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2010年6月の17件の記事

2010年6月30日 (水)

自分がニーズを満たすべき「相手(対象)」は誰か。

仕事は、「需要と供給」で成り立っているので、相手の需要(ニーズ)を知ることが大切です。

・仕事は、相手のニーズを知ることで上手くいくようになる

 ↓ ということは、つまり

・相手とは、「誰」なのかを、把握する。 ことが、必要です。

当たり前に思えるかもしれませんが、仕事に悩みを抱えている方の中には、この点の認識違いが招いているケースもあります。

たとえば、営業担当が売上を上げるための相手のニーズ・・・というと、「取引先、顧客のニーズ」を思い浮かべるかもしれません。そういう一面も確かにありますが、取引先から直接給料をもらっているわけではない以上、「相手のニーズ」は、会社の社長や上司にも関係してきます。

接する機会が多く、自分の売上という数字に直結している取引先のほうに、情が入ってしまうのは分かりますが、自分を雇用している会社のニーズも、満たさなければ、評価につながらないので、仕事は成り立ちにくいでしょう。

つまり、仕事上の相手のニーズとは、(所属部署によっては、内部としか関わらないところもありますが)、「取引先のニーズ」と、「内部の組織のニーズ」の、二つがある、ということです。ここを履き違えてしまうと、うまくいきません。

このバランスがピンとこないタイプの人は、上司から指摘される意味が分からないという悩みを抱え、上司の言い分と、取引先の板挟みになるケースが多いです。

では、具体的にどうすればいいのか・・・というと、小手先のテクニックはそれほど大切ではないのです。自分が、そういう視点を備えた上で仕事ができているか、というのが、うまくいくための必須事項なのです。

私は、今までにたくさんの仕事の相談受けてきました。その統計から言えるのは、「板挟み」になるのは、上記の内容、「自分がニーズを満たすべき相手というのは、取引先だけではない」という理解が薄いタイプの方でした。

両方のニーズを考えるタイプの方は、そもそも「板挟み」な状況には遭遇しないものです。ですから、「板挟みを乗り切るためのテクニック」なんて知らないと思います。つまり、特別なコツがあるから上手くいっているのではない、ということです。

「仕組みを理解していること」が、一番大切な基本なのですね。そうすると、ごく自然に(特別なことをしなくても)一番はバランスのよい調和のとれた言動ができるので、ひずみも起きにくいのです。

自分に足りないものを、鏡のように見せられ・・・、「自分に必要な学びの機会に直面する」というのは、本当にそのとおりだな、と思います。

「理解している人」は、改めて学ぶ必要はないので、板挟みになる必要がないわけですよね。理解していない人は、「理解するため」に、そういう場面に出くわすのでしょう。

物分かりの悪い上司と顧客のせいでそうなっている、その人達と関わっている自分が被害者ではないのか、と言いたいかもしれませんが、・・・百歩譲って、実際に相手の物分かりが悪いとしても(笑)、その人達が、なぜ「自分と関わりができるのか」を、考える必要があります。

営業的要素のある仕事についている方で、上司との関係がいまひとつだと感じる方は、上記のとおり、「自分がニーズを把握するべき相手は、誰なのか」を、改めて考えてみると、今まで見えなかったものが、見えてくるかもしれません。

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2010年6月29日 (火)

すべての出会いは、「縁」あればこそ。

この世で起こるすべては「必然」で起こりますから、人との出会いも、「必然」です。意味なく出会うことはありません。あなたの目の前にいる人も、昨日初めてあいさつをした人も、もう二度と会うことがなさそうなあの人も、すべては「縁」があるから関係がつくられています。

人との縁についてのご相談もはたくさんいただきますが、だいたい、以下の2つに分類されます。

今、好きな人がいて、その彼と自分は縁があるかを知りたい、というものと、もうひとつは、忘れられない過去の相手と出会ったのは縁があるから出会ったのだろうか?というものです。

どちらにしても、「何らかの縁があるからこそ、出会いが起こる」ので、答えは同じなのですが、ケース別に分かりやすく書いてみたいと思います。

1)好きな相手と自分は、縁があるだろうか、という質問について。

「出会う」「知り合う」という関係がつくられる時点で、何らかの縁はあると言えます。けれど、未来というのは、これから自分が作り上げていくものであり、あらかじめ決まった「ただ一人の運命の相手」がいるわけではありません。

深い縁もあれば、浅い縁もあります。どちらになるかは、自分しだいです。決まった筋書きを生きるわけではない以上、深い縁に発展させていきたいならば、自分が行動を起こすことが大切です。

ただし、「自分しだい」といっても、自分がその気になれば何でも思い通りになるという意味ではありません。相手のあることですから・・・、相手もその気になってくれなければ、縁は深まりませんよね。それぞれに個別のカルマという学びの要素がある以上、好きという「感情」だけでは事態は展開しないこともあります。

2)いまだに忘れられない昔の彼や、過去に好きだった人とは、縁があるから出会ったのか、という質問

縁にも、薄い縁もあれば、強い影響を与えあう深い縁もあります。いまだに忘れられないくらいの印象があるならば、それは「深い縁」があったと言えるでしょう。

けれど、誤解していただきたくないのは、その人との出会いを「深い縁」へと、結び付けたのは過去の自分の行動であり、あらかじめ決まった深い縁が存在していた・・・という解釈の仕方は、しないほうがいいのです。

スピリチュアルな観点から言えば、前世で深い縁が合った人とは、やはり今回の人生でも深い縁がつくられる傾向は確かにありますが、だからといって、「決まった筋書きを演じたわけではない」のです。傾向はあくまで傾向、実際にその行動をとったのは、今回の人生を生きている自分自身にほかなりません。

「人の縁」は、偶然ではなく必然ですが、それは、「そうなる意味があって、起こる」ということであって、あらかじめ決まった筋書きが用意されている、という意味ではないのです。

すべての出会いは、深い関係も浅良関係も「縁」があるからこそ、作られます。特定の出来事のみを抜き出して考えるのではなく、すべてに当てはめて解釈することが大切です。

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2010年6月28日 (月)

気を利かすためには、想像力を磨くことが大切。

お仕事上でも、プライベートでも、すべての人間関係に共通することですが、「気が利く人」は、好まれます。そういう人は、相手のニーズを満たすことが上手だからです。

相手がしてほしいことを、把握できてこそ、そういう行動がとれるので、「相手のニーズを満たす」ためには、「相手のニーズを、把握する」ことが必要となります。

相手のやろうとしていること、言わんとしていることを、把握するには、想像力が大切です。相手の身になって、「もしも、自分だったらどうするか。何を求めているか」という思考の習慣をもっていないと、気が利く人には、なれません。

たとえば、「○○をしてください」という指示があるとします。「○○をする」ことは、すでに明確な指示があるので分かりきっています。

このとき、単純に、○○をすることだけが相手のニーズだと解釈するのは、気が利く人・・・ではなく、普通の人;です。気が利く人は、その指示の意味するところは、「○○を早くやる」ほうが(指示者にとって)好ましいのか、それとも「○○を綿密にやる」ことを求められているのかというニュアンスを読み取ろうとします。そして、その通りに行動し、相手の(言葉にしていない部分も含めた)ニーズを満たします。

仮に、指示者がそこまで考えていなくて、単純に「○○さえ、してくれればいい」くらいの気持ちでいたとしても、それでも「相手にとって、どう○○をしたほうが有利になるか」を、考えてあげて動くと、結果として相手は助かりますよね。

そういう行動の積み重ねで、相手の見る目も違ってくる(つまり、高い評価を得られる)ので、結局は自分が一番助かるのです。

「一から十まで説明しないと、分からない人」と、

「一から十まで説明しても、分からない人;」と、

「一を聞いて十を知るタイプの人」がいたら、

誰に依頼するのが楽だと感じるかは、言うまでもありませんよね。

相手の身になって考えるという習慣をつけていくようにすると、だんだん想像力が磨かれていき、気の利いた言動が取れるようになり、人とのコミュニケーションが以前よりもスムーズになってくと思います。

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2010年6月25日 (金)

濃すぎるアイメイクは、印象を下げてしまう。

少し前にはやった、目の周りを黒々と囲むようなアイメイクは、・・・あれは、止めた方がいいと思います( ̄∀ ̄‾;)。目の周りのオーラが、(化粧が反映して)くすんで感じられます。

顔周りの雰囲気は、その人の印象を大きく左右します。特に、目の周りがくすんだオーラになっていると、明るい印象は持たれないことでしょう。相手の人が、オーラが見えるか否かとは関係なく、「雰囲気=その人の印象」として伝わってしまいます。

ここで言っているのは、くまどりみたいな、数ミリ幅で囲っているようなメイク;のことです。普通のメイクの黒が悪いという意味ではないです。

そういうメイクを好む方というのは、「自信がない」、「傷つきたくない」タイプがほとんどで、実際に人間関係に不安や問題を抱えている人も多いです。太く黒々とくまどりにすると、黒目の動きが分かりにくいですから、「何を考えているか、良くわからない人」の印象を与えます。それはオーラから伝わる部分よりも、物理的に見た状態からの印象です。

つまり、「何を考えているか、相手に知られたくない」人が、そういうメイクを好み、自分は落ち着くけれど、相手には好印象を与えないので、人間関係がスムーズにいかない、という、どうやってもアンバランスな状態になってしまいます。

10代とかの若い方は、単に流行だからということで、そういうメイクをしているだけだと思いますが、大人になっても続けている人で、強気で自信満々な人は、ほとんど見たことがありません。「自信がないことを隠して、自信満々に振る舞いたい」人が、好んで行うメイクです。

けれど、自信のなさを隠すメイクによって、その人の素晴らしい部分までをも覆い隠すことになる可能性も、考えてみていただきたのです。

自分が隠したいと思っている部分は、他人から見ればほとんど気にならない、意外と普通のことだったりします。黒々としたふちどりメイクからは卒業して、自分らしさを発揮していく生き方を心がけてはいかがでしょうか。

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2010年6月23日 (水)

最初は、偽善でもいい。

心の底から愛情いっぱいの、見返りを期待しない奉仕100%の気持ちで、他者のために尽くすことは、とても立派な行為です。

けれど、「他人から良く見られたい」とか、「人のために動けば、いつか自分が得できる」という考え方の、少々自分本位で、偽善的ともいえる行為であっても、それでも、何もしないことに比べれば、(できるならば)したほうがいいと私は思います。

心からのやさしさでなくても、形だけの行為でも、それで助かる人がいれば、そうするだけの意義はあると考えます。

それに、ある行為の、どこまでが純粋な善で、どこから先が偽善だとかの基準はありません。自分自身の行為を省みるときの、あくまで「自分の内で」良心的な基準として考えてみるのはいいかもしれませんが、人のすることに対して、「それは、偽善だ」なんて言うのは、余計なお世話のように思います。

もちろん、「偽善」よりも、「善」のほうが望ましいのは当然です。誰もが、そういう奉仕の気持ちになれたら理想的です。

けれど、そこまでにはなれなくても、それでも何かをしようとしている人に対して、あれこれと横から口をはさむのはおかしいと思います。

本当に心の底から、奉仕の気持ちを持って、実際に自分も行動している人は、たとえ他の人が偽善から行動していても、咎めたりはしないものです。それだけの受容力を持っている人が多いですし、たとえ偽善であろうと、行動を起こす大変さを知っていますから、その部分だけとっても認めこそすれ、批判したりはしないでしょう。

また、自分が奉仕活動をすること自体が、大きな労力が掛かりますから、必要以上に他人の行動が偽善だろうか・・・なんて、気にしてる暇もないでしょう。

結局、人のやることに対して、「偽善だ!」なんて裁く人は、自分が何もしていなくて、暇だからこそ、他の人のすることが殊更に目につくだけだと思います。そういう人に限って、偽善の行為すらしない、他人のためになど動かず、自分のことしか考えていないものではないでしょうか。

自分自身の行動を省みる場合は、「人は、結局、自分の器以上のことはできないのだから、この行為が(偽善であろうと、なかろうと)今の自分にできる最善だ」と、思えるならば、やってみればいいと思います。

世の中には、やってみないと分からないことはたくさんあります。形から入っても、その後に気持ちがついていくこともありますし、人は常に変化し成長していくものなのだから、いつか、自分ができる範囲の最上級にたどり着ければ、それで十分ではないでしょうか

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2010年6月22日 (火)

現状に見合った学びが、それぞれに与えられる。

「自分のしたことが、自分に返る」というカルマの法則と、「同じレベルのものが、引き寄せ合う」という波長の法則により、誰もが、「その時の自分に見合った学びをするための経験が、与えられる」ようになっています。

そういう意味では、すべての人が公平です。「自分」と「出来事」というセットで理解すれば、不公平はありません。

階段の5段目にいる人には、5段目の学びがやってきて、7段目にいる人には7段目に見合った学びがあるわけです。

なのに、自分と他人の「出来事だけ」を比較するから、(それぞれ波長もカルマも違うのだから、同じ出ないのは当たり前なのに;)差があるように思えて、私は不幸だとか、真面目な人は報われない、などという、曲解に基づいた不満の感情が出てきます。

隣の芝生は、常に青く見えるものです。けれど、この世というのは、そんなに楽には生きられないようになっています。他の人が、得をしていて羨ましいと思っても、その人に見合った課題は常に与えられているものです。

たとえば、とても能力が高いのに、その資質を発揮する機会に恵まれない人がいるとします。そうすると、「私は、できる力があるのに・・・、発揮する機会がないので不幸だ」と思うかもしれません。けれど、「実力があるけれど機会がない人は、機会を(自力で)獲得するために行動することが学び」です。

逆に、実力以上の役目が巡ってくるような人は、「私には力がないのに、責任の重い役目ばかりで不公平だ」と思うかもしれませんが、「重要な役割に見合った力を、身につけていく学び」があるのでしょう。

自分のレベルに見合った階段を上っていく際に、右足から先に上るか、左足から上るかの違いがあるだけです。「上りきってしまえば、どちらもほどんど同じ」であり、不公平ではありません。

そして、「実力」も「機会」も、どちらもそろっている人は、「能動的に実践していく学び」に直面することになるでしょう。さらに進めば、「他者のために、自分が実践していく学び」へと、移り変わっていくことでしょう。

否応なしに、そういう場面が巡ってきます。「機会がないから、力を出せない・・・」とか、「力がないのに責任があって負担だ・・・」、「あの人がうらやましい・・・」なんて、ぐずぐずいっていられる人のほうが、よほど気楽です。両方がそろった人は、そんなことを言ったり考えたりしている暇もなく、実践の学びが与えられるからです。

誰もが、その人の進度にマッチした「乗り越える課題」がやってくるようになっています。そして、階段を上れば上るほど、大きな範囲で影響が及ぶようになり、大変になってく・・・という一面もあるけれど、その分、「自分で、自分を助けることができる」という感性が身についています。

たくさんの経験をすれば、経験則という財産が増え、思考や決断を底上げしてくれます。過去にまいた種も、自分のゆく道に実ってきて、それもまた思わぬ助けになることもあります。

階段の5段目にいる人には、5段目にふさわしい課題と、5段目にふさわしいサポートが与えられます。それは、神のきまぐれでもたらされる偶然ではなく、「カルマの法則」による自分がまいた種の実りです。過去に上ってきた過程で、意図しなくても、たくさんのよい種もまいているわけですよね

そして、階段の30段目にいる人には・・・と、どこまでいっても同じ比率の「学び」と「サポート」が、与えられるのです。「与えられる・・・」という表現を使うと、誰か第三者がコーディネイトしているようなイメージでとらえてしまいますが、実際に、与えているのもまた「自分自身」ですね、たましいの観点からみれば、全部自分なのです。

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2010年6月20日 (日)

成長の過程で、親しかった人と疎遠になることもある。

私たちの人生は、それぞれ独自の、過去の思考や行動の積み重ねによる「カルマ」と呼ばれる領域の中で、「その時の自分の波長に見合った人物や物事が引き寄せられ、出来事が展開していく」仕組みになっています。いわゆる、「波長の法則」ですね。

私たちは、常に、変化という成長を遂げていて、同じに見えることでも、少しずつは変化しています。一週間前の自分と、今日の自分を比較してみれば、ほとんど変化を感じませんが、肉体の年齢としては一週間分成長していますし、まったく変化のないように見える固体の品物でも、経年劣化はあるはずです。

はっきりと目に見えて、境目のわかる変化は意識しやすく、そうでないものは考えてもみないので、何か大きな出来事が起こったときに「予想外の、思わぬ変化」に感じられてしまいますが、実際には、すべてのものが常に移り変わっています。

自分自身の波長も変化しているのですから、「波長の法則」で、引き寄せる出来事が移り変わっていき、ときに大きな転換があるのも、想定される出来事だと言えます。

人間関係も同様で、その時の波長に見合った人同士が、引き寄せられ関係が作られていく仕組みになっていますので、相手か自分のどちらかが、大きく変化していけば、親しかった関係が壊れてしまうこともあり得ます。

以前はとても大切だったものにも、時間が経てば興味が薄れることもあるように、人間関係も、お互い、もしくはどちらかの成長があれば、親しい人が遠ざかっていくなどして、縁が薄れてしまうこともあるわけです。つまり、仲違いなど、(表面だけみれば)決定的な理由がなくても、お互いの成長度合いが一致しなければ、引き合うもの(重なり合う波長の部分)がなくなって、ときに、好ましく思っていた人と疎遠になってしまうこともあります。

「成長の過程で、今まで親しかった人と、縁が薄れてしまうこともあり得ること」と、仕組みをあらかじめ知っていれば、殊更に原因を深読みしなくて済みます。

けんかしたわけでもないのに、怒らせるようなこともしていないのに・・・、何が悪かったの・・・?と、「具体的で、物理的な理由」を探しても、そういう場合は、これといった原因が見つかりにくいので、いつまでも悩み続けることになってしまいます。

だからといって、仕組みを知って、すぐに割り切れるものではないけれど・・・、何も分からず迷っている状態から比較すれば、少しは納得がいくのではないでしょうか。

私たちは、この世で、たくさんの経験から成長していく「たましいの学び」を、自らの意思で行っています。たましいが成長するための、よりふさわしい道は、私たち人間の個人的な感情や欲求とは、必ずしも一致しないこともあるのです。

成長の過程で、自然に縁が薄れてしまう関係というのは、「それだけの関係に過ぎなかった」とも、言えるのではないでしょうか。本当にお互いを高め合える関係ならば、どちらかが成長すれば、相手から良い影響を受けて、自分も高まっていけるものだと思います。

親しかった人と疎遠になるのは、寂しいけれど・・・、そうやって、周囲の方の顔ぶれが入れ替わることで、また新しい学びや気づきがあり、「本当に大切な縁」を、見つけていくことができるのでしょう。

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2010年6月17日 (木)

自信がない人のオーラは、色が薄く、勢いに欠けている。

自分に自信が持てない、というご相談は多いです。

このとき、「本当に、まったく自信がない」場合と、「実は自信はあるが、何をしていいのか分からない」場合があります。後者のケースは、「何をしていいのか、分からない」状態を、「私は自信がない(から、何をしていいか、分からない)」と、自分で置き換えて、そう思い込んでいるだけなのです。

この見分けというのは、オーラの状態で、ほぼ瞬間的に分かります。

本当に自分に自信がない人のオーラというのは、全体的に色が薄く、勢いに欠け、大きさもなんだか縮こまっているような窮屈そうな状態になっています。本来の「あるべき状態(のオーラ)」になっていなくて、自分という器の中が、満たされていない状態ですね。

一方、自信はないわけではないが・・・何をしたらいいのか分からないので動けない人のオーラは、上記のケースとは全く違います。一見、自信喪失気味なので、オーラの状態は良いとは言えず、陰っていたり、小さくなっていたりもするのですが、色ははっきりとしていて、勢いも悪くありません。本当に自信がなくて消極的で受身になっている人のオーラとは、まったく違っています。

色が薄くて、勢いにも欠ける、活力のないオーラの、「本当に自信がない状態の人」には、まずは、自分というものをあらゆる角度から分析していただき、「自分が、自分を知る」ことから始めていきます。

自分と他人の境界線が弱く、客観視ができにくいタイプの方も、「自分」というものが分かりにくく、自信が持てなくなりやすい傾向があります。けれど、逆から考えれば、自分を知ることが、イコール自信に繋がっていきますので、とにかく、何でもいいので、自己認識をする習慣をつけていくことです。妄想でも勘違いでもなんでもいいので(笑)、まずは、自分を認識していく思考の練習をすることからスタートです。

自分が持ち合わせている要素を、改めて認識していくことで、今までモノクロだった部分がカラーに変化していくかのように、自分という器が満たされていきます。

色は濃く、勢いはまあまあ、活力が感じられるオーラでありながらも、「自信がない気分になている人」には、とにかく「この先、何をしたいか」という点から、最初に考えていただく方が解決が早くなります。

やる気はあるけれど、自分のエネルギーの注ぎ先が見つけられていないために、動けなくなっているだけなので、「注ぎ先」「供給先」を見つけていければ、自然に解決に向かっていくことが多いです。

このようなタイプの方は、自分のパワーをどのように発揮していいのか分からず、(けれど、意欲はあるので)自分にはそぐわない方向に自分探しをすることをくり返してしまい、そうすると、まったく評価に繋がらず、自分の手ごたえもなく、ときに批判もうけたりすることから「自信があるのに、自信喪失になる」・・・という状態になってしまいやすいのです。

どちらのケースも、自分を分析し、内観していく作業が必要であることは共通していますが、その際の目的意識の持ち方を、上記のとおり、性質別に合わせて解釈していくと、ご本人の手ごたえに繋がりやすいので、改善のための行動をしていくモチベーションも保ちやすくなるようです。

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2010年6月14日 (月)

「すべて自分しだい」とは、「すべて自己責任(において、自由)」という意味。

私たちには、それぞれ、自分の人生を、どのように生きているかを決める権利があります。自己責任の上で、何をどうするかは自由です。そういう意味を込めて、私は「自分しだい」という表現をよく使っています。

言葉というのは、とても曖昧で・・・、人により受け止め方が違うものですから、「自分しだい」という表現を、「気の持ちよう」と同じような解釈をしてしまう方もいるかもしれませんが、少なくとも私がここで言う「自分しだい」は、そういう意味で使っている言葉ではありません。

たしかに、想いもエネルギーとして作用しますから、考え方も大切ではありますが、私が思う「自分しだい」は、すべては自分のカルマ(行為の積み重ね)という枠内で物事が展開していく以上、どんなことも自分の責任であり、自分の行動しだいで未来も変わっていく、とかの、幅広い意味で使っているつもりです。

気の持ちようだけで何とでもなる、という受け止め方は、「気合いを入れれば、風邪をひかない」というような、(現実的ではない)根性論と同じになりますし・・・、それに、気の持ちようでいいなら、ストレートにそう書けばいいのであり、毎日くどくど書く必要もないわけで・・・。

言葉を尽くして書いているのは、本来言葉に置き換えるのは難しいことを、なんとか表現していこうとしているからであり、「○○さえすれば、××になる」「気の持ちようで、何とでもなる」というふうに、インスタントにはできるはずもないことを、ご理解いただければと思います。

同様に、「苦労すらも、楽しみ味わう」などの表現も、「苦労を、面白おかしく、笑い転げることができるようになる」という意味ではありません。そんな理解の仕方をする人がいるとは思えませんが(笑)、一応書いておくと、自分が意義を見いだして納得していければ、すべては成長のためなのだ、という手ごたえを感じることができ、そうすると、苦しみの中にも光を見いだすこともできる、ということを書いているつもりです。

それぞれ、自分というバイアスを掛けて受け止めますから、私が伝えたいとおりに伝わるとは思っていませんし、私の伝えたいとおりに受け取っていただきたい、とも、思っていません。

独自の感性を持っている大勢の人に、同じ理解をしていただくことなど、無理に決まっていますし、そんな必要もないからです。

理解というのは、それぞれのパーソナルな領域によってなされるものであり、個性や感性に違い(優劣という意味ではなく)がある以上、個性や感性のフィルターを通りぬけたその先は、それこそ「自分しだい」で、本人の独自の領域です。

「自分」や「自己」という概念の認識じたいも、とても難しいことなのですから、「自分しだい」も「自己責任」も、同じように難しいことです。理解の仕方はさまざまだと思いますが、少なくとも、「気の持ちよう」という限定された意味ではない、その先も含めての大きなくくりでの表現なので、そのように理解していただければ幸いです。

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2010年6月10日 (木)

まいた種が、思った通りの形で実るとは限らない。

「カルマの法則」というのは、「まいた種が、実る」ように、自分のしたことが、良くも悪くもすべて自分に返ってくる、という、真理の仕組みです。

どんなことも、自分が過去のどこかで原因を作っているわけで、カルマの法則という真理がある以上、まかない種が実ることはありません。

望む未来のためや、自分の成長のために、「種をまく」ことは不可欠ではありますが、だからといって、何でもやたらめったらに、種まきさえすれば、収穫に繋がるとも限りません。

なぜなら、種をまくにふさわしい「土壌」というものがあります。向き不向きの差、個性の違いを無視して、好きな種をまいても、・・・順調に育つかどうかはわかりません。

自分の個性を無視して、種をまいたつもりになっても、それもまたカルマの法則により、「自分の身の丈に合わないことをしている」という原因を作れば、その原因に見合った結果につながるわけで、ふさわしくない種まきに執着しても、望む結果にはならない、という仕組みもまた道理、です。

北海道は、じゃがいもの産地として有名ですが、じゃがいもは、寒暖の差がつくとでんぷんを蓄える性質があるので、北海道の気候が合っているので、味の良いものが収穫できます。ふさわしい土壌に、ふさわしい種をまけば、一番分かりやすい形で結果に繋がります。

一方、北海道の米は、長らく「美味しくない」と言われ続け;、20年くらい前に「きらら397」というブランド米が出るまで、不遇の時代がありました。寒くて乾燥している気候が、米にはあまり合わないためでしょうね。向き、不向きは、どんなものにも存在します。

しかし、種まきをしてすぐには芽がでなくても、諦めずに努力を続けていけば、大輪の花が咲くこともあります。「きらら397」は、長年の研究と努力が実り、一般の家庭の食卓に並ぶことは少なかったかもしれませんが、味のわりに値段が安いことも手伝い、外食産業向けとして人気となり、後発の北海道米ブランドに繋がっていきました。土壌に合わぬ種にも、諦めることなく、果敢に取り組み続けて改良を重ねていくことで成果につながったのだと思います。

土壌と種がぴったり合っていようとも、育てる労力を惜しめば、花開かず終わることもありますし、何がどう影響して、どんな結果になるかは、予測することはできても、事前には把握することはできません。

自分の資質と、自分を取り巻く状況、その後の生育に費やす時間その他も考えながら、どこにどんな種をまくのかを決め、そして育てていくための努力を続け、仮に思った通りにならない場合のリスクも含めて、すべてを自己責任として引き受けていく・・・、それが、「自分で、自分の人生をクリエイトしていく」ということだと思います。

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2010年6月 8日 (火)

ひとつひとつの出来事にたいする、○×の定義付けに留まらず、「仕組み」を理解する意欲を。

この世のすべては、「原因があって、結果に至る」という、「カルマの法則」が関係します。スピリチュアルな理解のためには欠かせない、基本中の基本、大原則ともいえる仕組みです。

この絶対的な真理である、カルマの法則を、日常の出来事に当てはめ、内観・内省することで、私たちは成長することができます。

しかし、スピリチュアルに興味を持っている人の大多数が、「この、(原因があって、結果に至るという)仕組みを理解する」ことよりも、「原因そのものが、具体的に何であったか」を認識することに、一生懸命になりすぎているように感じます。

例えば、困難な出来事が起こったとして、「これにも何かの原因があるはずで、意味なく起こることはない」と考えることは大切です。けれど、そのことと、「具体的な原因は一体何だろう?Aだろうか、Bだろうか、それとも・・・?」と、考えすぎることは、イコールではないのです。

深く内観することで、自分なりの答えが導き出せるなら、それはいいでしょう。けれど、多くの物事は、少し後になって、振り返ったときに、その意味するところが見えてくるものではないでしょうか。

その時は分からなくても、少し時間が経って、成長した自分になったときに、その成長の度合いが「底上げ」となり、以前よりも高い位置から、過去の自分を見ることができて、やっと、「何故、そうなったか」が、理解できるものです。すぐに答えが出ないからこそ、悩み苦しむその過程で、人間力が深みを増して行くのだともいます。

逆に言えば、深みを増した自分になったとき(つまり、少しの時間が経過したのちに)意味がわかるのだから、そうなるために、日々の生活に前向きに取り組み、成長していく意欲と行動が何よりも大切で、そして「分かる」ための一番の近道です。

何故、苦難があるかといえば、誰もが、何らかの学びの要素は持っているけれど、実際に(現実の事象を通して)直面してみなければ、問題点が浮き彫りにならないからです。そうしないと、私たちは、気づくことができません。

スピリチュアルな感覚をもって、物事の意味するところや、原因を分析してみようという姿勢は素晴らしいけれど、何でもインスタントに定義さえつければいいとういものではありません。

何かあるとすぐに、「この出来事の意味するところは、何か?」と、○か×か、白か黒かの「明確な答え」を出そうとするのは、とても現世でインスタントな考え方であり、精神的な理解とは言わないのです。目には見えない「出来事の意味」を求めるのだから、それは霊的だと思っている人が多いけれど、そういう意味ではありません。要は、受け止め方次第、です。

スピリチュアルな理解というのは、時間をかけて自分が成長することで、深くなり、認識が変化し、「その時の自分に合わせた理解」へと、常に置き換わっていくものです。同じ出来事に対する分析も、移り変わっていくものであり、その過程が「成長」なのです。

成長に終わりがないように、スピリチュアルの理解(の深まり)にも、終わりはありません。どんなにもっともらしい答えも、「その時の理解における暫定」でしかありません。

スピリチュアリズムという霊的思想すらも、本来言葉ではとても表しきれない摂理を、なんとか置き換えて説明しているに過ぎず、全部を語りつくすことも、そして理解しきることもないものだと思います。

出来事に対する、感情的な区分け、良いか悪いか、○か×か、という理解の仕方にとどまらず、「仕組みそのもの」を理解していくことが大切です。

ひとつひとつの出来事に対する○×の定義は、その出来事だけにしか当てはまりません。しかし、カルマの法則という仕組みは、すべての事象に当てはまります。

自分がいかに物質的に得をするか、という、我欲から離れなければ、そのような理解の境地にはたどり着くことは難しいと思います。一時の快楽ではなく、永遠に続く成長そのものに手ごたえや楽しみを感じていけるようになると、「仕組みの理解」こそが、自分で自分を導いていくための、何よりの指針となっていくでしょう。

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2010年6月 7日 (月)

霊感が強い人は、呼吸が干渉されやすい傾向がある。

以前の記事、「霊的な感覚の強さは、呼吸と密接な関係がある」の続きです。

「霊感が強い人は、呼吸が干渉されて上手く出来ない人も多い」、続きはまた別の機会に、と書いて、そのままになっていましたので;、続きを書きます。

霊的なエネルギーの出入り口として、肩甲骨の間あたりと、首の付近があります。

※江原さんの本、「スピリチュアル・プチお祓いブック」をお持ちの方は、以下をご覧になってみてください。

P65をご覧になると、「肩甲骨を結ぶ線の上下にあるツボは、スピリチュアルなエネルギーが出入りするポイント」だと書いてあります。

さらにP66には、「スピリチュアルな視点から言うと、憑依霊などのネガティブなエネルギーは首の後ろあたりから、入ります」という記載もあります

エネルギーが出入りする・・・、ということは、その付近のエネルギーが、都度、干渉される、ということでもあります。私自身も、首の周りのオーラは・・・、常に「何とかしたほうがいい状況」でもあります(笑)。

人の体には、「チャクラ」と呼ばれる、エネルギーの取り入れ口があって、首の近くにも存在します。霊感がとても強い人は、霊的なエネルギーが、首のあたりから過剰に出入りするわけですから、この(首の近くにある)チャクラと呼ばれる器官にも少なからず影響を及ぼします。そして、オーラにも現れます。

(目に見えない、エネルギーの領域を、ここでは「オーラ」という表現でまとめさせていただきますが)、オーラと肉体は、繋がっていますから、オーラの状態が良くない部分は、肉体ににもエネルギーがうまく回らず、何らかの影響が出てしまうことが多いです。その部分が疲れやすかったり、痛みだったり・・・。首の近くのエネルギー取り入れ口が干渉され、オーラの状態も悪くなると、肉体的な現象として、呼吸が浅いなどの症状となって、現れることも多いのですね。

私は、呼吸が本当にヘタ、呼吸によりエネルギーの流れをコントロール・・・のような真似が、まったくできません;。私は、想念の力がすごく強いタイプなので、呼吸でコントロールができない分を、「想念の力」で代用しています。

一気に波長を持ち上げる必要があるとき(つまり、仕事のとき)は、瞑想の応用みたいな感じで、スイッチを入れています。でもそれは、とても消耗しますので、・・・「無駄な動き」が多いと感じます(笑)。

私は、マインドの力で代用していますが、本当は呼吸と併用したほうが消耗度も小さくて済むのだろうと思われます。

呼吸は、感度の問題や、エネルギーのコントロールだけでなく、全般的なエネルギーの活性にも影響しますので、意識的に深い呼吸を心がけるなどしていくと、心身共に良い状態を保つための、一番基本のセルフヒーリングにもなると思います。そのあたりは、また別の機会に・・・。

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2010年6月 6日 (日)

専門職も、一般職も、どちらも必要。

隣の芝生は青く見える、とよくいいますが、自分のことを客観視するのは難しいため、他の人のやっていることがとても輝いて見えてしまうことがあります。

自分に与えられた資質や環境を、どれだけ活かしきって、創造的で充実した毎日を過ごしていられるかが大切で、比較対象となるべきは「過去の自分」であったり「未来に思い描く、自分の理想」であるべきなのですが、この現世の仕組みである「比較・相対」の世界にいる以上、他人のことが気になってしまう傾向はあると思います。

お仕事のご相談をいくつもいただきますが、全般的な傾向として、専門職についている方は、「これ(専門職)しかできない、自分」でいることに、物足りなさを感じたり、枠組みを窮屈に感じて、もっと他の世界を見た方がいいのでは・・・と、悩んでしまう方が多いです。

一方、一般職の方は、「これ、というものがない自分」を、不安定に感じてしまう傾向があります。どこまでいってもゴールが見えず(と、本人は感じて)、どこかの時点で専門的な道に切り替わっていく必要があるのではないか、これでいいのか・・・と、悩んでしまうのですね。

専門的な仕事も、一般的な仕事も、どちらも大切で、欠かせない要素です。たとえば、プロのスポーツ選手がたくさんいても、試合をするためにはチケットや広告を売る営業さんが必要ですし、組織を支えるための総務や経理も必要です。お互いに、補いあって、組織や世の中は、成り立っています。

このようなご相談の場合、自分はどちらの適性がより高いか?と、気になさる方は多いのですが、適性が高い仕事でも、本人が楽しいと感じるかは分からないですし、馴染み易くて簡単にできることには手ごたえを感じない人もいます。なので、ひとつの目安には、なるかもしれませんが、広い受け止め方をしていくほうがいいでしょう。

仕事に、何を求めるのか、安定なのか、それともやりがいなのか、常に新しいものに向かっていきたいのか、仕事を通して自己実現がしたいのか、その点が定まっていないと、他人のことばかり気になって、隣の芝生の青さがより強調され、焦りにつながります。焦ると、ますます、本当に見るべき部分から、視点がずれていきます。

「過去の自分」「今の自分」そして、この先にあると思われる「未来の自分の姿」を総合的に考えて、自分が輝ける場所は、ここではない、今の道の延長上ではない、と思うなら、別の道を志すのもよいでしょう。人生は、どの時点からでも、自己責任において方向転換は可能だと思います。

しかし、隣の芝生を見て、「あの人のやっていることが、うらやましい、楽しそう」という、表面しか見ていない浅い理解からの転職願望は、・・・今一度、よく考えてみたほうがいいでしょう。

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2010年6月 4日 (金)

どんな出来事も、すべて必要。

日々起こる出来事のすべては、私たちの人生において「パズルのピース」のようなものです。「ひとつの出来事」として単独で存在しているようでありながら、同時に「全体の一部」でもあり、すべてが必要な要素です。

「ある出来事:A」と、「ある出来事:B」が、隣り合って組み合わされることで、一連の過程の意味するところや、それぞれの出来事の意義が、深く理解できるようになります。

AとBのピースが、単独で存在している状態にある間は、その繋がりがピンとこないのは、まさしくパズルと同じです。ある程度、パズルが出来上がっていけば、「穴埋めの、予測」がつくようになり、作業スピードはUPしますよね。けれど、一定のラインを超えないうちは、「予測」がつきにくく、時間や労力的なロスも多くなりますし、組み合わせや置き位置を、間違うこともあるでしょう。

人生も同じで・・・、ある程度、形作られていくまでの、作業の初期段階や、それ以前の「ピース集め」段階にあるうちは、「今、自分が何をしているのか、どこに向かっているのか」が、分からなくなって、不安が生まれ、進むべき道が見えなくなってしまうことがあります。

しかし、どんなに、一見不要に見えるピースであっても、「完成」のためには、欠かせない要素であり、次のピースにたどり着くための、手掛かりの役目も果たします。

人生において、無駄な経験はないのです。(あるとしたら、経験そのものが悪いのではなく、活用することのできない(学ばない)自分がいる、ということです)。

仮に今、先が見えず・・・、霧の中を手さぐりで進んでいるような状況にあっても、いずれ、今よりも少しでもピースが集まってきて、全容が見えつつある段階になれば、「ああ、こうなっていたのか・・・。あの過去のすべてに、意味があった」と、納得できる日がきます。そこに至る前でも、「今、自分の人生のパズルが、作られている」状態に、手ごたえを感じていく場合もあります。

何がどうなっているかを詳細に言葉では表せないけれど・・・、何かが変わっていくような、後押しされてるような、「明確な根拠はないが、前に進んでいける、という確信がわいてくる」気持ちで、自分自身が満たされていくことがあります。自分のたましいの望む道と、(表面的な)自分の意思に距離がない状態、まさに一体化しているときは、とても強い確信と、そして意欲がわいてくるものです。

そういうときは、裏付けや根拠を求めたい気持ちも、なくなるものです。無理に理由や定義を作らなくても、すべてが「今、ここに集約している」感覚となり・・・、その感覚は、何よりの安心感をもたらしてくれます。

誰もが、「自分の人生」という、独自のパズルに挑んでいて・・・、大きさも種類も違う以上、他者との進捗度を比較しても、ほとんど意味がありません。参考にすることことくらいは、できるかもしれませんが・・・。

今の自分が、「どのあたり」にいるかを、意識していようといまいと、人生というパズルは着々と作られていくものです。けれど、そうはいっても、意識しているのと、いないのとでは、能動的になっていく比率などの問題で、進み具合に差が出てしまうことも事実だと感じます。

スピリチュアルな知識は、日常で実践して「知恵」に変えていくことが大切です。実践は、とても大変だけれど・・・、そうすることで、結局は「自分が、助かる」のです。

今、あなたは、「どの段階」にいるでしょうか。いまだ模索中でしょうか、それとも、手ごたえを感じ、全容を把握しつつある状態でしょうか。人生において、どんなピースも(自分が、そのピースを活用していくのだ、という自主性がある限りにおいては)意義があります。たくさんの要素を、活かしきった、充実した人生になるよう、意欲的にとりくんできましょう!

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2010年6月 3日 (木)

話に乗りやすいリズム、というものがある。

盛り上がる会話のためには、話題もさることながら、丁度よいリズム、話に乗りやすいテンポが大切です。つまり、上手く会話をしていくためには、(相手が話に乗ってくる)リズムを意図的に作り出していくように心がけるといいのです。

会話というのは、「やりとり」ですから、相手のペースも考慮しなければならず、自分だけが面白くて刺激的な話をすればそれで成り立つようなものでもなけですし、「相手を受け入れよう」などと、ひたすら聞き役に徹するのも同じで、どちらかがあまりに一方的になる会話は、リズム感が生まれにくく、盛り上がっていかないものです。

一方的になると、どちらか(もしくは両方)が、疲れてしまいます。そうすると、相手との会話に安心感が生まれないので、親しくしたい気持ちが高まりません。

たとえば、野球で、慎重な性格のピッチャーが、何度も何度もけん制をして、間合いをじっくりとった投球をしている場合で、・・・あまりにじっくり過ぎる場合があり(笑)、内野手のミスに繋がることがあります。

ピッチャーやキャッチャーや、今まさに直接相手に対峙している立場ですが、内野手は球が飛んで来ることに備えて待っていなければならないので、あまりに間合いが長すぎると、緊張感が途切れてしまいます。

人の集中力には限界があります。適度に攻守が入れ替わらないと、今まさに能動的になっている側はまだいいとして、そうでない側の集中力は保ちにくく・・・、会話をしている際にも、話題のポイントが絞りにくくなります。

自分も相手も、集中力を欠くことのないように、一方的になりすぎない攻守交替、要点を絞りやすい話題の切り替え、ひとつの話題に対する時間配分などを、うまく配置していければ、盛り上がっていくリズムとテンポが生まれます。

これは、仕組みを知るだけでは、活用はできないでしょう。この視点をもって、自分が「あの人と会話していると、いつの間にか載せられて、自分がたくさん話している」と、感じるような人の話し方や話題の振り方を、「観察」して、納得するという積み重ねから、だんだん身についていくようになります。

人の経験を観察して、自分の想像力で置き換え、自分の糧としていくようにすると、応用力が身につき、人としての器がどんどん大きく広がっていきます。

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2010年6月 2日 (水)

カルマの法則とは、幾つもの人生(転生)を通して作用する法則。

自分のしたことが、すべて自分に返ってくるという、「カルマの法則」は、この世のすべての出来事に該当します。

一見、理不尽に思えることも、突発的な災難に遭遇したように思えても、「そうなる原因」が何もないところに、「結果」のみが発生することはありません。

カルマの法則は、「たましいの観点」から、幾つもの人生(転生)を通して作用しますから、今回の人生だけで、計ろうとしても、理解は難しい場合もあるでしょう。

「幾つもの人生(転生)を通して、作用する」、それは言い換えれば、「今回の人生という枠内のみで、作用するものではない(可能性もある)」ということです。

過去の人生からの、さまざまな行為の積み重ねの総称が「カルマ」という言葉なので、特定のひとつかふたつの、それも苦難を伴う出来事のみを「これは、カルマ」とか「カルマが返ってきてバチがあたった」などと、とらえることは、正しい理解ではありません。

自分が、積み重ねた要素、たくさんの「まいた種」が、いつか必要なときに、私たちのゆく道に実っていくことになっています。たまたま、意味なく、物事が起こるわけでえはなく、すべて、何らかの意味が含まれている必然です。

自分のまいた種が成長して、「豊かな実り」となって、私たちのゆく道に喜びをもたらすこともあるでしょう。そして、逆に、苦痛を伴って「望まないものを、自ら刈り取る」出来事に遭遇してしまうことも、あるでしょう。

どちらもすべて、「まいた種が、実る」という、とてもシンプルな仕組みであって、それがいいか悪いかは、簡単には言えませんし・・・、嬉しいとか苦しいとかの価値観も、私たちの人間的な「感情論」でしかなく、霊的な観点からみれば、すべて「成長に繋がっている」出来事です。

毎日、世の中では、実にさまざまなことが起こり・・・、中には、あまりに理不尽で、「これは、自分のまいた種が実った」という理解では、気の毒すぎるのでは・・・?と、思われることも、きっとあるでしょう。

けれど、痛い目を見たら不幸で、毎日面白おかしく暮らしていければ幸せ、と感じるのは、私たちの「人間的な感情論」であり、霊的な価値観からすれば、苦難が少ないのが幸せだとは限りません。

もちろん、苦難がすべて素晴らしいというわけでもありません。自分がしたことが、悪い形で実って痛い目にあい、改善を促される意味で、「学ばされる」ケースもあるからです。

霊的な価値観、霊的な法則を理解するためには、出来事の表面的解釈にとどまらず、すべてにひとしく含まれる真理を見出し、「包括してとらえていく」感性が必要です。

この、絶対的な法則があるからこそ、私たちは理性で、スピリチュアリズムを学ぶことができます。動かしようのない、確かなもの、誰にももれなく当てはまる真理の法則の下で、私たちは、自らの意思で、「今回の人生というステージ」を使って、経験を積んでいるのです。

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2010年6月 1日 (火)

「過去の感情」を、演じ続ける苦しさ。

子供のころは、親の保護下にあり、何でも自分の自由にできるわけではありません。行動は大いに制限されるのが普通です。

けれど、大人になって自分で働くようになれば、自分の意思で、何でも行うことができます。大人になってまで、「誰かのせいで、私は○○ができない」なんてことは、ないはずです。

たとえば、若いころに、留学したい夢がありながら親の反対で実らなかった人がいるとします。そのころは、いろんな事情があって果たせなかったという事実があるとしても、大人になった今でも夢が大きいなら、働いてお金をためて、外国に行くこともできますよね。

いつまでも、「あのとき、親が行かせてくれなかった」なんて、親を責めていないで、行きたいなら自力で行くことはできるのに、なぜそうしないのか、と深く考えてみれば、心の底にある本心は、「動かない自分」を正当化するため、人のせいにして自分を被害者という安全圏に置いておきたいから、ではないのでしょうか。

「昔、やらせてもらえなかった」のは、親にも原因があるとしても、「大人になった今でも、やらない」のは、親のせいではなく、自分の意思のはずです。そこから目をそらすと、本当に見つめるべき本心に、焦点が当たらなくなり、自分で自分が分からなくなります。

このようなケースの、最も大きな弊害というのは、「本当は、もうすでに、外国行きの夢など持っていないのに、被害者を演じ続けて」しまうことです。

今の自分の(望まない)状態は、自分以外の誰かせいであり、自分は悪くない、被害者であるという立場をとるために、すでに色褪せて遠い過去となった理由を、いつまでも握りしめていて・・・、「(今回の例だと、親のせいで)過去にとらわれて、前に進めない自分」を、いつまでも演じ続けるハメになるのです。

自分が作り出した、虚構の世界で、いつまでも演じていなければいけない状態は、それはもう苦しみの極致でしょう。きっと、本人も、その状態をリセットしたい、「被害者を演じること」から降りて、楽になりたいと望んでいるのではないでしょうか。

しかし、その状態を「もう、こんなことは止めよう」と、決める権利があるのは自分であり、他の誰かに宣言してもらうことを期待していては、いつまでも虚構から抜けることはできないとも思います。

どう生きるのも、誰かのせいにして被害者で居続けるのも、すべて(自己責任において)自由です。ただ、私は、そういう生き方をしている人は、とても苦しそうに見えるのです。「もう、その生き方を演じるのは、ゲームオーバーでは?」と口にしたくなります。

けれど、自分で納得して決めないことには、またどこかで、形を変えて同じことの繰り返しになりますから、私はあまり強くは言いません。自分で意思を強くもって、変えようと思わないことには、行動に移すことは難しいと思います。

自分以外の誰かの意見に従うのみでは、「誰かのせい」にしていることと、五十歩百歩です。自分で自分の人生を、切り拓いていくという意思が大切なのです。そこから、新しいサイクルが、スタートしていきます。

親のせいでやれなかった、という感情のしこりは、本当に「今でも」あなたに深く関連しているでしょうか。その夢を、今でも本心から望んでいますか?演じているうちに、後に引けなくなっている部分はないでしょうか?

よく、考えてみてください。そして、自分の人生を、大事に生きてください。そしてできるなら・・・、もう、親御さんを、過去のあなたに対する加害者という立場から、解放してさしあげてはいかがでしょうか。

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