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2010年7月29日 (木)

悪意は、悪意として自分に返る。

「カルマの法則」とは、自分がしたことが、良くも悪くも必ず自分に返ってくるという真理の法則です。この世の事象は、すべてこの法則のもとで成り立っています。この法則があるおかげで、私たちは、自分の間違いや未熟な点に気づき、改め、成長していくことができます。

真理の法則に照らし合わせ、自分で自分をかえりみるという、内観・内省から、理解を深め、成長していくことができます。しかし、誰もが自分に甘くなりがちなので、内省するのは難しく・・・、他人を批判し裁くことで、自分を正当化してしまうものです。いじめや意地悪が正しくないことは分かりやすいのですが、批判というのは、自分の中で「それとは別物」にカテゴライズしたくなるし、してしまう物でもあるように思います。

人は、自分が批判されることには敏感ですが、自分が他人を批判することには寛大になりがちです。「相手がこれほどに悪いのだから、私が批判するのはしょうがない」などと、もっともらしい理由をつけてしまうものですが、批判は批判であり、相手の悪さが、自分の批判行為の免罪符になるわけではありません。

自分の中でどんな理由をつけようとも、「カルマの法則」は、ひとつのくるいもなく作用し、正当なものには正当なものが返ってきて、不当なものには不当なものが返ってくるようになっています。

ときに、相手にはっきりと意見しなければならないケースや、自分が悪者になってでも相手を諭さなければならないこともありますから、批判のすべてが悪いとはいいませんが、・・・しかしほとんどのケースは、「相手が悪いから」という理由ではなくて、「それを言いたい自分がいる」という、まず、自分の感情ありきになっているように思われます。

他者を批判すれは、自分もいつか批判される、というのは、とてもシンプルで分かりやすいカルマの返り方です。しかし、必ずしもそのように、「誰かの行為をを介して」返ってくるとは限りません。

他者を批判するという行為により、「自分の性格が、ひねくれて意地悪なものになる」、という形で、自分に降りかかってくることもあるのです。自分の出した悪意のエネルギーに、自分自身がやられてしまうようなものです。相手に投げつけた石が、自分に跳ね返るほうが、一瞬痛い目をみるだけですみます。自分自身が、ひねくれた性格になっていくという反映の仕方は、・・・「自分が、気づくまで終わることができない」という、厳しいものだと思います。

たとえば、その状態で、内観・内省をしたとしても、中心にまっすぐ立つべき支柱が傾いていれば、左右均等に触れるはずの振り子も、傾いた領域でしか振れず・・・、そうなると、とっても自分本位で勝手な内観しかできず・・・、ますます波長は下がっていきます。

しかし、そのことに気づく機会も、(同じくカルマの法則によって)与えられるはずなのですが、自分という支柱が、本来あるべき位置になく、そして他者を批判することが日常になると、思考の習慣が「他人のせいモード」になってしまうので、気づく機会が(それは通常、とても苦痛を伴う出来事のはずですが)与えられても、全部、他人のせいにしたりして、なかなかこのループを終わりにできないものです。

他人に敵意や悪意を持つことも、波長が下がってしまうことも、誰にでも起こり得る、「よくある現象」ですから、短い期間であれば、それほど問題ではないのです(それでも、自分が作り出したカルマの責任は、自分がとらなければならないことは、変わりませんが)。しかし、その状態が長期化すると、再び持ち上がっていくのは、相当に困難になってしまいます。

そうならないように、もしくはそうなる前に、気づくための行為が、「内観・内省」であり、そして、その内観の指針となるものが、「カルマの法則」だと思うのです。

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