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2009年12月の21件の記事

2009年12月30日 (水)

オーラ透視者により、オーラの色の見立ては違うもの?(2)

精神のオーラの色を、「あなたのオーラの色は、赤です」と表現する場合は、正確にいえば「あなたのオーラのうち、比率が高い色は赤です」という意味です。

誰でも複数の色を備えているもので、単色の人はいません。

私を例にとって説明します。

以下は、3人のオーラ透視能力がある方が語った、私のオーラの色です。ちなみに、3人とも実力が確かな方です。

Aさん: 紫。
Bさん: 全色ある
Cさん: 色は分かりにくい。

順番に説明していきます。

さんは、本職は別にお持ちですが、透視能力が高い方です。私のオーラのうち、一番比率が高い色は紫ですから、そのとおりです。

Bさんは、霊能力者を職業になさっています。私のオーラは、「全色ある」というのも、そのとおりだと思います。見ていただいたのは3年くらい前なので、当時は紫の比率も今ほど高くなかったと思うので、この表現が当時としては的確だったかもしれません。

Cさんは、私の師匠です。この3人の中で、一番オーラ透視力に優れていると思われます(当社比)。なのになぜ、「わからない」という答えなのかと不思議に思われるでしょうか(笑)。

Bさんの「全色ある」と、Cさんの「分からない」は、実は同じことを表現しているのです。

霊媒体質の度合いが極端に高い人→( ̄_ ̄;)は、オーラの状態が、(霊的エネルギーの干渉が激しいので;)それはもう、コロコロ変わっていくため、オーラの色は把握しにくいです。

感情の影響は実力がある人なら、(Bさん、Cさんクラスなら確実に)見分けていけますが、霊の影響による変化は、見分けは困難です。

つまり、「色は分かりにくい」という表現は、実は透視力が素晴らしいから、分かるのです。このように、確かに実力がある3人でも、言い表わし方の違いにより、上記のとおりの差異がでます。でも、どれも正しいのです。

そして、「分からない」とか「全色」とか、一見大雑把に思える表現をしている方達のほうが、むしろ透視力が高く、私の本質を的確にとらえていますので、オーラの表現は奥が深いですね(笑)。

私自身の把握力は、過去に何度も書いているように、オーラ透視はそれほど得意なほうではないと思っています。オーラ透視のスペシャリストである師匠と比べると、格段に劣っている自分を実感します( ̄w ̄*)。

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2009年12月29日 (火)

オーラ透視者により、オーラの色の見立ては違うもの?(1)

オーラは細分化すればきりがないのですが、「オーラの色が○○だから、あなたの性格は△△ですよ」という表現の仕方をする場合は、本質を表わす「精神のオーラ」をさすのが一般的です。こちらは、体の周りにある層になっているオーラとは別の部分です。

精神のオーラの色は、「その人の本質を表わすもの」であり、(変化の激しい)状態を表わすものではないので、複数のオーラ透視者による見立ても明らかに違うものにはならない、と思います。

けれど、それぞれ得意分野はありますし、フォーカスするところが多少変わってきたり、あとは透視者本人が感じ取りやすい要素の差異は、多少はあると思うので、まったく同じにもならないことと思います。

また、精神のオーラと、層になっている(状態を表わす)オーラとの間に、明確な区分けがなされているわけではなく、どちらも影響しあっています。

そのあたりは、オーラを「見分ける」必要が出てくるのですが、例えば、緊張しているときや気持ちが沈んでいるときには、寒色系のオーラが出ますし、落ち着いてリラックスしているときには暖色のオーラがかぶってきますので、本質のオーラが分かりにくいこともあるかもしれません。

極端に感情が上がったり下がったりしている状態だと、干渉度も大きいので、「見分けられる人(が把握した色)」と、「見分けられない人」との差異は出ると思います。

そして、もちろん、本質のオーラも、(状態を表わすオーラほど、コロコロ変わりはしないとはいえ)成長により変化していくものですから、同じ透視者が同じ人のオーラを見ても、その都度、移り変わりはあるものと思います。

また、霊能力の精度というのは、とても優秀な方でも、よくて7割程度とも言われており、残りの3割で間違う可能性もあるわけです。そのときの透視者のコンディションにより、「正しい把握ができずに、間違う」ことも、可能性としては否定できません。

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2009年12月28日 (月)

「物質的価値観に傾いた、精神主義者」にならないように、正しい理解を。

私も含めて、江原さんの本をよく読んでいる方は、「物質主義的価値観」という言葉を、何度も目にしていると思います。精神を置き去りにして、物を過剰に重視した考え方をそう呼びます。

過剰に、とあえて書いたのは、この物質界においては、どうしても物は必要であり、大切だからです。適度には必要であっても、過度になると、バランスが崩れるのはどんなことも同じですよね。

江原さんの本の説明では、物質的価値観とは、客観的にわかる物質、例えばお金や地位や学歴などの物質の豊かさをもたらすものに至上の主義を置くことで、その対極にあるのが「精神的(霊的)価値観」である、となっています。

この説明から、例えば「皆が持っているから、ブランドのバッグが欲しい」、「誰もが知っている有名な会社でしか働きたくない」、「お金がないから不幸だ」、という考え方は、物質的であることが分かりますよね。

そして、「どうすれば、お金持ちと結婚できて幸せになれますか?」、「宝石を買ったほうがいいでしょうか、やめたほうがいいでしょうか?」という質問は、物質を重要視している考え方からくるものであるとも、分かると思います。

で、ちょっと分かりにくくて誤解に繋がりやすいと思われるのが、例えば「私の将来は幸せになれますか?」とか、「どうして努力が報われないのでしょうか?」というような質問も、動機によっては物質的価値観である、という点です。

幸せの定義はいろいろですから、イエスかノーかでくくれないし、未来は自分が作り上げていものであり、あらかじめ決まっているものではありません。自分が何かをしたら、その分対価がくるはずだ、という考え方も、とても現世的だともいえます。

この世を生きる限り、物質は必要なものです。過剰になったらよくないとはいえ、「物質を得たい」という気持ちそのものが、すべて悪いという意味ではありません。物質至上主義になったらいけない、ということであり、目的意識のために出世を望むことも、ブランドの品物を欲しいと思うことも、それらが悪いということではないのです。

同じように、議題が「目に見えないこと」であったとしても、それらを「まるで、物のように、いいか悪いか、○か×か」のように判断したり、「どうすれば楽に得ができるか」、「なぜ、○○をしても、結果が××にならないのかと、カルマの法則を交換条件のように考えること」等は、まったく霊的ではなく、それは物質的な考え方です。

見えないことについて語れば、何でも霊的なのではありません。この点は、誤解のないよう、正しく理解する必要があります。

江原さんの本で、これらを語る際に、もうひとつよくでてくる表現が「現世利益(げんせりやく)」です。今さえよければいい、どうすれば得ができるか、これは、まさしく物質的価値を重視した考え方ですよね。

霊的価値観とは、たましいは今回の生が終わっても、永遠に続いていくものである、という前提で、長い目で、すべてを包括して考えていくことですから、今どうやって得をするか、という点に過剰にとらわれる(現世利益)ことは、たとえ目に見えないことを語っていたとしても、それは霊的とは言わないのです。

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2009年12月26日 (土)

サスペンスドラマのようなもの。

未来についての心配や、未経験のことに対する迷いなど、程度の差はあるにしても、この種の不安がない人はいないと思います。

特に、移り変わりの時期には、未知への恐れが大きくなるあまり、過去の安定や現状維持の方向に気持ちが傾いたりもしますよね。

もう、前に進むしかないという状況でも、それでもなんとか維持の方法を探ろうとして、ますます袋小路に入ってしまうケースもあります。

私は、「未来への不安(現状が、どのように変化するのか見通しがつかない不安)」や、「この先の人生そのものへの不安」がある方には、ドラマのようなものだと思えばいい、とお伝えしています。その状況(もしくは人生そのもの)は、2時間のサスペンスドラマを演じていると思ってください、と( ̄∀ ̄)。船越さんが出てくるドラマですね(笑)。

あの手のドラマは、キャストを見た瞬間、犯人が分かってしまいますよね。主役以外で、一番の大物俳優さんが間違いなく犯人です(笑)。で、開始から10分もたてば、犯人もすでに確定済、あとは、どんなサスペンスな展開があるかを見ていくだけです。脅迫状が届くのか、それとも盗難にあうのか・・・。

そして、ラスト15分になったら、それまでの展開にかかわらず(笑)、皆で崖に行き、船越さんが登場して事件を解決し、エンディングを迎えます。登場人物が出そろう~犯人(キーパーソン)がほぼ確定~すったもんだ、いろいろあって・・・~最終的に崖で解決、というのが一連の流れです。

サスペンスな展開が、そのつど、温泉旅館だったり、商社だったりのバリエーションはあっても、毎回同じ流れがあって、最終的には、何らかの結果がでるようになっています。

人生も同じで、どんな状況にあっても、いつかは必ず、その状況のゴールにたどり着きます。筋書きを予め知ることはできないけれど、ドラマの一番盛り上がっている場面(ということは、主人公が窮地に追い込まれているところ)が、いつまでも続くことはないという点は確実です。

ですから「この状況が、いつまで続くのだろう・・・?」と心配しすぎずに、「この状況がいつまでも続くことはない」と考えればいいのです。そして、その時点での最善を尽くして、進んでいけば、エンディングにたどり着きます。

未知への不安というのは、サスペンスな展開の部分が、具体的にどうなるのだろう?という不安だと思います。そのこと自体は、どうやっても、事前に知ることは不可能です。

けれど、どんな展開があろうとも、どれほどに盛り上がってジェットコースターのような展開をみせたとしても、いつかはエンディングがあり、それなりの結末をみる、という点が分かっていれば、恐れの気持は薄らいでいくものではないでしょうか。

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2009年12月25日 (金)

オーラから把握する、資質と適性。

オーラの色は、資質や性格を反映しますが、それぞれの色による優劣はありません。

冷静な青いオーラの人と、元気で行動的な赤いオーラの人の、どちらが優れているかなんて、判断しようがありませんよね。

ただ、ある事柄への適性を把握する場合には、どちらがより馴染みやすいか、求められている資質に近いか、という判断はできることもあります。

分かりやすさのために、とても大まかな説明になりますが(笑)、エネルギッシュなパワーと行動力が求められるような仕事には、赤いオーラの方が向いているでしょうし、冷静な判断力が求められる仕事には、青いオーラの人が、資質を発揮しやすいでしょう。

けれど、その場合でも、成し遂げるにあたり、どのくらいの努力が必要か、という目安でしかなく、出来るか出来ないかが決まるわけではありません。

もとから備えている資質が向いていれば、容易に行えるでしょうし、そうでなければ大きな努力がいる、というだけのことですね。

実際のところ、世の中の誰もが、適性の高い職業に就いているわけではありません。資質からすれば、かなり難しそうな分野でも、努力と忍耐で頑張っている人もいます。適性が高くても、それゆえに惰性になってしまって、資質を発揮しきれていない場合もあるでしょうし、ケースバイケースです。努力により、オーラも変化していきますしね( ̄∀ ̄)。

得意な資質を活用していく人生もあれば、苦手なことに挑んで向上していく人生もあるでしょうから、「どちらが良い」とは、決められません。オーラの色に優劣はなく、そして適性についても、馴染み易さの目安にはなりますが、とらわれすぎないことも大切です。

資質や適性を把握する方法は、オーラだけではないので、この記事は、「オーラの色から把握する範囲での、資質と適性」についての説明だと理解していただければと思います。

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2009年12月24日 (木)

悩み事を取り除くよりも、比率を下げるほうが現実的。

昨日の続きですが・・・、悩み事は、そのこと自体の重要度や深刻度よりも、想念の力を注いで大きくしてしまった、悩み事の比率の高さで、自分がとらわれてしまい、「深刻化されてしまう」ことがあります。

悩みを解決したい、何とかしたいと思うとき、だいたい、「悩み事を取り除く」方法を、あれこれと考えると思います。そして、悩み事の占める比率が高くなってしまう;わけですが( ̄∀ ̄;)、このとき、長い時間考え続けることになってしまうのは、「取り除く方法」が、そう簡単には見つからないためですよね。

仕事で悩みがあって、悩みを除きたいと思っても、転職することも容易ではないでしょうし、いやな上司を転勤させることも不可能です。売上の月間目標という悩みを(達成することはできるかもしれないけれど、制度そのものを)無くしてしまうこともできません。

人は苦しいときに、その原因となる事柄を「取り除こう」としますが、それよりも思考全体の中で、悩み事が占める「比率を下げる」ことを考えてみてはどうでしょうか。

その時大切なのは、まずは、悩み事に対して、自分の想念というエネルギーの供給をストップすることですが、もう一つの考え方は、自分の思考全体の枠を広くすることです。分母を大きくするのですね。

50/100 となっているところを、50/200 としてしまえば、比率は1/2から1/4になり、苦しさが軽減します。解決方法を探ろうと、考え続けることで、逆に、50の分子を60にも70にも増やしてしまっては、悩み続けてしまうのですから、その思考、想念のエネルギーを、分母を広げることにつかうのです。

自分の興味の対象を広げて、楽しいことややりがいのあることを見つけていき、自分という器を広げていけば、(悩み事の容積を増やしてしまわないかぎり)少しずつですが、自分が楽になっていけると思います。

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2009年12月23日 (水)

悩み事の占める「比率」が、自分を苦しくさせている。

以前に、「同じことを悩み続ける行為は、その事柄に、いつまでもエネルギーを供給し続けるようなもの」と、書きました。

下の図は、そのとき載せたものです。

nayami_2.jpg 

考え続ければ続けるほど、思考もエネルギーとして作用しますから、エネルギーが大きくなればなるほど、自分が苦しくなっていきます。

解決したくて「どうしよう・・・」と、考えているはずが、その思考により、実はさらに苦しんでいるようなもの;です。

そうなると、より思考がネガティブな方向に偏っていくので、建設的な思考ができにくくなり、ますます長時間考えてしまい・・・というくり返しで、思考のエネルギーを注ぎ続けていくと、「比率」が高くなります。

以下の図のように、悩み事が(それ自体が深刻な内容であるかどうかは別として)、思考の比率の大部分を占めてしまうと、「そのこと以外を考えられくなる」のです。

そうすると、当初は「今すぐに考えなくてもよい、重要ではないこと」程度の悩みだったはずのことが、自分の中での比率が高まっていき、そのことを考えずにはいられなくなり、しまいには、とても大きな悩み(のように、自分では感じられる事柄)に、なってしまうのです。
nayami3.jpg

クヨクヨ考えると、自分で自分を大変にしてしまいます。

そう、この問題は、「自分が、そうしている」のであり、悩み事のせいではない(比率を高くしているのは、自分の思考による作用)というのが、どこにも八つ当たりができない、「頭上に投げた石が、自分の頭に落ちる」ことを実感してしまう部分です。

考え続けるのをやめれば、その悩み事が解決するか?といわれれば、答えは必ずしもイエスとはならないでしょう。

けれど、では逆に「考え続けることで、解決に繋がらるのか?」といえば、それもまた、必ずしもイエスとならず、・・・それどころか、自分の思考回路が重くなり、建設的な解決方法を考えるに至らない、それだけの余力がない、という状態になってしまうでしょう。

「悩み事に苦しめられている」はずが、実は「自分が、(比率を増大させて)自分を苦しくさせている」だけ、ということもあるのです。

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2009年12月22日 (火)

適職に該当する分野は、幅広いものです。

「私の適職を教えてください」というご依頼をいただくことがあります。

適職とは、生活の手段としての仕事をさします。労働力を提供して、その対価として金銭を受け取り、生活費に充てる目的の仕事です。誰にも、独自の資質や性質があります。それらを活かして仕事をしていくのが望ましいですから、「私の資質にマッチした仕事は何?」という意味で、上記のご依頼内容となるのだと思います。

けれど、資質というのは、一律の定義ができない幅広いものです。つまり、資質が活かされる仕事の範囲というのも、同じように幅広く、「あなたに合うのは、コレですよ」などのように、ピンポイントで明示されるようなものでありません。

適職という、生活の手段としての仕事を考えるにあたり、あまり枠を狭め過ぎず、「自分がやれる仕事」というふうに、広く考えていくほうがいいでしょう。今まで経験した業務内容や実績から、自己分析をしてみれば、自分が「使える人になれる環境」は、どんな職種で、どんな就業形態で・・・、というのが、それなりに見えてくる思うのです。

まだ、仕事の経験が浅い方や、ご家庭の事情で、長いブランクを経て女性が働きに出る場合などは、自己分析をするだけのデータがないでしょうから、この限りではありません。

けれど、社会にでてかなりの年数が経っていながらも、自分がよくわからないというのであれば、今までの生き方や、仕事への取り組み方に、甘さがあったのかもしれません。

今まで自己分析をするような視点を持っていなかったからこそ、今ここにきて、求職や転職活動を通して、自分がやり残した学びに直面させられているのだと考えることもできます(人生は、カルマの法則により、自分に必要な学びを伴う出来事がめぐってくる仕組みになっています)。

たとえ、現時点で仕事を探している状況でも、自己分析の視点を持っている方は、「私の適職は?」という悩みは、多分お持ちにならないでしょう。「私の希望としては○○なのだが、求人が少ないので××ではどうだろうか」などの、さらに一歩進んだところで、悩んでいることはあるかもしれませんが。

自分の甘さを見つめることは、とても苦しいけれど・・・、その過程を乗り越えると、自分の意識が、一段高いところにいくためでしょうか、不思議と仕事がうまく見つかっていく場合も多いのです。これは、私自身の経験からも、そして多くの方のお話をお聞きしても、本当にそのとおりで、「波長の法則」が作用しているのだろうな・・・、と強く実感します。

仕事について考えるときに、「適職」というとらえ方はとても有意義だと思います。けれど、その言葉により、思考や行動を狭くしてしまうと、自分が苦しくなってしまいます。

適職を考えるのは、クイズのように、「コレ」というたったひとつの正解を求めるのではなく、自分の資質や性質、今までの経験や他者からの評価、それらを幅広く考えて応用していく、自己探求の上に、(自分なりの)答えが見つかっていくものだと考えてください。

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2009年12月21日 (月)

直感の位置するところは、「理性を超えた場所」です。

直感的感覚や、霊的感覚を、「第六感」という表現で表すことがあります。

第六感のある位置は、「五感を超えたところ」です。五感の延長線上にある、と言い換えてもいいと思います。霊感の強い人とは、言いかえれば感性の鋭い人のことでもありますから、五感が鈍く、第六感だけが発達している人は、あまりいないと思います;。普通は、第六感が発達している人は、(感受性に優れ)五感も発達しています。

____

 第六感   ← 五感の上に位置する感覚。

____

  五感

____

この仕組みと同じで、直感の位置するとことは、「理性」を超えたところ、理性の上であり、それは言い換えれば、理性の延長上です。

延長といっても、理性を突き詰めれば、直感にたどり着くという意味ではありません。理性を否定せず、その「さらに上」を求めていくと、直感があるのです。理性を経ることなく、直感に手が届くことはないでしょう。

_____

  直感    ← 理性を超えたところに位置する。 

_____

  理性
_____

  本能
_____

このことについて、とっても間違った理解が横行していて、理性を取り去ったものが直感であり、そのためには思考を止めましょう、判断を加えるのはよしましょう、・・・などと、まるで 理性が悪いものかのように考えられているところがあります。

悪いものなら、何故私たちに理性が与えられているのでしょうか。与えられているのは、「使うため」のはず。理性を排除した先にあるのは、直感ではなくて、・・・本能ではないかと、私は思います;。

本能~理性~、と上っていった、階段の三段目に「直感」があります。理性を排除するのではなく、理性を超えた場所(ということは、つまり、理性も包括した上での、さらに先)に、直感が位置するのです。

直感に手を伸ばすためには、理性を排除するのではなく、理性を培い、さらにその先を目指していく過程が必要です。

そして、直感に手が届いたときに、「結果として」以前よりも理性の出番が少なくなる・・・ことはあるとしても、最初から排除してたら、直感を得るどころか、遠のくばかり…になってしまうと思います。

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2009年12月19日 (土)

この世を生きることこそが、スピリチュアルである。

あちらの世界と、こちらの世界は、重なり合って存在しています。こちらの世界は、あちらの世界の(広義の意味で)一部である、とも言えます。つまり、この世を生きることは、あの世を生きることでもある、のです。

私たち人間とは、「肉体をもった霊」ですから、この世に生きていても、霊(界)と切り離されることはありません。

この概念は、右と左の両極にあるもののバランスを取ることとは、少々ニュアンスが違って、あちらの世界が「全体」で、こちらの世界が「(全体の)一部分」として、ある部分が(重なっていることで)同時進行しているようなもの、だと思います。

二つが重なって存在しているうちの、(通常は)この世のみを認識しながら私たちは生きています。けれど、この世が切り離されて別個に存在しているのではない、ということですね( ̄∀ ̄)。

ですから、この世の現実的な事象の中にも、いくらでもスピリチュアルな要素は見出せるはずで、その経験のために生まれているのですから、この世ならではの、ときに物質的な経験をも、たくさん積み重ねて、たましいを磨いていくことが大切です。

あちらの世界ばかりを過剰に神格化して、この世を軽視することのないよう、どちらも区分けなく包括して考えていくことが必要です。

私たち人間は、「肉体を持った霊」なのですから、私たちがこの世で生きていること、それ自体が、すでに霊的活動であるという前提で、「いかにして、生きるか」を、考えてみてください。

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2009年12月17日 (木)

「ひらめく直感」と、「経験則から導き出す、思考的感覚」

私たちは誰でも、カンを使って生活しているものだと思います。そのカンが、特に根拠なく閃くような、いわゆる「直感」と言われる類のものか、それとも、前例などを踏まえて導き出す「経験則による、勘」か、という違いはあっても、それらはすべて、感性という資質を使っています。

根拠のない直感も、当たるときは当たります。けれど、直感が、必ずしも当たるわけではなく、統計的要素の上に成り立つ思考のほうが、当たる場合もあるでしょう。どちらがいいか、どちらが正しいか・・・、唯一無二の答えはありません。

スピリチュアルに興味を持つ人は、閃き型の直感のほうを持てはやす傾向があります。閃いたことは、高次から授かった導きだ、という前提があるからのようです。

しかし、受け取る側(私たち人間)のフィルターの純度により、伝わり方に差がでますし、日常の物質的な事柄に関して、あちらの世界の高次の霊が、口をはさむようなことはありえませんから、その点は冷静に考える必要があります。

私たち人間が、思考するという特性、理性を授かっているのは、「使うため」です。つまり、自ら思考し、自ら判断することを阻害させるような高次の導きというのは、通常は考えられません。

その前提で、「直感」を意識していくこと、つまり過剰に直感を神聖化しないように、理性をもって判断する感性も大切なのです。

創造的に生きるためには、カンも理性も、どちらも等しく必要です。そして、カンについても、「直感」と、「経験則からくる、勘」の、両方を活かしていくことで、相乗効果が生まれます。

いわゆる「直感」を伸ばしたい、高めたいと思うならば、「経験則からのカン」を、排除しないほうがいいのです。そのほうが、直感も高まっていきます。表裏一体でセットになっている要素の、どちらかひとつを排除すると、もう一方も弱まってしまいます。

どちらか一方を高める、もしくは除くのではなく、どちらも区分けのない大切なものとして考えることのできる感性こそが、私たちの生活を、豊かなものにしてくれるのです。

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2009年12月16日 (水)

遠回りに思えることも、必要だからこそ起こる。

目的地までの道程が、最短距離であることを、誰もが願います。ですが、スピリチュアルな観点から見ると、結果と同じくらいに(ときには、それ以上に)、そこに至るまでのプロセスも大切という場合も多いのです。

一見、遠回りや足踏みに思えることでも、「相応しいタイミング」で目的地に到達するための導きというケースもあります。

しょうがなく方向転換をしたことで新たな道が開けてきたり、ある場所を経由したおかげで、目的地を俯瞰してみることができたりする、貴重な機会となることもあります。思い通りにならないことに直面し、迷い、悩むことも、学びのうちなのです。

ご自分の「今」が、遠回りや停滞の状態にあると思える方も、どうか必要以上に落ち込むことなく、まわりを見渡し、景色を楽しむ心の余裕を持ってください。「自分にとって最善の場所」に、いつか必ず、到達できます。

私達は、人生という旅路を生きています。この道には、遠回りも、近道も、ありません。皆、自分のペースで歩き続けるしかないのです。

目先の小さな目的地のみを考え焦ると、どんな順調な旅路も、遠回りにも、停滞にも思えてしまいます。誰もが、「着実に、人生を歩んでいる」と、知ってください。ご自分が「遠回り」だと決め付けていることは、たましいの観点から見れば、「予定どおり」なのかもしれません。

少し時間がたって、振り返ったときに、自分でも「必要なプロセスだった」と納得できるようになっています。ですから、焦らず努力を続けていくことが大切です。

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2009年12月15日 (火)

人生の節目は、2~3年ごとに訪れる。

多くの方にお会いして、統計的に分かってきたことなのですが・・・、だいたい、(大人になってからの)人生には、2年か3年おきくらいで、転換期がおとずれるようになっているようです。

今までのご自分の人生を振り返ってみると、そのくらいの周期で、何らかの節目がやってきて、状況が大きく動いたり、心境がガラリと変わるような出来事が起こったり、しているものと思います。

ただ、それは、おおよそ定められている「流れ」に、沿った生き方ができている場合に限ってことので、頑なに現状を変えようとしなかったり、ひとつのことに執着していると、(転換期の流れに沿った行動をしていませんから)、このパターンには当てはまらないでしょう。

また、物質的な「出来事」が起こった場合はわかりやすいですが、心境的な変化については基準が難しいので、改めて考えてみることも少ないと思いますが、せっかくなので、今回考えてみてください(笑)。

以下の設問は、心境の「転換期」を考えてみるに適しています。

過去の5年間、各年ごとに、「一番自分に影響を与えた人物」を考えます。

・2009年 _____________

・2008年 _____________

・2007年 _____________

・2006年 _____________

・2005年 _____________

この5年間、まったく同じ人物の名前が並ぶ方は、まれだと思われます。また、すべての年で、同じ名前がひとつも入らない方も、少ないことでしょう。

通常、数年間、同じ名前が続いていきます。そして、別の名前が入るようになったところが、「切り替わりの年」だったと考えられます。

5年間、バラバラの名前が並ぶ場合は、未だあなた自身が、自分の進む道が定まりきっていない、模索の状態なのでしょう。そういうときは、気持ちがあちらにいったり、こちらにいったりするのが普通なので、興味の対象も移り変わっていくものだからです。

そして、5年間、何の変化もなく、きれいに同じ名前が並ぶ場合は、すでに自分が目指す道が定まりつつあり、迷いなくその方向に進んでいる最中(なので、ブレがない)か、もしくは、まったく逆に、新しいことに踏み出さず、(2~3年おきにやってくるはずの)転換期を無視して現状にとどまり続けているかの、どちらかになるでしょう。この違いは、ご自分の充実度を考えれば、自分で判断がつくと思います。

通常は、自分の道が定まっていて、順調に進んでいる場合でも、やはり2~3年おきに、向上のための「さらなる転換期」はやってくるものなので・・・、5年間まったく同じ名前が並ぶ場合には、やはり、後者の「現状にとどまりたい気持ちが強く、変化を避けたい」気持ちによるもの、なのかもしれません。

お子さんが小さい方は、まともに考えると、5年間すべて、お子さんの名前が入ってしまうかもしれませんので(笑)、そういう場合は、「家族以外で」と、条件を付けて考えてみるとよいでしょう。

ちなみに、私は、2006~2008年の、3年間同じ名前が入りました。そして、今年2009年は、同じ名前には、なりませんでした。3年間・・・ですが、今にして振り返ると、2008年も、他の名前が入るべき流れになっていたのに、自分がひとつのことに執着していて、流れを読み切っていなかったのだな・・・、こだわりを持ちすぎて、自分が自分の流れを止めていたのだな・・・と、今ならわかります( ̄A ̄*)。

そして、その流れを止めていた一年分までも付加された転換のエネルギーが、勢いがついて、今年に一気に炸裂したような(笑)。ものすごいハードランディングで、立ち位置を「動かされた」年で、私としては、とてもキツい年でしたが;、そのプロセスも含めて大きな学びがあり、この先の(周期的)考え方のコツみたいなものが、一連の出来事から、つかめたように感じます。

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2009年12月12日 (土)

オーラの「色」にとらわれ過ぎずに、総合的に考えてください。

オーラには、大きく分けて、「体の周りのオーラ」と、「精神・本質を表わすオーラ」があり、「あなたのオーラの色は、○○ですよ」という場合は、通常、後者のオーラの色をさします。

オーラの色は、その人の性格を表わす情報のひとつではありますが、単に「色が何色か」だけでは計れず、他にもさまざまな要素が関係してきます。ですから、「何色なのか」という点だけに、とらわれすぎないでいただきたいのです。

大切なのは、色よりもむしろ「明るく輝いているか」という点なのですが、それは過去にも何度もお伝えしていることなので、今回は、「なぜ、オーラの色のみにこだわっても、意味がない」といえるのか、について詳細を書かせていただきます。

一般的に、「オーラの色が表わす性質」という区分けは可能です。けれど、例えばクレヨンで塗りつぶしたような、単色の色が現れているわけではありません。濃淡もありますし、勢いの強弱、組み合わせもあります。どこまでも細分化できるものを、シンプルに簡略化したものが、「オーラは○色」という表現だと思ってください。

例えば、「赤と青のオーラ」の人が複数いたとして、その方達が似たような性格かといえば、そうとも言い切れません。

赤と青の境目がはっきりしていて、オーラに勢いがある方は、情熱的でもあり冷静さもありの、両極端な部分を併せ持ち、意見がはっきりしていて、行動力もある場合が多いです。赤と青の境目があいまいな方は、内的に備えている性格は、上記と似たような部分があっても、それを外に表現することを好まない性格かもしれません。

自分の意見を外に向けて主張する方もいれば、自己完結タイプもいますので、そのあたりは「色」だけでは測れないところです。オーラの強さや勢いなども合わせてとらえます。

このように、同じ色を備えている人でも、性格のある部分は共通していて、ある部分は正反対になることもあり得ますので、一般的に言われる、「オーラの色が○○ならば、性格は××である」という区分は、ひとつの目安にすぎません。

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2009年12月11日 (金)

本を読むことで得られるスピリチュアルな知識と、培われる感性。

スピリチュアリズムを学ぶには、本を読むことも大切だと思います。本から学ばずして、スピリチュアリズムを本当に理解するのは、・・・相当に難しいと思います;。

私は、かつて、ものすごい量の精神世界系の本を読みました。図書館にある有名どころの本は、かなり読みました。この仕事を始める以前のことです。何度も書いていますが、私は、霊感の自覚がまったくありませんでした。そして、興味もありませんでした。

スピリチュアルなことを、信じていないわけではないけれど・・・、自分には無関係な話だと思っていました。そしてある時を境に、心霊現象が身近になってしまいました。当時の私には何の知識もなく・・・、私はその解消方法を、精神世界の書籍、特にヒーリング関係の書籍の中に求めたのです。

なぜ、ヒーリング系の本を読んだのかといえば、私は自分のオーラがどうとか、前世がどうとか、当時からまったく興味もなく、私の望みは、「霊媒体質をなおすこと」でした。

知識がないので、・・・なおるとまでは言わなくても、体質自体が相当に改善される余地があるものと思いこんでいました。

それで、ヒーリング(当時は、あまり意味もわかっていませんでしたが)で、なおしたい、改善をしたいと考えたためです。今思えばとても短絡的思考ですが・・・;。

結局、読み進むにつれて正しい知識がついてきて、直るとかいう問題ではないと、「実際のところ」がわかってきました( ̄m ̄;)。

その点だけとらえると、当初の目的は果たされず・・・でしたが、私はたくさんの本を通して、「真理の探究」というライフワークを見つけることができました。

その後も多くの本を読みましたが・・・、今思うと、「読まなくてもよかった本;」も、たくさんあったと感じます。けれど、それは、後になって言える結果論であり、多くの本を読んだことから比較して得られる相対評価です。

また、今なら自分が読むべき本は事前にだいたいわかりますが、それも過去にさまざまな本を読んだことから、取捨選択が容易になったためですから、「読まなくてもよかった本」も、やはり(後の比較のためには)読む必要があったのでしょう(ややこしい;)。

知識は、それぞれが「必要な本」に導かれることで、得られるようになっているものだと私は思います。自分に必要な本との出会いも、必然の「導き」であると私は考えています。

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2009年12月 9日 (水)

直感を受け取るためには、自分自身を満たすことが大切。

知識をたくさん持っている方や、話題が豊富な方に対して、「引き出しが多い」なんて言い方をしますよね。あらゆる分野で、「引き出し」は、多いに越したことはなく、それは直感的感覚においても同様です。

「経験という引き出し」、「知識という引き出し」、「感性という引き出し」、

それらがたくさんある方ほど、インスピレーションも良く働くのです。もちろん、知識だけ身に付ければよいというものでは、ありませんが、知識を実践することで、自分が向上し感性も深まっていきます。知識と経験は、どちらも同じくらい大切であり、両方の要素が備わっているに越したことはありません。

例えば、私たちの中に100個の引き出しがあるとします。意識の表面にあるのは、せいぜい、半分の50個で、残りは、在ることすら忘れています。そんなときに、ふっと、「あ、そういえば、昔のあの経験が、応用できるかも!」とか、「古い知り合いの、あの人に、頼んでみよう。手を貸してくれるかもしれない!」などと、記憶の奥底にあるような引き出しが、唐突に前面に出てきて、現在の自分の状況と結びついてくる瞬間があります。

必要な引き出しに、一瞬にして、ダイレクトに意識がつながり、絶妙な組み合わせが思いつく、・・・などというのが、直感です。もともとの引き出しも持ち合わせていないのに、夢のようにお告げが下る、無から有が生み出される、という意味ではありません。

引き出しの中身は、自分で満たしておく必要があります。スピリチュアリズムを正しく理解していないと、「直感力」というのは、まるで、空の引き出しを満たしてくれる魔法;、のように思えるかもしれませんが、努力なくして、叡智に手は届きません。

常に、経験、知識、感性を磨き、引き出しの中身を満たしつつ、さらに、日常生活において、自力で「(時には、失敗しながらも;)スムーズに、出し入れする訓練」を、普段からしておくことが大切です。

そして、実際に感覚が高まってくると、「これぞ、直感だ」なんて、改めて思わなくなりますね。直感的感覚に馴染むほど、「直感」と「自分の思考」との境目がなくなくなり、直感をえている状態が「ごく自然な状態」になっていくからです。

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2009年12月 8日 (火)

宗教でお悩みの方へ。

ご自分が入信している宗教についてのご相談が、たびたびあります。

その内容について、「知人に誘われて入信したが、本当は興味がないので困っている」「宗教を止めたいが、どうしたらいよいか」などをイメージする方が多いと思います。

そして、「興味がないなら、止めたらいいだろう」という回答も、思い浮かぶかもしれません。「よくありそうな、相談内容のイメージ」というのは、そんな感じですよね、きっと。

しかし、実際は、そのようなご相談は、ほとんどありません。まあ、ゼロではありませんが・・・、本当に「ゼロではない」という表現そのままの、まれなケースです。

本人が好きで入っている場合は、もとより迷いはないでしょうし、誘われると断れないほどの密な関係の知人も減っていますしね。

では、宗教関係で、どんな相談があるかといえば、ご両親が入っているため、ご本人も自然に入っていたが、今後の結婚などを考えると(相手側の感情等で)困ったことにならないだろうか、というようなケースなどがあります。

本人的には、特に熱心ではないが、かといって嫌でもない、ただ、対外的にどうなのか・・・という点での心配です。

信仰は自由ですから、何を信じるもよし、本人が好きで入信しているものに、他人があれこれ言うことでもないと私は思っています。

反社会的行為がときにニュースになることもありますが、それは極端なケースであり、宗教すべてが悪いものでもないでしょう。

そして、入信してみたものの、自分には合わない、やめたいと思うなら、その方の立場や人付き合い、ご自分の性格的な部分を乗り越える必要はあるにしろ、止めたい場合は「止めるという選択」をすれば済むこと。

最後に、難しい案件として残るのが、上記に書いた、親御さんが入信していたために自分も自然に入っているが・・・、というケースになるわけですね・・・。

このようなケースに対する回答は、ほとんど同じになりますが、(伝わってくることが同じなので)、今後、少しずつ時代も変わってきて・・・、宗教に限らず、あらゆる団体や集団の縛りのようなものは薄れてきて・・・、楽になれる部分が出てくるはず、とお伝えしています。

私には、そういうふうに感じられるのです。

このケースに当てはまる方に、あまり先のことを心配しすぎず、明るい気持ちで、肩の力を抜いて、前向きにお過ごしになっていかれますように、と、お伝えしたい気持ちで、書かせていただきました。

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2009年12月 6日 (日)

直感が鋭い人ほど、スピリチュアルを信じない人が多い理由。

私たち人間は、「肉体を持った霊的存在」なので、実は誰にでも霊感があります。強弱の差はありますが、まったくゼロの人はいません。直感や予感と呼ばれるものも、広い解釈をすれば、霊感の一種といえます。

ここ数年で、スピリチュアルという世界への情報が一気に広がりましたが、このような世界を、信じる方と信じない方、好む方とそうでない方がいます。そのこと自体は、それぞれの嗜好によるものですから、どちらでも構わないと思います。

信じない理由として、例えば、「霊を見たことがないから」などの、自分にそのような資質がないから、というのは分かりやすくイメージしやすい理由ですよね。

けれど、実際には、「直感がものすごく鋭い人ほど、スピリチュアルな世界を否定する」方が多いものだったりします。

例えば考え事をしているとして、 

「アレとコレを、どうしようかな・・・」 

「うーん、どうしよう」

「・・・・・数分経過」

「あ、そうだ!!。いいこと思いついた!」

というふうに閃く経緯があると、困っていたり迷っていたりするときに、(自分以外のところから、何かを)「授かった」とか「与えられた」感覚が分かりやすいものです。

しかし、直感力が人並み外れている方というのは、このタイムラグがありません。閃きがよすぎて、考えているそばから瞬時にアイデアがわいてきて、考えがまとまっていったりします。

そうなると、「授かった感」が薄れて、「自分が頭で考えている」気持ちになります。直感力がものすごくある方に、スピリチュアルを否定する方が多いのは、感度が良すぎて(笑)、直感と自力で考えている感覚との境目がないため です。どちらかといえは、そういう方は男性に多いです。

通常、自分の直感力は・・・なんてあまり意識をしないのは、男性も女性も変わらないと思いますが、女性は、ご自分の直感力に気づいていなくても、言われれば納得する方がほとんどですし、興味を示さないまでも、否定はしない「ああ、なるほど、そうなのか」という反応をする方が多いです。

しかし、男性は、自分のひらめきを、霊的な感覚と結び付ける概念そのものを、まったく受け付けない、全否定タイプが多いですね。「何も感じられないから信じない」というのは分かりやすい理由ですが、「感度が良すぎるゆえに(笑)信じない」方もいるのです。

ちなみに、私自身も、数年前まで、そちらのグループでした(爆)。全部自力だと思いこんでいました。なので私からすると、直感が鋭いゆえにスピリチュアルを否定する方達のことは、なぜそうなるかの仕組みがわかるので、特に何とも思いません。というより、かなり共感してしまいます(笑)。

霊的な世界を、特に意識していなくとも、「霊的に生きている」方はたくさんいますし、それはそれで、何も問題はないと思います。

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2009年12月 4日 (金)

大人っぽい感性の子は、幼少期は苦労することがあります。

私たちは、何度も生まれ変わって、たましいの成長を続けている霊的存在です。この世に生まれた瞬間から、資質や性格がゼロから培われるのではなく、以前の経験や資質を引き継いでおり、それらが独自な個性として備わっています。

そのため、実年齢とたましいの年齢は同じにはなりませんので、「無邪気で子供らしい子供」もいれば、「落ち着いた雰囲気の、大人っぽい子」もいます。

感性が大人な子にとっては、幼少期の同年代との団体行動は大変な苦痛を伴います。なぜなら、「子供の中に、ひとり大人が混じっているようなもの」だからです。

こういう子は、だいたい高校生くらいまで疎外感を味わったりするケースが多いみたいです。高校は、同じレベルの子が集まる場所ですし、皆も精神的に成長して追い付いてくるので、そのあたりから、自分と(同年代の)周囲との感覚が揃ってくることもあり、本当に気が合う友達などを見つけやすくなります。年齢がいくほど、生きやすくなっていきます。

そして社会に出てからは、かなりアドバンテージがあります。すでに「大人」の感覚を備えて久しいので(笑)、「学生気分が抜けない」なんてことは、まずありません。すぐに社会に馴染んで活躍できる方が多いです。

ご自分がこのケースに当てはまると思われる方は、当時を振り返ってみると、「ああ、そういうことだったのか」と、納得できることと思います。

こういうことって、大人になった今でこそ、スピリチュアルな知識を当てはめつつ理解できるでしょうが、当時はかなり辛い出来事だったことでしょう。いくら感性が大人といっても、今回の人生では所詮子供(笑)、何故辛いのか、何故馴染めないのか、分かっていませんからね。

お子さんが当てはまりそうな場合は、親御さんの心がけとしては、年上の子供と関わる機会を見つけてあげるとよいかもしれません。

年齢が上の方と話が合いますので、大人と行動したがる子も多いです。けれど、苦労を避けて楽な経験ばかりさせるのが、よいとも限りません。

「同年代の子と、話が合いにくくて苦労する」という点すらも、学ぶべき要素のひとつであると、考えることもできます。私たちは、その時なりの年齢にふさわしい学びをするようになっているのですから、そのために、毎度生まれてきて0歳からスタートするのですから(笑)、あまり神経質になりすぎず、見守っていく姿勢も大切だと思います。

基本は、こだわりすぎずにおおらかに受け止めることですが、このような仕組みを知識として知っていると、少し気持ちが楽になる方もいると思いますので書いておきます。

また、これはひとつの例であり、団体行動の苦手な子が、必ずしも上記の理由だとは限りませんし、たましいが大人でも、同年代の団体行動を苦にしない子もたくさんいますので、参考程度にとらえてくださいね。

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2009年12月 3日 (木)

たましいの年齢と、肉体の年齢は別。

人間とは、肉体を持った霊である、というのが、スピリチュアルな解釈です。何度も生まれ変わって、必要な経験を積んでいる「たましいの存在」が私たち、となります。

この世の年齢では、○才になったら学校にいって、○才になったら卒業して・・・という、画一的なスケジュールがありますが、たましいの年齢はバラバラで、肉体の年齢よりも、大人っぽい人もいますし、子供っぽい人もいます。

そのため、肉体の年齢的なスケジュールに見あった思考や行動を、誰もがスムーズに行えるとは限りません。「私の上司は、どうしてあんなに話が通じないのだろう」とか、「うちの親は、まったく常識がない」などと思うことがあれば、肉体の年齢が年上でも、たましいの年齢は、あなたより幼いのかもしれません。

肉体の年齢と、たましいの年齢がそろっていて、一律、年上の人が年下の人を率いてくれるものなら分かりやすくて楽なのですが、・・・そうは楽ができないようになっているのが、この世の仕組みらしく(笑)、誰もが人生のどこかで、この手の問題を経験して学ぶようになっているようです。

例えば、会社の上司が自分よりも幼い感性であるという状況は、イライラの極限になりそうですが(笑)、そういう経験も、自分が上司になったときに活かされるなど、必ず役立つようになっています。

自分から見て、ある特定の人物が、「年齢よりも幼い」と思ってイライラしても、自分もまた別のたましい年齢が高い方からみれば、イライラの対象となっている可能性もあるわけで(笑)、他人のことだけ責めたり貶めたりしないよう、気をつける必要があります。

たましいの履歴を振り返れば、誰もがかつて「若いたましい」だった時代もあるはずで・・・、他の方の御世話になってきた歴史があるはずですから、そう考えれば、順番なんですよね。

ですから、たましいの若いと思われる人の言動にイライラしたときには、「自分もきっと、前世でこのように誰かをイライラさせて・・・、そして「カルマの法則」で、今回の人生で同じ目にあっているのかも」と思うと、少し納得できて、許せる気持ちになれ・・・ますかね(笑)。

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2009年12月 1日 (火)

ネット上の人間関係。

インターネットの普及につれて、ネット上のみの関係、という、新たな人間関係?も広まってきました。ネットは使い方によってはとても便利であり、有意義でもあると思うのですが、過剰な期待や依存、危機意識のなさから、精神的なストレスを受けてしまう場合もあるようです。

対面しなくても、画面を通してやりとりができるのはとても便利ですし、だからこその楽しさもあり、気安さもあります。

けれど、注意しておく必要があるのは、「所詮、ネット上の付き合い」であり、「通常の人付き合いを避けるための代用にはならない」という点です。この線引がうまく出来ないと、ストレスに繋がるケースが発生してきます。

必ずしも、実際に顔を合わせる関係だけが素晴らしいとは言い切れず、同様にネット上での関係が悪いということでもありません。利点はそれぞれあるのだから、「別物」として、分かった上で使い分けなければいけないと思うのです。

顔を合わせて話し合いをしても、気持ちが通じ合わないことも、もちろんあります。けれど、「とりあえず、同じ時間と空間を共有している」という部分は確実ですよね。

ネットは、同じ時間を共有しなくてもコミュニケーションがとれるところが魅力なのですから、それゆえの時間差や温度差も踏まえて、のめり込みすぎないように、注意していく必要があります。

実際の人間関係とネット上の関係との境目があいまいな方は、この点の理解もあいまいになり・・・、不満が出てきてストレスになります。相手が自分の思い通りのリアクションをとってくれないという、とても一方的な不満を募らせてしまう方も多いようです。

自分と同じ時間帯に、相手もパソコンに向かっているとは限らないのに、レスポンスが遅い、思うような反応をしてくれない・・・などと、ストレスをためるのは、常識のある大人として、いかがなものでしょうか。

そのあたりの「空気」を分かった上で、適正に利用するなら、ネットはとても良いものだと思いますが、のめり込みすぎないようにセルフコントロールが大切ですね。

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