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2010年3月の18件の記事

2010年3月30日 (火)

憑依体質の人だけが、憑依されるわけではない。

霊的に敏感で、他人の影響を受けやすかったり、霊や想念などのエネルギーを引き付けやすい体質の方を、「憑依体質」と表現することがあります。

平均よりもオーラ大きかったり、質感が繊細だったりして、「キャッチする受信機が大きい(敏感)」なため、他人と同じ環境にあっても、影響が大きく表れやすいのです。

しかし、憑依体質という概念が多くの方に知られるようになった半面、解釈の誤解も生じてしまっているようにも思います。

「憑依されてしまうこと」と、「憑依体質であること」は、イコールではありません。

体質、性質というのは、そうなりやすい傾向を備えている、という意味に過ぎず、実際に憑依されてしまうかどうかは、本人の波長の問題、人間性や考え方等が一番大きく影響します。

「風邪をひきやすい体質」であることと、「実際に風邪をひいてしまうこと」は、同じではありませんよね。気をつけていけば、ある程度防げますし、ひきやすい体質でなくても、風邪をひくこともあります。その可能性は、気を抜いたり疲れがたまったりして体力が低下していれば、高まります。

憑依も同じで、「憑依されやすい体質の人だけに、起こりうるものではない」のです

もともとの影響のされやすさにかかわらず、波長が下がれば、誰でも憑依を受ける可能性は出てきます。そして、軽い憑依も含めれば、誰にでも起こり得る現象であり、大騒ぎするようなことではありません。

霊的に敏感で、影響を受けやすい人がいるものである、という知識が広まったのは、該当するタイプの人が、前もって気をつけることができるという点においては、良いことなのですが、・・・逆に、悪影響が出てしまうことへの免罪符、言い訳のように「憑依体質」というものを、とらえてしまう方もいます。

影響を受けやすい自覚がある方が、「私は、影響を受けやすいようなので普段から気をつけて、波長を落とさないように意識してみよう」というように、自分を省みるための分析材料としていくならよいのですが、「私は、憑依体質だから、影響を受けてしまうのはしょうがないの。私のせいではないのよ」と、開き直っても、何にもなりません;。

過剰な飲酒やギャンブルなどに夢中になってしまう自分を、憑依体質のせい、憑依霊のせいにしている人も、少なくありません。

それらの行為をしている記憶もない(くらいの憑依が起こっている)というなら別ですが、まったく自分の嗜好が影響していない、嫌いな行為を無理やりさせられているのではない以上、・・・それは、「自分が、そうしている」のであって、憑依により極端になってしまったり、夢中になる気持ちが色濃くなってしまうことはあっても、もともとの、「発端」は、必ず自分の中に原因があるものです。そのすべてを、憑依体質のせいにしてはいけません。

そう思いたくなる気持ちはわかりますが、自分が波長を下げていることから、憑依が起こっているという事実から目をそらしては、改善や解決に繋がりません。

憑依されてしまう、影響を受けてしまうのは、波長が下がっていたり、自分の中にネガティブな要素が存在して、同調するから起こるのです。体質は、あくまで「そうなりやすい傾向」、間接的な要因のひとつにすぎず、実際に、現象を招いてしまう、直接の要因は自分自身の中に必ず存在します。

フォーカスすべきは、そちらのほうだと思います。その際に、体質的なものも併せて考えていくと効果的なのは確かですが、原因そのものを、置き換えてしまわないよう、正しく理解していくことが大切です。

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2010年3月27日 (土)

霊的視点で考えれば、勝手な人が得をすることも、真面目な人が損をすることもない。

他人の言動が気になったり、イライラしたり・・・、誰にでもありますよね。なぜ、あの人の勝手な行動が許されて、自分の真面目な行動が報われないのだろうか、同じ扱いなんておかしい・・・、と。

しかし、「カルマの法則」がある以上、勝手な人が得をして、真面目な人が損をするという不公平が生じることはありません。

「今、このときだけ」を切り取れば、ワガママな人ほど得をしているように思えても、自分がまいた種が実るという、カルマの法則が作用しますから、そのような人たちも、必ず、人生のどこかで、「学ばされるような出来事」に、遭遇することになるでしょう;。

何故、あの人だけが得をして、自分が損をするのか…という考え方は、○か×か、良い悪いか、その場限りで白黒の結果を決めつける、スピリチュアルとは相反する考え方です。

スピリチュアルに(霊的に)考えるということは、包括して考えることです。どんな思考も行動も、カルマの法則により、自分に返ってくると知っていれば、他人の行動に過剰反応することはなくなるでしょう。

「あの人の身勝手な行動は、いつかあの人に返る」わけで・・・、そして、「自分の真面目な行動もまた、いつか自分自身に返る」わけで・・・、「あの人の身勝手な行動により、自分が報われない」という考え方は、スピリチュアル的には成り立たないのです。それでは、他の人がまいた種が、別人である自分の行く道に実ってしまうことになりますから;。

誰かのせいで、自分が被害者になっている、とうい考え方は、霊的の逆、とても現世的というか・・・、江原さんの言い回しを借りれば、「物質的な考え方」です。たくさんの因果関係を含んでいるはずの出来事に、○×でくっきり二分するかのような単純な解釈はできません。

自分のまいた種が、自分のゆく道に実るという、カルマの法則を理解していれば、他人の言動に過剰反応することは軽減するでしょう。

なぜなら、相手が理不尽な行動をとれば、相手にその理不尽さがいつか降りかかるのであり、相手が原因を作ったことが、別人である自分に降りかかることなどないからです。

この法則を知っていれば、他人に理不尽な言動をされた場合でも、とてもクールな対応が取れて、大きなトラブルにもならず、軽く受け流していけるようになります。

そして、さらに言うなら、「他人から理不尽な言動をされてしまった」という結果も、過去の自分がどこかでまいた種が、自分に実ったのであり、100%の被害者にはなりえないという事実も、理解していく必要もあるでしょう。

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2010年3月24日 (水)

「我慢や忍耐が目的」になってしまわないように。

人には独自性がありますから、それぞれ、得意なことと苦手なことがあります。

苦手なことも、自分の人生に関わってくるものや出来事は、すべて「自分のためになる学び」ではありますが・・・、だからといって、とても大きな我慢をしてまで、無理に取り組まなければいけないものでもない、と思います;。

一口に苦手分野といっても、努力で何とかなる範囲と、そうではない範囲があります。たとえば私自身は、応用力を活かすことができないルーティンワークは苦手です。あと、スポーツも苦手です。ルーティンは、苦手というのは気分の問題であり、やろうと思えば対応はできます。しかし、スポーツは、どうやっても出来ません;。それは、学びがどうとか言うよりも、適性の問題、向き不向きの問題になるでしょう;。

苦手でも、自分が好きだからとか、楽しいからという理由で取り組むのはいいでしょう。しかし、苦しいのに、そして資質的に向いていないのに、また、どうしてもそれをしなければいけない理由もないのに、わざわざ取り組んで苦痛を覚えるのは、大変に効率の悪い回り道を、意図的に行っているようなものではないでしょうか。

人生に必要不可欠な学びとしての苦難は、どうやっても避けられないように、向き合わされるものです。仕事や家事なら、最低限こなしていくラインというものが存在しますから、向き不向きを言っていられない部分はあるでしょう。

しかし、どうしても・・・というわけでもない苦難を、前面に押し出して取り組む行動は、・・・実は、「本当にやるべきことから逃避したい気持ち」が隠されている場合も多いのです。

苦手だからと何でも避けていいわけではありませんし、必要な学びには取り組む意欲は大切ですが、ただやみくもに、何でも忍耐さえすればいい、苦しいものに対峙すれば、それでいい、というものではありません。

苦手なものにも挑む意欲や、そのための努力や忍耐は、どれも素晴らしいものです。しかし、「(目的のための忍耐ではなく)忍耐のための、忍耐」という枠に、とらわれてしまっている方も多いと感じます。

真面目な性格の方ほど、上記のような考え方を、(本人的には無意識に・・・というか、ごく自然な習慣として)行ってしまう傾向がありますので、考え方が偏らないように、注意しながら自己の向上に努めましょう。

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2010年3月23日 (火)

既婚者の上司を好きになってしまう場合。

男性の上司に、女性の部下がついて、ペアで仕事をしていくケースは多いものです。女性が、上司の補佐として動いたり、雑務を担当したりして助け合っていくうちに、いつのまにか、上司に(もしくは、お互いに)恋心を抱いてしまうケースもあるでしょう。

上司が独身ならば問題ないですが、女性を自分の補佐要員として使える立場にある方は、年齢的に、すでに結婚なさっている方が多いです。

お互いに好意的な気持ちをもって、スムーズに意思疎通ができて、仕事がやりやすくなっていく分にはよいですが、好意が恋愛感情にまで発展してしまって、苦しくなってしまうケースもあります。

仕事上の、上司と部下という関係内であっても、男性と女性との間に、お互いへの信頼関係や尊敬の念、感謝の気持ちがあれば、恋愛的感情を抱いてしまうこともあります。

男性の上司と、女性の部下の間には、「疑似恋愛」になりやすい傾向があるのです

男性というのは、仕事をしているときが、最高に輝いて見えるもので・・・、その、「よいところだけ」を目にして、あれこれとサポートしていくうちに、尊敬の念と、理想像が膨らんでいきます。

取引先との板挟みになっていたり、業務上の苦労を目にするうちに、情もうつっていくでしょう。愚痴のひとつもこぼされると、「私だけが、彼の苦労を分かってあげられる」ような気持ちに、なってしまうのですね。

以前、テレビで、結婚直後の男性タレントさんが、こんなことを話していました。結婚してよかったのは、女性の前でも、モテようとして気負わないので、楽になったこと。もう自分は決まった相手がいるのだから、モテたりウケたりしてもしょうがないや、と、「男女間のあれこれ」から、「降りて」しまったので、力が抜けて楽になった、と。

その話をした後、司会者の方が、「そういう時期から、男って、モテだすものだよね」とまぜっかえして、爆笑になっていました。既婚者の男性の魅力のひとつは、上記のタレントさんの話のとおり、「女性に対して、余裕があるから」です。人生経験の薄い、若い女性からすると、その部分は、大人の魅力として輝いて見えますから、比較すると、独身男性の余裕のなさが、垢抜けないと感じられます。

ですから、好きになってしまう気持ちはわかるのですが・・・、やはり、疑似恋愛は、疑似恋愛。どれほどに、(業務上)親しくなって信頼が厚くなっても、男女という間柄の発展性として、「その先」がありません。それは、純然たる事実ですから、いくら好きでも、・・・どうにもならないです。

それに、上記のとおり、「良いところだけを見ている」のであり、彼の全部を見ているわけではないですし・・・、理想像を投影している、頭の中の恋なのです。その点を認識して、気持ちを切り替えていき、本当の恋愛を見つけてください。

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2010年3月19日 (金)

応用力を磨けば、学びの要素はどこにでもある。

「学びの機会」「学びの要素」と、言葉にすると、そのことに特化した機会やカリキュラムを思い浮かべてしまいますが、実際は、日常のどこにでも、自分がその気になれば、見つけることができます。

見つけようという能動的な意欲を持てば、その分、たくさん見つけることができます。もしくは、特に意識はしていなくても、全般的な感性が高い方は、さまざまなものをキャッチする網目が発達していますから、想像力と応用力によって、普段の生活の中から、ごく自然に気づきを得て、自分のものにすることができます。

逆に、意欲はあっても、「学びの要素がやってこないかな~」と、受身になっていては、なかなか、気づくことはできないでしょう。新たにやってくるものには気づけても、既にあるものの中に見出していくのは、受身になっていては難しいものです。

また、応用力や想像力によって、自分に当てはまるように「活かしていく」気持ちがあれば、どんなことも学びとなりますが、そういう感性が薄ければ、ズバリ当てはまるもの以外を意識の外へと排除してしまい、気づきの範囲がとてもせまくなるでしょう。

このブログは、多くの方に、「読みやすい」と言っていただいています。それは、偶然にそうなっているのではなく、私は、意図的に「読みやすいように、書いている」のです。

ある時、新聞で、「小学生が壁新聞を作るために、新聞社のOBに文章のコツを教わりにいく」という企画を読みました。OBの方は、新聞の場合、個別の記事の見出しと、文章の最初の1~2行に、記事全体の集約を載せて、何が書いてあるのかを冒頭で明確にするもの、と小学生にアドバイスをしていました。

私は、その企画を読んで、「( ̄A ̄)あ、そうすれば読みやすいのか」と、とても納得しまして、自分のブログの書き方に、一部取り入れてみました。「タイトルを見れば、記事の内容が分かる」ことと、「最初に全文の内容を簡単を要約した文章を載せ、その後に説明を加える」ことを、定型にするようにしました。

このブログのほとんどの記事は、記事タイトル「○○について」、内容「○○については、××です。なぜならば・・・」というスタイルで書くようにしています。

文章のまとめ方は、どんなスタイルがふさわしいかはケースバイケースだと思いますが、私は、コラム的な文章は、このような書き方が、分かりやすいのと、いつも同じスタイルで構成すると、一定のリズムが生まれるので、「読みなれると、読みやすくなる」効果も生まれると思ったのですね。

小説のような長い文章で、結末がどうなるかドキドキしたいものは、起承転結がふさわしいと思いますし、コラム形式でも、プロが書く文章ならば、きちんと順番に起承転結が並んでいくスタイルもよいのかもしれませんが、私のようなシロートが書いた文章で、しかも取り上げている対象が、目に見えないものというとても抽象的なものというおまけ付きですから;、私は、「分かりやすさ」「読みやすいリズム」を優先して、結論から述べるようにしてみたのです。

以前からずっとお読み下さっている方は、ご存知のとおり、このブログは、一度リニューアルをしています。いろいろな理由がありましたが、そのうちのひとつは、上記の新聞企画を読んで、過去の文章(の書き方)を直したくなったからです。

この気づきは、私が「応用して、活用した」わけです。まず、あのとき、新聞を読むという行動をとったこと、そして、自分のブログに活かそうと考えたこと、そして実際に、過去のブログ記事をリニューアルしたこと・・・、それらの「実際の行動」があってこそ、身についていくようになるのだと思います。

新聞の片隅の小さな企画は、私に大きな気づきと学びを与えてくれました。そのように、日常の、ふと目にした文章、誰かの言葉、たくさんの出来事や出会いの中にも、きっといくらでも、学びの要素が含まれていて、あとはそのことに、自分が目を向けるかどうか、だと思います。

直接的には結び付かない事柄でも、応用を利かせれば活用できます。そして活用するためには、「活用できる場がある(作る)」「そのために行動する」ことが大切です。活かす場を、誰かが与えてくれるのを待っているよりも、自分でつかみ取るか、作り上げるくらいの気持ちでいくと、日常の中に、たくさんの学びが見つかっていきます。

私の話に戻りますが、新聞の企画を読んで、ピンと来たからといって、そうすぐには活用できるものではありませんよね。何故私が、すぐに活用できたかというと・・・、以前の会社員時代に、会議用の資料を作る機会が数多くありました。そのとき、上司が、「社内向けの資料だから、(プレゼンなどのように、相手の説得や共感などを考慮する必要がないので)、結論から先に、分かりやすく作って」と、よく言っていたのですね。

そして、その通りに作っていましたから、私にとって、「結論から先に述べる文章構成で書く」ことは、過去に経験済みのことでした。ですから、新聞の企画は、新たな気づきを得たというよりも、自分の中にある応用できる要素に気づかせてもらった、という感じです。

無駄な経験はひとつもなく、眠らせてしまっているものがあるとすれば、それは、自分が活用しようとしていないという「自分のせい」なのだな・・・と、私は、このことからも、学びを得ました。

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2010年3月18日 (木)

怒りは、我慢せずに吐き出すほうがいいのか?

怒りの感情が出てきたとき、その対処法として、「我慢したほうがいい」のか、「外に出したほうがいい(怒りの対象となる相手に、感情をぶつけていい)のか」と、聞かれることがよくあります。

特定の問題について、解決や改善のため行動していくのが、自分を成長させることに繋がります。怒りがわいてきた場合に、「我慢」や「放出」で、解決するのでしょうか。解決するならよいですが、解決しないならば、別の方法をとるべきだと思います。

我慢すれば、相手には被害がないかもしれませんが;、自分がおさまらないでしょう。

しかし、相手にぶつけてしまえば、自分は、ほんの一瞬スッキリするかもしれませんが、相手との人間関係は壊れますし、相手が反撃してくる場合もあるでしょう。

相手が反撃せず、表面的には納得したとしても、心の中では反感をもたれるに決まっています(いかなる理由があろうとも、怒りをぶつけられて、いい気分になる人はいません)。

我慢も、放出も、どちらも、その場限りの「対症療法」です。

例えば、火の手が上がった場合に、自力で消火するか、人の手を借りるか、どちらにしたらよいかと考えることは、その場を収めるための手段であり、出火の原因追究ではありませんよね。いざという時に備えて、消火器を設置するかを考えることも、対策としては有効な手段ですが、やはり原因追究ではありません。

何度も火の手が上がってしまう場合には、「なぜ、そうなるのだろう?」と考え、事前防止の策を講じるなり、大元の原因を見つけて改善なりを試みるでしょう。

それと同じで、怒りを我慢するか否か、の思考のみにとどまらずに、「なぜ、怒りがわくのか」「自分は、何が面白くないのか」を考えて、自分自身の掘り下げをしていくことが大切だと思います。

相手に理不尽な扱いをされて、怒りがわいた場合、「相手にも、自分から怒りをぶつけられても当然となる理由がある。なのに、我慢するのはおかしい」という気持ちは出てくるのは、わかります。それは、そのとおりなのかもしれません。

しかし、仮にそうであっても、とにかく「怒っているのは、自分」です。まずは、その点を認識していかなければなりません。

実際に火が広がっているのに、のんきに「原因は何だろう?」「なぜ、消火器を用意しなかったのかなぁ」なんて考えているわけにもいきませんから、その場の、対処はもちろん大切です。

ですから、わきあがった怒りの気持ちを、どう処理するかについて考えること自体が、悪いとか、見当違いだという意味ではないのです。ただ、その問題の、本当に目を向けるべきところは、別にあることにある、自分自身にあるのだという点を、きちんと認識することが大切です。

「木を見て、森を見ず」にならないよう、怒りがわいてくる理由に焦点をあてて、改善をはかっていく考え方が大切で、「怒りをぶつけていいのか、我慢すべきなのか」という二択の問題ではない、ということです。

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2010年3月17日 (水)

すでに、(暫定の)答えは出ている。

誰もが、自分にとって直視したくない現実から、逃避したい気持ちを持っているものです。そのため、「既に、現状が答えを示している」ことから目をそむけて、「まだ、答えが出ていない」と、思いこもうとすることがあります。

そうなると、進むことも退くこともできず、立ちどまったままになるケースは多いです。特に、好きな人がいるがお付き合いに至ってない状態などの、恋愛問題にはよく見られます。

例えば、直接ノーを言われたわけではないけれど、間接的な態度や、もしくは当人同士をとりまく状況からして、ノーを認めるしかない場合って、ありますよね。受け入れるのは苦しいけれど、そうするしかないこともあります。

「でも・・・、まだ、直接答えを聞いていないから」と、現実から目をそらしても・・・、ただ物理的な時間が流れていくだけとなります。

「白黒はっきりさせないことには、次に切り替えられない」と考えていらっしゃる方は多いのですが、「相手が、態度を鮮明にしてくれない」という状況は・・・、現時点では、気持ちが向いていない証拠ではないでしょうか。はっきりと否定しないのが、相手からのやさしさの場合もあるでしょう。

私たちが、日頃「最終結果」だと思っていることの多くは、「経過」であり、「その時点においての、暫定的な結果」にすぎません。もう絶対に動かしようのない確定した結果というのは、実はそう多くはありません。

ですから、この時点では、「ノー」だったとしても、答えが確定されたわけではなく、思い続ければ、未来のいつかで実る可能性もあります。しかしそれば、現時点での答えを認めた上で、それでも思い続けるかどうか、の話であって、「今は、まだ答えが出ていないから」と、現実から目をそらしてしまっては、力を注ぐべき焦点がぼやけて、見当違いの労力を費やしてしまうことになりかねません。

自分が、本当は、どちらの状況に置かれているのか、現実を見つめる勇気をもって、判断していく必要があると思います。現実を見つめるのは、ときに大きな痛みを伴いますが、どちらかの方向に動きださなければ、いつまでも今のまま・・・時間だけが費やされてしまいます。自分に都合よく解釈するのをやめて、現実を直視することも大切です。

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2010年3月16日 (火)

オーラのくもりが、インスピレーションの伝達をさえぎってしまう。

明るく輝いたオーラの状態が望ましいのですが、悩んだり怒ったりの感情の上下や、疲れなどにって、オーラが暗くてくもった状態になってしまうこともあります。

ひとつの悩みも苦しみも抱えていない人はいませんから、誰でも、オーラがくもってしまうことは、ありえます。

オーラは、都度、移り変わっていくものですから、一時の状態だけを抜き出して考えることには、あまり意味がなく、気にしすぎることはないのですが、くもった状態が長期化すると、さまざまな影響が(無意識レベルのものも含めて)出てしまいます。

オーラの状態と、インスピレーション(の鋭さ)とは、密接な関係があります。オーラの状態がよいと、感度の高い受信機を備えているようなもので、直感的な「得られるもの」が多くなります。

逆に言えば、オーラがくもっていると、直感が冴えません。深刻に悩んでいるときに限って、まったく解決策が浮かばず、同じことをぐるぐると考えてしまうことからも分かるように、オーラにくもりがあると、インスピレーションの伝達が遮られるのです。

対面セッションで、ご希望の方に、「直感力を高める練習方法」を指導させていただいています。オーラレベルでその状態を説明すると、直感力を活用している状態では、オーラが明るく輝きます。ご自分のオーラの中に、ガイドスピリットのオーラが入ってくるというか、ばーっと被ってきて、明るくなるのですね

この、「ガイドスピリットのオーラが、被ってくる」現象が、スムーズになるか否かに、オーラのもともとの明るさ、くもりのなさが、関係してくるのです(それ以外にも、ご本人の霊的資質の大小なども関係してきますが)。

ガイドスピリットというのは、霊的に進化向上している方達ですから、波長が高いです。ご本人のオーラがくもって、波長が下がっている時には、上手くオーラが被ってこれないのですね。いくら、ご本人とご縁のあるガイドスピリットとはいえ、あまりにお互いの波長に落差がありすぎると、やはりスムースにいかないもののようです(・・・というのが、オーラから、見て取れます)。

この練習をしていただいているとき、私は、実践内容は、それほど重要視していなくて(失礼;)、波長とオーラの状態にフォーカスして拝見しているのですが、上手くオーラが重なり合うことができるかという点と、そのときのご本人のオーラの状態は、明確に関連があると実感できます。

インスピレーションを鋭くしたいと望む方は多いです。まずは、「受信機をキレイに保つ」ことが基本、つまり、自分自身の状態をあらゆる意味で向上させることが大切です。さらなる上乗せ要素、プラスアルファの部分は、受信機がクリアになっていてこそ有効となります。

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2010年3月15日 (月)

自分の「逃避の、思考パターン」を認識する。

昨日の続きです。「光」も「闇」も、誰の中にもあるように、「光を避けたい気持ち」も、「闇を避けたい気持ち」も、やはり、どちらもすべての人の中にあり、一方だけの人はいません。

どちらの傾向がより高いか、という違いはあっても、普通は、混合タイプであり、そのときの状況や相手との力関係により都度、強調されるところが変わるものです。

その点をふまえたうえで、自分がどちらの傾向がより強いかを分析し、自分は何を避けているのかを認識して、そして次に、何故それを避けてしまうのか、という順番で考えていきます。

例えば、「自分の中の光をみるのが苦手」で、人から褒めらたり評価されると居心地が悪いと感じるのは、「何故」なのか。

褒められる要素があると、その分、責任を負わされたり、重い役割がまわってくるものなので、責任を負うのがイヤだという気持ちが根底にあるのか、それとも・・・、というふうに。

そうすると、「自分の思考のパターン」が見えてきます。そのパターン自体が、良いか悪いかという点はあまり考えなくてもいいと思います(というより、優劣はつけられません)。

考えるべきことは、そのパターンが、今の自分の悩みが心配事に、どのように関連しているか、という点です。影響度は、それぞれ違うでしょうが、必ず影響・関連しています。

問題の解決・改善のためには、まずは、気づく(正しく認識する)こと、実践する(改善のための行動をとる)こと、そして、その行動を継続すること、が大切です。

今回の記事は、その第一段階、「まずは、気づく」という意味での、分析の仕方の提示です。このとき注意しなければならない点が、ひとつあります。そして、その点が、自己分析の上で、とても難しい部分なのですが・・・。

人は、痛みを避けるために、無意識で「理由の置き換え」をして、自分に都合のよい理由を作り上げてしまうところがあります。

本当は、他人からの評価をとても求めていて、「なぜ、私は認められないのか」という怒りを他人に対して持っているタイプなのに、自分の中のネガティブを見たくないゆえに、その部分を覆い隠してしまうのです。

そして、「私は、自己評価が低くて、いつも自信がない・・・」と装い、そのように振る舞い続けます。すると、いつの間にか、自分の中で、それが「(表向きの)理由」になってしまうのですね。

しかし、理由を偽ると、有効な対策は取れないのです。例えば、上記のような場合、人に相談すると、「あなたは、素晴らしい人なのだから、自信を持って!」と言われたりすると思います。しかし、実は「自信は、ある」人に、自信をもって!というアドバイスは、・・・かみ合っていませんよね。

そうはいっても、アドバイスした人も、悪くはないのです。なにしろ、本人が「自信がない」と口にすれば、そう言うしかないですから。

そうすると、「誰に相談しても、解決しない」現象が起こりますし、それでなくても「自分の中の闇を見たくない人」は、何でも他人のせいにする傾向がありますから、自分が理由を偽っていることから起こった出来事すらも、「他人からは、有効なアドバイスは得られない」という不満につながることでしょう。

このタイプの人は、他人からの評価をとても欲しがっていますから、相乗効果?で、ますます不満になります。では、ズバリと「あなたは、自信はあるはず。人から認められたいだけでしょう」と告げれば解決するかというと、そう単純にはいきません。表向きの理由は、「私は自信が持てない・・・」ということになっていますから、本人もそう思い込んでいるので、「その指摘は、当たっていない」という認識になり、・・・どうやっても、かみ合いません。

どれほどに有効なアドバイスや正論という、改善のヒントが存在しても、改善すべき点の認識が正しく行われなければ、効果がえられにくいのです。

正しく認識することができれば、ゆっくりでも必ず改善がなされていき、自分の精神も高まりますし、物理的な現象にも波及していきます。

自分の中の、「光」と「闇」、どちらを避けたい気持ちが強いか、自己分析に取り組んでみてください。今まで気づかなかったことが、見えてくるかもしれません。

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2010年3月14日 (日)

見たくないのは、「光」か、「闇」か。

誰の中にも、肯定と否定、善と悪、ポジティブとネガティブなどの、逆の要素が両立されています。それらをひっくるめて、あるべき状態、望ましい状態に近い要素を「光」、逆にあるべき状態から遠ざかる要素を「闇」と称して、以下を書き進めます。

自分の中の、光を認めるのが苦手な人と、闇を認めるのが苦手な人がいます。

光を認めるのが苦手な人の特徴は、

・自分を過小評価する・褒められたり、持ち上げられたりすると居心地の悪さを感じる・(褒められると居心地が悪いので)人からの称賛を受け入れず否定する

・(自分が褒められる場面を避けるために)他者を褒めたたえる傾向がある・自分の至らない点ばかりを数え上げる

このように、「自分の中に、悪い要素があるので、望まない事態になる」という考え方をしますし、実際、そう納得することが、本人的に落ち着くのです。(世間一般に解釈されている意味での)原罪意識のようなものが強いのも、このタイプです。

すべての物事を、悲観的、自虐的とらえる傾向があります。自分の中にある、改善すべき要素を見ることは(認識が少々過剰気味ではありますが)得意ですが、良い部分や秀でている部分を認めていくことが苦手です。

闇を認めるのが苦手な人の特徴は、

・自分は他者からの評価が低いと感じている

・否定されたり批判されたりすると、絶対に許せない気持ちになる

・(批判されると許せないので)批判されたら受け入れず反論する

・(自分が批判される場面を避けるために)他者に対して批判的である

・他者の欠点が目につきやすい

このタイプの人は、不愉快なことが起こると、その原因をすべて他人のせいにする傾向があります。「自分の中の、素晴らしい要素を、他人が認めないから、望ましくない事態になる」と考え、自分に悪い原因があるとは考えません。

自分の中の、素晴らしい部分を認識するのは得意ですが、改善すべき要素が自分の中にあるとは考えたくないので、そのマイナス分を、(自己認識による素晴らしい部分の上乗せとして)他者からの評価を得ることで埋めようとします。

光を見るのが苦手な人も、闇を見るのが苦手な人も、どちらも、自分から「逃避」しているという点では同じです。しかし、「何から、逃避しているのか」が違えば、解決のための手法も違ってきます。

どちらのタイプも、表れ方が極端になれば、人付き合いの上でのトラブルや悩みを抱えてしまうことなになります。

その場合の解決のための考え方として、他人を変えることはできないので、まずは自分を見つめていくことが大切となりますが、「何を、見つめていけばよいのか」、つまり「何から目をそらしているのか」を、正しく認識していく必要があります。

広いとらえ方である「自分を見つめていく」という枠組みから、もう一歩踏み込んで、「何を」という点を、考えてみるのですね。その点が、人づき合いの改善のため、もしくは自己の向上のための、はじまりのはじまり、になると思います。

その点を、あいまいな、「自分を見つめて・・・」という広いとらえ方にしてしまうと、認識として間違ってはないけれど、ピンポイントではないので、実践につなげていきにくいケースも出てくると思われます。

ちょっと話題がずれますが・・・、上記の項目、「光を見たくない人」と、「闇を見たくない人」の内容をみると、ある点に気づく方もいると思います。・・・そう、この両極端のタイプは、お互いがお互いのニーズを満たしあって、「よいコンビ」になってしまうことがあります。共依存、というのでしょうか、そういうパターンも結構見られます。

誰の中にも、両方の要素があるものだと思います。よりどちらが強いか、という区分けに過ぎませんが、自己分析のために、このような考え方も行ってみてください。

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2010年3月13日 (土)

物騒なココロの叫び?が、聞こえたときの話( ̄_ ̄)。

霊の声などを、音声で聞く力を、霊聴(れいちょう)力と言います。

霊視力を備えている人は(程度の差はあるにしろ)たくさんいると思いますが、その人数から比較すると、優れた霊聴力を備えている人は、ごく少数だと思われます。

私自身も、霊聴はあまり得意ではありません;。・・・というか、霊視もあまり得意ではありませんが(笑)。

以前、会社員だったころ、通勤路に女子高があり、毎朝、高校生の集団とすれ違っていました。私は駅に向かい、高校生は駅から高校に向かって歩く形となります。

あるとき、すれ違いざまに、“ころしてやるっ”という、かなり物騒な心の声( ̄_ ̄;)が、聞こえたことがあります。通常の肉声を耳で聞いているのか、霊聴なのかというのは、瞬時には分からない(こともある)ので・・・、そして、朝なので、私もぼーっとしていたところに聞こえてしまったので、しかも、切羽詰まったような叫びだったので・・・、えぇっ?と、振り返りそうになりました。

・・・しかし、次の瞬間、すれ違った会社員風の男性から、“うーん、どうしようかなぁ・・・”という、これまた心の声らしきものが聞こえて・・・、そこでやっと、私の霊的聴覚が開きっぱなしになっているだけなのだと、分かりました(笑)。

びっくりしたけれど、“ころしてやるっ”という物騒な声が、高校生本人の肉声ではないことに、ほっとした気持ちにもなりましたね。朝っぱらから、そんなセリフを口にするなんて、どんな修羅場ですか?という話なので・・・。

これは、4年くらい前、私がスピリチュアルな訓練を開始してまもなくの話です。当時は、私も、まだ何も分かっていないし、きちんと練習もできていなかった(と、今振り返れば思う;)ので・・・、私の波長が低かった( ̄w ̄*)のだと思います。

だから、“ころしてやる”という「怒り」や、“どうしよう”という「心配」などの、ネガティブモードなココロの声だけが、聞こえたのかもしれません。

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2010年3月12日 (金)

まずは、自分の内的な部分を分析してみる。

心配事や悩み事、そこから派生するストレスを、誰もが抱えています。

今回の記事は、ストレスの要因が、すでに明確になっている前提での話ですが、改善のための考え方や分析の順序について書いておきますので、参考になさってみてください。

取り組み方(考え方)の、優先順位

1)原因を取り除く(もしくは、遠ざかる)
2)
完全には除けない状況なら、軽減する
3)意識を、ほかのことに振向ける

この3つの、1)から順番に考えてみます。例えば、特定の人物のと付き合いが、ストレスになっている場合は、「その人から、遠ざかる(付き合わない)」ことを検討してみます。

相手が、会社の上司だというなら、仕事をしないわけにはいきませんし、そう簡単には転職もできませんので、1)の方法では難しいことになります。その場合は、2)以降を考えます。

しかし、友人知人関係なら、「遠ざかる」ことも可能だと思うのです。「知人が、とても意地悪で、いつも暴言を吐かれ、苦痛だ」と思うなら、無理して付き合うことはないですよね。

好きな人とだけ付き合うわけにはいかず、気が合わない人とも上手くやっていく必要があるとはいえ、全員と仲良くするなんて無理な話。適度な距離をとっていくほうが、スムーズになる関係もありますから、柔軟に考えていくことが大切です。

仕事でのストレスを何とかしたいと思っても、仕事をしないわけにもいきませんので、2)の「軽減する」方向で考えてみます。仕事が忙しい、拘束時間が長いと不満を抱きながら、実は、やらなくてもいい残業をしている人が大勢います。なんとなく、「定時では退社しない習慣」が作られてしまうみたいです。そういう点を見直してみるとか、または、事情が許すなら、部署を異動したり、仕事を変えることなども、検討してみるのもよいでしょう。

軽減もできそうにない場合は、3)の、意識の比重を、ストレスの要因以外のことに、向けてみます。心配事というのは、考えれば考えるほど、自分の中で色濃くなり存在感を増していくものです。

江原さんが、仕事は「生活の手段としての、適職」と、「喜びを感じられる、天職」を、両立させていくとバランスがとれると、よくおっしゃっていますが、仕事に限らず、ひとつのことだけに傾倒しすぎると、気持ちの余裕がなくなって、自分の中で、ますます心配事の存在が際立ってしまうものです。

心配事の占める比重を下げる(ということは、他のことの比重を上げる)ように、意識を切り替えてみることも大切です。

上記の1~3は、どちらかといえば内的な取り組み方、自分の中で、意識や行動を変えることによる改善を試みるスタイルです。基本、それでいいと思うのですが、場合によっては、どうしても、外に向かって、相手に対して意思表示をしていかなければ現状を変えられないこともあるでしょう。

4)相手に対して、改善してほしい旨の主張をする。

何でもおとなしく、受身になっているだけが美徳なのではありません。日本人は、調和を重んじるので、そう考える傾向がありますが、ときには、はっきりとした主張や意思表示が必要なこともあります。1~3を考えても、それでは、改善出来ない状況にあり、必要不可欠だと思う場合には、4)の考え方をとることになります。

しかし、それは、1~3で考えてみて、それでも無理な状況だ、となった場合の話です。受身になるばかりで、主張ができない人も、それはそれで問題なのですが、逆に、自己分析をすっとばして、いきなり4)の方法をとり、相手を責め裁き、自分の思い通りにしようとする人も多いですが、力技では、なかなか相手の心には届かないでしょう。それは、主張というより、単なるワガママになってしまいます。

1~3の分析をきちんとした上で、4)の方法をとる場合は、少なくとも、自分は冷静でいられます(相手が、どう反応するかは分かりませんが)。けれど、いきなり4)の方法をとって、自分が感情的になり、そして(もしも)相手もそれをうけて感情的になれば、改善よりも対立する可能性のほうが高くなってしまうでしょう。

考え方は、いろいろあると思いますが、ご自分なりの方法や取り組み方が見つからない方は、分析のための参考になさってみてください。

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2010年3月11日 (木)

紫×銀のオーラの人は、老成して見られやすい。

「紫(もしくは、青、青紫)×シルバー」のオーラの方は、若いのに老成してみられやすいとか、落ち着いていて、年齢よりも大人びた印象を与える方が多いです。

ある一定以上の年齢になれば、落ち着いている(印象を与える)のは、メリットもあると思いますし、また、職業によっては、若さよりも落ち着きを全面に出したほうがスムーズになる分野もあると思います。

しかし、パートナーとの出会いを探している方が、お仕事から離れたプライベートな時間でも、老成した雰囲気が出てしまうと、初対面の方からの、第一印象として、損をしてしまうこともあると思います。

自分が備えている素晴らしい部分は、親しくなっていけば分かりあえますが、初対面の方は、雰囲気からの印象が大きく左右しますので、そこで、控えめに見られやすいと、一歩出遅れてしまうと思うのですね。

人付き合いにおいて、特に新たな出会いを求めている場合は、自己分析の観点も大切ですが、同じくらいに、「相手から、どんな印象で見られているか」を、考えてみることも、有意義だと思います。

「紫×シルバー」オーラの方は、ただでさえ、落ち着いて控えめに見られやすいのだから、自分で思っているよりも、積極的に前に出ていくくらいで、(相手に与える印象度として)ちょうどよいのではないかと思います( ̄∀ ̄)。

また、この組み合わせの方は、歴史のあるものを好み、斬新なものや流行に走ったものを、あまり好まない傾向もあります。そのため、ずっと同じ髪型にこだわったり、自分に似合う服装はコレ!というスタイルがあって、テイストが似たような洋服や、同じ色の洋服を集めるタイプでもあります。その点もまた、「落ち着いた」印象に繋がりやすいのでしょう。

自分が好ましく思うスタイルや生き方をするのが一番ですから、好みを変える必要はないのですが・・・、自分は、相手から(特に付き合いの浅い方からは)老成してみられやすい傾向があると、認識することで、人付き合いの距離感を計りやすくなると思います。

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2010年3月10日 (水)

相手が悪いのか、それとも自分が悪いのか。

人間関係において、苦難や忍耐を伴う出来事に直面することが、しばしばあります。状況の改善のために、原因を考えてみる過程で、「相手が悪い」のか、「自分が悪い」のか、という考え方にとらわれて抜け出せなくなり、立ち止まってしまう方が多いと感じます。

状況や原因を分析してみるという思考は、素晴らしいものだと思います。しかし、分析の視点があまりに自分本位に傾いては、答えは導き出せなくなります。

すべての出来事は、「自分のまいた種が、自分の行く道に実る」という、カルマの法則と、同じ要素を持つ人や出来事が引き寄せられるという「波長の法則」で成り立っている以上、どちらか一方が100%悪くて、もう一方が100%正しい、という区分けにはならないはずです。

相手が100%悪い(自分はまったく悪くない)、と考えることは、スピリチュアリズムの大原則である、「カルマの法則」に異を唱えることになります;。その出来事の意味するところを、スピリチュアル的に考えるならば、相手がすべて悪い、という選択肢はなくなります。

すべての物事は、ある結果に至るまでに、いくつもの要因が複雑に作用しあって作り上げられますよね。ひとことで言い表わせるものなど、ひとつもなく、この世のすべては、とても複雑で精巧な芸術品のような、「複数の作用と要因からなる、結晶」だと思います。

それを、「○か×か」、「どちらか一方が正解で、もう一方不正解」のように、極端な二択でとらえてしまうことは、まるで「灰色とは、白に属するのか?それとも黒か?」と、難しい問答をしているのと同じです。白でも黒でもないからこそ、灰色なのであり・・・、世の中の多くの物事は、どちらともとれる、グレーゾーンに属すると思います(そういう分類をするならば、ですが)。

その時々で、白に近く感じられたり、黒に近く感じられたり・・・、物事に対する認識というのは、「自分の尺度」が反映して、暫定的な答えを出しているに過ぎません。どれほどに考えても、白か黒かを(万人が納得するような)明確な定義の発見に至ることは、ないと思います。

それぞれ考え方や性格が違う以上、お互いに、ある程度の「グレーゾーン」を認めていくことが、ちょうどよい距離感となり、関係がスムーズになるのではないでしょうか。

ある問題があって、「相手が悪いのか、それとも、自分が悪いのか」という思考から抜け出せない方は、そういう、白か黒かに二分してしまうような思考の習慣そのものが、相手との関係を難しい状態にしている要因のひとつかもしれません。

すべてが白か黒かで割り切れたら、とても簡単です。しかし、そう単純明快にいかないからこそ、人は悩み、苦しみ・・・、ときに忍耐の必要が生じ、理不尽さを感じたりもする中で、さまざまな知恵を身につけ、成長していくのではないでしょうか。

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2010年3月 8日 (月)

試されているのは、柔軟な対応ができるか否か。

自分が、楽しいときや幸せなときに、人に親切にすることは、さほど難しくはありません。心に余裕があれば、人を思いやることができます。

そうではないときにも、やさしく接することができるか、そこに「たましいの成熟度」があらわれると思います。

普段は親切な方でも、自分に余裕がないときには、「私だって、困っているのに」「こっちが助けてほしいくらいだ」「なぜ、私が、あなたの面倒まで見なければいけないのか」と、思ってしまうのは仕方ありません。

しかし、そんなときに限って、頼まれたり、依存されたり・・・、神経を逆なでされるような出来事が、起こるわけですよね、まるで、「試されている」かのように。・・・っていうか、実際、試されてる(から、そういうことが起こる)のでしょうけれど。

他人のために尽くすのは、すばらしいことですが、自分のことを後回しにしてまで、他人を優先すべきか、というのは一概には判断できません。お互いが抱えている問題の、重要度や、緊急性によりますし、その価値観は一定ではありません。誰でも、「自分の苦労は大きくて、相手の苦労は小さい」と思うものです。

どうしても相手の希望の添えない状態のときに、「私だって、こんなに大変なのにっ!」と感情的になってしまうか、それとも「ごめんなさい、今はどうしても、手を貸すことができない状況にある」と、やわらかく断ることができるか、そのあたりが「試されている」のだと思います。決して、「自分を犠牲にして、相手を全面的に優先させることができるか、という試練」ではないと思います。

もし、相手が、あなたが手を貸してくれないことに怒ったとしても、そんなに気にすることはありません。その人も、「自分のことばかりではなく、相手の都合も考える」ことを、学ばなければなりません。

一時的に感情の行き違いがあったとしても、相手が本当にあなたのことを信頼しているのならば、いつかきっと分かってくれます。そのまま、あなたを逆恨みして疎遠になってしまうような人とは、最初からその程度の関係でしかなったのです。

何でも手を貸してあげることが、相手のためになるとも限りませんし、相手の依存心にノーをいうことのほうが、結果として相手のためになることもあります。…一時的に、恨まれるとしても、です(笑)。

ですから、そういう場面に遭遇したとき、学ばなければならないのは、手を貸すか否か、という点だけではない、その裏側にある動機、相手によく思われたいとかの損得勘定とか、私だって大変だという、少々自己中な気持ちなども含めて、だと思うのです。

自相手の言動に感情的になりすぎず、柔軟さと落ち着きをもって考えていけば、その場面にふさわしい、自分の取るべき行動がわかるのではないでしょうか。

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2010年3月 4日 (木)

控えめ過ぎても、相手に負担をかけてしまうこともある。

丁寧な表現に、謙譲語というものがあります。自分を下にして、相手に敬意をはらう表現の仕方です。

自分の息子を、「愚息が・・・」と言ったりしますよね。でも実際には、息子さんが愚かなわけではなく(笑)、身内を語る際の、定型のようなものです。

謙譲語が、丁寧な表現として分類されることからもわかるように、日本人は、相手を立てるために自分を控えめにするという習慣があります。そして、そういう謙虚な態度は、割と好まれますし、大人の振る舞いとして認知されています。

しかし、何事も、「バランス」が大事で、過剰にへりくだりすぎると、(相手を立てるためのはずが)逆に相手に心理的プレッシャーを与えてしまうことがあります。

相手を立てようと、自分を控えめにするつもりが、あまりに自分を下げてしまうと、相手はうれしく思うよりも、居心地の悪さを感じてしまいます。

相手も、この日本という、「自分を控えめにすることを美徳とする」習慣がある国で育っているわけです。そんな中で、相手が過剰に「へりくだる」と、まるで自分がそうしむけたかのような立場に置かれて嬉しくないと、受け取る人もいると思います。

心がけ自体はよいと思うのです。日本では、控えめが好まれる習慣があることは、事実ですから。しかし、過剰にならないようにバランスを考えることは大切です。

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2010年3月 3日 (水)

縁とは、あらかじめ決まっているものではなく、自分で作り上げるもの。

独身の女性からのご依頼は、「恋愛(結婚)」と、「仕事」のことをお聞きになりたいという方がほとんどです。お仕事のご相談は、多岐にわたります。転職を検討しているとか、今の仕事をずっと続けていけるだろうか・・・とか、社内の人間関係のお悩みもあれば、専門職ゆえのプレッシャーと戦っている方もいます。

その一方で、恋愛に関しては、皆さん申し合わせたように(笑)、同じことをおっしゃいます。「私は、この先、恋愛(結婚)できるのでしょうか」とか、「いつ、結婚できますか」、と。

そういうご質問には、もうおなじみのセリフ(笑)、「未来とは、自分で創るものであって、あらかじめ決まっているものではないですよ」と、まずはお伝えします。

そして、

「もし、恋愛(結婚)相手や時期が、あらかじめ決まっているのならば、恋愛以外の未来も、決まっていることになりますよね。」

「ならば、転職するかどうかで悩んでも、意味がないことになりません?未来が決まっているなら、いくら悩もうと、決まったとおりにしかならないでしょう?」

「恋愛では、確定した未来を知りたくて、仕事は、この先どうしようかと不確定要素を悩むのは、矛盾していると思いませんか?」

と、お話させていただきます。

仕事や会社というのは、物質として目に見える要素が大きいけれど、人の縁や出会いは、目に見える要素が少ないので、「運」とか、そういうものに結び付けて解釈したくなる、そのお気持ちはよくわかりますが、多くの可能性としては用意されていても、何をどう、現実化していくかは、自分しだいなのですね。

人間関係の縁には、確かにルールがあります。それは、「波長の法則」によって、自分の波長に見合った人達と出会うという事実と、前世も含めて、たましいのご縁がある人達と、出会っていく確率は高い、ということです。

かといって、必ず、前世で縁がある方と恋愛するという意味ではありません。そうなる場合もあるでしょうし、そうでない場合もあるでしょう。縁がある人達と、自分の波長によって出会う、という事実は、「決まっている」と、言えなくもありません。

けれど、その数多くの中の、誰とどのような形で、親しい関係を築いていくかは、「創っていく」要素のほうが大きいのではないかと、私は思います。

あらかじめ、結婚できると決まっている事実だけでも知って、安心して過ごしたいという気持ちは、もちろん理解できるけれど、人生とは、そうはいかないらしく(笑)、いろいろと悩み、考えることも含めて、プロセスそものが学びとなっているようです。

自分が望む未来を引き寄せていく、作り上げていくのだという意欲をもって、日々明るく前向きに、努力を続けていきましょう。

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2010年3月 2日 (火)

気配りは、相手に気づかれないようにするほうがいい?

一般に、気配りをする際、「相手にそうと分からないように」助けてあげることが、美徳とされている傾向があるように思います。調和を重んじる日本人の気質的に、自己アピールよりも謙遜のほうが好まれるし尊敬されるためでしょうか。

しかし、ケースバイケースで、「相手に気づかれないように」した方がいい場合もありますし、「相手に気づかれるように」行ったほうがいい場合もあります。気配りは、「相手のため」に行うものですから、相手の身になって考えてみる必要があります。

相手にわかるように行った方がいい場合とは、「そうしたほうが、相手が喜ぶ場合」です。

孤立無援の状態で困っている人には、「お手伝いしましょうか?」と声をかけて、「私は、あなたを気にかけていますよ」とアピールしたほうが、きっと相手は喜びますよね。実際の行動によるお手伝い以上に、相手を勇気づけるでしょう。

逆に、相手に分からないように行う方がいい場合は、「そうすることで、相手が喜ばない(負担になる)場合」です。

プライドの高い人に、「手を貸しましょうか?」と申し出ることは、喜ばれない場合もあります。周囲に、困っている自分を知られたくない人には、こちらが気にかけていることを分からないようにしていくほうが向いていると思います。

相手が何を望んでいるかを考え、「相手の立場になって」行動することが出来る人が、「気が利く人」なのだと思います。

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