かして、歌手として花開くこともあるでしょう。

そんなB子さんを見て、こんどはC子さんが、「B子さんは、練習もしていないのに、あんなに才能があってズルイわ」なんて、思うかもしれません。

結局、長い目でみれば、皆平等なのです。それぞれ、スタート地点が違うというのに、ある時点「だけ」を切り取って比較しても、たましいの観点からは優劣はつけられないのです。あくまで、「今回の人生においては」という、暫定の比較にしかなりません。

そういう仕組みを踏まえた上で、自分を分析する指針として、他の人との比較をするならいいけれど、たましいの経験というものを踏まえない比較は、自分に大きな苦しみを与える行為だと思います。

今の自分に備わっている、得意な分野をさらに伸ばす生き方もよし、苦手な分野に挑むのもよし、いずれにしても、「自分を成長させる生き方」をするのが大切です。

そのように考えていけば、いつでも、比較対象になるのは、過去と今の自分であり、まったく別のたましいの歴史をもつ他人ではないのだとわかります。

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2010年8月28日 (土)

直感は、思考の放棄から生まれるものではない。

直感の定義、言葉上の解釈はいろいろあると思いますが、通常、ぱっと脳裏に閃いたものを「直感」ととらえることが多いと思います。

分析や考察以外の方法で導き出された超感覚的なものを、直感と呼ぶことが多いため、まるで思考の対極にあるものが直感・・・であるかのように、間違った理解がなされているように感じられます。

たとえば「深く真剣に考えること」と、「クヨクヨと思い悩むこと」が、同じではないように、「思考以外の方法で、直感的な感覚でひらめきが得られること」と、「思考をしないこと」もまた、同じではありません。

変にクヨクヨ考えすぎて、頭の周りのオーラが陰っている人は、直感の受け取りが鈍くなるは確かですが、上記の例えに戻りますが、「クヨクヨ悩む」ことと、「理知的な思考」とは同じではないのだから、それらをすべてひとまとめにして、思考全部を余計なもののように考えるのはおかしいです。

そういう誤った考え方しかできない人は、オーラに深みが生まれませんので(思考のパターンその他も、オーラの状態に如実に現れます)、直感のキャッチも弱いことでしょう。

余計な自己流の解釈や、不要な心配ごとから生み出されるエネルギーは、ほとんどが(本来は)不要なものであり、そういうものがないに越したことはないとはいえ、人として生きるための必要な思考と、余計な雑念との区分は、きちんとつけるべきであり、それらをすべて「思考」というひとつの言葉にまとめてしまうことに無理があります。

それらの理解のバラツキにより、ある人は「思考が大切」だといい、また別の人は「思考は不要」だというのでしょう。

過去にも何度も書きましたが、想念というのは、目には見えないけれども(優れた霊視者には可視されますが)、エネルギーとして実体をもち、作用します。

つまり、思考というのは、「創造行為」です。私たち人間の資質として備わっている創造の力を、妬みや嫉み、勝手な誤解や妄想のために活用することはなるべく慎むようにして、理性と知性に基づいた、正しい思考から生み出される、美しいエネルギーの創造者となるよう、常に向上を目指して生きていく姿勢が大切です。

一方、余計な雑念的思考は、(生み出してしまうことは、しょうがないことではありますが、本来は)不要なものです。これらは、確かに直感の伝達を遮ることの方が多いでしょうし、私たち人間に備わっている創造の力を、無駄遣いしているようなものでもあるかもしれません。

直感を得るにあたり、雑念的思考(低いエネルギーの思考)は、必要ありません。また、直感を得ている「その瞬間」もまた、思考が介入する余地がないのも確かです。

けれど、理知的な創造行為である思考は、直感への架け橋となる「その前段階のもの」であり、思考を除いたら、いつまでも直感にはたどり着けません。仮に直感を得たところで、紐解く知性がなければ、活用がなされません。

直感とは、与えられるもの、もしくは、自分の内なる部分から湧き上がってくるものであり、「思いつきのあてずっぽう」とは違います。直感を誤解して、すべての思考を放棄して、適当に決めている(としか、思えない)ような方もいますが、そんなことで霊性が高まるはずもありません。

そういう決め方でも、結果として、良い選択ができることもあるでしょう。けれど、それで「何」が得られるのでしょうか?「当たった~!」という満足感でしょうか?そんなことのために、私たちに授けられている、大きな財産である「思考という創造の力」を放棄するのでしょうか。

動物は、私たち人間のように、理性や知性に基づいた思考はあまり出来ませんが、天災を予知して避難するなどの不思議な行動を見せることがあります。この部分「だけ」を抜き出して曲解を加えれば、思考が不要に思えてしまうかもしれません。

けれど、動物の危険予知の感覚は、直感的叡智というよりは、「動物的な本能」のよるものだと思います。順番としては、 本能 → 理性・知性・思考など → 直感 のように、本能の上に、理性が位置します。理性を授かり、思考という創造行為を許されている私たちが、直感を得るためには、「理性をさらに超えたところ」に手を伸ばしていく(つまり、向上していく)必要があるのです。理性的思考を排除しても、直感は得られません。そこにあるのは、「本能」だからです。

かの有名な哲学者パスカルは、「人間は、考える葦である」という言葉を残しました。子供のころは、「いったい、何のことだ( ̄_ ̄;)」と思いましたが、私は今になって、これはとてもスピリチュアルな表現だな、と思うようになりました。

あくまで私の自己流の解釈ですが・・・、「葦」には、本来、理性・知性はありません。私たち人間の「肉体」にも、理性・知性はありません。それらを備えているのは、葦や肉体という物質ではなく、私たちの本質である「霊」の部分です。そのように、「考えることのできる霊(性)が、物質にのっている状態が、私たち人間である」、・・・みたいな解釈を私はしています。肉体に、思考という創造の力を備えた存在が人間だ、ということかな、と。

パスカルが言いたかったことは、この解釈とは違うかもしれません。それぞれ感性が違いますし、文化圏も違いますので、私という別の人間が、彼を理解しようとしても無理がありますし、解釈というのは、発言者の側には権利がなく、受け手側のパーソナルな領域で行われるものですから、これらはあくまで、私なりの、私が真理を理解し深く探求するための、ひとつの思考に過ぎません。(なので、当たっているか、そうでないかに、私はまったく興味がありませんし、もとより、他人の思考のすべてが分かるわけがありません)

しかし、いずれにしても、このようなことではないかな、と想像することひとつとっても、「思考」ができるからこそ、です。

理性というのは、私たちに授けられた「財産」だと思います。この目に見えない財産は、物質と違って、長い人生をかけて大きく育てていくことができますし、使うことでさらに活性していくこともできます。

理性に基づいた創造行為である思考は、大いに(正しい方向に)活用すべきと思います。そして、低いエネルギーを作りだすことになる、雑念的な思考は、なるべく排除していく方が望ましいでしょう。とても難しいことですが、長い時間をかけて取り組んでいくプロセスが、霊(性)の向上に直結しています。

霊が向上していけば、直感はごく自然に得られます。意図的に得ようとしなくても、得ているのが普通になります。(本能の上に位置している)理性が、ごく自然に、(さらに上に位置している)直感に入れ替わっていくのです。

その状態は、一見、思考をしていない状態に思えるかもしれませんが、理性を排除しているのではありません。直感というのは、「理性をも包括して、その上にある状態」なのです。

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2010年8月22日 (日)

シンボリックな透視は、その透視者「独自」のもの。

透視・霊視の際に、「そのものズバリ」を見るのではなく、シンボリックな画像で、イメージが伝えられることがあります。

例えば、「ヒマワリの花が見えたら、明るい性格の人」だとか、そういう感じのものですね。

「そのもの」が映っているわけではないので、その画像と、意味の、「関連付け」が必要となります。

ある特定の人だけではなく、そのシンボリックな画像が複数の人に対して見えて、そして共通点があるならば、そこに「特定の意味」が見出されます。

この時、解釈で注意しなければならないのは、そのシンボリックな画像と意味の関連は、「透視者独自のもの」であり、すべての透視者に共通するものではない、という点です。

上記の例で言えば、「ヒマワリが見えたら、明るい性格」というのは、(例えば)私の独自の見え方、把握の仕方であり、他の人には、同じようには見えないでしょうし、関連付けの意味するところも違うのが普通です。

あくまで例え話であり、私は、ヒマワリは見えませんが(笑)。

これらの関連付け、約束事は、ガイドスピリットから伝えられるか、もしくは作り上げていくかして、把握していかなければなりません。

「そのものズバリ」の透視は、それだけの透視力を磨くのがとても大変ですが、シンボリックな遠まわし透視は、関連付けを構築していくまでが大変で・・・、どちらにしても、とても難しいことです。

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2010年8月19日 (木)

自分を満たすための、少しの出費は必要経費だと考える。

毎日をイキイキと過ごすために、心が満たされる楽しい行動をすることも、気分転換も、どちらも大切だとは分かっていても、なかなか実行できないこともあると思います。

心が満たされるのは、自分の意識と気持ちの問題ですから、本来はお金をかけずに行える物だと言えますが、この物質社会においては、多少のお金をかけていく事柄のほうが、それらを手っ取り早く経験出来ることが多いのは確かです。

温泉に行ったり、エステにいったり、髪型を変えたり、新しい洋服を購入したり・・・、女性は特に、そのような行動が気分転換に直結することもあるでしょう。

ほんの数千円くらいで、気分転換ができて、明日を生きる活力になると考えれば、その出費も高いものではないと思います。自分が満たされていてこそ、外側に活力があふれだすようになっていくものでもありますから。

けれど、今は世の中全体が不景気です。そして、迷いを抱えて苦しんでいる方は、気持ちの問題とともに、現実面で金銭面でも困っている場合も多いものです。気分転換への、数千円の出費が、現時点では難しいという人も、中にはいらっしゃることでしょう。

すべての物事は「必然」ですから、自分に必要な物事や機会が巡ってくるようになっているものです。

気分転換のための、少しのお金も自由にならない現状があるとするならば、「あなたが、今しなければならないことは、(気分転換以外に)別にある」という事実を、教えてくれているのです。

「今やらなければいけないことに、集中していきなさい」と、金銭事情を含めた、周囲の出来事が、教えてくれていると、考えていけばいいと思います。

それに、先にも書いたとおり、この世の中では、何をするにしても、多少のお金をかけていくことが手っ取り早いものではありますが、お金がなければ行動できないわけではありません。私たちの感情や思考は物質ではありませんから、物質を伴わない形でも満たされることは可能です。

公共の施設もたくさんありますし、ときには、周囲の方達の愛情や親切心にお世話になって、「満たしてもらう」ことをお願いしてもいいでしょう。お互い様なのだから、そういうときには、甘えてもいいと思います。

何らかの形で、心を満たす楽しみや緩みに繋がる要素を、取り入れていくことは大切だと思います。今出来る範囲で、満たされるための方法を考えてみてください。

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2010年8月17日 (火)

器から溢れるくらいに、インプットをしてみる。

自分が何をしたらいいのか分からない、という方は多いです。

「行動をする」というのは、「手段」です。何をしたらいのか分からない、という方の多くは、多分、手段が分からないのではなく、「目的」が分からないので・・・、(目的に沿った)手段も見えてこない、ということです。

「何を・・・」と、とても漠然とした思考でとどまっていては、その場所から動き出すのも難しくなります。「何」というのは、目的についてのか、手段についてなのか、と分析してみるだけでも、見えてくる部分があるはずです。

ここで言う「目的」を、それほど詳細に設定する必要はありません。詳細まで決められるくらいの人は、「自分が、何をしたらいいのか」という疑問を、そもそも抱くことがありません。自力でどんどん決めて、失敗しながらも、動いていくものだからです。

つまり、この手の問題を抱えてしまう方は、(あくまで現時点では、という意味ですが)自分だけで思考する中で、具体的に詳細までも決定して動いていくことは難しいのです。

その段階では、むしろ、「枠組みを決めすぎないほうが、得策」となる場合も多いです。なぜなら、自分がしたいこともよくわからない状態で、苦し紛れに手にした目的は、まったく自分の資質に沿わないものを選んでしまう可能性も高くなるためです。

ここでお伝えするのは、あくまで「何をしたらいのか、分からない」という方に向けたものであり、万人に有意義な取り組み方ではありませんので、その点を踏まえてご理解ください。

「目的」を設定すれば、何もわからない状態よりは、少しはすべきことが見えてきます。その際の大枠の目的というのは、「インプットのため」か、「アウトプットのため」か、という点です。

このような場合のほとんどは、インプットが足りていない、経験不足であることが多いです。たくさんの経験をして、自分という器を満たしていくことが必要です。まず、どんなことでもいいので、経験を重ねて、・・・それは知識を得ることなども含めてですが、「インプットを目的」にしてみてください。

コップに水を注ぎ続ければ、いつしか、外側にあふれ出していきます。そうすると、水が流れ出す勢いにのって、アウトプットがごく自然にできていくようになります。

もしも、そうならない場合、いつまでインプットしても、器からあふれ出すようにならないときは、「インプットしている要素の質が、器にあっていない」のだと考えてください。風船に空気を入れるのはよいけれど、コップに空気を入れても、まるで手ごたえはなく、いつまでも外にあふれていく実感が持てません。コップという器ならば、やはりふさわしいのは空気よりも液体ですよね。

自分の器に見合ったものをインプットすることが最終的には大切ですが、そこまで考えすぎてロスを恐れると、動きだすことができませんので、まずは、「インプットをしてみる」という大きな枠の目的をもって、考えてみてください。

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2010年8月16日 (月)

会話の内容から、目的と手段の区別をする。

仕事の場面でも、プライベートでも、人間関係をうまく作り上げていくには、意思疎通のための「会話力」が大切です。その際、相手が何を求めているか、という観点から、「相手のニーズを読む」ことが大切である、という点を過去にも繰り返し書いてきました。

相手が、「○○をして下さい」と言ったとしても、「○○を丁寧にしてほしい」のか、「○○を短時間でしてほしいのか」、もちろんどちらの条件も満たされていればベストでしょうけれど、「どちらかといえば、要求度が高い要素は、丁寧さなのか短時間なのか」を、考えながら対処していけば、好印象を得ることができます。

会話の中で、特に触れられていない「行間」のようなものを読み取る感性が大切です。たとえ、実際には読み取れなくても、「そうしようという姿勢」が見えれば、相手の満足に繋がる場合もあります。

さらには、会話の中で、相手が告げたことが、「目的」なのか「手段」なのかを見極めることも、ポイントのひとつです。

例えば、「窓を開けてください」と言われたとします。「窓を開けるという行為」は、目的でしょうか、それとも手段でしょうか。

普通は、窓を開けることで、お部屋の空気の入れ替えをしたいという目的があって、窓を開ける行為は、空気の入れ替えのための手段、だと考えられます。だとしたら、たとえば、一か所の窓を開けても、あまり風が通らなければ、もう一か所開けて、風の通り道を作ることで、目的が果たせます。

これを、たんに言われたとおりに、「窓を開ける」だけにとどまり、(風を通すという)目的を果たすことに考えが及ばなければ、「この人は、あまり気が利く人ではないなぁ」と思われてしまうこともあるでしょう。

それだけにとどまらず、相手に「もう一か所開けて」と追加いで指示されて、「だったら、最初から2か所って言って下されば、まとめて行動できるのよ」なんて、一見、相手の要領の悪さを指摘したつもりでも、・・・実際に、分かっていないのは、どちらなのか、という話にもなってしまいますので、気をつけなければなりません。

この例でいえば、窓を開けてと言われる前に、「今日は暑いね~」とか、「部屋の中が、埃っぽいね」とかの、前フリの会話があるはずなのです。そういうことから考え合わせれば、窓を開ける行為が、目的なのか手段なのかが、分かりますよね。

指示の際に、「空気の入れ替えをしたいから、窓を開けてください。一か所で風が通らなければ、二か所開けてください」と、一から十まで伝えてくれることは、大人同士の会話では、普通はあり得ないと思います。

どこまで省略していいかという点はさておき、「だいたい、このくらいで分かるだろう」という認識のもとで会話がなされているものですから、言ったor言わない、の話ではなく、「相手は、何を求めているのか」、相手の指示は、「目的」を伝えているのか、「手段」を伝えているのかを、大人の感性で理解しながら、コミュニケーションをとっていくことが大切です。

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カルマの法則は、同じ対象を通して作用するとは限らない。

「カルマの法則」とは、自分のしたことは、良くも悪くも、すべて自分に返ってくる、という、真理の法則です。

善意には善意が返ってきて、悪意には悪意が、もれなく返ってくる仕組みになっています。・・・と書くと、怖いことのように思えるかもしれませんが、自分が気をつければいいだけなのですから、むしろありがたい仕組みです。他人の悪意が、ランダムに自分に降りかかる方が、よっぽど怖いし(笑)、理不尽です( ̄m ̄)。

このカルマの返り方は、同じ相手からもたらされるとは限りません。同じ相手から返ってくることもあるけれど、違う相手を通して返ってくることもあります。

A子さんにした親切が、A子さん本人から返ってくる場合もあれば、まったく別のB子さんから返ってくることもあるのです。どちらにしても、必ず、どこかで プラス/マイナス の帳尻が合うようになっています。

たとえばA子さんに親切にしたのに、A子さんがまったく感謝のそぶりも見せず、お礼も言われず、何もお返しがない場合には、「私が、あんなにしてあげたのに・・・。なんて常識のない人だろう」と、A子さんに対して悪感情を持つと思います。

しかし、「同じ相手から、返ってくるとは限らないが、必ずどこかから返ってきて、帳尻はあう」のだから、こだわり過ぎないことが大切です。

相手から何かをしてもらっても、感謝もせず、それが当然だと思っているような人には、いつか「傲慢さというカルマ」がA子さんに返ってきて、学ばされることになります。それは、相手の領域であり、自分が気にすることではないわけです。

それよりも、「私が、あんなにしてあげたのに・・・」と、相手がお返しをしてくれないことに不満を抱いて、相手を恨むというカルマを作り出してしまうことの方が問題です。その悪意も、いつか自分に返ってきます。A子さんにしてあげたことのよいカルマとは別口で、A子さんを恨んだカルマも返ってきてしまいます;。

ひとつひとつの出来事「だけ」を、単体で考えるから、「私がしたのに、相手がしてくれない」という、不満が生じます。けれど、長いスパンで考えれば、自分がしたことは、いつか誰かが返してくれるし、また、A子さんの取った行動は、自分が大昔に、まったく別のD子さんにした行為のカルマが返ってきているのかもしれません。

人は、自分が善意でしてあげたことは大きくとらえ、他人が自分にしてくれた善意は忘れがちになるものですから、実は自分も過去にしたことを忘れていたり、もしくはあまり「してもらった感覚がない」状態になっていたりで、結局、自分が誰かにしたことが、このたびA子さんを通して、返ってきて、「学ばされた」だけかもしれません。

なので、あまり、他人の言動のひとつひとつをとらえて、怒ったり、文句を言ったりしないほうがいいですよね。自分が過去にしたことが返ってきているのだとしたら、他人に怒っているのは恥ずかしいですし、自分が怒りを持つことで、また、自分が引き受けなければならない学びを増やすようなものでもあるからです。

一番いいのは、「親切にするのは、それが人として当然のことだから。お互い様だから」という意識で生きていくことです。「してあげたのに、してくれない」のが不満というのは、見返りを期待しているからこそ起こる不満です。見返りがくるとかこないとかを超越して、「親切さが自然」になっていけたら最高だと思います。

そうは言っても、私たち人間は未熟な存在ですから、その場の感情が優先して、親切を無視されたら不愉快な気持ちになってしまうものです。そんなときにこそ、スピリチュアリズム、カルマの法則という真理が、私たちを感情の渦にとらわれることから救ってくれます。「これも学びだ」「必ず、別のところから返ってくるはずだ」と思うことから、心の平安を取り戻すことができます。

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2010年8月15日 (日)

天職と適職を重ね合わせて、「失敗」した場合には。

一般に、生活する手段としての「適職」と、自分のたましいが満たされる仕事である「天職」は、分けて考えたほうがいい(ひとつにせずに、両立させていくほうがいい)とされています。

好きなことを仕事にできたら幸せだと単純に考えてしまうと、失敗するケースが多いのです。なぜなら、いくら好きな分野のことであっても、「仕事」となれば、我慢しなければならない要素も出てきて、夢いっぱいの状況にはなりにくいからです。

けれど、一日の大部分を占める「仕事」の時間を、嫌なことをするよりは、好きなことに関わって、ストレスを少なくしたいと考える方は多く(・・・けれど、結果は、そうはならないのですが;)、好きなことを、生活の手段である適職にしてしまう方は多いです。

好きなことで生活するのが悪い、という意味ではないのです。それでご自分がストレスなく、生活が成り立っていくのなら、問題ありません。

ここでは、適職に不満がでて、自分の楽しみを得られる(はず)の仕事に転職したけれど、以前よりも余計に上手くいかなくなってしまった、天職と適職を重ね合わせて、失敗した、と思っている方に向けて書かせていただきます。

ではそういう場合にどうしたらよいのか、という点については、以下の二つが考えられます。

 1、別の「適職」を見つけていく (さらに転職する)。

 2、別の「天職」を見つけていく (転職は、しない)。

1の、別の適職を見つけていく、というのは、重ねてしまって失敗した天職と適職を分けるために、もう一度転職をして、自分の生活の手段に適した仕事につく、という方法です。

具体的には、たとえば、「以前は看護師だったが、待遇に不満があり、以前から興味があった自営を始めたが、まったくうまくいかず、収入もついてこなくなってしまった」などの場合、自営をやめて、もう一度、看護師に戻るという選択です。自営したかった、「好きなこと」は、これからも趣味で関わるなり、副業的に行っていく等の工夫をして、生活のための金銭は別のところで得ていくという考え方ですね。

2の、別の天職を見つけていく、というのは、重ねてしまった失敗した天職と適職を分けるために、今の仕事に楽しみを求めず、「さらに別の天職を、別のところで見つけていく」という方法です。

たとえば、「以前は、一般事務職だったが、人を助ける仕事がしたいと介護職に転職したけれど、思っていたのとは別の世界でストレスになっている」などの場合に、今の介護職に理想を追い求め過ぎず、そこは仕事だと割り切って、自分が理想とする形の人助けは、仕事とは別のところでその機会を得ていく、という考え方です。

1の方法だと、何度も転職を重ねることになってしまいますので・・・、2の方が現実的な解決方法と言えるかもしれません。

状況やその人の性質、適性なども関係してきますから、どちらがいいかについては万人に当てはまる正解はありませんが、思いつきや、逃避で、「楽だから」とか「楽しそう♪」などと甘い考えで転職すると、カルマの法則により、「甘えを正される」という学びが与えられてしまうものだと思います。

ですから、できれば、転職を考える前に、様々な観点から自分を見つめ直し、「仕事に何を求めるのか」についての考察をしておくのが望ましいのですが、・・・とはいえ、すでに「天職を生活の手段にしようと、転職をしてしまって」かつ、「それが失敗してしまった」という場合には( ̄∀ ̄;)、現実的に「その先(の改善)」を考えていかなければなりません。

次に活かすために、反省をするのはよいですが、「こんなはずではなかった」と、過去を悔やみ続けても、時間をまきもどすこともできません。自分の人生に自分が責任を持つという意欲を忘れることなく、「では、この先、どのようにしていくか」という前向きな視点で、「天職」と「適職」の在り方を考えてみてください。

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2010年8月13日 (金)

依存的な人のオーラ。

依存心が強い人のオーラには、特徴があります。色や形状などではなくて、「オーラの動き」や「状態(の変化)」として、見て取れます。

元々の性格がおとなしくて内向的なタイプの方は、勢いや色の出方が強くなく、全体的に薄い色合いをしています。自主性もそれほど強くはないけれど、依存心も強くはない(本当に内向的な人は、そういうタイプが多いです)ので、押し出しが強くない、「控えめなオーラ」をしていることが多いです。

依存心が強いタイプの方は、上記とは違って、オーラには勢いがある場合が多いのです。表面的な態度は控えめであっても、それは、「(自分では動きたくないけれど)誰かに何かを、してもらいたい」気持ちはとても「強い」ので、その強さがオーラの状態に現れます。

前者の、おとなしくて、自主性も強くはないけれど、依存心も強くはないタイプの方は、オーラの色や勢いの放ち方が弱いとはいえ、ある意味、バランスは取れているとも言えます。

後者の、依存心が強いタイプの方は、オーラのバランスは、良いとは言えない状態です。思い通りにならない不満を常に抱えていて、それを、自力ではなく「他人に何とかしてもらいたい」という気持ちが強いので、「自己完結」にならないので・・・、オーラの状態も、相手への働きかけが、(それはあくまでオーラレベルでの話ですが)過剰になります。

会話をしていて、たとえば、私が、その方の意思に沿った内容を口にすると、オーラの一部が、まるで手が伸びてくるかのように、こちらに向かってきて、「賛同を求めるかのような」動きを見せることがあります。・・・この書き方は、ちょっと極端ですけどね;。分かりやすいように文章化していますので、そのつもりでご理解ください。

逆に、私の話すことが、自分にとって都合の悪いことや、触れられなくない部分(たとえば、自分が自主性を発揮しなければならない事など)に及ぶと、今度は、私の視界を遮るかのように、オーラにくもりを作ります。もちろん、本人が意図的にそうしようと、オーラを動かしているわけではないです。オーラは、感情その他を反映しますから、そういう動きを見せることも普通にあります。

そうやって、オーラを大きく動かす(ことができる)というのは、オーラの勢いが強いゆえ、です。相手の反応に合わせて、オーラが大きく動くというのは、それだけ、自分の感情の上下や変化も激しいわけで、かなり消耗もするものと思われます。それでますます、自主的に行動する気持ちが薄れるという悪循環なのかもしれません。

相手が自分の意に沿う発言をしてくれる場合には、びっくりするくらいに下手に出たり迎合したりして、逆に相手の反応が自分の依存心を満たしてくれないものであれば、容赦なく、攻撃的になったりします。その様子を傍から見れば、かなり「エキセントリックな人」だと、思われてしまうこともあるでしょう。

また、オーラが自己完結せずに、相手の反応を求めてあちこち動いて干渉してきますので、相手の人も、(自分のオーラを動かされて)疲れてしまいます。何度もそういう状態が続けば、「あの人と一緒にいると、とても疲れる」と認識されて、遠ざかってしまうこともあると思います。

だから、結局、人間関係全般がうまくいかないのです。このタイプの方は、自分を内向的だと思っている(もしくは、思いたい、のかも)傾向があり、けれど周囲の方から、そういう評価を得られていないことにもまた不満が募ります。内向的であることにしたい理由は、そうすることで、他人に手をかけてもらいたい、依存したい気持ちゆえ、だと思います。

依存の気持ちが全くない人はいませんし、一人で生きていくことも不可能ですから、お互いに手を貸しあっていくことは必要であり大切です。けれど、依存の気持ちが大きくなりすぎると、人間関係から安らぎをえることができません。そして、その状態を作り出しているのは、思い通りにならない環境や相手のせいではなく、「自分(の過剰な依存心)」である、という点に、気づくことが必要です。

せっかくの勢いのある強いエネルギーは、正しい方向に活かしていくべきだと思います。自分で自分を助けていければ、または、人のために自分が何かをしようと思えば、相手の反応ありきにならないので、いつでも落ち着いた平穏な気持ちでいることもできるでしょう。

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2010年8月12日 (木)

自分が見ている相手の姿には、思い込みが投影される。

家の近くで、よく見かける猫がいます。青い目をしていて、毛並みもよく、太っているので、どこかのお宅の飼い猫であることは確かです。いつも同じ場所で、お昼寝をしています。雨の日以外は、ほぼ毎日見かけます。

私は、心の中で、その猫を「カトリーヌ」と名付けていました(笑)。なんとなく、青い目が、外人さん風に思えたので。

カトリーヌは、外見は美猫ですが、性格的には、あまり可愛げがあるタイプではありません。が、毎日のように同じ場所で寝ているので、「今日も、カトリーヌが来てるな」、「今日は雨だから、来ていない」と、つい気になって確認してしまいます。

ある日、年配の女性が、カトリーヌを迎えにきていて、「おいで、シロちゃん」と、呼びかけているのを耳にしました。カトリーヌの本名は、「シロ」でした。・・・カトリーヌは、白くないし・・・っていうか、それ、犬の名前じゃ?と、思ったことや、それなら、むしろ黒い猫の名前がミケのほうが、まだ猫っぽい、と思ったことはさておき;、あの猫の名前が「シロ」であることが判明しました。

私は、カトリーヌと呼んでいたあの猫が、実際には「カトリーヌではない」ことを、最初から知っています。ですから、シロという名前を知ったところで、「あら、そうなの」としか、思いませんでした。ネーミングセンスには、ひとこと言いたい気持ちはあるものの;、私からすれば、「私が、一方的に見ていた猫」ですから、私が見ていた姿とは別の、あの猫の世界があるのは当然です。

ここからが本題になりますが、人間関係で、「あの人にだまされた!」とか、「あんな人だと、思わなかった!」などと、相手を責めたくなるトラブルの多くは、相手に自分の思い込みや願望を投影して、「相手を、自分の思った通りの人物に違いない」と、決めつけていることから、生じているように思えます。

自分の思いは自分の領域のもの(相手には無関係)であり、自分の感性というバイアスもかかりますから相手のすべてを把握しているとは限らないのに、自分の思った通りではない相手が悪い、というのは、まるで、あの猫をカトリーヌだと思いこむようなもの、だと思います。シロという名前が判明したところで、大ショックを受けて、「ひどい!カトリーヌだと思っていたのに!」と、あまりに理不尽な文句をつけているのと同じにならないでしょうか。

特に、相手に好意を抱いている場合は、自分の目がくもってしまうこともありますし、もしくは、本当の姿を知っていても、自分が思い込みたいように、わざと曲解して、自分をごまかしてしまうこともあると思います。例えば、飼い主が「シロ」と呼んでいる場面を見たのに、「あの女性は、私と同じように、あの猫に適当な名前をつけて呼んでいるだけよね、きっと」などと(笑)、とても無理矢理な解釈をして、決定的な事実から目をそらそうとしたり・・・。

自分が見ている相手の姿とその評価は、あくまで「自分がそう見ている」だけであり、相手そのものではない可能性も高いのです。自分が掛けている眼鏡が黄色いために、相手が黄色く見えてしまうこともありますし、黄色だと思いたい場合もありますから、何でも相手のせいにすることなく、よくよく自分自身を省みることが大切だと思います。

それぞれ言い分があるでしょうし、ものを言わない猫と違い、人間の場合には、相手の側も大きく見せたり偽ったりするケースもあるかもしれませんが、それでも、たとえば飼い主が「シロ」と呼んでいる場面をみたら、もう「シロ」だと認めるしかないですし、そこを怒りにまかせて、「カトリーヌじゃないんですか!」なんて、怒りをぶつけるような真似は、大人の取るべき態度ではないように思います。

いろいろなケースがありますから、一概にはまとめられませんが・・・、自分の過剰な思い込みが原因であっても、相手が偽っていたとしても、どちらにしても「自分の見込み違い」が明白になった時点で、事実を受け入れるという姿勢が大切だと思います。

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2010年8月10日 (火)

相手が「何を伝えたいか」を把握することで、適切な対応ができる。

特に引っ込み思案でもなく、無口でもないのに、人との会話がうまくいかない、誤解されてしまって伝わらないなどの問題は、そのほとんどが「相手のニーズを把握することができていない」ために、すれ違いが起こっています。

「相手が、何を言いたいか(何を自分に聞きたいか)を、把握する」というのは、出来る人にとっては当たり前すぎることであっても、この点が苦手な人にとっては、それがどういうことなのか、自分ができていないかどうかもよくわからないものです。

これは、理屈よりも、実際に「体感」していただく方が早いので、私は、この手の悩みを抱えている方には、「実践」して、納得していただくことにしています。

具体的には、ご自分が苦手としている状況を想定して、会話の練習をします。たとえば、上司との関係がうまくいかないケースでは、「上司から部下へ、仕事の指示をする」という簡単な状況設定をして、3分間会話を続けます。求職中の方には、採用試験の面接の場面にすることもあります。

この際、ご相談者さまには、「相手の役」をやっていただきます。つまり、「上司の役」だったり「面接官の役」だったり。

その理由は、「相手が、何のためにその発言をするのか」を、自分が同じ立場になって発言することで、理解できるようになるからです。

自分が指示される役を練習しても、(上手な受け答ができるようにはなるかもしれませんが)、相手のニーズを知るという目的は果たせません。相手側の役をやってみることで、相手の発言の真意はどこにあるのか、つまり、過去の自分は、どの部分を満たしていない対応をしていたのか、という点を、自分で認識していただくためです。

そうすると、ほとんどの方が、自分の会話の癖、習慣に気づきます。その7割以上が、同じ理由に行き当たります。それは、「相手が聞いている質問に答えているつもりでも、実は、「自分が言いたいこと」を、話している(ので、相手からすれば、若干、回答のポイントがずれている)」という点です。

この点に気づくと、自分の対応の仕方が代わるので、相手との関係も変わってきます。思い込みは自分を苦しめ、気づきは自分を助けるとわかります。

相手のニーズを知るというのは、相手の言うことをすべて受け入れることとは違います。相手の主張が間違っていて、自分の意見が正しい場合もありますよね。そういう場合は、ノーを伝えなければならないこともあるでしょう。けれど、その場合でも、「相手が、何の目的でそうしたいのか」を、多少なりとも理解しなければ、「適切なノーの伝え方」ができず、いらぬトラブルになる場合もあります。

正しい主張をしているのに、怒られてしまう場合なども、(相手の意図がつかめていないために)聞かれていることと、答えが一致していないため、という可能性もあります。相手が「リンゴはいくつある?」と聞いているのに、「青いリンゴも、いくつかありました」と答えても、事実としては間違っていなくても、相手が知りたいことの答えにならない場合もありますよね。

このあたりも、本当に微妙なズレを修正していくことで、対話がスムーズになっていきます。何をどう改善すればいいのかが分かれば、そのための対応策もとりやすいものです。

実際に練習ができればいいのですが、それが難しい環境の場合は、「他人同士の会話」を横で聞いていて、「もしも、自分だったら」と、置き換えていくのもいいと思います。

「相手のニーズを知るには、相手の立場を演じてみる」こと、これは、とても有効な方法の一つだと感じます。

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2010年8月 8日 (日)

本来の手順を省くのは、オーバーペースを防ぐため。

どんなことも、経験を重ねて上手になっていけば、本来の手順の一部をスキップすることが可能になっていくものです。コツが分かるので、「抜きどころ」が見つかっていくためです。

その段階に至るには、地道に努力と経験を積み重ねて、そのことに対する上級者、熟練者になっていくことが必要です。まだ基礎もできていない、とりかかってもないうちから、どうすれば要領よくやれるだろうか、と考えすぎても、求めている答えが見つかることはないでしょう。

そして、実際には、一部の手順を省くことが可能となっている上級者ほど、基礎の大切さがわかるので、きちんとした本来の手順を大切に考えるものです。

インスタントな経験からは、インスタントな結果しか手に入りません。

結果だけを重視するのは、とても物質的で現世的な考え方です。けれど、私たちは、この物質社会で生きている以上、物質的な事柄を切り離されることはできませんし、物質の中に霊(性)を見いだすことが、「霊的」ですから、結果を求めることも、結果を目標にするのも、当然と言えば当然のことなのです。

ただ、その目的が、結果「だけ」になったら偏ってしまう、という意味であり、物質的な結果を排除するのが素晴らしいのではありません。過剰になったらよくないとはいえ、全部を排除するような考え方もまた極端すぎます。私たちは、この世の中で、物質的な出来事を通して、霊性を学ぶ経験をしているのですから、どちらも同じように必要だと受け止め、バランスを考えていくことが大切です。

私たちは、この物質の世の中で、物質の結果を求めて前に進んでいくけれど、その過程や動機という、目には見えない部分の積み重ねや学びを、同時進行で行っていき、人として大きくなっていくことができます。そして、霊としての学びの本質は、むしろ後者のほうにある、という仕組みです。

そのことを知っているからこそ、(抜きどころや、コツが分かる)上級者になれます。そして、上級者ほど、基礎の大切さを知っているので、実際には、やるべきことを省いたりはしないものなのです。プロのスポーツ選手などでも、本当に上手な人ほど、誰よりも練習熱心で知られているものではないでしょうか。

結局、手順をスキップするコツや、力の抜きどころというのは、自分が一生懸命になりすぎて、オーバーペースになるのを防ぐために必要な概念であって、横着をするためのものではありません。

「プロセスにこそ、私たちを成長させてくれる、大切なものがある」という、霊としての成長の仕組みを理解すれば、今自分がするべきことを、地道にやっていくしかないのだ、ということが分かります。

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2010年8月 7日 (土)

男性は、弱音を「言わないし、言えない」もの。

女性は、自分の悩みごとを、人に話すことや相談することに(もちろん、女性の全員が当てはまるわけではありませんが)、あまり抵抗がない人も多いのですが、男性は逆に、大部分の人が抵抗を感じるものだと思います。

男の人は、「外に出ると、七人の敵がいる」という諺もあるように、どこかお互いがライバル、というような感じをもっていたり、実際、世の中で社会活動をしていくのは本当に大変なことですから、プレッシャーもあり、そしてプライドもあり、なかなか弱音(本音)を吐けないものです。

女性は、人間関係において「横のつながり」を重視する傾向があり、男性は、「縦の序列」で考えます。責任感が強い人ほど、奥様にも付き合っている相手にも、「自分がリーダーシップを取らなければならない立場なのに」という意識があるので、弱音は言いにくいものだと思います。

最近は、毎日のように、仕事のストレス等から、自らの命を絶つなどの痛ましい事件が、新聞やニュースで報じられます。

これらを見たときに「こうなる前に、誰かに相談できなかったものだろうか」という意見を持つのは、女性が多いです。

男性の場合は、「誰かに相談すべきだったかもしれないけれど、でも、・・・実際、なかなか言えないよね」という感想を持つ方も多いです。多分、そういう感想を持っていることすら、他の人に話したりはしないのが多くの男性の姿だと思います。

上記の例え話は、とっても極端なものではありますが・・・、男性は、どんなに繊細でおとなしいタイプでも、責任感やプライドがある故のプレッシャーと、日々戦っているものです。そして、自分の中に、いろんな苦しみを抱え込んでいるものでもあります。

「こうあらねば」という理想があるから、そして、世の中や会社という序列からはみ出すと、組織でやっていけないという気持ちもあるので、自ら、立場を下げるような、弱音を吐いて相談するという行為は、男性にとっては厳しいものであるは確かなのです。私を含めた、女性にとっては、そういう男性のデリケートな部分は、理解が難しいものですが・・・。

奥様から、ご主人さまのお仕事が不安だけれど、彼が何も言わないものだから・・・、というご相談をいただく機会も多いのですが、人により個性の差はありますが、一般的には、男性は女性のようには「言えない」し、「言わない」ものなので、その点を理解なさった上で、お話合いをしたほうがいいですね。

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2010年8月 6日 (金)

ガイドスピリットの働きかけと、私たちの自主性との関係。

スピリチュアルな感覚を磨きたい、感じ取る力を伸ばしたいというご相談をいただくことがしばしばあります。私たち人間は、(肉体を伴っている)霊的な存在ですから、誰もが広い意味での霊感を備えていますから、その人の持っている要素を磨くことは可能です。

けれど、感性が磨かれた状態であることと、何かが見える聞こえるという、霊視力や霊聴力が身につくことは、必ずしも同じではありません。

さらに、霊視や霊聴というものを、拡大解釈なさっている方が多いと感じます。「そういう力があれば、ガイドスピリットから逐一、自分へのアドバイスを、分かりやすく得られる」、かのように。そしてそれを、「いいこと」だと思っている傾向が見られます。

霊的な世界からの働きかけというのは、「必要があるときに」そして、「その人の、内的なひらめきや、インスピレーションを通して」伝えられるものであって、私たち人間が望むことすべてに、いちいち詳細に答えてくれるわけではありません。ガイドスピリットはお世話係ではありませんので、そういう要望にこたえてはくれません。

ですから、仮に、霊視や霊聴が可能になろうとも、我欲を満たす目的での、必要以上の働きかけを期待することはできませんし、むしろ、そういう横着な願望という想念が、ご自身のオーラの中に、特有のくもりを生み出し・・・、インスピレーションの伝達を遮り、望んでいることと逆の結果を、わざわざ招いていることになります。

ガイドスピリットは、私たちが「霊的に成長すること」を望んでいるのであって、その目的のためなら、ときに奇跡的な働きかけをしてくれることもありますが、決して、私たちに楽に得をして、面白おかしく過ごしていくことを望んでいるわけではない以上、横着を増長させるような働きかけをするはずがありません。

霊的な観点からすれば、本人の自主性を尊重することも、「愛」だからです。

ガイドスピリットからの、(好奇心を満たすためではなく、自分の成長に必要な)サポートを望むのであれば、・・・それは、先にも書いたとおり、通常、霊視力や霊聴力によるものではなく、インスピレーションや実際の出来事を通して与えられるものですが、「自分という器を大きくすること」がまずは大切です。人格を成長させていくことが、そのまま受信機を大きくすることに繋がります。

さらには、伝達力を磨くことも大切です。くもりのないクリアな状態になっていることがベストです。ネガティブな感情や思考は、伝達力を妨げます。伝達力とは、何かを加えたりすることではなく、不要なものをいかに取り除いて、真っ白な状態になれるかが大切です。

誰でも、意識しようとしまいと、どんな瞬間にも、ガイドスピリットから見守られているのですが、今以上の霊的な関わりを持ちたい、インスピレーションを受け、さらに成長していきたいと思うのならば、「それに値する自分になる」ことが大切です。

つまり、「霊的な働きかけが、たくさん得られる自分になっていく」ことと、「自主性が身に付き、霊的な働きかけに、依存しなくなる自分になっていく」ことは、「同じ」です。逆のようですが、同じなのです。

なぜなら、ガイドスピリットというのは、その人ととても縁が深い存在であり、ある意味、「自分と同じようなもの」でもあり・・・、自分とまったく切り離された別個の存在ではないからです。それと同じで、ガイドスピリットの働きかけが大いに作用することと、自分自身の霊性が発揮されることも、別個の作用ではない、ということです。

そう考えれば、霊視霊聴を身につけて、ガイドスピリットと「会話」することで、何かを得よう、という解釈の仕方は、ちょっとずれていると分かると思います。

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2010年8月 5日 (木)

手放せない「夢」に対する考え方。

人は常に成長している存在です。成長とは変化でもありますから、過去に目指していたことと別の方向に進むことになったり、別のものを好むようになったりすることもあります。

それらの変化が、自分自身の納得を伴っていればいいのですが、そうではない場合もあります。

自分をとりまく状況からして、昔の夢を持ち続けるわけにはいかない、他の道を進まなければという現実があっても、積み上げてきた過去への執着や愛着があって、そう簡単には割り切れないことと思います。

または、諦めてしまうと、その夢を追い続けてきた過去が否定されるような気持ちになって、(すでに必要ではない、と思いながらも)手から放すことができない場合もあるでしょう。

けれど、過去の経験や、抱いてきた夢を、ここで手放したからといって、それらが「無になるわけではない」のです。たくさんの努力や、意思、費やした時間や労力は、すべてあなたの中に存在し続けます。

別の道を進むことにしたからといって、今までの経験が無くなってしまうと考えるのは、「まるで、物を扱うように」、捨てたら終わり、使わなくなったら価値がない、かのような、「物質的な考え方」ではないでしょうか。

抱え続けてきた夢を、手から放すということは、それらの価値をゼロにすることではありません。手から放れた「それ」はこの先もずっと価値を持ち続け・・・、あなたがこれから進んでいく道の基礎となってくれます。次の階段に足をかける際の、助けとなって働いてくれることでしょう。

前に進む際に、しっかりとした基礎の一段があるとないとでは、大きな違いが出てくるものです。そのステップの一段となってくれた過去の経験に対して、感謝の気持ちがわかず、ネガティブな感情でしか眺められないのは不幸なことだと思います。

過去に情熱を傾けたものを、過去に願った形そのままで活用したい、次に繋がるとかの考え方ではなくて、そのものを体現したいと、こだわってしまう気持ちは分かります。

けれど、私たちの経験には、無駄な物はひとつもないとはいえ、それは思った通りになることとイコールではない以上、叶わないという現実も受け入れていく必要があります。

抱えて続けた夢を、手放すのはとても辛いことです。けれど、そうすることにも意義があって、無になるわけではないと考えていけば、時間はかかるかもしれませんが、気持ちを切り替えることができて、次の道をしっかりと見据えていけるようになると思います。

私自身も、過去にかなわなかった夢はたくさんありますが・・・、今となっては、「これでよかったんだ」「思い通りにならないことも含めて、今がある」」と、そう納得できます。というよりも、意識してそう考えるようにしています。前に、進むために。

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2010年8月 4日 (水)

嫌いな相手との付き合い方。

人間関係の悩みは、多かれ少なかれ、誰もが抱えているものだと思います。何とかして相手を排除したいとか、相手が自分の思うように変わってくれる方法はないものか、と考えてしまいますが、残念ながら、相手を自分の思い通りに動かすことは不可能です。

そうとわかると、今度は、何とかして相手を好きにならなくては、とか、相手を嫌っている自分を変えようと考える人は多いのですが、・・・確かに、そうできたら理想的ですが、嫌いな相手を好きになるのは、とても難しいことですよね。

現実的な考え方として、「嫌いな相手を、好きになる」のは難しいです。それよりも、「無理に好きにならなくてもいい」という前提で考えてみてはどうでしょうか。

この世を生きていく以上、人付き合いそのものは避けて通れず、それぞれ独自の性質がある以上、お互いに、「合う、合わない」という差異は生まれてしまうものです。

まずは、その点をきちんと認識すること、「同じにならなくて当然」という考え方を持っていくことが大切です。それでも、相手に不愉快な感情が出てきて、イライラが募りストレスになるならば、今度は、相手との距離感を見直してみてください。今よりも少し距離をとることが可能ならば、そうしたほうがいいでしょう。嫌いな相手と常に一緒にいて、イライラするなら、(出来るなら)距離をとっていくほうが、ストレスがなくなります。

それも難しければ、その関係性に、何かの意義を見いだしていくことです。この世はすべて必然であり、無駄なことは何一つないのだから、「嫌いな相手と、距離をとることが難しい関係」におかれているなら、その出来事にも、必要な学びが含まれている、ということです。「これも、学びなんだな」と気持ちを切り替えて、「ならば、この関係と状況から、自分が学ぶことは何だろう?」と、見出していくことです。

そうすれば、相手を好きにはなれなくても、・・・少なくとも、自分自身の納得には繋がっていくでしょう。そうして、好き嫌いという感情を超えた理解に至り、学びだという考え方で物事を見られるようになれば、特定の相手を嫌いという感情も薄れていく場合も多いものです。

私の場合は、今までたくさんの人と出会った中で、まったく分かり合えないくらいの、嫌な人は、一人もいなかったと感じます。嫌いだと思う相手でも、また別の部分では、見習うべき部分もあったと思いますし、分かり合える部分もきっとあったと思います。

そう考えると、人の好き嫌いというのは、自分のこだわりの強さに比例している気がします。こだわりが強いと、自分の価値観という枠からはみ出す相手に、嫌いという感情が生まれるように思います。

でも、よくよく考えると、相手が「自分の枠にはまらないから、ダメだ」という考え方は、かなり自己中心的ですよね(笑)。仮に自分が誰かにそう言われたら、「大きなお世話だ!」と思うハズなのに、自分はしたくないけど相手には求めるというのも、おかしな話です。

私は、スピリチュアリズムを学んでから、人の好き嫌いは以前よりもずっと穏やかになりました。嫌いな人が、ほとんどいなくなりましたね。でもそれは、「すべての人が好き」というわけではありません。好きな人と、そうではない人の差は、もちろんあります(笑)。

でも、・・・そんなの、関係ないんですよね。好きであろうとなかろうと、結局は、「自分が、相手を好きか嫌いかという点に、こだわらなければいいだけ」の話です。

記事のタイトルを、「嫌いな相手との「付き合い方」」と書いたけれど、「考え方」ですよね、自分自身の考え方、受け止め方という、内的な部分なのだと思います。

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未経験の分野で起業をする際の、基礎経験の積み方。

自分で商売をしたい、インターネットで注文をうけ、物を売る仕事をしていきたいと考える方は、結構多いものです。そして、その中の半数くらいの方が、「今までに、物を売るような仕事をした経験がない」と言います。そして、ご実家も自営業ではない、と。

人は、経験したことのないものを想像するのは難しいので、「とっても、夢いっぱい」の、現実とは少々かけ離れた計画を立ててしまうことがあります。

どんなことでも、誰にとっても「初めての瞬間」はあるもので、経験がないから出来ないなんてことはないし、経験があるから成功するとも限りません。しかし、まったく経験がないものを職業に、それも「自営」でやる(ということは、指示を出してくれる上司もいない)というのは、相当に敷居が高いものになると考えてください。

まずは起業を考えるまえに、「物を売るとは、どういうことか」を、経験しておく必要があります。そうしないと、、購買者のニーズというものがピンとこないまま開業することになり、・・・多分、それはほどんど思った通りにはならないことでしょう。

誰でも最初は素人なのですから、経験がなければ、今から経験を積めばいいだけです。そしてそれは、「起業の前に」経験しておく必要があります。

私は、上記のような方には、「フリーマーケットで物を売るか、もしくはネットオークションに出品する、アマゾンに中古本を出品する」のどれかを、まずはやってみてください、とお話しています。

このようなご相談をなさる方というのは、ほとんどが内向的なタイプの方なので、前者の選択肢は取れない方が多いです。なので、後者の、ネットオークション等に出品することのほうが現実的な選択肢となります。

・・・この段階で、億劫になって、なかなか取り掛かれない方も多いのですが、そこをなんとか、自分を奮い立たせて、やってみないと前に進むことができません。

実際に、出品するまでに至れば、そこでまた、さまざまな現実を見ることになります。すぐには売れなかったり、自分が売ろうとしていたものと同程度の品が、オークションで格安で取引されている様子を知ることもあるでしょう。または、売れた場合でも、受付の確認のやりとりがあったり、期日内に発送しなければならなかったり・・・と、想像以上の手間と労力が掛かると分かります。

どちらにしても、頭の中で思い描いていたものとは、違う現実を知ることになるでしょう。少々の挫折感を味わうこともあるかもしれません。

しかし、大切なのは、「そこから先」なのです。まずは、この経験をしてもらって、現実を知ってもらって、場合によっては自分の甘さを認識してもらって・・・、それでも起業への意欲が薄れずにあるなら、そこからが、やっと「スタートライン」に立つ段階になることと思います。

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2010年8月 2日 (月)

二択や三択を超えた、具体的な解釈を。

物事を検討する際に、○か×か、白か黒か、イエスかノーか、のような、極端な定義付けをして、思考の範囲をせまくすることのないよう、注意していく必要があります。

霊的な(スピリチュアルな)解釈というのは、包括的な視野で、物質的な結果だけにとらわれずに、長い目でみた成長も含めて考えていくことです。つまり、○か×か、のような、極端な二択の考え方というのは、・・・霊的の逆ですから、物質的、現世的な解釈の仕方だと言えます(それが悪いという意味ではありません)。

また、白か黒か、イエスかノーか、のような極端な考え方をしないほうがいいからといって、「どちらでもない」という、消極的な選択肢をとることも、五十歩百歩であまり変わらない考え方になりますので、気をつけなければなりません。

イエスかノーかという二択は極端なので、その間に無数に存在するであろう、さまざまな方法やらタイミングやらを踏まえて、出来ることを見出していきましょう、という考え方の提示に対して、それらすべてをひとまとめに「どちらでもない」にしてしまったら、二択が三択になっただけで(笑)、あまり変わらないですよね。もっと言えば、「イエスかノーかを選ぶ」「イエスでもノーでもない(どちらでもない)」という、やはり二択にしかなっていないようにも思います。

両極端な選択肢の、どちらにも該当しない事柄とは、「どんな内容なのか」という詳細を、きちんと認識していくことが大切です。

こういうことって、どうやって考えたらいいのか分からない、という方が多いのですが、「誰かに言葉で説明できるくらいに、文章化すること」を、まずは目安にしてみてください。自分の内的な部分だから、実際には、人に説明する場面はないとしても、もしそうするとしたら、相手に意図がきちんと伝わる説明ができるくらいに、頭の中で、自分の意見を確立するようなつもりで、考えてみてください。

そう考えてみると、「どちらでもない」という意見では、何も伝わらないと分かりますよね。そして、自分の中でも何も明確にならず、・・・相手どころか自分にも伝わらないのです。その結果として、「考えても、分からない」という状況が出来上がってしまうのですね。

「自分がどうしたいのか、分からない」、「どうやって考えていいのか分からない」という方はとても多いので、そのための思考のヒントのひとつとして、参考にしていただくために、書いてみました。

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2010年8月 1日 (日)

「普通」という言葉ですら、解釈は一律ではない。

人の数だけ、個性がありますから、自分と他人の考え方や感じ方が一致しないのは、当然のことです。けれど、この「当然のこと」を、ついつい忘れて、「なぜ、通じないのだろう?」「どうして分からないのだろう?」と、悩み事を作り上げてしまうことがあります。

多くの人は、自分の一般常識や道徳心に対する価値観が、世の中のすべてに共通しているもののように思ってしまうところがあります。趣味や好みは一致しないのが当然としても、「常識」(と、自分がに認識していること)くらいは一致するものと、心のどこかで思っていることが多いです。

たとえば、「普通は○○だよね」などというときの、普通という表現も、「広く一般的で、平均的なこと」という意味合いで使っている人もいれば、「そうするのが常識的であり、理想的」というニュアンスで、「大人として、そうあるべきだよね」などの意味で使う人もいるでしょう。

私の場合は、どちらの意味でも使いますが、あえてどちらかといえば、後者のほう、「理想的な、あるべき状態」を表わすときに、普通と用いることが多いです。仕事上のプロフィールなどで、「私は、普通である」と書くことがありますが、私が込めているニュアンスは、「・・・ちょっと社会的に認知されにくい仕事をしてはいるけれど;、私自身は常識的な人間(のツモリ)です」という意味です。

でも、世の中の全員が、そういう意味で「普通」と表現しないでしょうし、私の伝えたい通りに必ずしも伝わっているとも思っていません。理解や納得は、受け手側のパーソナルな領域で起こることだと思っていますから、私は「違って当然」だと、最初からそう思っているからです。

以前、会社員だったころ、とてもやさしい性格の上司が、いつもと違う髪型になっていたことがありました。初めて行った理容室で、ちょっと年配の理容師さんが出てきて、「カットは、普通でいい?」と聞かれたそうです。上司は、年配の方にあまり細かく希望を伝えるのも悪いと思って、「はい、普通でお願いします」と答えたところ、・・・その理容師さんとまったく同じ髪型にされたのだそうです(笑)。その人にとっての普通とは、ご自分の髪型だった、のでしょうね( ̄w ̄)

このように、一般的という意味を含む「普通」という言葉ですら、解釈の幅は大きいのです。ならば、細かいことになればなるほど、自分の考えや感じ方と、他人のそれとは、同じになるはずがありません。

違って当然だと考えておけば悩まなくてすむことを、悩みにしてしまっているのは自分です。自分の考えが、世の中のグローバルスタンダードのはすだと、心のどこかで思っているから、思うように理解してくれない相手に不満が出てきます。

それぞれ違って当然だと思えば、ストレスも減りますし、その上で、きちんと自分の考えをそのまま相手に分かってもらいたいと思うなら、言葉や態度で「伝わるように、伝えていく」努力がいるのです。

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