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2010年6月22日 (火)

現状に見合った学びが、それぞれに与えられる。

「自分のしたことが、自分に返る」というカルマの法則と、「同じレベルのものが、引き寄せ合う」という波長の法則により、誰もが、「その時の自分に見合った学びをするための経験が、与えられる」ようになっています。

そういう意味では、すべての人が公平です。「自分」と「出来事」というセットで理解すれば、不公平はありません。

階段の5段目にいる人には、5段目の学びがやってきて、7段目にいる人には7段目に見合った学びがあるわけです。

なのに、自分と他人の「出来事だけ」を比較するから、(それぞれ波長もカルマも違うのだから、同じ出ないのは当たり前なのに;)差があるように思えて、私は不幸だとか、真面目な人は報われない、などという、曲解に基づいた不満の感情が出てきます。

隣の芝生は、常に青く見えるものです。けれど、この世というのは、そんなに楽には生きられないようになっています。他の人が、得をしていて羨ましいと思っても、その人に見合った課題は常に与えられているものです。

たとえば、とても能力が高いのに、その資質を発揮する機会に恵まれない人がいるとします。そうすると、「私は、できる力があるのに・・・、発揮する機会がないので不幸だ」と思うかもしれません。けれど、「実力があるけれど機会がない人は、機会を(自力で)獲得するために行動することが学び」です。

逆に、実力以上の役目が巡ってくるような人は、「私には力がないのに、責任の重い役目ばかりで不公平だ」と思うかもしれませんが、「重要な役割に見合った力を、身につけていく学び」があるのでしょう。

自分のレベルに見合った階段を上っていく際に、右足から先に上るか、左足から上るかの違いがあるだけです。「上りきってしまえば、どちらもほどんど同じ」であり、不公平ではありません。

そして、「実力」も「機会」も、どちらもそろっている人は、「能動的に実践していく学び」に直面することになるでしょう。さらに進めば、「他者のために、自分が実践していく学び」へと、移り変わっていくことでしょう。

否応なしに、そういう場面が巡ってきます。「機会がないから、力を出せない・・・」とか、「力がないのに責任があって負担だ・・・」、「あの人がうらやましい・・・」なんて、ぐずぐずいっていられる人のほうが、よほど気楽です。両方がそろった人は、そんなことを言ったり考えたりしている暇もなく、実践の学びが与えられるからです。

誰もが、その人の進度にマッチした「乗り越える課題」がやってくるようになっています。そして、階段を上れば上るほど、大きな範囲で影響が及ぶようになり、大変になってく・・・という一面もあるけれど、その分、「自分で、自分を助けることができる」という感性が身についています。

たくさんの経験をすれば、経験則という財産が増え、思考や決断を底上げしてくれます。過去にまいた種も、自分のゆく道に実ってきて、それもまた思わぬ助けになることもあります。

階段の5段目にいる人には、5段目にふさわしい課題と、5段目にふさわしいサポートが与えられます。それは、神のきまぐれでもたらされる偶然ではなく、「カルマの法則」による自分がまいた種の実りです。過去に上ってきた過程で、意図しなくても、たくさんのよい種もまいているわけですよね

そして、階段の30段目にいる人には・・・と、どこまでいっても同じ比率の「学び」と「サポート」が、与えられるのです。「与えられる・・・」という表現を使うと、誰か第三者がコーディネイトしているようなイメージでとらえてしまいますが、実際に、与えているのもまた「自分自身」ですね、たましいの観点からみれば、全部自分なのです。

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