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2010年7月の23件の記事

2010年7月31日 (土)

スピリチュアリズム、霊的真理における「絶対」という表現。

精神世界でよくつかわれる表現として、「絶対の真理」とか「絶対の存在(=神)」などの使われ方に代表される「絶対」という言葉があります。

この言葉が、本来の意味するところを理解されないまま、大きな誤解が生じているように思います。それは、真理を知りたい方達においてはもちろんのこと、真理について人に話したり指導したりする仕事についている方達すらも、きちんと理解せず、あいまいな「雰囲気」で「絶対」を理解した「つもり」になっているケースが多いのではないでしょうか。

私も、このブログでは、おもにカルマの法則を説明する際に、「これは、絶対の法則なので・・・」というような書き方をすることがありますが、この、真理における「絶対」というのは、たとえば「絶対許せない!」のように、ある事柄を強調するために使われる絶対と、同じではありません。

真理における「絶対」というのは、「相対の逆」です

相対というのは、比較です。「あれ」と「これ」がある。「あれ」と、「それ」が違う、というような、比較の概念があることが相対です。

私たちが生きている、現世は「相対の世界」です。私たちは、比較をすることができますし、違いを認識することができます。

一方、霊的な世界というのは、「絶対の世界」です。絶対というのは、比較の概念を伴いません。「あれ」と「これ」という違いや差を超越した、包括している世界です。

小さな日常の出来事や感情で、物事を○か×か(という比較)で考えたり、まるで品物に名前でもつけるかのように、目には見えない事柄を定義付けをして狭い解釈を当てはめたりすると、精神的な価値観から遠ざかり、(たとえ、霊的な事柄を語っていたとしても)解釈が現世的であり、物質的になってしまうというのも、これと同じ理屈なのです。

この世には、私たちが認識できる「時間という概念」があります。私たちは、時間があるからこそ比較することができます。昨日の記憶と10年前の記憶が同列に並ばないのは、時間によって、古さを比較できるからです。

「相対の世界」と、「時間という感覚」は、どちらが先にあるかは難しいところです。この点を語ると、にわとりとたまごはどちらが先か、のように答えが出なくなりますので、両方が密接に影響し合っているという理解でいいと思います。

そして、霊的な世界には、時間がありません。時間がないですから・・・、比較という概念もありません。だからこその「相対(比較)の世界ではない、絶対の世界」なのです。

私たち人間が、スピリチュアリズム、霊的真理を学び理解するというのは、相対の世界にいながら、「絶対の世界について理解すること」でもあります。・・・だから、分かりにくく難しいのですね。どうやっても説明しきれないことが出てくるのは、私たちの相対の感覚では、絶対を完全に理解するのも把握するのも難しいからです。

私たちが生きている現世は、比較・相対の世界ですから、絶対や完全を体現することはできません。比較ができるということは、「あれ」と、「これ」のように、分離していることでもあります。けれど、分離しているのは「この世特有の現象や感覚」であり、霊的な本質は分離することはありません。「すべて、ひとつ」などと言われる故でもあります。

霊的な世界を理解するということは、すべてひとつであることや、絶対を理解することではあるのですが、そのことを、「この現世の、相対の感覚で」表面的な言葉のニュアンスだけを解釈すると、誤解に繋がります。誤解というのはやさしい表現です。もっとはっきりいえば、「間違った解釈」に繋がります。

この世は相対の世界だから、私たちは完全を本当の意味で理解することはできないが、だからこそ、相対の感覚をもって完全を理解するというプロセスを経験できるし、そのために、この世の経験がある、という前提をもって、学びに挑んでいくことが必要ではないでしょうか。

今の世の中は、分離が行き過ぎて、極端になりすぎています。相対の概念が生み出す比較が、優劣や欲を満たすことに向き過ぎて、針が振りきれている状態です。ですから、私たちは、今こそ、本質である霊性をとりもどし、バランスと秩序のある「在るべき状態」に戻していかなければなりません。

けれどそれは、分離をなくすことや、相対をなくすことではありません。この世にいながら、そんなことはできません。そのためには、この世から時間という概念を取り去るしかなくなります。そうすると、比較はなくなるでしょう。しかしその瞬間、「この世」の存在意義もなくなります。時間がない、比較がない世界は、あの世で経験すれば十分であり、わざわざこの世をあの世と同じにして存続する意味がないのです。

私たちは、この世だからこその、相対の世界を経験するため、相対の概念を用いて絶対を理解するという、少々回りくどい(笑)プロセスを経て成長するために、わざわざ、制限のある肉体というものに入って、今回の人生を生きています。けれど本質は、分離されることのない「霊」ですから・・・、あの世と切り離されることもありませんし、私たちは本質的に、霊である自分を知っていて、霊的真理をも知っているのです。

上っ面の言葉の解釈だけを追うと流され・・・、しかし本質の仕組みを理解することなく本質を語ることもまた別の方向に流され・・・、私たちがこの世で学ばなければならない霊性からは、どちらも遠ざかる行為になります。

誰もが備えている、本質である「霊」の部分を、この世で掘り起こすためには、この世の仕組みである相対を理解し、相対が発生させるプロセスを経ていくことが必要です。それが、私たちが日常で、悩んだり苦しんだり、笑ったり泣いたりするたくさんの経験です。そして、その出来事の中に、もれなく作用している真理を見出すことが、相対の世界で絶対を理解していくプロセスです。

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2010年7月30日 (金)

「取り掛かるまでが、長い」人が多い。

仕事や作業がとても手早い人と、とても時間が掛かる人がいます。この差が生まれる理由は、それぞれの向き不向きや、作業能力の差・・・であるかのように思われがちですが、(もちろん能力の差も関係はしますが)、「作業に取り掛かるまでの時間の長さ」が、一番の違いように思います。

作業が遅い人は、まず「そのことに取り掛かるまでが、長い」のです。きっちりと予定を立てたり、理解を深めてから始めたいのかもしれませんが、なかなか「始めない」のですね、そうなればおのずと、終了も遠のきます。

作業が早い人は、大枠の見通しを立てたら、あとは、「やりながら考えていく」ので、すぐに取り掛かります。そして、作業の途中で不明点が出てきたら、「そのときに、考える」のです。実際に作業をしていくことと、どのように作業を進めるかを考えること、この二つを同時に、「やりながら」行うので、終了も早いですし、作業スピードも効率がいいのです。

どんな物事も、そうそうスムーズには進まないものです。どこかで不具合が発覚したり、足りないものがあったり、方向性そのものを見直さなければならないこともあります。しかし、それらは、「事前」には、なかなか見えてこないものです。頭の中で考えたことと、現実は同じではありませんから、その道のスペシャリストが立てた予定であっても、「やってみたら、不具合がでる」ことは、日常茶飯事です。

人には個性がある以上、特定の作業における適性の差があるのは仕方がありません。けれど、その部分をのぞいても、「取り掛かるまでが遅い」ことや、「事前にすべて把握しないと不安」なことなどが、その差を大きなものにしてしまうものではないでしょうか。

こういうタイプの方は、仕事上で問題を抱え、「上司が、きちんと指示を出してくれないし、聞いても教えてくれない」などと不満を持つことがあります。けれど、作業指示を出す上司にしても、やってみないと見えてこない部分はあるし、やってみて不具合がでたらそこで改善すればいいと思っているから、事前にあまり詳細には見通しを立てていない場合もあるでしょう。それなのに、取り掛かる前から、細かいことまで、「たら」「れば」で質問されても、明確な答えを出せるわけがありません。

こういうケースは、どちらが悪いという次元ではなく、「取り掛かる前に答えがあるという前提で、予定を詰めたい人」と、「取り掛かってみなければ、問題は見えてこない」と考えている人の、意識の差でしかないのですが、特に女性は、感情論にすり替えてしまうので、本当に見つめるべき問題点が見えてこない場合もでてきます。

「やってみて、はじめて分かることがある」「やってみなければ、問題点が見えてこないこともある」と、分かった上で臨めば、完全を求めて慎重になりすぎ、動けなくなるケースを減らすことができのではないでしょうか。仕事が手早い人でも、事前にすべてを把握しているから動けるのではなく、「動いてから、把握しよう」という考え方の違いがあるだけなのです。

「考え方」と「実行の仕方」でしかないことを、(自分の作業スピードが遅いことが)能力の差があると思って、何とかして能力の差を、慎重さで埋めようとして、逆の結果が出てしまっている人が多いと感じます。その気持ちは十分に分かるのだけれど・・・、実際には、作業の差や、能力の差よりも、要領の差がついていることが多いのです。

同じ人間のやることで、それほど能力の大きな差は生まれないものだと思います(専門分野においては多少話は違ってきますが)。真面目な人ほど、この考え違いをして、出口が見えなくなっているケースは多いと感じます。

でも、慎重に計画することで、ミスを防げることもあるじゃないか、と、思う人もいるかもしれません。確かに、そういうこともあるでしょう。けれど、それは、「事前にきちんと詰めていくことで、ミスを防げることもあるので、そういう視点も忘れないようにしよう」と思いながら、取り掛かっていけば済む話であり、そのことを「取り掛からない理由」にするのはおかしいですよね。

というよりも、どちらが素晴らしいか、という優劣を言っているのではなく、どちらも大切であり必要であるという前提の上での、意識の優先順を入れ違えないようにしましょう、という話です。

ですから、何でもとにかくやってみるのがいいと勧めているわけではありません。同様に、作業が遅いのが悪いということでもありません。それこそ、個性の差であり、良いも悪いもありません。得意なこともあれば、苦手なこともあるのは当たり前だからです。

けれど、すでに目の前に、「自分がやらなければならない仕事や作業がある」場合、特に仕事上では、自分のペースだけで動いていくことはできませんので、事前の検討や理解を綿密に考えすぎるよりは、そのことをどう進めていくか、という観点で、「取り掛かる方法」を考えていき、実行すべきだと思います。

改善や再検討は、そのことをやりながらでも可能ですし、むしろ途中までやってみないと、不具合も分からないことも多いので、あまり不安になりすぎず、チャレンジの気持ちで、取り組んでみてはどうでしょうか。

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2010年7月29日 (木)

忘れようとせず、思い出にかえていけばいい。

辛い過去の記憶や、悲しい別れの経験が、今でも心に深く残って苦しくなることがあると思います。どうしたらそれを忘れられるか…と思っても、一度作られたエネルギーは(感情も、想念というエネルギーだと考えます)、「消失することはない」ので、なくなることはありません。

なくなりはしないので・・・、強烈な印象のあった出来事は、なかなか忘れられないものでもあると思うのです。忘れようとすればするほど、「そのこと」に、意識のエネルギーを注ぎ続けてしまいますので、逆に自分の中で、占める比率が大きくなってしまうこともあります。

過去は、忘れようとするよりも、「思い出に変えていく」ように気持ちを切り替えてみてはどうでしょうか。

私は、気づきを説明するときに、「モノクロが、カラーになっていくようなもの」という表現を使っています。本当は誰もがすべて知っていて、内に備えていながらも、活性しておらず眠っている状態が白黒で・・・、ある外側からの刺激があって、白黒の一部がカラーになっていくようなもの、と。

気づきによる精神の成長や理解が、「モノクロが、カラーに変わっていく」ようなものだとしたら、忘れられないことを思い出に替えていくのは、「カラーを、セピア色にトーンダウンしていく」ような感じでしょうかね。

カラーになっていると、いつまでも記憶が生々しいままで、心を揺さぶられるけれど・・・、セピアになった思い出は、時間が経って振りかえったときに、とても懐かしい気持ちで、過去に思いをはせることができるかもしれません。きっと、そのときはもう、苦しくなるような感情の揺れは、なくなっていくことでしょう。

すべての経験に意味があり無駄なものはないとはいえ、カラーのままの記憶を持ち続けていくには、ヘビーな場合もあるでしょう。それらは、セピア色の「思い出」にかえて・・・、そして、鮮やかな今と未来を見据えて、生きていきましょう。

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悪意は、悪意として自分に返る。

「カルマの法則」とは、自分がしたことが、良くも悪くも必ず自分に返ってくるという真理の法則です。この世の事象は、すべてこの法則のもとで成り立っています。この法則があるおかげで、私たちは、自分の間違いや未熟な点に気づき、改め、成長していくことができます。

真理の法則に照らし合わせ、自分で自分をかえりみるという、内観・内省から、理解を深め、成長していくことができます。しかし、誰もが自分に甘くなりがちなので、内省するのは難しく・・・、他人を批判し裁くことで、自分を正当化してしまうものです。いじめや意地悪が正しくないことは分かりやすいのですが、批判というのは、自分の中で「それとは別物」にカテゴライズしたくなるし、してしまう物でもあるように思います。

人は、自分が批判されることには敏感ですが、自分が他人を批判することには寛大になりがちです。「相手がこれほどに悪いのだから、私が批判するのはしょうがない」などと、もっともらしい理由をつけてしまうものですが、批判は批判であり、相手の悪さが、自分の批判行為の免罪符になるわけではありません。

自分の中でどんな理由をつけようとも、「カルマの法則」は、ひとつのくるいもなく作用し、正当なものには正当なものが返ってきて、不当なものには不当なものが返ってくるようになっています。

ときに、相手にはっきりと意見しなければならないケースや、自分が悪者になってでも相手を諭さなければならないこともありますから、批判のすべてが悪いとはいいませんが、・・・しかしほとんどのケースは、「相手が悪いから」という理由ではなくて、「それを言いたい自分がいる」という、まず、自分の感情ありきになっているように思われます。

他者を批判すれは、自分もいつか批判される、というのは、とてもシンプルで分かりやすいカルマの返り方です。しかし、必ずしもそのように、「誰かの行為をを介して」返ってくるとは限りません。

他者を批判するという行為により、「自分の性格が、ひねくれて意地悪なものになる」、という形で、自分に降りかかってくることもあるのです。自分の出した悪意のエネルギーに、自分自身がやられてしまうようなものです。相手に投げつけた石が、自分に跳ね返るほうが、一瞬痛い目をみるだけですみます。自分自身が、ひねくれた性格になっていくという反映の仕方は、・・・「自分が、気づくまで終わることができない」という、厳しいものだと思います。

たとえば、その状態で、内観・内省をしたとしても、中心にまっすぐ立つべき支柱が傾いていれば、左右均等に触れるはずの振り子も、傾いた領域でしか振れず・・・、そうなると、とっても自分本位で勝手な内観しかできず・・・、ますます波長は下がっていきます。

しかし、そのことに気づく機会も、(同じくカルマの法則によって)与えられるはずなのですが、自分という支柱が、本来あるべき位置になく、そして他者を批判することが日常になると、思考の習慣が「他人のせいモード」になってしまうので、気づく機会が(それは通常、とても苦痛を伴う出来事のはずですが)与えられても、全部、他人のせいにしたりして、なかなかこのループを終わりにできないものです。

他人に敵意や悪意を持つことも、波長が下がってしまうことも、誰にでも起こり得る、「よくある現象」ですから、短い期間であれば、それほど問題ではないのです(それでも、自分が作り出したカルマの責任は、自分がとらなければならないことは、変わりませんが)。しかし、その状態が長期化すると、再び持ち上がっていくのは、相当に困難になってしまいます。

そうならないように、もしくはそうなる前に、気づくための行為が、「内観・内省」であり、そして、その内観の指針となるものが、「カルマの法則」だと思うのです。

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2010年7月28日 (水)

「自分好き」な女性に多い、オーラの色。

「結婚したいけれど、結婚するような縁に恵まれないのは、どうしてでしょうか?」というご質問に対する回答(つまり、結婚に至らない理由)は人の数だけ違いますが、「相手のことよりも、自分のことが好き」なタイプの方で、口で言うほどには、内心は結婚を望んでいない場合があります。

「それは、あなたは、“自分が好き”な人だからですよ。結婚は、相手を好きにならないとできないから」と申し上げると、「言われてみれば、そのとおり!!」と、笑いとともに、納得していただけることが多いです。

「自分好き」な方特有の、色の組合わせがいくつかありますが、特に多いのは、「シルバー×ワインレッド(のような、赤に近い赤紫?)のパターンです。色の表現って、難しいですけどね。赤と一口に言っても、実にさまざまな赤系の色がありますので・・・。

「シルバー×ワインレッド」の、ジブンスキーなオーラの組み合わせは、割と女性に多く見られるパターンで、男性ではあまり見かけない気がします。ワインレッドは、いかにも女っぽい雰囲気の人に多い色でもあります。

シルバーというのは、こだわりの色、知的な人の色でもあるのですが、青のストレートな知性とはちょっと違っていて、専門的なものを好むとか、知的好奇心が強くて、「好きなものだからこその、こだわり」みたいなものがあります。(青の人はクールなので、自分がそれを好きかどうか、とは無関係に知性を発揮できる人が多いです)。

そういうこだわりや、審美眼を備えている性質が、他の対象ではなく、自分自身に向かうと、自分好きになるのですね。でも、それが悪いということではないので・・・。ただ、恋愛や結婚などの付き合いは、相手を好きにならなければいけないので・・・、自己完結になってしまうと、実際、付き合いに至るのが難しくなってしまうのも確かなので、その点は、意識を変えていくことも必要になるでしょう。

ちなみに、男性の場合も、自分が好きな人は「シルバー×○○色」という組み合わせが多い気がします(笑)。サロンが女性専用なので、男性のサンプルケースが少ないので、あえて色は記しませんが。旦那さんの写真とか、彼の写真とかを持ってきて下さる方を拝見すると、いくつかの特定の組み合わせがあって、その色のひとつは、やはりシルバーであることが多いです。

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2010年7月27日 (火)

ふさわしい早さで進む。

私たちは、自分の器より大きな行動をすることはできません。無理をすると必ずどこかにしわ寄せが発生して、・・・ある意味帳尻が合うというか、無理をして進んだ分と同じ振り幅で、自分に返ってくることになります。

頭だけで考えすぎると、焦りの気持ちが出てきて、とにかく何でもいいから、少しでも前に進みたいと思ったり、実際に、突っ走る行動に出てしまうこともあります。

しかし、何でも早く進めばいい、というものでもありません。その人独自のペースというものもありますし、その行動にふさわしい進み方があります。仮に、とても気が利いて、手早く行動できる人であっても、「その出来事に見合った速度」を超えて動いても、効果的でない場合もあります。

たとえば、選挙カーは、あまり早くもなく遅くもないスピードで動くものだと思います。あまりゆっくりでは渋滞を招いて、市民感情を損ねますが(笑)、かといって、道行く市民が気づいて振り向く余裕くらいはなければ、「候補者のアピール」という意味をなしませんよね。

その出来事の「目的」に見合った進み方というものが、それぞれにあります。

この複雑な事象が織りなす世の中で、100m競争のように、「早く駆け抜けるのが一番」という仕組みになっているものは、それほど多くはありません。むしろ、スピードだけにこだわると、本来の用途を成さないものの方が多いのではないでしょうか。

まずは「目的」があって、そのことに向かっていくふさわしい速度があります。「速さ」は、(場合によっては有効となることもある)付加価値であり、目的そのものではありません。

といっても、何でも時間をかければいいというものでもないので、速度を優先した方がいい場合ももちろんありますが、どちらにしても「速いか、遅いか」という基準のみで解釈すると、本来の目的を見失うこともありますので、焦りの気持ちが出てきたときには、「自分との対話」をして、よく考えてみるとよいでしょう。

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2010年7月26日 (月)

男性の縦の序列と、女性の横のつながり。

対人関係の悩みや不満は、程度の差こそあれ、誰もが抱えていると思うのですが、どこまでも深刻に悩んでしまうのは、圧倒的に女性が多いと感じます。女性は、悩みを口にすることに躊躇がないけれど、男性は悩んでいても、「言えないし、言わない」ものですから、単純な比較はできないですが、その点を割り引いても、悩みの深さ(それはあくまでも本人比で)は、女性が深くなる傾向を感じます。

通常、恋愛関係を除けば、異性間において、深く悩んでしまう感情のもつれは起こりにくいものです。なぜなら、妬みや嫉みの感情は、「比較」から起こりますが、異性間では、「違うのが当然」という前提があるため、同列に並ばず、比較の概念が発生しにくいためです。つまり、大部分の対人関係の悩みは、同性間で起こりやすいです。同性の場合は、比較が容易なので、ちょっと違うことをしたり、誰かの気に染まないことがあると指摘や批判の対象となり、やれ前例を踏まえない、空気を読めだのと、イザコザが起きます。

主に、男性間で調和出来ない人は、「縦の序列(上下関係)」を、読み違えてしまう人や、考えない人です。そして、女性間では、「横のつながり」に入れない人や、合わせられない人が、浮いてしまう傾向があります。逆に言うと、このポイントを押さえておけば、それほど大きな不調和は生まれないし、仮にそういう場面に遭遇しても、「人間関係とは、そういうものだから」と、受け流すこともできやすくなります。

この、「男性特有の縦のつながりと、女性が重視する横のつながり」というものを考えてみると、男性が(女性よりも)対人関係に深刻にならずに割り切れるのは、「図式としてイメージする感覚」が優れているためのように思います。わざわざ言葉や思考に置き換えなくても、そういうことを把握する感覚が男性にはあると感じます。

女性は地図が苦手なことからもわかるように、物事をイメージとして置き換え納得するような感性が薄いので、客観視ができず、揉め事があると「そこ」にしか意識が向かず、深刻になってしまっているような気がします。

こういうことは、経験則のようなものでもありますが、物事を体系として客観視しにくい多くの女性は、「知識」として頭に入れていくと、いつか自分の経験が掛け合わされて「知恵」となり、深刻に悩むことから抜け出せることもあるかもしれないと思ったので、ここに書いておきます。

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2010年7月25日 (日)

過去の記憶が浮上してくるのは、「学びのとき」。

「カルマの法則」とは、自分のしたことが自分に返ってくるという、真理の法則です。スピリチュアリズムの大原則であり、この世の出来事はすべて、この仕組みで展開しています。

この仕組みは、「自分がまいた種が、実る」などの言い方もよくつかわれますが、実際に、いろんな出来事が起こっても、自分が「いつ」まいた、「どんな」種が実った結果なのか、という点までは、把握することは、通常なかなかできるものではありません。

また、この仕組みの意味するところは、「必要な学びを、どこかで必ず経験するようになっている」という部分なので、大切なのは仕組みの理解と、学び向上していく姿勢であり、原因そのものを特定することではありません。なので、あまり「過去の何がどう影響して・・・」と、考えすぎなくてもいいのですが、ここで分かりやすい例と仕組みをひとつ取り上げてみます。

自分でも忘れていたくらいの遠い過去の記憶が、唐突にクローズアップされて・・・、しかも、そのことが、自分にとって「やっちゃった・・・」的な、思い出したくないような;、若気の至りや知識の薄さで起こったような出来事だった場合、

その現象は、ごく最近起こった(通常、自分にとって苦難や困難と思われるような)出来事とリンクしていて、「思いだされた過去の出来事」と、「最近起こった苦難」とで、プラス/マイナスの帳尻があう、カルマの法則が働いている場合が多いのです。

何故忘れているかというと、自分の中に備えてはいても、その記憶はエネルギー的な観点からいうと「眠った状態」になっていて、活性していないためです。それが、突如、記憶の表面に出てくることも、意味なく起こっているわけではありません。エネルギーが活性して、気づきやすい状態となって、意識の表面に出てきている理由は、ごく最近起こった出来事と、「表裏一体で、セット」になっているためである場合が多いのです(ひとつの例であり、すべてが当てはまるとは限りませんが)。

過去に私に起こった出来事を例にとります。数年前、まだ会社員だったころのことです。少し離れた場所で、ある上司を中心に、数人で打合せが行われていました。その件は、業務上、私には無関係でしたが・・・、上司は、その件に、私を絡めたいと思っている雰囲気を感じました。私は・・・、関わりたくありませんでしたので、その雰囲気に気がつかないフリをして仕事をしていました。

そして・・・、いよいよ、上司が、私の方向に向き直り、今まさしく、私に声をかけようとしたその瞬間、私は、とても強い気持ちで、「やめて、関わりたくない!!!」的なことを、心の中で思いました。

次の瞬間、上司が私の名前を呼ぼうしたのと同時に、「ガチャン」と大きな音がして、上司の袖机の引き出しのカギが、突然掛かってしまったのです。その中には、財布から、スケジュール、印鑑、そして、その引き出しのカギ(笑)・・・、仕事に関係するものが全部入っているのと、突然鍵が下りたことで大騒ぎになり、カギを開けてくれる業者さんを呼んだりしているうちに、上司が私にやらせたかった、私には無関係な件(ここ、強調(笑))は、そのまま、うやむやになりました。

私は、この鍵の件は、私がとてもとても強い気持ちで「嫌だ」と思ったことから、私の念力で、「やってしまった:」と、思いました。・・・そうとしか思えませんでした。物理的な力は、どこからもかかっていないのですから。

そんなことはすっかり忘れて数年経った、去年のこと。突然、家のドアのカギが、開きにくくなりました。固くなった、というか。そのときふっと、上記の思い出が、脳裏によみがえってきました。・・・人の机のカギを壊したカルマが、数年たって、自分の家のカギに降りかかってきた、と思いました(笑)。

この結末は、これを直すのはやはりカギ屋さんに?と思って、タウンページが入っている引き出しを開けたら、そこに、これまた数年前に買ったまま忘れていた、手芸用の油が入っていて、「あ、これをさせってことかな?」と思って、やってみたところ、おかげさまで直りました。

上司の机のカギの話は、この仕事を始める前、師匠について勉強していたころ、同じく指導を受けていた受講生のSNSの中で、「こんなことをやってしまった;」と、話題にしたことがあります。その頃を知っている方にとっては、「読んだことのある話」になりますが、・・・こんな後日談に繋がっていたのでした(笑)。

自分の家のカギが・・・という出来事があって、過去のカギの記憶を掘り起こしただけでは?と思うかもしれませんが、私は、エネルギーの成り立ち的に考えて、逆だと思うのですよね。その記憶がエネルギー的に浮上してきて、「近く」なっているからこそ、思い出すという現象になっている、と。

ちょっと話は変わりますが、私のリーディングで、遠い先の未来のことは分かりませんが、直近の未来については把握できることがあるという理由も、この原理なのです。「カルマ的要素として、これから起こる出来事の原因となりうるエネルギーが、表面に出てくる」からこそ読み取れて・・・、それを逆算的に把握しているようなものです。逆算の把握だから・・・、分かることは、実際の現象そのものではなくて、とても漠然とした内容になるのです。

未来のことはこれから作られるので、はっきりとは決まっていないから、詳細は分からない、という説明を私はしていますが、分かりにくいと思うので、簡略化してそう書いているのであって、実際の「詳細が分からない理由」は、上記の意味合いが大きいのです。

唐突に過去の記憶が持ち上がってきた場合、上記のような仕組みもあるので、最近の出来事と関連しているか、という観点から紐解いていくと、今自分がやらなければならない学びが、見えてくるかもしれません。

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2010年7月23日 (金)

完璧主義の人が、動き出せないのは何故?

もっと先の時期にやろう、力がついてからやろう、と、考えすぎて動けない人は多いものです。そういう人達の中には、「完璧主義」的な性質を持っている方も多いです。

理想が高いのはよいのですが、そしてやる気がないわけでもないのだけれど・・・、とにかく、目指すところが高すぎて、いつまでもスタートを切れないのです。「もっと力がついて、実力が見合ったものになってから・・・」なんて考えていたら、いつまでも何も取り掛からないまま、時間だけが過ぎて、そのうち人生が終わってしまうのではないでしょうか。

完璧主義の人は、文字通り「完璧」にこだわっているのですが、この世というのは未熟な人が学ぶ世界であり、完璧というものはありません。誰もが成長して完璧(完全)を目指して学びをしていることは確かですが、この世にいる限り、完璧が達成されることはありません。

この世は、完璧(完全)を体現する世界ではなく、経験を積み重ねることで成長し、完璧に向かっていく過程の世界です。このことを取り違えれば、偏ったこだわりで、自分が自分を狭い世界に押し込めることになります。

霊的(スピリチュアル)な考え方というのは、ひとつひとつの事象にこだわることではなく、物事を広い視野で大局的にとらえることです。(ひとつひとつに、○×をつけるようなこだわりは、霊的の逆で、とても「現世的」な解釈です)

完璧主義の人の特徴も、それぞれ別個にとらえるならば、どれも素晴らしいものなのです。理想が高いことも、妥協ができない信念も、より高いものを表現しようと考えることも・・・。

けれど、それらを、大局的に包括して考える場合、「本人の細部へのこだわり」が、イコール「全体のバランスを欠く行為」となり、自分が自分の人生を歪にしてしまうこともあるのです。動くべきときに、こだわり過ぎて動けない、という点も、その要因でもあり結果でもある、最も分かりやすい事象です。

完璧ありきの考え方になると、先延ばしするしかなくなるのですが、「もっとうまくできるようになってから、実行しよう」という考えは、やる気が起きない消極さとは違って、やる気自体はあるので、逆に、問題点に気づきにくいという側面があります。

ごく普通にイメージする、行動しない人というのは、「消極的な人」だと思うのです。だから、自分で自分を考えるにあたり、自分にはやる気があるし、消極的になって動かないのではなく、高い理想も掲げているのだからと、「とにかくどんな理由があろうとも、行動をしていないという現実」を覆ってしまうのですね。

完璧主義が悪いというのではなくて、どんなことでもバランスが大切で、適度ならば素晴らしいものも、過度になったら悪影響もでる、という意味です。

他人を変えることはできないし、その権利もありませんから・・・、私がお伝えできるのは、スピリチュアリストとして、スピリチュアリズムの観点からの、「仕組み」を述べることです。

完璧主義ゆえに動けないループにはまっている人の申し上げたいのは、この世は未熟なたましいの学びの場である以上、「向上」することはできても、「完璧にいきつくことはできない」という点です。

つまり、こだわり過ぎても、「存在しないものを探している」かのように、キリがないのです。右にないものを右に探しにいき、360度まわって一周してしまうようなものです。そこで、一周したことに気づければ、模索したことにも意味があったと言えますが、一部分へのこだわりというのは、全体を見渡す視野を塞ぎますので、なかなか気づけず、何周も同じことをしてしまうのですよね・・・。

たくさんの知識や思考は、経験の進捗を底上げしてくれますが、経験なくして活かされにくいのも事実なのです。完璧にこだわって、いつまでもスタートしなければ、地道に今できることから経験を重ねている人達が、失敗をも糧としながら前に進んでいく様子を、ただ眺めていることになりかねません。

先延ばしにするのは、もうやめてもいいのではないでしょうか。そろそろ、自分のやるべきことを、見据えて「動き出す時期」ではないでしょうか。完璧なものを世の中に提供したいと思っても、それはムリな話ですし、なにより、「どこの誰が、あなたの完璧を求めているのか」を考えてみてほしいのです。そうすると分かります、完璧な自分の実力を求めているのは、「自分」なのだ、と。自分がこだわっているだけだ、と。

さらに付け加えておきます。完璧主義の人は、自分への理想追求の気持ちも実際高いのだけれど、結局、「人の目」が気になっている人が多いのです。自分の理想というオブラートにくるんでいるものの、その中身は、人から低く見られたくないとか、人に失敗する姿を見せるなんてプライドが許さないと、他人の評価を気にしています。ここで言いたいのは、他人の評価を気にすることの良し悪しではなく、「波長の法則」についてです。

波長の法則とは、同じものが引き合うという、真理の仕組みです。現時点で周囲の人を見渡して、自分の実力が完璧ではないから、比べられても遜色のない自分になってからスタートしよう、と思って向上の努力をして、それが達成されたとします。しかし、波長の法則がある以上、向上した自分の周りに集まってくる人は、以前とは別の、「今の、向上した自分の波長に見合う人達」となります。

世の中というのは、上には上がいるものです。「もっとすごい人」が、ほどなく目の前に現れるでしょう。そうするとまた、さらに向上しないと自信を持って振る舞えない・・・となり、さらには・・・と、結局どこまで登ってもきりがないのです。

つまり、完璧主義ゆえ動き出せないという事実さえも、実は見せかけの理由に過ぎない、ということです。見せかけの理由は、どこまでその条件を満たしても、事態がいっこうに改善されないのが特徴です。それは過去に何度も書いてきました。

動きだすためには、こだわりの度が過ぎている自分に気づき、納得し、どうすればこだわりが薄れるのか、についての答えを得ることなのです。それは、人によって違い、ある人は真理の仕組みを知識として知り納得することかもしれません。またある人は、別の人の経験談に心を打たれるのかもしれません。この点は、個性の数だけバリエーションがあります。

こだわり過ぎている自分に気づくことが、まずは最初の一歩なのだと思います。

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2010年7月22日 (木)

オーラの最優先事項は「明るさ」。

オーラは、とても精妙で奥深いものです。「私たち人間は、肉体をもった霊」という、とても複雑で神秘的な存在なので、その複雑な存在を反映しているオーラもまた複雑で、「あなたのオーラは、○○」というような、単純なまとめは不可能です。

一般によく話題になる、分かりやすい要素だけでも、明るさ、色の差、濃淡、質感、形状などがあります。これらも、とても奥深いものの一部でしかありません。

その、「一部でしかない要素」のうちで、あえてひとつ、どの要素が大切を述べるならば、私は「明るさ」だと思っています。なぜなら、オーラの色は、その人の性質や精神性があらわれますが、どの色が素晴らしくて他の色が劣っているなどの優劣はありません。単に個性の差があらわれるだけです。

他の要素もだいたい同じ解釈、けれど、「明るさ」には優劣があります。明るくないオーラ(つまり、くすんでいるオーラ)は個性がどうとかの問題ではなく、くすむ要因があってそうなっているからです。

たとえば、川は常に流れているものであるように、オーラも本来は明るく輝いているものなのです。それがくすんでいるというのは、「くすむ要因がある」からです。本来流れているはずの川に、流木が引っかかっているかのように、流れを止める要因があって・・・、明るさが損なわれている状態です。

誰もが備えている、「本来の明るさ」を発揮していくような生き方が大切です。そのためにどうすればいいか、という観点から、このブログの大部分は構成されています(一部、スピリチュアリズムの知識のみを書いているものもありますが、知識は理解と実践に役立ちます)。

オーラを明るく輝かせるには、自分を高めていくことが大切です。なぜなら、オーラの様子は、自分自身の反映だからです。

オーラを輝かせることで素晴らしい自分になれる・・・のではなく、「素晴らしい自分であるという事実が、オーラの輝きとなって表れている」のですから、そうするためのお手軽なハウツーはなく、自分をあらゆる意味で向上させていく努力や経験、感動の積み重ねをしていくことが大切なのです。

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自分のニーズを満たすのか、相手のニーズを満たすのか。

仕事というのは、需要と供給、「相手のニーズを満たすこと」で成り立っているものだと思います。

どこかに需要があって、そこに供給することで、対価がえられます。「髪を切りたい」と思っている人がいて、そして「美容室」があり、カット技術を提供する美容師さんがいることで、需要と供給が合い、カット代金という対価が支払われますよね。

突然、セールスの電話が掛かってきて、「マンションを買いませんか?」と言われても、欲しいという需要がなければ、返答は「ノー」となり、セールスは成立しません。売り手側が供給しますよ、となっても、買い手に需要がないわけです。

しかし、営業マンの給与は、私がマンションを買わないと、支払われない・・・なんてことはないはずです。社長からすれば、「客に、セールス電話をかける労力」というニーズがあって、営業マンは、雇われている会社のニーズを満たしていますから、そこでも、需要と供給が存在します。

とにかく何らかの形で、ニーズがあり、それを供給できる人がいて、労力と対価を交換することで、金銭の絡む「仕事」が成り立つ仕組みです。

いつか起業したいという方は多いのですが、ほとんどの方は、「相手のニーズ(お金を払う人のニーズ)」という考え方が抜け落ちていて、「自分のニーズ」を優先して考えてしまっています。「自分が、何を提供する役割になったら、やりがいや手ごたえを感じて、自分が満たされるのか」を、第一に考えてしまって、視点がずれているのです。

自分が楽しいことややりがいを求めて仕事をするのが悪いという意味ではないです。楽しいことも、充実感も結構だけれど、「あなたが楽しいと感じることは、「お金を払ってでも、それを頼みたい」という、誰かのニーズがあるか」を、考えていかないと、成り立っていかないのです。

多くの人は、自分で自分のことが分からないので、実は世の中のニーズがある資質を備えていることに、気づいていない場合もあります。自分にとっては「普通のこと」なので、それができない人や欲しい人がいることが分からない、というケースです。

そして、一方では、自分と他人が同じ価値観を持っているとは限らないことに意識が向かず、自分がやりたいことを見つければ、それだけで仕事が成り立っていくと勘違いしてしまうケースも多いです。以前に、「新たなことを一から始める場合に考慮すべきこと」という記事を書いたのですが、この中にあるように、とにかくそのことに取り掛かれば、うまく展開していくに違いない、という思い込みを抱きがちな点は、注意が必要です。

「始める」のと、「維持できる(成り立っていく)」のとは、違います。まずは、始めることに、とても勇気がいるので、そちらに気を取られるのは分かりますが、「始めてしまえば、OKではない」のです。

ニーズさえあれば、仕事としてやっていけるかというと、それも極端すぎると思います。自分で仕事をしたいなら、やはりモチベーションを保つことも必要ですから、まったく好きでもなく興味もない分野での起業は難しいことでしょう。けれど、「好きなことをしたい」という気持ち「だけ」では、成り立たないことも事実なのです。

自分の好きなことに、誰かが「お金を払ってでも、欲しい」、と思ってくれて始めて売買が成立するのであって、「自分が好きなことを、力いっぱい尽くしていけば、成り立つというわけではない」からです。好きなことで成り立つ場合というのは、自分がどれだけ精一杯やっているかに比例するのではなく、「自分の好きなことで、かつ、誰かのニーズを満たしている」からこそ、です。

起業を目指している方は、この視点を忘れないようにしてください。多くの方は、自分のことばかり考えていて、「分野を定めて始めれば、そのまま軌道にのるもの」と思い込み、需要という観点からの検討が足りていないと感じます。

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2010年7月21日 (水)

経験が、自信を作る。

今までとは違う、新しい行動をしようとするとき、すぐに決断して行動できる人と、考えすぎてなかなか行動に繋がらない人がいます。

すぐに行動できる人は、はじめから迷いが少ないか、もしくは、迷い悩む段階を過ぎて、意思が明確になっている状態なのでしょう。自分の決断に自信がある、自分を信じられる人なのだと思います。

考えるだけで、実際の行動に繋がらない人の多くは、自分の決断に自信がもてないので、自信を支える裏付けとなりそうな、情報を得ようとします。けれど、これから起こること、現時点では未知の分野に対しての、明確な裏付けなどあるはずもなく(だからこそ、決断に迷いが出ているのですよね)・・・、「存在しないものを探している」から、いつまでも動けません。

かといって、その状態にある人が、無理に決断をして動いても、あまりいい結果につながらないことが多いです。ちょっと何かあるたびに、「やっぱり、ダメかもしれいない」「だから、選ぶべきではなかった」と、スタート地点の不安を引きずるからです。未知のものに不安があるのは誰もが同じなのですが、過去の不安(後悔)も引きずってしまっては、何をやるにも常に迷いが出てきて、集中力を欠き、しなくてもいいミスを呼び込み、自分で自分を追い詰めることになりかねません。

つまり、決断できない人は、「その理由のひとつである、自信のなさ」にフォーカスして解決策をさぐるべきであり、決断できない状態なのに無理に決断することも、情報をたくさん集めることも、前に進むための方策としての、論点がずれている状態に思えます。

自信が持てるようになるためには、「経験を積むこと」が必要です。たくさんの情報や知識を知っていることも助けにはなるけれど・・・、経験のない知識は、使える知恵にはなりにくいです。「経験と知識」のどちらが欠けても、自信につながりません。このふたつの要素は、「掛け算」です。つまり、どちらかがゼロなら、・・・掛け合わせた答えもゼロになってしまう、ということです。

経験が必要といっても、特定の行動をさすのではありません。「すべての行動が基礎となっていく」という意味です。

たとえば、10段ある階段の、3段目まで昇っているとします。4段目に昇るのはもちろん初めての経験。しかし、3段目までの経験があれば、「多分4段目以降も、○○○かな」などと、予測がつくようになります。この「経験則」というものは、大いに自分を助けてくれます。

とにかくたくさんの行動を重ねていき、自分に幅を出すことでしか、自信は作られないのです。どんな行動でもやってみて、基礎的な経験からくる基礎的な自信を、まずはつけていくことが大切です。

でも目的に直結しない経験なんて、遠回りになるからしたくない、と思う人もいるかもしれません。しかし、それは遠回りではありません。「それが、本来の進み方」なのです。経験なくして、不安感から解放されたいというのは、「近道」を望んでいるようなものです。

近道というのは、普通の道を通りなれた人の「応用」であり、階段の4段目以降に位置するものです。通りなれない近道は、普通の道を行くよりも、不安が大きくなることもあります。「不安で前に進めない」というのに、もっと不安になる道を探しても・・・、ということです。

今、北海道では、高速道路無償化の運用実験が行われています。多くの人が言っているのですが、料金が無料になるのはありがたいけれど、土日は混んで進まないし、スピードを出さない人がいるので、「危ない」と感じる、と。

北海道は、本州のように高速も混雑することはまれです。なので、結構スピードを出す人が多いです。長距離バスとか、カーゴとか、プロが運転する営業車が多いです。そこに、普段乗りなれない素人が突然入っていったら、確かに危ないかもしれません。「ゆっくり走って、安全」なのは、一般道路の話であり、高速道路で「ゆっくり」走ったら、他の人のペースも乱します。

「慣れない人の、近道」は、必ずしもメリットになりません。そして、慎重な性格の人(で、普段乗りなれない人)は、無料になっても、「自分が乗ると危ないから」と、最初から使わない場合も多いと思います。つまり、不安を解消するために確実な近道を・・・と思っても、そこまで考えるタイプの人は、仮に近道を見つけても、やはり進めないのでは、と思います。そういうタイプの人が、高速を利用しようと思ったら、「運転を磨いて自信をつける」しかないのです。

つまり、前に進めない人は、自分を信じることができるか否か、出来ないとしたらその理由はなぜか、自信をつけるためには、どうしたらいいのか、という部分に焦点を当てることが大切で、そのためには「経験」が必要で・・・、それなくして、方法や情報だけを得ようとしても、自信には直結しないから前に進む原動力にはなりにくいのです。

そうそう、これも付け加えておきましょう。

この、高速道路の話は、多くの人が「こうなることは、予測がついた」と言います。分かりきったこと、だと。車に乗りなれている人にとっては、経験から導き出せる予測の範疇なのでしょう。

しかし、私は、「高速道路が無償化」という知識があっても、そんな予測は立てられませんでした;。なぜなら、私は免許を持っていませんから、運転しないので、「知識×経験=知恵」の、経験の数値がゼロなので、・・・掛け算の答えはゼロ、だからです。

経験(行動)も知識(情報)も、どちらも等しく大切です。知識がたくさんあって、それを活用して創造的に生きたいと思ったら、経験に「数値を入れる」ことです。そうして、掛け算で、ゼロ以外の数字が出てくるのです。

高速の例で言うと、普段乗りなれない素人でも、あまり深く考えずにぱっと動いてしまえる人は(それも良し悪しでしょうが;)、「すぐ動ける人」なのでしょうね。こういうタイプの人は、深く考えずに行動して、仮に少々痛い目を見ても、それを「経験」にしていくことができます。どちらか一方がよくて、どちらかが悪いという意味ではないのです。この記事は、「考えすぎて動けない人」の立場にフォーカスした内容だと思ってご理解くださいませ。

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2010年7月20日 (火)

「自分が喜びを感じる、天職」と、「趣味」との境目。

仕事には、「生活の手段としての、適職」と、「喜びを感じられる、天職」があり、この二つを分けて考えたほうがいい、生活の手段としての仕事で、楽しみや喜びを感じようと、「好きな仕事」を求めても、うまくいかないことが多い、と、よく耳にしますよね。

天職には、(自分が楽しみなどを得られる分)金銭がついてこないことが多いので、「自分のやりがいのため」「人のため、奉仕的精神で」「自分の資質を、世の中に発揮していこう」などという、精神的な部分での満足は得られますが、生活の手段にはなりにくいものです。

「適職と、天職を分けたほうがいい」というのは、江原さんの本を読んでいらっしゃる方なら、誰もが一度は目にする、定番のフレーズですよね。なので、スピリチュアルに興味を持っている方の多くは「知識として」は、分かっていても、なかなか、実践することが難しいようです。

どんなことでも、言うよりも行うほうが難しいものですが、何故、「天職を、生活の手段とは別のところで持っていき、自分の満足感を得る」ことができないかといえば、「天職」を、「趣味」や「道楽」と、一緒に考えてしまっているからではないかと思うのです。

適職と天職の違いを区別するという知識がついて、さて天職を・・・と思っても、今度は、天職と趣味との区別があいまいになってしまうのでは、多分、取り掛かることができません。天職というものを、趣味とイコールのようにとらえてしまうと、「天職を持つことで、バランスがとれる」ということが、道徳論やきれいごとの建前のように、感じられてしまうこともあるのではないでしょうか。

天職というのは、金銭面がついてこないことが多いとはいえ、「職」という文字が入っている以上、自分の資質を発揮して、何らかの役目を果たすこと、だと思うのです。つまり、自分が喜びを得られるという要素が含まれるとしても、その行為は、自己完結ではなく、「外に向かって、誰かのために働きかけるとか、人に影響を与える」ものが、天職と言えるのではないでしょうか。

たとえば、「ネットで、各地のおいしいものを取り寄せて食べる」ことは、自分の楽しみの世界ですから、趣味の範疇だと思います。しかし、「取り寄せたものを、家族に食べさせたい」などの、自分以外に影響することを、自分が労力をかけて行うことが、天職と言えると思います。この例は、・・・範囲が狭すぎるかもしれませんが(笑)。

芸術作品を作るのが好きな人が、「自分の技術が向上していくのが楽しいし、没頭できるので気分転換にもなる」という目的で作業をするのは、人に働きける要素がほとんどなく、自分自身の向上を目的としているので、天職というよりは、「自分の成長のため」だと考えられます。

しかし、作品を、展示会に出品する目的があるなら、会場で人の目を楽しませるなどの作用がありますから天職になると思います。制作方法を指導する活動も、同様に天職になるでしょう。自分の世界で、没頭できるほどの楽しさは得られないかもしれませんが、その分、「人のために役立つ」という、別の満足感がえられます。

適職以外の、天職を考えるにあたり、「自分以外の誰かに、間接的にでも、影響を与える要素がどのくらいあるか」を、考えてみると、分かりやすいと思います。お金がついてきにくいとはいえ、「職」ですから。

私がここで言いたいのは、趣味が何も生まないとか、自己完結ではダメだとか、そういうことではありません。自分を向上させることも、楽しみを感じることも、とても大切だと思います。ただ、それとこれ(天職)とは、重なる部分がないとはいわないけれど・・・、イコールにしてしまうと、大元の目的である、「適職を天職を分けたほうがいい」という言葉の意味するところから、視点がずれてしまいますので、あくまで、天職を考えるにあたり、判断の基準をひとつ提示させていただいたにすぎません。

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「望んでいること」と「避けたいこと」が、並び立つ考え方を。

これからしたいことや、手に入れたいことなど、何を目指して生きていくかを考えるにあたり、「望んでいること」と、「避けたいこと」が、食い違わないようにしなければ、なかなか、結論に至らないものです。

たとえば、「独立して起業し、社長になって、人を使う立場になりたい」と思っているとします。これは、「望んでいること」ですね。

その一方で、「将来についての不安から、解放されたい」とも、思っているとします。これは、「避けたいこと」(=不安)です。

しかし・・・、この二つは、はたして、並び立つでしょうか。

きっと、今の仕事の将来性に不安を感じることがあり、それならば、自分で起業したい、という意思と結び付いてのことなのでしょうけれど、実際には、社長になったら、常に頭の中は経営のことでいっぱい、人を雇う責任もある、受注は順調に得られるだろうか・・・、もしも売掛が焦げ付いたら・・・、もしも・・・と、不安は尽きないことでしょう。

この二つの要素は、「社長になる」ことでは、ひとつしか満たされないですよね。一見、並び立つように思えても、よくよく考えると、逆の要素があるわけです。

「独立したい=望んでいること」、そして、「人に使われるのは嫌だ=避けたいこと」というのなら、この二つの要素は、両立できますよね。独立することと、人に使われる立場から抜け出すことは、「同じ」ですから。こういう場合なら、思考が結論に至るのは、難しくないので、具体的なアイデアや行動に結び付きやすいものです。

けれど、望むことと避けたいことが、重ならない場合は、どちらかを優先すれば、どちらかが遠のいていくため;、考えても考えても、思考と結論の距離が縮まりません。・・・いつまでも結論が出ないことを考えているわけですから、時間だけが過ぎていきます。

つまり、「望むこと」と「避けたいこと」が一致していれば、いずれ結論は出るのです。時間をかけて考えても、結論が出ないで、堂々巡りになってしまうのは、掲げている複数の条件に矛盾があるからではないでしょうか。

自分で自分を見つめる視点には、思考の習慣というバイアスが掛かってしまうので、意外と、矛盾点に気がつくことができないものです。

自分のことは自分で決断していくのが基本ではありますが、思考が堂々巡りになって、風通しが悪くなっていると感じる場合には、信頼できる方の「第三者の視点」で、分析を手伝ってもらったり、アドバイスをしてもらうことも気づきに繋がるでしょう。

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2010年7月19日 (月)

「赤×青」は、男前オーラ。

の元気さと、のクールさの両方を併せ持った人は、男性だと、よくモテるタイプだと言えます。反対の要素を持っているので、「分かりやすい魅力」があるためだと思います。

この色の組合せがよくて、他が悪いということではありません。他の色にも、それぞれ違った良さがあるのですが、「赤」「青」が表わす要素は、受け取る印象としても、ストレートに「分かりやすい」「キャッチしやすい」ためでもあるのでしょう。

女性の場合も、この組合せの方は、「女性にもモテるタイプ」です(笑)。バレンタインデーに、後輩の女性からチョコレートを貰ってしまったりするタイプですね。

意見がはっきりしていて、行動的でもあり、分析力や判断力もあり、というタイプなので、「フェロモン系」なモテ方とは、ちょっと別の形で、男性にもモテるタイプでもあると思います。男性にも女性にも、「付き合いやすい」という印象を与えることが多いでしょう。

女性がお仕事をしていくにも、最適な組合せの一つだと思います。赤の行動力と、青の分析力の両方があるので、フレキシブルな判断ができる、「機転のきく人」になれますし、付き合いやすいという好印象を与えるタイプでもあるからです。

ごく一部の職種を除き、女性が仕事をしていくには、男性から「仕事がやりやすい人」だと思ってもらわないと、業務がスムーズに進まなかったり、責任のある内容をまかせてもらえなかったりすることもありますよね。

その点、「赤×青の、男前オーラ」の女性は、変な言い方かもしれませんが、「男性と同じように」仕事上で、扱ってもらいやすい部分もあり、「実力勝負」したい方には、最適な組み合わせだと感じます。

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2010年7月16日 (金)

肉体に近い層のオーラは、見えやすい。

よくいただくご質問で、

「暗いところでぼーっとしている時に、手の周りに見える光はオーラ?」
「でも、見える色はいつも同じなので、オーラではないかも。だとしたらこれは何?」

というものがあります。

オーラは、7層に分かれていると言われています。肉体に近いほうから、一層、二層…と数えて行く場合の、「一層目」と「三層目」は、わりと見やすいオーラ層です。

肉体に近い層を見るのは容易で、離れた層を視界に入れるのは難しくなります。見やすい層については、「目の使い方」「焦点の合わせ方」のコツをつかめば、ほとんどの方が視界にとらえることが可能です。私は今までに、たくさんの方に、焦点の合わせ方の指導をさせていただきましたが、まったく把握できない方は、過去にお一人だけだったと記憶しています。

下の写真は、「クラーク博士像」に、画像加工ソフトで色をつけたものです。一層目は、左の写真のように、ブルーに見えると思います。そして、右の写真は、三層目の状態です。このように黄色っぽい光が、青よりも幅広く広がっているように見えると思います。

590.gif

暗がりで、目の焦点をぼやかしたときに、自然に視界にとらえたオーラ層は、だいたい、この2つ、一層目と三層目であることが多いです。

つまり、この時見ているのは、「オーラの構造としての色」であり、たとえば感情などの移り変わりを色で見ているわけではないのですね。なので、見える色が、変化せずに、一定なのでしょう。

たとえていえば、7段ある階段のうち、一段目に青いペンキが塗ってあり、三段目に黄色のペンキが塗ってあるという「構造」を見ているようなものです。さらに詳しくいえば、一層目の青も、その時の状態により「青の度合い」が変化したり、また個人差もありますが、「構造」は同じです。

とにかく、「層の構造としての色」と、感情や体調などの状態を表わす、変化するオーラの色とは、同じではない、ということです。変化する部分を見分けるのは、容易ではありません。

単純に「見える」「視界にとらえられる」のと、「見分ける」「差異を把握する」のとは、同じではない、ということです。明確な区分けは難しいのですが・・・、分かりやすさのために、私は、後者の方をさす場合は、「オーラ透視」という言葉を使うようにしています。

差異を見分けているのではない場合、上記のとおり、一層目~三層目あたりに焦点が合っているため、だいたい、「青」「黄色」「緑」などに見えることが多いでしょう。そして、単一の色しか見えず、グラデーションや部位の違い、色の移り変わりなどは分からないと思います。

または、オーラの存在は視界でとらえても、色までは見えない人は、「透明」「白っぽい」状態にも感じられるケースもあるかもしれません。

さらに詳しく知りたい方は、バーバラブレナン著「光の手」を読むといいでしょう。・・・かなり難しい本ですが;。今の私が読んで、やっと何とか半分くらいついていける・・・くらいの難易度ですが( ̄m ̄;)、オーラについての記載は、一番詳しく、そして実情に合っている本だと感じます。

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2010年7月14日 (水)

前世で短命な人は、「大人の自分」を想像しにくい。

直近の前世や、少なくとも数回前くらいの近い前世で、「短命で終えた生涯」を経験している人は、今回の人生でも、「大人になった自分」「未来の自分」を具体的にイメージしにくく・・・、何をするにしても、どうも腰が重くなってしまう、スタートまでに時間が掛かってしまう傾向がみられることがあります。

中年齢以降の経験値が少ないため、「ピンとこない」のです。経験不足のため、未知のものに消極的になる…という意味ではなく、「中年齢以降の人生を生きている自分」という想像がつかなかったり、いつまでも、いくつになっても、少女の感覚のままで、どこか大人になりきれない方も多いです。

たとえば、結婚したい意思が漠然とあっても、「実際に自分が結婚する」という事実が、どこか夢のような絵空事のような、「今ではない、もっと遠い未来に、大人になってから起こること」のように、とらえてしまうのですね。30代になっても40代になっても、結婚や親になることは、もっとずっと先の未来・・・にあるかのような、不思議な感覚のまま、人生を送ってしまう方も多いのです。

上記のような方に対して、現実逃避をしている夢見る夢子さんで、頭の中がお花畑の人、のようにイメージしてしまうかもしれませんが・・・;、しかし、そういうまとめ方は、少々気の毒かな・・・と、感じます。

表面だけをとらえれば、現実を見ていない生き方を実際にしているかもしれませんが、本人的には、たましいの備えている傾向というものがあるので・・・、「分かっていながら理屈をつけて目をそらしてる」のとは、ちょっと違うのですよね。でも、「そこ」を学ぶために今回の人生があるわけですから、そのままでいいはずはなく、さまざまな新しい経験に挑んでいくことが大切です。

しかし、とにかく腰が重く、受身で、「精神性が高くなれば、(自分が何もしなくても、自然に)結婚できるのでしょうか?」なんて、現実の物理的な世の中を踏まえない考え方をしたりします。「そのためには、自分から行動しないと、物事は展開しませんよ」と言っても、「でも・・・・、私、そういうのって苦手なんですよねぇ」なんて、まるで他人事のような反応をします。本人的には、実際に、半分他人事のようなもの、なのでしょうね。だからこそ「ピンとこない」のだと思います。

想像する、というのは、頭の中で誰でもできるように思えてしまいますが・・・、しかし、実際に見たこともないものを想像しろと言われても難しいように、「想像力の及ぶ範囲は、本人の経験によるところが大きい」のです。経験値が少ない人は、想像力が発達していないものなので、「現実を踏まえて考える」という想像力も、薄くなってしまうのでしょう。

実際に、自分の前世がどうだったか・・・というのは、必ずしも知る必要はないと、私は個人的にそう思います。しかし、現状から分析して、もしかして、自分がこのパターンに当てはまっているかも・・・と、思い当たる方がいたら、「今回の人生は、大人として生きる経験をするために生まれてきたはず」と、自分に言い聞かせて、たくさんの実りある経験を積み重ねていく生き方を、選択していただきたいと思います。

「私の前世は○○だったから、それが原因で今は××だ」というのは、あくまで「自分の中の納得」であり、対外的な理由にはなりません。

恋愛も結婚も、自分ではない「他人」としなければならないのですから、(それが必要ならば)前世からなる考え方の傾向を、今に活かしていくのはよいですが、前世という事象そのものにとらわれてしまうと、意識が「自分」にばかり向き、「他人」との付き合いを遠ざけてしまうこともあります。

能動的になれない理由にも、実にさまざまな理由があります。前世を免罪符にすることは賛成しませんが(・・・ていうか、なりませんが;)、実際、前世が原因で、考え方に特徴が出てしまうことはあるのです。

なので、この内容に全く当てはならない、大多数の方には、「こういうタイプの人」を、現実逃避している困った人、のように一方的な定義付けをして見下したりしていただきたくないですし、自分がこのパターンに当てはまりそうな人は、理由に納得だけしてそこで終わることなく、「今回の人生は、大人として(たとえば)女性としての経験を、たくさんしていく目的もあるのだろう。そのために行動しよう」と、意欲につなげていただきたいと思います。

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2010年7月13日 (火)

オーラの色の濃淡。

本質を表わすオーラには、性格や霊性の発達度合いなど、精神的な要素が現れます。オーラの色の濃淡により、備えている性質が「どのように外に向かって発揮されているか(もしくは、本人がどのようにしたいと望んでいるか)が、分かります。

単純に「オーラが青」とか「オーラが赤」とかの区分けに、あまり意味がないのは、「色だけ」では計れない部分があるのと、「色」にしても、一口に赤といってもさまざまな赤があるわけで・・・、それを、とても大雑把なくくりで、「オーラは赤だから、あなたは○○」と、便宜上の区分けをつけているに過ぎないからです。

また、色の濃淡にも優劣はなく、「それぞれが、どんな傾向を表わすか」という違いがあるだけです。どちらにも、良い部分もあれば、そうでない(可能性に結び付きやすい)部分もあります。

色が薄い人は、純粋で素直なタイプの方が多いです。どちらかといえば受身で、自己主張が強くないほうです。大人でも、こういうタイプのオーラの人は、「子供のころと変わらない純粋さを持った人」ともえいますが、逆に言えば、社会性が薄くてすぐに人を信用しては騙されたり、行動力や決断力が弱かったりという傾向もあるので注意も必要です。

色が濃い人は、自分を発揮したい、表現したいという能動的な意欲のある人です。もしくは、(本人の自己評価とは無関係に)備えているものを発揮していると、色が濃くなっていきます。こういうタイプの方は、アクセルの踏みすぎには、気をつけなければなりません。また、自分の思い通りにならないことがあると、オーラがくすみやすいのもこちらのタイプです。

理想は、「オーラが明るく輝いて、色が濃く放たれている状態」なのですが、上記のとおり、色が薄いとくすみにくいけれど勢いにも欠け、色が濃いと活力はあるけれど、その分くすみやすい傾向があります。

薄い色の人は、ピュアで素直な部分を大切にしながらも、能動的な感性を身につけることが大切で、濃い色の人は、自分の個性や資質を活かしながらも、自己主張が過剰になりすぎないように気をつけていくことが大切です。

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2010年7月12日 (月)

オーラの、複数色の比率。

本質を表わすオーラの色は、一色だけではありません。「あなたのオーラは、赤」という表現をするとしたら、赤の比率が目立って高い、という意味だと思われます。

人により差はありますが、だいたい、3色前後が一般的かな、と思います。(それも、3色だけが存在するという意味ではなくて、目立って比率の高い色が3色くらい、という意味です)

私のオーラの色を例にとると、比率の高い色は、「紫」です。そして「青、赤、金」などですね。でも、それ以外の色が備わっていない、という意味ではありません。比率の高い色が、その4色である、ということです。

人とは、多面性をもつ存在なので、複数の色を備えていますが、それらの「比率」の違いで、性格の現れ方も違ってきます。(というか、性格の違いが、色の比率の差になっている、とも言えますが)。

私のオーラのように、メインの色が1~2色あって、他の色の比率が低い場合は、「表面に出てくる性格は、だいたい一定」で、他の要素はサブ的に現れます。私は、紫の要素がメインとなります。

一方、複数の色が、どれも同じくらいの比率で備わっていて、メインとなる色がない場合は、「表面に現れる性質が、その都度コロコロ変わる」タイプです。考え方も、感じ方も、その時々で変化していくので、人からの評価も一定せず、自分でも考えが定まらなかったりしやすいです。

どちらが良い、悪い、ということではないです。同じ色を備えていても、比率により、違ってくる、という話です。・・・というか、性質の違いが、色の比率に現れている、という表現の方が正確かもしれませんが。

自分らしさとか、独自性を発揮できていくようになると、自然に、その性質を後押しするような色が強くなっていき、メインとなる色が1~2色に定まっていくもののように、感じます。経験上、そういう傾向があるように感じます。

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2010年7月10日 (土)

嘘を言ってるときは、オーラがゆがんで見える。

嘘・・・という表現はちょっと厳しすぎかもしれませんが、「本心ではない発言」をしているときには、その人のオーラがゆがんで見えることがあります。

必ずそう見えるわけではないのは、私がそのつもりになってみていないためか、それとも、本人の罪悪感みたいな感情の多寡とも関係しているためなのか・・・、そのあたりはよくわかりませんが( ̄_ ̄;)。

ゆがむというのは、オーラ全体の形がそうなるというのではなくて、エネルギーの「流れがゆがむ」ような感じ、ですね。

イメージしやすいたとえが思い浮かばないのですが・・・、外で天気の良い日に、地面から「かげろう」というのでしょうか、ゆらめきが立ち上る現象がありますよね。あんな感じで(とは、ちょっと違うけれど;)、オーラが、不自然にゆがみを見せるというか・・・、その発言をしているときのオーラは、発言前のオーラと、違う状態になることがあります。

嘘をつかれているとき、なんとなくそれが分かってしまう場合があります。発言に矛盾はないのに、なぜか、直感的に「これは、違う」と分かる経験は、多くの方が持っていることでしょう。

それは、「相手のオーラのゆがみ」を、感じ取っているためではないのかな、と思います。

人との交流というのは、オーラの交流でもあります。面と向かって話している近い距離では、オーラも重なり合っていますから、相手のオーラが、その発言前と、発言中で変化したことを、感じ取るのではないでしょうか。

近い距離では、相手のオーラが自分のオーラに映り込んでいるようなものですから、相手の発するオーラの「ゆがみ」を感じ取って、「これは、本心ではないな・・・」と分かるのかな、と。

嘘が分かるのは、感受性が高いから、という表現の仕方で正しいと思うのですが、ではなぜ、感受性が高いと分かるのか、どういう仕組みで感受性が働くのか、というのをあえて説明すると、上記のようなことが影響しているのかもしれません。

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2010年7月 7日 (水)

原因は前世にある?それとも今世?

人の性格を培うものは、いろいろな経験(と、それにともなう感動)の積み重ねです。

例えば、「他者と協調できない」性格の人がいたとして、その原因が、前世からくるものか、それとも今世における環境のせいかと問われると、「両方」という答えが、一番正しいような気がします。

いくつもの前世で、たましいの課題として残ったこと、または培われたことの続きを、今回の人生でも(状況は全く同じではないにしろ)引き継いでいきます。

前世でやり残した課題に、再び挑む場合もあれば、前世と逆のことをして、プラス/マイナスの帳尻を合わせる場合もあります。

つまり、「他者と協調できない性格なのは、前世の影響からくるもので、今回の人生経験は、何ひとつ影響していません」なんて人はいないし、逆もまた同じ。どちらも、影響しあっています。

たとえば、今回の人生で、家族間に問題がある人は、前世でも何かそれに関係する学びがあり、そのことを今回に持ち越したか、または、さらに深く学ぶ(経験する)ために、ふさわしい環境を、自らの意思で選んで、転生してきたことになります。

どんな問題についても同じで、今、あなたの目の前にある、乗り越えるべき課題は、今回の人生経験により、培われたものでもあり、同時に今回の人生以前から起因しているたましいの課題でもある、のです。

なので、「原因は、前世なのか、それとも今世なのか?」という二択には、どちらともいえないし、どちらでもあるともいえる(笑)、という、あいまいな答えになります。

そして、そのあいまいな答えが、一番、真理をついている、と私は思います。どちらも、当てはまりますから。どちらが、自分が、より納得しやすいか、というだけの違いであって、「その人のたましいのレベルで、学ぶべき課題、カルマというものがある」ことは、変わりません。

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2010年7月 2日 (金)

前向きな現状維持も、ある。

新しいことに挑戦するだけが、「前向き」ではありません。よく考えた結果、「現状維持」を選択するという「前向き」もあります。そして、現状という枠組みの中で、何かを成し遂げようと思う気持ちも、「前向き」だと思います。

なぜそうするのかという、動機が大切な基準であって、行為そのもので判断できるわけではありません。置かれている状況がそれぞれ違う以上、「○○を選択すれば前向きで、××をするなら後ろ向き」という、単純な定義付けはできないものです。

現状をよく分析し、自分にとって「最善の選択をすること」が大切です。目新しいことに飛びつくことが、必ずしもよいわけではありません。そして、どちらを選んでも、「自分で選んだ人生が続く」という意味では、「同じ」です。自己責任であることは、変わりません。

新しい世界に飛び込むのが怖いという躊躇がある場合は、その気持ちを乗り越えて、挑戦していく選択が「前向き」であるケースが多いかと思います。

けれど、今置かれている環境からの逃避の気持ちから、新しい世界を目指すのは、前向き・・・ではないですよね。

しかし、その場合でも、「逃避して、新しい場所に移る」ことが、悪いということではありません。逃避した先で、いずれ同じ学びをすることになるでしょうから・・・、今の場所で学ぼうと、環境を変えて学ぶことを選択しようと、すべて本人に自己責任においての自由があります。

たとえば、「環境を変えたいが、今は動くタイミングではないと思うので、しばらく様子見をしてみよう」という判断も、目的を見据えながら現状を分析した上でのことですから、これも前向きな判断だと言えます。

前向きという言葉は、「前を向く」と書きます。前進は、「前に進む」と書きます。「前向き」を、「前進」と同じものとして考えてしまうと、現状維持という選択肢が取れにくくなります。

建設的な動機に基づいたものならば、どんな(表面的に、そうは見えない)行動であっても、前向きになることはできるのです。

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2010年7月 1日 (木)

自分なりの基準が定まっていないと、比較はできない。

比較とは、言葉にすれば簡単ですが、実際に、「比較して、答えを出す」のは、とても難しいことです。

比べるには、「基準」が必要です。この基準の認識は、意外と難しい・・・というか、基準がないままに比較して、いつまでも答えが出せないまま迷い続けている人が多いと感じます。

選べない理由は、「基準が定まっていない(から、比較が難しい)」ためなのですが、そうと気づかず、まったく別の方向に「決め手」を探してしまって、ますます迷路に入ってしまっている方が多いのですよね。

判断の材料が増えれば、答えが出るのではないかと思って、さらに選択肢を見つけてきても、自分が何を基準にして選ぶのか、という部分があいまいなままでは、考えることが増えてしまうだけけで、何を選んだらいいのかは余計に分からなくなりがちです;。

選べないのは、「決め手となる情報が十分に揃っていないため」だと思って、たくさん情報を集めても、本当の原因は「自分の選定基準が明確になっていない」ことならば、解決に繋がっていきにくいです。

どこに行くかが決まっていない状態で地図を手に入れようとしても、世界地図がいいのか、近所の地図がいいのか、分からないのと同じです。大は小を兼ねるといっても、・・・大きすぎても意味をなしません(笑)。

その状態で、「選べないのは情報が足りないからに違いない」と思って、それぞれの地図の使い勝手や、材質や価格を検討しても・・・、選べませんよね( ̄∀ ̄;)。

パリに行くのか、隣町にいくのか(笑)、目指すところが決まっている上で、地図が必要なのであり、「パリにいくか、隣町にするかは、これから買う地図を検討してから決めるわ」なんて、おかしいです。

この例のように、「パリ」と「隣町」くらいの、あきらかな違いがあれば、そういう考え方はおかしいし、ありえないと、誰もがわかるのですが、「地元の銀行」と「隣町の銀行」くらいのわずかな差になると、自分の焦点の当て方が違うことに、なかなか気づけないものなのです。

「自分なりの、基準」があってこそ、比較もできるし、見当もつきます。そこが定まっていないままの決断には、自信が持てないので・・・、仮になんとか選択したとしても、その後もいつまでも迷ったり後悔したりを繰り返して、本来注ぐべきところに力を注ぐことができなくなります。

それでますます不安になって・・・、さらに情報を集めても、その状態を変えない限り、同じことを繰り返してしまいます。

決められない理由は、情報の少なさでなく、「自分(の、基準がない)」だからです。そのことに、早く気づくことが大切だと思います。自分の人生を、創造的で充実したものにするために。

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