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2010年7月31日 (土)

スピリチュアリズム、霊的真理における「絶対」という表現。

精神世界でよくつかわれる表現として、「絶対の真理」とか「絶対の存在(=神)」などの使われ方に代表される「絶対」という言葉があります。

この言葉が、本来の意味するところを理解されないまま、大きな誤解が生じているように思います。それは、真理を知りたい方達においてはもちろんのこと、真理について人に話したり指導したりする仕事についている方達すらも、きちんと理解せず、あいまいな「雰囲気」で「絶対」を理解した「つもり」になっているケースが多いのではないでしょうか。

私も、このブログでは、おもにカルマの法則を説明する際に、「これは、絶対の法則なので・・・」というような書き方をすることがありますが、この、真理における「絶対」というのは、たとえば「絶対許せない!」のように、ある事柄を強調するために使われる絶対と、同じではありません。

真理における「絶対」というのは、「相対の逆」です

相対というのは、比較です。「あれ」と「これ」がある。「あれ」と、「それ」が違う、というような、比較の概念があることが相対です。

私たちが生きている、現世は「相対の世界」です。私たちは、比較をすることができますし、違いを認識することができます。

一方、霊的な世界というのは、「絶対の世界」です。絶対というのは、比較の概念を伴いません。「あれ」と「これ」という違いや差を超越した、包括している世界です。

小さな日常の出来事や感情で、物事を○か×か(という比較)で考えたり、まるで品物に名前でもつけるかのように、目には見えない事柄を定義付けをして狭い解釈を当てはめたりすると、精神的な価値観から遠ざかり、(たとえ、霊的な事柄を語っていたとしても)解釈が現世的であり、物質的になってしまうというのも、これと同じ理屈なのです。

この世には、私たちが認識できる「時間という概念」があります。私たちは、時間があるからこそ比較することができます。昨日の記憶と10年前の記憶が同列に並ばないのは、時間によって、古さを比較できるからです。

「相対の世界」と、「時間という感覚」は、どちらが先にあるかは難しいところです。この点を語ると、にわとりとたまごはどちらが先か、のように答えが出なくなりますので、両方が密接に影響し合っているという理解でいいと思います。

そして、霊的な世界には、時間がありません。時間がないですから・・・、比較という概念もありません。だからこその「相対(比較)の世界ではない、絶対の世界」なのです。

私たち人間が、スピリチュアリズム、霊的真理を学び理解するというのは、相対の世界にいながら、「絶対の世界について理解すること」でもあります。・・・だから、分かりにくく難しいのですね。どうやっても説明しきれないことが出てくるのは、私たちの相対の感覚では、絶対を完全に理解するのも把握するのも難しいからです。

私たちが生きている現世は、比較・相対の世界ですから、絶対や完全を体現することはできません。比較ができるということは、「あれ」と、「これ」のように、分離していることでもあります。けれど、分離しているのは「この世特有の現象や感覚」であり、霊的な本質は分離することはありません。「すべて、ひとつ」などと言われる故でもあります。

霊的な世界を理解するということは、すべてひとつであることや、絶対を理解することではあるのですが、そのことを、「この現世の、相対の感覚で」表面的な言葉のニュアンスだけを解釈すると、誤解に繋がります。誤解というのはやさしい表現です。もっとはっきりいえば、「間違った解釈」に繋がります。

この世は相対の世界だから、私たちは完全を本当の意味で理解することはできないが、だからこそ、相対の感覚をもって完全を理解するというプロセスを経験できるし、そのために、この世の経験がある、という前提をもって、学びに挑んでいくことが必要ではないでしょうか。

今の世の中は、分離が行き過ぎて、極端になりすぎています。相対の概念が生み出す比較が、優劣や欲を満たすことに向き過ぎて、針が振りきれている状態です。ですから、私たちは、今こそ、本質である霊性をとりもどし、バランスと秩序のある「在るべき状態」に戻していかなければなりません。

けれどそれは、分離をなくすことや、相対をなくすことではありません。この世にいながら、そんなことはできません。そのためには、この世から時間という概念を取り去るしかなくなります。そうすると、比較はなくなるでしょう。しかしその瞬間、「この世」の存在意義もなくなります。時間がない、比較がない世界は、あの世で経験すれば十分であり、わざわざこの世をあの世と同じにして存続する意味がないのです。

私たちは、この世だからこその、相対の世界を経験するため、相対の概念を用いて絶対を理解するという、少々回りくどい(笑)プロセスを経て成長するために、わざわざ、制限のある肉体というものに入って、今回の人生を生きています。けれど本質は、分離されることのない「霊」ですから・・・、あの世と切り離されることもありませんし、私たちは本質的に、霊である自分を知っていて、霊的真理をも知っているのです。

上っ面の言葉の解釈だけを追うと流され・・・、しかし本質の仕組みを理解することなく本質を語ることもまた別の方向に流され・・・、私たちがこの世で学ばなければならない霊性からは、どちらも遠ざかる行為になります。

誰もが備えている、本質である「霊」の部分を、この世で掘り起こすためには、この世の仕組みである相対を理解し、相対が発生させるプロセスを経ていくことが必要です。それが、私たちが日常で、悩んだり苦しんだり、笑ったり泣いたりするたくさんの経験です。そして、その出来事の中に、もれなく作用している真理を見出すことが、相対の世界で絶対を理解していくプロセスです。

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コメント

こんにちは。時間を見つけては過去ログを読んでいます。
今までもこの世が学びの場所であることは分かっていましたが、この記事で更に深く掘り下げられていて面白かったです。
相対から絶対を理解していけるように、想像力や分析力を働かせていきたいです。

投稿: チャッピー | 2014年8月 1日 (金) 00時41分

・チャッピーさま

この記事を書いたのは、つい昨日のような気がするのですが、ちょうど4年前なんですね、月日がたつのは早いものです(^^;)。過去記事もお読みいただきまして、ありがとうございます。

投稿: リカコ | 2014年8月 1日 (金) 22時17分

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