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2009年9月の20件の記事

2009年9月29日 (火)

人付き合いが苦痛なのは、霊感の強さが原因の場合もある。

平均よりも霊感が強かったり、感受性に優れている方は、人間関係が煩わしいと感じる傾向があります。霊感がある人は、オーラの感応がいいので、他人といると、いろいろなものを感じ取ったり、影響を受けたりして、疲れてしまうのです。

疲弊しないために、「他人から遠ざかる」という行動に出てしまう方もいます。それは、本人にとっては、自分を守るためで、疲弊しないための最善の策だと、意識的であっても無意識であっても、そう思ってしまうのでしょう。

霊感の強さとは、通常、あまり意識することもないでしょうから、ご本人も、何故、自分が、人付き合いから距離をとりたくなるのかという理由を、分かっていらっしゃらない場合がほとんどですが、中には、スピリチュアルな本を読んだり、誰かに指摘されるなどして、ご自分のそのような体質に気づき、理由がわかって納得される方もいるでしょう。

けれど、理由がわかったところで、オーラの感応を鈍くすることができるわけではないので、「納得」はしても、納得イコール改善、ではないので・・・、それがまた、難しいところだったりします;。

「他人から遠ざかる」という解決方法は、・・・実はあまりよい方法ではありません;。その場しのぎとしては有効ですが、山にこもって一人で生活するわけにもいかない以上、どこかの時点で、「引っ張り出される」ことになり、必要な経験をさせられるものです。

なぜなら、私たちはこの世で、人とかかわることで、学んでいくからです。そのために、この世に生まれているのです。

人を避けることは、「自分が疲弊しないために、防御している」つもりが、それは、逃げているのだと、いつかは気づかなければならないし、自分で気づかなければ、「気づかされる出来事」が、「必然」で、もたらされることでしょう。

私も、かつてはそうでした。私の場合は、スピリチュアリズムという哲学を学ぶことで、その苦痛を乗り越えることができました。いや、乗り越えた・・・かどうかは、定かではありませんが;、とりあえず、苦痛と思う気持ちが、だんだんと減ってきたことは事実です。

ほんの一瞬のかかわりの人からも、学ぶことはあるし、意味のないご縁もできないと知ってからは、人間関係が楽しく…とまでは言わなくても、少なくとも苦痛ではなくなりました。

人と接することで、自分の波長を省みることができる、それは自分のために貴重な機会であると分かって、受け入れることができるようになったのです。避けていてはだめだ、と。そして、避けずに受け入れることは、殻を捨てて、身軽になれることでもある、と分かりました。

他人といると、ぐったり疲れること自体は、そう簡単にコントロールはできません。けれど、その関係性に「意義」を見出していくと、世界が変わるのです。視界が広くなって、見える景色が変わります。

心から、そのように思えるまでには、かなりの時間が、かかりました(私の場合は;)。今の私は、以前の私とは、「違う世界」を見ていると感じます。知識を学ぶことで、納得し、そして、実践することで、感性が鍛えられ、精神的に、「殻を捨てて身軽になれた」のです。

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2009年9月24日 (木)

容姿にも、意味がある。

私たちは、自分の学びにふさわしい環境や状況を選んで生まれてくるのですから、「容姿」という条件もまた、同じです。

美しい容姿の人を見ると、うらやましい気持ちになったり、不公平さを感じたりするものですが;・・・、美しい人は、「その人の学びに、必要だから」、美しさを備えて生まれてきたのでしょう。

傍目からみて、どれほどに恵まれているように思える人でも、本人なりの苦しみや辛さはあるものです。妬みや嫉みの対象になって、いじめにあうこともあるでしょうし、いいことばかりではないはずです。

「美女と野獣」などと言われる(笑)カップルは、女性の側が、自分が美しさゆえいじめられた経験や、もしくは逆に、容姿だけでちやほやするような人にむなしさを感じて、心の美しい人を選んだのかもしれません。

若いうちは、外見の美しさに惹かれることも多いものですが、年齢とともに、内面の美しさに惹かれていくものだと思います。自分の美しさにかまけて、内面磨きを怠った人は、若いうちはよくても、中年以降に、人生の困難を味わったりもするかもしれず・・・、そういう意味では、人生を長い目でみれば、学びの上では公平だと感じます。

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2009年9月23日 (水)

場所(土地)のオーラ。

建物や土地にも、固有のエネルギーがあります。

もともと、その土地が備えているエネルギーと、住人や関係者のオーラや、出来事に関連するエネルギーが作用しあって、「場所のエネルギー」が、作られていると感じます。

例えば、神社。

多分、大昔に、「気の良い場所を、選んで」建てられているものと思います。そして、そこに「神社があることで、土地の気が浄化されていった」ともいえるでしょう。どちらも当てはまるのだろうと思います。

神社で行われる、さまざまな神事や、それにまつわる人の想念、敬いの気持ちなどのエネルギーが、年月をかけて、積み重なり、作用しているのでしょう。

私たち人間という存在は、受信機のようなもので、気の良い場所に出かけていけば、その気に感化されて、エネルギー的に浄化されていくものです。(場所に限らず、人間関係でも同じように、お互いに感化され影響を受けます)。

そして、受信機であると同時に、発信機でもあるので、私たちのエネルギーが、土地や場所によい影響を与えることもあります。・・・そのためには、かなりたくさん積み重ねる必要があるとは思いますけどね。

ときには、神社や、自然の中など、気の良い場所を訪ねて、心身をリフレッシュするのは、とても有効なことと思います。

同時に、私たちも、エネルギー発信機でもあるのだから、自分を高めることで、今いる建物や土地を、浄化していくことだってできます。そのくらいの気概をもって、生きていくことが大切だと思うのです。

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2009年9月22日 (火)

霊感体質の方は、惚れっぽい?

霊感が強い方は、気が多くて、惚れっぽいため、恋愛関係でちょっとしたトラブルになりやすい方も、実は結構多かったりします;。全員がそうだというわけではありませんが・・・。これは、よく言われていることですので、知識としてご存知の方も多いかもしれませんね。

今回は、「なぜ、そうなるか」というメカニズムについて、書かせていただきます。

「霊感が強い」というのは、言い換えれば、「エネルギーに対しての感応力が強い」、ということです。人と人が出会うと、お互いのオーラが作用し合います。その感覚で、「あの人は、好ましい雰囲気がある」とか、「あの人とは、あまり気が合いそうにないかも」とか、いろいろなことを、想像したり、感じ取ったりしますよね。

それは、自分のオーラを受信機として、「相手のオーラを、感じ取る」ことで、なされています。霊感が強い方は、オーラが平均よりも大きく、感応力もいいので、相手のオーラを、「より、感じ取る」ことになります。そうすると、相手のことが、気になったりするわけです(笑)。

「相手のことが、好き・・・なような、気持ち」になってしまう、のでしょうね。相手のエネルギーが、とても大きく自分に作用すれば、そういう気持ちになっても不思議ではありません。

それが、特定の人にだけに起こるのではなく、多くの人に対して起こるので(笑)、結果として、気が多くなってしまうのですね;。「そういうもの」だと、あらかじめわかっていれば、何のことはないのですが、そこまで意識して考えませんからねぇ、普通は。

なので、霊感が強い自覚がある方は、自分の恋愛感情に、冷静な視点をもって分析してみてください。

先にも書きました通り、全員がそうだというのではないですよ。傾向として、気が多くなってしまう方もいて、エネルギー的観点から考えれば、その気持ちも分からないではない、・・・という説明です。自覚がある方は、冷静に考えて見ることも大切ですよ、ということで。

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2009年9月21日 (月)

相手がいてこそ、よい種まきもできる。

昨日の続きですが・・・。誰かが何かを「しでかしてくれる」ことで(笑)、自分が、その対応により、種まきができる、という事実があります。

スーパーの棚から、商品を落としても、気づかずに立ち去る方がいるからこそ、その後に通りかかった自分が、「拾って、戻してあげる」という奉仕ができます。

仕事上でも、後輩のミスで、自分がフォローに走り回ることになっても、その一連の作業から、自分が学ぶこともできるし、「後輩を助ける」という、種まきもできるのです。

まあ、実際に、その場面になったら、相手にカチンとくるのは、わかります(笑)。けれど、このように考えてみてください。もしも、後輩が、あなたと同じように仕事ができたら・・・、あなたは、その他大勢のうちの一人、になってしまいます。ミスをしてしまう後輩や同僚に囲まれているからこそ、あなたの資質が引き立つという側面だってあるのです。

そう考えれば、腹も立ちません。逆に、ありがたいと感じる・・・とまではいわないけれど(笑)、イライラや理不尽さを感じる気持ちは、かなり薄れるのではないでしょうか。

私も、数年前、スピリチュアルな仕組みを理解していない頃は、スーパーの棚から、ミカンが落ちていると、「(# ̄A ̄)どーして、私の通り道に、落ちてるかなぁ、まったく・・・」と、思いながら拾っていました。でも、カルマの法則を理解した今となっては、ミカンが落ちていたら、嬉々として(笑)、拾いに行って戻します。

神様が、私に、良い種まきをさせてくれる機会を、与えてくれた・・・とでも考えれば、品物を落として直さない人に、腹も立たないです。

人間というのは、知らず知らずのうちに、良くない種も、いっぱいまいてしまうものだと思うのです。生活していれば、ごみも出るし、無駄な消費もしてしまうし、他人を傷つけることだってあるかもしれないし・・・、そのバランスをとるためにも、日々、小さいことでも、意識的に心がけて、「よいことの積み重ね」を、私は、なるべく心がけています。なかなか、頭で思うようには、行動できないこともあるけれど・・・、無理のない範囲で、やっています。

最初のうちは、そのように、「これは、良い種まきだ」「自分の徳になるのだから」という気持ちで、行動していくことでいいと思います。

そして、その行動や心がけが習慣化されると、「無意識」になります。特に理由も理屈もいらず、「自分の目の前に落ちているから、拾うのは当然」という考え方になっていくことでしょう。

多分、本当の意味で、波長が高くなるのは、「そこから先」かもしれません。「無私」「滅私」になれたとき、なのかな、と。

その段階を目指して、まずは、「自分にできること」を、「自分のために、良い種をまこう」という心がけで行っていけば、十分だと思います。

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2009年9月20日 (日)

「よい種をまく」行為は、難しく考えなくていい。

スピリチュアリズムの大原則である、カルマの法則とは、「自分のしたことは、(よいことも悪いことも)必ず自分に返ってくる」という、仕組みを表わした言葉です。スピリチュアルに興味がある方なら、誰もが知っていることですよね。

人生を充実させることと、たましいの成長を願うのならば、(行いが返ってくるのだから)「良いこと」を、積み重ねていく姿勢が大切です。

けれど、この仕組みを理解していながらも、なかなか、実践ができない人もいるでしょう。多分、そういう方たちは、「良いこと」を、難しく考えすぎなのだと思います。

なんかこう・・・、とても大がかりな、「莫大な寄付」とか、「地雷撤去活動」みたいな、誰が見てもそうとわかりやすいものだけをイメージしてしまって、日常の小さな行為が、自分の頭の中で、「良いこと」や「奉仕」と、結びつかないのでしょうね。まぁ、その気持ちはわかりますが。奉仕という言葉は、非日常なイメージもありますよね、なんとなく。

でも、「良い種をまくチャンス」は、日常にいくらでも存在します。街で、知らない人から道を聞かれたときに、親切に教えてあげることや、スーパーで、商品が棚から落ちているのを見つけたら直しておくことなども、小さいことだけれど、良い種まきと考えていいと思います。

また、自分が意識していない場面でも、自然に良い種まきがなされることもあります。それは、相手が、(自分の言動から)何かを学んでくれたことから、相対的に自分によいカルマが積まれる場合です。

例えば、あなたの立ち姿が美しいとして、その様子を見ていた知らない誰かが、「あの人は、姿勢がよくてすばらしいな、見習おう」と思ってくれたら、あなたは、その人に、(よい影響を与えるという)奉仕をしたことになります。あなたの、美しい文字、美しい言葉づかい、元気な態度・・・、それらすべては、間接的に、たくさんの良いカルマを積むことができる可能性を秘めているのです。

つまり、「人の手本となる(要素を持っている)自分」でいられれば、それがそのまま、良い種まきに繋がるのです。自分を向上させることは、自分のためでもあり、そして人のためにもなり・・・、人のためになったことは、良いカルマとして、自分の徳になる・・・、というサイクルで作用しているのですね。

このように考えると、「どうやって、日常生活の中で、良い種をまこうか」と、方法を模索すること自体が、楽しくなります。そして、その考える行為が、新たな気づきに繋がったりして、スピリチュアルな感性が、ますます磨かれていくものです。

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2009年9月19日 (土)

霊的エネルギーは、電気系統に近い。

霊的なエネルギーは、電気に似ている、と感じます。これは、言葉で表現するのは難しいのですが・・・、かなり「近い」エネルギーだと思うのですね。

そのため、霊感の強い方は、電化製品が故障しやすかったり、誤作動が起こったりすることも多いです。念が強いタイプの方は、とくに、そのような傾向があると思います。私も、頻繁にパソコンがリカバリになる、という憂き目にあいますし;、電化製品も、結構、故障します。

霊的現象が、「(物理的に、もしくは見た目に)電気っぽい反応」を伴って起こることが多いのも、電気に馴染みやすいためではないか、とも思います。

上記の理由で、念が強いタイプの方は、普通にしていても、電化製品に(ご自分のエネルギーが馴染みやすいので、反応してしまって)影響を与えてしまう傾向があるようですが、頻繁に故障したりするのは、「霊感が強い」せいだけではなく、ご自分のエネルギーバランスが乱れているから、です。

霊感が強くても、自分がよい状態を保っていられれば、(それでも、影響がなくなりはしませんが;)、そんなに頻繁に、悪影響も出ないと思います。私は、イライラが極限状態になると、片っぱしから、いろんなものを壊してしまいます。銀行のキャッシュコーナー、駅の券売機、自動改札・・・、今までにどれだけご迷惑をかけたか、わからないくらいです( ̄_ ̄;)。

こういう状態を、「私は、パワーが強い( ̄へ ̄)」などという、単純な解釈をしないほうがいいでしょう;。確かに、強いといえばそうですが、・・・「不安定な波長」になっているために、壊してしまうのですから、・・・少なくとも、自慢できるようなことではないと思います。

それに、どんなことも、「自分がやったことは、自分に返る」という、「カルマの法則」がありますから、開き直ってもいられないのです。もちろん、私が自動改札や券売機を故障させて、スタッフの方にメンテナンスのお手間をとらせてしまったというカルマは、いつかの未来に、私自身に返ってくることになります;。

私が、自分の波長をよい状態に保っていないという「原因」が引き起こしたのですから、他の誰のせいでもないし、ましてや霊が悪いわけではありません。自分をよい状態に保っていれば、済む話です。

この記事の内容が、当てはまる方は、自分の波長を下げないように、コントロールしていきましょう。そうすれば、だんだんと、改善していけると思います。どんな出来事も、自分を省みる材料にできますから、すべての出来事は、「自分の鏡」ですね。

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2009年9月18日 (金)

物にもオーラがある?

「物」にも、固有のエネルギーがあります。

それを「物のエネルギー」と表現する方もいれば、「物のオーラ」という言い方をする人もいます。その場合は、人間のオーラとは、ちょっと違うもの、という認識で考えていただければと思います。

物のオーラ(エネルギー)は、使われている素材が発するエネルギーの場合もあれば、製作者や考案者のエネルギーを帯びている場合もあります。

分かりやすく、「食べ物」を例にとります。例えば北海道で取れた野菜は、「北海道の大地の気」を帯び、「生産者(農家)の方のエネルギー」を帯び、そして、「流通業者のエネルギー」を帯び・・・、最終的に、「調理者であるお母さんのエネルギー」を帯びて、「料理」が作り上げられ、食卓に上ります。

「素材の持つパワー」と「作った人(お母さん)のパワー」が、どちらも素晴らしければ、相乗効果となって、最高のオーラをもつ料理ができることでしょう。「素材そのもの」と「かかわった人(製作者)」と、どちらの影響がより強いかというのは、その力関係によるでしょう。製作者のほうがパワーがあれば、よりそちらの影響度合いが大きくなるものと思います。

でも、似たようなものが引きあうという、「波長の法則」がありますから、あまりに自分とかけ離れた波長の素材は、手元にめぐってこないので、自分が高い波長を保っていれば、自然と良い素材を選ぶようになっていると思います。

「オーラのよいものを(食べる、身につけるなど)取り入れると、自分のオーラにもよい影響を与える」

「製作者や、持ち主のオーラが、物のオーラに影響を与える(人のオーラなどを帯びる)」

「自分が、良いオーラの状態(つまり、高い波長の状態)を保っていれば、波長の法則により、周りによいものが集まってくる」

という仕組みになっているので、物にもオーラがある、からといって、あまり買い物に複雑に考えすぎたりはしないでください。要は、自分の波長を高く保っていれば、それでいいのですから。

私も、そのように「自分を高める」ことを一番に考えて日々を送っていて、「オーラのいいものを選ぼう」とか「この商品のエネルギーは・・・」なんて、殊更に意識して考えたりはしていません。そんな細かいことまでこだわっていたら、一日が50時間あっても足りなくなります(笑)。

っていうか、そこまで「やり過ぎ」たら、精神が疲弊して、逆に波長が下がる;と思います。物にも、それぞれ固有のエネルギーはあるけれど、それらも、江原さんの言うところの「サプリメント」的な作用であって、一番大切なのは、「自分自身」をしっかり保っていくことだと思います。

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2009年9月15日 (火)

センスも、直感も、広い意味では、「霊感」の一種。

強弱の差こそありますが、この世で、霊感のない人は一人もいなくて、誰もが備えているものです。なぜなら、私たち人間とは、「肉体をもった」なのですから、霊感はあります。

一般に、霊感という言葉からイメージするのは、霊視力や霊聴(れいちょう)力であることが多く、その他の感覚を、霊感に含めて考えてみることは、少ないと思われますが、霊視や霊聴は、あくまで霊感の一種にすぎません。

センスや、直感力も、広い意味で言えば、霊感です。霊感という言葉がピンとこなければ、感受性、感性と置き換えて解釈してください。

センスや直感の方向に、感覚が優れている方は、(結び付けて考えないので)ご自分の霊感が一般の平均より強くても、あまり自覚がない方も多いです。

センスというのも、幅が広いので、ここでは、分かりやすく説明するため、芸術的センスについて取り上げます。芸術活動をする方は、センスが必要です。それらは、(知識や努力も必要ですが)ひらめきや、備えている資質がもたらす部分が大きいですよね。

ひらめきをキャッチするのは、感応力です。とても大雑把なまとめ方をすれば、感応力の強弱が、イコール霊感の強弱、と考えていただいてよいと思います。

霊感と芸術的センスが、とても近い資質であることは、霊能力者でありながら、芸術・芸能活動もなさる方が多いことからも(江原さんも、美輪さんもそうですよね)、理解できると思います。外国人でも、有名な霊能力者で元は画家だった、なとどいうパターンも、結構多いのです。

霊視や霊聴だけが、霊感ではない、ということを、多くの方に知っていただきたいと思います。誰もが、感受性やセンスという形で、霊的感覚を備えていて、磨けば光るものであることを、知っていただき、そして、実際に「磨いて」いただきたいと思います。

といっても、世の中には、特に意識しなくても、ごく自然に、霊的な感性や資質を発揮して、素晴らしいことを成し遂げている方が大勢いらっしゃいます。そういう方たちには、(ご自分で、納得済みでしょうから)改めて、霊感という言葉を持ち出して、理屈を説明する必要もないのだろうと思います。

まだ、自分の中に眠る、センスや直感などの形で備わっている資質に、気づいていない方たちに、スピリチュアリズムという思想を、理性で学ぶことで、さまざまなご自分の才能や感性に気づいていただければ、と思います。

感性を磨いて、伸ばしていくことで、自信が持てるようになりますし、それは、世の中への奉仕にもつながります。感性が磨かれ、今までよりも高いレベルで仕事ができれば、多くの方に喜ばれることになりますよね。「自分のためでもあり、人のためにもなる」これが、一番、やりがいを見出せる形態ではないでしょうか。感性を磨くことで、それが可能になります。

感応力がよい、つまり霊感が強い方のオーラは、平均よりも大きかったり、密度が細かいなど、「キャッチしやすい形態」を備えています。けれど、せっかくの、すばらしい感性を備えていながらも、過度にこだわったり悩んだり、妬みや怒りの感情を持つことは、受信機たるオーラのコンディションを、自から下げてしまうことにほかなりません。

「備えている感性を、磨く」とは、オーラのコンディションをよくすることも、含まれての話です。インスピレーション等の感応力がよくなれば、さらに資質を発揮しやすいですから。

「自分のため」と、そして「人のため、世の中のため」に、あなたの中に眠っている資質の、発掘作業に、挑んでみませんか?独自のすばらしい「宝」を見つけて、創造的な人生を過ごしていきましょう!

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2009年9月14日 (月)

無駄な経験はなく、必ず後に活かされるようになっている。

どんなに苦しく辛いことでも、この世のすべてが「必然」で展開してる以上、無駄な経験や苦難が、意味なく自分に降りかかってくることはありえません。その時はわからなくても、後になれば、必ず(なぜ、そのときに、その経験が与えられたのか)意味がわかるようなっているものです。

私の知り合いの話ですが、その方は、ある時期コールセンターで働いていて、苦情を受け付ける仕事をしていました。その方の性格からして(とても繊細で、割り切りが苦手な方でしたから)、仕事は辛かっただろうと思います。数か月は努力したけれども、どうしてもなじめず、別の会社に転職しました。

そして、新しい会社に入ったときに、あれほどに辛かった前職に感謝することになりました。

新しい会社では、まず、電話応対という関門を越えなければなりませんよね。相手の会社名をきちんと聞き取れるだろうか、とか、自分の知識外の問い合わせがあったらどうしよう・・・と、少なからず心配になるものです。

ところが、その方は、入社初日から、積極的に電話をとることができました。以前の仕事の習慣が、活かされました。そうすると上司からも、「あの人は、仕事に積極的だね」という評価をいただき、とても自然に新しい会社になじめたそうです。

彼女が言うには、「コールセンターでの経験がなければ、今の自分はない。自分には不向きで辛い仕事だと思ったけれども、必要な経験をさせてもらって、ありがたかった」、と。

誰もが、自分の人生を振り返ってみたときに、上記のような出来事が、数々思い当たるのではないでしょうか。

そのときは、辛い経験でしかなくても、知識や技術が向上したり、見る目が身に付いたりして、あらゆる意味で「自分のため」になったことに、(渦中にいるときには、わからなくて苦しんでも)後になってみれば、わかります。

意味のない出来事は起こらない(すべて、必然)のだから、必ず意義が見出せるはずなのです。振り返って考えてみても、今すぐには、意味がわからない出来事もあることでしょう。だとしたら、そのことの意味が「分かる」時期は、もう少し先なのだと思います。気づきもまた、ふさわしいタイミングで、訪れるものですから。

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2009年9月13日 (日)

「しゃぼん玉」体験の比較( ̄m ̄;)。

江原さんの若き日の体験として、いろんな本に出てきている話で、ご本人も、テレビ番組で何度も話題にされている話に、以下のような内容があります。

明け方に目が覚めると、 

 球体が現れ、 

 紫の発光体がスーッと近づいてきて、 

 お坊さんのような人が現れて、 

 「これから、世の中の人を救うことが、おまえの役目じゃー!」と、告げる

というもの。

実は、私も3年前くらいに、似たような体験をしているのです。

夜中に目が覚めて、部屋の中に、無数の「しゃぼん玉」のようなものが見えました。

私は、これは、いわゆるオーブと呼ばれるものを見ているのかなぁ・・・?と、ぼんやり考えながら、眺めていました。

私の場合は、 

 球体が見えて・・・(ここまでは、同じだったが;)

 でも、発光体は現れず・・・( ̄m ̄;) 

 お坊さんも、出てこなくて・・・( ̄m ̄;) 

 当然、何の啓示もなく・・・( ̄m ̄;) 

 フツーの心霊現象として、アッサリと過ぎ去っていった・・・( ̄∀ ̄;)アラ?

いったい、この扱いの差は何だ(笑)。

・・・。

・・・。

 啓示、カモーーーン!!w( ̄A ̄*)w

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2009年9月12日 (土)

たましいのルーツが別でも、親子が似ているのはなぜ?

親子といえども、たましいのルーツは別ですから、資質などが違っていてもおかしくないのに、実際には、よく似ているケースも多いものです。

私たちは、自分の学びにふさわしい状況(地域、性別、家族構成、その他)を選んで、生まれてきます。ですから、「あらゆる意味で、自分(の、学び)に、合った親を選んでくる」ので、似ているのも、当たり前かもしれません。

例えば、梨園に生まれてくる男子のたましいは、きっと、「家を継ぐことの学び(カルマ)を備えている」とか、「伝統芸能を職業にしたい」とか、そういう学びの要素を持った方が、「選んで」生まれてきていると思われます。なぜなら、そのお家に、男子が生まれた瞬間、職業は、「ほぼ決定」となるわけで・・・、そのことを、分かった上での、必然となっているはずだからです。

伝統芸能を経験したいと思って生まれてきたならば、資質に秀でているたましいが多いことは想像に難くなく、(もちろん、才能を開花させるには、相当の努力も必要ですが)、そうすると、「息子は、とても芸能のセンスがある」となって、当然「お父さんも、センスがある」わけで、・・・となると、「あの親子は、(備えているものが)似ている」という認識に繋がると思うのです。

親子というのは、少なからず、上記のような学びの関係上、「似ている」ものなのではないでしょうか。私は、そう思っています。

また、親子の資質が似ているかどうか、というのは、とても感覚的なものだから、実は難しいですよね。誰もが「親子だから、似ているのは、当然」という前提で考えますから・・・。

親子なのに、あまり似ていない場合には、「たましいの源が違うから(そうなっても、おかしくない)」という理屈は必要かもしれないけれど、似ていることに関して、理屈はいらないような気もしますが(笑)あえて説明するなら、上記のように、「学びの質に共通点があるから」という点は、関係するのではないかと思います。

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2009年9月11日 (金)

希望を知るために、苦難の経験がある。

人は、順調に物事が進んでいるときに、殊更に「希望」なんて、考えたりしないと思います。苦しい出来事に直面したときに、私たちは、未来に「希望」を見出そうとするのではないでしょうか。

本来は、いつでも未来の予想図を描きながら、創造的な人生を過ごしていくのが理想ですが、なかなか、その気持ちを持ち続けることができません。希望という言葉を、改めて考えてみる機会も、大人になるほど、減少するものと思います。

「あちらの世界」とは、比較の概念がない「絶対の世界」です。そして、こちらの世界は、比較がある、分離の世界、相対の世界、です。

闇があるからこそ、光を知ることができる、これは、比較という概念がある「相対の世界」特有の経験です。

「希望」から遠のいていくと、そのことを思い出させてくれる出来事が起こって、(つまり、困難に直面して;)、私たちは、再び、忘れていたものを、心に抱くことができるのだと思います。

先のことを見据える感覚が薄れると、「希望」も持ちにくくなりますよね。「今」を考えることも大切だけれど、今というのは、目に見える現実と直結しているから、「希望」という、形のないものとは、結びつけてとらえにくいものです。

そういうときに、今がとても苦しいような出来事が起こって・・・、私たちの視点が、未来に向くように、未来に希望をいだくようになっていて・・・、つまり、希望を忘れてしまうと、「視点が固定されてしまっていませんか?」という問いかけのような出来事が、降りかかってくる仕組みになっていると感じます。

「パンドラの箱」には、最後に「希望」がありました。素晴らしいものの象徴として、「美」や「光」でもよいと思うのですが、「希望」という言葉には、創造的というか、意思が反映していく余地がある・・・というような、ニュアンスを感じさせてくれる気がして(私の勝手な解釈ですが)、この現実界に、わかりやすい教訓になっているように思います。

完全に満たされていくと、もしかすると「希望」という言葉は、必要なくなるのかもしれません。完全ではない私たちの、成長の過程にこそ、この言葉が必要なのでしょう。

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2009年9月10日 (木)

間違った選択をするのではないかと、不安な方へ。

分岐点に立ったときに、不安になるのは、「もしも、自分の選んだ選択肢が、“間違い”だったら、どうしよう」という気持ちがあってのことと思います。つまり、「正しい選択は、どちらなのか?」という点が、心配になるのですよね。

でも、私たちの人生は「必然」で成り立っていますから、あまり心配しすぎず、自分を信じて、選択していいと思います。

絶対に選んではいけない選択肢は、「絶対に選べないように、なっている;」ものです。ビックリするような出来事(◎_◎)が起こって、選ぼうとした道が閉ざされるケースは多いです。

ですから、「選ぶことができる」状況にあるなら、その選択肢は、ベストの選択かどうかまではわかりませんが、・・・少なくとも間違いではない、ということになります。

自分のカルマ、学びのために、一度転ばされかけて、ショック療法的に(笑)気づかされるケースもありますが、それはそれで、「必須プロセス」ですから、いずれにしても間違いではありません。(どうしても経験しなければならないことは、避けて通れませんから苦労や忍耐をさせられることもあります)。

人生においての重要な分岐点に差し掛かり、進むべき道に迷ったときは、焦らず(焦っても、消耗するだけで、何もいいことがありません)、自分の「感覚」を信じて、冷静に考えることです。そうすると、あちらの世界からも、さまざまに「ヒント」が示され、進むべき方向へのサポートが与えられることでしょう。

けれど、それは、あくまで「ヒント」であり、「提案」でもあり、このようにすべき、という命令ではありませんので、選択権は自分自身にあります。

分岐点に差し掛かった際に、

選んではいけない選択ならば、(私たちが、選ぼうとしても)選べないようになっている。なので、選べる範囲のどんな選択も、その人にとっての「必要な学び」である。

心穏やかにアンテナを研ぎ澄ませて考えれば、そのためのヒントは、さまざまな形で(実際の出来事や、時にはインスピレーションで)もたらされるものである。

このことを知っていれば、不安にならずにすみますよね。

私も、この人生、未熟な精神に基づいた行動;をたくさんしてきましたが;、・・・その都度、軌道修正がかかって、導かれたと思っています。

そして、その一見遠回りな(笑)、間違いかけた行動;も、すべては自分の糧となり、無駄なことは、ひとつもありませんでした。

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2009年9月 6日 (日)

スピリチュアリズムは、「サプリメント」ならぬ、「昆布だし」のようなもの。

江原さんは、パワーストーンや、ハウツー的要素の強いスピリチュアル関連のことをさして、「サプリメントのようなもの」という表現をしています。

あくまで(スピリチュアリズムの本質ではなく)補助的な作用と分かった上で、活用するものですよ、というところでしょうか。

スピリチュアリズムの本質とは、もっと包括的なものであり・・・、「○○をすれば、幸せになれる」のような、マニュアル的要素は、そのうちの「ほんの一部」を、分かりやすく「おかゆ仕立て」にしたものです。

石などのグッズが「サプリメント」ならば、スピリチュアリズムは、きっと、「昆布だし」のようなもの、じゃないかな、と(笑)。これは、江原さんの発言ではなく、私が勝手に解釈したものですが(笑)。

「基本」であり、「本質」でもあるけれど、実際に目で見て、認識できるようなものではないところが、同じだと感じます。

「昆布だし」が入っていることを、認識していなくても、それはちゃんと「味の深み」として作用します。さらに、昆布の仕組みを知れば、最適な使い方ができて、「味わいの深さ」を実感しますから、サプリメントをあまり必要としなくなっていくと思います。

でも・・・、「だし」だけでは、ダメなんですよね。「だし」を、材料に反映させて、「料理」をしていかなければ。「料理」があってこそ、「だし」が、活かされるのですから。

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2009年9月 5日 (土)

性格は、生まれたときから決まっている?

私たちは、何度も転生を繰り返すことで、たましいの経験が深まっていくものです。生まれた瞬間に、ゼロから(資質の蓄積などが)スタートのではなく、今までに培ったものを、備えています。同じ環境に育っても、性格が違う子がいるのは、そのためです。備えている資質、カルマが違うのですね。

例えば、とても支配的な両親のもとに生まれても、上の子はあっけらかんと育ち、下の子は、両親との関係で深く傷つき、トラウマになってしまっている、などの場合は、備えている資質、カルマが違うためです。

下の子は、親との関係に「反応しやすい性質」を備えて生まれてきて、上の子は、そういうものを備えていなかった(ので、反応しなかった)ということも言えるでしょう。もちろん、そういう単純な理由だけではないですよ。要因というのは、複雑に絡み合って作用するので、「分かりやすく簡略化した例え話」です。

両親と下の子との間に、お互いのもともと持っているカルマが、プラス/マイナスか、もしくは、マイナス/マイナス、なのでしょうか、そのあたりは分かりませんが;、とにかく、お互い相手のカルマに反応した、ということでしょうね。

最初から備えているものは決まっていますが、備えているものが、どれだけ表面に発揮されるかというのは、生まれた後の自分の生き方と、周りの環境によって、作り上げられていく部分だと思います。

ですから、上記の例の、下の子も、トラウマを抱え続ける人生が最初から決まっているのではないです。最初はそうでも、自分の努力により克服する場合もありますし、両親が変化することもあるかもしれないし、家族以外の人間関係に癒されて、強くなっていく場合もあると思います。

そして、上の子も、両親との関係が問題なくても、その分、目上の方との付き合い方がフランクすぎて遠慮がなく、社会に出てから苦労することもあるかもしれず・・・、どちらが良いか悪いか、という、優劣はないと思います。備えてきた学びの違い、ですね。

ということで、性格は、たましいが備えている資質は決まっているけれど、その中の、どの部分が、強く表面に現れるかというのは、後で作られる要素もある、ということですね。

さらに言うと、イメージとして、上の子が元気で、下の子が繊細に感じられますが、最初はそうでも、ずっとそうではないかもしれません。下の子が、感情的な部分を乗り越えていけば、下の子が、たくましく強い大人になる可能性もあります。そこは、本人次第でもあり、その後(生まれてから後)の、環境次第でもあり。可能性は限定されていませんので、その先は本人の生き方しだい、となります。

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2009年9月 4日 (金)

「これから知る」ことができる、幸せ。

ある事柄について、(自分にとって有益な)経験や知識が深まっていくと、「もっと前から、知っていれば・・・、違った人生があったかも」「こんなことなら、以前から関わっておくべきだった」という気持ちが出てくることがあります。

けれど、ものは考えようで、これから、「知ることで得られる感動」や「新鮮な気持ち」になれる回数が、すでに知っている人に比べて、たくさん味わうことができのですから、ある意味、今後に楽しみが多い、と言い換えることもできます。

かつての私の上司に、とても映画好きな方がいました。私自身は、映画には全く興味がなく;、映像を見るなら、野球やオリンピックなどの、ノンフィクション系(笑)の感動を好むタイプです。

そんな話をしたところ、上司は私に、「君がうらやましい」と言いました。「僕は、名作と言われるものは、古いものから最新のものまで、ほぼ見てしまったので、この先映画から得られる新たな楽しみが少ない。その点君は、この先、もし映画が好きなったら、あの楽しさをゼロから味わえると思うと、うらやましいよ」、と。

なるほどなーと、私は、うなってしまいましたね。そういう考え方もあるのか、と。

何年も前の会話なのですが、私は今でもことあるごとに、このやりとりを思い出しては、「参考になる話を、聞かせていただいたなぁ」と、かつての上司に感謝しています。

大人になって、情熱を傾けられる対象を見つけたときに、その思い入れが大きいほど、「もっと前から、○○をしていれば・・・」と、思ってしまいがちですが、その分、これから先の経験が、とても濃い感動を伴うものとなる可能性を秘めているのですから、・・・それは、「幸せ」なのだと考えると、過去に対する後悔の気持ちは薄れていくのではないでしょうか。

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2009年9月 3日 (木)

「好きなことを仕事にしたい」という考え方について。

自分の好きなことを職業にできたら幸せだと、誰もが考えると思います。どんな決断も、(自己責任という前提の上で)その人の自由ですから、好きなことを仕事として選ぶことも、誰からも禁止されることはありません。

けれど、「好きなことを、仕事にする」ことと、「その仕事で、食べていける(生活が成り立つ)」ことは、同じではありません。このことは、はっきりと認識しておく必要があります。

「好きなことを仕事にしない人」が多いのは何故なのかと、考えてみればわかると思います。それは、食べていけないから、でしょう。好きなことで生活していけるのならば、誰でもそうするはずです。

芸術家やスポーツ選手など、特殊技能を使った職業の方は、ある意味、好きな仕事をしていると言えるのかもしれません。けれど、彼らは、若くて体力のあるうちしか活躍できないとか、セルフコントロールが並大抵ではなかったり、大きなリスクも抱えた上で、「好きな仕事」をやっているものです。きっと、私たちが想像する以上に、シビアな世界だろうと思います。

仕事に限らず、いいことだけの世界は、ありませんよね。一般的に、「好きな仕事」というのは、クリエイティブな職種や、専門職をさす場合が多いと思います。そういう仕事は、本人の資質・適性という問題もさることながら、世の中のニーズ(お金を払ってでも供給してほしいという需要なければ、成り立たない)という問題もあり、安定した仕事になりにくい面は否めません。

好きな仕事を、金銭的には成り立ちにくいと承知の上でやるならいいと思います。複数の仕事を掛け持ちすることもできるし、今は成り立たなくても、先を見据えて下積みをすることで、道が開ける場合もあるでしょう。また、そのことが大好きで、メインの仕事にならなくても、とにかく関わっていたいならば、そういう人生も(本人が納得しているのならば)あっていいと思います。

自己責任においては、何をやるのも自由です。でも、甘い考え方や依存心から、「好きな仕事を・・・」と、思っているだけの場合は、きっとその道は閉ざされてしまうだろうと思います。

自己責任で、かつ、リスクも承知で、となったら、必要になるのは「自立心」です。甘えの気持ちを捨てて、一生懸命取り組めば、サポートが得られものと思います。

・・・ただ、その場合でも、先に書いたとおり、「仕事にする」ことと、「成り立つ」ことは、同じではない、この点は変わらないので、現実を考える気持ちも大切です。

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2009年9月 2日 (水)

転機は眠い?

江原さんの本によると、転機を迎えると、とても眠たくなるのだそうです。その理由は、眠っている時間は、「あちらの世界との、作戦会議の時間」でもあるそうで、転機の前は、打合せ時間をたくさん取る必要があるため、だとか。

( ̄_ ̄)フムフム、なるほど・・・。自分の経験からも、振り返ってみれば、物事が大転換する直前は、眠くて眠くて・・・の状態だったな、と思います。

今すぐに思いだせるところでは、2007年の年末に、命には別状のない病気で腹腔鏡手術をしたのですが、その前も、ものすごく眠かったです。

病気が分かって、手術をすることになって落ち込んでいたり、緊張していたりで、そのための精神的な疲労から眠くなっているのだと思っていましたが、後になって考えてみれば、転機直前だったことも、関係していたのだろうと思います。この手術がきっかけとなり、私は、意識が変わって、翌年の春から、今の仕事をはじめました。

リーディングで、皆さまのことを拝見するときにも、物事が移り変わる少し前くらいの時期に、強い眠気があるように読みとれることがあります。そういうときには、「○月頃の時期に、とても眠くなるかもしれませんが、転機の前触れの眠気だと思うので、眠いときには眠ったほうがいい」と、お伝えしています。

でも、転換期だと思われる時期を迎える方の、すべてのケースに、眠気が強い様子が読み取れるわけではないので、「傾向として、そうなりやすい」ということで、あまり意識しすぎることもないのだろうな、とも思います。ほとんど場合は、事前には分からなくて・・・、その時期を過ぎて、振り返ったときに「そういえば・・・」と、実感すること、ですしね。

どんなことも、自分がまいた種が実るという、カルマの法則に基づいて、この世は成り立っていますから、転機がやってくるのもまた、必然です。

眠気という現象も、「ひとつのサイン」として受け止めて、活用するのはよいですが、しかし、それは転機というものがまず先にありき、で、その前ぶれとして、眠気を感じる(ことが多い)、ということであって、決して、眠気が転機を誘発するのではない(笑)ので、大切なのは「転機」に至る、日々の努力の積み重ねですね。

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2009年9月 1日 (火)

親や兄弟に対する、わだかまりの気持ち。

家族に対して、幼少期からの不満や憎しみの気持ちから、脱することができない方が相当数いらっしゃいます。

誰でも、少しくらいのわだかまりは(とくに、親に対して)あるものですが、過剰なまでにの否定的な感情に、ご本人がとらわれてしまい、「自分の人生」を生きられなくなっている人もいるのです。

事情は、人の数だけあります。家族間に大きな問題がなさそうに見える人と、自分を比べると、不公平に思えることもあるでしょう。けれど、学びはそれぞれ違うのだから・・・、他人と比較しても始まりません。

確かなことは、あなたに必要だからこそ、家族間の問題が、あなたの人生に展開している、という事実です。とても辛い気持ちはあると思いますが・・・、未来を見据えて、力強く、過去を乗り越えなければなりません(乗り越えるために、課題があるのですから)。

過去を許さず、いつまでも家族を憎み続けていても・・・、そのことで、誰が得をするのでしょうか?もっとはっきり言えば、「あなたは、得をしますか?」ということを、考えてみていただきたいのです。

憎しみが、原動力になる場合も、確かにあります。けれど、それだけのバイタリティーがある人は、(他人を憎みながらも)自力で前に進んでいくうちに、わだかまりが薄れて、乗り越えていけるケースがとても多く、いつまでも親を恨んだりはしていないものです。

結局、親兄弟への複雑な感情を、大人になっても、強く持ち続けている人というのは、そのことを理由にして、いつまでも前に進めない方が多いのですね。

このような場合、私は、常識的なこと、当たり前のことをお話させていただくだけで、特に「和解したほうがいいですよ」などとは、申し上げません。私が申し上げないというより、「後ろの方が何もおっしゃらないので、お伝えすることがない」、といったほうがふさわしいかもしれません。自分で考えるべきことなので・・・、後ろの方が、ご依頼者様に代わって答えを出してくださることは(通常)ありません。

こういう場合って、ほとんどのケースで、ご本人もわかっているんですよね・・・。

わかっているけれども、自分が過去を乗り越えてしまったら、相手(親兄弟)の仕打ちを認めてしまうというか、正当化されてしまって、自分だけが一方的にやられ損ではないか、という気持ちがあるため、わかっているけれども、受け入れられないだけ、なのです。

だから、自分以外の存在からの「答え」をほしがるのです。例えば「後ろの方が、親を許して前を向きなさい」と言っているならば、自分自身が心から許したわけではない、促されてしぶしぶ許した、という「理由」付けができますから。

しかし、逆にいえば、それ故、後ろの方は無反応なのです。ご自分の意思で、許しの境地にたどり着くことが、学びだから、です。その時を、辛抱強く、見守っていらっしゃるのでしょう。

人には、「自力」という名の力が、備わっています。過去を乗り越えて、自分の糧とし、前に進んでいくことができる力を、誰もが持っているのです。憎み続けても、誰も得をしないという事実を、まずは受け入れる必要があります。

・・・これは、かなり困難なことです。この問題を抱えている当人にとっては、本当に苦しいことです。きっと、悔しい気持ちになるでしょう。自分だけが損をしているように思えて、みじめな気持にもなるでしょう。

けれど、(時間はかかっても)必ず、乗り越えられます。私は、そういうケースを、たくさん知っています。自分の人生を、充実させていくために、過去を乗り越え、前に進んでいきましょう。

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