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2010年1月の21件の記事

2010年1月30日 (土)

「今、この人生を生きている」という奇跡。

の世で生きている誰もが等しく、いつかは「肉体の命」の終わりを迎えますが、たましいは永遠なので、消えてなくなることはありません。

お金をいっぱい貯めても、あの世までは持っていくことも、来世に持ち越すこともできず、今回の人生で得た物質的な要素は、肉体とともに終わりがあります。

努力や経験から培われた精神は、肉体がなくなっても、残っていきます。今回の人生で努力したことが花開く時期は、必ずしも今回の人生とは限らず、来世以降に実るかもしれません。

「物質」は、そのとき限りかもしれませんが、「たましいの歴史」は、どこまでもつながっていますから、物質的な欲はほどほどに、そして精神的な成長は限りなく長期的な視点で見据えていくことが大切です。

それらを考えるとき、つい「現世的なことから遠ざかるのがスピリチュアル的解釈」という考え方になってしまい、永遠に続くたましいの歴史のほうを重要視したくなるかもしれませんが、「今回の人生は、このとき限り」であることも、忘れないようにしてください。

いずれこの肉体を捨てるときが来て・・・、そしてまた未来のいつかに、転生してくるとしても、「今の、この人生」を、再び生きるわけではありません。

あなたが、今、この西暦2000年の時代に、この日本という国に、例えば女性として、あなたの「父」と「母」の間に生まれてきたという「今の人生」は、今、このとき、一度きり、なのです。今回の人生を、二度生きることは出来ません。

やり残した「課題」をこなすために、また似たような人生を送る可能性はありますが・・・、まったく同じシチュエーションはありません。そのように考えれば、あなたを取り巻く環境、人間関係、あらゆる出来事・・・、何一つとして無駄にはできないと思うでしょう。すべてに感謝の気持ちが持てるようになります。

楽しいことだけでなく、苦しいことも辛いことも含めて、今回の人生で与えられた環境が、「経験させてくれている」のです。今このときに生きているという事実は、とても貴重で奇跡的な神秘、なのです。

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2010年1月28日 (木)

需要と供給が合わなかっただけ、という場合もある。

会社の採用試験には、人事担当者による「面接試験」がつきものです。履歴書や、ペーパーの試験をクリアしても、その後の面接が、一番の難関といえるかもしれません。

ペーパーの試験ならば、点数という、誰が見ても一定の、わかりやすい基準がありますが、面接には明確な基準はなく、その方が、どれほどにすばらしい人物であっても、面接官に「当社のカラーに合わない人」と判断されれば、採用されないこともあります。

「自分は、Aという要素においては、絶対的な自信がある」と思っても、会社ではBの要素を重要視しているかもしれませんし、Aの要素を持っている人は、すでにたくさん働いていて、その他の要素も総合的に持ち合わせている人を、採用したいと思っていることもあるでしょう。

もし、希望の会社の面接で、不採用になったとしても、単にお互いの「需要と供給」が、合わなかっただけであれば、それほど落ち込む必要もないことです。気持ちを切り替えて、次の会社に挑戦すればいいのです。

その一方で、「需要と供給が合ってるのに、採用されなかった」というケースもあります。こういう場合は、自分を否定されたような気分になって、落ち込んでしまうこともあるでしょう。そのような場合、冷静に考えるべきことは、「人事担当者も、完全ではない、ひとりの人間である」という事実です。

たった一度の、短時間の面接で、入社希望者のすべてを見抜いているものではないし、また、「求めてる要点を満たしている人」であればよいわけで、「すべて」を把握しようとは、思ってもいないでしょうから。

採用試験(面接含む)というと、入学試験と同じような感覚で、どこかパブリックに捉えてしまうかもしれませんが、よくよく考えると、企業の採用試験というのは、私的な要素が大きいのです。かならずしも、「一番」の人が、入社できるとは限りません。人事担当者の好みも含めて、採用基準となる要素は、さまざまだからです。

最初からそのような認識でいれば、不採用になってしまったときでも、「しょうがないな。そういうこともある。気持ちを切り替えて次も頑張ろう」と、思えるのではないでしょうか。

不採用になっても、それほど落ち込む必要もないのですが、だからといって、「あの担当者は人を見る目がない」などと、相手を貶めるのは控えるべきです。面接官も人間であり、神さまではありませんから、判断力が絶対的なものではないのは事実ですが、しかし、相手は人柄を見抜く「プロ」なのです。

そこはやはり、結果を謙虚に受け止め、自分を省みて、「次の機会に、この経験を活かしていく」ことに繋げていく意思が大切です。でないと、次もまた同じ結果になってしまうかもしれません;。

不採用になることも「必然」、何らかの意味があって起こるのですから、あなたにとって、どんな意味を持つ学びなのか、自分を省みる機会として活用していくくらいの気持ちになって前を向く姿勢が大切です。自分を高める努力をしながら、そして、いつでも謙虚さを忘れず、明るく前向きな気持ちを持っていれば、ふさわしい会社とご縁ができるのではないかと思います。

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2010年1月27日 (水)

他者からの影響も、自分の波長が引き寄せている。

人と関わると、オーラが重なり、お互いに影響しあうものです。明るい雰囲気の方といれば自分も明るい気持ちになったり、悩んでいる方と一緒にいると、なんだか気が重くなってしまったり・・・、そんな経験は、誰にも思い当たることでしょう。

明るい影響は歓迎するけれど、ネガティブな影響は、出来れば避けたいですよね。

影響はその場(物理的に人同士のオーラが重なり合っている時)だけにとどまらず、相手から離れた後も、それほど長い時間ではないにしろ、しばらく続くものです。

けれど、人が集まれば、エネルギーレベルでも影響し合うのは「当たり前」のことであり、お互い様なのだから、あまり気にしすぎることもないと思います。

また、それほど深いかかわりもない相手から、何かの拍子に「もらってしまった」ネガティブなエネルギーは、所詮は他人のものですから、そう簡単には自分にはなじみきらず、短時間で抜けていくケースがほとんどです(ですから、その程度のことを、気にしすぎても意味がないのです)。

そちらを気にするくらいなら、自分が生み出したネガティブなエネルギーのほうを気にしたほうが有意義です。なぜなら、自分が生み出したものは、一分の隙もなく自分にしっくりなじむので(笑)、そちらの方が影響力大、ですから。

・・・まあ、そうはいっても、外からの影響のほうが、気になってしまうのはわかります。しかし、憑依的現象(小さいものまで含めれば、日常いくらでもあることです)にしても、他人の想念を受けてしまうことにしても、すべて「波長の法則」で、自分に同じ要素があるからこそ起こる仕組みになっています。相手がどれほどにネガティブなエネルギーをまとっていようとも、同調する要素がなければ、「もらってしまう」ことは、起こりえません。

また、「それらの影響を、自覚して除けないものか」、とも良く聞かれるのですが、例えば「もとから赤い要素をもっている人が、他人の影響をうけて赤の比率が高まった」り、「レモン色の要素をもっている人が、同じ要素を引き寄せ、色濃く反映されて山吹色になって」も、まったく自分にない要素が付加されたのではないため、違和感は薄く、明確な「区分け」は困難です。

ちょっと落ち込んでいる状態の自分に、さらに同じ要素のものが付加されて、結構落ち込んだとしても、どこまでが元でどこからが付加なのかは、・・・分けられませんよね;。

また、仮に他人の影響を受けていると自覚できたとしても、自分にも同じ要素があって引き寄せているのですから、影響を追い払うような考え方は・・・、責任転嫁な解釈のような( ̄∀ ̄;)。

すべて自分が引き寄せているのだから、自分の波長を高めて、影響を受けにくくしていくという考え方が大切だと思います。

自覚して除きたい、という気持ちはよくわかるのです。私も、数年前は、そう思っていました(笑)。しかし、そういう原因を自分以外のところに求めるような考え方から抜け出さないことには、自分の波長は持ち上がらないので、影響が減らないのですよね;。

「そのとき」だけ対処する方法はないわけではないけれど・・・、(といっても、ハウツーのように、こうすれば絶対効く、というものではないです;)、しかし、自分の波長という、「受信装置」を変えていかなければ、すぐまた同じ状態になってしまいます。対症療法的な考え方では、ほとんど意味がありません。すべて、自分の波長を高い状態に保っていくことが基本となります。

そうして、ある一定レベルの波長を保てるようになっていければ、少しは技法的な対処の方法も、ないわけではありません。あくまで、サプリメント的な、意味合いでの対処法でしかないですが・・・。

しかし、自分を向上させていこう、という意思なくして、技法的要素のみで防ごうとしても「絶対にムリ( ̄w ̄)」です。それはまるで、お札やパワーストーンで幸せになろうとするようなもの。すべての基本は、エネルギー発信機でもあり、受信機でもある、自分自身のメンテナンスです。

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2010年1月22日 (金)

「自分が、いつまでも被害者でいたい」気持ちを、乗り越えよう。

変わりたい、幸せになりたい、と言いながら、心の中では、自分自身を変えたいとは思っていない方がいます。周囲の人や状況が、自分が望むように変わってくれることを願ってはいますが、今の自分を変えたいとは思っていないのです。

その多くは、心の中にかなりの「被害者意識」を抱えている方達です。そして、実はそこから「抜け出したくない」と思っている方達でもあるのです。

矛盾するように思えますが・・・、「今の状況から抜け出し、幸せになりたい」けれども、同時に「被害者でもいたい」のです。「被害者である状況は、手放したくない」気持ちがとても強いのですね。

例えば、親子関係がうまくいかず、幼少期に愛を得られなかった(と、本人は思っている)人がいたとします。そして、大人になるに至るまで、ずっと親を恨み続け、親が加害者で自分は被害者だという認識をもっています。

自分が過去の苦しみを乗り越えて完全に立ち直ってしまうと、「自分が損をして、親が(許されて)得をするじゃないか」という気持ちがあります。

もしもいつの日か、親が過去を悔やむ時が来かもしれないのに、その時すでに自分がすべてを乗り越えてしまっていたら、自分が「損」をしてしまう、自分がどれほど苦しかったか、どれほどに悩んだか、親に思い知らせたいというのに、その機会を自ら放棄するなんてとんでもない、と考えてしまうのです。

ですから、今の状況を変えたいと言いながら、「被害者である自分」というスタンスは守りたいので、自分を変えたいとは思っておらず、周囲や親に変わってほしい、または、今の(被害者であるという)自分を含めて丸ごと受け止めてくれる人と出会って癒されたい、と望んでいます。

しかし、他者との出会いも、「波長の法則」によってなされますから、同じ要因をもった人たちが集まっていくものです。被害者でいたい人の周りには、やはり被害者でいたい、慰められたい人達ばかりが集まるもので、誰もが「得たい」「慰められたい」「私を認めて」と思っているので、結局その場の誰もが、満たされることがありません。集まれば集まるほど、欠乏感ばかりがクローズアップされて、人間関係から楽しみや安らぎを得ることができません。

幸せになりたいのなら、やはり自分自身を変えていく、被害者である自分を乗り越えて、新しい自分になっていく、という強い意思をもっていくことが必要です。乗り越えて幸せになったとしても、過去の苦労が消えて無になるわけではありません。過去の苦労はたましいの財産として、いつまでも存在し続け、むしろ、幸せな人生を歩む上での助けとなります。苦労があってこそ、感性が磨かれていくからです。

実際に起こるかどうかもわからない、未来において、親が悔い改める日のために、いつまでも被害者を演じ続けている人生で、本当にいいのでしょうか。そうこうしているうちにも、どんどん時間は過ぎていき・・・、めくられたページは、戻ることはありません。

幼い頃の状況は、あなたがどうすることもできない「親の勝手な都合」であったとしても、今、すでに大人になったあなたが、「未だに、被害者でいることを望み、実際にそうしている」状況は、親が強要したものではありません。それは、あなた自身が選んで、手の中に握っている状況です。

このことに気づき、乗り越えるのは、容易ではありません。今まで、拠り所としてきたものを、手放すのですから、とても苦しみます。

しかし、「そのまま」では、「ずっと、そのまま」になってしまう可能性もあります。この状況に当てはまる方は、どうか、じっくりと自分の心を見つめ直し、この先の人生をいかに生きていくかを、考えてみてはいかがでしょうか。

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2010年1月21日 (木)

大きく輝いたオーラになるには?

オーラは、「大きくて、明るく輝いている状態」が、ベストです。

オーラというのは、こころとからだとたましいの「映し出し」ですから、気持ちが前向きになっていて、人を恨んだり妬んだりすることなく、心の中を愛と光で満たすことができていると、オーラは明るく輝きます。

逆に、くよくよと後ろ向きな考え方で、人を恨んだり、悪口を言ったり、否定的な要素が心の中にあると、オーラの状態に陰りとなって反映していきます。

自分の中から、ネガティブな要素を除き、美しいものや善きもので満たしていくことが大切です。オーラを大きくするには、上記の要素も関係してきますが、さらに、

1、自分が心から楽しみを感じることを行う。

2、他者に働きかける活動をする(エネルギーを外側に向ける)。

この2つを心がけるとよいでしょう。

ご自分が心から楽しいと思う行動をすると、心が満たされ、オーラが輝きを増していきます。オーラが元気になると、(エネルギー的に)勢いがつきます。そして、特定の誰かに向けたものに限らず、世の中全体への働きかけも含めてですが、外に働きかける要素のある行動をとると、オーラが広がっていきます。

人に働きかけるということは、気持ちの問題だけではなく、オーラの状態も「そうなって」おり、対外的な活動をすることは、効果が大きいです。

個別の行動によるオーラへの影響は、移り変わりのある「そのときの状態」であり、即座に固定されるものではないですが、常に心がけ、ポジティブな状態が習慣になっていくと、オーラも「大きく広がっているのが通常」のように、習慣づいていくものです。

以前「オーラの泉」で、新庄さんが「歴代のゲストで、一番大きいオーラ」だと言われていた記憶があります。スポーツ選手は、鍛えていますから活力があるので、平均してオーラの大きい方が多いと思われます。

さらに、プロの選手となると、成績だけでなく観客へのアピールも必要ですから、エネルギーが外側に向くので、大きく発達するのも納得です。新庄さんはサービス精神が旺盛な方だから、常に人の目を考えて「自分をアピールする」気持ちは大きいことも関係しているでしょう。

自分が没頭できること、楽しみに繋がること、そして世の中に向けて何らかの働きかけ、これらの思考や行動をしていくと、活力は増していき、オーラも大きく広がり輝いていきます。さまざまな経験を楽しみながら、創造的な毎日を過ごしていきましょう

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2010年1月19日 (火)

気づくとは、すでにあるものを認識すること。

私たちは、自分にない(と思っている)何かを得ようとして、外側にいろいろなものを求めます。「○○になりたい」、「○○が欲しい」、と。

けれど、自分の内にないものは、自分の外にもありません。私たちが、「新たに身に付ける(もしくは、得る)」と思っていることはすべて、「すでに内にあるものを、思い出す」ことです。備えていながら眠っていたものを活性化させる、とも言えます。

私たちの内には、たくさんのものがあります。愛も、感謝も、希望も、光も、多くのものが、すでに備わっているのですが、多くの方達は、気付いていません。愛を外に探しにいき、感謝を外から得ようとします。希望などないと思い込み、自分以外の何者かになりたがります。

けれど、本当はすでに、自分の中に、「あなたが望むすべて」が備わっています。あとは、見つけるだけ、あなたが気付くだけ、なのです。

例えば、「私は、○○に挑戦してみたい」と思う気持ちは、どこから発生するかというと、やはり「内から」としか、言いようがないと思うのです。「何か」が、(すでに)内にあるからこそ、興味を引かれるという、「共鳴現象」が起こっているのです

内にあるものを、いかに目覚めさせるか。そのためにはまず、「自分の内を見つめなおす」という作業をしていかなければなりません。大変難しく、ときに苦痛を伴う作業ですが、そこを避けていては、たましいの成長はありません。

ご自分の存在が、愛そのものであることを思い出してください。あなたの内には、希望があります。感謝も、光も、備わっています。そのことに気付いた日から、見える景色が変わります。目に映るすべてが、輝いていきます。昨日までと何一つ変わらない景色の中に、新たな光を見出せるのは、すでに「自分の内側にある光」が活性され、共鳴現象が起きるためです。

外側に存在しないものを、外に探しにいっても・・・見つけることはできません。多くの人は、それが分からず彷徨い苦しんでいます。外に求めるものは、既に自分の内にあるを目覚めさせる刺激としての、共鳴対象であり、何かを新たに獲得するためではないのです。

たくさんの良い刺激を受けて、自分のたましいを震わせてください。そうすれば、たくさんの内なる資質も、花開き、光り輝いていくことでしょう。

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2010年1月18日 (月)

芸術的センスと霊感は、とても近い資質。

芸術的な感性と、スピリチュアルな能力は、とても近い資質です。

外国の有名な霊能者やヒーラーも、書籍等を拝見すると、昔は画家や歌手だった、というパターンは多いようです。

芸術・芸能的活動も、インスピレーションで授かったものを、自分という媒体と感性を通して表現する、という意味においては、リーディングやヒーリングと近い要素があると思います。高い受信力と感応力を備えている人ほど、受け取るものが大きくなっていきます。

広い意味で、受信力や感応力を把握するには、全般的なオーラの大きさや、質感などから判断しますが、さらに、抜きんでた専門的センスの大小を把握するのは、スピリチュアルな資質を見る場合と同じ要素で、だいたい判断がつくものです。なので、霊感が強い方は、芸術センスも兼ね備えているはずですし、逆もまた同じです。

「霊的感性を伸ばしたい」方には、基礎的な瞑想その他をご指導させていただいていますが、さらにご自分で心がけるとよいこととして、感性を磨くために何か芸術的なこと、クリエイティブなことをやってみるのもよいですよ、とお話させていただくこともあります。

「霊感が強くて、(心霊現象や、エネルギーに感応してしまう等で)困っている」方には、良い影響ならば問題ないけれども、良くない影響を避けるために、自分の波長を高めていくことと併せて、霊的なものを引き寄せてしまう力の放電(?)のために、芸術活動や、創作活動をなさっていくことも、ひとつの方法ですよ、とお伝えしています。

・・・どっちも、同じじゃないか~!!と、言われそうですが、決して手を抜いているわけではありませんし、適当を言っているのでもないです(笑)。

例えば、まったく運動していない方に、「適度に体を動かしたほうがいいですよ」とアドバイスをして、逆に過剰な運動で疲弊している方に、「激しくしすぎないで、適切な運動量のほうがいいですよ」とアドバイスをした場合、まったく逆の状況でありながら、「適度に運動を」という回答は共通します。それと同じようなものです。

日々の生活に、何かひとつでも、芸術的もしくは創造的な要素を取り入れていくと、楽しみや手ごたえに繋がりますし、感性も磨かれていきますので、心がけてみるのもよいでしょう。

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2010年1月17日 (日)

すべて必然、という言葉の解釈。

この世で起こる、すべてのことは「必然」です。スピリチュアルに興味がある方にとっては、基本的な知識のひとつだと思います。

必然というのは、「意味があって、起こる」という意味であり、それ以上でもそれ以下でもありません。必然という言葉を、「それ以上」に、拡大解釈しすぎると、スピリチュアリズムへの理解も、我欲を満たすための便利な魔法のように誤解してしまうことでしょう。

「カルマの法則」という摂理がある以上、すべてのことには何らかの要因があって、そこから派生した出来事がおこります。

意味があるなら・・・どんな意味が?と、知りたくなる気持ちが出てきます。しかし、そのあたりを追及しすぎても、キリがないです。「必然」は、特定の事象のみに表れるものではなく、すべてに当てはまるのですから、把握しきれるはずがありません。

個別の意味を知るよりも、原因があって結果に結び付くという、カルマの法則の仕組みを知ることのほうが大切です

「どんなことも、無意味に起こることはない」と、知っていることは、この世を生きる上で大きな助けとなりますが、個別の出来事の要因を知ったところで、仕組みを理解していなければ活用がなされません。

また、必然というのは、自分にとって楽しいことばかりではありません。不利益や不都合が生じる出来事が起こる場合にも、自分がそのような目になる原因を作った(から、出来事が起こる)必然であることを、受け止めていく必要があります。

努力が実った場合も、もちろん必然です( ̄∀ ̄)。望む結果を招いた、自分の努力(や、それに伴う、導き)という原因があったわけですから。

必然=意味があって起こる、それは言い換えれば「原因があって、結果が出る」というカルマの法則です。必然の個別の解釈よりも、「必然の仕組みの解釈」が大切なのです。

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2010年1月15日 (金)

得られるものは、課題の「乗り越え方」。

スピリチュアリズムとは、私たちはこの世で何を学び、いかに生きるのかを示した「生き方指南」です。

スピリチュアリズムから得られるものは、「(たましいの)課題の乗り越え方」であり、実行するのは自分です。課題そのものが、消えてなくなるわけではありません(考え方を変えることで、悩みが悩みでなくなる、ということならありますが、物理的現象が瞬時に消滅したりはしませんよね)。

(肉体を持った、人間という存在である)自分に、課題を与えているのは自分(の、たましい)なのですから、自分自身の力で考え、行動して、乗り越えることが必要です。

その際に、スピリチュアルな考え方は大きな助けとなりますが、「ルールブック」「解説書」があったとしても、それらを読み込んで、実際の出来事に対応していくのは、他でもない自分自身でです。手元にルールブックがあっても、活用しなければ意味がありません。

そしてそのルールブックは、事細かなマニュアル本やハウツー本ではないので、ルールを読み込み理解する感性と、実際の出来事に当てはまるように活かしていく応用力が大切です。

この世で起こる、困難や苦難(と、思われる出来事)は、あなたが、乗り越え方を実践するためのカリキュラムなのです。それらを経験して、悩み苦しみ、転んでは立ち上がる過程から、さまざまな学びを得ていくことができます。

スピリチュアルな事象には、ときに奇跡と思われるような不思議なものも、実際にたくさんあります。しかし、奇跡的な現象は、必然により「与えられる」ものであり、無作為に遭遇するものでもなければ、アテにするようなものではありません。霊性を兼ね備えた自分になること、もしくはそうあろうと努力する姿勢が大切です。

そして、それだけの霊性を身につけたなら、(他力的な)奇跡を望むよりも「自分で自分を助けるべき」だと、ごく自然に理解できるようになっていきます。「乗り越え方」というのは、手順や定型ではなく、むしろ「感性(の発達)」として、身についていくものだと思います。

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2010年1月14日 (木)

インプットなくして、アウトプットは不可能。

ご自分の備えている資質やセンスを発揮することを、誰もが望んでいると思います。人は、創造する生き物ですから(想念もエネルギーを持ちますから、思考も創造の一形態です)、何かを生み出したい、発揮したい気持ちをたましいの性質として持ち合わせています。

ご自分の得意な分野、人の役に立てる分野を知るためには、自分を見つめていく作業が必要となります。過去から今までの経験、趣味、他者からの評価・・・、それらを総合的に分析していくと、だんだんと範囲が絞られていくケースが多いようです。

小さい頃に好きだったことは、何の制約もないところからの感情なので、ご自分のたましいの質にあったことを好んでいるケースが多いです。そして、大人になって仕事などの社会活動を通して得た経歴は、「他者からの評価」が関係してきます。両方を総合的に考慮していけば、主観に偏ることなく、第三者の評価も踏まえた、「世の中に貢献できる要素」が、見つかりやすいと思われます。

これらの内観と自己分析の作業が、苦手な人もいます。「考えてみても、自分の中に掘り起こせるものが思い当たらない」、という方もいらっしゃいます。

長い人生で、まったく何も積み重ねていないことは無いと思うのですが・・・、どれほど内観してみても思い当たらないならば、過去から掘り起こすよりも「新たに、得ていく」方向に、気持ちを切り替えてみてはどうでしょうか。そのほうが深刻になって落ち込むよりは、有意義な時間の使い方だと思います。

新しい行動が刺激となって、考えても見つからなかった過去の(経験という)財産が、意識の表面に上って活性し、気づきやすくなることもあるでしょう。

発揮するためには内側の蓄えが必要です。発揮する要素が思い当たらないならば、まずはインプットをしてみてください。

思い当たらないのは、思考の習慣によるもの(焦点の当て方が違う等)であって、実際には必ず何かが備わっているものですが、過去を掘り起こすための「呼び水」的作用もあると思いますし、気持ちの切り替えにもつながりますので、目先を変えて、「インプット」を心がけてみてはどうでしょう。

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2010年1月13日 (水)

失敗も、成長のための必要なプロセス。

誰でも、つつがなく人生を送りたいと願うけれど・・・、学ぶためにこの世に存在している以上、さまざまな案件が日々降りかかってきます。そしてときに、失敗してしまうこともあります;。

出来れば失敗したくないと誰もが思いますが、思い通りの人生はありえませんから、気にしすぎることもないのです。

スピリチュアルに興味をお持ちの方のほとんどは、きっと、何らかの挫折や矛盾を経験して、「人生とは、いったい何だろう・・・?」と、改めて考えたことが、スピリチュアルに目覚める、きっかけとなったことと思います。

ときには、思い通りにならない、上手くいかない経験も、気づきのために必要です。

人生のすべてが思い通りになったら・・・、感動を味わうことができません。心配や不安はないかわりに、ドキドキもハラハラも、ワクワクもしなくなります。

人生に、さまざまな感動が伴う以上、失敗(の、可能性)も含まれるのは、当然のこと。その点は、少し開きなおるくらいで、ちょうどいいと思います。

失敗から何を得て、どのように成長していくかが大切なのであり、失敗しないことが、必ずしもすばらしいわけでは、ありません転ぶからこそ、「起き上がる」という学びを、経験することができます。何度も同じ失敗を繰り返さないように、たましいを向上させていくことが、経験を糧にする、ということではないでしょうか。

この世に生まれるのは、「学び、成長する過程を、存分に味うため」です。傲慢になっていたり、自分を見失っていたりするときに、「学ばされる」意味で、失敗、があるのだと思います。その経験から、必要なエッセンスを学ぶことができれば、二度と同じ失敗をしなくなるでしょう。さまざまな(失敗も含めた)経験を、その先に活かしていくために、前向きな気持ちを持っていくことが大切です。

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2010年1月12日 (火)

霊査には、ガイドスピリットと、意識を合わせて行く作業が不可欠。

リーディング(霊査)をするには、後ろの方との意識(波長)を重ねていく、心を一つに合わせていく作業が不可欠です。

文章で書くとシンプルで簡単なようですが(笑)、これは本当に難しいことです;。すぐにできることではありません。自分の波長を持ちあげていき、その状態が普通であるくらいにコントロールできるようになるには、かなりの時間を要します。最低でも数か月、もしくは年単位の期間が必要となるでしょう。

この点は、私も本当に苦労しました( ̄_ ̄||)。今でも、発展途上ではありますが;、なんとか「それなりのレベル」は保てるようになったと思っています。

霊感があるとか、直感が鋭いからといって、それだけで他者リーディングができるわけではありません。自分では出来ているツモリになっていても、仮に「違って」いた場合の判断材料も比較対象もないわけで・・・、「出来ている」「出来ていない」の区分けそのものが、難しいともいえます。

あちらの世界から与えられた情報以外の、自分の勝手な思い込み等を、どう「見分けて」「感じ分けて」不要な部分を排除していくかという手法が、きちんと確立されていないことには、「カンの良い人の、あてずっぽう」と変わらなくなってしまう、と私は考えます。

例えば、日常会話の中で、無意識に相手に有益なアドバイスを与る形になり感謝されたとか、自分の経験則には無いはずのアイデアが突如閃いて、口にしてみたところ、まさしく相手の必要としていた情報だった、という経験が、誰にもあると思うのです。

人は無意識であれ、霊的な感応をしながら生きていますから、自分や相手の後ろの方から、そのように「使われる」こともよくあります。感受性の高い方ほど、「使われる」経験は多いことでしょう。それは、確かに、あちらの世界からの伝達を担っている行為のひとつだと思います。

けれど、日頃よく交流があり、思考の習慣や性格、短所や長所、その方を取り巻く背景をすでに情報として知っている方へのメッセンジャーとして、たまたま「使われる」経験がたくさんあっても、それと同じように、ほぼ初対面の方を意図的にリーディングできるか、という点を冷静に判断する必要があります。

よく知っている方は、エネルギーに馴染みがありますし現状を知っていることからくる底上げがあり、波長を持ちあげる際に(もしくは、あちらから伝えられる際に)、「距離が短くて済む」のです。

そのような直感的アドバイスが「幅跳び」だとしたら、リーディング(霊査)は、「棒高跳び」くらいの負荷が(カウンセラーや霊能者に)掛かることであり、この二つはまったく次元の違うことです。

私たちが、リーディングで代金をいただくのは、「棒高跳び負荷料」、「霊的な体力の消耗料」であって、セッションの時間拘束料ではないのです。それはもう、ものすごく大きな負荷がかかります;;。幅跳びのつもりで、初心者が棒高跳びに挑んだらどうなるか・・・、説明するまでもないでしょう。

意図的にリーディングを行うためには、「他者リーディング向けの専用回路」が資質として備わっており、経験や努力により一定以上に活性してなければなりません。

どれほどに力がある人でも、霊能力は7割当たれば相当に優秀と言われる世界ではありますが、だからといって、残りの3割を間違ってもいい、という開き直りはできません。完全はないとしても、出来る限りその比率を下げていく努力をして最善を尽くす姿勢は、スタートラインに立つ前の事前準備です。

では、実際に私がどのようにしてリーディングの際に「見分け」を行っているのか、そのために、どんな「事前準備(後ろの人と、意識を合わせる過程)」がいるのか、ごく簡単にですが一部説明させていただきます。

ある情報を得たり、特定のご依頼事項を承ったときに、瞬時にいろいろな思考が頭の中に浮かびます。日常でもごく普通に、「これって、こういうことかなぁ・・・」「きっと、○○○かもしれない・・・」などと、思い浮かべることがありますよね。その感覚と同じです。それらが、(私の意図によるものではなく)受動的になされる比率が高い、という点は少々違いはあるかとは思いますが、似たような手順です。

思い浮かべたことが、当たっていることもあれば、自分の勝手な解釈をしていることもありますよね。それも同じだと思います(笑)。ただ、当たっていることの比率は、一般の平均よりは高確率だとは思いますが・・・、自分の思い込みが、この時点で少々混じっていることはあり得ます。

では、どうやって、自分の勝手な考えや間違った解釈を排除するかというと、ブログ記事内でもよく書いているように、(間違った解釈があれば)後ろの人が「NOの合図」を出してくれます

この「校正作業」があってこそ、私は仕事がやれています。これがなかったら、とても怖くてやれません;。上記は、「私の場合」に限ってのスタイルですが、何らかの方法で、ガイドスピリットとの意思の疎通というか、校正作業的やりとりの方法を、確立させておく必要があります。

これは、「このようなサインがあったら、○○である」などという皆に共通する定型はありません。自分と自分のガイドとの、独自なものを、それぞれの資質等をいかして、「(お互いに)構築していく」か、もしくはあちらから示されたスタイルを「(自分が)認識していく」か、ですね。私の場合は、どちらかといえば後者のスタイル、示されたものを、自分が認識して合わせていくという過程でした。

構築がなされるまでには、かなりの時間が掛かりますが、不可欠な要素だと思います。私だけでなく、「他者リーディングを行う誰にも、何らかの方法で、意思疎通の合図等を構築していくことは必要」と、私のガイドスピリットは言っています。

このような校正作業や安全装置的仕組みが、作られていないならば、それは自分のガイドスピリットとの意思の疎通が出来ていないからだと私は思います。

意識を合わせていくことができていれば、そのことによりリーディング(読み取り)も可能となるでしょうし、ガイドスピリットからの校正作業も示されることでしょう。

読み取りと、そして校正作業が組み合わされてこそ、「リーディング(霊査)」であると、私は自分なりにそう解釈しています。

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2010年1月11日 (月)

シンクロという現象に、過度にとらわれすぎないこと。

シンクロニシティとは、一見、関連のなさそうな複数の事象に、共通の類似性が見出せることなどを表わした言葉です。一度意識しだすと、日常にたくさんのシンクロがあることに、改めて気付かされると思います。

そして、スピリチュアルに興味を持つ方は、皆さん、「そのシンクロに、どのような意味があるか」を、とても気にしてしまう方が多いようです。

シンクロは、自分が気付けば、いくらでもあるもの。やってくるものではなく、気付くもの、だと思います。すでに「在る」ものに、いかに目を向けていくか、つまりそれらを認識する感性の高まりによって、どんどん増えていく(ように、感じる)ものです。なので、あまり個別の事象の意味に、こだわりすぎないことも大切です。

「同じ単語を、別の媒体から何度も目にした」「知りたいと思っていたことが、ふと開いた本のページに、載っていた」「時計を見たら、11:11や、3:33などのゾロ目であることが多い」とか、いろいろなパターンがあると思います。

あるテレビで、江原さんが、「連続する数字を、何度も目にするようなときは、感性が高まっているときだといえるので、決断をしたり行動を起こしたりするのに適している」というようなことを、おっしゃっていたように記憶しています。(細部は違うかもしれません;)

そのくらいの受け止め方が、ちょうどいいのではないでしょうか。もちろん、中には、はっきとした意味を伴った現象もあるでしょう。けれど、あちらの世界から、伝えたいことがあって起こるシンクロは、「自分でもはっきりとわかる」ように、強烈な印象を伴って起こりますそして、それはそう頻繁にはありません。

高次の存在が、はっきりとしたメッセージを伴って、人間界に介入するようなケースなど、めったに起こるものではありません。そのあたりは、シンクロというものを、もう少し冷静に捉えていかないと、大事なことを見逃してしまうように思います。

砂利道の中に立ちながら、足元の石を一個拾い上げて、「これは、石なのでしょうか?」と聞かれれば、答えは「イエス」です。しかし、その一つだけではなく、まわりのすべてが石なのです。たったひとつの小さな事象に必要以上の意味を当てはめようとすることは、それと良く似ています。

特定のシンクロの意味を問うよりも、「シンクロがたくさん起こっている、今の自分の状態」に価値を見出していき、さらに感性を磨いていく生き方が大切だと思います。

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2010年1月 9日 (土)

「感覚」で把握するタイプの霊能とは?

私たち人間は、肉体を持った霊(的存在)ですから、誰もが霊感を備えています。一般に、「霊感がある」という表現をする場合は、「(平均以上に)霊感が強い」という意味で使われることが多いです。

平均以上という意味での霊感・霊能の表れ方には、主なものとして、霊視=みえる、霊聴=きこえる、(霊)感覚=感じる、などがあります。

みえる、きこえる、の場合は、理解しやすいでが、感覚というのは、対象範囲が広いので、どこまでが平均的で、どこからがそれ以上か、という区分が難しいところもあります。

誰にでも霊感は備わっていて、無意識であれ日頃それらの感覚を使っているものなので、「何となくそう思う」、「○○という感じに思える」、というのも、広い意味でとらえれば、霊的な感覚で何かを把握している可能性はあります。

しかし、一般的に、霊能としての「感覚」という表現を使う場合には、それらのあいまいな感覚とは少々違うものである、と私は認識しています。その場合の感覚とは、「はっきり、そうと体感する」「明らかに感じ取って認識する」レベルのものです。

霊能力者にも、それぞれ得意な資質があり、視覚に長けている人もいれば、感覚が優れている人もいます。霊能力というと、一般的に、霊視がイメージされると思いますが、実際には、(視覚も使うとしても)主に感覚で把握し、「感じ分ける」ことで、素晴らしいリーディング力を発揮する方も大勢います。

感じる力は誰にでも備わっているとはいえ、スピリチュアルな仕事をするための(霊)感覚とは、何となくそう思う・・・という程度では、成り立っていきません。あいまいな感覚と、霊能的レベルの感覚とは、同じではありません。この点は、スピリチュアルな仕事を志す方に、声を大にしてお伝えしたい部分です。

キャッチボールは誰にでも出来ますが、150キロのスピードを出すのは誰にでもできません。人様の人生を変えてしまうかもしれない霊的アドバイスを、あいまいな感覚に頼って行うのはあまりに無責任ですし危険すぎます。

自分のガイドスピリットから(仕事をするうえでの)霊的な働きかけがあれば、これらのことも、ごく自然に「分かって」いくものです。

人格を磨いていかないことには、この種の「回路」は活性されないので、仕事を志す方は、人格を高める努力も大切です。

私自身は、一般的な平均からすると、強い感覚はありますが、スピリチュアルな仕事をしている人の平均からすると、・・・「感じ取る力」のみに限定すれば、そんなには高くない、むしろ鈍い( ̄w ̄)ほうではないかと思うこともあります;。

なぜ私が、感覚が鈍いか(笑)という点についても、文章化して説明することができます。資質、特性からくる理由があります。それはまた別の機会に書かせていただきます。

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2010年1月 8日 (金)

結果だと思っていることの多くは、「経過」にすぎない。

苦しいことも楽しいことも、すべては、人生という長い旅の「一場面」にすぎません。私たちが、日ごろ、「結果」だと思っていることの多くは、実は「経過」です。「その時点においての、一時的な結果」であって、最終結果ではありません。

例えば、志望校に合格出来なかった場合、「合格しなかった」という物理的な結果は、確かに存在します。けれど、人生はその先も続いていく以上、不合格になったことは、「試験の結果」ではあっても、人生においては「プロセス」です。

目指した勝負に敗れたら、がっかりするでしょうし、苦しむと思います。しかし、そのことで、新たな展開が開けていくこともあります。第二志望の学校に入ったことで、すばらしい友人が出来たり、将来の目標が(良いほうに)変わってったり、尊敬できる師にめぐり合えたり、「不合格になって辛かったけれど・・・、こちらの学校でよかったな」と、思う日がくるかもしれないのです。

もちろん、未来において、実際にどう思うかはわかりません。「・・・かもしれない」という、仮定の話に過ぎません。

しかし、一見、失敗のように見える出来事により、方向転換した先で成功したという経験を持つ方を、私はたくさん知っています。

人生とは、思い通りにならないことの連続です。そんなときに、「この経験もプロセスにすぎない。この先こそが大事なのだ」と力強く人生を歩んでいくか、それとも「努力したのに、叶わなかった」と、「プロセス」にすぎないことに、いつまでもとらわれて、ふてくされるかは、自分が決めることです。

あなたにこの先起こる出来事のすべては、長い人生の「途中経過」です。さらにいえば、今回の人生も、(何度も転生するという)たましいの観点からみれば、プロセスだといえます。

日頃、私たちが結果だと思っていることの多くは、実は経過であり、最終結果ではないのだから、ひとつひとつの出来事にこだわりすぎることなく、その先にある「人生という物語の続き」に、いつでも力強く挑んでいきましょう。

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2010年1月 7日 (木)

所有に対する考え方。

私たちは、誰もが少なからず、「失うおそれ」を持っているものです。それは言い換えれば、「所有への欲求がある」ということでもあります。

人としてこの物質界で生きている以上、誰もが多少なりとも所有欲を持っているもので、そして実際に物がなければ生活出来ないのですから、物を欲する気持ちは、ある意味、自然な欲求だと言えます。

考えるべきことは、何事も程度問題であり、必要以上に(使うためではなく、所有欲を満たすために)物を集め過ぎていたり、物で幸せの尺度を計ろうとしていないか、という点です。

本当に、その物自体が「必要だから欲しい」のであれば、一度手に入れたら満たされます。しかし、「心の隙間」を物で埋めようとして、高価な買い物をしてしまうのならば、どれだけ買い続けても、終わりがありません(精神的な欠乏を物で埋めようとしても無理があります)。

物質があればこそ、それを得たときの喜び、失ったときの儚さという感情を経験することができます。そしてその過程で、物質にこだわるからこそ、失う怖れの気持ちが出てくるのだと、知ることができるのですから、物質に囲まれているこの世という環境も、そしてそれらを得たい気持ちも、私たちには必要なものだといえます。

気づきを得てから、実際にその境地に至るまでには、時間がかかりますが、自分の過度な所有欲(本当に必要なもの以上を求める欲という意味で)が、どこから来ているものなのかを見つめていくと、自分の内的な課題が見えてくることがあります。

この物質社会で、お金さえだせば、おおよそのものが手に入る時代に生きて、私たちは「何を得るか」「なぜ得る(得たい)のか」を、経験から学んでいるのですね。

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2010年1月 6日 (水)

過度なこだわりは、自分を苦しめる。

自分なりの、いい意味でのこだわりを持つのはかまいませんが、過度に頑固になりすぎると、自分自身が大変になってしまいます;。意思を貫き通すのもよいですが、場合によっては、周りのペースにあわせていくことも、同じくらいに大切です。

その時々で、柔軟に、周囲と歩調を合わせていくほうが、物事がスムーズに進む場合も多いものです。上手くいかないとき、停滞を感じるときには、イライラが募って、強行突破をしなくなったり、もしくは逆に、全てを投げ出したくなったりするかもしれませんが、それでは自分で自分を追い詰めているのと同じです。

私自身も、短気なので;、やりかけのことを投げ出したくなるのは、日常茶飯事ですが;・・・。ほんの少し、自分自身のこだわりを緩めて、「こうあらねば」の気持ちから、離れてみると、見える景色が違ってきます。そのほうが楽な気持ちになれます。

そして、その気持ちの変化とともに、実際の物事もスムーズに進むようになったりすると・・・、「あ、自分が停滞させていたのか;」と、気づかされます;。

気持ちが緩んでいくと、(受信機である)オーラも大きく広がり、インスピレーションもよく働くようになり、良いアイデアも浮かびやすくなったりもします。

自分以外の外的要因により、被害を受けて困っている気になっているだけで、実は原因は自分の過剰なこだわりゆえ、というケースは、意外と多いもののようです。

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2010年1月 5日 (火)

その意見は、本当に「客観的」でしょうか?

「客観的な意見」「客観的な視点」という言葉は、日常よく使いますよね。客観的というのは、第三者の公平な視点、ということだと私は考えています。

自分の意見が=主観で、その逆の客観は=他人の意見、というふうには、単純に解釈してしまわないほうがいいでしょう。単語の意味からすれば、当事者以外の意見、という解釈でよいのかもしれませんが、自分(の主観)を分析する参考意見として考えるには、単に他人の意見であれば何でもいいかというと、答えはノーだと思うのです。

他人の意見は、あくまで「その人の、主観」に過ぎず、公平な視点を伴った意見であるとは限りません。発言者の人生経験、自分の好み、独自の考え方、というものが、どうしても反映してしまうものだからです。

他人の意見に耳を傾ける謙虚な姿勢は大切ですが、何でも丸ごと受けとめて、影響されすぎても困るわけで;、何を取り入れて、何を受け流すのか、取捨選択は自分で行うことが大切です。

他人の意見が(公平さを伴った)客観的かどうかを判断するには、自分の内なる部分で、「客観」という概念を、確立させておく必要があります。自分に自主性が育っていてこそ、正しく客観を活用できます。

自主性のないまま、他人の意見を当てにすると、必要なものを選び取ることができず、流されてしまうでしょう。「主観」を判断するために、「客観」という相対的概念を使うのですから、どんな場合でもまず自分の意見ありきだということは、忘れないようにしましょう。

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2010年1月 4日 (月)

「創造的な夢」と、そうでない夢;との違い。

「将来の夢」をもつことは、とても大切です。漠然としたイメージであっても、目的地が(その時なりに)定まっている人と、そうでない人とは、ご本人のやる気に違いが出てきます。

そうすると、「思考」という原因がもたらす、「現象」という結果にも、少なからず差が出てくるものです。けれど、夢は大きければそれでいいかというと・・・、そうとも言い切れないのが難しいところです。

まったく実現不可能な夢ばかり追っているのは、ご自分の可能性を、合わない枠にムリにはめようとするようなものであり、そのことに気づくまで、時間だけが経過することになりかねません。

世の中のルールや、常識、道徳にしたがって生きていく以上、「出来る(可能性がある)こと」と、「出来ないこと」の区分けはあります。

絶対に実現不可能な夢を見ている方は、・・・厳しいようですが、どこかの時点で、現実を受け入れ、自分を立て直していく必要があると思います。

実現するかどうかわからない、多分(結果だけみれば)不可能の可能性が高いことでも、夢に向かって努力をする過程に生きがいを感じ、そのことに関わって生きていくのが楽しく、また、後になって後悔をしないのなら、ご自分の責任の範囲においては、何をやってもいいと思うのです。

しかし、現実も、見なければなりません。「夢に向かって、進んでいる途中」と、「妄想にとらわれて、前に進めない状態」は、一見、同じに思えることがあります。現時点では、自分が望む状況に到達していないという点では、同じだからです。

けれど、たましいの観点から見れば、この二つはまったく違います。自分が夢に向かっているのか、それとも現実から逃げているだけなのかを見極めることが大切です。最終的は決断は自分で行わなければなりません。そのこともまた、学びの課程にふくまれているのです。

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2010年1月 2日 (土)

思考の熟成期間。

人は、いろいろな出来事を、単に経験した、というだけでは、あまり学べないような気がします。経験をして、そこから多くの気づきを得ることで、成長していくものだと思うのです。

ある経験をして→ そこから気づきを得て→ たましいの糧とする、

までには、それなりの時間はかかるものです。「転んだ瞬間に、悟った」なんて人は、あまりいませんよね。普通は、周りのせいや、他人のせいで転んだと、そのときは考えるものです。そして時間がたって、たましいの成長がなされたときに、原因は自分自身にあった、という事実がわかるものです。

私も、数々の失敗や転倒から学び、今の自分があります。私自身も、すぐには気付くことができませんでした。時間がかかりました。

気づきを、しっかりと「自分のもの」にするためには、思考の熟成期間が必要です。

長い時間をかけて、さまざまな別の経験等を付加して考えることで、いつしか「気づきが自分のものになっていく」のです。

そして、そのためには、孤独を楽しめるだけの、強さを持っていることです。自分の内側に意識を向けるためには、静寂が必要だからです。ひとりの時間を楽しめる人は、智恵を蓄えることが上手です。

同じ経験をするにしても、思考の熟成期間を(意識的に)とった人ほど、得るものが深くなります。得るものとは、とても内的なもの、ですが。

精神的な学びや理解とは、(新しく得るものというよりは)すでにそこにあるものを、「掘り下げること」なのかもしれません。ひとりの時間を、さびしいと思わず、思考の熟成期間を与えられていると思って、有意義に使ってください。そうすれば、これから先の人生が、ますます創造的に展開していく可能性が大きく広がっていくことでしょう。

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2010年1月 1日 (金)

心を開くことで得られるもの。

心を開くことが大切であることは、誰もが知っています。けれど、実際に心を開くという行動には、大きな勇気が必要となります。

心を開いていけば得られるものは多くなりますが、得られるものとは、自分が望むもの、好きなものだけとは限りません。「開かないと得られない」、のですが、「開くことで傷つく(可能性も高まる)」こともまた事実であり、この二つを切り離すことはできません。そのため「傷つかないためには、開かない」という選択をしてしまうのですね・・・。

閉ざすと、新しいものが入っていこない、刺激も少ないかもしれないけれど、一種の安全圏が保たれます。この、安全圏を手放すことを、(この認識の仕方は、防御に基づいたものであり、実は正しくないのですが)、決意しなければ、「開く」ことができません。

人は誰でも、更なる成長の必要性を感じていながらも、自分が馴染んでいる安全な場所から出たくないと考えます。

けれど、人は皆、たましいの深いところでは、成長を望んでいるものなのです。

「開かない」のは、成長を拒否しているのではなく、傷つくことを恐れた防御にすぎません。

開くことに恐怖を感じる人に、以下のメッセージを送ります。

心を開くことで、少々傷つくことがあったとしても・・・、開くことで得られる「新たな光」が、その傷を癒してくれます。このことを、俯瞰した視点で眺めることができるときがくれば(そうなるまでに、時間はかかると思いますが)、「この光の素晴らしさを知るために、過去の傷つく経験が必要だった」と、思えるようになるでしょう。

「開く」か、「閉ざす」かの、二択では、ありません。

光を望む気持ちを、「認める」か、そこから「目をそらして、気づかないふりをする」かの、二択なのです。

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