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2009年8月の12件の記事

2009年8月21日 (金)

カルマに、良い悪いという明確な区分けはない。

カルマの法則とは、自分が種をまいたことが、どんなこともすべて必ず自分に返ってくる、という法則です。

この法則を知ると、自分のすべての行動を、「これは、よい行い」「あれは、悪い行い」と、二分したくなる方も多いのですが、それはとても難しいことだし、とらえ方も、正しくありません。

カルマという言葉をつかうときに、通常、悪い意味のほうで例えられることが多いため、誤解されているところがあるかもしれませんが、本来は、サンスクリットで「行い」を指す言葉です

良いも悪いも含めて、すべての、行動、言動、思いの蓄積を、「カルマ」、と考えると分かりやすいと思います。

霊的な考え方というのは、物事を包括してとらえることです。「いいか、悪いか」「○か、×か」のように、狭い枠にあてはめて、何でも白黒つけるような考え方は、霊的といよりも、現世的(笑)、とても物質的な解釈の仕方です。

たとえ議題が、目に見えないことであっても、その議論が、「○か、×か」「いいか、悪いか」という単純な論点だけに終始するならば、それはスピリチュアル(霊的)な考え方ではありません。

ひとつひとつの物事も、多様な要素が複雑に作用して展開するものである、という事実を、理解したうえで、カルマの法則をあてはめて考えることが望ましいです。

どれほどに素晴らしい行為にも、少しくらいの我欲が含まれることもあると思いますし、偽善に見える行為でも、人の役に立つこともあります。

ひとつの行動の中に、良いことの比率が高いか低いかは考えられるとしても、はっきりとした二分は・・・難しいですよね。どちらに当てはまるか、○か×か、で考えていては、「スピリチュアリズム」を正しく理解するのは難しくなりますし、実際の日常生活も、とらわれすぎて狭苦しいものになってしまいます;。

世の中には、「良いだけ」のことも「悪いだけ」のことも、めったにない、ほとんどの出来事は、そのどちらも備えています。カルマの解釈の仕方も、同様です。

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2009年8月18日 (火)

気づきの、瞬間。

真理への気づきとは、自分の外側にあるものではなく、内側にあるもの、という記述は、スピリチュアル関係書籍の定番になっています。

外から得るものとは、「今まで無かったものが、増え」ます。たとえば、買い物をして、自分の持ち物が、新たに加わることなどが、あてはまります。

気づきは、すでに自分の内側にあるものですから、新たに加わる感覚とは、ちょっと違います。例えて言うなら、「今まで、白黒だったもの(眠っていたもの)に、突如として鮮やかな色がついた(活性した)」ようなもの、でしょうか。

この衝撃というのは、(経験したことがある方は、分かると思いますが)まさしく、暗闇から光に躍り出たような、目が覚めたかのような気持ちになります。見える世界が、変わるのですね。

心の中に、この「カラー」の比率が増えていくと、さらに「気づき」が頻繁になります。すでに色づいた部分が呼び水となって、さらなる気づきを促していきます。一度、火がつくと、その範囲は、どんどん広がっていきます。

その状態にあるときは、気づきの過程のすべてが、手ごたえと充実感に満ちたものとなっていきます。今までは、苦しかったはずの苦難や困難すらも、以前ほどには辛くは感じられないことでしょう。

どんな出来事も、自分の心が、さらに色づき鮮やかになるという副産物を伴っていると知れば、苦難への見方も変わっていくものです。「苦難に思えることも、私たちのたましいを成長させるため」であることが、大きな手ごたえを伴った実感として、「分かる」ようになるでしょう。

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2009年8月17日 (月)

一応、教えてくださった・・・のでしょうか;。

ある日のこと。サロンでのご予約が入っていまして、そちらに向かう準備をしていました。

あれこれ気が散ったり(笑)、パソコンをチェックしたり・・・、何だかんだで、結構時間が経ってしまい、ふと気が付くと、もう、家を出なければならないタイミングになっていました。

( ̄A ̄)「あっ!!、もうこんな時間。向かわなきゃ!」と、思った瞬間、大音量のラップが、鳴り響きました。ラップ音にはすっかり慣れている私でも、ビックリするくらいの、音量で;。まるで、外出にストップをかけられているかのようでした。

あまりの轟音でしたので;、なんだか気になり・・・、忘れものをしているかな?とか、他に何か用意していったほうがいいのかな?とか、いろいろ考えてみたのですが・・・、これといって、思い当たらず・・・。気にはなったけれど、時間もないので、家を出ました。

途中で、ご予約なさっていた方から電話が入りました。「仕事の都合で、少し遅れそうですが、いいですか?」と。

( ̄∀ ̄)なるほど、

( ̄∀ ̄)そういうこと、でしたか。

私が、「早くいかないと、遅れるっ!!」とか、あせっていたので、お客様の到着が遅くなるから急がなくても大丈夫だ、と、教えてくれたのではないか、と。

・・・何のことやらわからなかったので、活用できませんでしたが(笑)。

霊感とか、心霊現象って、ほとんどは「こんな感じ」で・・・、後になって気付かされるものですから、事前に把握して、自分に都合よく活用したり、我欲を満たしたりは、できないものです。

この話を書いたのは、それが言いたかった。

大音量だったのは・・・、守護霊とかではなくて、たまたまそこに居合わせた霊さんが、鳴らしてくださったせいでしょうか。

それとも、私が「(; ̄A ̄)遅れるっっ!」と、強い気持ちで思ったので、その勢いに驚いて、音量調節の手元がくるった、とか?

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2009年8月16日 (日)

「絶対」という表現の、解釈について。

私は、この言葉を、ブログ内でしばしば使います。特に、カルマの法則を語る場合に、「絶対の法則」という表現をすることが多いです。

。けれど、この場合の「絶対」とは、たとえば日常会話で、「絶対に認めない!」とか「絶対にありあない!」などと、物事を強調するための意味合いではありません。

絶対的の反対語は、相対的です。相対的とは、比較によって成り立つ関係性です。AとBを比較すると、Bのほうが古いとか、Aのほうが軽いとかの考え方ですね。

私たちの生きる、現世、この物質界というのは、相対の世界です

「わたしとあなた」「過去と今」などの、比較という感覚によって、さまざまなことを学ぶ経験をしています。ということは、絶対とはその反対語なのですから、比較によって認識する関係性ではないのが、絶対、ということになります。他からの制限や影響を受けないのが、絶対です。

私たちは、相対(比較)の世界に生きていますから、つい、すべてをその感覚で解釈してしまいがちになりますが、あちらの世界とは、比較の概念を伴わない世界です。

絶対とは、比較の概念を伴わない、他に影響をされない、不変のものです。

つまり、「カルマの法則とは絶対(の法則)」という記載は、感情的な「カルマの法則が、一番すごくてエライ法則っ!」…とかの意味ではないのです;。

一番か、二番か、と比較している時点で、それは「相対」です。

絶対の法則、絶対の真理、とは、「そのもの」である、「不変」である、終わりも始まりもない、基礎も応用もない、それらを含んで「すべて」、という意味合いで使っている言葉です。本来言葉では表現しきれないものを、言葉に置き換えているので、くどい言いまわしになりますが・・・。しかし、これは、とても大切なことなのです。

たまに、「絶対の法則」という言い方に、拒否反応を示す人がいます。「絶対」という表現が、「例外を、認めない!」とかの、石頭な意見に思えてのことなのでしょうが・・・、例外があるか、ないか、という概念自体が、相対(比較)ですから;、この場合においては論点がずれていることになります;。

「この法則は、リンゴである」という意見に対して、「青リンゴだって、あるじゃないか!」と反論しても、・・・噛み合ってませんよね。詭弁に思えるかもしれませんが(笑)、でも、それが実際のところですから・・・、このような説明の仕方以外に、どうにも述べようがありません。

私たち人間にとって、相対(比較)で、表現することはさほど難しくありません。「これは、Aでもなく、Bでもない」「そして、Cより小さく、Dよりは軽い」と、他のものと比較して表現できますし、そもそも私たちは、この物質界という比較(相対)の世界に生きていますから、他と比較して知る、という方法がなじみやすくできています。

一方、絶対を、言い表すのは・・・大変に困難です。絶対の真理である、カルマの法則は、文章にするととてもシンプルで簡素な内容です。けれど、現実の生活に応用していくのは、とても難かしいと、スピリチュアルに興味を持つ誰もが感じることと思います。

なぜなら、私たち人間にとって、比較を理解するのはたやすいけれど、絶対という概念は難しいものだからです。スピリチュアリズムに関する理解も実践も、難しいと感じても、ある意味、当然ともいえます。

しかし、私たちは、「肉体をもった霊」なのですから、「霊的な感性」を駆使すれば、霊的な真理を理解することはできるはず。

肉体をまとっている以上、どれほどに霊的に進んでいる人であっても、相対の概念とは切り離されないので、(絶対を理解するには)理屈というサポートアイテムを使いながら、理解していくことが必要です。そのために、「スピリチュアリズム」があるのだと、私は思っています。

今回の記事の内容は、難しいと感じる方も多いかもしれません。

でも、そう感じるのも当然で、その理由は上記で述べました(笑)。これは、難しいのです。さまざまな経験を重ねていくことで、感性が研ぎ澄まされていけば、いずれ理解できるようになります。その時を楽しみに、じっくり身につけていきましょう( ̄∀ ̄)ノ。

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2009年8月14日 (金)

守護霊が「やりなさい」という場合の、解釈。

通常、あちらの世界からは、「イエスか、ノーか」のような、はっきりとした指示などは、伝えられないものです。

自分の人生は、自分で決めるものであり、迷いや選択も含めて、学びの一貫であり・・・、サポートをしてくださることはあっても、命令や指示を与えられることは考えにくいです(ケースによるとは思いますが、一般的には)。

こういう仕組みがある以上、「あなたは、これをやれば成功しますから、是非やりなさい」的なメッセージは、そう簡単に与えられるものではないと、想像がつくと思います。

そうなのです。

守護霊が「やりなさい」という反応をする場合とは、「あなたがやりたいのならば、やってみなさい」という、見守り系のメッセージであり、その後の成功を保証するような予言ではありません。私たち人間は、ついつい、自分に都合よく拡大解釈しがち;ですが、

「(成功するから、是非とも) やりなさい」 

「(あなたが、やりたいなら) やりなさい」 

この、ニュアンスの違いを、理解しておいた方がいいと思います。

逆に、明らかに見当違いな方向(笑)に進もうとした場合に、「ストップ」のメッセージがくることなら、よくありますが、それ以外は、とても幅の広い肯定になることが多いのですよね。

・・・つまり、守護霊にイエスかノーかを尋ねようとしても、ほとんど不可能(笑)で、明らかにノーの場合は、分かることもあるけれど、それ以外の部分は、上記の、どちらのニュアンスがより強いかということであり、それ以上に範囲を狭めるのは、なかなか難しいものだと思います。

未来とは、これから、自分の手で、創っていくものですから、まずは、自分の意思ありき、です。あなたが下した決断が、今のあなたにとって「最善」の選択だと思います。自分を信じて進んでいけば、必要なサポートは与えられていくことでしょう。

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2009年8月13日 (木)

この世は、物質界ゆえ。

スピリチュアルを学んでいく中で、「物をたくさん持つのはよくない」「物を必要としない生き方が、霊的」という考え方に、とらわれてしまう方がいます。

この考え方が、間違っているとは言いませんが・・・、あまりに極端になる必要もないと思うのですよね。何故なら、この現世は、物質の社会ですから。物質界で、さまざまな経験を積むために、物が豊富なこの時代を「選んで」、私たちは生まれてきています。

物だけにとらわれるのは、もちろん良くないけれど・・・、だからといって、物を否定することもないと思います。上手く使っていけばいいのです。自分が主導権を持って、いろいろな物を、有意義に活用する分には、何の問題もないでしょう。

物を所有することが中心になって、自分がそれに振り回されてしまうから問題なのであり、(つまり、自分が悪いのであって;)、物が悪いのではありませんよね。

物が沢山なくても、心豊かに生きられたら、素晴らしいと思いますが、それでも、最小限の物質は必要となります。無駄や浪費はよくないけれど、有意義に活用するならば、そのほうが、この世を生きる上での学びは深くなる場合もあると思います。

この物質界で、いかに物質にとらわれすぎずに居られるか、という学びと、そして、いかに有意義に活用するかという学び、両方を、ちょうど良いバランスで考えていくのがベストだと思います

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2009年8月12日 (水)

お盆に、先祖霊は帰ってくるのか。

先祖霊という存在は、日本だけではないので(笑)、各国の方たちがいて、それぞれの慣習があるでしょうから、一律お盆に戻ってくる(または、戻って来ることが可能になる)、という解釈は、霊的な事実としては、当てはまらない気がします。

でも、その時期になると、先祖霊の目撃談(笑)も、増えるという傾向があるようですから、たぶん、お盆の時期に、こちらにやってくる方たちも、実際、たくさんいらっしゃるのでしょう(それは、否定しません)。

まだ、あちらの世界に戻られて間もないうちは、生前の性格や習慣などが残っているところもあるでしょうから、「お盆になったら、現世に戻るものだ」という考え方をしている方たちは、戻ってくる、ということではないか、と。

私なりに、考えられることは、もうひとつあります。想念は、エネルギーがありますから・・・、それは、「作用」します。

お盆の時期になると、私たち人間も、お墓参りにいったり、仏壇にお供えをしたり、親戚一同集まって、亡くなった方たちの話に花が咲いたりしますよね。そういう、個人の想念(という、エネルギー)や、全国各地でこの時期に執り行われる、式典などが生み出すエネルギーなど、「故人をしのぶ想念」が、お盆の期間中に、いっせいに発生することになります。

それらが、沢山集まって、ある種の「磁場」のようなものを生み出し・・・、あちらの方たちも、出てきやすい状況がつくられる、という可能性も、あるような気がします。

だとすれば、一度作られた想念は消えることはないので、「お盆=先祖供養」的な風習による、長い年月をかけた想念の蓄積も、作用していることでしょう。

>お盆に、先祖霊は帰ってくるのか。

この問いへの答えは、「お盆には、帰るものだと思っている霊は、帰ってくる」・・・という答えになると思います。

・・・と、思う、たぶん( ̄∀ ̄;)。

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2009年8月10日 (月)

なぜ、妄想は、よくないのか。

全ての物には、「波長」があります。それぞれ、高い波長のものから、低い波長のものまであります。ここまでは、基礎的なスピリチュアルに関する知識で、わかることと思います。

そして、「想念は、実体をもつ」という、霊的観点からみた「事実」があります。頭の中で考えたことは、実体をもつ(=エネルギーを持っている、または、エネルギーそのものである)ということ、なのです。

考えたことが、その場限りで消えてしまうことはなく、(本人の意識には上らないとしても)、生み出したもの、作りだしたものは、想念というエネルギーとして、存在することになります。つまり、あまりに極端な我欲やエゴイズムに従った思考は、自分の意識の中に、波長の低いものを作り出している行為、でもあるのです。

つまり、妄想することで生み出すエネルギーが低いものであれば、その点の影響が問題なわけです。

人間ですから・・・、ひとつの我欲も持たずに生きることはできないし、ときに、他人に腹を立てたり、イライラしたりすることも、もちろん、あるでしょう。そういうときにも、その思考に見合ったエネルギーが、自分の意識の中に作られていきます。・・・が、誰にもあることですから、影響としては、知れた程度、なのかとも思います。

けれど、あまりに極端な妄想に走ると、・・・それは、かなり、(自らつくりだした)重たいエネルギーを背負うことになるのですよね。「重たい」というのは重量感ではなくて、むしろ「質感」的な、重さです。

恨みとか妬みとかも含めて、頭の中で、波長の低いことばかりあれこれ考えていると、まるで「水飴をかぶった」かのような、「重たい」エネルギーになってしまうのです。

つまり、あまりにドロドロ~なことばかり考えていると、ご自分のエネルギーにも影響が・・・という点で、気をつけたほうがいい、という話です。

自分と同じ波長のものが、引き寄せられるのですから、水飴状態;になっているよりも(笑)、爽やかなオーラでいるほうがよいのは、説明するまでもありませんよね。「想念は、実体をもつ(エネルギーだから、作用する)」ことを、ぜひ覚えておいてください。

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2009年8月 7日 (金)

転職にともなうリスク。

何度も転職を繰り返して安定しないのも困りますが、かといって同じところで働き続けるだけが素晴らしいともいえず・・・、ケースバイケースだと思います。

この不景気の時代ですから、仕事があるだけありがたいのですが、そうはいっても、さまざまな理由により、どうしても辛いと感じるケースもあるでしょうから、耐えかねる場合には、転職も考えてみてもいいでしょう。

その際、皆さんがご心配なさるのは、次の仕事がすぐに見つかるか、という点です。知りたいお気持ちは分かりますが、それは、・・・イエスともノーとも、申し上げられません。

何故なら、未来は決まっていないからです。転職をきめたら、これから(転職に向けた)活動をしていくことで、未来が作られていくのであり・・・、「もしも、辞めても、すぐ見つかりますか?」という問いに対しての、ズバリの答えは出せないのです。

この点を知りたい気持ちは、本当によくわかるのだけれど・・・、お決まりのセリフだけれども(笑)、「自分しだい」としか、言えないのです。

転職に限らず、どんな決断にも当てはまりますが、何かを新たに得るために、今の(ある種の)安定を手放すのならば、その行動には、大きな可能性を得ると同時に、裏側にあるリスクがついてまわることも、受け入れなければなりません。

新天地を目指すならば、リスクも覚悟の上で、気合を入れて挑むことです。それがイヤならば、・・・現状維持を選ぶしか選択肢がなくなってしまいます・・・;。現状維持という安定と、新しい可能性との、両方は、並び立たないので、どちらかを手に入れようとすれば、そのためのリスクはどうしても負わなければならないのですよね・・・。

強い気持ちと、しっかりとした意思があれば、転職もうまくいくと思います。不安な気持ちが大きいならば、今は、実力をつける時期と考えて、今の会社にとどまることも考えてみてください。さまざまな要素を総合的に考えて、判断することですね。

その結果、新しい道に進みたい気持ちが定まったならば、そのときは、もうあれこれ迷ったり不安になったりせずに、自分の決断を信じて、突き進むことだと思います。

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2009年8月 5日 (水)

過剰な批判をすることによる、自分への影響(憑依)。

批判をする目的とは、裏を返せば、「自分を肯定したい」のだと思います。

「あなたは、間違っている!」と叫ぶことはつまり、「(あなたは、間違っているが)自分は、正しい!」という、主張なのだと感じます。

自分が正しいことを行うのも、また、そのことを広くアピールするのも、自由に行ってよいことだと思います。けれど、そのために、他人への批判をセットにする必要はありませんよね。

「あなたは、間違っている!」という前提なくして、「自分が正しい」ことは、成り立たないならともかく・・・、他者を批判しなければ、自己の正当性を証明できないことはないはずです。

また、冷静に指摘することと、声高に悪口を言うことは、同じではありません。たとえ、述べている内容が的を得ていたとしても・・・、過剰なバッシングには、まともな人からの共感は、得られないと思います。

批判を続けていると、(最初は、正しいことを述べていても)だんだんと、その言動が「批判のための、批判」になり・・・、つまり、「批判そのものが目的」となり、自分が本来述べたかった主張は置き去りにされていきます。

そうすると・・・、波長は下がっていきます。波長が下がっていけば、「下がった波長に見合ったもの」を、引き寄せるようになります。批判ばかりしている人に、オーラの明るい人はいません。けれど、波長を下げるような批判という行動を、わざわざ行っているのですから、誰のせいでもなく「自分のせい」です。

そこからはもう、悪循環で・・・、言動はエスカレートしていきます。どんどんおかしなものを引き寄せ・・・、憑依霊と一体になって、「言わされる」からです。

そうなっても、憑依した霊が一方的に悪いのではありません。もともと、本人が持っている要素が、憑依により色濃くなっただけであり、降ってわいた新たな災難ではないからです。

しかしその場合でも、いつか、自らの行いを「気づかされる」ときが来て・・・、目がさめれば、本来の明るい自分に戻ることも出来るでしょう。悪影響を呼びよせるのも、断ち切るのも、「自分しだい」ですから。

自分の主張したいことを際立たさるために、スパイス的に比較や批判の色合いを用いることくらいは、「方法」「戦略」の一貫として、限度をわきまえれば、ある程度は、使われることなのかもしれないと、私は個人的にはそう思いますが、その比率には、よくよく気をつけた方がいいと思います。

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2009年8月 4日 (火)

霊聴…ではなかった話(笑)。

霊視という言葉は、「視覚に映る」場合に使いますが、「聴覚でとらえる」ことができる能力を、霊聴(れいちょう)と言います。私たちは、よく使う言葉なのですが、一般的には、霊視に比べると、あまり浸透していない言葉かもしれませんね。

私は、霊聴は、あまり得意な方ではありません。視覚とか、テレパシーのほうが楽なので、仕事上で聴覚を使うことは、ほとんどありません。

霊聴が入ってくる際には(あくまで、私の場合は、ですが)まず、耳元で、ダイヤルを合わせるかのような感覚?があって、その後、音声が入ってきます。

はっきりと聞き取れるものもあれば、そうでないものもある、という感じです。

先日、夜遅くにブログを書いていたところ、何かが聴こえてきました。声は、日本語のようでした。

 ( ̄_ ̄)「何が聴こえてるのだろう?」

くらいの気持ちで、あまり深く考えずにいたのですが、しばらく経って、ふと、気づきました。私の耳に聞こえているのは、ラジオの音声でした。少し離れたところにある、携帯用ラジオが、なぜか勝手にスイッチオンになり(爆)、音が鳴っていたのです。

そのことに気づいても、

 ( ̄_ ̄)「あ、なんだ、ラジオだったのか」

と、驚きもせず、普通に冷静で(笑)。こういうの、なんかもう、慣れちゃって、半分どうでもよくなってきています;。

ちなみにラジオは、私が気付いてまもなく、またしても自動的にスイッチオフになったようで、自然に止まりました。

あの現象って、何の意味があったのかな・・・と考えてみると、もしかして、ブログのネタを作ろうと、見えない誰かが、協力してくださった、とか?真相は、わかりませんが・・・。

もし、そうだとしたら・・・ 

 ( ̄_ ̄) 「気にしなくていいですから」 

 ( ̄_ ̄) 「間に合ってるんで」 

 (; ̄A ̄)「・・・っていうか、むしろ、そういうのやめてくれ;」

と、訴えたい(笑)。

でも、せっかくだから、ネタにしてみました。

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2009年8月 1日 (土)

オーラを浄化する、入浴法。

疲れがたまったとき、自分のエネルギーが重たく感じられるときは、ひとつかみの「粗塩」と「重曹」を入れたお風呂に入る方法をお勧めします。この方法は、スピリチュアル系の本で、よく見かけるように思います。私の大好きな本、バーバラ・ブレナンの「光の手」にも載っていますし、江原さんの本でも、塩を入れて入浴することは勧められています。では、一番わかりやすい、「光の手」から、一部を抜粋します。

P136:・・・オーラを浄化するために、1ポンドの海塩と1ポンドの重層の入った暖かいお風呂に20分つかるといい。これは、あなたをかなり弱らせるかもしれない。というのは、大量のエネルギーを体外へ放出させるからだ。だから、自分自身を満たすために、後で休む準備をすること。

1ポンドというと、だいたい450gですが、・・・それでは、いくらなんでも入れすぎ・・・な気も、しなくもないので(笑)、私は、手のひらで一握りくらいを入れて、たまにこの方法で入浴します。本当に、スッキリとしますね(実感)。

そして、本当に(ブレナンさんの記載のとおり)ちょっと疲れますので、あまり長湯をせず、短時間で切り上げるようにしています。

この方法は、よく見かける記載で、私自身も実際に効果があると感じるのですが、「なぜ、重曹がいいのか」については、はっきりとした理由の記載を見たことはないような・・・。

塩については、江原さんが、「海には浄化作用があるので、海からとれる塩もそのパワーを帯びている」と、書いていたと思います。

重曹は、エドガー・ケイシーが、かの有名な「ひまし油湿布療法」の中で、「(湿布を終えた後)体内から排出された分泌物を、重曹水でふき取る」ことを述べていて、それも、浄化作用があるゆえ、だと思うので、・・・なんとなく、雰囲気で納得しています(笑)。

「光の手」の記載に戻りますが、不要なエネルギーとはいえ、一気に外に排出されるというのは、とても疲れることです。オーラが大きく動くと、とても疲れるものなのです。入浴後は、ゆっくりと休息の時間もとってください。

質問が来るような気がするので、先に書いておきますが(笑)、「家族で、そのお湯に、何人も入っても大丈夫か?」という点。

ブレナンさんはアメリカ人なので、日本のように、同じお湯を複数が使う入浴法は想定してないでしょうから、その点については記載がありません。私の考えとしては・・・、ものすごく疲労がたまっている状態で、その後に入る人への影響が気になるのであれば、お湯を入れ替えたほうがいいと思います。

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